水戸市立博物館主催の共催展示が「城里町役場1階ロビー」と「ホロルの湯」で開催されている
茨城鉄道と言うと「茨城県内の鉄道のこと」と思われるがそうではない
昭和2年から46年まで走っていた「茨城交通茨城線」のことだ
一般には「茨鉄線(いばてつせん)」と呼ばれていた
この茨鉄線は大正15年2月、常磐線赤塚駅と現在の城里町石塚間が開通、昭和2年になり御前山駅までが開通した
昭和20年代この地に生まれ、極めて懐かしく展示された写真や地図を食い入るように見つめた
ホロルの湯に展示してる大きな地図・・・現在の地図に赤塚駅から御前山駅までの経路や駅名などを書き込んで当時の状況がよくわかる
建設の経緯が示された年表だ
そして利用客を増やそうと御前山までの名所等を書き込んだ沿線図
写真を写したので鮮明ではないが・・・
当時の赤塚駅内の気動車だ
上水戸駅
西原町駅だ、現在の西原町国道50号を横切っている
曙町駅だ、現在の「銀星映画館」脇と思われる
大学前駅、ここは茨城大学前で赤塚駅から大学に通う多くの学生が利用した
現在の茨城交通株式会社本社前
石塚駅
ここは茨鉄線で水戸市内を除けば最大の利用人口があった
おなじく石塚駅だ
当時の気動車
御前山を「関東の嵐山」と呼びヘッドマークに「青嵐」の表示がある
終着の「御前山駅」だ、草が生い茂り活気はなかったのかな?
御前山に「ハイキング」に来た子供たち
当時、水戸市内の子供たちは「遠足」でこの鉄道を利用し御前山に足を運んだ
沿線を走行する気動車
終戦直後の昭和20年12月、ここで大惨事が起きた、気動車が転覆7人が死亡し、重軽症60人となった
写真奥に見える山が「御前山」だ
車内はこんな感じ
「やまばと」の名称板も
当時の石塚駅前だ
当時と比較するとこんな感じだ
御前山駅周辺の今と昔
当時の御前山駅には現在、太陽光発電のパネルがいっぱいだ
長い時間見入った、懐かしさでいっぱいになった
先に貼り付けた年表の写真をみて驚いた
昭和6年那珂郡野口村から水郡線玉川村駅までの新線計画や昭和10年御前山駅から長倉までの延伸計画が申請せず失効になったと書いてある
自動車が隆盛を極めている現在、廃線となった鉄道に想いを寄せた
この「茨城鉄道展」はそれぞれの場所で8月31日まで行われている
当時の音声付動画も放映されており一見の価値はある、ぜひみてほしい。
茨城鉄道と言うと「茨城県内の鉄道のこと」と思われるがそうではない
昭和2年から46年まで走っていた「茨城交通茨城線」のことだ
一般には「茨鉄線(いばてつせん)」と呼ばれていた
この茨鉄線は大正15年2月、常磐線赤塚駅と現在の城里町石塚間が開通、昭和2年になり御前山駅までが開通した
昭和20年代この地に生まれ、極めて懐かしく展示された写真や地図を食い入るように見つめた
ホロルの湯に展示してる大きな地図・・・現在の地図に赤塚駅から御前山駅までの経路や駅名などを書き込んで当時の状況がよくわかる
建設の経緯が示された年表だ
そして利用客を増やそうと御前山までの名所等を書き込んだ沿線図
写真を写したので鮮明ではないが・・・
当時の赤塚駅内の気動車だ
上水戸駅
西原町駅だ、現在の西原町国道50号を横切っている
曙町駅だ、現在の「銀星映画館」脇と思われる
大学前駅、ここは茨城大学前で赤塚駅から大学に通う多くの学生が利用した
現在の茨城交通株式会社本社前
石塚駅
ここは茨鉄線で水戸市内を除けば最大の利用人口があった
おなじく石塚駅だ
当時の気動車
御前山を「関東の嵐山」と呼びヘッドマークに「青嵐」の表示がある
終着の「御前山駅」だ、草が生い茂り活気はなかったのかな?
御前山に「ハイキング」に来た子供たち
当時、水戸市内の子供たちは「遠足」でこの鉄道を利用し御前山に足を運んだ
沿線を走行する気動車
終戦直後の昭和20年12月、ここで大惨事が起きた、気動車が転覆7人が死亡し、重軽症60人となった
写真奥に見える山が「御前山」だ
車内はこんな感じ
「やまばと」の名称板も
当時の石塚駅前だ
当時と比較するとこんな感じだ
御前山駅周辺の今と昔
当時の御前山駅には現在、太陽光発電のパネルがいっぱいだ
長い時間見入った、懐かしさでいっぱいになった
先に貼り付けた年表の写真をみて驚いた
昭和6年那珂郡野口村から水郡線玉川村駅までの新線計画や昭和10年御前山駅から長倉までの延伸計画が申請せず失効になったと書いてある
自動車が隆盛を極めている現在、廃線となった鉄道に想いを寄せた
この「茨城鉄道展」はそれぞれの場所で8月31日まで行われている
当時の音声付動画も放映されており一見の価値はある、ぜひみてほしい。
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