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京都空襲-その1

 「戦時中、京都には空襲がなかった」という、一種都市伝説のようなものがあるが、実際には爆弾・焼夷弾・機
 
銃掃射という空襲を何度もうけている。
 
 京都空襲というものがはじめて表面に出たのが、1972(昭和47)年7月2日に立本寺で行われた「京都空襲犠牲
 
者追悼市民集会」(主催:京都宗教者平和協議会)においてであった。
 
 この集会をきっかけとして、京都空襲の実態を明らかにしようという運動が起こり、「京都空襲を記録する会」が
 
結成される。
 
 「記録する会」は京都府各地での調査を行い、体験者の証言や数多くの写真などを集めた。そのときの調査記
 
録は現在でも京都府立総合資料館に保存されている(申請すれば誰でも閲覧できます)。内容は、原稿に手書き
 
というもので、資料として写真が添付されている。構成は全九巻で以下のようになっている。
 
「第一巻 舞鶴市の空襲記録」
 
「第二巻 舞鶴市の空襲記録」
 
「第三巻 宮津市の空襲記録」
 
「第四巻 中郡大宮町の空襲記録」
 
「第五巻 船井郡園部町榎の空襲記録」
 
「第六巻 京都市東山区馬町の空襲記録」
 
「第七巻 京都市上京区出水の空襲記録」
 
「第八巻 京都市右京区の空襲記録」
 
「第九巻 京都府下山城地方の空襲記録」
 
 その後、上記の調査記録を編集し出版されたのが、京都空襲を記録する会編『かくされていた空襲  京都空
 
襲の体験と記録』(汐文社 1974年)である。
 
 そして、この著書により京都空襲の実態が一般に知られるようになってきた。
 
 その後も調査は続けられ、多くのことが新たにわかってきたが、その反面、被害者数や被害家屋数などの数に
 
ついては、残されている資料によりまちまちであり、正確な数字はわかっていない。現在京都空襲関連の著書に
 
掲載されている数字も著書によりばらつきがある。つまり、およその概数しかわかっていないのが現状である。
 
 京都空襲は、大阪や東京などの他の都市のような大空襲というものではない。京都空襲が小空襲だったこと
 
により、京都空襲があまり世間に知られることなく、「京都には空襲がなかった」や「日本文化を研究したウォーナ
 
ー博士が文化財を守るために空襲しないでほしいとアメリカ政府に提言した」というような都市伝説を生むことと
 
なった。
 
 しかし、その後の調査で、京都は原爆投下の第一候補地に指名されていたことにより小空襲となったことがわ
 
かったのである。
 
 
「京都空襲犠牲者追悼市民集会」(主催:京都宗教者平和協議会)を伝える新聞記事(「京都新聞」 1972年7月3日)
 
 
 
 
下記の空襲一覧表と地図による空襲一覧表とでは被災数が少し違う。理由は上記文参照のこと。
 
 
 
 
語りつぐ京都の戦争出版委員会『語りつぐ京都の戦争 空襲・疎開・動員と子どもたち』(1982年9月) 巻末資料より
 

 
京都の空襲についてもっと知ろう。
 
 
京都空襲 (語り伝える京都の戦争)
久津間 保治
かもがわ出版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
写真が語る日本空襲
クリエーター情報なし
現代史料出版
 
 
 
 
 
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