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映写室 インタビュー33初雪の恋(バージンスノー)

2008-06-16 21:51:45 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー33初雪の恋(バージンスノー)
   ―日韓合作 お互いに隣の国の人に見せたい美しい場所―

 「王の男」で一気にブレイクし、今や韓国一美しい男と言われるイ・ジュンギと、映画出演も多く、NHKの「純情きらり」で国民的女優になった宮崎あおいが共演する、ピュアな恋の物語「初雪の恋」がいよいよ公開です。
 この映画は日韓合作。監督は韓国の若手ハン・サンヒで、録音や編集は韓国スタッフ、撮影は日本側、双方から参加した部署もあります。舞台は主に京都とソウル。拠点になった松竹京都映画撮影所のスタッフに、撮影秘話や裏話を伺いました。

その前に「初雪の恋」はこんな物語。
 日本の大学で教える陶芸家の父の都合で、ソウルから転校して来たミン(イ・ジュンギ)は、自転車で転んだ肘を巫女姿の少女に手当てされ、一目惚れ。登校してみるとその少女七重(宮崎あおい)も同じ高校でした。習慣も違えば言葉も通じず最初は戸惑うのですが、あるきっかけから七重と親しくなると、お互いに相手の言葉を覚え片言で話し始めます。
 清水焼は形を造る人と絵を描く人が違う、いつかミンの造った形に七重が絵を描くと約束しました。でも家の事情で七重は引っ越すことに。突然いなくなった七重に腹を立て、ミンはソウルに帰ってしまいます。

スタッフインタビュー
撮影:石原興さん
 <顔が似ているのに民族性に違いがあって>、日本と韓国二つの国のスタッフが一緒に仕事をするのは、やっぱり大変でした。言葉の壁がありますからコミュニケーションも取りにくくて。でもお互いに相手に負けじと頑張ったのが、結果として良かったと思います。
 僕としてはシステムの違いに戸惑いました。日本だとカメラのフレームに入ったエキストラはカメラマンが絵的に指図して動かすのですが、韓国では彼らのリーダーの言う事しか聞かない。そのリーダーは監督の言う事しか聞かないんです。韓国の映画界はアメリカ的なシステムで動いているのに、そんな所がアジア的なんですね。僕が言っても動いてくれず、困りました。でも宮崎あおいが感性豊かで上手いんです。自分で役を作り込める。イ・ジュンギも好青年で上手い。主演二人の演技力に助けられたと思います。

 <又僕はほとんど京都ですから>映像では玄人の好む京都を見せたかった。代表的な名所も入っていますし、京都の裏も写しています。京都の良さを見て欲しいですね。こっちの撮影はスムーズだったんですが、ソウルは大変でした。許可が取れてて大丈夫だと言っていたのに、行ってみると駄目。撮影時間が決まらず、時間のロスが多い。向こうのスタッフはちょっとアバウトなんです。別の良さもあるので民族性の違いですね。
 それと神社のシーンではこのところの問題もあって、お参りとか菊の御紋を写さないようにと、民族的な対立をまねく物に韓国スタッフが神経質でした。そんな事もありましたが、合作が成功したケースではないでしょうか。
 韓国スタッフは目上の人を大事にします。きちんと挨拶をし気を使ってくれ、感じがいい。それには本当に感心しました。

助監督 井上昌典さん
 <映画作りは日本人同士でも喧嘩がしょっちゅう>。まして文化の違う国の人と一緒にやるのですから、言葉とかではない根本的な何かが違って、微妙なニュアンスや気持ちが伝わりません。僕は立場上嫌われ役を買って出るしかなく、仕事を進める為に、韓国スタッフに日本的なやり方を押し付けてばかり、毎日大変でした。もちろん韓国スタッフも、知らない所に来ての仕事で大変だったと思います。それでも日本では仲を取り持ってくれる人達がいたのですが、ソウルに行ってからはそうはいかず、そうじゃない、そうじゃないと思うことばかり。「大丈夫!」と言う言葉のいい加減さに振り回されました。
 でもそう言いながらも最後の打ち上げでは、抱き合って完成を喜び合えたんです。こんな機会はそんなにないので、いい経験になりました。こんな作品が増え、一作ごとに双方が歩み寄り、お互いに相手に近付いて行けるのでは。それが本当の交流だと思います。

 <考えてみると、僕らは>システム化された中で時間や予算を気にしながら映画を作りますが、彼らの時間を気にしないゆっくりした作り方が本来の芸術性、創造性に向かうものだろうとも思いました。向こうは一人一人が大将なんですよ。
 そんな訳でこの映画が完成した影の功労者は、日本に住んで、日本語が話せ、日本と韓国の両方が好きな、韓国人のサポートスタッフや通訳の人達です。助けてくださったそんな皆さんに感謝しています、お世話になりました。上手く事を進めようと、通訳で好意的に伝えてくれるのと、わざと投げ遣りなニュアンスを混ぜるのでは大違い。これから合作をやるんだったら両国間に立つ、どちらに対しても中立な、平和的な人が重要だと思いました。

 <そんな意味でも>この映画で描く、過去にこだわりのない新しい世代の交流を、日本にいる韓国人、逆に韓国に行っている日本人に見て欲しいと思います。韓国では皆さんに良くしていただきました。対立とかはマスコミが煽っているのも多いのかもしれません。

美術助手 佐藤絵梨子さん
 <韓国スタッフと一緒にやって>、やり方が色々違うのが新鮮でした。皆お酒が強いんですよ。録音部は向こうスタッフで、橋渡しに日本スタッフが一人入ったんですが、その人は「お父さん」と呼ばれて一緒に盛り上がっていました。
 イ・ジュンギさんはとっても綺麗でしたよ。日本の若い俳優さんは皆細く、それを見慣れていると、向こうでは普通なんでしょうが、がっしりしてて驚きました。それとこの映画ではイ・ジュンギさんは役柄上相当自転車が上手くないといけないのに、いままで乗ったことがなかったらしいんです。夜所内の駐車場でもくもくと練習していました。映画の中の凄い走りはその賜物です。皆さんご期待ください。

 <美術的にはミンのお父さんの工房>のセット作りが大きな作業でした。嵯峨美の先生や生徒さんの作品をお借りして、飾り付けをしています。轆轤を回したり土をこねる、ミンやお父さんの後ろに写っているので観てくださいね。その二人に陶芸の技術指導をした佐藤巧先生は映画の完成を楽しみにしてたのに、昨秋突然亡くなられて、御見せ出来ないのが残念です。

製作担当 阿曽芳則さん
 <一番苦労したのはロケ地探し>です。撮影の石原さんに力が入っていたので、色々探してもらえましたが、それでも神社は難航しました。最初考えていた所にM.Gが出て、結局松尾大社に。でも綺麗に写っていて良かったです。
 食事は2か国のスタッフなので、それぞれに不満があったと思います。日本では日本式のお弁当を韓国スタッフも食べてくれました。物足りない分をコチジャンを買ったり、キムチを持ってきたりして、自分たちで付け加えていましたね。ソウルのロケは逆に韓国式です。最初は良かったんですが、辛い物が苦手なスタッフが何人かいて、滞在が長くなると辛かったようですね。若い監督が、彼らにはできるだけ辛くない物を選んでくれたりと、気を使ってくれました。

 <けっさくなのは韓国の田舎での宿泊>です。一般のホテルがなくて、ラブホテル3軒に分宿したのですが、男同士でダブルベットなんですよ。僕はちょっと嫌だから床に布団を敷いたら、床暖房が入っていて熱くて寝れず参りました。日本での韓国スタッフの宿泊所は、インターネットが出来る所と言うのが条件でしたね。向こうはとにかくネット社会、こっちは遅れていると笑われましたよ。日本に来てからもしょっちゅうメールで、韓国に残ったスタッフに指示を出していました。映画の中にもネットの話が出てきます。お楽しみに。
 ミンの実家は日本にもよく来る韓国の陶芸家の自宅をそのままお借りしたんですが、調度とか豪華です。待ち時間に韓国スタッフは、中庭でバトミントンをしたりする。日本側スタッフは周りで体を休めてるんですが、大らかなんですよ。(おいおい待てよ人の家で)とハラハラしました。

 <イ・ジュンギはかなり自転車に>乗れないといけない役なので、日本に来るまでに乗れるようになっていてと伝えておきました。ところが彼は今凄い人気で、時間がないのと見つかると人が集まるから外で乗れないらしく、最初はふらふら。どうしようかと思いましたね。ところが上手くなると、今度は撮影中とかも自転車でその辺りをうろうろするんで、何かあったらとハラハラ。色々心配させられましたが、彼は真面目で一生懸命です。宮崎あおいは監督が「目がいいね。可愛いね」を連発していました。

<インタビュー後記:犬塚>
 ストーリーからお解りの様に、ここではたまたま好きになった相手が日本人であったり韓国人であったりするだけのこと。二人を隔てるのは家の事情と誤解という、とてもプライベートな物です。隣国どおしで同じ言葉があったり、音は同じでも言葉の意味が違ったり、習慣が似ていたり違っていたりを、二人の会話で面白おかしく紹介していきます。そしてミンが自転車で走る京都の町が、二人で歩く観光地が、私たちが知る以上に京都らしく写り、韓国の方たちの旅心を誘うでしょう。又ソウルの近代的な施設や石畳も美しく、私たちも行きたくなりました。それぞれの街の紹介にもなっています。
 皆さんの感想からも伺えるように、映画作りはプロ集団の集まりですから、良い物を作ろうと思えば思うほど、お互いを主張しあい、ぶつかり合い、現場は大変。まして通訳の入った共同作業は、意志の疎通が難しかったと思います。でもこうして素敵な作品が完成しました。苦労の後だけに喜びもひとしおのようです。日韓合同のこんな機会が増え、こんなミンと七重の物語が増えますように。


映写室 インタビュー32「殯の森」主演のうだしげきさん(後編)

2008-06-16 21:49:32 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー32「殯の森」主演のうだしげきさん(後編)
      ―監督の演技指導とカンヌの緊張―

―うださんとか演技が始めての方に、監督はどんな演技指導をされましたか。
うださん:出演者は僕を含む5人を除いて、すべて素人、実際の老人です。演出法は役者を追い詰めていく方法ですね。心身ともにリアルにその状況に追い詰めていく。例えば体だったら、70歳の衰弱したしげきを撮りたい為に、撮影の前に僕にマラソンや腕立て伏せをいっぱいさせます。それでへとへとに疲れたところでカメラが回り始める。狙いはいつもさりげないニュアンスを撮る事でした。

 それを精神面でもやりますね。しげきはもうすぐ妻の33回忌が来るので、33回忌になると魂が向うに行ってしまうんで、その前に妻のお墓に行きたいと思うんです。真千子は明らかにはされてないんですが、多分水難事故で子供を亡くしてるんですね。傷心のままグループホームに来てしげきに出会い、妻の思い出と共に生きるしげきの生き方から、人の生きる力は愛情なんだと知っていく。そんなことで二人が近づき、しげきのお墓参りにも一緒に行くんですが、事故が起って道に迷う。やっと森の中の妻のお墓に辿り着いたシーンの事です。

―何度も撮り直したんでしょうか。
うださん:1回目の撮影で僕は泣きました。ぽろぽろ涙が流れました。そしたらやっとしげきが辿り着いた事に感動して、横にいた真千子も泣いたんです。で、監督から「メロドラマじゃあないから」と言われました。2回目はさっき泣き過ぎて今度は涙が出ないんですよ。それで顔が見えないようにして、そこら辺をまさぐった。真千子も同じ事をしました。それも駄目でした。で3回目の前に、監督に「フィルム代高いぞ」と言われました。プレッシャーですよ、何したらいいのか解らない。待機中に真千子が側に来て、ちょっと話して感情を解してくれました。彼女は他にも色々助けてくれています。
 心身共にそこまで追い詰められると、体が自然に動くんですね。今度は転がっていた木切れで墓を掘り始めたんです。あ、あの辺はまだ土葬が残っていて、撮影の前にそれを見に行ったんで、そんな事が潜在意識であったのかもしれません。かなり掘った時、監督から「穴に入って」という指示が出ました。で、穴の中でしげきが妻や土と自然に一緒になるんです。そうしたら生の移動が起こった。しげきから真千子へ生が入っていくんです。真千子が喜ぶというか生きた顔になるんですよ。このシーンの真千子の表情の変化は、何度観ても今でも涙が出ます。「殯(もがり)」と言うのは、もともと奈良時代の高貴な人が亡くなってから埋葬するまでの、偲び惜しむ時間と場所を指すらしいんですよ。

―この映画をどんな人に診て欲しいですか。
うださん:もちろんすべての人ですが、特に高齢者と真千子世代の人に観て欲しいです。自分から死が遠くない人と死を意識してない人、両方に観て欲しいですね。生きる事は死に方を探る事だと思うんです。
―撮影の後、監督との関係はどうですか。
うださん:また元に戻っています。忙しいと子供を放り込んであっという間にいなくなりますね。僕はこの作品を観て別の映画の話が来ても、今はもういいと思っています。

―さてここからはカンヌについて伺いたいと思います。審査員はどんな方々ですか。
うださん:世界中の映画制作者です。監督等や女優男優、実際に映画を作っている人ばかりで評論家はいません。
―映画祭に参加していかがでしたか。
うださん:「沙羅双樹」の時に一緒に行ってますから、僕は2回目なんです。でもやっぱり自分が出ている今度は特別で、緊張しました。今回監督は賞を取りに行っていましたから。  順を追って話すと26日が上映会で、その前にアニエス・ベーがパーティーをしてくれて、監督は鶴のイメージの着物姿でしたね。僕も紋付羽織袴です。奈良の地酒やお茶を300個持って行って、それを配って映画と共に奈良もアピールしました。上映時間がクロージング、最終日の10:30~からだったんです。この時間帯の上映作品は賞を取ることが多いんで、もしかしたらとは思いましたね。それに上映後のスタンディングが長くて鳴り止まなかったんで、いけるかもと思いました。
 27日は2時に本部から通知がありました。と言っても、駄目だったとか賞に入ったとか情報が錯綜して、通訳のカトリーヌが、確実な情報が入るまで待とうと抑えてましたね。通訳と監督が常に隣りあわせで、何時情報が入っても対応できるようにしていました。それがWOWOWの取材の後、向うで二人が泣き崩れているんです。監督は駄目で泣くタイプじゃあない。ああ、いい知らせが入ってきたなと思いました。それでも通訳がもうちょっと待ってと落ち着かせていました。でも次の情報がなかなか入らない。とうとう二人が中央本部の中に入っていき、外で待ってた僕に事務所の人が「コングラチュレーション!」と言ったんで、何か賞を取ったんだと解りました。

―緊張の一日ですね。
うださん:夜の8時過ぎから授賞式会場に行きました。カトリーヌが「うださん主演男優賞かもしれない。スピーチの用意を」と悪戯するんです。柳樂君の例もありますから、そんな事になったら如何しょうかと、もう心臓がバクバクですよ。違った時はほっとしました。女優さんにも同じ様な悪戯をして、彼女もドキドキしてました。で、グランプリの受賞です。この時写真を撮ったのに、手が震えて全てぶれています。プロのカメラマンが記録を撮りに行っていたのに、彼も呆然としてカメラをまわすのを忘れていました。

―一番受けたシーンは何処でしょうか。
うださん:茶畑のシーンです。この前に妻の遺品のリュックを真千子が手にかけるのを見たしげきが、彼女を殴りつけるシーンがあるんですが、真千子は柱にぶつかるんですよ。怪我をしないかと怖くて力を抜くと、監督が怒る。でもどうしても抜いてしまう。二時間位何度もやってると今度は女優が怒り出した。「うださんがちゃんとやってくれないと何時までたっても終わらない。本気でやって!」と言われて、本気で叩き付けました。撮影が終わったらもう二人共くたくた。女優は青痣だらけだし、こっちも腱鞘炎で手が動かない。大変な撮影でした。
 そんなシーンの後でしげきが木の上から落ちて、真千子と二人茶畑で鬼ごっこするシーンがあるんです。少年の様になれて、僕だけでなく真千子も感情を共有できました。ここがカンヌで受けましたね。森の中に迷い込んでの濁流のシーンも、それが真千子のトラウマに触れ、激しく泣く彼女をしげきがたどたどしく慰めるんですが、僕らの感情の共有が、墓場のシーンと同じで向うでも伝わりました。打ち上げで中国の女優さん(多分、チョン・ドヨン)が、僕の演技を褒めていたと監督から聞き、嬉しかったです。

―この映画が受賞したのはどうしてだと思われますか。
うださん:「殯の森」は人の生きる事と死ぬ事をじっと見つめる映画です。カンヌではこのところそんな問題を取り上げた作品が多い。今、生と死を考える時代なんのかもしれません。この映画の訴えるものが今的だった事もあると思います。それと撮影の中野英世さんは、河瀬監督と一緒に仕事がしたいといって本人から来たんですが、カメラが静かに動くんです。そんなカメラワークと作品があっていたのもあると思います。
 映画出演は初めての経験ですが、完全燃焼しました。自分の感情と演技が重なったし、この映画のもう一方の主役の森と同化しました。この映画の中でやるべき事はやったという自信が誰もにあったんです。だから、言ってはいけないと言われましたが、実は僕はいけるのではと思っていました。

―何か秘話がありましたら。
うださん:実は撮影に入る前に肺炎になったんです。真千子役の女優さんが奈良に来たんで町を案内したらふらふらする。病院に行ったら39.5度もあるし、びっくりしました。店の残り物の炊き込みご飯ばかり食べてましたから、栄養が偏って肺炎になったようで。たんぱく質を採れと言われて、入院はできないので点滴に通って何とかなりました。その先生が又映画好きで、よくしてくれましたね。
 撮影中は疲れ果てて、夜眠っていても足が痙攣しました。でも動き回ったんでいつもより元気になって、しげき役には元気過ぎると皆に言われましたね。終わった後も、カンヌの願掛けで2ヶ月間毎日二月堂まで歩きました。

<インタビュー後記:犬塚> 
 聞き応えのあるお話を有難う御座いました。残念ながら写してないのですが、今思い出すのは映画の中の老人の姿ではなく、焦げ茶の太いフレームの眼鏡の似合う知的なうださんです。「ぶらり奈良町」の再刊も上手くいきますように。楽しみにしております。ところでうださんが古書喫茶を開く町家は、昔山頭火が泊まった事もあるのだとか。お店の名前「ちちろ」は俳句でこおろぎの事。古い格子戸から差し込む明かりも中庭の緑も美しい、我が家の様な落ち着いたお店です。本に囲まれていただくコーヒーは格別でした。小さな集会にもぴったりです。もっと詳しいお話はご本人に直接お店で。

 *「ちちろ」は   奈良市南半田西町18-2(NHK奈良放送局北隣)
            月曜定休 11:00~18:00


映写室 インタビュー31「殯の森」主演のうだしげきさん(前編)

2008-06-16 21:46:49 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー31「殯の森」主演のうだしげきさん(前編)
       ―監督との出会いは居酒屋で―

 先月カンヌ映画祭で河瀬直美監督の「殯の森」がグランプリをとった時は、日本中が歓喜しました。その瞬間を会場で見聞きした、この映画の主演のうだしげきさんは、記念にと写した写真が全て手ぶれでぼやけていたそうです。大変な緊張だったのですね。そんなうださんもいつもは奈良の古い町家で古書と喫茶のお店を営み、そして地域誌を出すエディター。御自身の事と、この映画とカンヌの映画祭について伺いました。今日明日の連続2回でお届けしましょう。

<その前に「殯の森」とはこんな映画です>
 しげき70歳(うだしげき)は奈良の山間部のグループホームで、亡くなった妻の思い出と共に暮らしていた。そこに介護士として真千子27歳(尾野真千子)がやって来る。彼女も又子供を亡くし、それが原因で夫とも別れて喪失感の中だった。二人は少しずつ打ち解け合っていく。ある日、しげきの妻の眠る森にお墓参りに出かける。ところが車輪が脱輪し、二人は森をさまよう事に。

<うだしげきさんインタビュー>
―映画は初めてと伺いますが、今までどんな事をされてたのでしょうか。
うださん:エディターですよ。大学は薬学専攻だったんですが、その頃から地域誌を出したいと思っていました。で、途中で辞めて東京に行ってエディターの学校に入りました。その後は、新聞社に勤めたり雑誌社に勤めたりで、6年に1回位転職しましたね。9年前に古本屋を始めました。地域誌を出すネタ集めの為です。最初は別の場所でしてたけれど、2年位前から住居のここで古書喫茶「ちちろ」をやっています。念願の地域誌「ぶらり奈良町」は、経済的に大変で3年前に9号で休刊しましたが、この秋の再刊を目指して準備してるところです。

―河瀬監督との馴れ初めは
うださん:監督の劇場公開2作目「火垂」を観たんです。これは奈良の町を舞台にした陶芸家とストリッパーの恋の物語で、テーマは家族の崩壊でした。心に染みましたね。こんな凄い物を作る監督が奈良にいるんだと感動し、同時に実は館内に2人だけで観たんで、これだけじっくり映画を創りながら、なぜ宣伝しないのかと思ったんです。ある時偶然「蔵」という居酒屋で、監督に出会いました。これを逃したらチャンスが無いと、引っ込み思案の自分を奮い立たせて「あの失礼ですが、…」と声をかけたのが始まりです。自分の出している地域誌も渡して。
―監督はそこによく行かれるんでしょうか。
うださん:いや飲まないからそんなに行かないでしょう。本当に偶然です。そしたらある時、動員を頼んできて手伝いました。次が4年前の「沙羅双樹」の撮影の時で、ここ(今の自宅兼お店)をスタッフルーム兼スタッフの宿泊所に提供したんです。毎晩遅くまで撮影等の会議をしてて、横で聞いていると映画の裏側が見えて面白かった。夕食の後も遅くまで撮影して、皆がお腹を空かせて帰って来るんですよ。何か作ってたら喜んでくれて、いつの間にか夜食を準備するようになりました。この作品は受賞はしなかったけれどカンヌでノミネートされ、監督に「一緒に来ない?」と誘われて、自費でカンヌについて行きました。

―今回の主演はどうして?
うださん:河瀬監督の映画は、自分の生い立ちを匂わせる家族の崩壊が必ずテーマには入っています。「沙羅双樹」が終わって監督は出産し、痴呆の出始めた祖母を抱えて大変だった。付き合いが長いので、ベビーシッターとかの家族的な助けに入ったんです。それでお互い気心が知れました。おととしの12月、「自分は認知症の映画を作ろうとしている。出て欲しい」と言われました。まさか主演とは思わず「いいよ」と答えたら、1ケ月後に主演だと聞かされて。びっくりしましたが、一度いいよと言っているから今更断れない。上手く乗せられましたね。

―初めての演技はどうでしたか。
うださん:監督はドキュメンタリー出身なんで、総てに自然さを求めます。声とかも、「籠って通らなくても良い。それより普通に話してる感じで」と言います。今回は監督の指示で、モデルになったグループホームに3ヶ月間体験研修しました。これは私だけじゃあありません。女優さんやメイク、カメラマン等まで皆で入ったんです。そこで入居者の9人の中から、この人だったら僕が真似出来そうだと思う人を見つけて、歩き方から瞬きの仕方、視線、首の動かし方等々、体の動きの特徴を毎日じーっと観察しました。

―認知症の方は体の動きが違うのですか。
うださん:違います。まず眼球が動かない。視点を変える為に目だけでなく顔をゆっくり体ごと動かすんです。それと歩く時皆内股でしたね。
―えーっ、内股。その方は観察されてる事に気付いてましたか。
うださん:如何だろう。解りませんが気付いてないんじゃないかな。で、僕らがそんな事をしてる間に、美術さんが100年位前の古い民家をバリアフリーに改造して、撮影で使うグループホームを作っていました。

―そんな風に撮影に備えたうださんですが、実際にカメラが回り始めると如何でしたか。
うださん:河瀬監督の撮影は順撮りです。35ミリの手持ちカメラでした。一番最初に撮ったシーンは、縁側でボーッとしてるだけのセリフもないものですが、それが出来ない。カメラに緊張しましたね。ガチガチで目を何処に持っていったら良いのか解らないんですよ。困って気心の知れた女性に向うの方に立ってもらって、そっちを見るようにしました。でもそれでも上手く出来ない。ちょっと休憩をもらって水割りを3杯飲んで、頭と体をほぐして、それで何とかいきました。2回目からは大丈夫でしたが。

―今まで知っていた河瀬さんと現場の監督を比べて如何でしたか。
うださん:コロッと違いましたね。例えるなら獲物を狙う豹の目つきをしていました。お母さんの顔は消えてしまっていた。こうやって(草原の豹を思わせる目と首のジェスチャー)ジーッとその瞬間を狙い始めた。ともかく納得するまで諦めない。しつこいんです。 
                          (以下、明日に続く)


映写室 インタビュー30「檸檬のころ」

2008-06-16 21:44:27 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー30「檸檬のころ」
     ―谷村美月さんと岩田ユキ監督―

 伝えたい思いが伝えたい相手に伝わらない。そんな高校生のナイーブな心を瑞々しく描いた豊島ミホさんの原作が、イラストレーターから映画の世界にやってきた、本人もまだこの世界の住人のような岩田ユキ監督によって、素敵な映画になりました。群像劇の中でも、監督がこの人物像から話を膨らまし感情移入したと言う、白田恵を演じる谷村美月さん(映画館で本編が始まる前の海賊版撲滅キャンペーンのコマーシャルで「映画が盗まれている」と黒い涙を流した少女)と、岩田ユキ監督にお話を伺いました。

その前に「檸檬のころ」はこんなお話です
 吹奏楽部の指揮者の秋元加代子(榮倉奈々)は高校三年生。成績も優秀で美人だ。東京の大学に行くと決めている。野球部の西(石田法嗣)は同じ中学出身で彼女と淡い思い出があった。でもエースの佐々木(柄本祐)が「加代ちゃんが好きだ」と言い、近づいていくと何も言えない。同じ教室では白田(谷村美月)が将来は音楽ライターになりたいと、一人ウォークマンを聞いている。でもたった一人の友人シマちゃんの音楽評が雑誌に載って、取り残された気分を味わう。一緒に掃除当番になった軽音楽部の辻本(林直次郎)と音楽談義で盛り上がりキューンときた。彼に作詞を頼まれて頑張るけれど、辻本には彼女がいたのだ。盛り上がった学園祭も終わり、それぞれに別れの時が来る。

谷村美月さんインタビュー
 <最初本を読んだ時は>、今までさせてもらった役と違い明るい役なので、監督が私を使って下さるのが不思議でした。現場でも細かい指示が無く不安でしたが、試写を観てほっとしています。実は特に好きなロック歌手とかも無く、白田さんの音楽に対する熱い思いが解らなくて。監督が白田さんのような方なので、監督をお手本にしながら芝居をしました。音楽についての熱い思いは林さん(平川地1丁目)にも聞きましたね。私は彼を知らなかったけれど、周りはよく知っていました。林さんは音楽が専門ですから芝居は始めてで、私はいつもは他の役者さんから合わせて貰っているのに、今回は自分が林さんに合わせないといけず、合わせる演技が大変な事が解りました。

 <白田さんは恋をして顔に出てしまう所>とかが自分とそっくりです。私は男の子と二人で話したことが無いので、演技とはいえそんなところが難しかった。今まで小さいお芝居、どう思っているんだろう位のかすかな表情を見せていたので、今回の活発な役は新鮮でした。ロケで長い間泊まったホテルは、携帯が通じず皆は悲鳴を上げていましたが、私は特に困らなかった。それまでばらばらだったのが、文化祭のシーンで撮影は別でも皆と一緒になれて楽しかったです。ちょうど撮影中が自分の学校の文化祭で、そちらに参加できないので映画の文化祭を楽しみました。

 <今も大阪ですが>、高校を出るまでは親元を離れたくないので、大阪にいさせて下さいと言っています。寝癖のついたまま学校に行く様な暢気な事をやってて、学校に行くと仕事の事を忘れられるのが良くて。学校がなくなるのは不安です。

岩田ユキ監督インタビュー
 <もともとイラストレーターなので>、映画を撮るにも最初に絵が浮かんで、それを文字に起こしていきます。ロケハンの前から絵が決まっているんですよ。でも元のイメージが壊れる事で上手くいきました。映画は他人に任せる事で上手くいく事が多いですね。
 <動画をとり始めた頃は>イラストをどう動かすかに戸惑いましたが、やってみるとフィルムに写る現実とは違うものに惹かれました。実は短い着ぐるみ映画をたくさん作っています。それを観た「嫌われ松子」の監督から、「一度好きな事を止めてみろ」と言われました。セリフのある物は好きではないけれど、一度撮ってみようとセリフを入れてみたら、自分の思いに重なったんです。冴えない事が愛しいという思いを映画にしたら、皆が解ると言ってくれて、ああ通じるんだと嬉しくなりました。

 <この作品はプロデューサーから映画化したい>と本を渡されたのが始まりです。読んでみると白田さんの痛々しさがそのまま自分に重なりました。私も音楽好きで、高校時代は白田さんのようで、カーテンで囲んで自分の世界に浸る所とかは、そのまま自分の経験です。試写を見た両親からも、谷村さんが私に似ていると言われました。カッコつけてばかりで、周りの評価がそれに伴わず満たされない思いをした時代です。それが今作品を作る原動力かも。あの頃は運動部に憧れていて、自分の理想の友情がそこにあると思っていました。その頃もそこにも悩みがあったはずですが。ちなみに私は谷村さんのお母さんと同じ年齢だそうです。

 <榮倉さんはモデルさん(SEVENTEEN専属モデル)ですが>聡明な感じで、撮影期間中はいつも加代子さんでした。全体のシーンから考えて演技するタイプですね。逆に谷村さんは感情から入るタイプ。誰に対しても緊張しなくて盛り上げてくれました。林君はいつもの林君でいて欲しかったのです。実際には女の子と話したことが無いんだとか。柄本君はいつもはシャイなんですよ。上手いので演技等は本人に任せました。本を読んで自分から坊主頭にしたりも。石田君も上手くて、役柄は内向的ですが、実際はムードメーカーで皆を引っ張りました。今はオーストラリアに留学中です。

 <今回は映画を撮りながら>イラストレーターという個人作業から、映画という共同作業の仕方を学んだというか。イメージを自分で抱え込まず、スタッフに伝えればもっと大きく膨らむという事を学びました。思いを言葉にしきれない自分が今後の課題です。でも伝わらない事を諦めないようにしようと。撮影のイメージを伝える為に、言葉が足りない分を絵コンテを描いてコピーした「日刊檸檬」を毎朝発行しました。ベテランスタッフにめげず、心臓に毛を生やして自分のやり方を徹す事も大切だと思います。今回は一番物を知らないのが自分で、人に迷惑をかけているという重圧との戦いでした。
作業的には一人で出来るイラストのほうが好きですが、自分が嬉しいと思ったときの感情を音楽を入れ表現できる映画はこの上なく気持ちがいい。それを知ってしまった今、映画は止められなくなりました。

 <ドラマを作る時に>こだわり続けたいのは駄目人間で、上手くいっていなくても諦めない人を描きたいのです。それに学校の不自由さこそがドラマを生む素地だと思いました。嬉しい事も悲しい事も逃げ場が無い世界にドラマが生まれる。高校時代のいろいろ禁止されていた不自由さの中に物語があると。この映画で一番好きなシーンは、同じ教室にいながら今まで関わりも無く別の世界に住んでいた加代子さんと白田さんが繋がるシーン(上の画像)ですが、それ以外にも、ラストのリップを返すところとかが好きです。もう会えないと思いながら、実際に喋るのはそれとは別の日常会話。でも映像には心の中の言葉が写っている。言葉ではなく思いを写したいと思いました。

<インタビュー後記:犬塚>
 「この映画の中で一番好きなのは、佐々木君がこれが僕の精一杯ですといって加世ちゃんの髪に触る所です」と谷村さんが言われたように、ともかく全編檸檬色のさわやかな作品です。と言ってもそれは大人になった私があの頃を振り返るからの事。大人には微笑ましいすれ違いや自意識の空回りも、思春期にはたまらず辛いもの。高校生活のヒリヒリしたそんな事を思い出させてくれる作品でした。谷村さんも岩田監督も、若いけれどとてもしっかり自分をお持ちで、思いを表現しようとする真摯な姿勢です。雄弁ではなくても言葉を探りながらの瑞々しい感性が新鮮でした。


映写室 インタビュー29「憑神」美術監督の松宮敏之さん

2008-06-16 21:42:13 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー29「憑神」美術監督の松宮敏之さん
    ―リアリティは黒い土から―

 幕末を舞台にした、ちょっと風変わりな時代劇「憑神」が公開中です。時代劇と言っても切った張ったはほとんどなく、観終わると何だかほんわり。主役の下級武士を演じるのは妻夫木聡さん、その兄役が京都出身の佐々木蔵之介さんです。原作は浅田次郎で、降旗康男監督と木村大作撮影監督が丁寧に創りました。この頃京都を離れた時代劇の製作が続くのですが、本作の撮影拠点となったのは東映太秦撮影所。まるで主人公達が其処で暮らしている様に、自然な空間を作り上げた美術監督の松宮敏之さんに、撮影秘話を伺いました。

<その前に憑神はこんなお話です>
 別所彦四郎は、兄の家の居候。養子に行った先で離縁され、妻子を置いて帰ってきたのだ。代々別所家は将軍様の影武者の家系。でも兄はお勤めにやる気がない。昔一緒に蘭学を習った仲間が出世したのを見て、懇意な蕎麦屋に嗾けられた彦四郎は「三巡稲荷」に手を合わす。それからが大変だった。運どころか、憑神が憑いてしまう。最初にやって来たのは貧乏神で、次には疫病神が最後には死神が憑いてくるらしい。

松宮敏之さんインタビュー
―映像の中に、きっちりした時代劇の世界なのに息遣いのある日常的な空間が現れ、自然に物語に溶け込めました。僭越ですが破綻の無いとても良い美術だと思いました。
松宮さん(以下敬称略):有難うございます。撮影があったのは去年の10月末から12月末でした。美術はその前のお盆過ぎから準備を始めています。まず最初にしたのが黒い土探し。良い土があったら教えてくれとあちこち声を掛けていたら、滋賀県にあって4トントラック2台分運びました。
―え、土って何に使うんですか。
松宮:彦四郎の住む組屋敷を、オープン(映画村のある所)に建てたんです。其処に欲しいと思って。オープンの土は白いんですよ。それじゃあ駄目だなと、上に撒く黒い土を探しました。組屋敷は生活する場所なので、庭に野菜を植えて育つ様な生きた土が必要だった。それを踏んで俳優さん達に其処で暮らしている実感を持って欲しかったんです。

―凄い拘りですね。
松宮:拘りましたね。畑も武家が作る畑だから、そんなに上手くは出来ないだろうと。庭の木もすべて実のなる物にしたんですが、植木屋さんに持ってきてもらうと、綺麗過ぎる。ちょっと曲がった物や葉っぱの虫食った物とか、ひねた物を拾い集めました。

―建物も古さと言いくたびれ具合と言い、住んでいる様な自然な感じですね。
松宮:脚本を読むと、先祖代々の家柄を重んじる母親の仕切る一家だから、きちんと綺麗に住んでいるだろうと、古いけれど清潔にしています。建物は古く見えますが全部新しい。と言うのも古い木だと寸法が揃わないんです。だから新しい木を古く見せる為に焼いて黒くしたり、よく歩く廊下の真ん中とかはすり減っているだろうと鑢をかけて凹ましたり、汚しや磨きを皆総出でやりました。朝はもちろん夜のシーンも雨の日もすべてここで撮影しますから、脚本を読んだ段階で、美術的には屋敷に的を絞って丁寧に仕上げています。

―屋根瓦も自然な古さに見えました。実は以前ある作品で、それまで良かったのに屋根を俯瞰したら瓦がテカッと光って新しさが目に付き、がっかりしたことがあります。それ以来セットでは瓦が気になるのですが、自然に建物に続いて(上手いなあ)と。
松宮:そう言ってもらえると嬉しいですね。新しい瓦はどうしても、テカります。塗装したり汚したり古く見える様に色々工夫するんですよ。それでも気になって、カメラにどう写るかを覗いて見たりとかなり神経を使います。美術だけでなく今回どのパートも自然な感じを出す事に苦心しました。鬘もいつもの時代劇と違って小さい物を特別に創りましたし、衣装も着込んだ感じが出てるでしょう。

―そうなんですよ。彦四郎の羽織の色の褪せ具合がリアルで、良かったです。他の方達の衣装も体に馴染ませてましたね。丁寧な仕事だなと思いました。
松宮:皆に今まで培った技術がありますからね。僕としてはメインの組屋敷を外に建てたので、自然の風が入って来て良かったと思います。そんな物が雰囲気になって写りますから。それと西田敏行さん扮する貧乏神が登場するまで、全体をダークなトーンに抑えたくて、屋敷はそうしています。貧乏神の登場でコメディ色が深まるので、あそこで色彩的にも一気に転調したいと思いました。
―そのせいで、彦四郎の妻の着物の色の爽やかさ等が際立つんですね。今も夫を慕う誠実な心まで現しているようでした。他に美術の大きなお仕事は。
松宮:香川照之さん扮する蕎麦屋が屋台を出してる水辺の向こうに、大きな橋が見えるでしょう。あれもカメラの木村さんがこの辺にドーンと橋が欲しいと言うんで、架けました。

―え、あれも作り物なんですか。ダイナミックな下からのカメラアングルで、大きな太鼓橋がまるで空に架かっているようでした。あそこは橋の上のお芝居とか大雨の後のシーンとか、見せ場が多いですよね。橋と言えば、その下の屋台がちょっと軽くて残念で、この映画の美術唯一の不満です。
松宮:香川さんが担いだやつでしょう。あの屋台は実は二つあるんです。下に置いて営業中の物は古さも出てていいんですが、重過ぎてどうしても役者さんが担げない。下に車をつけた物とか試作しましたが、芝居や絵的に上手くいかず、結局軽い物をもう一つ作ったんです。でも軽いって事は素材も悪いし木も細い。安っぽさが写ってしまいました。

―他にこの映画で美術監督として、ここを見て欲しいと言う所を教えて下さい。
松宮:彦四郎の家の外回り、門の辺りですかね。ここから近江八幡の土塀のロケシーンに続くのですが、自然に繋がってて上手くいったと思います。
―え、向かいに家並みもあったし、瓦が重厚でてっきりロケだと思っていました。
松宮:ちょっと上手くいき過ぎて、詳しい人にもセットだと解ってもらえないかも。まあそれが狙いなんですが。あそこは後で雪のシーンもあって苦労しました。
セットが完成しても、撮影時に季節や状況に合わせて変えるので大変です。庭に植える野菜類も、育った物から枯れた物まで、状況に応じて植え替えれる様に別の畑に一杯用意しました。水害のシーンもあるでしょう。そんな時は畑を荒らしたり、ごみを振りまいたりです。それ以外にも木村さんがいい角度で芝居を撮りたくて、邪魔になる組屋敷の柱を切りました。セットだったら軽いから良いけど、あれはオープンに立てた本格的な物でしょう。瓦とか上が重いから支えてないと持たないんですよ。で撮り終わったらまたジョッキで持ち上げて柱を元のように継ぎ足すんです。そんな事を何度もやりました。でも一度継ぐと、木村さんはもうその柱には興味を持たなかったですね。

―うーん、凄い事をするんですね。
松宮:現場で色々要求があるんです。こう来たらこう、こう来たらこう返すと、その緊張が楽しかった。木村さんが現場を引っ張っていましたね。ワンショットにかける集中力に圧倒されました。自分達が若くてまだアシスタントの頃も一緒に仕事してますから、木村さんとは長い付き合いです。
―何だか現場のお話をされる時楽しそうですね。
松宮:現場は楽しかったですね。楽しいといい物が創れます。妻夫木さんも好きになりました。人懐っこくて現場で緊張しないんですよ。初日から撮影を楽しんでいる様に見えました。死神役の女の子も可愛いんですよ。この間会ったら又大きくなってて吃驚しました。
―最後になりますが、この映画の何を観て欲しいですか。
松宮:笑いがあるが笑いに終わりません。彦四郎の生き方は、現代の若者にも通じる何かがあると思う。映画を観て暖かい何かを受け取って欲しいと思います。

<インタビュー後記:犬塚>
 時代劇を本格的に創れば創るほど、独特のリズムと空気感で若者が入れない。場内は年配者ばかりという寂しい作品もありました。(如何してだろう)と観客の私が推測したように、作り手の皆さんはもっと悩まれた事でしょう。この作品はそんな模索を集大成したものかもしれません。テンポが良く主人公の悩みは私達にも等身大、そして何より時代劇でありながら画面の中に今の空気も流れて、観客が同化できるのです。役者さん達の演技も鬘をかぶって刀を指してという設定に惑わされず自然体。時代劇だけれど、私が観たのは時代劇以上にその中の人間でした。演出はもちろんですが、そんな皆の演技を助けたのが、暮しているリアリティを大切にした美術や衣装さんの仕事だったのではないでしょうか。


映写室 インタビュー28「不完全な二人」諏訪敦彦監督(後編)

2008-06-16 21:40:02 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー28「不完全な二人」諏訪敦彦監督(後編)
         ―諏訪作品の核心―

―監督は知りたいから映画を作ると言われましたが、知りたい事は解りましたか。
監督:其処に答えがあるわけではありません。映画を作る間に体験する事が総てです。昔日本に来たフランスの小説家が、小説には2通りある。書いている人がその世界を全部知っているか、その世界を知らないという確信から書いているかと言いました。

僕の映画は現代的な後者のスタンスを取っています。僕が見通しを知らなくて、だからこそ、その探求のプロセスとして映画を作っているんです。今の文化は意味や答えを求めてしまう。何処かで安心したいんですね。でも本来映画は安心する物ではない。いや、そんな映画もあって良いんですが、それとは違う映画も必要で、意味とか言葉では還元できない何かを体験する時間になれば良いと思うんです。今の商品文化の大爆発の映画とは距離を持っていたいんです。ハリウッド作品が悪いわけではないけれど、全部そうなってはいけない。考えなくても総てを見せてもらえる映画では、其処で日ごろの事は忘れて、外に出ると映画のように上手くは行かないから現実に立ち向かう力を失うでしょう。今の風潮に従わず、現状に対する批判的な目を持っていたいんです。映画とは何かを突き詰めて行くと、考えれば考えるほど破壊的になるんですが、映画は語るもんで、かつ観るもんだという位置がある。物事はあまり極端に考えないでもっと柔らかく捉える必要があるなと。このカップルの話もコメディで距離を持ちたかったのは、男女の愛はなにかと突き詰めると、辛い映画になるので、もっと力を抜いて皆で考える映画になれば良いと思ったんです。
                              
―映画で出会った女性の本質に驚かれた事や、日本とフランスの違いは。
監督:さっき言った編集でカットした部分ですが、ヴァレリアが「モンドン!」とはき捨てるように言うんです。和訳すると上っ面だけで中身がないとかそんな意味なんですが、こんな言葉がとっさに出てくるところがヴァレリアのファンタジスタたる所以なんですね。向こうのスタッフが感心しながらも驚いていました。男にはきつい、絶対に言ってはいけない言葉だそうです。この映画フランスでは皆笑って観ていました。そもそも始まりからして、もうすぐ別れるのに二人で結婚式に出ると言うのがシチュエーションコメディなんですよ。なんか可笑しい。夫婦ってこんなもんね、あはは…という感じがある。夫婦の関係性が限界まで行くんだけれど、最後はなんとなく愛が深くなる。自分が普通の家庭生活を送っていますから、シリアスな所もあるし似たようなもんだなあとも思いました。映画にするにはあまりにも些細な出来事だけど、そういう些細な人生を生きる事には意味がある。映画館を得た後に映画と自分とのつながりが残って何か考えてもらえれば良いなと思います。

―言葉の通じない所での撮影は大変では。
監督:そう思われて当然なんですが、日本とフランスという違いより映画国籍の違う人と映画を撮るほうが大変なんです。こういう事がやりたいという事を、通じない人にいくら話しても通じない。今のチームはスタッフが自分の映画の創り方を理解してくれているんで、作り易かった。僕はフランス語がほとんど解らなくって、後で翻訳が来て(ああ、あこでこんな事を言っていたのか)と驚く事もあるんですが、それも良いんですよ。言葉は何の問題もなかった。

―諏訪監督がフランスで絶大な人気なのは何故だと思われますか。
監督:テーマがフランス的だとは言われますね。内容的に受け入れられているかも。フランス映画は夫婦間の問題を描いた物が多いんですよ。30代40代が一番映画を観ますから、自分たちの問題なんです。それと今のフランス映画がなくしたフランス映画的なティストを持っているとも言われますね。後、沈黙を恐れない所が東洋的だとも言われます。ここまで俳優に自由を与えて、なおかつ総てがデザインされているのが驚きだと言ってくれたりもしました。フランスは映画発祥の地という自負があって、文化としての映画の位置が確固としてあるんです。この映画もそうですが、放送局が収益の何パーセントかを映画の助成に注いで支援する。第3国の映画等、興行的に難しくそれがなかったら創れない物もたくさんあります。国立センターでそういう映画を支援していくシステムがあって、日本以上に商業映画と、文化的というかアート系の映画が分かれるんです。これは向こうで公開されて3万人位が観ましたが、「パリ・ジュテーム」だと40万人入りました。僕の最近の2作品ですらスタンスがこんなに違います。

―そんな風に外国で活躍される監督から見て、今の日本映画は如何でしょう。製作本数は飛躍的に増えていますが。
監督:僕が映画を撮り始めた97年頃は日本映画は多様だった。青山真治が出て、是枝さんがいて、河瀬直美も出てきて、宮崎駿もいる。日本にはこんな映画もあるのかと、外国ではその幅の広さに皆が驚いていましたよ。でもそれ以降が続かなかった。今は作品が沢山なのに皆同じになってしまった。映画に求める物、映画が与える物が画一的になっているんでしょう。でも困ったことに日本は市場が広いんで、日本の観客に受け入れられるものを作っていればそれはそれで成り立つ。でもそれでは決して外には出て行けません。それはフランス映画も一緒です。さっき言った助成金のせいで、それが出るかどうかが脚本審査で決まるんで、どうしても皆が審査を通りやすい所を狙うんですね。同じ様な物ばかり。ヌーベルバーグが面白かったのは、皆が勝手にやってばらばらだったからです。それと日本では映画館に来るのが現役引退のシルバーと若者ばかりで、フランスのような中間の観客がいない。だから映画もそのあたりの問題を扱う物が作れないんです。観てくれる人がいないから。日本じゃあ、誰も子供を預けて映画館に行かないでしょう。大人の文化としての映画が成り立っていないのが残念ですね。

―そんな日本で映画を撮る計画は。
監督:監督業はチームから受け入れられないと仕事が出来ません。例えばこの作品でも日本で作ろうと思ったら、マーケットを考えて色々制約を受けます。僕のスタイルじゃあ撮れない。それを飲んでまではやりたくないから、今フランス映画界の中である程度出来ている自分の位置で、自然と映画を撮ることになります。でも本当は日本でも撮りたいという願望がある。こっちにも僕のチームはいるんで、機会があればやりたいですね。映画じゃあありませんが、この間NHKのBS放送で子育てについてのドキュメンタリーを撮りました。

―男女の愛の問題、夫婦の問題を描くのは、問題を自分に突きつけられて辛くありませんか。
監督:辛いですよ。この映画にも自分に起こったようなことが一杯入っています。でも映画をやる以上、自分の生活を仕事と切り離せない。自分はその事をテーマにしているんだし、だったら一緒にやろうと、だんだん家内とユニットの形になりました。この作品の編集は彼女ですし、さっき言ったドキュメンタリーの脚本も彼女が書いています。問題のラストシーンなんて、彼女が「え、これ私がやるの?」って言ってました。男女が一緒に生きるのは葛藤です。でも色々な問題を通過する事で絆が生れる。

―監督が常に女性を主人公に据えるのはどうしてですか。
監督:カメラで捉えるという事はその存在を肯定する事です。それって愛するという事。愛すると共に自分と違う性なので勝手に描く事も出来ない。映画の中で葛藤しています。其処が面白いんかなあ。でもこれから少しテーマが変るかもしれない。子供の視点からの作品を次回作に考えています。
―それも楽しみですが、諏訪監督にはぜひぜひ又原点に戻って大人の愛の物語を取っていただきたいと思います。
監督:はい。解りました。

<インタビュー後記:犬塚>
 実はこの映画は洋画扱いの為「不完全な二人」というのは配給会社のつけた邦題。原題は「Un Couple Parfait」で、丁度意味が反対の「完全な二人」となります。「夫婦の関係性で色々迷うけれど、それでもこの二人は完全だと思う」と、監督が言われたのが印象的でした。監督はいでたち自体がなんだかフランステイスト。愛の物語を探求するに相応しい存在です。もちろん映画もパリの街角の匂い。白熱灯の暖かさが素敵でした。少し長いのですが、時には難解にも思われる河瀬監督とかの、フランスで評価される日本人監督作品のことも含めて伺ってみました。じっくりお楽しみ下さい。「これからも大人の愛の物語を」と言う私の要望に、下を向いてはにかみながら肯いて下さいました。こちらもお楽しみに。




映写室 インタビュー27「不完全な二人」諏訪敦彦監督(前編)

2008-06-16 21:37:52 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー27「不完全な二人」諏訪敦彦監督(前編)
       ―パリで愛される監督―

 97年に「2/デュオ」でデビュー以来、ヨーロッパでの諏訪敦彦監督の評価は圧倒的です。日本公開が前後しましたが、オムニバス作品「パリ・ジュテーム」でも日本人監督としてただ一人参加しました。本作も言葉の通じないフランスサイドのスタッフと俳優の中で作られたもの。そんな撮影秘話や、監督がヨーロッパで愛される理由と、俳優に多くを任せ即興を大事にする監督の手法等について、今日明日の連続2回で伺います。

その前に「不完全な二人」とはこんな物語。
 マリー(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)とニコラ(ブリュノ・トデスキーニ)は結婚15年目の夫婦。友人の結婚式に出る為に久しぶりにパリにやってきた。傍目には理想的に見える彼らも、実は別れを決めている。部屋に入ってもエキストラベッドをいれ、何かと口論が耐えない。寂しさに一人ロダン美術館を訪ねたマリーは、男女の絡み合う彫刻に見とれていた。友人の結婚式が終わって、不満そうなマリーに苛立ったニコラは喧嘩になり夜の街をさまよう。

―監督は即興で有名ですが、撮影の前に脚本はどのくらい出来ているんですか。
諏訪敦彦監督(以下監督):最初は簡単な物です。それを骨組みにして2,3段階進めたもので撮り始めるんですが、それでも簡単ですね。最初に決めてしまうと映画がそれを再現するだけになる。僕の映画は自分が思っていることを再現するのが目的ではありません。一般の監督のように、作者としてあるイメージを描いてから映画を創るのではないのです。僕が知らないから、どうなるんだろうと知りたいから映画を作っている。それに自分一人ではなく、皆と一緒に映画を作りたいんです。シナリオはスタッフの皆が乗っかってくる土台で、其処に皆が乗っかってみようと思ってくれれば良いと。又映画を観ながら自分だったらどうするかと考える事で、観客も映画に参加して欲しいのです。

―主役のヴァレリアの抜擢はどうしてでしょうか。
監督:キャスティングに理由はないのです。でも映画の根幹ですからキャストを決めるのは難しい。その人とやるかどうかは、言葉ではありません。波動や気持ちを共有できるかどうか、会った瞬間に一緒に仕事をしたいと思うかどうか、しいて言えばまあ賭けのようなものですね。ただ彼女の出演作を観た時に、いい俳優だなあ会いたいと思いましたし、彼女に会ったことでこの映画をGOしようと思いました。

―どの作品ですか。
監督:彼女はどの作品でも役と言うよりもヴァレリアとして存在していますから、どの作品と言うことはないんです。2001年に撮った僕の「H Story」と言う作品では、主演を決めるのに5人位に会いました。でも実際に演じたペアトリス・ダルには会ったことがなかった。と言うか会いたくなかった。彼女は間違いなく良い俳優でトップ女優なんだけど、同時にトラブルメーカーなんですね。怖そうだから避けていたのに、カメラマンから面白いから会ってみなさいと言われたんで、恐る恐るカフェで会ったんです。事前に2,3枚のシノプスを送っといたんでそれの感想を聞いたら、「そんなものはどうでもいい」と言うんですね。「私はシナリオがいいかどうかでは決めない。私に会いたいと言って会いに来てくれて、貴方と会ったことで映画は始まった。これが全てだ」と言われて、なるほどなあと思いました。僕の映画はシナリオのない即興の作品なので、この人がこの役にぴったりとかの、こっちの理由で決めることがない。一緒に映画を撮るのは俳優にとっても監督にとっても自分自身をさらけ出せるかどうか、たとえるならお互いに素っ裸になれるかどうかなんです。

―このストーリーを思いつかれたのは?
監督:話は色々なところから複合して出来ています。「H Story」を撮った後、自分はこの後映画を撮れるだろうかと迷いだして、家に籠ってばかりでした。当時パリに住んでいて、シナリオに悩んでいる僕を心配した家内が「外に出たら。ロダン美術館が良かったよ」と言うんで行ってみたんです。彼の彫刻はほとんど男女を題材にしていますが、ロダンの彫刻の精神性にインスピレーションを受けました。彼が彫刻でやろうとした事と自分のやりたい事がリンクして見えてきたんです。自分の原点に返って、男女の物語をそれもシンプルにやろうと思いました。この映画を始めるに当たって、ヴァレリアと会っても脚本がないんで話の進めようがない。で、参考書として「イタリア旅行」と同じストーリーを辿っています。彼女もそれを観ていたので、そこから話を膨らませました。

―オゾン作品(ふたりの5つの分かれ路、僕を葬る)でヒロインを務めたヴァレリアは、いつも愛にとって肉体が重いのか重くないのか解らない役を演じますが、何故そうなるのでしょう?
監督:彼女はイタリア出身の女優さんで、一言で言えばファンタスティックプレーヤーなんですね。出演作を全て観ているわけではありませんが、ある状況に置くとぽんと出てくるリアクションが意外で面白い。監督がそこを突き詰めていくと、演技がどんどんエスカレートして変わったエキセントリックな存在になっていくんだと思います。でも今度はそれに依存したくない。マリーは普通の女性なのでそこのところはセーブしてもらいました。たとえばホテルでニコラと口論になった時も、編集でカットしていますが、扉の向こうのカメラに写らない声だけの所で、高笑いとか暴言とかが凄いんです。でもそこまでやるとマリーが解放されてしまう。この映画の主人公は自分が思うことを表現できないで悩んでいる女性なんだからと、「マリーは女優じゃあないから。普通の人だから」と声をかけたんです。後でヴァレリアからあの言葉に助けられたと言われました。

―ラストシーンは?
監督:僕の作品は順撮りなんですが、ラストがずっと決まらなかったんです。前日位にヴァレリアが「ねえ聞いて。ラストを思いついた」といってあのアイデアを話してくれました。何か映画みたいで照れくさいけれど、ヴァレリアがそういうんだったらそれで良いと思いました。僕一人だったら思いつかないシーンですが、あれでよかったと思います。
                                          続きは明日 


映写室 インタビュー26「選挙」想田和弘監督&山内和彦さん

2008-06-16 21:35:00 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー26「選挙」想田和弘監督&山内和彦さん
    ―小泉旋風下の川崎市議会議員補欠選挙―

 このドキュメンタリー映画が撮られた頃、日本は小泉純一郎総理が圧倒的な人気を誇り、政治は小泉劇場とまで言われていました。時は移り2007年の初夏、参議院選挙を目前に自民党は低空飛行。でも野党も今一つ冴えません。秋口にはどんな政界地図が出来上がっていることやら。と、無責任な事を言ってはいられない。今度こそ、日本の未来を託す一票を、誰もがムードに流されず真摯に使いたいものです。
 そんな私達にかっこうの映画が登場しました。「選挙」の映画を引っさげた二人が、今マスコミにちょっとした旋風を起こしています。日本人でありながら、日本的なものに新鮮な目を向けた、ニューヨーク在住の想田和弘監督と、主演の山内和彦さんにお話を伺いました。

その前に「選挙」はこんなドキュメンタリーです。
 2005年秋、小泉劇場真っ只中の川崎市で、市議の補欠選挙が行われた。ここで自民党の公募に受かったのが、監督の大学の同級生の山さんこと、山内和彦さんだ。政治家の秘書経験も無く、東大を卒業後気ままに切手コイン商を営んでいた、いわば政治には素人の山内さんが、落下傘候補として地縁も血縁も無い川崎でドブ板選挙を始める。ところがこれが凄かった。これで負ければ市議会与党の座を追われる為、自民党も地方選挙の補選とは思えない力の入れ方。党を上げての支援体制を敷く。しかも参議院の補選とも重なり、小泉総理(当時)や川口順子さん、石原伸晃さん、荻原健司さんら有名国家議員が続々と応援に登場する。はたして山内さんは当選するのか。

想田和弘監督&山内和彦さんインタビュー
―頂いた名刺で市議の肩書きが消されていますが。
山内さん:4月8日で失業しまして、目下主夫をしております。
―と言いますと?
山内さん:今回は立候補しなかったんです。前回出たのが自民党からなので、今回も出るとしたらそこからになるんですが、古い自民党との軋轢で自分の組織が作れなくて。それに1年半で一定の役割は果たしたと思うんで、もういいかと思いました。それより今は映画の魅力に取り付かれています。ベルリン映画祭にも一緒に行って、(監督は)凄い事をしたなと思いました。ニューヨークの上映会に行って始めてこの映画を観た時は、見苦しいシーンが多く、自分が怒られてばかりなんですよ。半分位カットして欲しいと頼みました。監督と喧嘩です。でも一晩たってクールダウンすると、監督が一生懸命造ったものに文句を言ってはいけないと、前の日の心の狭さを反省しました。一皮剥けましたね。
想田監督:山さんに見せるときは正直言ってどきどきしました。でも叱られるシーンが良いんですよ、彼らしくて。そう言って説得しました。
―ええ、そんなシーンから山内さんの誠実さが伝わってきてよかったです。みっともないと言うより、普通の感覚をお持ちの様子が伺えました。叱られた時の謝り方で、何事にも一生懸命な姿勢もうかがえましたし。
山内さん:有難う御座います。そう言って頂けると嬉しいです。

―ところでこの映画はどうして始まったのですか。
想田監督:きっかけは2000年のブッシュとゴアの争いの再カウントからです。あれで選挙って結構いい加減だなあと気づいて、いつか選挙の裏側と撮りたいと思いました。そこに、今回川崎に住んでいる友人からメールが来たんです。偶然町で見かけたとかで、写メールで山さんの選挙ポスターを撮って、「あの山さんが選挙に出てるよ」と教えてくれて、吃驚しました。10月2日にメールで知って、7日にはカメラを回しています。その間に自民党とかに許可を取ったり、機材を持って日本に帰ったりですから素早かった。自分が撮りたい題材の選挙に、あの山さんが出ている。それも自民党からというのが大きかったですね。僕にとっては山さんは非自民党的な人で、彼が自民党から出るというだけで驚きましたから。
―山内さんはなぜ自民党から。
山内さん:2001年小泉総理が誕生して、色々な事が変わるのではないかと思いました。それを応援したかったんです。そこに突然公募の話が来て、これはチャンスだと思って頑張りました。僕に声が懸ったのは締め切り真近だったんです。
想田監督:山さんは昔から政治の話をしていましたね。

―撮影はどうでしたか。
想田監督:普通はドキュメンタリーといえども筋書きがあるんです。でも何しろ突然なんで、しかも全部自分一人でやるから、筋書きでスポンサーとかを説得する必要も無く、成り行きに任せて、自分の観察視点で描きました。でもあまりにも簡単に一人でやるので、撮影を過小評価されて、写してても映画が本当にできるのかって感じでしたね。
―だからこそカメラを意識しない皆の自然体が写せたのですね。
想田監督:若い頃はイデオロギーに捕われていました。でも今はそれから遠いところで撮りたい。多義的な物を多義的なままで見せたいと思いました。今の世は複雑怪奇でしょう、それをそのまま描きたいのです。自分の主張を盛り込んでも効果が無いことに気づいてきた。だからそれを排除して、特定の価値観の人に訴えるのはやめようと思ったんです。ナレーションをつけると自分の解釈が入ってしまうんでそれも止めました。何かを考えるきっかけの映画になって欲しいと。

―選挙はどうでしたか。お金とか。
山内さん:自民党から出る以上、自民党的にやろうと思って、言われるままにやりました。やってる時は真剣でコミカルとは思わなかったけれど、映画で観ると可笑しいと言うか新鮮ですね。公募に受かっても選挙資金は全部自分持ちなんですよ。お金がいくらかかるか解らず、それがきつかったですね。自分の商品を売ったりいろいろ苦労しました。
想田監督:僕はニューヨークが長いんで、日本に帰るとすべてが新鮮です。それで外国人的な視点で撮れたのではないかと思います。考えてみると変ですよね、何回名前を聞いたかとか、公約ではないそんな事で投票する民主主義というのは。

―いつ当選すると思われましたか。
山内さん:当時の小泉人気ですから、公募に受かった時点で、もう大丈夫と思いました。公募のほうは真剣に対処しました。面接も模範解答を返しましたし。ダブルスコア位の差がつくかと思ったのですが、さすがにあの選挙区は有権者が知的で、急に来た実績の無い者に闇雲に入れるほど無知じゃあないんですよ。
想田監督:本人が絶対大丈夫だと当選の自信に溢れてたので、僕はそんなもんかなあと思っていました。
―もし落ちていたら。
想田監督:もちろん違った映画になっていたでしょうね。撮っている時も、どんな映画になるか考えないで、その場で起こっているのは何だろうと考えて撮っていました。何が起こるか解らないと、固定概念に当てはめて行くのが嫌だったんです。それも一人の撮影だからできたことです。面白いと思うままにカメラを回す、デジタルカメラの発達でそんなことが可能になりました。

―山内さんの魅力は。
想田監督:元々打たれ強く、Tシャツとジーンの男で、スーツを着てる事が驚きでした。この選挙の為に買うまで、スーツなんて一着も持ってなかったんだよね。
―山内さんはこの1年半でどう変わりましたか。今の山内さんには映画の中の政治家の皆さんが放っていたのと同じ様な、輝きというかオーラを感じますが。
想田監督:やっぱり変わりましたよ。まずスーツが似合うようになりましたしね。それと人に見られる事に慣れたんじゃあないかな。
山内さん:公約した中の幾つかは実行しましたが、出来る事と出来ない事が解かりました。政治家は頭の中に理想はあるけれど、現実対応しないといけない。それも解った。オーラはあるとしたら、小泉総理が来る前の街頭演説で自分に3500人が反応してくれたんです。その自信が大きいですね。政治家は自信を持って話さないといけません。自信が聞く人の安心感に繫がるんです。
―今後のご予定は。
山内さん:今選挙の仕方とかの本を書いています。それと映画の為の切手を作りました。上映館で販売予定です。
想田監督:この映画の関連イベントがいっぱいあって駆け回っています。

<インタビュー後記:犬塚>
 実は私は保守、革新両方の議員が親族にいる、大変複雑な政治的環境で育ちました。昔の田舎ではこの映画よりもっと凄い世界があって、義理やしがらみで政治家が決まる仕組みが、本当に嫌だったのを思い出します。子供ながら、「こんな田舎を出て、自分の為でも地域の為でもない、日本の為に良いと思う人に、自分の1票を入れられる所に行こう」と強く誓いました。
そんな経験者から見ると、この映画の全ての事が身に詰まされます。山内さんが旧態依然とした誰の忠告にも、真剣なだけにお気の毒で。「何をやっても叱られ、何をやらなくても叱られ」と言う呟きが象徴的でした。世界の映画祭でこの映画が絶賛されながら、日本の民主主義を呆れられたのがよく解るというもの。参院選前にぜひご覧ください。有権者とその予備軍必見!


映写室 インタビュー25「水になった村」大西暢夫監督(後編)

2008-06-16 07:50:35 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー25「水になった村」大西暢夫監督(後編)
       ―ジジババに教わった事―

―凄いですね。でも冬はそれも出来ませんよね。
監督:だから夏の間に採った塩漬けの野菜が一杯並んでいるんですよ。雪が深くて仕事が出来なくなると、何もやることが無いから、小西さんは「自分たちは河内漫才を覚えて、夜になると各集落の公民館を回っていた。腹を抱えて笑った。楽しくて冬が待ち遠しかった」と言うんです。

ここでも、冬は閉ざされて春を待つだけと言う暗いイメージが壊されました。奥さんのかのさんは何でも出来るので「僕はかのさんを尊敬してる」と言うと、かのさんは、「いやいや、わしの家の姑はもっと凄い。わしはとちの実を入れる晒しを買うが、姑は作っとった。糸から紡いでやからかなわんよ」と言うんですよ。麻を裂くところからやってたと、冬は草鞋を編んだりやそんな仕事があったんでしょうね。「わしらの生活にビニールは最初からあったけど、昔はそれもなかったし、ここの夜は暗い言うけどわしらの人生の半分は電気がないんよ」とも言われました。そんな小西家の一年を追いかけたものを「うまかた」にこの春から連載しています。

―じょさんたちはどうして村へ帰ってきたんでしょうか。
監督:生れてからずっとここで何でも自分で作って暮らしてきて、急に人参を買う暮らしに切り換えろと言われても、無理がある。出来るだけ山で暮らしたいと思ったのでしょう。
―じょさんの家が壊され、もう住めなくなってから水が入るまで10年もありますが、もっとぎりぎりまで住まわせてあげれなかったんでしょうか。
監督:他の集落の方は20年前に出ています。期限が決まっていたんでしょう。嫌がらせこそありませんが、元々住み続けられるのは工事には邪魔ですから。保証金も壊す前に半分壊したら半分とかあるようです。保証金で建てた移転地の家を、都会の人やマスコミはダム御殿と言いますが、その内部を見せたかった。年寄りがどんな気持ちで引っ越してきたかを伝えたかったんです。

―じょさんたちの世代は山の暮らしに未練がありますが、下の世代はどうでしょう。
監督:若い人はどうしても町に眼が向きます。林業も駄目ですし、村には現金収入がなく、徳山村はダムがなくても消えていった村かも知れません。ただ若いと言っても村にいたのは今の50才位までの人で、その下の世代はもう知らない。両親の出身地位しか思わないでしょうね。僕らは何百年も続いた徳山村の歴史を守れなかった。其処に住んでいた人たちの暮らしこそが、ダムがなくても生きていける暮らしだったのにと、自分の暮らしを反省しています。じょさんの生き方を見て、僕も生きていく技が欲しくなりました。何処かから必ず食料を調達する能力を持ちたいと、今年から米も作り始めたんです。

―この映画をどんな人に観て欲しいですか。
監督:若い人に観て欲しいです。そして僕が驚いたように驚いて欲しい。
―徳山村の皆さんはもう御覧になりましたか。
監督:村の人はかなり観ています。今大垣のシネコンで上映中で、映画館が沸きあがっているんですよ。「あれが如何だ。ここが如何だ」と喋りながら観るからやかましくて。皆笑って泣いてらしいです。2代前のダムの工事所長が観てくれて、涙して帰って行きました。じょさんと小西さんは、徳山村がこんな形で残ったと喜んでくれています。

―この作品を作って何を思われましたか。徳山村は残せなかったけれど、全国でここと同じ様に残したい村はありますか。
監督:残したい所は一杯あります。新たな企画はもう通らないけれど、すでに計画が進んでいてこれから出来るダムは全国で300もあるんです。利水を言えば計画は潰れますが、今言われているのは治水なんですよ。九州とかは毎年台風が来て、洪水や土砂崩れ等で人が死にます。治水の観点から、「じゃあ人が死んでも良いんですか」と言われると、もう反対理論が通じない。でもダムですべてを解決すると言う発想は、もう限界に来ています。この作品の中でじょさんが「人が神様の仕事に手をつけはじめてまったなあ」と言いますが、僕らは無謀なことをしてると思う。今のやり方ではいくらダムがあっても潰される物は潰される。僕たち世代の暮らしはエネルギーを必要とする暮らしです。僕が一番言いたいのは、冬にトマトを食べる事でどれだけエネルギーを使っているかを忘れてはいけないと言う事。そんな意識を持つ段階から出発しないといけないと思うんです。今の調子でどんどんエネルギーを使っていたら、いくらダムを作ってももたない。もうそんな暮らしを変える時だと思う。僕らはたかだか50年位の事情で、人の住処をエネルギーに変えた罪を思い知らないといけない。もうそんな生き方は限界だと思う。

<インタビュー後記:犬塚> 
 春の山菜、秋の木の実、畑から捥いだ野菜や小川の名もない小魚と、食卓に並ぶ物はどれもが体に良さそうで美味しそう。あんな所に住んでみたいなあ、食べたなあとジジババに憧れ、お腹が空いた映画です。笑い転げていたら終盤は一転。ひたひたと水の押し寄せるアスファルトの上でバッタが逃げ惑い、村はもう水の下。ジジババの無念さが胸に迫りました。知らず知らず涙が滲んで、都市生活を甘受する私は「じょさんたち御免なさい」と呟くしかありません。村人は誰も一言も「ダムは駄目」とは言わないけれど、自分たちの罪深さに気付かされました。それは村人に寄り添った監督の思いでもあるのでしょう。最初の頃は標準語のインタビューだったのが、移転地を訪ねて掛ける言葉は、あの村を想いださせる土地の言葉。ジジババに一体化します。この作品の製作過程で、何より監督自身が大きく変わった事を感じました。


映写室 インタビュー24「水になった村」大西暢夫監督(前編)

2008-06-16 07:48:44 | 映写室インタビュー記事
映写室 インタビュー24「水になった村」大西暢夫監督(前編)
     ―ジジババに会いたくて通い続けた監督の15年間―

 来春に完成予定の日本一の規模を誇る徳山ダムは、現在湛水中です。ここは多目的ダムで名古屋市が水利権の半分を返上するなど、何度となくその必要性が議論されました。でも最初の計画から50年が経ち、ダムの底には一つの村が沈んだのです。そんな徳山村のジジババを15年間追った大西暢夫監督。何故この映画ができたのかを、今日明日と連続2回で伺います。

<その前にこの映画の主人公はこんなジジババ>
 岐阜県損斐郡の損斐川上流にあった、元徳山村(現在は損斐川町)に最初にダム建設の話が広まったのは1957年の事。当時の村民1600名は、次々と故郷を離れて、近隣の移転地に引越して行きました。でも一時的には移ったものの、何人かの村人が沈んでしまうまではここで暮らしたいと、不便な村に帰ってきたのです。ここに写るのはそんなジジババと監督との触れ合い。と言っても監督自身は映像の外で、映画にはナレーションでの参加。季節ごとの山の恵み、自然と共存する昔ながらの暮らしはある意味贅沢。笑い転げて、でも涙も滲ませて、一つの村が水に沈むまでを見ました。

<大西暢夫監督インタビュー>
―村の誰もに注ぐ眼差しが暖かくお声も優しくて、こんな作品を作ったのはどんな方だろうと、今日はお会いするのを楽しみにしていました。経歴を拝見しますとダムに拘ったお仕事振りですが、きっかけは何でしょうか。
大西監督(以下監督):最初は徳山村です。村を撮ったり「おばあちゃんは木になった」等の本を書いたりと、この村に関わり始めて5年後位から、夕張から九州までと、ダムの現場を歩くようになりました。それが約10年になります。僕は本業がスチールのカメラマンなので仕事柄ダムに行くことが多く、それと平行してやってきました。

―徳山村の何がそうさせたのですか。
監督:僕は岐阜の出身で、この村から50キロ位下流の町で生まれました。小さい頃から「徳山村がダムになる」と聞いていたんです。あまり話題にならない小さな所なので、小学生の頃は近くに日本一のダムが出来ると誇りに思っていました。でも徳山村に行ったことはないんです。自分だけじゃあなく、回りの大人も行った事がなかった。当時は車で走ると片輪が落ちる位狭い道しかなく、郡部の色々なイベントでも徳山村だけは参加しないんです。簡単には出て来れない程孤立した村だったと、後になって解ったんですが、当時はどんな所だろうと思っていました。それ位辺境の地なんです。
そのうち神山征二郎監督が徳山村が舞台の、「ふるさと」(‘83)と言う映画を作りました。加藤嘉、樫山文枝等名優が一杯出てくる作品で、僕ら地元の者は学校の巡回映画で観たんです。その時初めて徳山村を写真で見ました。これは劇映画ですが、ダム作りの爆破シーンなどは実写フィルムが入っているんです。発破でどんどん村が壊されていくシーンを目の当たりにして、14歳の僕は号泣しました。日本一のダムが出来ると単純に喜んでいたけれど、裏にはこんな事があるんだと、驚きが強烈過ぎて。ダムと言うのは華やかだと思っていたのに、泣いている村民もいるし、水の底に沈む暮らしがあるんだと、現実に気付いたんです。しかもそれが自分の町の上流で起こっているんだと思うと、余計にショックでしたね。

―それがかかわりのきっかけですか。
監督:いえ、それは僕の中にあった事ですね。直接のきっかけは上京してから、これも偶然なんですが、テレビの仕事で徳山村に行った事です。ここには、去年2月に亡くなったんですが、増山たづ子という有名なおばあちゃんがいました。増山さんがピッカリコニカで消えていく自分の村を撮って、その写真が有名になったんです。で、「増山たづ子と徳山村」と言うのを、アナログ最後のカメラのハイエースで、これはパスポートサイズのカメラで、一般の主婦でもお爺ちゃんでもドキュメンタリーが撮れると言われたカメラなんですが、撮ってみないかと言われて、ケーブルテレビ局で45分のドキュメンタリーを作りました。結局それを4本撮りましたが、その時増山さんが、じょさんに会ってみないかと紹介してくれたんです。まさかまだここに人が住んでるなんて、思ってなかったんで驚きました。その時の映像が残っていたんです。この映画に使ってる分ですね。テレビの仕事が終わっても、仕事の傍らですが、僕が個人的に通い続けて撮り貯めたものがあり、ある時この作品のプロデューサーの本橋成一が映画にしてみないかと言い出しまして。

―長い歴史ですね。
監督:そうです。じょさんと最初に出会ったのは92年の夏で、僕が24歳かなあ。若いせいもあって最初はマスコミ気取りで、何が駄目なのかの視点もなく「ダムは悪者」と決め付けて、そんな答えを期待して、ダムをどう思うかなんて聞いていました。でも何を聞いてもことごとく話がずれ、うやむやにされてしまう。じょさんが僕の固定観念を壊すんです。いつも楽しそうで、いつも食べ物が出てくる。「飯を食え」、「まあ兄ちゃん食べなさい」、「何所のもんじゃ」と答えをはぐらかす。そうするうちに僕も決まりきった事を聞くのを止めて、代わりに「それは何ですか」と尋ね始めました。何しろ食べ物でも何でも、徳山村にあるのは自分の知らない事ばかりだったんです。東京と言う情報の真ん中にいながら、この村に来ると何にも解らない。それが衝撃でした。

―でも監督も近くのご出身ですよね。ある程度田舎の事は想像出来るのでは。
監督:そうなんですが、僕の生れた所は風景が田舎なだけで、他は町と一緒だった。物をお金を出して買っていたんです。徳山村は何でも自分で作るし、自分で採ってくるでしょう。自分で作って食べる事がこの村では当たり前なんです。自給自足というのは都会の人が言うことで、ここではそれしか方法がありません。知っているつもりでも、それを目の当たりにすると驚きが想像を超えていました。起きてから寝るまで大半が食べ物に関わる。だから映画は8割が食べる事です。                                                (続きは明日)