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生活保護受給者にジェネリック薬強要のむごさ

 私は、幸い日頃から薬にあまり縁がないが、二日酔い対策の胃薬(食後に飲んで効くタイプがいい)と疲れた時のビタミン剤くらいは時々飲む。この場合、ビタミン剤には相性があり、特定の薬を指名買いする。その際に、薬の量販店では、「みな似たようなものです」と言われたり、「この薬はこちらのものと中身が同じです」と別の薬を勧められたりすることがあるが、いつもの薬を買う。効能書きが同じ別の薬を、試供品も含めて、これまでに何種類か飲んだことがあるが、妙に胸焼けしたり、お腹が下ったり、何となく効きが悪かったりしたことが一度ならずあり、決めた薬を飲むようになった。効果の違いには、いわゆるプラシーボ効果(気分の差による効果の違い)も含まれていると思うが、半ば気分のために飲むビタミン剤だから、私にとっては重要だ。

 冒頭から年寄り臭く薬の話などを書いた理由は、4月27日の「毎日新聞」で、「生活保護には安価薬」「不使用 手当打ち切りも」という、何とも「むごい」感じがする記事を見たからだ。
(注;長年サラリーマンをの話を聞いていると、年を取ると目立って健康関連の話題が増えるようだ。若い、と思われたい人は気をつけるといい)

 記事から引用する。「全額公費負担で医療を受けている生活保護受給者への投薬には、価格の安いジェネリック(後発)医薬品を使うよう本人に指導することを厚生労働省が都道府県や政令都市などに通知していることが分かった。指導に従わなかった場合、生活保護手当などの一時停止や打ち切りを検討すべきだとしている」(毎日新聞、4月27日、朝刊1面)。

 厚労省が近年医療費抑制に必死なのは分かるが、これはひどい。医療費が全額公費負担といっても、不安感や不利感を覚えずに通常の患者のように薬を選ぶことができて当然だろう。現実には、医師の判断で薬が選ばれることが多いと思うが、生活保護を受けている患者にはジェネリック薬しか使えないというような差別を設けることは、精神的に不健康だ。
 「毎日新聞」の記事によると、ジェネリック薬は、主成分以外の溶剤やコーティングなどが先発薬と異なることがあり、「先発薬と(効能が)全く同じではない」として後発薬の使用に抵抗感や不安を感じる医師や患者もいる、と書かれている。ケース・バイ・ケースだろうが、プラシーボ効果も含めると実質的な違いが無視できない場合もあるだろうし、だからこそ、ジェネリック薬は厚労省の期待ほど普及していないのだろう。それなのに、後発薬の使用を強制するのは可哀想だ。
 また、医療費の抑制手段としても、生活保護受給者の薬をジェネリック薬に少々切り替えることの効果はたかが知れているのではないだろうか(この点は私の推測に過ぎない。どなたか、数字を持っていたら教えて欲しい)。
 
 生活保護受給者なら、病気の際に使う薬で差を付けてもいい、という考え方の背景には、「生活保護を受けることは、悪いことだ」という生活保護受給者への差別ないしは蔑視があるのではなかろうか。しかし、多くの生活保護受給者は、やむなく生活保護を受ける生活をしているのであり、行政の担当者にあって必要なのは、生活保護受給者への、軽蔑ではなく、同情だろう。実際、記事にも、ある自治体の担当者が、どう説明していいかと「戸惑った様子で話す」と、紹介されている。
 厚生労働省という役所は、一体どうなっているのか。
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「死刑廃止論」に訪れた幻のチャンス

 野村のインサイダー事件が発覚した22日は、光市の母子殺人事件の差し戻し審の判決があった日だった。インサイダー問題の報道は時間的に丁度この件と重なるので、新聞を繰ると、死刑判決のニュースと被害者のご遺族である本村氏の顔写真が大量に目に入った。
 この話題の中で似たもの探しは不謹慎かも知れないが、本村氏は、「木村剛氏に弟がいればこんな顔か」と思えるような、いかにも真面目そうで意志の強そうなお顔立ちだ。また、メディアへの対応も木村氏に負けないくらい堂々としている。たいしたものだと思う。
 本村氏は、たぶん、死刑という刑罰が現に存在するならこの犯行が間違いなくそれに該当するという確信と、今の日本には死刑が必要だというお考えがあって、死刑判決を求め、これを肯定的に評価したのだろう。事件にごく近い当事者である彼の判断について、良し悪しを言う積もりはない。
 ただ、「生きたい、生きたい」と言っている人間(犯人)を、社会が寄ってたかって死刑にした今回の展開は、正直なところ気持ちのいいものではなかった(本論ではないが、本事件の弁護団の戦術も気持ちのいいものではなかった)。
 個人的には、まだ確信を持つまでには至らないが、「死刑廃止論」に一歩近づいた。考え方としても、死刑廃止は戦争反対と平仄が合っているような気がして、好感が持てる。(あとは、死刑が無い場合に凶悪犯罪の発生率が有意にちがうのかどうかが判断上大きな問題だろう)
 この立場から考えると、仮に今回、本村氏が「考えに考えた結果、私は犯人の死を望まない」とでもメディアに対して発言していれば、日本の歴史が変わったかも知れないという点が、少し残念だ。市井の一個人の発言が、世論を動かし、歴史に影響するチャンスは、そうあるものではない。
 ただ、本村氏ご本人に対しては、心から「お気の毒」という意外に言葉がない。
 死刑廃止論者は、別の説得材料を探さなければならない。
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野村のインサイダー取引事件の新聞報道を見て思ったこと

 この件については、テレビでもコメントしたし、これから複数の媒体に原稿を書くことになると思うが、新聞を見ていて気付いたことを幾つかメモしておく。

(1)この事件の報道は「読売新聞」が抜いた。同日朝の遅い版では「日本経済新聞」にも記事が出ているが、一面トップに概容を載せただけの、明らかに後追いの記事だった。競馬で言うと、一馬身まで差が付かなかったが、半馬身程度は明確な差があった。読売の情報ソースは分からないが、その後の「逮捕へ」という見出しが早い点などから見て、地検筋だろうか。

(2)事実の概容はほぼ報じられている印象なので、必然的に、野村證券の経営責任に注目が集まる。これは当然だ。
 報道によると、元野村社員だった容疑者の担当外の王子・北越のTOB問題でもインサイダー取引があったという。野村の組織的な情報管理体制に不足があったことは、ほぼ間違いない。しかし、この件に対する追及の厳しさは、新聞によってちがう(各紙とも概して甘いが)。

(3)上記の点が明らかなのに、野村證券の渡辺賢一社長が22日の記者会見で「個人の犯罪」を強調したことは、全く不適切だった。
 渡辺氏が、どんな方なのか全く存じ上げないが、しょせんサラリーマンとしての命が惜しい「小物」だという印象を持った。会見で対策として、倫理・教育以外に具体策が出てこない点でも危機管理能力に乏しい(これでは「しょせん精神論で、信用できない」と世間が思うだろうから)。記者会見の発言から見る限り凡そ「野村の社長の器」ではない。どうするのが会社のためにいいのかは、もはや明白だろう。

(4)渡辺社長は会見で、この件を知ったのは22日の早朝と答えているが、これは正しいのか。或いは、これで、大丈夫なのか。
 23日付の「東京新聞」(3面)によると、証券取引等監視委員会は、容疑者が香港法人勤務のため、「事情聴取を行うため、野村に協力を要請。出張で来日させるという手の込んだ手法で、22日の朝、身柄の確保に成功」した、とある。監視委員会から野村への要請が何日の何時に行われたかが問題になるが、22日の朝に問題を知ったことが嘘であるか、要請があったのに社長まで報告が行っていなかったかのどちらかではないのだろうか。前者なら「社長の嘘」、後者なら「危機管理(報告)体制不十分」ということだ。細かな点だが、この点の事実関係にも注目したい。

(5)元社員だった容疑者及び逮捕された協力者(2人)は何れも中国人だったという。一見、外国人だったから起こった問題であるようにも見えるが、彼らが外国人であることと、本件は安易に関連づけるべきではないだろう。その点を論じるなら、そう考える理由なり、外国人の方がインサイダー取引が多いといったデータが必要だろう。単に、「グローバル化時代の人材管理が問われる・・・」というような言いっぱなしの指摘や問いかけには、外国人就労者にとって根拠無き不利益となりかねない無神経さがある。この点でも、新聞各紙で差があった。

 それにしても、たかだか野村證券に大きな期待を持つべきではないのだが、何ともお粗末な今回の事件に、私は同社の株主でも社員でもないのだが、がっかりした。
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搾取する資本と、搾取される資本

 二ヶ月くらい前だっただろうか。週刊「AERA」で、佐藤優さんがマルクスを紹介しておられた。
 いい意味で機を見るに敏な「AERA」であり、佐藤優氏である。ワーキングプアが大量に発生していることに象徴されるように、資本(家)が労働者を明日の労働力を再生産することができる程度のギリギリの賃金で働かせて搾取する、古典的な「絵に描いたような資本(家)による搾取」が、現在、存在していることは事実だろう。マルクス再読のススメは、現状に不満や不安を感じる若者(本を読むくらいには知的な若者だが)にウケるかも知れないし、それ以上に、昔マルクスないしはその周辺の思想を囓ったことのある"前期高齢者"くらいの年齢層の心に響くだろう。彼らは、紙に印刷された活字の最大かつ最後の購買層かも知れない。悪くない目の付け所だ(決して、皮肉ではない)。
 俗に新自由主義というレッテルで語られる考え方のどこが「新」なのかは今一つよく分からないが、市場メカニズムを通じる労働者間の競争の激化が、多くの労働者にとって非常に厳しい経済的条件をもたらし、資本(家)に利益をもたらしていることは一方の現実だ。
 他方、資本(家)が常に搾取する側に回っているかというと、必ずしもそうではないような感じがする。端的に言って、資本(家)が「カモられる」ことが、方々で起こっている。カモる側の主体は幾つかのカテゴリーに分かれている。主にアメリカを見て思うわけだが、一つには経営者層であり、もう一つにはスポーツ選手や芸能人或いは成功した医者や弁護士のような個人を商品化して成功した人々であり、加えて目立つのは金融マンだ。
 最近見た本に説明を探すと、「米国はどこで誤ったか」(ジョン・C・ボーグル著、瑞穂のりこ訳、東洋経済新報社)は、「マネージャー資本主義」という概念を使って、株主による企業統治の空洞化と、経営者(層)による企業の実質支配及び彼らの報酬の巨額化を批判した。一方、「クリエイティブ資本論」(リチャード・フロリダ著、井口典夫訳、ダイヤモンド社)は、”クリエイティブ・クラス”(知的な生産に関わる職業全般を指す)という概念を立てて、今やこの集団が大きな経済力を持ち今後の世の中のありように関して決定力を持っていることを説明している。現状に関して前者ははっきりとネガティブなイメージで、後者(原書は数年前に書かれたものだが)は相対的には明るいイメージだが、企業の法的な所有者である資本家(≒株主)ではない人々が企業と経済を動かし、大きな報酬を取る社会を描いている。
 ここで敢えて「資本」というものを漫画に描くとすると、下半身を中心に手足と身体が野蛮に強くて、弱い労働者に対しては遠慮無く牙を向ける食欲旺盛な肉食獣が、しかし、頭の方は小賢くてどう猛な別の種類の動物に喰われているような、かなり気持ちの悪い絵になるだろう(残念ながら、私には、これらを具体的に描くだけの画才が無いが)。
 資本家以外で巨額の経済的報酬を得ていることを以て"資本を食い物にしている"と推定するとするならば、資本を喰う人々には、ボーグルが非難するジャック・ウェルチのような経営者ばかりではなく、高収入を得るような金融マンや、有名なタレントやスポーツ選手に弁護士のような人たちが含まれるし、各種の売れているアーティストもその仲間だ。
 人を喰う資本と、人に喰われる資本。怪しい概念で説明できると格好がいいのだが、起きていることを眺めると、構造は案外単純だ。
 資本に搾取されている人々は、資本が提供する機会に向かって競争している。製造業でいうと、製品を通じた間接的な競争もあれば、工場などの海外立地やインドへのソフトウェアの発注のような現象を通じた労働者同士の直接的な競争もあるが、基本的に同じ技能を商品にしている労働者はグローバルな競争も含めた競争に晒されて、労働を買い叩かれている。他方、たとえば知名度と好感度の高いタレントには、これを自社の宣伝に使いたいと思う資本が競争しながら寄ってくるし、個人でも、会社でも、年金基金でも、有能なイメージを持った金融マンにお金の面倒を見て貰いたくて競争するから投資銀行は高い手数料を取ることができる。イチロー選手も石川遼選手もゴールドマンサックスも、お金持ちの側で競争してくれるから高収入が可能になる。
 農業が経済の中心であれば農地を求めて人が競争し地主が経済力を持つし、工業が中心になり資本の蓄積がまだ不十分な時期には生産設備を資本として持つ資本家が労働者を搾取することが可能であり、サービス業(金融もITも芸能もサービス業だ)のウェイトが増してくると稀少なサービスの能力を持った人間が経済力を持つ。サービスの能力には、いろいろな形があるが、敢えて傾向をまとめると、多くの他人の注目を集めていて、ライバルが少ないサービス能力を持った人間が有利だ。「注目(されること)」こそが、現代の資本なのかも知れない。
 世の中をこのように眺めると、取りあえず、二つのことに気付く。
 一つは、日本人が「物づくり」にばかりこだわるのは、経済的に有利ではないだろうということだ。
 もう一つは、他人と似ていて「普通」であることの不利だ。子供には「なるべく他人と似ていない人になれ。普通は危ない」と教えなければなるまい。
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人は所属組織が何割か?

 実は、先日の日銀人事のエントリーは、これから書く話の前置きなのだった。しかし、だらだら書いているうちに長くなったので切り離して独立させた。従って、以下が本題なのだが、そうたいした話ではない。

 さて、副総裁候補になった渡辺・元財務官・一橋大教授は、新聞報道的には、財務省出身だということで、「人物本位」には見て貰えなかったということになっているが、これは、ご本人にとってはどの程度不本意なことなのか。職場としては、日銀副総裁の方が給料は高そうだが、一橋大学の先生の方が自由だろう。どちらがいいかはご本人次第だが、どうなのか。

 渡辺氏が日銀副総裁の方を取りたいとしたら、「私は、もう財務省を離れて、一橋大の教授なのに、私を財務省出身者としてしか見ない世間はけしからぬ」と思うかも知れない。また、ご本人としては「財務省とは何の関係もなく、日銀に奉職する」と燃えていたかも知れない。これは表面的には納得できる話で、転職した民間人が以前に勤めていた会社の人として人物判断されると不本意だろうし、そもそも、所属組織を離れた個人として、どうして認めてくれないのか、という点が釈然としない。

 ごく卑近な例だが、私の場合も、直近2回の転職(明治生命→UHJ総研;UFJ総研→楽天証券)は、所属組織に制約されずに個人として発言できる立場を確保することが主な目的だった。ちなみに、UFJ総研は私の勤務当時、「時間の自由」があり、「発言の自由」も確保された、行動の制約が小さないい会社だったが、親銀行が事実上吸収合併されて実質的に三菱グループ入りした後にも「発言の自由」が確保されることに自信が持てなかったので、念のため、発言の自由が確保される別の会社に移ることにした。合併して出来た研究所が、その後どうなっているのかは分からない。

 通常の金融機関に勤務する場合、たとえば銀行に勤めながら、同時に経済評論家として活動することは、制約が大きくて困難だろう。銀行自体が行員の行動や発言を規制するし、世間もその個人の発言を勤務先の銀行の発信する意見としてしか聞かないだろう。

 発言者の「所属はどこか」という観点から話を解釈するという世間一般の傾向はなかなか修正しがたい。それを嘆いている私本人からして、その傾向から完全には自由でないという自覚がある。

 敢えて、その理由を考えると、世間は個人について得られている情報が限られているから、その個人の所属組織を知ることによって、なにがしか個人を判断し、且つ安心しようとするのだろう。実際、人がどこの誰か分からない状態は相手に緊張を強いるから、所属組織を早めに明らかにすることは、社交場のマナーの一つでもある。

 自己紹介する場合に、(A)「東京都新宿区在住の49歳、山崎元です」と言ってもあまり安心してくれないから、(B)「楽天証券の山崎元です」とか(C)「経済評論家みたいなことをやっていますが、サラリーマンとしては楽天証券に勤めています」などと自己紹介しなければならない。本来は、銀行員だろうと、公務員だろうと、個人の名前で(もちろん実名で)かつ(A)のような一個人の立場で意見を発表する権利を持ち、世間がそれを受入なければいけないと思うのだが、世間の人々の、情報処理の節約欲求と、会社・官庁などの組織が社員・公務員などの行動を制約して管理したいとする欲求、それに、(組織人である)自分が不自由なのだから(同様に組織人である)他人も不自由であって欲しいという嫉妬心のたぶん三つの心理が働いて、上手く行っていない。

 私の場合、かつてUFJ総研に所属していたり、今、楽天証券にも勤務していることによって大きな不便を被ったことは多くはないが、それでも、自分のコメントがUFJグループのものであると解釈されて一揉めしたことがあるし、楽天の関係者という理由でテレビの関係の方から警戒されたりしたことがある。人と会って挨拶する際には、楽天証券の名刺を使うことが多いのだが(メールアドレスはプライベートなアドレスにしている)、相手が楽天のことを話し始めたりして話が噛み合わない場合もあり、「経済評論家」(←特に好きな名乗り方ではないが便宜上)という肩書きで、自分の会社の住所と所属事務所の連絡先を書いた名刺を作らなければならないなあ、と思っているところだ(ネットの名刺製作サービスではテンプレートが上手く対応したものが見つからない。探し方が下手なのだろうか)。

 もとの話題に戻って、渡辺氏の場合だが、世間常識的には(私は財務省人事の実態を詳しく知っているわけではない)、元の所属組織である財務省が職の世話をしてくれているのだろうから、実質的に財務省の人だと思われるのは仕方がないだろう。先に総裁候補だった武藤氏よりも年次が下だから副総裁候補といった具合に、財務省の人事秩序に従った動きになっていた点も含めて、受ける印象は財務省のタマだ。こうした事情は、メイン融資先を多数持っている銀行など(都銀と信託銀行ではこの点で大差が付くようだ)、民間会社でもOBの就職先を持っていて再就職の面倒を見ている会社の社員にもあてはまるし、そうした社員の多くは、自分が○○銀行出身であるとか、××商事出身だとか、出身であると同時に実質的な所属先である組織の名前を早く名乗りたがる(渡辺氏がそういう方なのかどうかは存じ上げない)。

 「人は見かけが9割」という上手なタイトルの本があったが、公務員の場合「人は所属組織が8割」といった感じだろうか(あとは、「年次」が15%?)。銀行員の場合なら、それぞれ5%減というくらいだろうか。

 人を所属組織で判断するのはある程度は仕方がないし、人の側が、組織を利用するのもやむを得ないが、先に述べたように、個人が、組織人とは異なる「純粋に個人の立場」で発言できるような社会ではあって欲しいものだと思う。個人が真に個人の立場を持てる社会の方が、ずっと面白い社会になるだろう。
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日銀人事に思うこと

 日銀の総裁は決定したが、副総裁の人事がまだ決まらない。造反が出て際どかったが、民主党は、財務省OBで一橋大教授である渡辺博文氏の副総裁への起用に反対した。日銀の正副総裁人事については、幾つかの媒体に何度か原稿を書いたので、幾らか食傷気味なのだが、あまりにアッサリと忘れてしまうのもいけないことなので、現時点で考えていることをメモしておこう。

 報道によると、民主党の反対理由としては、小沢代表の「(財務省の)天下りはだめ」という意見が決定的だったという。しかし、小沢氏は、武藤総裁案には当初容認姿勢だったことが既にバラされており、その後、次官でなくても財務省の天下りはダメという姿勢に態度を変えた。一方、武藤氏昇格案を葬る急先鋒だった仙石氏は今度は「財務省出身者が頭からダメというのではなく、人物本位で」ということで、渡辺氏の起用に賛成だったらしい。それなら、武藤氏はよほど人物がダメだったのかと突っ込みたくなるが、国会のやりとりを参考にすると、武藤氏の副総裁時代の低金利政策(への同調)を批判してダメだと言っていたようだ。加えて、ややこしいのは、民主党の鳩山幹事長は、かなりギリギリまで、渡辺氏の副総裁には賛成だと受け取れる発言をしていた。

 敢えて、民主党にも一貫した考え方と戦略があったのだと仮定すると、民主党の混乱は小沢氏の主導を印象づける為だったのかも知れないし、鳩山幹事長は、与党を勘違いさせて誘い出したのかも知れない。また、仙石氏は、出身よりも人物本意に判断するという点で、本人的には一貫しているが、不景気の時に金利を引き上げる日銀総裁を望んでいたのだとすると、経済常識的には不可解だ。普通に考えると、民主党はバラバラで目下、制御が覚束ない状態なのだろう。私は個人的には、「政権交代」を支持しており、その手段として民主党を支持しているのだが、日銀総裁問題に関する同党の対応を見ると、かなり心配な感じがある。

 ただ、政府・与党も、この後に及んで、また財務省出身者を出してくるというのは、相当に重症の対財務省コンプレックスだと思わざるを得ない。財務省の強さと、与党の弱さをここまで露骨に見せられると、こちらも気持ちが悪い。ある意味では、現在の日本は、経済政策に文民統制が効かない状態になりつつあるのかも知れない(たとえば国会議員の大多数が予算案の全体像を理解しているようには思えないが、予算は毎年通る)。もっとも三回目の渡辺副総裁の提示は、与党側が、ダメ元で、民主党の混乱を誘ったものだと考えると、政治的な文脈では納得が行く。
 
 現財務省、旧大蔵省の権力をどう考えるべきなのだろうか。現在の独立性が強化された日銀法の成立経緯を考えると、当時、実質的な目的の一つは、あまりにも強すぎた旧大蔵省の影響力を削ぐことにあった。従って、民主党の財務省出身者はダメだという方針にも、一理ある。この辺の機微に触れずに、(民主党の)「人物を判断しない不同意はかたくなだ」(読売新聞、8日夕刊。「よみうり寸評」)というような、人物本位一本槍の意見には深みがない。昔のことを忘れましたか、と突っ込みたくなる。また「政治が人事をもてあそび、その独立性を侵しているように見える」(同)という意見にも、では日銀人事を誰が決めるのか、国民の意見を日銀に反映するのはいかなる方法でなのか、という疑問が湧く。日銀のあり方は、最終的には政治が決めるしかないし、日銀に政治から隔絶された独立性を持たれても困る。まして、実質的に官僚の世界から提示された人事案を国会が否決すると、日銀総裁の権威を貶めているという理屈になるのは納得しがたい。

 ただ、今回の日銀人事問題に関して、民主党が決定的にダメなのは、対案の候補なり、総裁、副総裁の条件なりを、自分から提示しなかったことだ。「政府からの提示がないと、何も答える立場にない」というようなやる気のないコメントを隠れ蓑に、与党からの提示待ちをして、時間を空費させたことは、政党のあり方として不真面目だ。政治家としてもクズだと言っていいし、しかもこのクズが、道路を塞ぐように散らばっている。

 私個人は、特に今回の田波氏の総裁候補提示を見ると、財務省出身者の起用には反対したい。また、前にも書いたが、武藤氏については、副総裁時代の実績に疑問がある。但し、これは仙石氏の意見とはちがって、利上げの時期ややり方に対する疑問と、福井前総裁の村上ファンド問題(組織内のコンプライアンス問題としての)に対する処置の悪さに対して、「業績のダメな副社長を、社長に昇格させるのはおかしい」というような意味合いで、彼が不適切なのだと思っている。但し、ものは考えようで、今回の件が、財務省出身者は日銀の正副総裁には就かないという有力な「先例」になるなら、将来に向けた意味があった。

 付け加えると、日銀の正副総裁については、基本的には日銀プロパーからの人選でいいと思う。財務省出身者は、金融政策決定会合のメンバーの一人だというくらいが丁度良いバランスではないだろうか。総裁・副総裁は、日銀という組織のトップなのだし、日銀の業務を隅々まで把握していて、金融実務や市場に詳しいことの方が、政界官界や外国向けの「顔」といったこと(財務官僚OBを正当化するような取って付けた理屈だ)よりも遙かに重要だろう。

 今後のサブプライム問題でも、テクニカルに難しいのは、金利の上げ下げ(上げるのでないことだけは確かだし)やその際のステートメントよりも、デリバティブのカウンターパーティー・リスクなども含めた、金融機関どうしのクレジットの網の目に対する理解と地理感や、資金の流れやその手続きに関する理解を背景とした危機管理能力ではなかろうか。竹中平蔵さんが言うように、日銀総裁はインフレターゲットさえあれば誰でも出来る、というものではなさそうだ(自分が推薦されないとなると、イソップ童話のブドウに手が届かないキツネのように、「日銀総裁なんて、たいしたポストではない」と言いたくなるのかも知れない)。

 だとすると、そういう理解と経験を得るための研修の場として最もふさわしいのは、日銀の行員が持っている環境だろう。
 
 また、日銀の行員たちのモチベーション点でも、まるでかつての証券系の投信委託会社のように、トップは上から降ってくる、というような組織運営は疑問だ。民間会社でも、社長は外から来るという会社は、ほとんど例外なく、社員のモチベーションが低く、雰囲気が澱んでいる。日銀がよほど大きく失敗したときに、ショック療法的に、外から誰か(財務省、金融庁出身以外の)を連れてくるという選択肢はあってもいいし、意見・監督的なポジションに外の目を入れた方がいいということはあろうが、総裁も含めてラインの管理職には、日銀プロパーの人材が就くというのが自然だろう。

 財務省の力や、ガソリンの税率など、国会の「ねじれ」がなければ見えてこなかったものが見えたことでもあり、議論し妥協しなければ物事が決まらない状態は、民主主義のあり方としては、悪くない。しかし、たかだか日銀の正副総裁を決めるにあたって、納得的な手続きさえ決められない政治状況は心配だ。これから経験を積むのかも知れないが、しばらくの間は、自動車教習所を経ずに、いきなり一般道に出た車を見るような無用のスリルがある。
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勝負写真用の写真館

 コラムのライターが集まった、ある新聞社の会合で、私とほぼ同年代のさる分野のコンサルタントの女性が、顔写真入りの自己紹介のパンフレットを配った。20数人居合わせた出席者は、パンフレットの顔写真と実物の彼女を見較べて息を呑んだ。

 彼女はおもむろに話し出した。「みなさん、このパンフレットの顔写真と、実物の私を見て、似ても似つかないって、思っていらっしゃるんでしょう」。まさに図星だった。露骨に頷いた出席者が、二、三人いた。

「せっかくだから、いいことを教えて差し上げましょう。実は、千駄木に、いくらでも望むだけ綺麗に写真を撮ってくれる写真屋さんがあるのです。このパンフレットの写真はそこで撮って貰いました。みなさんも、どうしても出来のいい写真が必要だっていうときがおありでしょうから、その時のために、覚えて置いておかれるといいですよ」。中年女のいい意味での度胸と落ち着きが功を奏して、彼女に向かっていた出席者達の批判的な関心は、腕のいい写真屋さんを教えてくれる彼女への感謝へと、すっかりすり替わってしまった。

 その写真館の名前を「スタジオ・ディーバ」という(http://www.studio-diva.net/index2.html。TEL/FAX (03)3827-3584)。そのスタジオ・ディーバに、3月31日、なんと、この私が、写真を撮って貰いに行くことになったのだ(そうなった事情は後で書く)。

 私は、鞄にシャツとネクタイを3組ほど入れてスタジオに向かった。スタジオは、地下鉄千代田線の出口を忍ばず通りに沿って少々根津方面に向かって移動し、小路を右に入ったところにある一軒家だった。一階と二階の両方がスタジオになっているようだ。「ようだ」というのは、私は一階のスタジオでメーク、着替えから撮影まで全て済ませたので、上階を見ていないのだ。

 撮影は、服装も含めた全体を指示するスタイリストの女性とメークの女性、それにカメラマンの男性の3人体制で進められた。
 メークは、テレビ局のメークよりもかなり手間を掛けて(時間の印象で3、4倍)行われた。当日は月曜日で、寝不足気味(ここのところ週末から週初にかけて原稿の〆切が集中している)のせいもあり、冴えない顔色だったが、これで復活した。また、私は化粧をする習慣がないので、詳しいことは分からないが、色の塗り方で、幾らか顔が小さく写るようにしているようだった。
 服装は3パターンで撮影し、それぞれヘアスタイルを変え、メークも少しずつ修正している。シャツとネクタイの組み合わせ、ポケットチーフの色と形など、何パターンも試して、検討してくれる。ちなみに、私はポケットチーフなどという洒落たものを日頃使っていない(「使えていない」というのがより正しいが)ので、私をよく知る人が出来上がりの写真を見ると、第三者の助けを借りたことが明らかに分かる。
 所要時間は合計一時間半程度だった。せっかく撮りに行くなら、時間はたっぷり確保して行く方がいい。

 メークと着替えなど、準備には時間が掛かるが、カメラマンによる撮影自体は短時間で済み、非常に手際がいい。私のような素人の被写体は、表情を維持することが難しいし、表情を変えようとするとだんだん硬くなるので、これはありがたい。私は取材を受ける際にカメラマンに写真を撮られることが月に3、4回程度あるので、割合写真を撮られることに慣れている方だと思うが、それでも、ワンポーズを長々撮られるのは苦手だ。
 ライトボックスで柔らかくしたストロボ光を使っていて、目の前下方には白の自家製レフ板がかなり凝った角度で数枚配置されている。デジタル一眼レフで撮影するので、光の回り具合を液晶画面で確認している。
 撮影データを見ると(出来上がりはデジタル・ファイルで渡してくれる)、カメラはニコンのD80(その他の機種もごろごろあるがニコンが中心のようだ)で、レンズは28-70ミリF2.8のズームレンズ一本だった(撮影データには28-75ミリでF2.8と出るが、75ミリ迄というズームの製品は記憶がない)。レンズ交換が入らないので、テンポがいい。撮影に使う焦点距離は50ミリから70ミリの範囲を使っているようで、35ミリ・フルサイズの換算では75ミリから105ミリくらいのポートレート撮影でよく使われる焦点距離だ。何れも、ISOの設定は100、絞りがF11で、シャッタースピードは1/100だ。シャッターはカメラを三脚(クイック・セットのハスキーか)に載せて切っている。

 ポーズは、20度くらい右か左に身体を向けて、顔だけ正面を向く形が多い。こうすると、ウエストの部分が幾らか絞られた感じになり、真正面から撮るよりも幾分痩せて見える。出来上がりの写真を2、3枚見て、家人は「5キロ痩せて見える」と言って笑っていた。
 一つのポーズにつき、5カットくらいテンポ良く撮るが、最後の2、3枚は「口を大きく開けて笑って!」「そう、いいねぇ」「はい、口を軽く閉じて」というパターンで締めることが多かった。私個人は、口を開けて笑っている自分の顔があまり好きではないのだが、思い切って口を開けて笑った後に口を閉じると、なるほど柔らかい印象の表情が出来る。素人被写体は、「笑顔で」などと言われても、注文を聞いて表情を調整しているうちに、みるみる顔がこわばってくる。顔の筋肉を動かしてから、目的の表情に着地させる方がスムーズだ。この撮影パターンは、日常の写真撮影にも応用が利きそうだ。

 撮影結果は、CD-Rに焼いてその場で渡してくれる。私の手元には、数十枚の画像がある(JPEGファイルで一枚が700~800KBくらいのサイズだ)。料金や写真の使い方に関しては、スタジオ・ディーバに直接確認して欲しいが、写真使用の自由度は高いようだ(出版物などに使う場合は相談してほしいと言っていた。クレジットを入れることを求める場合があるらしいが、概ね自由に使えるようだ)。

 時間は掛かったが、撮影は終始快適だったし、出来上がりには大いに満足だ。冒頭に紹介した女性コンサルタントの場合ほどの差はないと思うが(事後的に修正はしていないし)、実物よりも明らかに感じがいいと、本人が思う(たぶん、他人はもっとそう思う)。読者も、何らかの目的で「勝負写真」が必要な場合には、この写真館を使ってみるといい。

 ただ、ポケットチーフも、ヘアスタイルも、目下のところ、自分では再現不可能なのが残念だ。「出張メークのサービス(有料)もありますよ」と言っていたが、私の場合、そこまで凝る必要性はない。

 さて、撮影の目的だが、実は、4月から株式会社オーケープロダクション(大橋巨泉さんの「O」と「K」だ。http://www.okpro.jp/)に講演、イベント、テレビ、ラジオなどの「出演もの」に関するマネジメントをお願いすることになり(著述、コンサルティングなどの活動は除く)、同社で使うパンフレット用の写真が必要になった。そのオーケープロダクションが連れて行ってくれたのが、スタジオ・ディーバだったのだ。
 「オーケープロダクション所属」という形になって、何がどう変わるのかは、まだよく分からないが、小倉智昭氏のマネジャーをしている宇野さんという方が声を掛けてくれたので、頼んでみることにした。小倉智昭氏(同社の取締役である)とは「とくダネ!」で何度もご一緒しているし、大橋巨泉氏(日本にはあまりいらっしゃらないが)にも何かと親近感があるが(将棋、競馬。政治的にハト派など)、若いマネジャーさんが私に興味を持って誘ってくれたことが、同社と契約することにした一番の理由だ。

 写真は、数十枚の中のベストカットではないと思うが、写されてている様子がよく分かるもので、「はい、口を開けて笑って」の次に写したものだ。
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