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「男の家計簿」について(1)

 来年の手帳を準備する季節になった。

 実は、少し前から、手帳の使い方について、このブログに書いてみて、皆様のアイデアをお聞きしようと思っていたのだが、先日「週刊現代」に手帳の使い方を取材され(真に多忙で、且つ当代の手帳使いのプロ達と一緒に紹介されるらしいので、ちょっと気が重い)、さらに「Yomiuri Online」の原稿で金銭管理を含めた手帳の使い方の原稿を書いたところで(今週の金曜日くらいにUPされると思う)、何と、JMMでも「・・・皆さんの、スケジュール管理と手帳の使い方について教えて下さい」といった質問が村上龍編集長から出題され(流行に対する感度の鋭い村上氏が取り上げるくらいだから、手書きの「手帳」は流行っている)、ネタの重なり具合を考えると、ちょっと、このブログでは、スケジュール管理の部分を書きにくい感じになってしまった。

 「Yomiuri Online」の原稿は、現在、私が行っているスケジュール管理その他の手帳の使い方と共に、手帳を使って、簡単な個人の金銭管理をしようという「考え」(実行は、来年から)について述べたものなのだが、これに関連して、ここのところ、「男の家計簿」について、どうしたらいいのか、関心を持っている。
 
 尚、ここでいう「男」は、単に数的な多数を指すもので、専業主婦ではない女性で、フルタイムで働いている女性も対象として考えている。

 企業に会計が必要であるがごとく、個人の場合も、金銭に関する記録を行うことが、お金の使い方を改善するに違いない、という直感は前からある。また、私も含めて「中流」くらいまでの所得層では、お金の運用方法よりも、そもそも運用すべきお金を作るに至る、節約も含めた、お金の使い方の方が、重要な役割を担っているに違いなかろう、とも思う。
 
 しかし、個人的には、「家計簿」的な記録を付けるのは面倒なので、今日まで、具体的な方法を考えずにいた。だが、明確な根拠はないのだが、「何となく」、自分のお金の使い方をもう少し客観的に把握する必要性があるように最近感じ始めているし、僭越にも、他人に、「ともかく、お金の出入りを大まかにでも記録して、現状を把握しておくといいですよ」というような偉そうなことを言うこともある。

 ちなみに、これまでの私は、稼いだお金のうち、家計に必要額を渡し、後は、何ら管理をせずに、適当に自分で使って、残れば貯金する、というスタイルで、お金が足りなくなったことはないが、貯金が十分に貯まったこともない、という、ある意味では気楽な、しかし、ある意味では危うい金銭生活を送ってきた。あくせくしていない点はいいのだが、向上心が不足しているともいえるし、リスク管理が不十分だともいえそうだ。

 また、自己反省のついでに、たとえば、一つの出版の企画として、スケジュール管理と金銭管理が簡単に出来て、マーケットやマーケットに関係する経済ニュースを捉えることが出来て、さらに、資産運用をはじめとするお金の扱い方の基礎知識をちりばめてある、「マネーリテラシー手帳」みたいなものを作ることが出来ると、面白いのではないか(それそのものとしても、小さなビジネスとしても)とも考えるようになった(ご関心のある出版社さんは、いらっしゃいませんか?)。

 過去20年以上にわたって、私は「能率手帳」(左ページがスケジュール欄で、右ページが白いもの)の大判(スーツの内ポケットに入る程度)で革装のものを使っており、当面(というか、まずは来年から)、使えるところまではこれを使って実験してみる積もりでいるが、果たして、「男の家計簿」としては、何をどの程度まで記録して、どのように加工すればいいのか、理屈上のイメージは湧くのだが、具体的にはもう一つ自信が湧かない。
 
 当面、(1)一日の総支出、(2)主な支出項目(たとえば飲み代や、やや大きな買い物など)、(3)カードの払い、(4)経費など後で返ってくる支出、くらいを記録しておいて、(5)週次の合計と、(6)月次の決算(資産の評価と、簡易B/S、P/Lの作成を含む)くらいのことをすれば、かなりの程度、自分の金銭的な行動パターンが分かり、問題点が把握・改善できるのではないか、と期待しているのだが、もう少し支出の項目を細分化すべきなのかといったことを中心に、まだ迷いがある。
 
 ちなみに、このスタイルだと、「能率手帳」では、月次の決算をするスペースを確保するのに苦労するかも知れない(やってみないと分からないが)。

 たとえば、「マネーリテラシー手帳」を作るとすると、資産運用の基礎知識として、書いておきたい内容は、材料がかなりあるような気がしているのだが、肝心の簡易家計簿の部分については(できるだけ簡単なものが望ましいと思うが)、もう少し考慮が必要と思える。

 読者の皆さんの、個人の金銭管理に関するアイデアをご教示いただけると有り難い。
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御手洗総務部長という人事はいかがでしょうか?

 やっぱり、御手洗さんのことを語るコーナーもある方が良さそうに思うので、簡単なエントリーを書きます。

 昨日、会社に行ったら「GQ」という雑誌の来年一月号が届いていました。「GQ」という雑誌は、30代、40代のお金持ちの男性読者をターゲットにしている雑誌で、かつてのホリエモンをはじめとして、若手の経営者が登場したがる雑誌です。

 そういえば、だいぶ前に取材に来たな、と思い出しましたが、「ニッポン最強の銀行をつくるとして、その経営陣を選んで下さい」という、妙な企画でした。(他に、森永卓郎さん、横田濱男さんが、登場しています)

 私は、株主のためにバリバリ儲けるゼニゲバ銀行と、顧客にとって強力な銀行はちがうぞ、と言って、二組の経営陣(何れも、除く銀行マン)を提案したのですが、雑誌では、顧客のための銀行の経営陣を発表することになりました。当ブログの読者は、是非、本屋さんに行って、101ページを見て欲しいのですが、私が選んだ、「最強の銀行」の経営陣のラインナップと、顔写真、寸評が出ています(皆さんの人相比較としてもこのページは面白い!)。

 CEO・柳井正(ファーストリテイリング会長)、COO・新浪剛(ローソン社長)、・・・、広報担当執行役員・藤巻幸夫(弟さんの方のフジマキさん)、営業担当執行役員・渡邉美樹(ワタミ)、といったラインナップなのですが、この中に、「総務担当執行役員」として、われらが御手洗冨士夫氏をノミネートいたしました。

 ご報告したいのは、この寸評欄なのですが、全文は以下の通りです。

●総務担当執行役員 御手洗冨士夫
キヤノン会長、日本経団連会長。「偽装請負発覚後も経団連会長をやめずにいるトラブル対応力の持ち主」(山崎氏)。

 「GQ」もユーモアを解してくれるというか、或いは、何も気付かずにそのまま載せてくれたのか、何れにしても、小さな活字ながら、よく載せてくれました!これぐらいしぶとい総務担当執行役員がいれば、この銀行は、相当の不祥事を起こしても盤石でしょう。

 以上、御手洗ファンの読者の皆様へのご報告です。
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「下流を生きる知恵」はあるか ~タクシー論争から考えてみる~

 当ブログのアクティブなコメンテーターのお一人である「作業員」さんには、「竹中平蔵氏と・・・・」のエントリーに豊富なコメントを頂いており、「偽装請負」の問題をはじめとして、私も多くのご教示を受けました。しかし、さすがに、このエントリーにはコメントが200以上付いていて、これを追って読むのは、特に新規の読者に取って難しい状態になってきたので、別のエントリーを立てようと思い、ご相談したところ、「下流を生きる知恵」というタイトルのエントリーがいい、というお答えを頂きました。



 下流を生きる知恵といっても、何から話を始めるのがいいか、手の付け方が難しいのですが、ちょっと面白い議論を見つけたので、ご紹介してみます。

 橘木俊詔氏の新刊「格差社会 ~何が問題なのか~」(岩波新書)を読んでいたら、「規制緩和と非正規雇用」と小見出しのついた項目があり(p45~)、労働市場の規制緩和で派遣の対象職種が増えたことなど労働市場の規制緩和は、「格差の拡大という点から考えると、労働市場の規制緩和はそれほど重要な要素ではない、と私は考えています」とあって(これ自体が、論点として面白いかも知れませんが)、その後に、「むしろ産業ににおける企業参入の自由化といった規制緩和の方が、格差の拡大については、より重要な問題ではないかと考えます」とあって、例としてタクシー業界の話を取り上げています。

 詳しくは先の本を読んでいただきたいと思いますが(データ、論点が豊富なので、値段分の効用は十分あります)、タクシーの参入規制の緩和によって、タクシー台数が増えて、タクシー1台当たりの売上が減り、タクシー運転手の収入が減った、ということに触れられており、「企業の参入障壁を外して、どの企業でもビジネスを可能にするようにした、という意味での規制緩和の効果は、賃金の格差拡大につながったと私は判断しています。」とあります。
 
 次の段落で、橘木氏は、規制緩和推進側からの意見として、「タクシーの台数増加はタクシー料金の低下を促したので、消費者一般の利益は大きい、あるいはタクシー運転手の増加は失業率を低下させる効果をもたらした、といった主張がある」と紹介しています。これは、例えば中川秀直氏の著書「上げ潮の時代」の中でも取りあげている話題なので、橘木氏は、これを意識していおられたかも知れません。
 
 橘木氏は「これらのメリットとタクシー運転手の所得低下というデメリットのどちらが大きいのかについては、簡単には判断できません。ただ、失業率を低下させる政策の効果を論じるのであれば、タクシーの台数を増加させて雇用を増やすのではなく、他の業種の仕事の増加ではかる方が正当ではないかと考えます。」と書かれています。

 一方、中川氏の著書では、「規制緩和反対論者が例に出すのは、タクシーの参入規制の緩和である。しかし、これは反論になっていない。逆であるからだ。参入障壁がなくなったために、雇用が確保されて、タクシーの職に就かなければ失業したはずの人が救われたのではないか。また、タクシー利用者の利便が増したのではないか」(p51)とあります。

 東京で暮らしている実感としては、たとえば、銀座から深夜にタクシーに乗って帰宅する際、対向車線に「空車」が列をなして走っていて(延々と並んで止まっていることもありますが)、「空車」という赤い文字が、酔眼には、提灯行列のように見えることがあります。銀座方面に向かったタクシーが全てお客を乗せられるわけではなさそうだし、この調子では大変だろうなあ、と思うところですが、利用者である私自身は、タクシーに直ぐに乗れること、個人タクシーの深夜料金割り増しが通常の3割ではなく2割であること、などのメリットを確かに受けています。(タクシーがあふれかえりすぎて渋滞することが時にあり、これはデメリットですが、例外と考えていいでしょう)

 運転手さんに売上状況を訊いてみると、過半数の方が、以前よりも生活が苦しくなっている、と答えます。また、老若を問わず、新人の運転手さんに当たることが少なくないので、都内の道に詳しくない私は(四半世紀以上ペーパードライバーです)道の指示に苦労します。ただ、競争が厳しいとはいえ、彼らが、取りあえず職を得ていることも事実です。

 議論としては、たとえば、タクシーは供給が制限されているという前提でかつて投資を行ったタクシー経営者や個々の運転手は、ある種の既得権を侵害されたといえますが、この「競争制限」の期待自体が一般論として正当なものとは言えないでしょうから、彼らにある程度の配慮をする余地があるとしても、タクシーの規制緩和自体は「良いことだった」と、私は考えます。

 中川説に賛成票を一票ということですが、もっとも、橘木さんの書き方は、メリット・デメリットを比較して結論を出したわけではなく、「失業率を低下させる政策の効果を論じるのであれば」と別の議論にスイッチしているので、彼の議論が間違いだ、とは言えません。

 また、景気に関わるマクロの政策を別とすると、タクシーの規制緩和それ自体は、僅かながらでも社会全体としての、生産の拡大と経済厚生の向上につながっているように思えます。タクシーの規制緩和をしない方が良かった、という議論を構成するのは、なかなか難しいように思います。

 私の結論は、「規制緩和は、経済全体にとってプラスだろう。しかし、当事者にとっては甘くない」というものです。「甘くない」と言うと、「冷たい」、「そこを何とかする方法を聞きたい(考えろ!)」と言われがちなのですが、事実なのだから、先ずはこれを受け入れて、ここから出発するより仕方がないと思います。

 それでは、たとえば、タクシーの運転手になってはみたものの、これではとても食べていけないという状況にある運転手さんは、どうすればいいのでしょうか?

 作業員さま、この辺から、出番でいかがでしょうか!

<本エントリーは、作業員さんにコメントを頂くことを想定して書いたものですが、他の方のコメントも大いに歓迎いたします>
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マーケティングの付加価値と罪について

 資産運用のビジネスは、考えれば考えるほど、マーケティング勝負のビジネスだ、ということが言える。現実をリアルに見ると、顧客は、良いファンドマネジャーや運用会社を事前に見分けることなどできないし、運用者の側でも本当に他人よりも良い運用が出来るという確信があれば、他人のお金ではなく、自分のお金(借りたっていい)を運用するはずだ。
 自分はファンドマネジャーを選ぶことが出来るという大いなる勘違い(「オーバー・コンフィデンス」から来る)と、他人には負けないけれども絶対に勝っているわけではないという運用者側の自信のない空元気とが重なり合う僅かな場所を、「良い運用」というものが存在し、これを「見分けることができる」という二つのフィクションを押し立てて商売にするマーケティングの行為こそが運用ビジネスの本質だ。
 ちなみに、「運用力」というものは、鍛えて強くなる筋肉のようなものではない。運用会社の社長はしばしば、「運用力を強化する」と発言するが、本気でそうできると思っているなら、その人は阿呆だろう。正確にいえば、運用の商品力を強化するために、運用部門に金をかける、ということは出来るのだが、それが運用成績に結びつくか否かは分からないし、少なくとも、経営上計算できるものではない。
 平凡な運用を、非凡に上手く売り付けることこそが、運用ビジネスの要諦である。
 そこでクローズアップされる技術が、マーケティングということになるが、運用商品の場合、マーケティングの役割を考えると、些か憂鬱になる。
 運用商品は、インプットが「お金」であり、アウトプットも「お金」であって、目的は、お金を増やすことだ。マーケティング活動により、顧客の購買行動に至るようないろいろなイメージが形成されたり、顧客の満足感に差が出たりはするだろうが、その運用商品を買ったことが意思決定としてどの程度損だったか得だったかが、金額ベースで計算できてしまう(たとえば、たまたま儲かった商品でも、後から分析してみて、実は運が良かっただけで、意思決定としては、ひどく損だった、というようなことが、分かる人には分かる)。
 マーケティングに顧客満足を増大させる付加価値があるとも言えるだろうが、この付加価値は、運用商品の目的に照らして評価すると、後から空虚なものだったと簡単に分かり、リセットされてしまう。いい加減なマネーライターのように、気休めや勘違いも効用のうちだ、という前提で運用を考えるなら、運用商品のマーケティング活動に対してポジティブな気持ちを維持することが出来ようが、ある程度以上の知識をもって、且つ真面目に考えるなら、マーケティング活動は、インチキ商品を高く売るための、騙しのテクニックを体系化したものに過ぎない、とも見えてくる。
 加えて、行動ファイナンスやその裏付けとなる脳科学の発達が、運用商品のマーケティングに体系的に悪用されつつある。これらが、人間の意思決定の非合理性の傾向を研究するものだとすると、「非合理性」の程度は、合理的な意思決定との損得で測ることが出来るが、その「程度」は、運用商品の売り手が利益を獲得するための原資になる。
 しかも、たとえば短期の時間選好率が非合理的に大きい双曲割引のような現象が、脳科学的に裏付けられた、人間のやむを得ない傾向性だとすると、これを利用した消費者金融のマーケティングや、多分配型のファンド(最近、私は、「猿が喜ぶ朝三暮四ファンド」などと呼んでいる)のマーケティングなどは、人間の弱さにつけ込んだ悪事の領域にあるのかも知れない。
 さりとて、たとえば、出来るものなら自分でやってみたいと思う、「投信のユニクロ」(取りあえず、顧客が払う年間の総コストが50ベイシス以下のアクティブ・ファンドとしておこう)を実現しようとすることを考えると、考慮のポイントはもっぱら販路であり、売り方であり、つまりは、マーケティングということになる。
 運用商品に限らず言えることだと思うが、少なくとも、「マーケティング」というものは、ビジネスを活性化する光の部分だけに注目すべきものではなく、その蔭の部分にも着目しなければならないと思う。顧客の側では、マーケティングに対する免疫を持つ必要があり、それはある種の啓蒙活動によって可能だと思うが、問題は、この予防注射の費用を負担してくれる主体が見あたらないことだ。
 運用あるいは金融におけるマーケティングというものについては、引き続き考えて行きたいと思っている。
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ロングモーン

他人に銘柄を勧められるほど、私は、まだシングル・モルトに詳しくないのですが、せっかくのご質問なので、ぶんよう様に回答します。

味が濃いのがお好き、とのことですが、私が昨日買ってきた、このロングモーンは、条件にかなうと思います。ゴードン&マクファイル社がボトリングしたもので、1973年-2005年の、シェリー樽フィニッシュで、カスク・ストレングス(樽のままの濃さで、加水していない)56.2度のものです。銀座の信濃屋で17800円で買いました。

ちょっと高いかなあ、とも思ったのですが、私が飲むとしても数日は間違いなくあるので、一本3000円くらいのワインを6本買うくらいの効用は間違いなくある、と計算して購入しました(欲しければ、素直に買えばいいのに、余計なことを計算します)。

事務所に持ち込んで、同僚(=モルト好き)と味見してみましたが、風向きによっては隣のテーブルにあっても香るような強い香りの持ち主で、口に含むと、干しぶどうのような深い味(もちろんスコッチの味もするのですが、上質のブランデーをもっと落ち着かせたような味が混じっています)と共に、軽くミントのような香りが喉に抜けていきます。開栓したてということもあるのでしょうし、度数も高いのですが、インパクトが強くてロングモーンとしては、幾らか辛口に思えます。フルーティーな味もあるのですが、現段階では後方に控えています(たぶん、数日するともう少しフルーティーになると思います)。加えて、何よりも特徴的なのは、飲み終わった後の香りの戻り(「フィニッシュ」と呼ぶらしいです)が強くて長いことです。これは、「一杯だけ」のぶんよう様に向いていると思います。

我がモルトの先生、M師によると、「ロングモーンに外れなし」なのだそうですが、長期熟成のロングモーンの場合、確かに、これはハズレ!と思ったことはありません。しかし、幾つかタイプがあり、甘くて重いシェリー樽の味の強いもの(この場合もミント臭を感じますが、味わいがいくらか重い。そんなもの、食べたことはありませんが、ちょっとコールタールを混ぜた干しぶどうのような感じ)、フルーティーでふわふわと軽い千疋屋(←老舗の果物屋さん)風、何れとも異なる、マジメで辛口のロングモーンです。

実は、このボトルを買うのは2本目で、1本目はとある銀座のバーにキープ用に(キープ手数料を払ってキープして貰う)持ち込んだのですが、たまたま近所のバーのバーテンさんが来ていて、彼にも飲んで貰ううちに、彼の同僚が現れ、また逆隣のお客さんにも一杯差し上げ、当然のようにバーの女主人もテイスティングして、という具合に、初日に半分以上なくなりました。何れの方にも好評だったので、サンプル調査としては、まだまだ不十分ですが、お勧めする次第です。

「うーん、家で飲むには、ちょっと高いなあ」、「近所の酒屋にはないよ」という場合の、割合どこにでもあるもので費用対効果が良いものは、ラフロイグのカスク・ストレングス(10年)のものでしょうか。こちらも55度くらいありますが、ラフロイグなので、看護婦さんの匂いがしますし、麦の香ばしさのような陽性で力強い味があるので、アイラ好きの方の家飲み用にはいいと思います。

奥様がアイラは苦手、というような場合は、炭酸水を買ってきて、ソーダ割りにすると、たぶん喜ばれると思います。ラフロイグのソーダ割りは、M師が、「アイラはまだちょっと」というお客さんのアイラ調教の初期に使うテクニックの一つですが、二、三回飲むと、「なんとなく、こんな刺激がないと、物足りない」という気分になります。思えば、私の場合は、十数年前に、新橋にあったバーのマスターSさんが、調教してくれたのでした。
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友人とシングル・モルトをどう飲むか

 残念ながら、およそもてなかった若手社員時代、ある友人と、ワイン・パーティーをどのように開くか、ということを考えた。

(1)ホテルのスイートルームを借りる。
(2)男性参加者は、一人1本以上、「いいワイン」を持ってくる。
(3)女性参加者は、それぞれ食事やおつまみを作って持ってくる。
(4)費用は、ワリカンでもいいが、まあ、男性参加者の頭割りにするか。
  <以下略>

 これでは、何のこと無い、下心丸見えの合コンではないか。しかも、時代が古い(四半世紀前)とはいえ、女性は食べ物を作る(のが、向いていて、嬉しいだろう)と決めつけていて、面倒くさいプロセスを女性に頼もうとしているのだから、全く話にならない。もてなかったことは、全くの自己責任だと、よく分かる。全く、お恥ずかしい限りだ。

 さて、月日は流れて、もうメンバーは男女どっちでもいい(本当、本当!ある程度はね・・・)のだが、いろいろなお酒を、気楽に(一杯の量や値段を気にせずに)、かつ楽しく、試してみたい。もちろん、ワインも飲むのだが、状態の管理が面倒なことと、誰かが必ず行うワインの講釈にいささかくたびれる。この際、最近よく飲んでいるシングルモルト・ウィスキーを多人数で飲む手順を考えてみたい。

 実は、行きつけのバーでは、時々「感謝祭」などと称して、途中まで空いているボトル20~30本くらいを何らかのコンセプトで並べて、30-40人くらいの愛好者を招いて、会費制で、立ち飲みのパーティーを催す。この感謝祭は、較べてみたいお酒を自分で注いで飲むことが出来るし、なかなか楽しいので、概略を書いてみよう。

 参加申し込みは必要だが、先ず、入場する際に所定の会費を払う(たとえば5千円とか、8千円とか。内容に対しては、非常に割安!)。その際に、自分用のテイスティング・グラスと500ccの水(ボルヴィック)が入ったペットボトル(チェイサーである)を受け取って、後者には、マジックで名前を書く(取り違いを避けるため)。あとは、バーの椅子を取り払った会場で、決まった場所にボトルを固めて並べて、これを参加者は手酌で飲むのが基本だ。「どれが旨かったですか?」などとお互いに話が弾む。

 ゆっくり食べられるだけのスペースが無いことと、「飲む」ことが中心であることもあって、食べ物は、ベーコン、ナッツ、チーズといったウィスキーに合う塩気のあるものと、場合によってはサンドイッチ、焼き鳥などの軽食が多少ある程度の場合が多い。手製のつまみを持ってきてくれる参加者もいる。

 バーの店主も参加して、彼は、水の追加(チェイサーは結構飲むことになるので、大きなペットボトルを置いて、参加者が自分のペットボトルに水を追加する場合もある)、お酒の解説、適宜生じる後片付けなどの仕事をこなす(だいたい2,3人のボランティア協力者がいることが多いが)。開催時間は、3-4時間であることが多いが、人の入れ替わりもあるので、受付や、店主をはじめとするお世話係は結構忙しい。

 さて、この店で開催される「感謝祭」は、大変楽しいのだが、一つには、バーの場所が居るし、もう一つには、もう少し少人数の友達同士でも、このような感じで、モルトの飲み比べをしてみたいと思う。どんな感じで開催するといいか、考えてみた(というか、まだ、考えている途中だ)。

 場所は、休日のバーなり喫茶店なりを借りることができると快適だが、少々大げさになるし、気を遣う。誰かの自宅か、会社の会議室のような場所で我慢するか。但し、最低限グラスを洗わなければならないので、近くで水が使える台所のような設備がないと難しい。できれば、冷凍冷蔵庫も一台近くに欲しい。施設としては、学校の教室や、家庭科室のような所は素晴らしいが、世間様の目を考えると、そうも行くまい。ある程度の広さのある家ということは、家族が同居している場合が多いだろうから(ホリエモンのような独身・金持ち男が居ると別だが)、その家の家族に気を遣いそうだ。
 
 ホテルのスイートルームは少々高い。その費用はお酒に回したい。持ち込みOKのカラオケボックスというような手もあるかも知れないが、台所が使えないし、歌い始める奴が居ると、収拾がつかなくなりそうだ。ちょっと無粋な感じだが、自由に使える点で、誰かの会社の会議室がいいだろうか。

 お酒は、一人が一本持ってくると、分量的には多過ぎるだろう。しかし、何かゲームでもやって、残ったお酒を(量・質両方を評価して)勝った順番に好きなものを選んで自宅に持ち帰ることが出来る、という仕組みにすると、盛り上がりそうだ。ここは、是非、一人一本としたい。

 経験的にいって、チェイサー用の水は相当潤沢に用意しておく方がいい。一人1リットルプラスαくらいを用意しておきたい。また、冷蔵庫があれば、ギネスやヒューガルデンなどのビールを冷やしておくと、きっと喜んで飲む人が出てくる。

 食事はどうしようか。世話役がデパ地下に繰り出して、出来合いのものを買ってくるのが一番簡単そうに思える。ただ、小さなまな板とナイフはある方がいいだろう。ウィスキーの場合、それほど豪華なつまみは無くても十分に楽しめる。イギリス人の食べる程度のもので十分だ。

 しかし、つらつら思うに、最近は、ウィスキーを好んで飲む人があまり居ない感じがする。たとえば、8人くらい(別に合コンではないから偶数でなくとも良いが)のウィスキー大好き人間を集めるのは、案外大変かも知れない。全く同じでなくとも、ある程度、飲む量が同じでないと、「格差」が問題になるかも知れない。構想はしてみるものの、このような集まりは、なかなか実現が難しいかも知れない。

 このように考えると、一升瓶をぶら下げて、あとはプラスチックのコップとするめくらいあれば、インドアでも、アウトドアでも、どこでも何人ででも酒盛りが出来る日本酒というお酒は、社会性に優れたお酒なのかも知れない。
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生命保険にニーズはあるか?

 現在発売中の週刊ダイヤモンドの私の連載でも述べているが、生命保険の意味をファイナンス的に解釈すると「人的資本(の価値に)対するヘッジ」ということになる(死亡保険の場合)。

 たとえば、現在2000万円の金融資産と、1億円の人的資本を持っている35歳のサラリーマンがいるとして、彼の人的資本の価値は、収入の変動などによっても変化するが、死亡した場合はゼロになるので、広義の資産運用の意思決定としては、この人的資本をなにがしかのコストを掛けてでもヘッジしたい、というニーズはありうる。

 ここで、人的資本とは、一人の人間の価値を株価のように考えた概念で、たとえば、将来の予想収入を、金利よりもかなり高いそれなりの割引率(人的資本は流動性が乏しく換金できないし、また死亡や病気等のリスク、職業が不調に陥るリスクも当然ある)で現在価値に割り引いて合計したものだ。上記の35歳のサラリーマンは、今後の人生で2億円くらいの収入を稼ぐかも知れないが、「人的資本」として評価すると、1億円くらいのものではないだろうか。「証券アナリストジャーナル」の8月号に翻訳が載った、Peng Cheng, Roger G. Ibbotsonらの論文では、このように定義されている。

 もっとも、人的資本をこのように定義するのがいいかどうか、については、議論があり得るだろう。稼ぐためには、当然、食費その他の生活費のコストが掛かるから、「利益の割引現在価値」として人的資本を評価するなら、稼ぎに必要な最低限の生活費(どうやって計測するか別の問題が持ち上がるが)を差し引いた稼ぎの割引現在価値の合計を考える必要がありそうだ。

 先の論文では、資産配分の期間を一年として、生きている状態の資産と遺産に対する評価の差を表す変数、一年以内に自分が死ぬことの主観的確率、をそれぞれ考慮して、生きている状態の効用関数(金融資産の期待額と人的資本の期待値の合計に対して定義される)と、遺産に対する効用関数(金融資産額と死亡保険金)の値を、加重合計するような形で、金融資産と人的資本と生命保険(生命保険をふやすと保険金は増えるが、保険料が掛かるので金融資産の額が減る)総合的な効用関数を定義して、この最大化の問題として、資産配分の問題を解くフレームワークを提示しており、年齢と生命保険のニーズ、資産配分におけるリスク資産の比率、といった具合に、幾つかの変数間の関係を分析している。

 このように問題を定式化したのだから当然ともいえるが、「生命保険に関する意思決定と、資産配分(アセット・アロケーション)に関する意思決定は、人的資本を考慮して、同時に行われなければならない」というのが、この論文の結論で、これは説得的だ。(保険屋のおねえさんと相談しただけで、生命保険について決断してはいけないのだ!)また、こうした考え方は、今後のFPに期待される役割の大枠を示していると思う。

 さて、このように考えると、生命保険(死亡保険)にニーズがあることは納得できる。たとえば、私の場合も、小さな子供が居ることでもあり、安価に掛けられる生命保険があれば、加入してもいい、という気持ちはある。

 ただ、たとえば私が死んだ場合、公的年金の遺族年金が多少はあるし、しばらく生活を立て直すだけの貯蓄があれば、妻も働くだろうし、子供達の生活は、何とかなるだろう、という大まかな計算は立つ。また、保険の貯蓄機能については、保険会社には申し訳ないが、自分で同じ額を運用する方が、おおかたの人にとって遙かに効率がいいだろう。

 また、生命保険のような複雑且つ高額の対象で、もともと相互扶助が目的の公的な性格を帯びた金融商品が、手数料に相当するもの(「付加保険料」。生命保険会社の経費などになって、保障にも貯蓄にも回らない保険料)が公開されていないことが大きな問題だと思うが、死亡保障の定期保険の場合、保険料に占める付加保険料率が、三割、四割になる、ということを考えると、馬鹿馬鹿しくて、保険に入る気にならない。

 医療保険ならどうか、ということを考えると、これも何らかの意味で、人的資本の価値に対するヘッジだが、健康保険の高額医療費制度を考えると、健康保険の範囲内の治療を受ける限り四ヶ月目からは月額八万円強の負担でいいし(最初の三ヶ月は十数万円かかる。所得などによって負担の金額は変わる)、これも、数百万円レベルの貯金を持っていれば、全く必要ないといっていい。(詳しくは、内藤眞弓「医療保険は入ってはいけない!」ダイヤモンド社をご参照下さい。これは実にいい本だと思います。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4478600511/sr=11-1/qid=1162547844/ref=sr_11_1/249-0728934-9902711)

 では、年金保険ならどうか。公的年金は、2004年の年金改正で決まったマクロスライド方式で、今後、負担は重くなる(厚生年金で年収の18.35%まで)一方で、給付の実質価値がじわじわ値切られていくので、おおかたの人は「老後は、年金だけでは、不十分だ」ということに気付いているだろうし、私自身も、例外ではない。もちろん、なるべく嫌でない仕事をして、とは思っているが、今後、長きにわたって働いて行くつもりだが、それと平行して、「自分自身の年金をつくる」ということに対する必要性を痛感する。

 ただ、これに対しても、市販の生命保険は適さない。「個人年金」といった耳障りの良い名前の商品が多数あるが、要は、変額保険であり、運用商品としての実質は「投信よりも、手数料の高い投信」にとどまる。投信と較べると、費用は高く且つ分かりにくいし、解約が不自由だ。ここでも、自分で運用する方がいい。

 結局、市販の、民間の生命保険会社の生命保険には、私が欲しいものがないのは勿論、「どういう人なら、どの商品を買うのがいい」とイメージできるものが、見つからない。一方、確か、日経に載っていたのだと思うが、世界の2%しか人口のない日本人が、世界の生命保険料の25%を払っている、といった、保険の過剰とも思える普及率を考えると、日本の生命保険市場は、かなり成熟していて、成長余地が乏しいようにも思える。また、生命保険・個人年金保険の年間払込保険料は、男性の40代で34.5万円、50代では37.4万円にもなり(近代セールス社「FPデータハンドブック」による。生保文化研究センター調べ。20年間の単純合計で719万円にもなる!)、これ以上の保険料を払わせるのは、大変ではないか、とも思う。

 ただ、もちろん、それ自体が効率の良い投資になっていたり、不利の(主として、付加保険料の)小さいリスク回避手段になっていれば、もっと払ってもいい、ということは、勿論あり得る。

 こうした状況を生命保険会社の側から見るとどうなのだろうか。もちろん、顧客の不安を喚起する共に、自社の保険商品の良いイメージを刷り込む、といった、マーケティング上の工夫には、今後も一層注力するのだろうが、大規模なセールス部隊を抱えて、高コストな営業を行い、効率のマージンの商品を売る、というビジネスモデルはもう限界だろう。

 たとえば、単純な保険を、保険料の計算根拠も開示した上でネットで販売し、顧客は、FPなどのアドバイスを聞きながら、必要十分な保険を購入する、というようなことができればいいな、と思うのだが、どうだろうか。
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早期離乳食の害悪について考える

「週刊現代」の現在発売中の11月4日号の高橋源一郎氏の「おじさんは白馬に乗って」という連載に「乳幼児アレルギーの秘密」と題する興味深い文章が載っていた。議論のための要点をまとめると、以下の通りだ。内容にご興味のある方は、是非、原文を(66~67ページ)読んでいただきたい。

(1)「日本免疫病治療研究会」の西原克成会長が二年前に発表した意見によると、乳幼児の腸は約1歳で完成するが、それ以前に離乳食を与えると、その蛋白質を分解できずに吸収して抗原になり、これが乳幼児アレルギーの源泉になっているので、1歳前後まで母乳かミルクを中心に育てることが望ましい。
(2)しかし、日本では、「スポック博士の育児書」刊行の1966年から早期の離乳食が広まりはじめ、1980年に旧厚生省が、と生後5ヶ月から「離乳ガイドライン」決めて、母子健康手帳で一斉に指導し始めた。そして、その結果、1980年から、乳幼児のアレルギー症状が急増し、アトピーなどに悩む子供が増えている。(上記の二点は、二年前の東京新聞の記事による、とのこと)
(3)西原氏は、早期離乳食の危険を厚労省に三度訴えたとのことだが、「意見はよく分かるが、離乳食で利益を得ている人が多く、方針を変えるには金がかかりすぎる。一度決めたことを簡単には変えられない」と却下されたという。
(4)つい先日、「厚生労働省が、母子健康手帳に記載されている「離乳食」の開始時期を5ヶ月から6ヶ月へと変更するかどうか、検討を開始した」という記事が小さく新聞に載った。
(5)高橋源一郎氏は、西原説の学問的根拠は自分に判断できないとしながらも、これが看過できない重要な意見であること、「離乳食で利益を得ている人」のために乳幼児アレルギーに苦しむ子供が増えている可能性があること、厚労省の役人が責任を取らずに済むように「ひっそりと」過ちを訂正しつつあるのだろうということを指摘されている。

この問題の医学的な当否は、私にも判断できないが、上記の(1)~(5)のような状況であるとしたときに、これをどう考えたらいいのか、と少々考えてみた。

業界の「利益」を野放しにしたために、このようなことが起こるのだから、これは、市場原理を導入すること、の失敗例なのだろうか。先般の「いじめ」をめぐる教育の話題でも、「経済原理を教育に持ち込むのは良くない」と解せるようなコメントを頂いたが、「市場」あるいは「経済原理」と、この種の政策の問題をどう考えたらいいのだろうか。

先ず、自由な市場を良しとする立場の基本的な考え方は、「完全な情報の下の、自発的な取引は、取引の両当事者の状態(効用、あるいは経済厚生)を改善する」ということだ。離乳食の問題に関しては、早期の離乳食が危険だ、ということの、「情報」が正しく親に伝わっていないために、「離乳食で利益を得ている人」の不当な利益が発生している一方、早期離乳食を選んだ親と子の経済厚生は著しく損なわれている。市場原理主義者(そう名乗る人は少ないでしょうが)の立場からすると、利益の追求が問題なのではなくて、情報の非対称性、不完全性によって、市場が正しく機能する環境を与えられていないことが、問題なのだ、ということになる。

すると、離乳食に関する「正しい情報」を伝えないことが悪い、ということになるが、正しい情報の伝達を達成するために、具体的にどうすればいいかが、問題になる。

「倫理の徹底」ということも大切だし、いかなる「市場」でも、参加者の倫理的動機は重要であり、市場の基礎的なインフラをなすとも言えるが、現実に鑑みるに、上記の(1)~(5)が正しいとすると、厚生労働省の官僚は行動を起こすに足ほどの倫理観を持っていないようだし、離乳食の業者も、離乳食業者からも広告が入るであろうメディアの方々も、この問題を何としてもつたえなければならない「インセンティブ」(行動の動機付けになる「誘因」)を持っていないようだ。

官僚の場合、離乳食政策の改定は、(a)離乳食業者と自分達との間の関係を悪くするので天下り先が減ったり(離乳食業者と天下りの関係は未確認だが)、(b)行政指導がスムーズでなくなって自分の仕事がしにくくなる、(c)或いは、政策変更によって業績が悪化した業者の保護が必要になるのが面倒だ、というような不利益を感じるのかも知れないし、(d)過去の政策の誤りを認める(先輩を否定する)ことの自らの出世への悪影響、(e)官庁の評判の悪化、(f)予算など裁量の及ぶ範囲の縮小、といった不利益があるのかも知れない。

上記に対する対策は、一つには、官僚個人が誤りを続ける(或いは、新たに手を染める)ことのコストを大きくすることだ。ただし、公務員は、職務上の行動に関してはこれを適正な手続きで行う限り個人的な責任は免責されているから、政策の誤りに対する官庁へのペナルティーを大きく設計し直して、これが個人に(組織内の評価を通じて)反映するようにすることだろう。

ただ、公務員の保護とはいっても、賠償責任を負わないというレベルの保護は必要かも知れないが、誤った政策に関わった(あるいはその可能性がある)公務員については、もっと実名報道を行うべきではないか、という方向のメディアの習慣改善という方向性もあるだろう。しかし、現実には、一つのメディアが官僚個人に対して批判的な記事を書くと、このメディアに対する情報の提供を制限するような形で官庁組織が圧力を掛けることができるので、例えば一サラリーマンである記者は、正義感の問題を別にすると(簡単に別になるのは寂しいが)、個人的には、官庁と仲良くしているのが好都合だ、ということになる。

また、「天下り」については、官民の癒着や不正の温床だと思われるのだが、安倍政権では、官民の人材交流のメリットを異様に強調して、規制を緩和する方針のようだ。将来の天下りにつながる、官民の隠れた取引は、十分情報が公開されにくいので、「天下り」は、緩和するよりは、「禁止」する方向に進める方が、フェアな世の中になるのではないかと思うが、どうか。幾らか好意的に解釈すると、官僚の人数削減すや、官僚人事を政治家がコントロールするための布石なのかも知れないが、私には、納得しがたい。

一方、離乳食業者に関してはどうか。たとえば、早期離乳食の被害に関して、補償を行わなければならないということになると、業者は、早期離乳食ビジネスから撤退するだろうが、早期離乳食を食べた子供の全てがアレルギーになるわけではないとすると、因果関係の立証は難しいだろうし、この方向は現実的ではなさそうだ。

低コストで且つ影響が大きそうなのは、やはり、メディアではっきりと取り上げることだろう。「正しい情報」の伝達である。

たとえば、みのもんた氏が昼の番組で一、二回取り上げたら、お孫さんのアレルギーを心配するお婆さんからお孫さんのお母さんに電話が殺到するだろう。或いは、もう何度もメディアに取り上げられているかも知れないのだが、「正しい情報」の伝達は価値が高い。たいていの場合、小悪党は、ちょいと光を当てただけで(実名で事実を報じられただけで)、悪事から撤退するものだ。

テレビマンよ、スポンサーのことなど気にしないで、どかんとやってみないか? 視聴者の支持と注目が集まれば、ビジネス的にも十分ペイする可能性はあると思う(もちろん、事実関係に関する周到な調査は必要だが)。

この例を考えてみても、実際におおっぴらに「市場」が形成されていないところでも、個人の損得勘定による行動は発生しており、これを正しくコントロールするためには、こうした経済的な利害を丁寧に明らかにして、対策を組み立てていく必要があることが分かると思う。

早期離乳食問題でも、単に厚労省の役人の倫理の退廃をなじっても、物事は解決しない。

ところで、我が家には、現在月例4ヶ月の赤ん坊(ほぼ母乳だけで丸々育って8キロ以上ある)がいるから、離乳食問題は他人事ではない。どなたか、正しい情報のソースをご存知の方があれば、ご教示を頂きたいところだ。
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