オウムを生んだ日本の闇(1)―オウムは死刑執行で終わらない―
2018年7月6日、すでに死刑が確定していた旧オウム真理教の幹部13人のうち、麻原彰晃(本名 松本智津夫)
以下7人の、また同月20日、残り6人の死刑が執行されました。
オウムの存在や、この教団が犯したさまざまな犯罪については知らない若い人が多いと思いますが、今回の死刑執
行で、改めて日本が背負っている闇の部分について考える必要があると思います。
この死刑執行については、賛否両論あると思います。私個人は、死刑という制度そのものには反対で、終身刑制度
にするべきだと思っています。これは個人個人の思想や心情に関わることなので、ひとまず、置いておくとして、
今回の死刑執行には疑問を感じます。
メディアは一斉に、13人の死刑執行でオウム事件は終わらない、という意見出しで報道していますが、それでは
何が終わらないのか、を考えてみたいと思います。
第一に、死刑を執行することにより、オウムのさまざまな犯行に加わった幹部たちに、それぞれの犯罪の事実経過、
なぜ彼らが犯罪に手を染めたのかについて本音が分からなくなってしまったからです。
そもそも高学歴のエリートたちが、なぜ、一見して怪しげな麻原を信じ、麻原に惹かれ、オウム真理教の信者にな
っていったのかという、という重要なことを知ることができなくなってしまったからです。
本人の心の内は、本人しか本当のところは分からないことです。
第二に、13人の幹部に対する刑法上の処罰は終わったかもしれませんが、松本サリン事件や地下鉄サリン事件、
その他オウムによって殺された人たちの親族・友人・知人にとっては、これからもずっと、その苦しさ・悔しさは
続くわけで、この意味で「オウム」は終わっていません。
さらに、サリンをはじめ毒ガスで身体的に傷つき現在も後遺症で苦しんでいる人たちにとっても、オウムから受け
た精神的・肉体的苦痛は、幹部の死刑によって終わるものではありません。
松本サリン事件の被害者の一人でもある河野義行さんは、「加害者を恨むことで心のバランスをとっていた被害者
は(死刑執行で)生きる支えがなくなるのでは」と被害者の微妙な心情を語っています(『東京新聞』2018年7月
21日)。
メディアではあまり取り上げられませんが、13人の幹部の家族は、多くの人を殺し傷つけた挙句に死刑を執行さ
れた犯罪者の家族という立場で、これからも生きてゆかなければならない苦しさがあります。
第三に、オウム事件全体の首謀者である麻原彰晃自身が、何が最終的な目標で、それをどのように達成しようとし
たか、といった問題について永久に語ることなく死刑を執行されたので、これで「恒久的対策もう取れない」(河
野氏談)状態になってしまいました。
麻原自身が法廷で語ることはないかも知れませんが、他の、元死刑囚については裁判を再開して、少しでもオウム
に関する彼らの心情や事実を語らせるべきだったと思います。
上川陽子法相が20日間で13人の死刑執行に署名した背景には、平成のうちに処理しておかないと、来年は新天
皇の即位と言うお目出たい行事があり(恩赦の可能性もあり)、また今年中の場合、9月の総裁選で内閣改造があ
れば、新法相がいきなり死刑執行に署名しにくいので法務官僚の信頼が厚い川上氏の在任中に区切りを付けてしま
いたい政府・自民党などの思惑のもとで、数か月前からこのタイミングを検討していたようだ(注2)。
第四に、そして私がもっとも重視している問題ですが、そもそもオウムというカルト的宗教集団がなぜ日本に発生
し成長したのか、という根本的な問題はまだ未解明のままです。
オウムは日本社会と無縁の真空状態の中で生まれたのではなく、その母体は日本社会そのものにあるはずです。し
たがって、オウムの問題を手掛かりとして現代の日本社会が抱える闇を浮き彫りにする必要があります。
この問題が解明されないかぎり、私たちは、再びオウムのようなカルト的な宗教集団に対する「恒久的対策」をと
れないし、これだけの犠牲を払ったのに、学ぶべきことがないまま一件落着としてはならないと思います。
これについての詳しい検討は次回に行うとして、今回は最後に、オウムはなぜ、あのような殺人やテロを繰り返す
までに暴走してしまったのかを時系列的に追ってみます。
オウムが犯した殺人とテロは全て麻原の指示に基づいて行われたことは、実行犯の証言からも明らかですが、その
軌跡をたどってみると、綿密に練られた計画にそって実行されたというよりむしろ、その場その場で対応しつつ、
次第に組織化し凶暴化の方向に追い詰められていったのではないか、という可能性の方が高いように思えます。
これに関して『朝日新聞』は『「オウム」を暴走させた3つの転機』というタイトルで分析しています(注1)
第一は、男性信者の風呂場の「事故」で、静岡県富士宮市の教団総本部で1988年9月、修行中の男性信徒が突
然、大声を上げ始めた。幹部が水をかけたところ、男性は死亡してしまった、ある意味事故死でした。
公にすれば教団の活動を休止せざるを得なくなることを恐れた麻原は警察には連絡せず、幹部らに男性の遺体を処
理するよう指示。幹部らは遺体をドラム缶で焼却し、骨を湖に捨てました。
その場に立ち会っていた別の男性信徒は同年末、教団の出版物の営業活動に当たるよう指示された。だが、男性は
「営業をやっても功徳にならない」と感じ、教団からの脱会を訴えるようになった。男性の脱会で事故が表沙汰に
なることを恐れた麻原は、89年2月の深夜、幹部らを集め、「男性の考えが変わらないなら、ポアするしかない
な」と命令した。
幹部らは、コンテナ内で両手、両足を縛られた男性の首をロープで絞め、殺害した。教団の活動を妨げるものは命
を奪ってまで、口を封じる。重大な違法行為の連鎖は、この頃、始まったのです。
これを皮切りに、1989年にはオウムの信者、その家族の相談にのりオウムの反社会性を批判していた坂本堤弁
護士一家の殺人、94年1月落田孝太郎さんリンチ殺害、同年、富田俊夫さんリンチ殺害、95年、公証人役場事
務長の板谷清志さん拉致し、上九一色村の教団施設で麻酔薬により死に至らしめた。この他、滝本弁護士その他の
人へのサリンでの襲撃、VXガスによる襲撃などを実行しています。
第二は、総選挙の惨敗でした。オウム真理教は小さなヨガ教室から始まりました。1987年に宗教法人の認証を受け
たが、教団の勢力を拡大するためには政治力をつける必要があると考え、90年に真理党を設立し教団幹部らとと
もに総選挙に25人が立候補しました。しかし結果は全員落選(ちなみに麻原の得票は1783だった)。
元幹部の一人は法廷で、当時の教団内の様子をこう語っている。「このころから、被害妄想や社会からの孤立感が
出てきた。こうした問題を払拭(ふっしょく)するために麻原氏を神格化する風潮が教団内に蔓延(まんえん)し
ていった」。
恐らく麻原は、自分に対する社会一般の評価は絶望的に低く、合法的・正攻法では勢力の拡大は不可能だと思った
のだろう。私は、このころ、武装化への思考が麻原の中で芽生えたのではないかと推測しています。
第三は「石垣島セミナー」。総選挙で大敗した後の1990年4月、麻原は「オースチン彗星(すいせい)の接近
で日本に天変地異が起きる」と「予言」し、石垣島に約千人の信徒を避難させてセミナーを開きました。検察側の
主張では、教団はこの時期に合わせ、ボツリヌス菌を東京にばらまき、人為的な「大災害」を演出することを計画
した。このため麻原の指示で、幹部らが菌の培養に取りかかり、プラント生産を目指したが、いずれも期限には間
に合わなかった。つまり「天変地異」の自作自演は失敗に終わったのです。
教団の武装化はこの時期から一気に深刻化していく。麻原は幹部ら二十数人を集め、「現代人は生きながらにして
悪業を積むから、全世界にボツリヌス菌をまいてポアする」と無差別大量殺人の実行を宣言。兵器の開発などを次
々に指示しました。
このセミナーで重要な点は、大量の出家者を出したとことです。この頃までには、オウムの出家制度は尊師である
麻原に心身と自己の全財産を委ね、肉親や友人らとの接触など、現世における一切の関わりを断つものになってい
た。布施の名目で信徒らの資産を根こそぎ吸い上げ、こうして集めた多額の資金を投下して教団の武装化を進める
ことになったのです。
たとえば、ロシアから自動小銃を持ち帰り、製造作業に取り掛かり、93年夏ごろにはサリンの生成に成功します。
94年、麻原は「1997年、私は日本の王になる」と宣言し、幹部には「サリンを東京に70トンぶちまくしか
ない」と語るようなります。
また、擬制国家的な「省庁制」を導入して、指示命令系統と役割分担を明確化しました(『東京新聞』2018年7月
27日)。
このような言動から、たとえそれがどれほど非現実的であったにせよ、麻原は国家転覆を企て、新たにオウム的国
家の建設を夢想していたことが分ります。
実際にサリンを大規模に使用した最初のテロは、1994年6月、松本サリン事件でした。これは、教団進出に反
対する住民との間で裁判が続いていた中で、長野地裁松本支部の裁判官らを殺害するために、同地裁近くの市内で
サリンを散布し、8人が死亡、600人以上が負傷しました。
そして、もっとも大規模なテロは、1995年3月20日、東京の地下鉄内でビニール袋に入れたサリンを傘の先
でつついて破りサリン・ガスをまき散らし、13人が死亡、6000人以上を負傷させた「地下鉄サリン事件」でした。
ただ、この事件は、国家の転覆という目的とはほど遠く、麻原個人が、警察の一斉捜索から目をそらすために行っ
た、場当たり的なテロでした。
というのも、この年の1月に警察は富士宮上九一色村に幾つかある「サティアン」と呼ばれるオウムの最大の教団
施設のどこかに麻原が隠れていることを確認し、家宅捜索に踏み込むことになっていました。
ところが、阪神淡路大震災が1月17日に発生し、警察の教団施設の一斉捜索は一時延期となりました。
震災の問題が一段落し、いよいよ警察の一斉捜索が始まろうとしていた矢先、麻原は逮捕を恐れ、警察の目をそら
すために、幹部に地下鉄でサリンをまくよう指示したのです。
これにより、サティアンへの捜索は一時延期されましたが、ついに同年5月16日、第6サティアンの隠し部屋で、
現金960万円の札束と寝袋を隠れていた所で発見され、逮捕されました。
以上の経緯からみても分かるように、麻原は、しっかりとした展望や方法論に基づいて行動していたというより、
自己保身と空想や夢想の中で幹部や信者を操っていた、とういのが実際に近いようです。
次回は、麻原も含めて、幹部や一般信者が、なぜ、麻原に服従していったのかを考えてみたいと思います。
(注1)『朝日新聞 デジタル版』(2018年7月26日 更新)
http://www.asahi.com/special/aum/3keys/?iref=pc_extlink
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美瑛の「青の池」は文字どおり、神秘的な青い水を湛えていました

2018年7月6日、すでに死刑が確定していた旧オウム真理教の幹部13人のうち、麻原彰晃(本名 松本智津夫)
以下7人の、また同月20日、残り6人の死刑が執行されました。
オウムの存在や、この教団が犯したさまざまな犯罪については知らない若い人が多いと思いますが、今回の死刑執
行で、改めて日本が背負っている闇の部分について考える必要があると思います。
この死刑執行については、賛否両論あると思います。私個人は、死刑という制度そのものには反対で、終身刑制度
にするべきだと思っています。これは個人個人の思想や心情に関わることなので、ひとまず、置いておくとして、
今回の死刑執行には疑問を感じます。
メディアは一斉に、13人の死刑執行でオウム事件は終わらない、という意見出しで報道していますが、それでは
何が終わらないのか、を考えてみたいと思います。
第一に、死刑を執行することにより、オウムのさまざまな犯行に加わった幹部たちに、それぞれの犯罪の事実経過、
なぜ彼らが犯罪に手を染めたのかについて本音が分からなくなってしまったからです。
そもそも高学歴のエリートたちが、なぜ、一見して怪しげな麻原を信じ、麻原に惹かれ、オウム真理教の信者にな
っていったのかという、という重要なことを知ることができなくなってしまったからです。
本人の心の内は、本人しか本当のところは分からないことです。
第二に、13人の幹部に対する刑法上の処罰は終わったかもしれませんが、松本サリン事件や地下鉄サリン事件、
その他オウムによって殺された人たちの親族・友人・知人にとっては、これからもずっと、その苦しさ・悔しさは
続くわけで、この意味で「オウム」は終わっていません。
さらに、サリンをはじめ毒ガスで身体的に傷つき現在も後遺症で苦しんでいる人たちにとっても、オウムから受け
た精神的・肉体的苦痛は、幹部の死刑によって終わるものではありません。
松本サリン事件の被害者の一人でもある河野義行さんは、「加害者を恨むことで心のバランスをとっていた被害者
は(死刑執行で)生きる支えがなくなるのでは」と被害者の微妙な心情を語っています(『東京新聞』2018年7月
21日)。
メディアではあまり取り上げられませんが、13人の幹部の家族は、多くの人を殺し傷つけた挙句に死刑を執行さ
れた犯罪者の家族という立場で、これからも生きてゆかなければならない苦しさがあります。
第三に、オウム事件全体の首謀者である麻原彰晃自身が、何が最終的な目標で、それをどのように達成しようとし
たか、といった問題について永久に語ることなく死刑を執行されたので、これで「恒久的対策もう取れない」(河
野氏談)状態になってしまいました。
麻原自身が法廷で語ることはないかも知れませんが、他の、元死刑囚については裁判を再開して、少しでもオウム
に関する彼らの心情や事実を語らせるべきだったと思います。
上川陽子法相が20日間で13人の死刑執行に署名した背景には、平成のうちに処理しておかないと、来年は新天
皇の即位と言うお目出たい行事があり(恩赦の可能性もあり)、また今年中の場合、9月の総裁選で内閣改造があ
れば、新法相がいきなり死刑執行に署名しにくいので法務官僚の信頼が厚い川上氏の在任中に区切りを付けてしま
いたい政府・自民党などの思惑のもとで、数か月前からこのタイミングを検討していたようだ(注2)。
第四に、そして私がもっとも重視している問題ですが、そもそもオウムというカルト的宗教集団がなぜ日本に発生
し成長したのか、という根本的な問題はまだ未解明のままです。
オウムは日本社会と無縁の真空状態の中で生まれたのではなく、その母体は日本社会そのものにあるはずです。し
たがって、オウムの問題を手掛かりとして現代の日本社会が抱える闇を浮き彫りにする必要があります。
この問題が解明されないかぎり、私たちは、再びオウムのようなカルト的な宗教集団に対する「恒久的対策」をと
れないし、これだけの犠牲を払ったのに、学ぶべきことがないまま一件落着としてはならないと思います。
これについての詳しい検討は次回に行うとして、今回は最後に、オウムはなぜ、あのような殺人やテロを繰り返す
までに暴走してしまったのかを時系列的に追ってみます。
オウムが犯した殺人とテロは全て麻原の指示に基づいて行われたことは、実行犯の証言からも明らかですが、その
軌跡をたどってみると、綿密に練られた計画にそって実行されたというよりむしろ、その場その場で対応しつつ、
次第に組織化し凶暴化の方向に追い詰められていったのではないか、という可能性の方が高いように思えます。
これに関して『朝日新聞』は『「オウム」を暴走させた3つの転機』というタイトルで分析しています(注1)
第一は、男性信者の風呂場の「事故」で、静岡県富士宮市の教団総本部で1988年9月、修行中の男性信徒が突
然、大声を上げ始めた。幹部が水をかけたところ、男性は死亡してしまった、ある意味事故死でした。
公にすれば教団の活動を休止せざるを得なくなることを恐れた麻原は警察には連絡せず、幹部らに男性の遺体を処
理するよう指示。幹部らは遺体をドラム缶で焼却し、骨を湖に捨てました。
その場に立ち会っていた別の男性信徒は同年末、教団の出版物の営業活動に当たるよう指示された。だが、男性は
「営業をやっても功徳にならない」と感じ、教団からの脱会を訴えるようになった。男性の脱会で事故が表沙汰に
なることを恐れた麻原は、89年2月の深夜、幹部らを集め、「男性の考えが変わらないなら、ポアするしかない
な」と命令した。
幹部らは、コンテナ内で両手、両足を縛られた男性の首をロープで絞め、殺害した。教団の活動を妨げるものは命
を奪ってまで、口を封じる。重大な違法行為の連鎖は、この頃、始まったのです。
これを皮切りに、1989年にはオウムの信者、その家族の相談にのりオウムの反社会性を批判していた坂本堤弁
護士一家の殺人、94年1月落田孝太郎さんリンチ殺害、同年、富田俊夫さんリンチ殺害、95年、公証人役場事
務長の板谷清志さん拉致し、上九一色村の教団施設で麻酔薬により死に至らしめた。この他、滝本弁護士その他の
人へのサリンでの襲撃、VXガスによる襲撃などを実行しています。
第二は、総選挙の惨敗でした。オウム真理教は小さなヨガ教室から始まりました。1987年に宗教法人の認証を受け
たが、教団の勢力を拡大するためには政治力をつける必要があると考え、90年に真理党を設立し教団幹部らとと
もに総選挙に25人が立候補しました。しかし結果は全員落選(ちなみに麻原の得票は1783だった)。
元幹部の一人は法廷で、当時の教団内の様子をこう語っている。「このころから、被害妄想や社会からの孤立感が
出てきた。こうした問題を払拭(ふっしょく)するために麻原氏を神格化する風潮が教団内に蔓延(まんえん)し
ていった」。
恐らく麻原は、自分に対する社会一般の評価は絶望的に低く、合法的・正攻法では勢力の拡大は不可能だと思った
のだろう。私は、このころ、武装化への思考が麻原の中で芽生えたのではないかと推測しています。
第三は「石垣島セミナー」。総選挙で大敗した後の1990年4月、麻原は「オースチン彗星(すいせい)の接近
で日本に天変地異が起きる」と「予言」し、石垣島に約千人の信徒を避難させてセミナーを開きました。検察側の
主張では、教団はこの時期に合わせ、ボツリヌス菌を東京にばらまき、人為的な「大災害」を演出することを計画
した。このため麻原の指示で、幹部らが菌の培養に取りかかり、プラント生産を目指したが、いずれも期限には間
に合わなかった。つまり「天変地異」の自作自演は失敗に終わったのです。
教団の武装化はこの時期から一気に深刻化していく。麻原は幹部ら二十数人を集め、「現代人は生きながらにして
悪業を積むから、全世界にボツリヌス菌をまいてポアする」と無差別大量殺人の実行を宣言。兵器の開発などを次
々に指示しました。
このセミナーで重要な点は、大量の出家者を出したとことです。この頃までには、オウムの出家制度は尊師である
麻原に心身と自己の全財産を委ね、肉親や友人らとの接触など、現世における一切の関わりを断つものになってい
た。布施の名目で信徒らの資産を根こそぎ吸い上げ、こうして集めた多額の資金を投下して教団の武装化を進める
ことになったのです。
たとえば、ロシアから自動小銃を持ち帰り、製造作業に取り掛かり、93年夏ごろにはサリンの生成に成功します。
94年、麻原は「1997年、私は日本の王になる」と宣言し、幹部には「サリンを東京に70トンぶちまくしか
ない」と語るようなります。
また、擬制国家的な「省庁制」を導入して、指示命令系統と役割分担を明確化しました(『東京新聞』2018年7月
27日)。
このような言動から、たとえそれがどれほど非現実的であったにせよ、麻原は国家転覆を企て、新たにオウム的国
家の建設を夢想していたことが分ります。
実際にサリンを大規模に使用した最初のテロは、1994年6月、松本サリン事件でした。これは、教団進出に反
対する住民との間で裁判が続いていた中で、長野地裁松本支部の裁判官らを殺害するために、同地裁近くの市内で
サリンを散布し、8人が死亡、600人以上が負傷しました。
そして、もっとも大規模なテロは、1995年3月20日、東京の地下鉄内でビニール袋に入れたサリンを傘の先
でつついて破りサリン・ガスをまき散らし、13人が死亡、6000人以上を負傷させた「地下鉄サリン事件」でした。
ただ、この事件は、国家の転覆という目的とはほど遠く、麻原個人が、警察の一斉捜索から目をそらすために行っ
た、場当たり的なテロでした。
というのも、この年の1月に警察は富士宮上九一色村に幾つかある「サティアン」と呼ばれるオウムの最大の教団
施設のどこかに麻原が隠れていることを確認し、家宅捜索に踏み込むことになっていました。
ところが、阪神淡路大震災が1月17日に発生し、警察の教団施設の一斉捜索は一時延期となりました。
震災の問題が一段落し、いよいよ警察の一斉捜索が始まろうとしていた矢先、麻原は逮捕を恐れ、警察の目をそら
すために、幹部に地下鉄でサリンをまくよう指示したのです。
これにより、サティアンへの捜索は一時延期されましたが、ついに同年5月16日、第6サティアンの隠し部屋で、
現金960万円の札束と寝袋を隠れていた所で発見され、逮捕されました。
以上の経緯からみても分かるように、麻原は、しっかりとした展望や方法論に基づいて行動していたというより、
自己保身と空想や夢想の中で幹部や信者を操っていた、とういのが実際に近いようです。
次回は、麻原も含めて、幹部や一般信者が、なぜ、麻原に服従していったのかを考えてみたいと思います。
(注1)『朝日新聞 デジタル版』(2018年7月26日 更新)
http://www.asahi.com/special/aum/3keys/?iref=pc_extlink
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北海道富良野のラベンダーは盛りを少し過ぎていましたが独特の香りは辺りに漂っていました。 雄大な麦畑は、北海道ならではの光景です


美瑛の「青の池」は文字どおり、神秘的な青い水を湛えていました
