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ミス東大のキャリア・プランニング

 写真の女性は、「加藤ゆり」さん、という。2005年のミス東大で、現在東大の経済学部に在学中の学生だ。学業の傍ら芸能活動中のタレントさんでもある。些か自虐的な気持ちになるが、私との顔の大きさのちがいを見て欲しい。整った小顔で、テレビ局でお会いするタレントさんや女性アナウンサーと同類・同レベルの美人である。
 ブログを拝見すると(http://ameblo.jp/katoyuri-blog/)、11月28日に最初の写真集が発売されるようだ。彼女は、理科Ⅱ類から経済学部に進学したという。少し変わった経歴だが、理科系の勉強をしてから経済学部というコースは、学究的には非常にいい。
 企業金融などを勉強するゼミだというので「モディリアーニ・ミラーの定理とかが出てくるの?」(山崎)と訊いたら、「え、何ですか、それは。財務諸表の見方とかをやっています」(加藤)と答えるので、思わず「それは商業高校あたりでやることではないのか」(山崎)と言った。もしかしたら、気を悪くされたかも知れない。もっとも、今回の取材を担当した朝日新聞社のデスク氏(東大出)の話によると「彼女は、わざとバカっぽいふりをすることがある」とのことだ。従って、これだけで東大のレベルが低下していると決めつけるわけには行かないのだが、東大の先生はモディリアーニ・ミラーの定理の裏・表ぐらいは丁寧に教えて上げて欲しい。
 加藤ゆりさんには、雑誌「AERA」のマネー特集の増刊号(仮タイトル「マネーの賢人」)の取材でお会いした。彼女が聞き手で、私がお金の運用について解説するという趣旨の記事だ。現在経済学部の学生で、しかも競馬も好きで馬券も買うという加藤さんなので、記事の内容にも期待して欲しい(注;かつてと異なり成人であれば学生も馬券を買えるようになった)。
 尚、この取材は東大内の「UTカフェ」と呼ばれる建物で夜に行われたが、カメラマンが随分凝った設定で写真を撮った。私は自分が「美人女子大生の後をつけてきた中年のオッサン」のような感じで写っているのではないかと、出来上がりの写真について、少々心配している。実は、ただただそれだけが心配だ。

 加藤ゆりさんは、卒業後は「タレント活動一本で行く」と言う。所属事務所ももうある。官庁や企業に就職するようなコースは選ばないようだ。進路を早くから決めているのは立派だ。大いに売れて欲しい。

 さて、加藤さん個人のことを離れるとして、一般論として「ミス東大」(のような人)は卒業後の進路をどう考えたらいいのだろうか。
 片山さつき前衆議院議員はかつてのミス東大で私の1年後のご卒業だが、大蔵省に就職し、後に政治家の道を選んだ。大蔵省時代は、一時、舛添要一氏の奥さんでもあった。彼女の場合は学力も馬力(=体力+負けん気!)も人一倍あって、法学部卒業生の王道コースの一つを進んだ。ミス東大(ある母集団の中で相対的に優れた容姿とそのブランド価値)の部分は結婚に役立てたように見える(選挙の時にこれが役立ったようには見えなかったが、実際にはどうだったのかなぁ?)。「東大」を好むかどうかは別として「元ミス○○」を嫁さんにするのは、夫も悪い気分ではあるまい。ただ、彼女の場合は、主に時代の問題だが、彼女の長所である学力だの馬力だのに対して「男勝りの」という修飾が常につきまとったであろうことが、気の毒だ。政治信条への評価や、女性のタイプとしての好き嫌いからは全く離れて、ただただ「大変だったのではないか」と拝察する(お話をする上ではかなり面白い人ではないかと思うので、私は興味を持っている)。
 時代が大きく下って、タレントの菊川怜さんもたぶんミス東大だったと思うが、彼女はミス東大的な側面(≒「美人で賢い」というイメージ)が最大限に役に立ったケースに見える。ご本人は桜蔭(中学・高校)出身で数学オリンピックにも出て、慶応の医学部を蹴って東大(理Ⅰ?)に入ったという、学力的には理科系の片山さつきさんような逸材だったようなので、タレントとして成功したことが最大限の成功だったのかどうかは分からないのだが、彼女は「東大」と「美人」との両方を自分の価値として広く世間に向けて実現できた成功例だ。ただ、例えば今後、女優やタレントのカテゴリーでどのような仕事をして、これがご本人にとって満足の行くものなのかどうかは、よく分からない。これからが大変なのかも知れない。
 「女子アナの虎の穴」とでも呼ぶべき事務所、セントフォースに所属するフリー・アナウンサー八田亜矢子さんも、かつてミス東大だったと思う。彼女とはクイズ番組でご一緒したことがあるが、幾らか非現実的な感じ(いい意味です)がするような美人だ。明らかに、東大のキャンパスには似合わない。彼女は芸能路線のミス東大として成功例に入りそうな人ではないかと思うが、端的に言って、女子アナの定年と呼ばれる30歳を迎える頃に、どんなポジションを得ているのかはまだ何とも言えない。番組や企画に恵まれれば、大きくブレークしている可能性もあるが、「美人」というだけなら、椅子取りゲームの椅子の数の何倍も彼女と同じくらいの競争力を持った同業者・候補者がいる。その選別の際に「東大出」が役に立つとも思えない。現在いいポジションにいるが、彼女は、期待リターンの割にハイリスクなゲームに参加しているようにも見える。

 (最近はよく分からないが)東大生の、たとえば少なくとも半分以上は、入試的には東大でなくても全く不思議はないし、学力だけで確実に価値を生産することが出来るだろう、というほどではない人達だ。だが、東大出にとってはありがたいことに、「東大出は賢い」という評判が世の中には幾らかある。
 一方、容姿的な美人が人生で有利だというのは否定しがたい事実だ(「いい男!」も有利だが、たぶん、女性に於ける美人ほどではない)。
 しかし、たまたま「東大出」と「美人」(たとえばミス東大」)が重なったときに、それらの「両方がフルに生きるキャリア」というのは、想定することが案外難しいし、想定は出来ても競争があまりにも苛烈だ。
 自己評価があまり高くないタイプで(これはこれで、品はいいが、成功しにくい難点がある)、東大出もミス東大も人生の「付録」のように思える人はいいが、抱えきれないくらいのプライドを持っている人の場合は(ミスコンに出る人は多くがそうかも知れないと思うが)「ミス東大」はキャリアプランを考える上で、重荷になるのかも知れない。

 加藤ゆりさんには、取材の対談の終盤で「株式投資なんて気が向かなかったらしなくてもいいけれども、ともかく、30歳になる前に、自分が出来ることで、張り合いのある仕事のタネをタレント活動以外に作っておくべきです。それが何かは分からないけれども、『自分の分野』と思える分野で(写真集とかインタビュー本ではなくて)本の1、2冊くらいは書いておく方がいいと思いますよ。頑張って下さいね!」と申し上げた(←ウルサイ先輩として)。
 それほど長い期間・多くのケースを見ているわけではないが、それでも、たとえば女性アナウンサーの「あの時」と「そして今」に大きな落差を感じることが多い。

 せっかくお会いした方なので、加藤ゆりさんには是非成功して欲しいが、「ミス東大のその後」というのは、興味深いテーマだ。だれか、本でも書かないものだろうか。

<注> 本エントリー掲載後しばらくしてから、以下のようなご指摘がありました。
=============================
事実に反しているので指摘させていただきます。
1.「ミス東大」は1997年に始まったので片山さつきさんは正確には「ミス東大」ではありません。
2.菊川怜さんは「ミス東大」コンテストに出場していません。
=============================
ウィキペディア等で確認したところ、上記1.、2.が事実のようです(片山さんは雑誌が選んだ東大のミスキャンパス、菊川さんは現役時代からモデルで、共にコンテストには出場されていません)。掲載後時間が経っていることもあり、本文はそのままにして置きますが、読者に於かれては上記を「事実」としてご理解下さい。
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グラビア・ページの男目線・女目線、など

 女性を被写体とした雑誌のカラー・ページの写真、いわゆる「グラビア写真」には幾つかの類型があるが、ニュースに関連づけられた報道写真と、ほぼ裸が映っているヌード写真(「厳密な定義」はご想像にお任せする)、女性誌のファッション写真、及び芸術的表現を目的としたポートレートを別とすると、「男目線の写真」と「女目線の写真」の二種類に分かれるように思う。

 男目線のグラビアの典型は、現在だと「週刊SPA!」の連載「グラビアン魂」だろうか。ごく大雑把に言うと、女性を性的な対象として見る写真ではあっても「ヌード写真」ではないギリギリの僅かな着衣(典型的には水着か下着)の下に撮影された写真なのだが、長年の間に、ある種の作法というか様式が出来上がっている。
 主な特徴をあげると、(1)何らかの状況設定がされている(女性の部屋、放課後の学校、開放的なリゾート、夜のオフィス、など)、(2)女性の身体の男性が興味を持つパーツ(ココとソコとアソコの三通りくらい)を布きれ一枚(又は手)で隠しつつも強調するアングルの写真が含まれる、(3)程度はさまざまだが性的な関係を連想させる表情の写真が含まれる(誘うような表情、恍惚感を連想させる目、受動性を強調した表情など)、といったものだ。場合によっては、水着とモデルのカタログのような素っ気ないものもあるが、上記のような「意味」が付加された写真が多い。
 こうした様式を理解せずにこの種のグラビアを眺めると、ポートレートとしては概ね美的ではないし、「どうして、ここでこんな格好をしているのか」、「この姿勢は不自然で辛そうだ」、「なぜ、ホンの少しだけの差で見たいところが見えないのか」、「(カメラマンの注文とはいえ)どうしてこんな表情をしているのか」というような感想を持つような写真が数多く登場する。この種のグラビア写真なのだという前提を理解しなければ、写真自体として眺めるとかなり奇妙な代物が少なくない(私は、決してこの種の写真も被写体も嫌いではないが、写真が奇妙であるということが少しは分かる・・・)。
 女性から見ると「何だこれは?」というものが多いのではないか。

 女目線のグラビアの典型は、「週刊文春」の巻頭にある「原色美女図鑑」だろう。こちらは、女優さんなり、何らかの分野で売れている美人なりがモデルで、もちろん着衣のスナップ・ポートレートだ。モデルさんの性格なりその時点での状況なりを「なるべく自然風に」表現しようとしているようだ(注;完全に「自然に」ではない)。
 男目線のグラビアが、被写体を性的な対象として見た写真なのに対して、こちらは読者、特に女性読者が被写体の人柄全体に「共感」するような狙いの写真であるように見受ける。読者は男性であっても女性であってもいい。少なくとも、女性が目を背けたくなるようなものではない。「万人が見て感じのいい写真」だ(常に素晴らしいとは思わないが、大外れは少ない)。

 ある大手出版社の編集者から聞いた話だが、大変有名な女性の評論家がこの「原色美女図鑑」に是非登場したくて、かなりの働きかけをしたらしい。しかし、編集サイドは、この方はこのグラビアの趣旨に合わないという理由で却下したのだという。文藝春秋社の単行本のビジネスを考えると、この申し入れを拒否するのは相当の勇気が必要だったと推察するが、グラビアのコンセプトを守り通した「断る力」には敬服する。ブランドを守るには、短期的な利益の誘惑に勝たなければならない場合がある。
 グラビアのタイトルからだけでなく、マーケティング的な観点からも、女性の有名人なら一度は登場したい好感度の高いページなのだろう。かつて、ベンチャーの経営者が続々と株式公開を果たしていた頃、数多くの男性経営者が「GQ」誌の表紙に登場したがったらしいが、これと少し事情が似ているかも知れない。

 「週刊文春」は、駅でもコンビニでも売っているが、家庭でも多く読まれているようで、発行部数が多く週刊誌の中では成功している雑誌だ。
 一方、「週刊現代」はどちらかというと男性読者中心に読まれていた雑誌だが、一時、「週刊文春」のように男性にも女性にも読まれるような雑誌を目指した時期がある。かつては、しばしば袋とじも使って、いわゆる「ヘア・ヌード」を積極的に強調して売っていた時期もあったのだが、家庭で主婦にも読んで貰うためには、ヌード写真があっては具合が悪いと判断したようで、ヌード・グラビアから撤退した時期があった。当時のK編集長は「ターゲットは週刊文春である」と堂々と仰っていた。
 この時期、「週刊現代」は多額の訴訟を数多く抱えたことでも分かるように(訴えの累計額は確か28億円だった)、思い切った記事を書いていて、内容は面白かったのだが、結果的に部数は伸びず、むしろ低迷した。
 その原因の一つとして、どうしても気になったのがヌードが消えた後で代わりに載るようになった若い女性の写真のグラビア・ページだった。しかし、「厳密な定義上」ヌードではない写真が載っていたのだが、このページは、ほぼ100%「男目線のグラビア」的な写真が占めていた。近年であればオフィスでも開けない場合が多いだろうし、やはり主婦のいる家庭に持ち帰って読むには都合が悪かったのではないだろうか。方針転換の前後にグラビア・ページの担当者が代わったのかどうかは、寡聞にして知らないが、当時の「週刊現代」の記事は面白かったと思うので、今でもあの(後ろのページの)グラビアは心に引っ掛かっている。

 その後、「週刊現代」は再び男性読者中心に方針を転換したように見える。毎週ではないがヌード写真が復活し、食べ物の情報が増えた。紹介する食べ物も主に男性ビジネスマンが好みそうなものが多い。また、一本の記事が長くなって、読み応えのあるものが増えた。四回に一度担当していた「新聞の通信簿」が無くなったのは寂しいが、私にとっては、全てが好ましい方に変化した。応援したいと思っている。

 とりとめのない話になってしまったが、編集者からも被写体サイドからもあれこれと注文を付けられるグラビア・ページの担当カメラマンは本当に大変だろうと思う。一読者として、男目線、女目線、何れの写真であってもよく見る積もりなので、大いに頑張って欲しい。
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OBの年金は強制削減すべきではない

 この問題は、ダイヤモンド・オンラインで既に取り上げている。同じ話を同じ場所に何度も書くのは気が引けるから、ここで簡単にコメントしておく。JALの公的支援に絡んで、同社のOB(退職者)の年金を強制削減する法案を政府が準備しているというが、OBの年金を強制削減する法律ないし先例は作らない方がいいと考える。

 理由は三つある。
 
(1)JAL以外にも年金の実質的な積み立て不足に悩む企業は複数有る(JALより大規模な不足の企業も複数あるはずだ)。年金債務を削減する方便ないし先例を作ると、こうした企業の経営が傾いたときに、支援(公的支援の場合だけか、私的支援も含むかは注視すべき今後の問題だが)にかこつけて政府(政策投資銀行が債権を持っていたりする)や金融機関が年金削減を狙う可能性がある。

(2)年金は退職者の老後の生活設計の前提条件として重要だ。これを事後的に同意に基づかずに削減することは、退職者の生活にとって非常に影響が大きい。既に裁定された年金額が事後的に強制削減されるような場合を作ると、年金に対する不信・不安が高まる。

(3)年金は一定の契約の下に期待される労働対価の後払いだ。JALのOBも現役時代に給料・ボーナスに年金えお合わせた条件に対して納得して働いていたと考えるべきだ。同社の過去の経営が立派なものでなかったことは確かだろうが、法的な過失などがない過去の社員の期待財産を事後的にルールを変えて削減することは「不正義」だろう。

 報道によると、公的資金がOBの年金支払いに充てられる事態は「国民の納得が得られない」という妙な理屈を政府関係者も言っているようだが、これはJALのOBの年金額が高いと報道で煽って、これを許せないという国民感情をでっち上げて、OBたちの正当な権利を値切ろうとする悪質な情報操作だ(巨額の債権を持つ政策投資銀行にとっては好都合な情報操作である)。

 労働者から政府・金融機関、取引先も含めて、債権者の利害が巨額且つ複雑に絡むJALのようなケースの利害の調整は、会社更生法なり民事再生法なりといった法的な手続きを中心に行うべきだろう。当事者(今回政府は重要な当事者だ)が事後的にルールを変えるような処理をすべきではない。
 国交省をはじめとする政府は、法的な処理の間に、JALの安全運行と残すべき路線の確保を含めた「飛行機を無事に飛ばす努力」に集中すべきだろう。

 尚、JALのOBにとって、①JALが既存の何らかの法的な整理に進む場合と、②強制的な年金削減の下で公的に支援される場合と、③一定の削減に自発的に応じる場合のどれが最も「得」になるのかは、現時点で、私には判断できない(①よりも③が得だと脅すような事態も今後ありうるだろう)。
 同社のOBの皆様方が、判断の結果どのコースを選んでも私は構わないが、②に至った場合には、悪しき先例を残さないように、国を訴えて法的に争う姿勢を見せていただけると嬉しく思う。
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茂木健一郎氏の脱税報道に思うこと

 脳の研究者でテレビ・出版共に露出の多い茂木健一郎氏に税金の申告漏れがあったことが発覚した。
 申告漏れは社会人として良くないことなので同情はしないが、茂木氏が追徴税額を既に納めていることでもあり、ここで、私が「怒る」のは余計なお世話というものだろう(彼は鳩山首相のように政治家でもないし)。税金に気が回らない人が「プロフェッショナル 仕事の流儀」(茂木氏がキャスターを務めるNHKの番組)をやっているのは、説得力の点でどうかとも思うが、ごく軽い内容の番組でもあり(昨日久しぶりに見たが、内容は幼稚な「ヨイショ番組」だった)、NHKが社会的な処罰の側に回らずに、番組で茂木氏を使い続ける判断にも反対しない(NHKの番組ホームページに茂木氏のお詫びが載っている)。
 茂木氏の本の出版状況や今回の問題の記事から推察するに、茂木氏の下には、出版、テレビ番組の出演、講演などの依頼が押し寄せていて、それこそ3年間税金のことを考える暇もないくらい多忙だったのだろう。
 今回の報道で些かショックだったのは、茂木氏が申告漏れした所得が3年間で3億数千万円(4億円に満たないと報じられている)しか無かったことだ。茂木氏は雑所得の申告を丸ごとサボっていただけのようで、所得隠しはしていなかったようだ。税務署は、茂木氏の印税、原稿料、テレビ出演、講演謝礼について、ほぼ全額を把握できただろう。だとすると、茂木氏のようにあれだけ次から次へと本が出て、テレビにも出続けて、各種のイベントにも出演している状況で、1年当たりの収入が1億3千万円程度(単純な割り算による推定)というのは案外少ない。
 しかし、テレビ出演は「文化人価格」(注:一般のイメージよりもかなり安いはずだ)なのだろうし、出版の印税が通常の「10%」、売れっ子だから講演料は高いとしても多忙だから案外回数がこなせないということになると、茂木氏並みの売れっ子でも、確かに、この程度の所得にしかならないのだろう(税務署の能力を信頼しよう)。
 だとすると、「文化人ビジネス」は、経済的には何とも夢がない。
 フィクションの作家を除くと、評論・ノンフィクション・実用書などのジャンルで、茂木氏は、控えめに見ても過去3年間のどの年をにも売れっ子ベスト5には入っていただろう。メディアにも出続けていた。この世界では、「一握り」以上の「一つまみ」くらいのレベルの大成功者であるわけだが、それで年間所得1億円少々というのはパッとしない。
 別の世界では、プロ野球の世界では年俸1億円以上のプレーヤーが数十人いるだろうし、時期によって差はあるが外資系の証券会社にも控えめに見ても、東京だけで、数十人単位で存在するだろう。
 「節税には全く興味がない」と茂木氏が言うように、「文化人」の主たるモチベーションは経済的な利益ではないのだろう。あれやこれやと儲ける仕組み作りに熱心な文化人に対して、「浅ましい」感じがするのも事実だ。しかし、「あんなに忙しくて、あんなに本が出ていても、こんなものなのか」という観は否めない。
 一つには「日本」(要は日本語圏)のマーケットが小さいためなのかも知れないし(しかし、日本のプロ野球や芸能人の成功者はそれなりにリッチだ)、もう一つには、文化人が世間の注目を上手に換金するビジネスモデルに疎いのだろう。
 基本的に他人事なので、どうでもいいのだが、ちょっとガッカリしたニュースだった。
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「新聞の通信簿」(経済記事担当)を振り返る

 筆者は、「週刊現代」で「新聞の通信簿」という新聞6紙の記事を較べ読みする連載を担当していた。魚住昭氏、佐藤優氏、青木理氏と私の4人でリレー連載していたものだが、現在発売中の「週刊現代」(11月14日号)をもって、筆者の担当回は最終回となる。最近編集長が交代したこともあって、連載の見直しをするようだ。「週刊現代」は、記事に読み応えが増えて、グルメ情報とオヤジ読者向けのグラビアが充実してきている。雑誌としては面白くなっているので、今後に期待したい。

 連載最終回の原稿は、連載担当期間中最大の事件であった金融危機を取り上げた「リーマンショック一周年」の記事の採点と、過去通算40回分の採点の発表を一緒にしたものだったが、過去の採点表を載せるスペースがなかったので、ここでご紹介する。

 連載メンバー4人の中で筆者は、いわば「経済部」であり、主に経済記事を取り上げて評価したが、過去に取り上げたテーマを一覧して眺めてみると懐かしい。

 あくまでも経済記事が中心で、それも全紙を均等に深く読んだのは連載担当の場合だけなのだが、個人的な印象としては、点差は大きくないが、「読売新聞」の取材がしっかりしているように思った。民主党のマニフェストや公的年金の損失額を手に入れるのが明らかに他紙よりも早かったし、経済記事の見せ方も気が利いていた(ただし、社説は切れ味が今一つだと思う)。他紙に対する評価は、「週刊現代」をご一読いただきたい。

 この連載を止めると、自宅購読に6紙は多すぎる(片付けだけでもかなり大変だ)。連載を始める前までは、自宅で「日本経済新聞」と「朝日新聞」を読んでいた。これからどうするかというと、もともと自宅で読んでいた2紙に「読売」を加えた3紙を読むことにした。仕事上「日経」は必要だとして、ここのところ「朝日」が頼りない印象だし、「朝日」とは別の意見を持ちやすい新聞をもう一紙読む方がいいと考えたので「読売」を加える(佐藤優さんによると、霞ヶ関の人々が気にしている新聞は圧倒的に「朝日」らしい。現段階で「朝日」は止めにくい)。

 私の場合は、「新聞の通信簿」が終了しても、その他の原稿書きなどを考えると、新聞を3紙購読しても十分にペイするが、仮に、私が近年就職したビジネスパーソンだとすると、新聞は自宅で購読しなくてもいいような気がする。

 ロイター、朝日、日経、時事通信くらいに2、3の海外メディアを加えてニュース・リーダーに登録しておいて、毎日チェックするとニュースに「遅れる」ということは先ずないし、いつどんなニュースがあったかが分かれば(つまりニュースを検索すれば)、事柄の詳しい内容を知りたい場合に十分な手掛かりとなる。自宅で紙の新聞を購読することは必ずしも必要ではない。アメリカなどで見られるように、紙ベースの新聞を中心とするメディアの経営は今後苦しいに違いない。

 今しばらくは(長くても数年の「しばらく」だろうが)、新聞社が記事の内容に責任を持っていて、記者も新聞社も名誉と法的なリスクを負って記事を発表していることで、新聞の記事に一定の権威がある。しかし、今後、書き手が実名のニュースが発表されるようになると、ネットの記事でも(たとえば一ジャーナリストのブログでも)、書き手にとってのいわば「賭け金」は変わらない意味を持つので、記事は同様の信憑性を持つようになるだろう。そうなると、紙の新聞そものには特別な権威や価値が残るわけではない。現在は過渡期だろう。

 複数の新聞社が現在のJALと似た経営問題を抱え、新聞記者OBの年金を削減できないかといった議論をするようになる時代が遠からず訪れるようになるのではないだろうか。ただし、この場合、新聞社は構造不況業種になるが、個々の記者の中にはジャーナリスト個人として大きな経済的価値を持つようになる人が現れるのではないか。経済価値が、新聞紙や新聞社ではなく、個々のジャーナリストなりニュース記事なりに対して発生するようになるなら、それはいいことだろう。

 そうした場合に、たとえば、ジャーナリスト個人が広告スポンサーの影響を受けずに客観的な記事を書くことが出来るかが問題になる。もちろん、記事の質に関する評価情報にもニーズもあるにちがいない。何らかの形で「ジャーナリストの通信簿」的な第三者による評価が行われることになるかもしれない。

 
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