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たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「何もしない」をしに行こう

2025-02-11 01:31:52 | Weblog
 それにしても、東京は人が多すぎる。正確に言えば、東京ではなく都内近郊の話なのだろうが、休日にどこかへ出かけてもどこも人で溢れ、時間をずらしてもカフェすらまともに利用できない。
 平日、実験を行い、データ解析やシミュレーションを組みながら誰かと議論を交わし、定時には速やかに帰宅するというルーティンをこなしている。これがそこそこ恵まれた生活なのだとしても、もう少しだけ日常に変化が欲しいというか、単純に移動の機会を増やしたいと感じる。

 とはいえ、仕事の中でそれなりに移動しているわけで、そんなのわがままだろうというのはその通りだとも思う。新しい実験装置のデモンストレーションなどで知らない土地でランチすることもあるし、気分転換や集中を目的に図書館を利用したり、離れた建物にある実験装置を使うこともある。それでも、もっと移動したいと感じてしまうのだから、それは仕方のないことだ。
 せめて休日くらいは、ルーティンから抜け出すような行動を取りたい。しかしながら、都内近郊の観光地やレジャースポットはどこも人で賑わっている。平日ならば空いているかと思えば、意外にも人が多い。

 そこで、「人が少ない、いつもとは違う場所で、何もしない時間を過ごす」という選択肢を試してみた。これが非常に満足度の高い感じになった。空白の時間を持つことの重要性はよく言われるが、数10分程度では到底足りないと思い知った。
 何もしない時間が、こんなにも贅沢なものだとは思わなかった。普段、次々に訪れる対処をこなしていく生活を送っていると、ただぼんやりと過ごす時間の価値に気づきにくい。しかし、何もせずに過ごしてみると、自分がいかに日常の忙しさに囚われていたかを実感する。

 みんなも「何もしない」をしに行こう。

 年末年始には都内近郊から人がいなくなり、スーパーマーケットが非常に空いていたのを思い出す。かつては地方ごとに仕事があり、都市部へ移動する必要がなかったはずなのに、なぜこれほどまでに地方出身者が東京に集まるようになってしまったのか。産業の集中、教育機関の偏在、そして地方の衰退。大企業が都市部に集中し、地方に残る選択肢が減っていく中で、ますます人が東京に流れ込んでしまう。気がつけば、都市に人が溢れ、休日にさえ静けさを見つけることが難しくなってしまった。
 本来、地方でこそできることが多くあったはずだ。自然の中で過ごす贅沢や、地域の特色を生かした暮らし。しかし、仕事も学びの機会も減少していくことで、多くの人が都市へと移動せざるを得なくなっている。こうした状況が続く限り、どうしたって東京の混雑はこれからも増していく。

 俺は、都市の喧騒からもっと離れ、いつでもこの時間を持てるようにしたいと思う。

理系の政治力学とai時代

2024-12-30 01:52:52 | Weblog
 理系分野において、政治力学を駆使して生きる思想が顕著化しつつある。このような動きは、民間企業やアカデミアを問わず、広く観察される傾向である。その結果として、挑戦的な研究が減少し、「余裕がない」という言説が一般化している。確かに、リソース不足や過重な業務負担といった現実的な制約が存在することは否定できない。しかし、こうした状況が、研究者を単なる「研究しているふり」をする存在へと変容させている側面も見逃せない。
 「余裕がない」という表現は、しばしば自己正当化の道具として利用される。特に、政治的駆け引きに重きを置く理系や、社内で保守的な役割に留まる文系にとって、この言葉は便利な盾となり得る。しかし、その裏側には矛盾が潜んでいる。「挑戦的なことをする余裕がない」と主張する者が、果たしてどれほど生産的な活動に従事しているのかは疑問の余地がある。筆者自身も挑戦を続けているものの、大学時代の自分と比較すると、冒険的な精神が抑制されつつあることを痛感する。挑戦的な思想を維持しながらも、その衝動を抑える環境に適応してしまうと、やがてその意欲は希薄化していく。

 このような環境下で、研究者が本来の役割を全うすることは極めて困難であると考えられる。特に、ここで言及する「政治力学的に生きる」とは、実際に価値を創出する行為を伴わず、単に人間関係を仲介する役割に終始することを指す。この種の活動は、ネットワーク技術やAIの進展によって本質的に不要となりつつある。生成AIが急速に普及する現代社会において、早期に適応し、その価値を実感することが不可欠である。生成AIを使いこなすことで、その可能性を理解し、自らの役割に応じた活用方法を確立する必要がある。変化を避け続ける者は、最終的に取り残される運命にある。
 AI技術を積極的に活用する者とそうでない者との間には、著しい格差が生じるだろう。この差は、携帯電話やスマートフォンの普及時以上に深刻である。生成AIの進化は目覚ましく、その速度は他を圧倒する。たとえ最新の動向を追い続ける努力をしていても、次々に登場する新機能に追いつけない状況が現実である。このような文脈において、理系分野で真の障壁となるのは文系ではなく、「理系の皮を被った文系にもなり得ない人々」であると言える。現場を理解しないまま意思決定を行うことは、重大なデメリットを伴う。それは、表面的な議論に終始し、現場の専門家から軽視される結果を招く。

 現場を知らずに行動することの最大のリスクは、孤立感を生むことである。このような孤立感に耐えきれず、幻想の世界に逃避する人々が集団を形成するが、AIの進化はその幻想さえも無価値にする可能性が高い。未来を見据える上で、現場の価値はますます重要性を増していくだろう。実際、どの分野においても、現場で具体的な成果を出せない者が、大局的なビジョンを描くことは不可能である。

 現場を深く理解し、その上で未来を構築する能力を養うことが、これからの時代において求められる。挑戦の精神を取り戻し、ローカルな視点からグローバルな課題に対処することこそが、今後の社会において不可欠なアプローチである。

 ここまでの内容をChatGPTに最近の自分のTwitterとこれまでの記事を読み込ませることで書かせてみました。
 20分足らず。しかも、電話しながら。恐ろしいだろう?

優等生から降りれなくなってしまった人たち

2024-09-25 01:24:16 | Weblog
 来月にはこのブログは20年目を迎えることになる。ということは、高校を卒業してからもう20年にもなるということだ。月日はあっという間に流れるなぁと思う。
 最近はめっきりブログを書かず、何か思ったことをふらっとネットに書くのはTwitter、流石にもう少しまとめるかと思ったら時間がないからYouTubeで喋るというのが常態化してしまった。これはあまり良いループだと思ってはいなくて、やはり文章で書いてわかることもたくさんあるわけで、Twitterでふわっと思ったことはあくまでふわっと思ったことであるので(何を言っているんだ俺は笑)、あまり深い思考にはなりようがないわけだ。そのようなシーンでは(みんなあまり意識してはいないが)ノリが重要になってくる率が高くなるわけで、まぁなんというかDQNっぽさを利用して書いていたりもする。すると、真意を伝えようというムーブよりも「あー、こういうふうに受け取られるんだぁ。へぇ」みたいに感心している自分がいる。コミュニケーションを取るよりも、実験観測としての自分の方が強い。もう少しきちんと伝えなきゃね、ちゃんと考えをまとめなきゃね、と思いながらも、目の前にスマホがあってXというアプリをタップすれば世界発信できてしまうわけだから、なんとも難しいところだ。

 20年近くネットでなんらかの発信をしていると、だいたいどんな人が自分のアンチになるのか、よくわかってくる。
 それは、ズバリ「優等生から降りれなくなってしまった人」である。まぁ確かに、このタイプは言っちゃえば、真面目であるだけが取り柄なので、そりゃあ俺との相性は悪いだろうなと思う。ネットでそういうアンチが感情的になってくる様子を見ると、「こういう現象って面白いよなぁ」とまったくもって人間扱いしていない自分に気がつく(まぁその多くは、向こうから絡んできている、かつ、建設的なツッコミではなく誹謗中傷に近いこともあるので、許してね)。それはまずいかしらと対話をしようとするが、顔も知らない会ったこともない人にそこまで気を向けるのもおかしいかと思い直し、だいたいが無視。けれど、同じようなくだらないツッコミが増えてくるとそれを放置しておくのもどうかと思ってくるので、殺虫剤を撒くようにひとりだけ晒しあげる。みたいなことをしていることが多い。
 まともに議論をしようとしても、顔の見えない状況下だと、このタイプは余計に「どこかしらで勝てば良い」というのを目指しているので、あまり有意義な対話にならないことが多い。しかし、同時に、そのツラさがかなり理解できるのも俺なのだけどなぁ、と思ったりもする。

 「クズ」の定義を俺は明確にしていて、「自分の安定化・向上を目的として弱者を迫害する人」としているのだが、この定義を明確に述べていても、いつの間にかクラスの中で一番ノリの良い人たち(=:Aグループ)とごっちゃにしてしまう人たちがいる。頭がそこそこ良いのにも拘わらず、である。DQN的なノリというか、単なるノリの良さも、重要になるシーンがあることを一切受け入れることができない。こういう人たちを「優等生から降りれなくなってしまった人」とここでは定義している。
 この人たちはそもそも「ノリの良さ」を認識することができない。観測しないことが身体に染み付いてしまっているためである。だから、往々にして、誰かがノリによって得していることを、「顔の良さ」などの身体的特徴に落とし込んで理解しようとする。「あの人ははじめから顔が良いから、あんな調子こいたことができるんだ」というように。
 これはものすごーく損である。別に本人のノリが良くならなくても良い。だが、その価値観だけはあったほうが、あらゆる現象が理解しやすいし、賢さと同じで技術としてある程度後天的に身に付けることができるものだと思っているほうが(実際にそうだと思うが)、変にこじらせる必要もなくなる。

 さらに、AグループやDQN集団の中にもさらにキャラクタライゼーションがあること、ノリの良さを纏った賢さがあることを認識することができない。DQNはDQNでしかないと思っているからである。だから、他人の痛みが理解しにくくなる。実はこれはほとんど差別していることと変わらないのだ。

 はっきり言って、高校物理を前提に学部で習う物理学を統計力学までお伝えする会を週2回、2年間もこなし、その目標をきちんと達成できている現在の俺の思考力は、たいていの優等生キャラを凌駕すると思う笑。その俺が、レペゼン地球がーとか、ディズニーランドって面白いじゃん、とか言ってれば、優等生から降りられない人たちからはそりゃ嫌われる。当然っちゃ当然である。
 まぁ俺からすると、(誰かから承認を得るための)勉強(やそれに準ずる努力まがいの作業)ばかりしているから本当の意味で頭が良くならないのだよ、と思ってしまうが、ノリの良さそのものを認識していないのだから、もっともっと手数を増やさなければ、と思うだけなのだから、いつまでも分かり合えないわけよね。

 はて、俺はいつ優等生を降りたのであろうか。もう記憶が定かでないほど、遅くともこのブログを始めた頃には、すっかり降りてしまった後だったように思う。
 とするならば、、小学校の頃は確実に優等生側だったはずだ。・・・小学6年生から日能研に通って自分なんて大して頭良くないと気がついた時か?はたまた、中学では成績が良かった自分が高校ではぜんぜんぱっとせずに、夜遅くまで遊んでいた頃だろうか?それとも浪人した時だろうか?優等生は浪人しなさそうだしね。

 周りを見渡せば、フォロワーも含めて、小学校のテストでは100点なのが当たり前だった、みたいな人ばかりになってしまっている。それはあくまで一つの能力の指標で、、というか能力以上に、今をとにかく楽しんだり、自分がとりあえず心地良いことが大事だというDQN側の思考も、実はかなり重要なのではないかと思うのだ。
 優等生から降りられない人ほど、過労死や過労自殺に近いポジションにいるだろうし、頑張り過ぎてしまうのは自分自身を大事にできないからだ。本当は自分を大切にしたいけれど、自分に対する特別視が当たり前になりすぎて、その眼差しが消えることを恐れすぎて、自分がやりたいことよりも先に「先生や上司から何を求められているか」を優先させてしまう。君が何をしたいのか、を本当に求められている場面でも、何が優等生のコメントであるかを探してしまうのは、一周回って頭が悪いと言わざるを得ないのに、ね。

 優等生キャラはキャラを守るが故に自分自身を大事にできない。
 ここをウィークポイントだと思ってもいないところがウィークポイントで、自分に対する客観的視点が少ないので、系を正しく観測するための基本OSが備わっていない。

 久しぶりにここで書こうと思ったのは、俺自身も価値観のフェーズが変わろうとしているからだということに他ならないかもしれない。
 ここ何年か、(キャラ付けの意味も多少あれど)「物理さえやっていれば賢くなるよ」と言い続けてきたが、、この「ノリの良さ」の指標の重要さを理解せずに、いくら物理学をやっていても、おそらく楽しくないだろうと思うし、結局のところあまりちゃんとは理解できないんじゃないかと思うようになってきた。そりゃ物理自体はできるようになるかもしれないが、あまりそれは意味をなさない(人が多いだろう)。

 「正しいことを正しいというために物理学をやっている」と理論研の先生に言われたことがあるが、その意味が、いま少し分かってきた気もする。

好きなことを仕事にすることと詐欺と洗脳

2024-07-11 02:39:27 | Weblog
 好きなことを極めても稼げるとは限らない、というのはよく言われることである。
 別に稼げなくても良いんだ、好きなことをやり続けていけて、それで普通の生活ができればそれで良いんだ。と学生時代は思っていた。そう、ちょうどこのブログを書き始めた頃は、きっとそう思っていた。
 好きなことで普通に生活することが非常に難しいことに気が付くことは、実はそれこそが、大人になるということなのかもしれない。

 思い返してみれば、俺は、小学校の頃は音楽で生きていきたいと思っていた。ピアノを弾けば褒めてくれるし、きっと音大に行くだろうと思っていた。いや、まだこれから行くかもしれないから笑、そうじゃなかったという書き方をすべきでもない気もするが、少なくともここまでの人生ではそうはなっていない。
 習っていたピアノ教室が閉まってしまい、ピアノを練習しなくなり、それとほぼ同時に中学受験にむけて塾に通うようになった。地元の公立小学校にはピアノが弾けるのは俺ともう一人くらいだったが、偏差値がそこそこの学校に行けば、ピアノ弾ける人なんてざらにいることに気が付く。そして、俺よりも全然うまい。
 勉強もして、音楽もやればいいじゃないか。研究しながら音楽するような大人になりたい。そう思っていたが、研究も音楽も両方できる人もざらにいる。そんな甘い発想では生きていけない。

 大学時代にアカペラやバンドをやっていたときにも、面白いことはたくさんあった。そこに色々な気持ちが抱くこともたくさんあった。音楽側にハマりまくることだってできたはずだ。
 しかし、大学で自然科学を軸に仕事をする人と、音楽を軸に仕事をする人の質の違いは、嫌でも感じ取る。無形のものを生業にしている以上、そこには誤魔化しや、時に暴力さえも垣間見える。自然と、音楽をやらなくなっていった。

 三つ子の魂百までとは能く言ったもんで、とはいっても俺は俺が面白いと思うもののランクは変わっていない。今も昔も、自然科学なんかよりも音楽のほうが好きだ。寝食を忘れてできるのは、間違いなく音楽だと思う。
 音楽よりは現実的でしょ?と思って取ったはずの物理学。その物理学のなかでも俺が一番好きなのは理論物理である。これも音楽ほどではないが、寝食を忘れて考え込むことができる。どこかの政治家がどうのこうのという話題を考え込むことは殆どないが、「エントロピーとは何か」と疑問に思ってしまえば、あらゆる本をひっくり返して、自分で計算して、論理展開を喩えてみたりして、と睡眠時間を削ってでも追及したくなってしまう。そりゃ音楽よりはそういうことを軸に生きるほうが生きていける確率は高いが、理論物理で生きていくっていうのは、生存確率はオーダーとしては音楽とあまり変わらないかもしれない。
 実は、実験なんて嫌いではないけどそんなにはやりたいわけでもないし、曖昧な論理展開を強いられる生物学はあまり好きじゃない。生き物そのものがそんなに好きなわけでもないし、動物や植物の名前をたくさん憶えているわけでもない。

 だとすると高校の教科っぽく書いてしまえば、俺の中では、音楽>物理学>生物学、となるわけである。
 だが、医療分野で実験研究をする今の仕事はすこぶる楽しい。生命現象やそれに纏わる医療の研究をする中で、物理学の視点から測定したり、考察したり、解析したり、それはとても有意義なことだ。それはどうしてかといえば答えは非常に簡単で、自分ができることをきちんとやっていれば、心から感謝してくれる人がいるからである。

 3年くらい前にピアノでクラッシックを弾くことを復活した。俺は今、ショパンのノクターン(Op9-2)を練習している。練習し始めて半年くらい経っただろう。まだ満足に弾けない。俺がこれを納得いくように弾けるようになっても、そんなものを弾ける人はごまんといるだろう。誰にも喜ばれないどころか、弾けば「うるさい」と言われる。
 しかし、物理会で、統計力学の基本を講義していれば、参加してくれた人には喜ばれる。量子力学の基本や熱力学の基本をきちんと抑えて、あのくらいのレベルで統計力学を説明できる人だって、それなりに多くいるだろう。この国に数百人から千人の間くらいでいるだろうと思う。物理会はお金を取ろうと思えば取れたとは思うが、俺は取りたくない。それは、プロではないという意識があるからだ。めちゃめちゃ好きであって、めちゃくちゃこだわりがあるとはいえ、本業の片手間でやっていることに対して資本を入れることは失礼であると思う。それに、俺はいま理論物理を研究しているわけではない。「伝える」ということを仕事にしたくはないのだ。
 しかししかし、この物理学の下地を医療に使うと、オリジナリティのある研究になる。喜んでくれる人も増えるし、そこに初めてプロとしてお金をもらって良いと、自他ともに納得できる状態になる。

 Twitterを開けば、たくさんの「物理学徒」がいて、戯論を繰り広げている。
 おそらく、そのうちの9割がブランディングとして物理学徒ムーヴをやっている。それじゃあ生きてはいけないのは当たり前として、多くはただの時間の無駄だろうと思う。
 ガチで物理を知りたい1割の人のうち、物理学徒にウケるための物理学の研究をしている人が95%くらいだろうと思う。それは物理学に興味のない人からすれば、非常にどうでも良い内容を一生懸命に日々計算したり議論したりしている。残念なことに毎年物理学徒は入ってくるので、その新人に自分の(ある意味で使い古した)論理展開を営業するのは、赤子の手をひねるようなものである。そんなもの最初からは必要ないよ、という論理展開をさも重要なことのように魅せることは極簡単な"生き残り方"である。詐欺か?と思うかもしれないが、そこまではいかない。ちょうど、音大を出た人が楽器屋に就職して、友達や親戚のピアノをやり始めようとしている(どーせすぐにやめてしまうであろう)子供に、やや高めのピアノを売ろうとしているのと同じくらいの、ささやかな不道徳行為だ。
 でもさ、そんなことをするために、研究や自然科学や理論物理を志したのだっけ?

 その世界に入らないと価値に気が付けないことは沢山あるし、そっち側に世界が広がっていることはかなり理解しているつもりではある。確かに物理会でもそういった部分を多分に使っているので、個人的にはとても感謝している。
 一般人だけが研究を評価すれば、それはスピリチュアルか似非科学になってしまうのがオチだし、専門家同士で評価することの正当性はそれなりにあるのだ。

 だとしたら、まずは安心感(A)のある組織に所属することが重要になる。音楽をやりたいなら、吹奏楽部で有名な高校に入ることも良いだろう。研究だったら東大に入ろう。
 その世界の中に入れば、きっと、色々なタイプの"天才"と出会うことができて、あなたはアッと驚く(O)はずである。
 その天才たちを率いている権威があって、その権威を掌握している人は"先生"と呼ばれているだろう。その先生と、なかなかお近づきになれなくて、嫉妬(S)することもあるかもしれない。
 気が付くと、その世界から逃げることができない状態になっているかな。外界は邪悪だから関わってはいけないなどと嘯いて、囲い込み(K)に合う。

 AOSKと巧妙に洗脳の手順を踏まされることになるとき、気が付かないうちに外界の人たちを搾取することになる。好きなことで生きていくために、その世界の中でマニアックになることは必要なのだが、それと同時に自分が激しい洗脳にあっていて、結果的に詐欺行為に加担することになってしまうことは、実は社会ではよくあることなのである。

 それでも自分は、とにかく物理学者でありたい、とにかく音楽家でありたいと、言い聞かせて頑張ってしまうとき、周囲のまともな人から離れていってしまう。
 そして、周囲には、詐欺師に限りなく近い人物しか残らなくなる。どんな素晴らしい言葉を持っていても、どんなに栄光を手にしていたとしても、誰かから感謝されない仕事をするべきではないはずだ。

 「好きなことをしよう」「やりたいことをしよう」
 シンプルにこうでありたい。だからこそ、長く生きられるようになったらいいなを目指して研究をしているし、本当にそうなったら良いと思っている。

 ただ、一度立ち止まって、定義からきちんと考えてみるべきなのである。

 好きとは何か?
 それは本当にあなたがやりたいことなのか?
 自分がやりたいことってそもそも認識できるものなのか?
 認識できているものだとして、どれくらい普遍なのか?
 実は、引っ込みがつかなくなっちゃっているだけじゃないのか?
 あなたの仕事で本当に相手は喜んでくれているのか?

 これらに秒で答えられないのであれば、資本家から言われたこと、上司から言われたことをただひたすらにやっているほうが、遥かに良いと思う。それがどうでもいいことのように思えても、誰かに感謝される確率は高い。それを実感できれば、「やりたいこと」は見つかっていく。
 「やりたいこと」を先に決めちゃっているだけのことに「研究者」などの何かの名前をつけて、それに固執してしまう原因は、あなた自身が誰かや組織に洗脳されているからなんじゃないかしら?

 そう、たいていの肩書なんて大したものではないし、尊敬にも値しない。
 街に出れば、言われたままに商品を売ったり、色々なものを流れ作業のように作っている人たち、満員電車に乗り込む普通のサラリーマンがたくさんいるだろう。その人たちのほうが、「生物物理が専門で医療分野で研究してるぜ。専門家に物理とか教えちゃってるぜ。ちゃんと博士号も持っているよ!っま、音楽もできるけどな!」と高らかに自称したがる俺のような大人なんかよりも、よほどに尊敬できる確率が高いことは、もっと若い子たちに知られても良いことだと思う。

統計力学_たかはしけいが統計力学までお伝えする物理会

2024-06-22 01:41:22 | たかはしけいが統計力学までお伝えする物理会
 Google drive 統計力学_物理会

 高校物理、高校数学、微分方程式、ベクトル解析、線形代数、物理数学、力学・解析力学、電磁気学、量子力学、熱力学、数理統計学を前提として、YouTube上で統計力学について22回にわたって説明した板書ノートのリンクです↑。2023年11月29日から2024年6月21日にかけて講義しました。
 著作権は髙橋慧にあります © 2024 Kei Takahashi

 主に、熱力学・統計力学 熱をめぐる諸相 - 高橋和孝 (著)を教科書として使いました。
 適宜、統計力学 (1), (2) - 田崎 晴明 (著)、大学演習 熱学・統計力学〔修訂版〕 - 久保 亮五 (著, 編集)統計力学 (岩波基礎物理シリーズ 7) - 長岡 洋介 (著)非平衡統計力学―ゆらぎの熱力学から情報熱力学まで― - 沙川 貴大(著)などを使用しました。

 こちらのファイルに関する質問や指摘、コメントに関しては、実名による投稿のみ受け付けております。(匿名の場合はコメントを削除します) -
 メール(soudan.atamanonaka.2.718_attoma-ku_gmail.com)やTwitterのDM(@KayT0309)については匿名でも構いませんが、必ずしも返信するとは限りませんのでご了承ください。

【目標】
 ミクロカノニカル分布、カノニカル分布、グランドカノニカル分布を理解し、それぞれを具体的な系へと適応できる。

【各回の概要】

 1. やりたいこと、教科書など
 概略の説明。平衡系と非平衡系の違い。古典統計と量子統計の違いなど。

 2. 量子論からエネルギー固有値を求める
 量子論の復習。3次元、N個への拡張。

 3. 数学公式、状態数
 スターリングの公式。超球の体積。状態数の導入。

 4. 状態数の計算、理想気体
 状態数を計算することで、それが理想気体のエントロピーと近しいことの確認。ボルツマン公式へ。

 5. ゴム弾性
 ミクロカノニカル分布を前提として、状態数を数えることでボルツマン公式を用いて、ゴム弾性を理解。フックの公式を導出。

 6. 調和振動子型
 ボルツマン公式を用いて調和振動子型ポテンシャルに閉じ込めれた気体についてエントロピーを求める。

 7. 2準位系、Schottky比熱
 前回、前々回同様に、2準位系について。

 8. 磁性体、等重率の原理など
 2準位系の応用として磁性体の例を紹介。ミクロカノニカルの基本として等重率の原理を説明。

 9. 等重率続き、エルゴード
 エルゴード仮説の紹介。

 10. カノニカル分布導入
 熱源に接している系としてカノニカル分布の導入。

 11. 分配関数と熱力学量
 分配関数から熱力学量を求める公式の導出。

 12. カノニカル分布の基本的な例
 ミクロカノニカル分布で紹介した、調和振動子型ポテンシャル、2準位系についてカノニカル分布でも確認。

 13. 例続き、熱容量と揺動散逸定理
 理想気体について分配関数から熱力学量を求める。熱容量から揺動散逸定理の1例をみた。

 14. 古典統計力学導入
 理想気体のエントロピーについて確認することで量子統計の必要性を説いた。また、古典統計での考え方の導入を行った。

 15. 古典極限へ
 ハイゼンベルグの不確定性原理の導出。分配関数を古典統計で。

 16. 情報理論導入
 シャノン情報量、条件付きシャノン情報量の導入。

 17. 相互情報量
 相互情報量の導入。二値対称通信路を紹介。ガウス型通信路を導入し、S/N比を導出。

 18. KL情報量、非平衡エントロピー
 KL情報量導入。カノニカル分布のとき、シャノン情報量が熱力学エントロピーと等しいことを証明。また、エネルギー一定のとき、シャノン情報量が最大になるときにカノニカル分布であることを示す。

 19. 化学ポテンシャル、グランドカノニカル分布
 熱力学の復習として化学ポテンシャルを説明。熱浴と粒子浴に接する系としてグランドカノニカル分布を導入。

 20. 粒子数の平均値と分散、同種粒子など
 大分配関数と分配関数の関係。また粒子数の平均値を導出。量子論の文脈で同種粒子を考えることで、フェルミオンとボソンについて説明。

 21. スレーター行列式、フェルミ分布・ボース分布導出
 パウリの排他率を示す。スレーター行列式の導入。粒子数の平均値の式より、フェルミ分布およびボース分布を導出した。

 22. フェルミ縮退、ボース凝縮
 フェルミ縮退とボース凝縮について、定性的に説明。それらの背景にある理論として場の量子論を紹介。低温物理の分野を紹介。

【総評・反省】
 「統計力学やると価値観変わるぜ!」と思っていたのだけど、まぁそれは確かにそうなのだけれども、なんかちゃんと勉強して伝えれば伝えるほど「平衡系が偶然上手く行っちゃっただけなんじゃないか」「この考え方を非平衡や他のことにも応用しまくれるぜと思いすぎるのもどうだろうか」と思ったりもした。
 守破離でいくと、俺は離のところに差しかかったのだろうか。それとも単純に理解が足りないのだろうか。どちらにせよ、非平衡系(ゆらぐ系の熱力学など)の理解を進めることは引き続き進めていきたいとは思っている。

 平衡系の統計力学をやる前提として熱力学と量子力学の理解は必須であるが、統計力学をやりながらも、これら2つにも戻って復習できると良いと思う。それぞれの論理展開はお互いに助け合って成り立っているわけで、だとしたら勉強も同時進行が一番上手く行くのでは?(そうとは言い切れないか笑)

 ミクロからマクロへの精緻な論理体系として統計力学はかなり良くできている。統計力学こそが、枚挙主義・還元主義から脱却できる価値観をもたらしてくれる、点と点をものすごくちゃんと結んでくれる、いわば「線の学問体系」なのだが、改めてここまでたどり着くまでの道のりの大変さをつくづく実感した。ここまでくるのに2年半。物理会すべてだと154回かかっている。ということは154時間。まぁだいたい時間オーバーしているので丸7日くらいかな?寝食忘れトイレも行かなければ、たった1週間で終わるわけです。(そんなわけあるか)
 うん、でも「生命とは何か」「細胞を創る」とかやりたいなら、たったこれだけの時間で済むわけで、あーゆー人たちは普段からもっと偉そうなこと言ってるわけで、「これくらいさらっとやれよ」と思わなくもないのだけど笑、かなりきついのはきついよなぁ。そりゃ他の分野の人と話が合うわけないよな、と思わなくもない。

 統計力学の定性的な理解というか、なんとなくこんなことやっているんだぁというのだけで良いなら、そりゃもっと短く伝えることはできるだろう。
 しかし、それでは、まったくもって意味がない。国語でも英語でも「要約せよ」という問題ほど悪問はない。著者は伝える上で必要だから書いているのである。過不足などない。それを「だいたい伝えてよ」というのは傲慢すぎるのではないか。そんなことできるわけがないのである。

 さて実際はどうだったか、というところであるが、ここまでくると聴講者も超やる気のある人しか残っていないので、物理会をやっていて一番やりやすかったというのが素直な感想です。
 流れとして、とにかくボルツマン公式を信じて、ほらフックの公式も証明できるじゃん、それって何が保証してくれているの?、でも状態数を数えるのだるくない?分配関数のが良くない?、このカノニカル分布ってどれくらい本質的なのか情報理論から考えようぜ、低温のときはもっとやばいこと起こるよ、みたいな順なのですが、かなり俺っぽいというか笑。ただ、具体的に分配関数使う例とかをあまり扱わなかったのと、量子統計がたった4回でまとめてしまったので定性的な部分が強くなってしまったかなとも思う(でも統計力学のエッセンス的なところはきちんとした)。この辺り、物性論会とかやっても良いかもしれないなと思っている。

 この会の名付けから、どうしても統計力学をやるためにずっとやってきたんだ!って思いがちだったが、淡々と必要なこと・役に立つことを伝えるようにしたつもりである。そのうえで何かの参考になればとても嬉しい。

 俺が知っている学部レベルの物理学はだいたいすべてウェブ上に残したので(まぁ実は残した分野はいくつかあるのだが)、これで「物理教えて」と言われたら(これを言ってくるのはバイオ系と化学系がほとんどなのでこれで事足りる)、「これ見て」と言って渡せるものができた。もう俺がいちいち物理を教える必要もなく、教科書を紹介する必要もなく、黙って自分のYouTubeと板書ノートを送れば良い。
 というか、あなたは、俺についそう言ってしまって今このページを観ているのではないだろうか。これ以上の最短経路は俺は思いつかないので、約2年、寝食を忘れるなら1週間を費やせない人は、気軽にそんなこと言わないように。そんな簡単には習得できないからね。物理学から身に着けている俺の思考力を、あんまり舐めんじゃねーぞ?笑