3月13日、志學館高等部1年SDP国外体験学習、自分にとっての初めての海外旅行となる、見る聞く食べる香る触れるもの全て日本には無いあらゆるものを五感で満喫できた7日間が夢のように終わった。
日本に帰国した際に懐かしさと同時に一気に現実に呑み込まれてしまい、これまでの7日間を思い出せずにはいられなくなる。食事が合わないとか、物価が高いとか、トイレが有料なんてことは些細なことであり、自分にとって日々の勉学の繰り返しと大学受験のプレッシャーといった類に圧されることなく過ごせた一週間は非常に価値のある時であった。
そんな7日間の中で、自分が最も感銘をうけたもの、と言うより、生まれて初めての感覚を感じ得たと言った方が適切なのだろうか、うまく表現できない、前者や後者の言の葉では申し訳ないような気もする、そこまでに値するような聖と壮厳に満ちた何かを肌でも心でも感じた。
それはイタリア、ローマのサンピエトロ寺院である。
それまでの自分の知識のみに頼るならば、天井を覆い尽くす、巨大な絵がある場所という事しか知らず、その絵なら教科書で何回も見てる。その程度の所としか考えていなかった。
しかし、そんな博識な一人の人間はその後修学旅行の中で一番の思い出にその絵ことを書くことになる。
もはや絵ではない。システィーナ礼拝堂に足を踏み入れた自分は認識する。さすがキリスト教総本山の礼拝堂。しかしながら、そこには宗教をも越えるものが漂っていた。そこに立って身震いした自分はそう感じずにはいられなかった。
教科書で見るのとはわけが違う。レオナルドダヴィンチが天井と壁に描いた巨大なフレスコ画、その壁画「最後の審判」には但々無言の静寂の中で圧倒されるばかりであった。自分はこの上なくちっぽけだった。
そうやって上の方ばかり見上げて首を痛めながらも次に足を踏み入れたサンピエトロ大聖堂にも圧巻された。十字架の中心部となる場所はビルにしてやく11階建てに相当するという、さらに首が痛くなる程の壮大さだった。
彫刻師ダヴィンチが掘った石像は元が大理石だと思わせないほど柔らかな表情から柔和な雰囲気を醸し出していた。大聖堂、そのほとんどの装飾が純金であるという事実はその場に存在しつつも、それが純金ということを感じさせないほどその場にふさわしい色合いで輝き、見る者全てを包み込むその空間は別の世界にいるような感覚をも起こさせる程の力を充満させていたに違いないであろう。
時が経つのを忘れ、自分が修学旅行でここに来ているということ、目的、その後の予定、ましてや自分の存在までを忘れてしまいそうな、薄暗くかつ神々しい大聖堂は自分に在る芸術の根本を0から変えたであろうサンピエトロ大聖堂はもっと居留まっておきたかったと思わせる何とも表し難い魅力を持っていた。
こうやって書いた2ヶ所の礼拝堂と大聖堂は自分の考えられるおおよその感覚を震わせ、そうやってその場に立った時の自分に何かを与えてくれた気がする。
それが一体何であろうとも、このような体験ができたSDP国外体験学習は生まれて16年の間、もしかしたら一生得ることのなかったかもしれない何かを与えてくれた機会ということでいつまでも自分の中に刻まれるだろう。(S)
日本に帰国した際に懐かしさと同時に一気に現実に呑み込まれてしまい、これまでの7日間を思い出せずにはいられなくなる。食事が合わないとか、物価が高いとか、トイレが有料なんてことは些細なことであり、自分にとって日々の勉学の繰り返しと大学受験のプレッシャーといった類に圧されることなく過ごせた一週間は非常に価値のある時であった。
そんな7日間の中で、自分が最も感銘をうけたもの、と言うより、生まれて初めての感覚を感じ得たと言った方が適切なのだろうか、うまく表現できない、前者や後者の言の葉では申し訳ないような気もする、そこまでに値するような聖と壮厳に満ちた何かを肌でも心でも感じた。
それはイタリア、ローマのサンピエトロ寺院である。
それまでの自分の知識のみに頼るならば、天井を覆い尽くす、巨大な絵がある場所という事しか知らず、その絵なら教科書で何回も見てる。その程度の所としか考えていなかった。
しかし、そんな博識な一人の人間はその後修学旅行の中で一番の思い出にその絵ことを書くことになる。
もはや絵ではない。システィーナ礼拝堂に足を踏み入れた自分は認識する。さすがキリスト教総本山の礼拝堂。しかしながら、そこには宗教をも越えるものが漂っていた。そこに立って身震いした自分はそう感じずにはいられなかった。
教科書で見るのとはわけが違う。レオナルドダヴィンチが天井と壁に描いた巨大なフレスコ画、その壁画「最後の審判」には但々無言の静寂の中で圧倒されるばかりであった。自分はこの上なくちっぽけだった。
そうやって上の方ばかり見上げて首を痛めながらも次に足を踏み入れたサンピエトロ大聖堂にも圧巻された。十字架の中心部となる場所はビルにしてやく11階建てに相当するという、さらに首が痛くなる程の壮大さだった。
彫刻師ダヴィンチが掘った石像は元が大理石だと思わせないほど柔らかな表情から柔和な雰囲気を醸し出していた。大聖堂、そのほとんどの装飾が純金であるという事実はその場に存在しつつも、それが純金ということを感じさせないほどその場にふさわしい色合いで輝き、見る者全てを包み込むその空間は別の世界にいるような感覚をも起こさせる程の力を充満させていたに違いないであろう。
時が経つのを忘れ、自分が修学旅行でここに来ているということ、目的、その後の予定、ましてや自分の存在までを忘れてしまいそうな、薄暗くかつ神々しい大聖堂は自分に在る芸術の根本を0から変えたであろうサンピエトロ大聖堂はもっと居留まっておきたかったと思わせる何とも表し難い魅力を持っていた。
こうやって書いた2ヶ所の礼拝堂と大聖堂は自分の考えられるおおよその感覚を震わせ、そうやってその場に立った時の自分に何かを与えてくれた気がする。
それが一体何であろうとも、このような体験ができたSDP国外体験学習は生まれて16年の間、もしかしたら一生得ることのなかったかもしれない何かを与えてくれた機会ということでいつまでも自分の中に刻まれるだろう。(S)