僕の感性

詩、映画、古書、薀蓄などを感性の赴くまま紹介します。

昆虫標本

2020-04-14 01:03:11 | 思い出

小学生低学年の頃、夏休みになると昆虫採集や魚とりに明け暮れた。

ちょっと残酷だが、昆虫標本を作ったりもした。

こんなキットを使った覚えがある。

 

その標本はすでにないが、メルカリで買った蝶の標本がある。

 

童心に帰るのさ。


昭和のお札

2020-01-19 08:16:12 | 思い出

小学生の頃、親戚のおじさん、おばさんに貰うお年玉が500円札だった。

伊藤博文の千円札は子供ながらに大金だと思ったものだ。

今、手元にある昭和のお札、思い出と共に大切にしまってある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ローメンコ

2019-11-23 13:38:57 | 思い出

昭和40年代のメンコ、ローメンコです。

 

普通のメンコのように相手のメンコの隣に叩きつけて

ひっくり返す遊びですが、直径が2.1cmと小さいので、

親指と人差し指にはさんで指を瞬時にせばめて

滑り飛ばす遊びにも使われました。

そのためメンコの縁に蝋(ロウ)が塗られているのです。

一番遠くに飛ばした人がほかの人のロウメンを貰うことが出来ました。

 

私の故郷ではパッタと呼んで

よくひっくり返す遊びに夢中になりました。

メンコに隙間ができないよう裏側に蝋を塗って

重みを出す人や

オモリを仕込む人もいました🤭


カチカチ山とMさんの追憶

2019-03-20 18:19:01 | 思い出

「カチカチ山」という誰しもが知っている御伽噺がある。

おじいさんが畑にまいた作物をタヌキが食い荒らし、それに怒ったおじいさんが

タヌキを捕まえ、おばあさんに料理するように命じたが逆に騙されて

おばあさんはタヌキに殺されてしまう。それに嘆いたおじいさんが兎に仇討ちを依頼する。

薪拾いにいって、薪を背負ったタヌキに兎は火打石で火をつける。

「カチカチと音がするが何の音?」

とタヌキがいぶかしがるが、兎は

「ここはカチカチ山なので、カチカチ鳥が鳴いているのさ」

と嘘をつく。

そして背中に大やけどを負ったタヌキに兎は薬だと言って

唐辛子入りの味噌を塗りたくる。  タヌキ悶絶・・・

 

火傷が治ったタヌキに兎は今度は魚捕りに行こうと誘う。

木の舟と泥でできた一回り大きな舟も用意する。

案の定、欲張りのタヌキは魚をたくさんのせられる大きな泥舟をチョイスする。

結果泥舟によってタヌキは溺死することになる。これにて仇討ちの完了、めでたしめでたしなのだが、子供向けの絵本などにはタヌキは死なず、兎やおじいさんと仲直りするバージョンもある。

もちろんおばあさんも生きているし。

この御伽噺は、盟神探湯(くがたち)という呪術的な方法で

無実ならば火傷もしないし、溺れもしないという裁判法を暗に提示している。

けれど実際熱湯に手を入れたら、手がただれるだろうし、火傷もするに違いない。

水戸黄門のような勧善懲悪を民衆は喜んだので話が流布していったというのが現実だろう。

 

前置きが長くなったが、(今までが前置きなのかと苦言を呈されるだろうが・・・)

昔、Mさんが子供の頃、川の近くにタヌキの巣があって、その穴に

燃やした杉の生葉を入れて燻(いぶ)して

こりゃ煙くてたまらんと出てきた狸を、網のようなもので捕獲したんだそうな。

捕まえたタヌキをタヌキ汁などで食べたが余りおいしくなかったらしい。

いぶされたたぬきの話に触発されて「かちかち山」をあえて披露することになった

わたくしめをお許しいただければと思う。

最後にMさんが育てた大根を頂戴したので掲載して擱筆したいと思う。


学生の頃のシーン

2019-01-22 18:08:24 | 思い出

 今から40年も前の事、私は大学生だった。
麻雀が好きで、休講といえば喜び勇んで雀荘に繰り出した。

一応授業も休まず出て、野球応援やラグビー応援で欠席した時は
教授によっては出席扱いにしてくれた。

中村光夫先生や小島信夫先生にはを頂いたかな・・・確か?

雀荘をあとにすると、決まってお腹がすく

そうするとすずらん通りにある相州屋でスタミナ定食を食べたっけ。




安くて美味しかったなー 今も営業しているのは凄いことだと思う。


アルバイトは中村屋の笹塚工場で従業員の人たちに朝ごはんを提供する仕事。
朝4時起床だったので、笹塚の寮に泊まって、翌日すぐ仕事、
味噌汁作ってご飯を炊いておかずを一品作った。
カウンターには生卵と味付けのりとふりかけが載っていたなー。
一食200円だったので、ボンビーな私にはとても助かった。

アパートは幡ヶ谷から徒歩5分の場所。
火葬場が目の前で、4畳半で月2万円だった。

大家さんがよくコーヒーを御馳走してくれた。
映画のただ券もくれた。
リンゴを持っていくと「ありがとう」と笑顔が可愛かった。

卒業する前に大家さんから5千円借りた。
そうして借りたまま引っ越した。

そして1年後 お土産を差し出し、5千円を返却し、不義理を詫びた。

ただ大家さんはすでに亡くなっており、娘さんにだけども・・・


れもん

2019-01-09 23:56:01 | 思い出
私にとってレモンとは、you tubeで二億回以上再生された米津玄師の「Lemon」でもなく
さだまさしの「檸檬」でもなく
高村光太郎の「レモン哀歌」でもない。

Long long ago 寒河江市に存在して
実在していたはずなのに
儚くて侘しくて朧気で
いたいけで
心細げで
寄り添ってあげるよ
と言ったら
そこはかとなく
後ずさりするように
別離を告げられた場所なのでした。

お袋よ

2018-05-11 18:13:12 | 思い出
先日、ワラビ採りに山に行ったとき、4,5歳の頃母に手をひかれていったことを思い出していた。

あーここでホタルブクロを手折ってくれたっけ。

このクヌギの木の洞にノコギリクワガタがいたっけなー

なんてたわいもないことを思い出しながら歩いて行った。

なんで50年以上も経っているのに、景観がひとつも変わらないんだろう。
なぜ当時の自分が髣髴としてくるのだろう。

けれど・・・ははは、いや母は今年92になった。

いつ会っても、交通事故に気を付けろ!とか
検診うげろな、かならずと口酸っぱくいう。
わがたず!といいながら言われてうれしい自分もいる。

さて今年の母の日には何を贈ろうか。

名残の雪

2018-03-13 18:02:49 | 思い出
18歳の自分は上京が決まっていた。

仄かで消えうるような女の人を愛してはいたが
すでに彼女には親の決めた許嫁の存在があった。

諦めきれず「結婚なんか止せ」と
喉もとまで出かかったけれど
その言葉はかすれてついえてしまった。

「檸檬」という喫茶店を出て
駅に向かったふたりに ハラハラと
名残の雪が舞う。

地に落ちて
すぐ消えてしまう微かな雪

僕には名残惜しい雪に違いなかった。

タバコ畑の思い出

2017-08-07 20:40:40 | 思い出
私が小学1年の時、学校から帰ると

両親は一里ばかり離れた 煙草畑で仕事に勤しんでいた。
つまり二人とも居なかった。

私は二人が恋しくて堪らず

泣きながら

その畑まで駆けていった。

二人は 私を見つけると

少し悲しさと 嬉しさをない交ぜにした表情をして

よく迷わず来たなと誉めてくれた。

「父ちゃん腹減った」というと
山ユリの根を掘って食べさせてくれた。

今でも、のしたタバコの葉の色が脳裏に浮かぶ。

小学生の頃

2017-05-09 13:36:33 | 思い出
僕は小学生時代、勉強でもかけっこでも、学年で11番以内をキープしていた。

しかも男子の中では常に2番以内であった




こう書くと聡明で運動神経抜群みたいだが・・・さにあらず
学年全体で11人しかいなかったのだよ。しかも男子2人。

すごーい田舎の山間の谷間の中で過ごしたのだ。


女子が9人もいたので、僕ら男子は当然少数派、卑屈にはならないが
女子に迎合する機会は多かった気がする。

明眸皓歯の典型の女子が同じ小学校で、仮にEさんとしておく。
そのEさんと先日の同窓会でちょこっと話をした。

よくふざけて何人かで遊ぶ機会に 
彼女が僕のシャツの袖を引っぱった。 そして見事に肩の部分が外れ
僕のシャツ片腕だけノースリーブになった。

その時のことを彼女はよく覚えていて
僕にちょっと詫びてくれた。
そんなこと全然忘れていたのに。
全然気にしていないのに・・・でも本当はちゃんと記憶しているんだ・・・

覚えていてくれてありがとう。

僕の思いが当時の風景と重なっていく。
グランドの銀杏の木
鳥小屋、、、25メートルのプール
運動会のお昼の弁当開き

やわらかな風が頬を撫でていって
当時の校庭の土のにおいがしてくる。

ああ! 僕らはちゃんと今を生きている。