ところで、私はもはや、ブルキナファソの大使ではない。今年から、ワガドゥグに日本大使館が新設された。そして、初代の特命全権大使として、杉浦勉大使が5月に発令になり、6月に着任された。私は、ブルキナファソ大使の兼任を解かれた。
杉浦大使は、外交官出身ではない。丸紅出身という、大使の中では異色の経歴である。商社マンとして、海外経験は長く、世界情勢への知識は深い。それだけではなくて、文化という専門を持っておられる。学生時代から、フィンランド語に取り組んで、フィンランド文学や美術を研究した。商社に入ってからも、文化・美術関係の取引や事業を手掛けてきた。芸術分野には、長くかかわって造詣が深い。そうした経歴から、パリ日仏文化会館の設立に従事して、開館後には事業部長として日仏文化関係の仕事に直接かかわった、文化交流の専門家である。「文化力」が組織の武器になる、という考え方を提唱しておられる。
ブルキナファソの着任後まだ間がないのに、さっそく国際交流基金の力を得て、ワガドゥグで日本の陶芸作家展を行う段取りだ、という話だから、私はすでに先を越されている。コートジボワールでも、いつか本格的な日本文化展を開催したいものである。そのやり方や材料について、これからは杉浦大使にお願いして、お知恵拝借することが出来そうだ。今回、ワガドゥグに出張して、杉浦大使とさっそくそういうお話をした。
さて、話は「評価支援委員会」に戻る。会議の合間のコーヒーブレイクに、ブルキナファソのコンパオレ大統領と歓談する機会があった。私は大統領に伝える。
「嬉しいような悲しいような気持ちです。杉浦大使が着任して、ブルキナファソと日本の交流は、たいへん堅固な基礎を得て、喜ばしいことです。でも、私としては、ブルキナファソの仕事を譲らなくてはならなかったので、さびしい思いをしています。」
コンパオレ大統領は、私に答えて言う。
「日本大使館ができ、杉浦大使が来られて、私も大変心強いです。大統領として、とても喜んでいます。」
そして笑みを浮かべながら続けて、
「いやそれで、大使は2人いてもいいのですよ。今後も引き続き、貴方からも、ブルキナファソのことを応援してください。」
それはもちろん、喜んで応援します、と応える。それで、私がブルキナファソ大使だった半年あまりの間にも、日本から青年海外協力隊員として来ている人たちの活動を、間近に見る機会があった、皆さんブルキナファソの人々に良くしてもらって、おおいに活躍している、という話をする。
大統領は、そうそうそのとおり、という顔をして傍らのフランス大使に言う。
「大勢の若者たちが、日本からボランティアで来てくれていてね、地方で村々で、いい仕事をしてくれているのですよ。」
コンパオレ大統領は、日本からの協力隊員を全員、大統領府に招待して、パーティーを開いてくれたことがあるほど、青年海外協力隊の活動に理解がある。
私は答えて、説明する。
「そう、日本大使は、この国には2人どころか、たくさん居るようなものですよ。侮れないのは、彼ら協力隊員の発信力です。今やインターネットの時代で、ブルキナファソの村々の現地から、彼らがブログやホームページを通じて、日々の生活や交流の様子などを、直接日本の大勢の人々に向けて発信しています。」
グーグルなどで、「ブルキナファソ」と入れて検索すれば、そういうブログなどが沢山出てくる。協力隊員やNGO活動で現地入りしている若者たちは、今や一人一人が現地特派員である。
「ははあ、たくさんの大使ですか。」
コンパオレ大統領は、この話に感心している。青年海外協力隊の隊員たちが、福祉や開発の行政を手助けしているだけではなく、ブルキナファソの宣伝に大きな役割を果たしている、という視点は、ちょっと新鮮だったようだ。協力隊員たちを、いっそう大切にしてくれることと思う。ブルキナファソでは、たくさんの協力隊員大使に、「文化力」大使を迎えて、相互交流の架け橋には万全の構えである。
杉浦大使は、外交官出身ではない。丸紅出身という、大使の中では異色の経歴である。商社マンとして、海外経験は長く、世界情勢への知識は深い。それだけではなくて、文化という専門を持っておられる。学生時代から、フィンランド語に取り組んで、フィンランド文学や美術を研究した。商社に入ってからも、文化・美術関係の取引や事業を手掛けてきた。芸術分野には、長くかかわって造詣が深い。そうした経歴から、パリ日仏文化会館の設立に従事して、開館後には事業部長として日仏文化関係の仕事に直接かかわった、文化交流の専門家である。「文化力」が組織の武器になる、という考え方を提唱しておられる。
ブルキナファソの着任後まだ間がないのに、さっそく国際交流基金の力を得て、ワガドゥグで日本の陶芸作家展を行う段取りだ、という話だから、私はすでに先を越されている。コートジボワールでも、いつか本格的な日本文化展を開催したいものである。そのやり方や材料について、これからは杉浦大使にお願いして、お知恵拝借することが出来そうだ。今回、ワガドゥグに出張して、杉浦大使とさっそくそういうお話をした。
さて、話は「評価支援委員会」に戻る。会議の合間のコーヒーブレイクに、ブルキナファソのコンパオレ大統領と歓談する機会があった。私は大統領に伝える。
「嬉しいような悲しいような気持ちです。杉浦大使が着任して、ブルキナファソと日本の交流は、たいへん堅固な基礎を得て、喜ばしいことです。でも、私としては、ブルキナファソの仕事を譲らなくてはならなかったので、さびしい思いをしています。」
コンパオレ大統領は、私に答えて言う。
「日本大使館ができ、杉浦大使が来られて、私も大変心強いです。大統領として、とても喜んでいます。」
そして笑みを浮かべながら続けて、
「いやそれで、大使は2人いてもいいのですよ。今後も引き続き、貴方からも、ブルキナファソのことを応援してください。」
それはもちろん、喜んで応援します、と応える。それで、私がブルキナファソ大使だった半年あまりの間にも、日本から青年海外協力隊員として来ている人たちの活動を、間近に見る機会があった、皆さんブルキナファソの人々に良くしてもらって、おおいに活躍している、という話をする。
大統領は、そうそうそのとおり、という顔をして傍らのフランス大使に言う。
「大勢の若者たちが、日本からボランティアで来てくれていてね、地方で村々で、いい仕事をしてくれているのですよ。」
コンパオレ大統領は、日本からの協力隊員を全員、大統領府に招待して、パーティーを開いてくれたことがあるほど、青年海外協力隊の活動に理解がある。
私は答えて、説明する。
「そう、日本大使は、この国には2人どころか、たくさん居るようなものですよ。侮れないのは、彼ら協力隊員の発信力です。今やインターネットの時代で、ブルキナファソの村々の現地から、彼らがブログやホームページを通じて、日々の生活や交流の様子などを、直接日本の大勢の人々に向けて発信しています。」
グーグルなどで、「ブルキナファソ」と入れて検索すれば、そういうブログなどが沢山出てくる。協力隊員やNGO活動で現地入りしている若者たちは、今や一人一人が現地特派員である。
「ははあ、たくさんの大使ですか。」
コンパオレ大統領は、この話に感心している。青年海外協力隊の隊員たちが、福祉や開発の行政を手助けしているだけではなく、ブルキナファソの宣伝に大きな役割を果たしている、という視点は、ちょっと新鮮だったようだ。協力隊員たちを、いっそう大切にしてくれることと思う。ブルキナファソでは、たくさんの協力隊員大使に、「文化力」大使を迎えて、相互交流の架け橋には万全の構えである。
F寺中学校(テニス部)、O教育大学附属高校(地歴部)で2年後輩だったUCHIDAです。
Herald Tribuneなどで勉強することもありますが、恥ずかしながらアフリカのことなどほとんど知らない一般的日本人です。
ブルキナファソという国名も初めて知りました。遠いアフリカにゼンブンさんがおられることも昨日(同窓会で)初めて知りましたが、そのアフリカで、現地の人のために働いておられる若い日本の人がいるということ、誇りに思います。
これを機会にアフリカ大陸のことにもっと関心もたないとあかんなあ、と思います。