ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則

”感謝”とはなにか?哲学的考察

2013-01-06 08:37:11 | 哲学・歴史・考古学

”感謝”とはなにか?哲学的考察

 

”感謝する”とはどういうことを言うのか?
「ありがとう」という言葉は何を伝えようとしているのか?

     ありがとう
    ありがとうございます
どうもありがとうございます
どうもありがとう
どうも

    すみません
どうもすみません
どうも


感謝の念を抱く、感謝したい、いくら感謝してもしきれない、感謝の気持ちを忘れてはいけない、感謝感激、ありがたいと思う、ありがたく頂戴する、ありがた迷惑・・・

また、「ありがとう」は歌やドラマのタイトルとしても非常に人気が高いフレーズのようだ。もしかしたら、日本人に特に好まれる言葉なのかもしれない。

愛する人へありがとう・・・(SMAP)、 ありがとうって伝えたくて・・・(いきものがかり)、好きになってくれてありがとう・・・(juju)、今 心からありがとう・・・(大橋卓弥)、たった一言伝えたい ありがとう・・・(KOKIA)、微笑んでくれてどうもありがとう・・・(井上陽水)

“ありがとう”単独のタイトルだけでも少なくともこれだけあるのだから、“ありがとう”を含むタイトルとなるとこれの10倍はあるはずだ。いやはや・・・

  

さて、“感謝する”というのはその行為に先だち当人にとって利益になる何らかの事象(受益)が生起していることが前提になっているように思われる。厳密にいえば、

1)何らかの受益がリアルタイムで生起しているか、もしくは
2)すでにある受益が生起していたことを知ったか、
3)これからおそらくある受益が生起することを知ったことが前提になっているというべきであろうか。たとえば以下の例である。

1 「どうぞここにお座りください」    「ありがとうございます」

2 「手紙、投函しておきましたよ」   「ありがとうございます」

3 「来年、連れて行ってあげます」  「ありがとうございます」


“感謝する”というのは、行為ではあっても、意志の表明である。経済行為としては空っぽである。ミカン1つ受け取り、それに対して感謝を表明しても経済行為としては空っぽであり、そのミカンの取得との引き換えに相手の側に何らの財貨も渡らないのである。いや、むしろ空っぽでなくて実質的な財貨が渡った場合は“感謝”とは言わなくなってしまうのである。少なくとも“感謝”という行為としては成立しなくなってしまうだろう。

ここまでふれずにきたが、感謝にはサービスや財物の“供給者”の存在も前提となっている。「神に感謝」「自然に感謝」という場合にも言えるだろう。そして、その供給者が”無償で”供給する“無償の供給者”でなくてはならないのである。平たく言えば、「見返りを期待しないで与えるひと」である。


つまり、感謝とは、無償の供給者に対する受給者(注)側からの意志の表明と言えそうである。しかし、実はこれでもまだ絞り込みが足りないのだ。というのは、ミカンをもらっても、「要らねーよ、恩着せよーってのかい」という反応や意志の表明も理論的にはありうるからである。とすると、感謝とは、無償の供給者に対する受給者側からの複数考えられる意志の表明のうちの少なくとも1つというふうにさらに絞り込めるだろう。

 

受給者: ここでは文字通り供給を受ける側を指す。年金とは無関係。

 

「複数」と言ったが、大きく分けて“肯定的”か“否定的”であろう。そして上記の「要らねーよ、恩着せよーってのかい」は否定的な意志表明である。そして、いわゆる感謝は、肯定的な意志表明とlなろう。なるほど。しかし、これでもまだ絞り込めていないのだ。いったい何を否定したり肯定したりしているのかという点である。

わたしの考えではこうである。

“感謝する” とは、無償の供給者に対して、受給者が ”借り” のあることを承認する(肯定する)ことの相手に対する表明である。
そうすると、「要らねーよ」 という意志表明は、その “借り” のあることを否認する(否定する)ことを相手に表明しているのである。

“借り” があることを認めるということは言いかえれば、相手に対して自らが “債務者” であることを認めることである。
つまり、「ありがとうございます」 と口に出して言うことは、「わたしはあなたの債務者となったことを認めます」 ということである。債務者と債権者との関係は1つの権力関係である。債権者は債務者に対して一定の権限を持つ。債務者は債権者に対して一定の権力関係に入ることになる。「ありがとうございます」 と言うことは債務者として相手の支配下に自主的に入ることを意味する。債権者に対して義務を負うのが債務者である。

だからこそ、ひとは感謝するときに相手に頭を下げるのである。これは相手が自分に対して支配者であることを儀式的に認める行為である。いっぽう感謝された側はふつう頭を下げることはない。せいぜいうなづくだけである。あいさつのときに双方がするお辞儀とはっきり違うのは、非相互的で、非対称である点である。ここに権力関係が見える。

 

「ありがとうございます」 といって頭を下げることは、相手が自分にとって支配者で、自分が被支配者であること、つまり自分が服従する立場にあることを自らの身体的所作によって示しているのである。相手が自分に対して一定の支配権を有することを等身大の視覚的サインによって表現し、是認しているのである。いっぽう 「要らねーよ」 と言う者は頭を下げないのである。

 

さて、「ありがとうございます」 と相手に言うことは、相手に対して何らかの債務を負うことを表明していると上に書いたが、それではその“債務” とは何か。具体的には何をしなければならないのか。何をすることが義務なのか。

 

お答えしよう。それは “返礼” である。平たく言うと、「いつかお返ししますね」 ということである。「ありがとう」 と言って感謝の気持ちを表明することは 「この恩は忘れません。いつかお返ししますからね」 と言うに等しい。そして晴れてその “恩返し” の時が来るまで、「ありがとうございます」 と口に出して言った側は債務を負い続けることになるのである。つまり、そのときまでずっと “借り” がある状態なのである。これが “ありがとう” の意味である。



 

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