http://web.archive.org/web/20170502020901/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/374.html
マルクシズムの起源 6
これはフリーメーソンである合図。
人形たちのステージショー
スターリンの父は?
記事は消えてしまいましたがエドモンド・ロスチャイルド説が強い
ヒトラーの祖父は?
祖父はソロモン・ロスチャイルド
「子猫ちゃん,パパのところへおいで,さあ,おいで。おいで,パパと一緒に遊ぼう」「子猫ちゃん,パパはお前を探しているんだよ。パパを見つけてごらん。さあ,パパのところへおいで,子猫ちゃん。さあ,パパをなめて,ひっかき,咬んでごらん。ゴロゴロ,ゴロゴロ」
イルミナティは非嫡出子を養子にだす。
ロスチャイルドと共産主義
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/08c9738e9a0195e8de52bd60f365b678
共産主義の成立過程~マルクスとサタン
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/e4de8ea6a86d4f5c70336b570f4a18d1
CHEKAの創始者を公開処刑台まで連れまわすスターリン。イルミナティは用済みの代理人(Agenture)を処刑する。レーニンも例外ではなかった。日本のイルミナティ気取りの政治家もいずれそういう末路をたどるのだ。彼らにはまだ日本滅亡という仕事が残っている。
フリーメーソンは決して自分がフリーメーソンだとは言わない。それは彼らの入会の誓いで死をもって守ると誓うからである。どんな偽りでも自分達の秘密を守るためなら許される。決して真実は語らない。そうはいっても後でペラペラ秘密を暴露されては困るので最後は息の根を止めるのです。しかし,本当に信認の厚いメーソン,例えば「スターリンのスパイ」ゾルゲなどはサタンの餌食にはならず生き延びる。多摩霊園にあるゾルゲは別人。男装の麗人・川島芳子などもそうだ。銃殺された女性は別人。
共産主義者インターナショナルの事務総長であり、20世紀のマルクス主義理論家であるブハーリンは、12歳の時に黙示録を読み、反キリストになりたいと思った。聖書に「反キリストは大淫婦の子である」と書いてあるため、「母はかつて売春をしていたことを告白した」と述べた。
しかし、スターリンは、その彼をして、「奴は人間ではない。悪魔だ。」と言わしめた人物である。
ブハーリンは、スターリンによって逮捕され、処刑される直前に、妻にこう言った。
私はまもなくこの世を去るだろう。私はうなだれている…。地獄の機械を前にして、助ける者は誰もいない…。
(Roy Medvedev, Let History Judge (New York: Alfred Knopf, 1971), p. 183; cited in ibid., p. 51.)
ブハーリンは、数百万もの人間を処刑したギロチン――ソビエト連邦――を建設した一人である。その彼が、最後の最後になって、それが地獄で作られたことを知ったのだ。反キリストになることを望んだ彼は、かえってサタンの餌食になった(1917年の革命時にソビエト共産主義者中央委員会の29人のメンバー及び候補者だった者のうち、他人から命を奪われずに済んだ者は4人しかいない)。
スターリンの義理の兄弟で最も親しい協力者であったカガノヴィッチは、スターリンについて日記の中で次のように述べた。
私は、スターリンが、自分を神にしようとしていることに気づき始めた。彼には人間らしい部分がまったくない。…彼が感情を表す時ですら、それが彼自身から出たものでないように見えた。…ある理由から、私は、彼が永遠に生き長らえるように思えた。…
ローザ[彼の妻]によれば、彼は、ストッキング以外なにもつけずに、木登りをするという。…スターリンには、普通の人間と考えるにはあまりにも異常な部分が多すぎる。外見では普通の人のように見えるのだが。…
スターリンは、カガノヴィッチに、常日頃実践している自分の精神的運動について説明した。
私は、誰かに別れの挨拶をする際に、この人が四つんばいになって、食べたものを吐いている図を想像する。用を足すために席を立つ人に愛着を感じることが時々ある。…私はこの人が大便をし、トイレの空気を吸い込み、おならをし、ものを吐く姿を想像する。でも、この人に同情はしない。彼がこの地上で悪臭を放つのを止めるのが早ければ早いほどよい。私はこの人を心の中から抹消する。
ウァームブランドによれば、「スターリンの楽しみの一つは、馬の目に緑色の眼鏡をつけて、干し草を緑の草に見間違えさせることであった」(Op., cit., p. 52.)という。彼は、それを人間にも行った。無神論というサングラスを人々の顔につけさせ、神の牧場を見せなかった。
カガノヴィッチは次のように述べた。
スターリンは、何度も宗教こそ我々の最大の敵である、と述べた。彼が宗教を嫌ったのには多くの理由があったし、私もその点では同感する。宗教は、ずるがしこくて危険な敵である…。
スターリンは、すべての信仰者に対する最良の刑罰は、彼らから子供を引き離すことである、とも述べた…。
私は、彼がひそかに占星術を行っていると考えている。彼の一面にはいつも驚かされた。スターリンは、神や宗教について語る時にいつも、いくらかでも尊敬の念を抱いているのではないか、と思わせる口ぶりになる。最初、自分の錯覚だと思った。しかし、だんだん、それが事実だと気づいた。この話題が出ると、彼はいつも自分の言葉に気を遣った。…はっきりとしたのは、神や宗教への対し方が非常に特殊だということだ。たとえば、彼の口から直に「神は存在しない」と聞いたことがない。…
スターリンの前で、人々は、自分自身の本当の姿を隠した。彼らはみなスターリンをほめたたえ、礼拝した。スターリンが国民を愛していたとは思わない。彼はそれを超えていた。奇妙に聞こえるかもしれないが、スターリンは、以前は神にのみ与えられていた地位に就いたということだ。
スターリンの協力者の多くが彼を悪魔的と評していることに注意すべきである。
ユーゴスラビアの共産主義指導者ミロヴァン・ジラスは、個人的にスターリンをよく知る人物であるが、次のように述べている。
スターリンの悪魔的な力とエネルギーは、「共産主義運動と、それに関わるすべての人々を混乱と麻痺に陥れ、その中で彼の恐怖統治を実現する」際に如実に現われる。…
(Milovan Djilas, Strange Times, “Kontinent,” 33, p. 25; cited in ibid., p. 54.)
また、ソ連の支配者階級について次のように述べた。
彼らは、未来の無階級社会において社会主義の理想が実現すると信じているふりをしているが、実際のところは、組織的権力以外の何物も信じていないのである。
(Ibid.)
スターリンの娘スヴェトラーナ・アリルイェヴァは、サタン崇拝についてまったく知識がないにもかかわらず、次のように述べた。
ベリア(ソ連内務大臣)と、私たちの家族全員との関係は悪魔的であると感じられるのです。…ベリアは、恐ろしい悪魔です。…恐ろしい悪魔が私の父の魂をさらったのです。
スヴェトラーナは、「スターリンは、善良と寛容は、最大の犯罪よりも悪いと考えていた」と述べた(Svetlana Alliluyeva, Twenty Letters to a Friend (London: Hutchinson, 1967), pp. 64ff; cited in ibid., p. 54.)。
スターリンは、マルクスやエンゲルス、バウアーと同様、かつてクリスチャンであった。
15歳の時に、最初の詩を書いた。その書き出しは、「大いなるかな。全能の神の御摂理。」であった。召命を感じたので、神学校に入学した(Paloczy Horvath, Stalin (Germany: Bertelmannsverlag); cited in ibid., p. 56.)。しかし、その後、ダーウィン主義に触れ、進化論者になり、ついでマルクス主義者になった。
彼が最初に自分につけた別名は、「デモノシヴィリ」(Abdurakhman Avtorkhanov, Criminals in Bolshevism (Frankfurt-am-Main: Possev Verlag, in Russian), Grani No. 89-90, pp. 324, 325; cited in p. 56.)であった。これは、グルジア語で「悪魔的」というような意味であった。次につけた別名「ベソシヴィリ」(Abdurakhman Avtorkhanov, The Provenience of Partocracy (Frankfurt-am-Main: Possev Verlag, 1973, in Russian), pp. 198-201; cited in p. 56)も、「サタン的」という意味であった。
この他にも、マルクス主義の指導者がサタン崇拝者であったことを示す証拠はいくつかある。
ソ連の元帥で赤軍の幹部の一人であり、後のスターリンに殺されたトゥカチェフスキーの娘トロイツカヤは、トゥカチェフスキーが、普通ロシア正教徒がイコンを置く寝室の東角に、サタンの絵を掛けていたと述べた。
アルゼンチンのテロリスト組織の指導者の一人は、自分に「サタノフスキー」というあだ名をつけた。
何人かの最もすぐれた知識人を共産主義者に導いた有名なフランス共産主義作家アナトール・フランスは、サタン崇拝の儀式を執り行った。儀式に使用した椅子の肘掛には角がついており、足には山羊の毛皮が巻かれていた(Express, Paris, October 6, 1979; cited in ibid., p. 56.)。
カール・マルクスの遺体は、イギリスのサタン崇拝者の中心地ハイゲート墓地に埋葬されており、そこでは、黒魔術の神秘的な儀式が執り行われている(Tempo. Italy, November 1, 1979; cited in ibid., p. 57.)。
ウリケ・マインホフ、エゼリン、その他のドイツ赤色テロリストたちも、オカルトに関わっている(H. Knaust, The Testament of Evil; cited in ibid., p. 57.)。
毛沢東は、「八歳の時、私は儒教が嫌いだった。私の村には儒教の寺院があった。私の願いは一つだった。それは、この寺院を土台から破壊することだった。」(Manfred Zach, Mao Tse-tung (Esslingen: Bechtle Verlag, 1969), p. 13; cited in ibid., p. 57.)と述べた。
八歳の子供が自分の宗教を破壊することしか望まない?明らかに異常である。
悪魔に憑依されると、自分の年齢をはるかに超えた思考をするようになる。まだ中学生だった神戸児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗が書いた次の詩は、明らかに憑依された人物の精神が本人の年齢と不釣合いであることを示している。
「人生において、最大の敵とは、自分自身なのである。」
魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、気をつけねばならない。
深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているのである。
「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。」
すでに引用した青年マルクスの詩と類似しているのがお分かりだろうか。
マルクシズムの起源 7
マルクス主義が成長した19世紀後半という時代は、フランス革命やカント・ヘーゲルによる思想革命が進行した18世紀後半から19世紀前半の結実である。
とくにカントによって、この世界は「人間だけで成立する自律的世界」であるということが理論化された。神は必要に応じて登場する刺身の妻のようなものになり、神と人間の地位が完全に逆転した。
彼らを危険視しないクリスチャンは、19世紀に生まれた彼の弟子たちがどのような人々であったかを見て欲しい。
マルクスが育った19世紀は、サタン主義が広がりを見せた時代だった。
ロシアの詩人サラグープは「私の父は悪魔である」と述べ、ブリウーノフは「私は主を賛美する。しかし、同時に悪魔も賛美する」と述べた。哲学者ニーチェは19世紀の人である。極端な無政府主義者マックス・スターナーも、最初の理論的同性愛解放論者オスカー・ワイルドも、19世紀の人だ。
ある意味で、マルクスやニーチェは時代の子である。
しかし、今日、興味本位でサタン的なものを見、聞き、読む人々が、次第にそれに影響され、ついには完全に憑依されて、様々な凶悪事件を起こすように、マルクスもニーチェも、サタン主義の影響を受け、サタンの道に踏み込んだ結果、その霊的子孫を通じて、20世紀にとてつもない破壊をやらかしたのだ。
ニーチェの霊的子孫ヒトラーとムッソリーニや、マルクスの霊的子孫レーニンやスターリン、毛沢東が行った巨大な破壊の跡を見て欲しい。
共産主義者による粛清の被害者の総数は全世界で1億人だと言われている(http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/kak2/1209301.htm)。
平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」は、共産主義の犯罪を厳しく検証しています。編者ステファン・クルトワによると、共産主義による犠牲者は、8,000万人から1億人にのぼるとされます。この数字は、ヒトラー・ナチズムによる犠牲者数とされる2,500万人を軽く上回ります。本書は、恵雅堂出版から今年中には翻訳が刊行される予定と聞きます。
クルトワは同書において、共産主義体制により殺害された犠牲者数の国・地域別の一覧を提示しています。それによると、
我々は、盲目であってはならない。
今後、このような犠牲を出さないためにも、共産主義運動を単なる政治的、社会的現象と見るのではなく、その霊的な起源をするどく見極めなければならない。
共産主義はロスチャイルド家がその刎頚の代理人ヤコブ・シフを使いある壮大な意図をもって創ったものである。
翻訳をしてくれた人もいました。
マルクシズムの起源 8
マルクスの友人であり、協力者であった、フリードリヒ・エンゲルスは、敬虔なクリスチャン家庭に育った。まだクリスチャン的な影響を持っていた彼が、最初にマルクスと会ったとき、彼の印象を次のように記している。
…トリア出身の黒い人、驚異の怪物。彼は歩きもせず、走りもしない。彼は、飛び跳ね、怒り狂う。あたかも、天蓋をつかんで、それを地上に投げ捨てんばかりだ。彼は腕を伸ばす。邪悪なこぶしをしっかり握りしめ、絶えず怒りののしる。まるで無数の悪魔が彼の髪をつかんでいるかのようだ。
(Franz Mehring, Karl Marx--Geschichte seines Lebens (Berlin: Dietz-Verlag, 1964), pp. 99, 100; cited in ibid., p. 36.)
エンゲルスは、自由主義神学者ブルーノ・バウアーの著書を読んでから、キリスト信仰を疑いはじめた。彼は心の中に大きな葛藤を覚えていた。
私は毎日、ほとんど一日中、真理を求めて祈っている。疑いを抱いてからずっとそのようにしているのだが、まだ信仰に戻ることができない。このように書いている間も私の目から涙が流れ落ちる。
(Ibid., p. 97; cited in ibid., p. 36.)
エンゲルスは、ついに信仰に帰ることはなかった。むしろ、かつて「無数の悪魔に髪をつかまれている怪物」と呼んだ人間の仲間となった。
エンゲルスから信仰を奪ったブルーノ・バウアーとは一体どのような人物なのだろう。
バウアーは、はじめ保守派の陣営にあり、聖書批評家と戦っていた。しかし、後になって、自分自身が聖書を批評するようになり、イエスは単なる人間に過ぎず、神の子ではない、と言い出した。彼は、マルクスとエンゲルスの共通の友人であるアーノルド・ルーゲに宛てた手紙(1841年12月6日付)の中でこう語った。
この大学で、私は、大勢の学生の前で講義をしている。教壇から冒涜の言葉を述べる時、私は自分ではなくなっている。冒涜の言葉があまりに激しいため、…学生達の髪の毛はずっと逆立ったままだ。冒涜の言葉を吐きながら、私は、自宅での自分の姿を思い浮かべている。聖書を弁護するために、敬虔な気持ちで文章を書いている姿を。とにかく、教壇に上るたびに、私は悪魔に憑依されるのだ。私はとても弱い。どうしても悪魔に負けてしまう。…教授として、権威を帯びて公然と無神論を講義しない限り、私のうちにある冒涜の霊は満足しないのだ。
(Bruno Bauer, letter of December 6, 1841 to Arnold Ruge, MEGA, I, 1 (2), p. 263; cited in ibid., p. 37.)
マルクスと同様、エンゲルスに共産主義者になるように説得したのは、モーゼズ・ヘスであった。コロニュでエンゲルスと会った後で、彼は次のように述べた。
私と別れる時に、彼は熱心な共産主義者に変わっていた。これが、私の破壊のやり方だ…。
(A Melskii, Evangelist Nenavisti (Berlin: Za Pravdu Publishing House, 1933, in Russian), p. 48; cited in ibid., p. 37.)
クリスチャンの信仰を破壊することが、ヘスの人生における最高の目的なのか?なんと悪魔的なのだろう。
若い頃、エンゲルスは、次のような詩を書いた。
神のひとり子なる主イエス・キリスト、
ああ、天の御座から降りてきて
私の魂を救ってください。
まったき幸いのうちに、
御父の聖き光のうちに、降りてきてください。
私があなたを信じ受け入れることができるように。
なんと心地よく、栄光に満ち、幸いなのだろう、
救い主なるあなたをほめたたえる時に得られる喜びは。
私が最期の息を引き取る時、
死の苦しみを耐えなければならない時、
私があなたに固くつながっていられますように。
私の目が暗闇に覆われ、
私の心臓が鼓動を止め、
あなたにあって、私の体が冷たくなっていく時に、
私の霊が天において、
あなたのうちに安らかなあなたの御名を
永遠にほめたたえることができますように。
ああ、喜びの時がすぐに来ればよいのに。
あなたの愛の御胸から、
躍動する新しいいのちを引き出すことのできるその時が。
その時、ああ神よ、私は、あなたに感謝しつつ
愛する人々をこの腕の中で永遠に抱きしめることでしょう。
永遠に生きておられる主のために、
私の命は新たにされるでしょう。
主は人間を死と罪から解放し、
全地に祝福と幸いをもたらすために来られる。
その時、あなたの新しい子孫はみな、
地上においてまったく新しくされるでしょう。
あなたは各々に御自身の分け前をお与えになるでしょう。
(Friedrich Engels, letter of July 1839 to the Graber brothers, p. 531; cited in ibid., p. 39.)
ブルーノ・バウアーによって疑いを植え付けられた後で、エンゲルスは、何人かの友人に手紙を書いた。
聖書には、「求めなさい。そうすれば与えられます」と書かれている。真理のひとかけらでも見つけることができそうな時は、私は必ずそれを捜し求める。しかし、私はあなたがたが説いている真理が永遠のものであると考えられないのだ。しかし、「探しなさい。そうすれば、見つかります。自分の子供がパンを求めている時に、石を与える親がいるだろうか。まして、天におられるあなたがたの御父があなたがたによくしてくださらないことがあるだろうか」ともある。
このように書いている間にも、私の目には涙がこみ上げてくる。私の心は[疑いによって]すっかり揺り動かされてしまった。しかし、自分が失われるとは思わない。私は、私の魂が慕い求める神のもとに帰るだろう。このことも、聖霊の証である。その証によって、私は生き、また死ぬ。…御霊は、私が神の子供であることを証言している。
(Ibid., Friedrich Engels, letter of July 1839 to the Graber brothers, p. 531; cited in ibid., p. 39.)
エンゲルスは、サタニズムの危険性を十分に認識していた。『シェリングと黙示録』の中でこう述べた。
恐るべきフランス革命以来、まったく新しい悪霊が人類の中に入り、不信仰が非常に大胆かつ巧妙に侵入している。そのため、私は、現在、聖書の預言が成就しつつあると思うのだ。まず、終わりの時の背教について聖書がどのように述べているか見てみよう。主イエスは、マタイ24章11-13節において次のように言われた。「また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」そして、24節で、「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」と言われた。また、聖パウロは第2テサロニケ2章3節において「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。…[不法の人の到来は、]サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」と述べた。
さらに、
我々は、主に対して無関心や冷淡であってはならない。絶対に。これは公然たる敵意である。今や、あらゆる教派や党派の中に見られるのは、「クリスチャン」か「反キリスト」のいずれかだ。…我々の周りには、にせ預言者がいる。…彼らはドイツ中を旅し、いたるところに忍び込もうとしている。彼らは、市場においてサタンの教えを伝え、サタンの旗をかかげて町から町へと移動し、哀れな若者をたぶらかし、彼らを地獄と死の深淵の中に放り込もうとしている。
そして、この本を黙示録の言葉で締めくくっている。
見よ。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。アーメン。
(Friedrich Engels, Schelling und die Offenbarung, MEGA, pp. 247-249; cited in ibid., p. 40.)
このようにサタニズムの危険について警告を発し、敬虔な詩を書き、涙ながらに自分の救いについて祈ったクリスチャンが、マルクスの親友となり、世界において一億人を粛清・虐殺する運動の指導者になったとは、なんという悲劇だろう!
我々から信仰を奪い、悪業に引き込むきっかけを作るのは、聖書に対する疑いである。サタンの方法は、エデンの園以来、変わらないのである。
マルクシズムの起源 9
レーニンの親友にして協同者トロツキーによれば、レーニンは16歳の時、自分の首にかかっている十字架をひきちぎり、それを地面に投げ捨て、その上に唾をかけ、足で踏みつけたという。これは、どのサタン礼拝においても行われる典型的な儀式である。
彼がサタニズムに影響されていたことは、1913年11月13-14日にマクシム・ゴーリキーに宛てた手紙から明らかである。
無数の罪、悲劇、抑圧、肉体的伝染病は簡単に目につくので、霊である神に関する考えよりも安全である。…
(V. Illitch Lenin, Complete Works (Moscow: Politica literature Publishing House, 1964, in Russian), Vol. 48, pp. 226, 227; cited in ibid., p. 49.)
さらに、
無神論は、マルクス主義の一部である。マルクス主義は唯物論である。我々は宗教と戦わねばならない。これは、すべての唯物論のABCであり、それゆえ、マルクス主義のABCでもある。
(Quoted in Wurmbrand, op. cit., p. 59.)
レーニンが唱えた戦略が、サタンの無律法主義から出ていることは明らかである。
「我々は、姦計、妙計、トリック、詐欺、非合法な方法、真理の隠蔽、秘匿など何でも利用せねばならない。大切なのは、[方法の合法性ではなく、]資本主義国同士が互いに争い取ろうとしている利権の奪取である。」
(Quoted in Wurmbrand, op. cit., p. 59.)
共産主義者は、体制の崩壊と社会主義国の建設という大義のためならば、方法を選ばない。詐欺であろうが、殺人であろうが、目的を達成するためならば、何でもやる。
マルクスは次のように述べた。
共産主義者は、自分の意見や計画を隠さない。彼らは公然と「我々の目的は、既存の社会構造の全体を暴力的に転覆させることを通してのみ達成される」と主張する。
さらに、
旧体制の死に伴う激しい痛みと、新しい体制の誕生に伴う激痛の時を短くするには、方法は一つしかない。革命的テロリズムだけが、これらの苦しみを単純化し、集中化する唯一の方法である。
(MEW, V, p. 457 cited in ibid., p. 58.)
サタンに従うあらゆる者が、最後にサタンに裏切られるように、レーニンも、自分がはじめたロシア革命によって裏切られた。
我々が期待するとおりに国は機能していない。…人間が運転席に座って動かしているように見えるのだが、クルマは彼の期待する方向に動かない。何か別の力が動かしているのだ。
サタンは究極のエゴイストであり、常に自分のことにしか関心がない。そのため、サタンに力を借りて成功をはかる人間は、ある時点で、自分がサタンに利用されていることに気づく。しかし、気づいた時には、「時すでに遅し」である。サタンは、自分を思いのままに動かし、引きずりまわしはじめる。そして、自分がはじめた事業そのものが自分の首を絞めるようになる。
サタンに従う人間の結末は絶望である。
レーニンは1921年の手紙の中で次のように述べた。
我々は、臭いロープを首に巻きつけられて処刑されればよいのだ。私はずっとこの希望を失わなかった。というのも、我々は汚らわしい官僚制度を非難できていないからだ。…
(V. Illitch Lenin, ibid., Vol. 54, pp. 86, 87; cited in ibid., p. 49.)
臭いロープを首に巻きつけられて絞首刑にされること…。これが、共産主義の国家を作るために、一生を捧げた人物の最後の希望だった。レーニン自身の上にこの希望は実現しなかったが、彼の同労者の上に成就した。すでに述べたように、1917年の革命時にソビエト共産主義者中央委員会の29人のメンバー及び候補者だった者のうち、他人から命を奪われずに済んだ者は4人しかいない。
奇妙なことに、レーニンは13歳の時に、自分の人生の結末を予期する詩を書いている。
おまえは、他者のために人生を捧げるが
哀れなことに、悲しい運命がおまえを待ち受けている
おまえの犠牲は、結局、いかなる実も結ばないだろう
(”Budilnik,” Russia, No. 48, of 1883. Quoted in The New Review, New York: 140/1980, p. 276 cited ibid., p.50.)
この予言のとおり、彼は、死の床において次のように述べた。
私は、大きな間違いを犯した。私は、無数の犠牲者から流れ出る血の海の中で茫然自失している。これは、悪夢だ。今更戻るには遅すぎる。われらが祖国ロシアを救うには、アッシジのフランシスのような人間が必要だったのだ。このような人間が十人いれば、我々はロシアを救うことができただろう。
(Quoted in Wurmbrand, op. cit., p. 59)
他者のために、祖国ロシアのために、人生を捧げたはずだった。
しかし、現実に得られたのは、革命によって粛清された無数の人々の血の海と、累々と積み上げられた犠牲者の死体だけだった。
レーニンの失敗の原因は、ただ一つ、味方につけた者が間違っていたということである。
裏切り者サタンの側に立ち、神の側に立たなかった。
それに対して神の側についたパウロの言葉を見てみよう。
「私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテ4・6-8)
サタニストは、究極の愚か者である。
仮に遊びのつもりであっても、サタンから力を借りてはならない。
マルクシズムの起源 10
マルクスは、革命の起源はサタンだと述べた。
中産階級や貴族…を迷わせる標識の中に、我々の勇敢な友ロビン・グッドフェローの姿を認めることができる。彼は、革命の先駆者として、地中において非常にすばやく活動できる、年老いたモグラである。(Karl Marx, Short speech for the 4th birthday of the newspaper chartist: "People's Paper" 1856.)
ロビン・グッドフェローとは、16世紀の伝道者ウィリアム・ティンデイルが悪魔を指すために使用した名前である。シェークスピアは、『真夏の夜の夢』において彼を「夜歩く人々を迷わせる悪霊」と呼んだ。
マルクスによれば、彼は「革命のために活動する」「勇敢な友」である。
さらに、共産主義とサタン崇拝との関係を示すのは、「ペルガモの祭壇」である。
世界的に有名なベデカー旅行ガイド書によれば、ベルリン市の博物館(Museuminsel)には、1944年までゼウスを祭ったペルガモの祭壇があったという。ドイツの考古学者がそれを発掘し、ヒトラーの時代、ドイツの首都の中心部に置かれていた。
黙示録2章12-3節によれば、当時、ペルガモはサタン礼拝の中心地だった。
また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。…」
スウェーデンの新聞Svenska Dagbladet(Stockholm)1948年1月27日号によれば、ペルガモの祭壇は、
(1)ベルリン占拠後、ソビエト軍がドイツからモスクワに運んだ。この祭壇の寸法は縦127フィート[約38メートル]、横120フィート[37メートル]であった。
(2)レーニン廟を設計したシチューセフは、この祭壇をモデルにした。
(Quoted in Wurmbrand, op., cit., p. 111.)
モスクワに運んだ後、ソビエトのどの博物館においても展示されていない。では、なぜソ連政府は、ペルガモの祭壇をモスクワに運び入れたのか?
ウァームブランドは、「ソビエトの最高幹部たちは、サタン崇拝をしている」と述べ、その目的のために利用された可能性もある、と述べた(Wurmbrand, op., cit., p. 111.)。
参考:ペルガモの祭壇と世界大戦とソビエト連邦
ペルガモの祭壇と世界大戦とソビエト連邦
「マルクシズムの起源 10 」の記事の中でペルガモの祭壇について
「ベルリン占拠後、ソビエト軍がドイツからモスクワに運んだ。この祭壇の寸法は縦127フィート[約38メートル]、横120フィート[37メートル]であった。」
と書かれてありますが、他の資料で調べてみましたが、このことを確認できませんでした。
ペルガモンの祭壇は現在もドイツのベルリン市のペルガモン博物館に保管されていると思います。
スウェーデンの新聞がどれほどのクウォリティーの新聞か私は確認できないのですが、ドイツからモスクワにペルガモの祭壇がWWII後に運ばれたというのは事実なのでしょうか?
お忙しいところ申し訳ありませんが、ご返答いただけるとたいへん喜びます。
プリンストン大学S. M. Bilsel氏の "Zeus in Exile: Archeological Restitution as Politics of Memory," Center for Arts and Cultural Policy Studies, Princeton University, 2000. )によると、
「1948年に、連合軍の爆撃から免れたゼウスの祭壇[ペルガモの祭壇]のフリーズは、ソヴェト軍によって没収され、ドイツの戦争賠償金の代わりとしてレニングラードに移された。それが東ベルリンの博物館に、ソヴェトからドイツ民主主義共和国の市民に対する贈り物として戻されたのは、やっと1958年の後半になってからのことだった。」
http://www.princeton.edu/culturalpolicy/workpap/WP13%20-%20Bilsel.pdf
とあります。
現在、ペルガモの祭壇は、おっしゃるとおりベルリンのペルガモ博物館にありますが、その一部が一時的にソヴェトに移されていたのでしょう。
http://www.smb.spk-berlin.de/charts/pergamon.html
ちなみに、この祭壇は、黙示録においてイエスが「サタンの王座」と名指しされたものと思われます。
「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」』」(黙示録2・12-13)
この祭壇と現代史の関係は大変興味深いものです。
ドイツの考古学者カール・ヒューマンによって1878年9月9日に発掘が開始されたこの祭壇は、ドイツに持ち帰られ、そこで再建された。ウィルヘルム2世がこの再建を記念して1902年にベルリンで祝典を開いた。
1899年から1917年にかけて、ドイツの考古学者たちは古代バビロンの遺跡も発掘し、イシュタルの門をベルリンに持ち帰った。ドイツを中心として、1914年に第一次世界大戦が開始した。
ウラジミール・レーニンが1924年に没すると、ソヴェトは、1929年10月11日に彼を赤の広場にある『レーニン廟』に葬った。『レーニン廟』の設計者アレクセイ・ヴィクトロヴィッチ・シチューセフがモデルとしたのは、ペルガモのゼウスの祭壇であった。
G・マルチェンコの著書『カール・マルクス?』には、「レーニン廟を建てた建築家シチューセフは、設計のモデルとしてペルガモの祭壇を選んだ。シチューセフは、当時、考古学に関する著者として有名だったF・パウリセンから必要な情報をすべて得ていた。」とある。
1933年にヒトラーがワイマールの首相に選ばれ、翌年独裁者となり、12月13日に行われるナチ党集会のために、ニュルンベルクのツェッペリン広場に舞台を作るように命令した。
設計者アルバート・シュペーアがこの舞台のモデルに選んだのは、ペルガモの祭壇であった。
「ニュルンベルクで開かれるナチ集会のためにヒトラーが用意したスタジアムは、古代ギリシアのペルガモの祭壇から直接影響を受けていた。」(http://www.discovery.mala.bc.ca/web/pattonkd/neo.htm)
ニュルンベルクスタジアムとペルガモの祭壇を比べて見ると、影響は明らかである。
http://www.path.ne.jp/~robcorp/QAE/pergam.jpg
総統の演壇はこの舞台の中央にあり、それは、1934年から37年まで存在した。ヒトラーは1939年に第2次世界大戦の引き金を引いた。
既に述べたように、ソヴェトは祭壇を戦利品としてレニングラードに運び、1958年に戻した。
ペルガモの祭壇は「ソビエトの代理人ヘンリー・キッシンジャー参照」
イエスがサタンの王座と呼んだ祭壇の再建と、2つの世界大戦、そして、無神論国家ソヴェトの勃興とまったく何の関係もないのでしょうか。
マルクシズムの起源シリーズについて
今から10年前に『マルクスとサタン』というR・ウァームブランドの著書を読み、マルクス主義がサタンの運動であることを知って、いつかこれを日本の読者に紹介したいという思いがありました。
今回の一連の文章は、共産主義ルーマニアでクリスチャンのゆえに逮捕・拷問を受けて奇跡的に出国した彼の考察に負うところが多かったのです。私はただ紹介させていただいただけでございます。
ウァームブランドは、著名なルーマニア人伝道者イリエ・コロアマ氏と親友であり、彼らは2人とも、日本古代にユダヤ人が来て、日本文化の基礎を作ったと考えているという点も興味深いです。
神が人々の前でマルクス主義の正体を暴いてくださり、この世界にはサタンが実在し、我々を地獄に落とすために活動しているということを読者に示してくださることを、希望します。(記事は大学の後輩富井牧師のミレニアムより)