謁見というから、仰々しい儀式を想定していたら、とても簡便なものであった。土地の水を勧められて、私たちがその水を飲んでから、やりとりが始まる。といっても、私は何も頭を使わなくていい。私を招待してこのアニビレクロまで連れて来てくれたナナン・ドド氏が、私の代弁者となって、私の訪問の趣旨を説明し、挨拶を述べてくれるからだ。王様側も同じで、王様の代弁者が歓迎の辞を述べる。私と王様は、にこにこしながら、時々相槌をうっておればよい。こちらでは、偉い人は自分では話さない、という決まりなのだ。
少女たちの踊りなどがあって、いちおう歓迎行事がすんだ。王様は、立ちあがって私を建物のほうに誘った。太鼓が鳴る中で、私は王宮のサロンに入った。飲み物が出て、王様と二人で話をはじめた。自分では話さないのは、公式の行事の時だけ。雑談になると、王様はよくしゃべる。
「大使閣下は、何ヶ国くらい経験されたのかな。」
とご下問がある。そうですねえ、アビジャンに来る前は、ウィーンにいましたし、その前はパリにいました。インドとかイタリアとか、そうコソボにも赴任した経験があります。まあ、外交官稼業ですからね、人生は世界放浪ですよ、と私は答える。
王様は、私の答えを受けて言う。
「私はね、最初は英国だったなあ。それから、ノルウェー、ベルギー、オランダ。スウェーデンにもいましたよ。」
あれあれ、なぜ王様がそんな、いろんなところにいたのだろう。
「それで、外務省の次官になって戻ってきたのです。」
なんと、王様も以前は、私同様の外交官だったのだ。
「それでね、外務次官を務めたあと、大使に転出させるから、どこか希望を出せと。私は、東京に行きたいと言ったのですけれど、ウフエボワニ大統領(当時)は、いやバンギ(中央アフリカ共和国の首都)に行ってくれ、ということで日本行きは却下されてしまいました。残念でしたけれど、これも神様の御心です。」
そして王様は、中央アフリカ大使になったのだ。
「私は、結局10年間、中央アフリカ大使を務めました。途中で他の人に代わろうと思ったのですけれど、もう当時のボカサ大統領と、まともに話が通じる外交官は、世界中でもお前しかいない、ということになって、許してもらえなかったのです。」
ボカサ大統領といえば、皇帝にまでなった中央アフリカの独裁者である。その独裁者大統領と話のできる大使であったというのだ。これはこれは、この王様、大使として私の大先輩である。
そこに、アニ族の王様に就任してくれ、という段取りになった。先代の王様の、甥にあたっていたからだ。1985年、アニ族ジュブリン王国第13代国王、アニニビレⅡ世が誕生した。以来四半世紀、コートジボワールで最もインテリの王様として、治世を続けてきた。そして、今コートジボワールに在位する王様たちのなかで、最も長老である。
アニニビレⅡ世は、全国の王様たちや村長たちにより構成する、「伝統首長評議会(Conseil supérieur des Rois et Chefs traditionnels)」の会長を務めてきている。2002年に始まる、コートジボワールの分裂の危機を見て、国民和解のための運動を起こした。強力な訴えを全国に発しながらも、運動は挫折する。
「若者たちが、私たちの訴えを逆手にとって、それを盾に暴力に走るようになった。それで、善意で何を行っても、ここでは政治的に利用されることが分ったのです。」
王様の述懐である。
「私が以前に、ベルギー大使館の臨時代理大使だったときに、ボードゥアン国王とお話しする機会があった。ボードゥアン国王が、お国には部族がいくつありますか、とお聞きになるので、私はそうですね、60ばかりあります、とお答えしました。」
そうそう、コートジボワールにはそれくらいの部族がある。
「すると、ボードゥアン国王はため息をついて、ああそれはよく統治をされていることだ、自分の国ベルギーでは、3つしかないのに、これが互いに仲良くなくて困っている、と応じられた。その時は冗談と聞いたけれど、今となっては、部族がたくさんあることは、ほんとうに国にとって大変なことだと思っています。」
最も長老で、最もインテリである王様が、すべてを試み、深く考えたすえに、部族の間の問題は簡単ではないという。私は、それでも王様に対して、王様が進めている、部族首長の立場からの国民和解の運動は、とても大切だと思います、と述べた。私は、それぞれの部族が持つ歴史と伝統と文化を、他の部族も理解し尊重する姿勢からこそ、寛容の精神と、国民一体の意識が生まれるはずだ、という議論をしたのだけれど、現実を知らない書生論だと思ったのだろうか。王様は何も言葉を返さなかった。
少女たちの踊りなどがあって、いちおう歓迎行事がすんだ。王様は、立ちあがって私を建物のほうに誘った。太鼓が鳴る中で、私は王宮のサロンに入った。飲み物が出て、王様と二人で話をはじめた。自分では話さないのは、公式の行事の時だけ。雑談になると、王様はよくしゃべる。
「大使閣下は、何ヶ国くらい経験されたのかな。」
とご下問がある。そうですねえ、アビジャンに来る前は、ウィーンにいましたし、その前はパリにいました。インドとかイタリアとか、そうコソボにも赴任した経験があります。まあ、外交官稼業ですからね、人生は世界放浪ですよ、と私は答える。
王様は、私の答えを受けて言う。
「私はね、最初は英国だったなあ。それから、ノルウェー、ベルギー、オランダ。スウェーデンにもいましたよ。」
あれあれ、なぜ王様がそんな、いろんなところにいたのだろう。
「それで、外務省の次官になって戻ってきたのです。」
なんと、王様も以前は、私同様の外交官だったのだ。
「それでね、外務次官を務めたあと、大使に転出させるから、どこか希望を出せと。私は、東京に行きたいと言ったのですけれど、ウフエボワニ大統領(当時)は、いやバンギ(中央アフリカ共和国の首都)に行ってくれ、ということで日本行きは却下されてしまいました。残念でしたけれど、これも神様の御心です。」
そして王様は、中央アフリカ大使になったのだ。
「私は、結局10年間、中央アフリカ大使を務めました。途中で他の人に代わろうと思ったのですけれど、もう当時のボカサ大統領と、まともに話が通じる外交官は、世界中でもお前しかいない、ということになって、許してもらえなかったのです。」
ボカサ大統領といえば、皇帝にまでなった中央アフリカの独裁者である。その独裁者大統領と話のできる大使であったというのだ。これはこれは、この王様、大使として私の大先輩である。
そこに、アニ族の王様に就任してくれ、という段取りになった。先代の王様の、甥にあたっていたからだ。1985年、アニ族ジュブリン王国第13代国王、アニニビレⅡ世が誕生した。以来四半世紀、コートジボワールで最もインテリの王様として、治世を続けてきた。そして、今コートジボワールに在位する王様たちのなかで、最も長老である。
アニニビレⅡ世は、全国の王様たちや村長たちにより構成する、「伝統首長評議会(Conseil supérieur des Rois et Chefs traditionnels)」の会長を務めてきている。2002年に始まる、コートジボワールの分裂の危機を見て、国民和解のための運動を起こした。強力な訴えを全国に発しながらも、運動は挫折する。
「若者たちが、私たちの訴えを逆手にとって、それを盾に暴力に走るようになった。それで、善意で何を行っても、ここでは政治的に利用されることが分ったのです。」
王様の述懐である。
「私が以前に、ベルギー大使館の臨時代理大使だったときに、ボードゥアン国王とお話しする機会があった。ボードゥアン国王が、お国には部族がいくつありますか、とお聞きになるので、私はそうですね、60ばかりあります、とお答えしました。」
そうそう、コートジボワールにはそれくらいの部族がある。
「すると、ボードゥアン国王はため息をついて、ああそれはよく統治をされていることだ、自分の国ベルギーでは、3つしかないのに、これが互いに仲良くなくて困っている、と応じられた。その時は冗談と聞いたけれど、今となっては、部族がたくさんあることは、ほんとうに国にとって大変なことだと思っています。」
最も長老で、最もインテリである王様が、すべてを試み、深く考えたすえに、部族の間の問題は簡単ではないという。私は、それでも王様に対して、王様が進めている、部族首長の立場からの国民和解の運動は、とても大切だと思います、と述べた。私は、それぞれの部族が持つ歴史と伝統と文化を、他の部族も理解し尊重する姿勢からこそ、寛容の精神と、国民一体の意識が生まれるはずだ、という議論をしたのだけれど、現実を知らない書生論だと思ったのだろうか。王様は何も言葉を返さなかった。