遊爺雑記帳

ブログを始めてはや○年。三日坊主にしては長続きしています。平和で美しい日本が滅びることがないことを願ってやみません。

プロの勇士が日本を救う

2011-03-21 01:34:18 | 東日本大震災
 すでに「英雄フクシマ50」の方々や、レスキュー部隊の方々の英雄的行動については別稿で触れましたし、多くの方々がご存じのことではありますが、朝日に詳細が報じられていましたので、皆様の偉業を称えると共に、今も継続していただいる作業のご無事と成功を祈って書き残しておきます。
 
今は日立も東芝もない」 復旧へ人材結集 原子力技術者ら「駅伝」作業 (3/20 朝日朝刊)

 
東日本大震災で損傷し、深刻なトラブルが続く東京電力福島第一原子力発電所で、原子炉メーカーの日立製作所と東芝の社員たちも、原発の冷却装置を動かす電源の復旧作業を担っている。放射線濃度が高い危険な環境の中、一刻も早く安全を取り戻すため、懸命の作業が続く。(藤森かもめ、小松隆次郎)

 日立製作所(東京都千代田区)を中心とする日立グループは、震災当日の11日、日立本社内に「緊急対策室」を設置した。日立は、福島第一原発の4号機の原子炉などの製作を請け負い、メンテナンスも行っている。このため、東電を支援する要員として、11日に十数人の技術者を東電本社に送り、第一原発にも18日までに計約60人を派遣した。

全国の精鋭
 60人は、原子炉の設計者や電気系統の技術者のほか、原子炉の建設工事や配管設置のベテラン工事作業者など。年齢は30~50代。日立が全国から技術力などに優れた社員をリストアップし、本人の希望を聞いた上で選抜した。いずれも、放射線の防護教育などを受け、被曝前歴などを記した「放射線管理手帳」を持っている。社員らは「
この仕事をしている以上、危険があっても自分たちがやるしかない
」などと話していたという。
 日立の工事作業者らは、東電社員の指揮下に入った。自衛隊や東京消防庁などによる放水作業の間をぬって、電源復旧のための配電盤の設置、ケーブル敷設などの作業を、「駅伝」のように引き継ぎながら繰り返している。放射性物質を防ぐ防護服で全身を包み、携帯する放射線量の測定器の数値を見ながらの作業だ。時間によって同じ場所でもその数値は上がったり下がったりしているという。
 一方、第一原発3号機の原子炉などを作り、メンテナンス作業もしてきた東芝(東京都港区)も、復旧作業に参加。福島県内への派遣人数は、日立と同様に原子力技術者など60人に上る。東芝も地震直後に火力発電所なども含めた対策チームを置き、本社、グループ会社などの技術者830人が支援態勢をとっている。
福島県内への派遣人数は、今後も増強
する可能性があるという。

冷却へ一丸
 ある日立社員は「今は日立も東芝もない。とにかく冷却です」と話した。
 福島第一は、日本でも最も古い原発の部類に入り、1960年代に着工された。当時、日本独自で建設することは困難だったため、71年に営業運転を開始した1号機は米国のゼネラル・エレクトリック(GE)が主契約者となって建設し、GEが中心となって開発した沸騰水型炉が採用された。2号機(74年営業運転開始)もGEと東芝が共同で建設をしたが、3号機(76年同)は東芝、4号機(78年同)は日立製作所が単独で主契約者だったため、初めて「国産炉」となった。
 その後も、東芝、日立の両社は福島第二、柏崎刈羽(新潟県)と、東電の原発建設で中心的な作業を担ってきた。GEが中心となって建設した福島第一の1号機や2号機などのメンテナンスについても、東電と共同で作業をしてきた。

 民間企業戦士ですが、初の国産炉(3号機、4号機)を建設したというパイオニア精神と誇りが、国を護るという英雄行動に駆り立てているのでしょう。
 
 不眠不休で、想定外の困難を危険にひるむことなく乗り越えて、目標の大量放水を成し遂げたハイパーレスキュー隊の第一陣が帰還し、代表が記者会見されました。各局で繰り返し放送されましたが、何度聞いても胸に詰まるものを覚えますし、心から感謝を申しあげます。やはり修羅場をくぐってきた方々でしたね。
 
「危険な任務 充実感」 連続放水の消防隊員 (3/20 朝日朝刊)

 
「非常に難しく危険な任務だった。国民の期待をある程度達成でき、充実感でほっとしている」--。東京電力福島第一原発の冷却作戦で、10時間以上の「連続放水」を成功させた東京消防庁の派遣隊員の一部が19日夜、帰京した。佐藤康雄総隊長(58)ら3人が東京都内で記者会見し、心境を語つた。
 会見したのは災害救助のスペシャリストである「ハイパーレスキュー」の冨岡豊彦隊長(47)と高山幸夫隊長(54)。
 冨岡隊長は「大変だったことは」と問われると、「隊員です」と言って10秒ほど沈黙。涙を浮かべ、声を震わせながら、「隊員は非常に士気が高く、みんな一生懸命やってくれた。残された家族ですね。本当に申し訳ない。この場を借りておわびとお礼を申上げたい」と言った。
 高山隊長は18日、職場から直接現地に向かった。妻に「安して待っていて」とメールで伝えると、「
信じて待っていす」と返信があった。佐藤隊長も妻にメールで出動を伝えた。「日本の救世主になってください
」が返事だった。
 高山隊長は今回の任務を「目に見えない敵との闘い」と振り返った。注意したのは放射線量。「隊員たちが常に測定しながら安全を確認し、アピールしてくれた。仲間のバックアップがあったから任務を達成できた」と話した。
 会見では、作戦の具体的な中身も明かされた。
 原発に入ったのは18日午後5時5分。作戦は当初、車から出ずに車両でホースを延ばす予定だった。8分で設置できる計算だった。だが、海岸付近はがれきだらけ。車が走れそうなルートだと2・6キロあり、ホースが足りない。
 一度本部に戻り、安全な方法を再検討した上で午後11時半に原発に戻った。最終的には、途中まで車で延ばし、最後の約350メートルは隊員が車外に出て、巻いたホースを手で延ばし、取水のために海まで届かせた。
 ポンプで吸い上げた海水を放つ「屈折放水塔車」を止めたのは、2号機と3号機の真ん中で建物まで約2メートルの至近距離。目標とした、使用済み核燃料が貯蔵された3号機のプールまでは50メートルだった。いつでも退避できるようにマイクロバスを用意し、「特殊災害対策車」も待機した。
 翌19日の午前0時半、「白煙の方に向かって」3号機への放水が始まった。
 放水現場の放射線量は毎時60ミリシーベルトだったが、放水後はゼロ近くに。「命中している」と確信したという。

 今日は、放水が手つかずだった 4号機に、陸上自衛隊の消防車10台に、東京電力が在日アメリカ軍から借り受けて操作する消防車1台も加わり、計11台で、午前と午後の2回に渡り併せて160tの放水を実施したそうですね。水は内部に届いているとのこと。
 ハイパーレスキュー隊のほうは、新たに加わった大阪市消防局の職員も参加し、3号機に向けて、午後9時30分から、21日の午前3時半までの6時間の予定で放水を開始しています。
 更に、御殿場の駒門駐屯地に配備されている、74式戦車で敷地内の行動の障害となっているガレキの撤去をすることも決まったそうですね。
 
asahi.com(朝日新聞社):原発内のがれき除去に戦車投入へ 防衛省 - 東日本大震災

 叡智が次々と行動に移されるようになり、勇者も増えてきています。
 遊爺も、義捐金に続いて長期国債を買うことにしました。
 米仏が、レベル6とか、7への悪化を懸念し注目する現状を、ここで食い止めることが出来れば、地元の方々への被害の拡大も防げますし、福島原発は廃炉となっても、世界の原子炉研究に大きく貢献することになります。
 今後の原子炉の導入や、継続が中長期に再検討されるにしても、現状稼働している物をすべて廃止することになったとしても、時間がかかることで、その間の稼働機への安全対策の追加実施に貢献することが出来ます。





写真素材 PIXTA


Fotolia


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