平泉雑記から義経渡海説を探る

ここに、安永二年に相原友直(1703-1782)という人物が記した「平泉雑記」(1773)の一部を現代語訳し掲載します。義経渡海説に当たる部分で、主に加藤謙斎という人物が書いた「鎌倉実記」(1717年)という本について批判した部分が大半です。

この「鎌倉実記」という本で、著者加藤謙斎は、「金史別本」という本をタネにして、義経が北海道を越えて中国大陸に渡ったという説を主張しました。この本の内容は、あの新井白石(1657-1725)も大変興味を示したと言われます。それほど義経が生き延びて海を渡ったという説は衝撃的だったのでしょう。すでに白石の中に大陸へ進出しようとする日本人の願望(無意識)が芽生えていたのかもしれません。その後、新井白石は、「蝦夷史」(1720)を書いていますが、流石に義経に関しては、懐疑的に以下のように記しています。


「(蝦夷の民は)一般に、大いに神を敬うのであるが、祭壇は設けず、その飲食して祭る所の祭神は源廷尉(ていい)義経である。東部に義経が居住したという跡がある。蝦夷の民は勇を好みので、民は皆んなこの義経を畏れたのである。

蝦夷の民は、一般に飲食の時には、これを祝って『オキクルミ』と言うそうだ。その意味を問えば、『判官義経だ』と言うのである。判官は、(本当に)所謂『オキクルミ』であろうか。蝦夷の中の廷尉(ていい)と称する者の言葉である。義経が居住したという跡の地名を『ハイ』と言い、廷尉という者は『ハイクル』と言う名で、すなわちこの地方の人物である。

西部の地名にも、また弁慶崎という地がある。ここには、義経がここより海を渡って北海を越えていったという伝承がある。寛永年間、越前国の新保の者が漂流して韃靼(だったん)の地に流れ着いたのだが、この年に、清の族長が、一族を率いて燕京(北京の古名)に入った年にあたる。(越前の者は)ここに居ること数年を経て、許しが出て、朝鮮を経由してして帰国を果たしたのであった。その本人が言うには、『奴兎干部』(不明?)の門戸の神は、巷で見た義経の絵に似ていたと言うのである。これは異聞というべきであろう。 」(蝦夷史より抜粋 現代語訳 佐藤)

こうして義経は、歴史の事実とは、かけ離れた形で、東北を北へ北へと向かい、津軽海峡を渡って、北海道へ行き、ついにはアイヌの神「オキクルミ」と称せられ、そこから大陸に渡って、金国に辿り着き、後の「国学忘貝」(1783年 森長見著)という本に至っては、中国の清朝の遠祖は源義経であったとなるのです。新井白石ほどの歴史観をもった大学者も、偽書のワナに半分引っかかるのですから、人間の中にある願望とかロマンというものがいかに危険なものであるかが分かります。この時期には、「西洋紀聞」の著者新井白石に限らず、日本人全体が、暗い鎖国の日本を越えて世界に海を越えてこぎ出したかったのかもしれません。

さて、現在は「金史別本」も「国学忘貝」も偽書として否定されていますが、そこから派生した大陸へ渡ったという説は、何度否定されても、その都度生き延びて、現在では、ひとつの「ロマン」として語られているのです。

批判の主である相原友直は、仙台藩の医師です。これを書いた頃、「金史別本」が、偽書であるということが確定されていたわけではないため、相原の論調は、時に腹を立てているようで辛辣です。おそらく、偽書の臭いを嗅ぎつけていたからでしょう。

彼は医術の道を歩いた人ですが、京都にも留学し、儒学者としても有名な人物で、平泉三部作と言われる著作を著した歴史家であります。その態度は、虚偽を退け、真実の歴史を真摯な態度で探訪する冷徹な歴史観をもって書かれています。

私は彼の著作平泉三部作(平泉実記、平泉旧蹟史、平泉雑記)を平泉研究の基本史料として、真っ先にデジタル化したのですが、その理由は、彼の真摯な妥協を許さない歴史観にありました。

今すこぶる安易な形で、義経アイヌ民族の英雄「オキクルミ」であったとか。金国から満州に移り「清朝」の始祖になったとか、あるいはジンギスカンであったというような説が再び語られるようになりました。

地元の村おこしで語られるロマンとしては、楽しい話しかも知れませんが、アイヌの神のオキクルミ説、そして金国へ渡り中国清朝の始祖となり、モンゴル帝国の始祖となる過程は、日本人の大陸への進出の熱狂的流れと符合する動きで、単なるロマンとして、片づけることはできません。

私は源義経という人物が大好きです。尊敬もしています。したがって、その尊敬する人物が、史実とかけ離れた形で、意図的に利用されるようなことはけっしてあってはならないと思っています。

その意味で、江戸時代において、義経伝説が、北海道から大陸へ渡るというような展開になっている時、過去において相原友直という人物がどのような態度でこれと接触をしたのかということを、考えていただきたいと思います。(佐藤弘弥記)


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6「鎌倉実記」を語る

近年刊行された「鎌倉実記」に、日本の「源義行」という者が金国ヘ渡ったという説が、「金史別本」という本にあると、この説のつじつまを合わせようとしてあれやこれやの虚言を設けて、「金史」の文を国字に替えて左に掲載するなどまるで子供騙しである。はっきりしていることは、本書を読んで考えるべきである。また「正史」に食い違いをきたして天下を混乱させるものであることを批判し、これを後に付すことにする。 

「金史列将伝」は言う。

「範車国の大将軍の源光録義鎮と言う人は、父は日本陸華仙と言うところの権冠者義行と言う人である。義鎮は、はじめ新靺鞨部(マカツホフ)に入って千戸邦判事の官に昇る。身長は六尺七寸(2m3cm)で生まれつき温和にして勇猛で、ニ才で思諸部で甲(かぶと)をつけ、外敵を多く随えた。学館に入っては礼儀を語り、後に咸京録事官に処せられた。

金の二代目章宗は、日本後鳥羽院の御代に当たる文始(文治の誤記か?)四年の頃、章宗として即位した。詔(みことのり)を発して、(義鎮を)光録大夫官と為して大将軍に任じた。義鎮は、範車城を守護して、北方の諸国の軍隊の侵攻を防いだ。義鎮の父權冠者義行は、その昔、章宗の恩顧を受けた。(章宗は義行を)総軍曹事官に任じ、北濃鑛に進駐させたのである。

(その時、義行は)日数を掛けず蘇敵を破って、印府を攻略して都ニ戻り、(章宗の)配下に属した。その後、義行は、範車城を築いてこれを守護したのである。

その頃、北天竺に攻め入リ、龍海を渡って「リテ一ノ島」に行く。その山河は、きれいにしてことごとく金玉で出来ていた。その所の人は霊草を煎じて飲物とし、五穀を多く食することはない。生き類を殺して食物とすることをはなはだ嫌う。

それ故にこの国の民、正直にして邪(よこしま)な心に煩わされることはない。この島に伊香保の行辰という老仙人がいる。本物の法を使い、容貌は常人のようで、他の人と変わったところはない。徳は古人に勝り、義行はこの人に帰依し尊敬したために長命を得たとのこと。その後、唐土を往来して、出たり入ったりしてひとつところに定まることはなかった。」
 

以上の記載であるが、「鎌倉実記」の作者は、右の「金史」に出ている「義行」の名に引き合せるために、本文に秀衡の意見を書いてのか。義行の名は、元の義経の訓であり、(義経の名が)後京極良経と同名というので、頼朝が怒った後に、鎌倉にて名付たのを秀衡が名付たように言い紛らわして、唐土までも行って「義行」と名乗ったというのである。

基本を(はじめから)決定しておいて、これに細い注釈を加えて、真実を潤色し、また評論を書いた、右の文章は、「雑記」か「小説」のようなももので、信用のできないものである。まったくもって何の言というべきであろう、信用できないような事をあげつらって、人を惑わすとはこのことである。

「雑記」「小説」より採ると言うのは、高館没落の時、蛇の出たという文章のことである。かつ「義経勲功記」には、義経が蝦夷に落ちていったと言うよりは、「鎌倉実記」の(記す)事実を指している。大いに異なると(鎌倉実記の作者が)弁解しようとも、他人から見れば、結局は「義経勲功記」と同日の話なのである。

「金史別本」に、義行と言う者が仙人となったと書いたのも、これまた好事の者の伝聞を筆記したものであろう。日東の陸華仙と言うのは、日本の陸奥国気仙郡のことなどをいうのであろうか。それとも栗原の華山(花山村?佐藤注)を言うのであろうか。あるいは陸華仙と言うところは、昔に合った場所であろうか。今だそんな国があったことは聞いたことがない。

また義行と言う者が金国に渡ったというのは、虚説にも値しないものであろうか。義行は義経のことなりと言うのは、理に叶わない不当な説である。その義経は、智謀武勇など他に恥ることなき猛将であるということは、多くの人があまねく知っている話しである。平家追討の中にあって、自分の意に合わぬことは、たとえ兄の頼朝の命令といえども、これをよしとせず、ましてや武者たちの意見に従うはずなどないのである。己のカと智略をもって戦う覚悟を持ち、遂に歴史に残るような功を遂げた人物である。

これをもって、義経の行動を推測する時、義経が、金国に逃れたとしても、鎌倉に何の慕しい感情があって、外国にいて「義行」と名乗ることがあろうか。たとえ義経ほどの勇者でなくとも、敵方にて改められたような名を用いたりはしないであろう。

平家追討中に鎌倉よりの策を用いることなく、他の者の意見をも聞かない人物が、他人に不降の気象を見るようなことはないのである。秀衡の意見に従って志を改めて、頼朝の機嫌を伺うために義行と名乗るのであれば、日本にいる時にこそ、そのようなこともあったかもしれないが、異国ヘ渡った後に頼朝に何の用があって、そのようなことをするものであろう。

この金国の源義行は、陸華仙の義行にして、源義経には論証するほどのこともなく明らかである。「鎌倉実記」の作者は、「金史別本」を読み、(義経渡海の虚説)の事と似ていることを発見し、かつ松前ヘ渡ったという俗説があるのを知ってその通りに伝え会わせたのであろう。ここまで来ると子供騙しの手段と言うべきである。

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18 義経蝦夷へ渡る?

義経が蝦夷嶋(北海道)ヘ落て行った事は、古来からあった俗説である。ある人はこれを事実とし、またある人は虚妄であると退ける。

人々は、その好みと信じるところに従って、これが「あった」、「なかった」と、右往左往している。

吾妻鑑、源平盛衰記、義経記、太平記などの書物の記述を信じる者は、平泉において自害したと言い。一方、近世の武家の論者が著した、「義経勲功記」、「鎌倉実記」などの書を信ずる者は、蝦夷(北海道)へ逃げたと主張する。

ところがその諸説も、(その出所は)家伝であったり、異人から聞いた話であったりする。ある人は「古記にある説である」とか「唐の書に出ていた」と言い張り、蝦夷にて義経は死でいると言う。

更には「唐ヘ渡って仙人なった」という類の話まである。このような話しを作る者は、自分の思いに任せてこれを創ってしまうので、それぞれの説が異なってしまって、議論にならないのである。それぞれの説の実際の地を踏んでいる者は、決してこのような説を(自説として)採ることはないであろう。

言ってみれば、(このような妄説を主張する者は)田舎びた話しに基づいてこれを書にして新奇のように見せ、世の中の愚昧な人間に自説として説くようなものである。

その書をじっと見れば、地理の違いや文章にもおかしなところが多くて、信じられないことばかりである。それ故、私はかつて「平泉実記」を著した時、吾妻鏡の記述を採用して、他の疑しいものは(一切)見ないことにした。こうして私は、「私論」を捨て、「公論」に従い、「野史」を取らず、「正史」を採ったのである。

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37 義経の首

「鎌倉実記」は言っている。

「義経の首について、吾妻鑑は、文治五年六月十三日、腰越に至ると書れているのは伝写の誤りであろう。(何故ならば)四月三十日に討たれた者が、六月まで延びるはずはない」

私はこれは「実記」の作者が吾妻鑑の全編を読んでいないための誤りであると推測する。吾妻鑑には、奥州の泰衡の飛脚が五月二十二日の午後四時頃、鎌倉に着いて、「去四月三十日、源義経を討ちました。ただ今その首を持って参上いたしましたので、追ってお届けに上がりたいと思います」と言上している。しかし鎌倉にはその頃、鶴岡八幡宮の塔を建立中であった。六月九日がその供養の日であったので、「義経の首は、それまで鎌倉に持参してはならない。途中に逗留して待て」となって、六月七日に飛脚を奥州に下されたものである。

したがって、ワザと引き延ばして六月十三日に腰越浦で、首の持参のことを鎌倉に言上したわけではない。また「鎌倉実記」が言うところによれば、義経の首と名付けて鎌倉(頼朝)殿が、首実検にいなかったのは義経の身替に立てた杉目行信の首だからだと主張する。

思うに、首実験に頼朝から腰越ヘ遣わされた和田義盛と梶原景時である。もしもその首に疑いがあれば、景時がどうしてそのままにして置くはずはない。景時の性質は、心がねじ曲がっていて讒言(ざんげん)を用いるような男である。ましてや義経には大変な遺恨をもっている人物である。以上のことから「鎌倉実記」の説は信じるに値しない。したがって私は、このような「野史」の妄説を採らず「正史」に従いたいと思う。

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現代語訳 佐藤弘弥

参考
相原友直小伝
平泉雑記
蝦夷史
相原友直の平泉三部作
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