映画評・崖の上のポニョ ポニョの父は手塚治虫・母はディズニー、ポニョは宮崎駿?
映画評・崖の上のポニョ ポニョの父は手塚治虫・母はディズニー、ポニョは宮崎駿?
注意)ネタばれの可能性があります。映画を見ていない人はストーリーがわかる可能性があるので要注意。
あとあくまで個人的な感想でして、定説でも都市伝説でもありません。また他人に強要したりするものでもありません。
悪評の多い「崖の上のポニョ」を見た。感想は率直に言っておもしろい。これが駄作だという根拠が理解できない。作品に秘められた宮崎駿のメッセージを読み取る力がないのだろうか。まず人間を捨て、魔法を操る海の住人・フジモト、彼はポニョの父であり、ポニョが人間社会の醜い部分に染まることを嫌悪している。このフジモトのキャラデザイン、乗り物、海中の家、全てが手塚治虫チックなのだ。先入観なしで昭和のアニメファンがみると手塚アニメと勘違いするぐらいテイストが似ている。よく考えてみると陸上でのフジモトは消毒剤(実際の中身は海水)のポンプを担ぎながらやってくる。これは医者であった手塚を意味しているのではないか、またフジモトという名前は、藤子不二夫のもと(藤子不二夫の師匠)である手塚を意味しているようにも思える。(深読みかもしれないが(苦笑))
更に、明らかに海を越えてやってくる白人と思えるポニョの母親は、ディズニーではないだろうか。フジモトの妻に対する「あの人」という呼称には、明らかな憧れが篭っている。手塚治が生前、ディズニーに憧れを持っていたのは事実だし、ディズニーは人魚姫を制作している。このように父・フジモト=手塚治虫、母・ディズニーから生まれたのがポニョ、つまり宮崎駿である。言い換えれば、手塚チックな厳格な父性と、ディズニーのように包み込む母性から宮崎アニメは生まれたと解釈できる。
人間社会の醜い様をなげき魔法の力で、海が豊かであった時代を再現しようとするロマンチストの父・フジモトは、アニメという魔法に理想を求めた手塚ワールドの考えそのものである。そのフジモトが作った結界を破り、外に飛び出たのがポニョであり、宮崎駿であった。宮崎駿は先人・手塚のようにロマンチックなものを魔法=アニメには求めなかった。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」のようにリアルな人間の性(さが)を描写することも厭わなかった。ポニョが「ハムが好き」という発言に対し、「どこでそんなものを覚えた」と嘆く父・フジモトは、人の浅ましさを描いた生々しい「風の谷のナウシカ」を打ち出したポニョ・宮崎に対する手塚の拒否感であったのだろう。
宮崎駿の手塚に対する複雑な思い
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結果的に、父・フジモトは母・ディズニーの仲介もあって、ポニョの人間への変身を認めたが、これも宮崎駿の作品をディズニーが最初に認めた事実と合致する。
途中、古代魚が水中を遊泳する中、ポニョとそうすけがボートで渡っていくが、日傘を差した赤ちゃんを抱いた女性、めがねをかけた男性が乗った手漕ぎボートと合う。これは「となりのトトロ」をオマージュしたシーンではないだろうか。さつきとメイの両親の若いときの姿のように見えてならない。すると赤ちゃんはさつきの小さい頃となり、ポニョにメイのポジションをあてはめれば隣のトトロの構図ができあがる。
洋画などでは過去の名作のワンシーンをさりげなく、入れたりするがまさにそんな感じかもしれない。どちらにしろ「崖の上のポニョ」は悪くない。まさに宮崎アニメの総決算ではないだろうか。
ポニョの舞台は?
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作家の名倉靖博氏がポニョは企画流用!!
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注意)ネタばれの可能性があります。映画を見ていない人はストーリーがわかる可能性があるので要注意。
あとあくまで個人的な感想でして、定説でも都市伝説でもありません。また他人に強要したりするものでもありません。
悪評の多い「崖の上のポニョ」を見た。感想は率直に言っておもしろい。これが駄作だという根拠が理解できない。作品に秘められた宮崎駿のメッセージを読み取る力がないのだろうか。まず人間を捨て、魔法を操る海の住人・フジモト、彼はポニョの父であり、ポニョが人間社会の醜い部分に染まることを嫌悪している。このフジモトのキャラデザイン、乗り物、海中の家、全てが手塚治虫チックなのだ。先入観なしで昭和のアニメファンがみると手塚アニメと勘違いするぐらいテイストが似ている。よく考えてみると陸上でのフジモトは消毒剤(実際の中身は海水)のポンプを担ぎながらやってくる。これは医者であった手塚を意味しているのではないか、またフジモトという名前は、藤子不二夫のもと(藤子不二夫の師匠)である手塚を意味しているようにも思える。(深読みかもしれないが(苦笑))
更に、明らかに海を越えてやってくる白人と思えるポニョの母親は、ディズニーではないだろうか。フジモトの妻に対する「あの人」という呼称には、明らかな憧れが篭っている。手塚治が生前、ディズニーに憧れを持っていたのは事実だし、ディズニーは人魚姫を制作している。このように父・フジモト=手塚治虫、母・ディズニーから生まれたのがポニョ、つまり宮崎駿である。言い換えれば、手塚チックな厳格な父性と、ディズニーのように包み込む母性から宮崎アニメは生まれたと解釈できる。
人間社会の醜い様をなげき魔法の力で、海が豊かであった時代を再現しようとするロマンチストの父・フジモトは、アニメという魔法に理想を求めた手塚ワールドの考えそのものである。そのフジモトが作った結界を破り、外に飛び出たのがポニョであり、宮崎駿であった。宮崎駿は先人・手塚のようにロマンチックなものを魔法=アニメには求めなかった。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」のようにリアルな人間の性(さが)を描写することも厭わなかった。ポニョが「ハムが好き」という発言に対し、「どこでそんなものを覚えた」と嘆く父・フジモトは、人の浅ましさを描いた生々しい「風の谷のナウシカ」を打ち出したポニョ・宮崎に対する手塚の拒否感であったのだろう。
宮崎駿の手塚に対する複雑な思い
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手塚治虫都市伝説、日本のアニメーターの給料をさげたのは手塚だった? |
結果的に、父・フジモトは母・ディズニーの仲介もあって、ポニョの人間への変身を認めたが、これも宮崎駿の作品をディズニーが最初に認めた事実と合致する。
途中、古代魚が水中を遊泳する中、ポニョとそうすけがボートで渡っていくが、日傘を差した赤ちゃんを抱いた女性、めがねをかけた男性が乗った手漕ぎボートと合う。これは「となりのトトロ」をオマージュしたシーンではないだろうか。さつきとメイの両親の若いときの姿のように見えてならない。すると赤ちゃんはさつきの小さい頃となり、ポニョにメイのポジションをあてはめれば隣のトトロの構図ができあがる。
洋画などでは過去の名作のワンシーンをさりげなく、入れたりするがまさにそんな感じかもしれない。どちらにしろ「崖の上のポニョ」は悪くない。まさに宮崎アニメの総決算ではないだろうか。
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作家の名倉靖博氏がポニョは企画流用!!
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途中トンネルが出てきますが、千と千尋の神隠しにも出てきますね。水浸しの世界も同じ。ポニョと千の千尋は、世界が繋がっているのではないかと思っています。ポニョの水浸しの不思議な世界も、ポニョを現実世界に呼び込んでえらい事になっていますが、本来はあのトンネルの向こう側だけの事なのでしょう。
千尋は再びトンネルをくぐって現実に戻ってきますが、宗助(宮崎)はフジモト(手塚)と同じく、積極的に空想か現実か曖昧な世界で生きていく事を望んだのでしょうね。空想上の少女に恋をしながら。