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偉くてマナーの悪い人物をどう扱うか

 11月は、私としては、なかなか忙しかった。例月以上の原稿〆切(一日当たり一本以上)に、単行本の締め切り(27日校了)、さらにテレビ・ラジオの出演・収録が相当の数あり、加えて講演が4回あった。
 そして、この講演の4回目が最悪だった。
 さる地方都市で行った講演で、50人程度の主に企業経営者を相手にした夕食会での講演なのだが、最前列に座った地元経済界の重鎮と覚しきR社のN会長が隣に居る会の主催者とぶつぶつ話す私語がうるさかったのだ。
 N会長は70歳はこえておられる方なのだろうと推察する。ずっと話している訳ではないのだが、おそらく何か感ずるところがあると我慢が出来なくて、隣に座っている人物に話しかける。弁当とビール・ウーロン茶程度のものがある気楽な会(質疑を含めて2時間)だが、他に、講師の話中に私語に及ぶような行儀の悪い出席者はいない(大人なのだから、当たり前だが)。
 しかし、しばらく話がとぎれても、また思い出したように、ぶつぶつぶつぶつと、N氏は隣の人物に話し始める。他の聴衆の表情を見ていると、N氏の話し声を気にしているようだが、これにどうするつもりなのかと、私の様子をうかがっているような感じだ。
 私は、話の途中でN氏に注意しようかとも思ったのだが、主催者はN氏に随分気を遣っているようであり、また、N氏とは初対面であり、実は傷つきやすい老人であるかも知れず、諦めて無視することにした。老人にも教育が必要なことがあるから、本当は、他人の前で一恥かかせてでも注意した方がよかったのかも知れないが、主催者のビジネスの都合が分からないので我慢した。マイクを通した私の声は会場全体に届くはずなので、私がN氏の私語を気にしなければ、他の出席者にとっての実害は大きくないと考えることにした。
 とはいえ、私語は気になる。話していて、自分の話が面白くない。
 出来の悪い生徒を相手に授業をする教師はこんな気持ちかとも思ったが、教師は通常生徒に注意しても問題はないから、自分の方がもっと不利な状況なのだと気づいて、余計に気が滅入った。
 話の後の質疑応答でも、他の質問者が先に挙手しても、後から手を挙げたN氏に質問のマイクが回ったから、N氏は、おそらくは、この集まりでは「一番偉い」と周囲が認める方なのだろう。
 質問してマイクを持ってN氏が話した内容は、3分間の自社の自慢話(借金に頼らずに堅実に経営したことや、現在の株価など)と、30秒の、私の話(経済の話)にはあまり関係のない質問だった(不景気だと、戦争になることはないか? というレベルの質問)。
 私は、それまでの一時間半の我慢を無にしないようように、N氏が満足しそうな無難な答えを返したのだが、自己反省するに、サンクコストに拘りすぎたかも知れない。
 結局、私の話と質疑は、全体を通して、N氏の機嫌を取った形になった。おそらくは、主催者の利害に一致していたのだろうと思うが、「我ながら、よく辛抱した」という気分がある一方、「これで本当に良かったのか」という疑問と、「無用な我慢をしたのではないか」という後悔が残った。
「評論家」商売の一般的ビジネスモデルを考えると、講演が好きでないと具合が悪い(原稿書きやテレビは、講演よりも時間当たりの経済的効率が良くない)のだが、なんだか講演が嫌いになりそうで、困った。私は、もともと、テレビやラジオの仕事の方が講演よりもストレスが小さい。
 もっとも、質の悪い上司を持ったサラリーマンの会議の我慢に比べると、どうということはないので、この程度のことで気分が悪くなるのは、フリー的な商売で、(私が)わがままになったということなのかも知れない。
 何はともあれ、週末には気分転換が必要だ。
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人はギャンブルから何かを学べるか?

 来月に出版予定の拙著「超簡単お金運用術」(朝日新書)の本文原稿がやっと完成した。ここのところスケジュール的には綱渡りの状況が続いている。
 この本は、内外株式二つのETFと個人向け国債、MRFを使った個人の資産運用のシステマティックな簡便法を主に説明するものだが、お金に関連する話題を幾つか扱っており、ギャンブルのススメとギャンブルとの付き合い方を語った項目がある。以下の文章は、その一部だ。

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 著者は、大金を張るギャンブラーではないが、ほぼ毎週馬券を買う競馬ファンであり、ギャンブルは好きだし、人がギャンブルに興じることに対して肯定的な意見を持っている。学生時代、若手サラリーマン時代は、長らくパチンコで日用品の多くを賄っていた。子供にも、幾つかのギャンブルを教えようと思っている。ついでにいうと、著者の妹はディーラーのトレーニングも受けた専門家レベルのカジノ通だ。
 本書も含めて、これまでの著書では、生産に資本の形で参加する「投資」と、基本的に参加者間のゼロサムゲームである「投機」とを区別して、株式投資は前者、為替リスクを取るのは後者といった分類をしてきたが、これは、敢えていえば「投資」は有利なギャンブルだという点で(期待回収率が一〇〇%を超えるから)、これを投機と区別しているのであって、「投機」を悪だとは考えていないし、かつて仕事で関わった為替のディーリングは面白かった。現在、ネット証券に勤務していなければ(注:楽天証券はFXも扱っている)、株式投資もFXも間違いなく個人の楽しみとしてやっていたであろう。)
 本人にとって楽しいということを除いても、ギャンブルは二つの点で人間にとって良い。
 一つは、幾つかのギャンブルでは、真剣に頭を使うということだ。これは、人がギャンブルを続けて行くべき理由になる。
たとえば、競馬でも、FXでも、考えるときりがないくらい考慮すべき要素があるし、常に新しい状況が生まれる。そして、ギャンブルに参加するにあたっては、「かくかくの理由で、こうしたら、儲かる確率が大きいはずだ」というゲーム・プランを持たなければならない。著者の個人的な見解だが、ゲーム・プランを持たずに参加してもギャンブルは面白くないし、これを持たないギャンブラーは人間としてツマラナイ。
著者もゲーム・プランを忘れて単なる勝ち負けだけに興奮して無駄な賭をすることがあるが、厳しくいうと、これは精神を失った肉体が刺激に反応しているだけの状態だ。あるいは、人間の根本はそんなものなのかも知れないが、勝ち負けの刺激に反応するにしても、もう少し複雑でありたい。
ギャンブルの二つめの効用は、世の中には自分の思うに任せない物事が多々あるということを実感を伴って知るには、一度真剣にギャンブルをしてみることが有効だということだ。これは、人が一度はギャンブルを経験してみるべき理由になる。
世の中が思うとおりにならないことは、失恋や受験の失敗、あるいは確定拠出年金などを通じて知ってもいいのだが、賭けの額が深刻でない(しかし気持ちは真剣な)ギャンブルくらいで知ることは、有効な精神的予防注射だろう。
世の中に「絶対確実」というものはないし、仕事の世界でも思うに任せないことは多い。一生懸命やっても負けるときは負ける。ならば通算で多く勝てばいいと考える。実感として感じることと確率として正しいことには、かなり差があるということもある。ギャンブルから学ぶことは多い。
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 人生がギャンブルの連続であることは間違いないが、人間は本当にギャンブルから何かを学べるものだろうか。作業員さん、moto金田浩さんや、読者の皆様はどう思われるだろうか。
 エントリー「人生を変える本」の次の皆様の集合場所にいかがかと思うのだが、どうだろうか。もちろん、常連さん以外のコメントも遠慮はいらない。作業員さん、その他のコメンテーターの皆様が歓迎してくれるだろう。
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物欲の秋

 リーマンショック以来ざっと2ヶ月が経ったが、個人的には、この間なかなか忙しかった。リーマンや株価のせいばかりではないが、テレビ、雑誌などの取材(受ける方)の件数が多かったし、原稿の〆切(雑誌、単行本両方)、講演の準備などで、全般的に時間が足りなかった。加えて、生活が大いに不規則になった。(これらは、このブログの更新ペースが落ちたことの理由でもある)
 以前に、生活時間帯を朝方に修正しようとした時期があり、このブログにも書いてみたが、たとえば一週間の原稿〆切が14本といった時間の足りない状況になると、生来の夜型の生産効率に頼ることになる。結局、傾向としての夜型というレベルにとどまらず、昼夜逆転ではないか、という状況になった。時間を見つけて3時間くらいずつ2回寝るというような日が多かったのだが、明らかに明るい時間に寝ていることが多かった。
 私の仕事の様子は資本主義以前の("搾取"の対象になる人手を雇っていない)原始的手工業とでもいうべき段階だ。仕事の依頼が増えると忙しいし、依頼が減ると暇になり、仕事の量の決定は概ね受動的だ。アシスタント的な人材を雇いたい気がしなくもないが、さすがに「100年に一度」の状況に合わせてコストを抱えるのは賢くないだろう。
 さて、自由時間が減ってストレスが増えると買い物がしたくなる。誰もがそうだ、という訳ではないが、ショッピングでストレスを解消する人は少なくあるまい。私の場合、ストレス解消になる買い物は、機械系の耐久消費財であることが多い。
 着る物を買うのが楽しみだという人は少なくないだろうが(特に女性)、私の場合、着る物を買うのは半ば義務的な手続きであり、支出でもあるので、楽しい感じがしない。買い物を楽しむことが出来るレベルのファッション・センスがないからだが、少し残念なことだ。
 飲食も楽しみだが、これは買い物による所有の楽しみとは少し違うような気がする。飲食にもそこそこにお金を使うが、私の場合、物欲と食欲は別物だ。
 さて、現在、何が欲しいか。幸い、時計のような高額なものは現在欲しいと思わない。しかし、デジタル・カメラが2台欲しい。
 一つは、CanonのEOS5D-mark2だ。
 キャノンのデジタル一眼レフとはどうも巡り合わせが悪い。今までD30、20D、40Dと何れも程なく後継機が出る機種を買ってしまっている。フィルム一眼時代のレンズを相当数持っているので(一世代前のものが多いが性能的には問題ない)、35ミリ・フルサイズの受光素子を持つボディーが欲しかったのだが、5Dが意外に長命で(デジタルなのに3年も保った)、「また買って直ぐに後継機が出ると嫌だ」と思って、手が出なかった。やっとその後継機が出たので、今度は、是非手に入れたいと思っている。
 35ミリ・フルサイズのデジタル一眼レフは、ニコンがD3、D700と魅力的な製品を出してきたので(特に高感度でのノイズの低さに惹かれた)、余程ニコンに乗り換えようかと思ったが、EOS5D-mark2が何とか間に合ってくれた。
 もう一つの物欲の対象は、auのW63CAという携帯電話だ。これは、カシオ製の携帯電話だが、800万画素、28ミリ画角(35ミリ版換算で)のレンズ、最高ISO感度1600など、携帯のカメラでありながら、広い範囲で実用になる性能を備えている。TVのワンセグも使える。リコーのGRデジタルIIの代わりを100%務めるのは無理だろうが、相当に良さそうだ。私は現在、W53CAというこの機種の先代に当たる機種を使っているのだが(サイズが縮小されているがこの携帯で「巨匠」を撮った写真をupしておく)、性能差が大きいので、是非買い換えたいと思っている。
 たいした写真を撮るわけではないが、カメラが欲しいのは、たぶん、最近写真関係の人にお会いすることが多いからだろう。
 当面は、明らかに不景気で、物欲を満たすような気分ではない方が多いかも知れないが、読者の皆さんも、年末に向けて「欲しい物」はあるのではないだろうか。サブプライム不況は、実物経済面ではこれからが本番だろうが、ずっと鬱屈していると不況を長く感じる。多少の余裕のある人は、パッと買い物をするのもいいのではないか。
「使うものなら、早く買って、大いに使う方が、無駄がない!(ということもある)」と背中を押しておく。
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日経平均と糸瀬茂さんの思い出

 10月28日の「日本経済新聞」の一面トップの見出しは「日経平均26年ぶり安値」だった。前日の終値7162円が、バブル後の最安値7607円(2003年4月)を下回り、1982年10月7日の7114円以来の安値になるという記事の内容だ。
 事実に相違はないから「誤報」だとは言わないが、過去の経緯を知っていると、ちょっとツッコミを入れたくなる。なぜかというと、日経平均は、2000年の銘柄入れ替えの際に、株価全般の水準とはほぼ無関係に、当時の値で2千数百円、率にして12、3%は下ブレして、分析上の連続性を失っているからだ。
 この時に、銘柄入れ替えでどれくらい「ズレた」のかは、計算の方法によって諸説あるのだが、私は、入れ替え時点を含む前後2週間の期間のTOPIXと日経500がほとんど変わっていなかったのに対して、日経平均が十数%下落していたことから、「12、3%は、相場全般の変動と関わりのない要因で下ズレした」という内容の原稿を書いた覚えがある(たぶん「週刊ダイヤモンド」だと思う)。これは、どちらかというと控えめな推計だったはずだ。
 簡単に言うと、入れ替え時点に向かって、除外銘柄が売られて、新規採用銘柄が買われて、証券会社の自己売買の影響もあって、最後の株価が前者は下に、後者は上に大きく振られて株価(金曜日の終値で計算される)が計算された。入れ替えられた銘柄は225銘柄のうちの30銘柄だったが、新規採用銘柄に値嵩株が多かったこともあって、ポートフォリオの内容としては51%程度入れ替わったと記憶している。
 当時、証券会社の自己売買部門では業界合計で2000億円以上の儲けが出たとされる大イベントだった(最大手は800億円儲けたと関係者から聞いたことがある)。逆に、日経平均連動の投資信託を持っていた投資家や先物のロング(買い持ち)を持っていた人が大損したのだった。
 日本経済新聞社は、さすがにこの件以降は、もっと慎重に銘柄入れ替えを行うようになったので、あの時のような理不尽な(特にインデックスファンドの投資家には)入れ替えはその後は行われていないが、相場の分析上、2000年の銘柄入れ替えの時点で日経平均は、十数パーセント狂っているという事実は動かない。
 日経平均はポピュラーな株価指数だから、これを報道することは悪くないが、良心的な新聞報道としては、銘柄入れ替えの影響について注記すべきだったと思う。当時の銘柄入れ替えの際に責任のある立場だった人がまだ会社に残っているのだろうか(事実は未確認だ)。
 あの銘柄入れ替えでの狂いが仮に12、3%だとすると、10月27日の終値が、「バブル後最安値」であることは間違いないが、実質的に「26年ぶり安値」ではないから、記事は不正確だ(日経平均の分析上の不連続性を「常識」とみるというなら「不正確」ではないが、「不十分」、「不親切」ではある)。
 尚、割合どうでもいいことだが、2000年で日経平均の連続性が壊れているとすると、2000年を跨ぐ長期のチャート分析で日経平均を使うのは不正確だ。チャートはこれを予測目的に使う限り、インチキ占いのようなものだと思っているが、インチキ占い師にも、「ていねいなインチキ占い師」と「いいかげんなインチキ占い師」の二通りがある。
 日経平均の銘柄入れ替えを思い出すと、いつも故・糸瀬茂さん(最後は宮城大学教授)のことを思い出す(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E7%80%AC%E8%8C%82)。
 糸瀬さんとは、村上龍さんのJMMの座談会でご一緒したことがある。当時、日本の不良債権問題について、銀行は事実の隠蔽、損失の先送りをすべきでない、という論陣を張っておられて、国会に参考人として出席したり、テレビにもよく出演されたりしていた。
 座談会の後に、村上龍さんや座談会のメンバーと一緒に食事をして、その後、時々メールでやりとりするようになった。
 日経平均と関係するのは次のようなエピソードだ。
 糸瀬さんが日本経済新聞社から本を出そうとしたときに、この銘柄入れ替えについて触れようとしたところ、編集サイドから、この問題には触れないで欲しいと削除の要請が来たのだという。そのとき、糸瀬さんから「日経にも反論のページを用意してもいいから、この問題は指摘したい。しかし、相手は日経なので、得失を慎重に考えなければならない。山崎さんはどう思いますか。率直な意見を教えて下さい」という趣旨の相談メールが来た。ビジネス的にも、意見発表のチャネルとしても日経は大切だが、さて、どうしたものだろうかというニュアンスだった。
 私の返信は、
(1)銘柄入れ替えには日経に明らかに落ち度があり、
(2)反論ページを用意しても日経は満足な反論が書けないだろう。しかも、
(3)日経はこの問題に極度に神経質であり「議論する」余裕はなさそうで、
(4)単行本の編集部は著者と会社の板挟みの状態にあるはずだ。
(5)ビジネス上、意見発表上の影響は考えつつも、批判はすべきだが、日経の本でやらなくてもいいのではないか、
というような内容だったと記憶している。無難でつまらない答えだが、正直に答えた。
 3ヶ月くらい後に送られてきた糸瀬さんのご著書には、日経平均の銘柄入れ替えに関する記述は無かった。
 糸瀬さんは、第一勧銀に就職された後、外資系の証券会社を何社か経て、宮城大学の教授になった方だった。村上龍さんも一緒の会食の際に、「どうして外資系証券会社を辞めたのですか?」と訊いたら、「私は、仕組み債を売るのが嫌で辞めました。あれは良くない」と仰っていて、意見が一致したのを覚えている。
 その後、程なく、糸瀬さんは食道ガンに冒された。ネットで病気の情報を収集し、同病の患者達と情報交換し、病状に対して客観的だが、希望を失わない、見事な病人ぶりだった。村上龍さんには「早く病気を退治して、銀座で豪遊したい」とメールしていたように記憶する。しかし、現実は残酷で、ご病気の状態は常に予測の下限を少しずつ外れて、病状の進行は容赦なく速かった。
 糸瀬さんは、体力が続くぎりぎりまで、テレビなどで意見を発信されていた。現在の世界的な金融危機は、不良債権を核とした金融機関の問題であり、証券化商品という「仕組み物」が深く介在した混乱だから、糸瀬さんがご存命であれば、きっと大いにご活躍されているはずだ。
 月並みだが、残念でならない。
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