今から11年前の1997年に、私は一冊の本を読んだ。
当時、少しばかり話題になった本なので、あるいは憶えておられる方があるかもしれない。
ジョン・クラカワー著『荒野へ』というノンフィクション作品だ。
《1992年4月、ひとりの青年がアラスカ山脈の北麓、住むもののない荒野へ徒歩で分け入っていった。
四か月後、ヘラジカ狩りのハンターたちが、うち捨てられたバスの車体のなかで、寝袋にくるまり餓死している彼の死体を発見する。
彼の名はクリス・マッカンドレス。
ヴァージニアの裕福な家庭に育ち、二年前にアトランタの大学を優秀な成績で卒業した若者だった。
知性も分別も備えた、世間から見れば恵まれた境遇の青年が、なぜこのような悲惨な最期を遂げたのか?
クリスは、所有していた車と持ち物を捨て、財布に残った紙幣を焼き、旅立つと、労働とヒッチハイクを繰り返しながらアメリカを横断、北上し、アラスカに入った。
著者のクラカワーは、大学卒業後のクリスの人生を追いかけ、その時々にクリスと触れ合った人びとを捜し出してインタヴューし、彼の心の軌跡を検証する。
登山家の著者にとって、クリスの精神は理解できないものではない。
また荒野に魅せられた人びとというのは、昔からいて、さまざまな作品や記録が残っている。
こうした精神史や自らの体験も踏まえ、共感と哀惜の念を込めて、クリスの身に何が起こったのかを描き出す。出色のノンフィクション》
単行本の扉に書いてあった作品解説は、私の興味を惹いた。
徒歩を中心とした青年の旅の記録かと思ったのだ。
2年前の1995年、私は徒歩日本縦断の旅を終えていた。
それ以来、徒歩の旅に関する本が出版されると、「必ず」と言っていいほど手にし、読んでいた。
そういうこともあって、さっそく手に入れた『荒野へ』という本を一気に読んだ。
だが、その内容は、私の期待したものではなかった。
「程遠かった」と言ってもいい。
少なからず落胆したことを憶えている。
作品自体は悪くはない。
著者のジョン・クラカワーは、クリス・マッカンドレスの日記、写真、遺品、彼の家族や学生時代の友人たちや放浪の旅先で知り合った人々から集めた証言を資料とし、よくまとめていた。
クリスに思い入れがある分、やや客観的な論証に欠けるが、それは仕方ないことだし、そこまで文句を言うつもりもない。
要は、クリスの生き方、旅の仕方に落胆したのだ。
クリスが旅に出るキッカケは、両親、とくに父親への不満である。
両親がよく喧嘩をしていたとか、父親が一時期重婚をしていたとか、どこにでも転がっているような理由なのだ。
そんな理由からだったら、世界中の若者が全員家出をしなければならない事態に陥ると思う。
文明社会を避けて、自然に入ると言いながら、車に乗って旅に出るのもどうかと思う。
車が鉄砲水にやられて、徒歩を余儀なくされてからも、主体はヒッチハイクだ。
それに列車への無賃乗車。
「おいおい、何やってるんだい、もっと自分の足で歩けよ!」って感じなのだ。
預金を寄付したり、紙幣に火をつけて焼くパフォーマンスも臭すぎる。
自分で稼いだお金なら文句は言わないが、遺産相続などで得た泡銭なのだ。
お金持ちのボンボンの気まぐれ、自意識過剰の演出。
読んでいて不快になった。
この本にも書いてあることだが、アラスカは長いこと、夢想家や社会的な不適合者などの、人生のほころびを人跡未踏の広大な最後のフロンティアがなによりも繕ってくれると思いこんでいる者たちを惹きつけてきた。
アラスカに入り込む若者は、珍しいことではないのだ。
言い方は悪いが、掃いて捨てるほどいる。
地元の住民の言葉を借りれば、次のようになる。
「アラスカ関係の雑誌を集め、ざっと目を通して、こう考えるんだ『そうだ、あそこへ行って、土地が与えてくれるものを食べて生活し、自分もひとつ楽しい暮らしをしてみたい』とね。ところが、連中がここにやってきて、実際、森のなかに入ってみると、とても雑誌に書かれているようなところじゃない。川はでかいし、流れは速いし。蚊には刺される。たいていの場所は、狩猟用の動物なんてそんなにいやぁしない。森で暮らすことはピクニックとはわけが違うんだ」
実際、クリス・マッカンドレスも、荒野へ分け入ったものの、ほどなく廃車となっているバスで暮らすようになる。
自分で丸太小屋を造るわけでもなく、文明の象徴である車に住み着くというのも皮肉な話だ。
文明を拒否するということで、地図を持たず、先人の知恵も学ぼうとしない。
銃を使い、ヘラジカを仕留めたのはいいとしても、保存方法を知らずに、ほとんどの肉に蛆を湧かせてしまい、「殺すんじゃなかった」と自己嫌悪に陥る。
孤独に耐えられなくなり、荒野から脱出しようとするが、川が増水していて渡れない。
夏は雪解け水で川が増水するという知識もないのだ。
もし地図があったら、川を渡るためのゴンドラが近くにあるのを知ることができるのに、地図がないために、また廃車のバスに戻ってしまう。
そして、食用植物の知識不足から、毒草を食べて、体が衰弱していく。
すべては、学ぶべきものを学んでいなかった為に起こったものだ。
文明を拒否するのは別に悪いことではない。
だが、先人の知恵、先人の智慧無くしては、人間は一日たりとて生きてはいけないのだ。それまで拒否したところに、クリス・マッカンドレスの悲劇がある。
「荒野へ」と言っているが、アラスカのハイウェイから少しだけ分け入った場所が、果たして「荒野」だろうかという疑問もある。
日本のカメラマンやカヌーイストが、「手つかずの自然が残っているから」という理由で、よくアラスカに出掛ける。
だが、アラスカは、「手つかず」の自然ではなく、「あえて手をつけない」自然であると言う人もいる。
星野道夫さんの本を読むまでもなく、アラスカは常に開発の危機にさらされてきた。
反対運動が起きなければ、かなりの部分で自然が破壊されていた筈である。
アラスカは、謂わば「保護されている自然」なのである。
言い方を変えれば、「不自然な自然」と言えるかもしれない。
本当の「手つかず」の自然とは、「手のつけられない」自然である。
たとえば、アフリカやアジア中央部の砂漠地帯。
アラスカと違って、水もなく、植物も育たず、まず井戸を掘ることから始まるというような場所……こんな場所こそが、本当の意味での「荒野」ではないかと思う。
そこでは、先人の知恵を受け継いだ者だけが生きていくことができる過酷な場所だ。
今の日本で言えば、一般社会こそ「荒野」ではないかと思う。
生きていくことさえ大変な現代社会。
自殺者が年間3万人以上出るほど、心までもが荒廃した「荒野」。
これは、現在のアメリカでも変わらないかもしれない。
私は、クリス・マッカンドレスは、社会という「荒野」に入ることを敬遠し、アラスカという「楽園」を目指して旅に出たような気がしてならない。
クリスにとって、アラスカは決して「荒野」ではなく、むしろ自分が生きていく上で理想とする場所だったのではないか……
この本を読んでそういう感想を持った私だが、ショーン・ペンはこの本を読んで感動し、自ら監督を務め『イントゥ・ザ・ワイルド』という作品を生んだ。
見てみたいと思った。
佐賀市内ではなかなか上映する映画館がなかったが、やっとシアター・シエマで10月25日から公開が始まった。
で、今日(30日)見に行った。
感想はというと、これがなかなか良かった。
『おくりびと』と同じで、原作の上澄みだけをすくい取った感は否めないが、ショーン・ペンの気持ちが良く伝わってくる作品になっていた。
頭でっかちなクリスを諫めてくれる陽気な兄貴分、ウェイン。
気ままに旅するヒッピーのカップル、レイニーとジャン。
お互いに複雑な過去をひきずる者同士、たちまち意気投合する。
コミュニティで出逢った16歳の少女、トレイシー。
彼女の淡い恋心を知りながらも、それを振り切って旅を続けるクリス。
この部分は、かなり創作があるように感じた。
2年に渡る旅の終盤、いよいよアラスカへ向かうという直前に出会った孤独な老人、フランツ。
フランツとの間には、共に過ごした数週間で、世代を超えた強い友情が育まれたのだが……
クリスが死ぬ間際に悟ったこととは……
「Happiness is only real when shared」
「幸福が現実になるのは誰かとわかちあった時だ」
ということ。
最後の最後に、家族の大切さに気づくのだ。
こんな当たり前のことを悟る為に、君はアラスカへやってきたのか?
だったらなおのこと、君は死んではならなかった。
映画にはなかったが、原作本では、クリスが死んだ場所にクリスの両親がやってくる場面がある。
そこで母親は、次のように呟く。
「彼がやろうとしたことはすごいことだって、おおぜいの人が言ってくれました。彼が生きていたら、わたしもそう思ったでしょう。でも、生きてはいない。この世に呼びもどすことはもうできません。取り返しのつかないことです。ほとんどのことはやり直しがきくものだけど、こればかりはね。あなたもこういう不幸に打ち克ったことがあるかどうかは知りませんけど。クリスが亡くなったのは事実ですし、わたしはそのことで毎日毎日ひどく辛い思いを味わっています。ほんとうに耐えがたいことです。いくらかましな日もときにはありますけど、これからは一生、毎日が辛いでしょうね」
君はこの声をどこかで聞いているだろうか……
そして今度は映画によって、彼の死は伝説化しつつあります。
でも、クリスの死は、『荒野へ』の著者も言っているように、あきらかにつまらないミスによって起こったものです。
死の願望があったのではないし、自ら死を選んだのでもない。
彼の死を美化してはいけないと思います。
彼は生きたかった……ずっと生きていたかったのです。
>死の願望があったのではないし、自ら死を選んだのでもない。
>彼の死を美化してはいけないと思います。
>彼は生きたかった……ずっと生きていたかったのです。
バスのドアにメモがテープで貼られていて、そこにはこう書かれていました。
《SOS。助けてほしい。怪我をしている。重傷で、ひどく弱っており、ここから脱出できないでいる。ぼくは独りぼっちです。これは悪ふざけではない。お願いだから、どうか待っていて、ぼくを助けてください。すぐ近くへベリーを採りに出かけていて、夕方にはもどってきます。よろしく、クリス・マッカンドレス。八月?》
自分が容易ならぬ窮地におちいっていることを認め、何年も使ってきた気取った偽名アレグザンダー・スーパートランプを捨てて、本名をサインしています。
クリスも必死だったのだと思います。
死にたくはなかった。
ずっと生きていたかったのだと思います。