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TVコメンテーターの立場・現実・責任

 幸運な(と自分では思うのだが)行きがかりが幾つかあって、ここ2年ほど、生放送でニュース(的)情報を伝えるテレビ番組の「コメンテーター」と呼ばれる仕事をする機会があった。
 ちょうど「スーパーモーニング」(テレビ朝日、朝8時から)のレギュラー出演がさる9月25日で終わったことでもあり、テレビ番組の「コメンテーター」について、簡単に考えておきたい。私がコメンテーター経験した番組は、「めざビズ」(フジテレビ。放送終了)、「とくダネ!」(フジテレビ、朝8時から)、「スーパーモーニング」、「ニュース・リアルタイム」(日本テレビ、午後4時54分から)、「ニュースGyaO」(GyaO、放送終了)、である。拙いコメンテーターではあったが、どの番組にも愛着がある。
 
 当ブログに限らず、ブログや掲示板などを見ると、TVコメンテーターの発言は、多くの場合、不見識で思慮の浅いものとして、批判されている。公共の電波を使ってけしからん、有害だ、という論調もあれば、「TVのコメンテーター並みのバカ」という表現もそう不自然でなく響くように(少なくとも、私は、その表現で、何が言いたいか分かる)、いい加減な論者の代表的な評価もある。だが、はたして、そんなに酷いものなのか。
 
 コメンテーターの立ち位置を考えよう。たとえば「とくダネ!」と「スーパーモーニング」では、若干役割が異なる。

 「とくダネ!」は、現在のような形式でニュース・情報を伝える「情報バラエティー」(間違っていたら、フジテレビのどなたか、ご指摘下さい)の形式のパイオニアであると思うが、これは、ニュースそのものと共に、ニュースを見た感情や感想をセットで伝える、という、考えようによっては、なかなか強力な表現スタイルだ。
 メイン・キャスターの小倉智昭さんは、ニュースを伝え、番組を進行すると同時に、ニュースの受け手にもなって、彼個人が受けた率直な印象を表現する。彼が、根強い人気を持っている理由は、司会としての安定感や声の良さ(本当に通る!)以上に、「正直に意見を述べている」という印象を与えるからではないだろうか(その分、反感も強烈に受けることがある)。
 喩えていえば、まだテレビが一家の中心であった時に、例えば三島由紀夫の割腹自殺とかいったニュースを一家で見ながら、一家のお父さんが、「いいことではないが、俺は、三島の気持ちが分かる」などと、自分の考えを家族に言う(小倉パパは、タカ派ではないので、こうは言わないだろうが)。そんなお父さんの役割を、小倉氏が担っている。ちなみに、佐々木恭子さんが、お母さんなのか、長女なのかは、見る人によって見解が分かれるかも知れない。笠井アナウンサーは、いつも居る、隣(か親戚)のオバサンだろう。コメンテーターは、一家が迎えた、今日のお客さんというくらいの位置づけだ。
 このように、「とくダネ!」は、みんなでテレビを見るように進行し、親父や友達の意見に自分の感情が影響されるような形で、視聴者はニュースを受け取る。
 番組出演の際のコメンテーターの典型的な動きは以下の通りだ。先ず、多くの場合、前日の夕方くらいに、番組のラフな構成表と、それぞれのネタに関する資料(新聞、雑誌のコピーが多い。結構分厚い)をバイク便で受け取る。「おすぎのエンタメ・・・」のようなコーナーがあると、2、3日前に、取り上げる映画のDVDなどを送ってくる場合もある。要は、準備をしておけ、ということだ。但し、この段階での、構成は、翌朝にすっかり変わっていることがある。翌朝、迎えの車の中には、新しい構成表と、追加の資料が入っている事が多い。
 6時半前後にお台場のフジテレビに着いて、メークを済ませて、6時45分くらいから、MCを含めたメンバーで打ち合わせが始まる。打ち合わせは、長いと1時間に及ぶ。それぞれの、ネタの担当ディレクターまたはレポーターが、取材して分かったことを述べる。この段階で、事件の被疑者の名前やプロフィールを出すとか出さないとか、発言に関する打ち合わせを済ませておく。番組のスタッフに迷惑をかけないためにも、また、せっかくの取材の意図を汲む上でも、私は、気持ちの上で、この打ち合わせを本番と同じくらい重視している。ちなみに、番組名物の小倉氏のオープニングトークは、この段階では大体ネタが出来ているようだが、これは、コメンテーターにとっても、番組と共にいきなり始まる話題である。ちなみに、幾つかTV番組に出てみて、「とくダネ!」ほど、いきなり始まる(リハーサル一切無しで)番組は珍しい。笠井アナウンサーが現れるのは開始1、2分前が多いし、その頃、佐々木恭子さんは悠然と化粧を直していたりする。
 ここで強調したいことは、「とくダネ!」は、非常に丁寧に作っている番組で、コメンテーターにもしっかり準備をさせてくれるが、コメンテーターは、感想や知っている情報を言えば良く、何らかの有益な情報を必ず追加しなければならない、というような役割ではないことだ。実際、殺人事件もあれば、教育問題もあり、芸能ネタもあり、たまには経済ニュースもある、というような、広い範囲に対して、コメンテーターが専門的な知見を加えられるはずがない。

 「スーパーモーニング」の場合、打ち合わせに関しては、時間が短いことと(30分くらい)、キャスターやナビゲーター(火曜日だと若一さん)とコメンテーターは別々に打ち合わせをする点がちがうが、「とくダネ!」と比較した場合、コメンテーターに、暗黙の役割分担がある点が主なちがいになるだろうか。
 私が出ていた火曜日で言うと、宮崎(美子)さん、椛島さん(KABAちゃん)には、主にニュースに対する表情を中心としたリアクションが求められるのに対して、大澤弁護士や私には、何らかの追加的な情報なり意見なりが求められていたのだと思う。とはいえ、必ずしも専門分野の話題とは限らない。私の出演期間は、殆ど安倍政権の末期ぶりと朝青龍問題に費やされた印象がある。将来、安倍氏や朝青龍の顔を見ると、私は、「スパモニ」を思い出すだろう。
 そして、さらに、若一さんが居て、赤江、小木、両キャスターが居て、という役割の関係が「とくダネ!」よりも複雑な番組であったが、小倉氏がすっかり取り仕切る「とくダネ!」よりは、飛び入りの意見を言いやすい、ある種の活気がスタジオにある。私は、どちらの番組も好きだし、チャンスがあれば、また出てみたいと思っている。

 「とくダネ!」と「スーパーモーニング」について説明したが、どんなご感想を持たれるだろうか。
 コメンテーターとは、単に、テレビの中にいる「お客さん」に過ぎないのだ。たいていの場合、人に物を教えるような立場から発言している訳ではない。
 もっとも、ニュースを見るのに、招いてもいない客に付き合わされるのは不愉快かも知れないし、コメンテーターの言うことは否応なく聞こえるが、視聴者が画面に向かって何か言っても、誰にも伝わらないという非対称性があるので、自分の感想をしゃべり散らかすことが出来るコメンテーターという存在に対して、視聴者がある種の反感を持つ場合があるのは、仕方がないと思う。
 一方、たとえば、2時間出演していても、一人のコメンテーターがしゃべるのは通算せいぜい2、3分だし、VTRの構成とそう違うことも話せないし、時間の制約もある。だが、それでも出たいと思う動機は何かと考えると、TV出演が、多くの人に自分の言葉を伝えられる機会であることと、TV番組の独特の緊張感が楽しいということだろう。ちなみに、私のような立場(非タレント)の場合、出演料は主たる動機にはならない。
 もちろん、発言内容の良し悪しに関する評価はあっていいし、発言者は自分の発言に責任を持つべきだが、もともと、番組にあってコメンテーターという存在は、怒るほどの甲斐もない相手なので(当たり前だが、内容の大半は、ディレクターその他、制作側によって規定されている)まあ、大目に見てやって下さいな!



 生でコメントが出来る機会が無くなったことは、少しさびしいし、山崎元商店の営業上は、また機会があれば、積極的にトライすべきだろう、と思っている。未定ながら出演交渉中の番組があるだが、まだ公表できる段階ではない。
 のびのびとたくさん話せる番組があると一番嬉しいが、「言うこと」について、自分で工夫できる余地が少しでもある番組なら、テレビ、ラジオを問わず、何でもやってみたいと思っている。
 思い起こすと、朝4時半からの生放送、という生活リズム的にはとんでもない番組だったが、「めざビズ」は、なかなか良かった。深夜枠やCSででも、再チャレンジできないものか。
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