ある都市や町村に住む人々が、どれだけ健全な市民意識を持っているか。私の考えでは、それはゴミを見れば分かる。どんな小さな貧しい村でも、人々に活力のある村には、ゴミが無い。一方、街路の方々にゴミが散らかっていても平気なところもある。いや、平気ということは無かろう。見た目が悪いだけでなく、悪臭が立つから、不快なこと甚だしい。それでも、何とかしようという気持ちが起こらない町村というのは、結局人々が疲弊しているのである。
もちろんゴミ問題は、まずは清掃公社といった公共サービスの整備の問題ではある。たとえば、一部の国の特殊な例を除いて、欧州諸国では、ゴミが散らかってうんざりするような都市はみあたらない。それでは途上国などで、公共サービスを整備するような余裕のとてもない場合には、常にゴミだらけになるか、というとそうではない。そんな貧しい地域でも、ゴミのない町や村がある。肝心なのは、住民の意識である。
1999年、コソボでの話だ。NATOの爆撃により、ミロシェビッチがコソボから撤退した。その後、国連に暫定統治を委ねられ、私も国連の一員として、コソボの行政に携わった。電気も無い、水も無い、家々は屋根も窓も失い、人心は荒れ、教育・医療も制度が破壊されている、そういうひどい状態であった。数々の問題の中で、緊急の対処を迫られたのは、意外にもゴミ問題であった。人間は、どんなひどい生活をしていても、ゴミだけは出す。ところが、ミロシェビッチは、撤退とともにゴミ収集車から清掃公社の運営体制から、一切をセルビアに持っていってしまっていた。ゴミ収集が全く出来なくなっていたのである。
国連が5月に暫定統治を始めて、日数を経るにつれ、町の角々にゴミが山のように積もっていった。私が仕事を始めたのは8月、すでに街角をゴミが堆く占拠していた。そして悪臭だけでなく、煙を吐き出していた。ゴミは積もると腐敗熱で自然発火して、街路が曇って見えなくなるほどの煙を出すことを、初めて知った。コソボ平和維持軍(KFOR)のトラックを使って、何とかゴミの山だけは回収したが、広場や路上に散らかったゴミは、如何ともし難かった。市民総出で片付ければいいじゃないか。ところが、社会主義の長い支配に毒されていた人々は、何もしようとしない。ゴミ集めなど、国がやるべき仕事である、というのだ。路上のゴミは、人々の更なるゴミを誘った。首都プリスティーナは、ゴミに覆われた町となった。
ソニアは、米国人の国連職員。私の執務室の近くの部屋で、秘書をしていた。ある日曜日の朝、数本のほうきと塵取りを持って、自宅のすぐ近くの公園に行った。そして独りで掃除を始めた。コソボの人懐こい子供たちが集まってきた。ソニアはほうきを渡して、掃除を教えた。ソニアと子供たちの、小さな部隊が出来た。部隊が掃除を続けると、女性たちがやって来た。青年たちもやってきた。自分たちにもやらせて欲しい。ほうきを渡す。皆で掃除をすると、午前中だけで公園はすぐに綺麗になった。来週も集まろう、と言うことになった。
ソニアの掃除は、日曜ごとに公園から街路へ、街路から広場へ、と毎週続いた。週を重ねるにつれて、だんだん参加者が膨らんでいった。ソニアとは独立して、掃除を始める人たちも出てきた。ソニアは、国連の小額の支援金を得て、何十本もほうきを買い、何十個もちりとりを揃え、ゴミ袋を持っては市内の各地区を回った。各地区を掃除しては、そこに掃除用具を置いていった。
ソニアは言う。
「どこに行っても、子供と女性が、一番先にほうきを取ってくれるのよ。日ごろ悪さばかりすると思われている青少年たちも、進んで参加してくれる。大人の男たちは駄目ね、いつまでも横目で見ている。一番強いはずの男たちが、恥ずかしそうにしていて、一番弱々しく見える。でも、最後には必ず手伝いに来てくれるのよ。」
ソニアたちが一度綺麗にした場所は、もうゴミが散らからなくなった。その後も、住民が曜日を決めて掃除をしているようだった。皆が、自主的にゴミを拾うようになった。
お説教もパンフレット配りも、何もしなかった。ソニアは、ただ、町へ出てほうきを取った。それだけのことで、プリスティーナの町はすっかり綺麗になった。
もちろんゴミ問題は、まずは清掃公社といった公共サービスの整備の問題ではある。たとえば、一部の国の特殊な例を除いて、欧州諸国では、ゴミが散らかってうんざりするような都市はみあたらない。それでは途上国などで、公共サービスを整備するような余裕のとてもない場合には、常にゴミだらけになるか、というとそうではない。そんな貧しい地域でも、ゴミのない町や村がある。肝心なのは、住民の意識である。
1999年、コソボでの話だ。NATOの爆撃により、ミロシェビッチがコソボから撤退した。その後、国連に暫定統治を委ねられ、私も国連の一員として、コソボの行政に携わった。電気も無い、水も無い、家々は屋根も窓も失い、人心は荒れ、教育・医療も制度が破壊されている、そういうひどい状態であった。数々の問題の中で、緊急の対処を迫られたのは、意外にもゴミ問題であった。人間は、どんなひどい生活をしていても、ゴミだけは出す。ところが、ミロシェビッチは、撤退とともにゴミ収集車から清掃公社の運営体制から、一切をセルビアに持っていってしまっていた。ゴミ収集が全く出来なくなっていたのである。
国連が5月に暫定統治を始めて、日数を経るにつれ、町の角々にゴミが山のように積もっていった。私が仕事を始めたのは8月、すでに街角をゴミが堆く占拠していた。そして悪臭だけでなく、煙を吐き出していた。ゴミは積もると腐敗熱で自然発火して、街路が曇って見えなくなるほどの煙を出すことを、初めて知った。コソボ平和維持軍(KFOR)のトラックを使って、何とかゴミの山だけは回収したが、広場や路上に散らかったゴミは、如何ともし難かった。市民総出で片付ければいいじゃないか。ところが、社会主義の長い支配に毒されていた人々は、何もしようとしない。ゴミ集めなど、国がやるべき仕事である、というのだ。路上のゴミは、人々の更なるゴミを誘った。首都プリスティーナは、ゴミに覆われた町となった。
ソニアは、米国人の国連職員。私の執務室の近くの部屋で、秘書をしていた。ある日曜日の朝、数本のほうきと塵取りを持って、自宅のすぐ近くの公園に行った。そして独りで掃除を始めた。コソボの人懐こい子供たちが集まってきた。ソニアはほうきを渡して、掃除を教えた。ソニアと子供たちの、小さな部隊が出来た。部隊が掃除を続けると、女性たちがやって来た。青年たちもやってきた。自分たちにもやらせて欲しい。ほうきを渡す。皆で掃除をすると、午前中だけで公園はすぐに綺麗になった。来週も集まろう、と言うことになった。
ソニアの掃除は、日曜ごとに公園から街路へ、街路から広場へ、と毎週続いた。週を重ねるにつれて、だんだん参加者が膨らんでいった。ソニアとは独立して、掃除を始める人たちも出てきた。ソニアは、国連の小額の支援金を得て、何十本もほうきを買い、何十個もちりとりを揃え、ゴミ袋を持っては市内の各地区を回った。各地区を掃除しては、そこに掃除用具を置いていった。
ソニアは言う。
「どこに行っても、子供と女性が、一番先にほうきを取ってくれるのよ。日ごろ悪さばかりすると思われている青少年たちも、進んで参加してくれる。大人の男たちは駄目ね、いつまでも横目で見ている。一番強いはずの男たちが、恥ずかしそうにしていて、一番弱々しく見える。でも、最後には必ず手伝いに来てくれるのよ。」
ソニアたちが一度綺麗にした場所は、もうゴミが散らからなくなった。その後も、住民が曜日を決めて掃除をしているようだった。皆が、自主的にゴミを拾うようになった。
お説教もパンフレット配りも、何もしなかった。ソニアは、ただ、町へ出てほうきを取った。それだけのことで、プリスティーナの町はすっかり綺麗になった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます