狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「軍の命令」を否定していた金城重明氏の証言「陶酔が集団自決をもたらした」、

2022-04-19 12:37:30 | 資料保管庫

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陶酔が集団自決をもたらした、金城重明氏の証言2011-02-19   

沖縄タイムスが沖縄戦に関して多くのデマを流し沖縄戦を歪曲したことを書いてきた。

沖縄タイムスの歴史歪曲の罪は大きい。

『うらそえ文藝』が、過ちを訂正して謝罪せよと告発に踏み切ったのは、良識ある県民の意志を肌で感じたからであろう。

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の1970年3月27日付沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

 
I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

 

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで報じる沖縄タイムスの無知は笑止だが、それはさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であり

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、

沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていた。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸したが、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材をすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、

「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

 

宮城晴美氏は過去に発刊した自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかったが、過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。

以下は続・39年前の金城重明氏の証言を加筆したものである。

■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■

今を遡る39年前、曽野綾子氏の『ある神話の背景』が発刊される3年前のこと。

金城重明氏は沖縄タイムスのインタビュー記事で、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。

米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、

一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。

「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがあるが、まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。

その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」と強弁する矛盾に、

贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。

後年、訴訟が起きるとは夢想もしなかったのか、正直に心の内を吐露してはいるが、当時から金城氏にとって「軍命」とは一生叫び続けねばならぬ免罪符であったのであろう。

ちなみに金城氏は、後に沖縄キリスト教短大の教授、そして学長になるが、当時は一牧師として証言している。

1970年3月27日付沖縄タイムス

集団自決の生き残りとして

ー牧師となった金城重明さんの場合ー

記者:当時の状況はどうでしたか。

牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。

記者赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。

牧師直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。

記者自決命令についてはどう思うか。

牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。

記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。

牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。

記者:村民の集結から自決までの間が不明だが。

牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった肉親を殺し、自分もしぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(略)

(1970年3月27日付沖縄タイムス)

                   ◇

1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。

ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に集結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。

沖縄人は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。

沖縄人の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。

同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。

だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。

■死者の命令で肉親を殺害する不可解■

軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。

銃剣で装備した軍人に囲まれた村民が、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺されるような状況に追い込まれたのなら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられる。

だが、渡嘉敷島の集団自決は、自決実行の現場に隊長は勿論、自決を強制する軍人の姿はない。

それどころか、自決実行の際は、金城氏は「軍部もすでに玉砕した」というのが頭にあった。

だとしたら自分の生命に関わる重大な「軍命」を下した命令者は、自決実行の際すでに死んでいると思われていたことになる。

既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。

自分がパニック状態による「まったくの異常心理」で肉親を殺害しておきながら、

「とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ」と強弁するのは責任転嫁もはなはだしい。

くり返していう。 命令を下したとされる軍部は「既に玉砕している」と考えられていた。

金城氏の証言に従うとすれば、集団自決した住民達は、「既に玉砕している軍部」、つまり既に死んだと思われている軍人の命令で死ぬほど、愚かだったというのであろうか。

インタビューした記者は「軍命」を何とか引き出そうと、次のような核心を突く質問を連発している。

「赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが」

「自決命令についてはどう思うか」

だが、軍命を直接軍から聞いた者は一人もいない。

結局、軍命による集団自決はウワサであり、伝聞であり、幻であった。

■金城兄弟は父親殺害を隠していた■

もう一つ疑問がある。

金城重明氏は早い時期から母親と兄弟を殺したことは告白していながら父親を殺害していたことを長期間隠していた。(去年になってジャーナリスト鴨野守氏が金城氏が隠蔽していた父親殺害を暴きだしている)

沖縄紙が報じない金城重氏の闇の部分

多くの証言によると、自分で自分の命を断つことのできない女子供は父親や祖父などの年長者が手を下したという。

だが、金城兄弟の場合未成年の重明、重栄兄弟が壮年の父親を殺害した他に類を見ない例である。

やはりこれは、本人が吐露するように「キラーズ・ハイ」ともいえる「異常心理」が働いたのであり、これを軍命だと強弁しても誰も信じるものはいない。

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続・「WiLL10月号 沖縄集団自決裁判…暴かれた援護法のカラクリ

2022-04-19 11:27:36 | 資料保管庫

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続・「WiLL10月号 沖縄集団自決裁判…暴かれた援護法のカラクリ2020-01-25

 

「WiLL10月号 沖縄集団自決裁判に画期的判決
「琉球新報」「沖縄タイムス」の大罪」の続編です。

「集団自決 will  上原正稔」の画像検索結果

 
「集団自決 will  上原正稔」の画像検索結果

 


暴かれた援護法のカラクリ

 江崎:準軍属の身分を与えるため、積極的な戦闘参加という条件と軍命の捏造とのカラクリは、出来上がるまで数年の期間がありました。

 まず、沖縄の援護課から遺族の申請を厚生省に出す。しかし、厚生省の担当部局から「これでは戦闘協力が消極的だ」と審査課から突っ返される。その時、「当時の戦闘状況から、××のような項目に当てはまることがあったのではないか、あったらそのように現認証明を添えて申請し直してくれ」と返してくる。

 つまり、積極的な戦闘協力と認められるというのは、「軍の命令によって云々」と申請することだったのです。政府主導でもって、ありもしなかった軍命をでっちあげた

 鴨野:援護法の問題の実態が暴露されにくいのは、お金をもらっているからでしょう。自分の父親は軍命で自殺したわけではないが、軍命を言わないと給付がもらえなかった。これを暴露してなお、お金をもらうことはできない。だから、当事者はわかっていても沈黙しているという面があると思います。

 江崎:その心理はよく理解できます。しかし、黙して語らないなら許せますが、たとえば米軍上陸の知らせを聞いて、兄と一緒になって家族のみならず村人まで手にかけ、戦後、牧師となった金城重明みたいに赤松隊長の名前を挙げて責任を転嫁するのは許せない。貧乏ななかで嘘をついてお金をもらう。みんなやっているし、共同工作もした。やむを得ないことだったとしたら、手を合わせながら過ごせばいい。ところが、「アイツ(軍)のせいで自決した」と責任を転嫁し、悪者扱いする。そこが問題なのです
(※参考:陶酔が集団自決をもたらした、金城重明氏の証言

 上原:渡嘉敷村の古波蔵惟好村長が、「最初に私が手本を見せる」と言って、宮城に三顧の礼、天皇陛下万歳をやって手榴弾のピンを抜いた。しかし不発だった。次に真喜屋元校長が、「じゃあ、私が見せる」と言って爆発した。それでみんな「私も殺してください」と続いていったわけです。

 このことを一番詳しく知っているのは金城武徳さんです。金城武徳さんは、その現場には金城重明はいなかったと言っている。金城重明は嘘ばっかり並べていて、彼の証言を集めるとみんな違っている。誰かが書いたものを都合のいいように解釈するからです。いまはわずか5、6歳の子供の証言もあるといっている


 集団自決問題のなかで、もっとも見苦しくて恥ずかしい人間でしょう。


沖縄二大紙のデマと捏造

 江崎:集団自決問題は、沖縄の新聞メディアが必死になって、時にデマを使って自分たちの声を大きくしています。上原さんの件もそうですし、他にも1970年に赤松元大尉が沖縄に来られた時に、新聞は、沖縄県民が怒りの拳を振り上げて「出ていけ」と言ったように書いた。しかし調べてみると、あそこにいたのは全て市役所の職労なんです。

 鴨野:当時、渡嘉敷村村長だった玉井喜八さんは遺族会誌でこの事件に触れ、「文献では自決命令云々と書かれているが、生き残った人々は各自異なった体験を語っている」とし、軍命を否定している。そして、「『赤松帰れ』と叫んだ者は皆、村民以外の民主団体だ」とも断じています。
(※参考:渡嘉敷島玉井村長の手記、沖縄タイムスが報じない

 極めつきは、昭和53年の33回忌に赤松さんの奥さんを呼んで、遺族会と元隊員と合同で慰霊祭を行った。その際、奥さんと住民が親しく交流していたことが、赤松さんに対する何よりの慰めだったと語っています。もし赤松さんが自決命令を出し、自分の家族を殺していたとしたら、住民が歓迎するわけがない。

 しかし、『鉄の暴風』で自決命令が登場し、生き残った人も援護法の兼ね合いで赤松や座間味の戦隊長だった梅澤が悪いと言う。そうやって重なっていき、社会に定着していった。タイムス、新報としては、その捏造を守らないといけないから、異を唱える人を排除する。星さんと上原さんはそれを身をもって体験された


 星:このような新聞社、マスコミにどう対応すべきですか。言論弾圧や封殺に対し、私たちはどう戦えばいいんでしょうね

 江崎:上原さんが行った訴訟は、一つの突破口でしょう。

 上原:僕が裁判に負ける要素は全くなかった。しかし重要なのは、僕が勝つことではないのです。赤松さんと梅澤さんの汚名を晴らすことができるかどうかが鍵なんです。

 江崎:繰り返しになりますが、新聞は自治労、沖教祖、大学の左翼の声を拡大させているだけなのです。沖縄二紙がパッと騒いで、他のメディアもワーッとついていき、それが沖縄の声だと勘違いしてしまう。

 鴨野:世論をコントロールしている人は一部の人。しかし、それらの新聞は、両方とも20万近い読者を抱えているのだから、厄介です。

 星さんや上原さんは沖縄に住みながらの言論活動です。当然、沖縄に住む友人がたくさんいるでしょう。そのお付き合いしている人や会社に対して、「おかしい」と疑義を呈しているわけです。沖縄という小さなコミュニティーのなかで孤立するかもしれないし、仕事がなくなうrかもしれない。そういう意味で、沖縄の体制派の言論人からみたらとんでもないインパクトがあると思います。

 江崎:しかもこれまでタイムス、新報とつきあっていたわけですからね。無難に原稿を書き続けていれば、社会的地位も安泰だし、収入もそれなりにある、友人関係も崩れずにやっていけるのに、あえて全部叩きつけて、喧嘩を売って意見も発表する場所もないような状況になる。その勇気はすごい。


八重山日報の孤軍奮闘

 上原:これまでに協力してくれたのは、ほんのわずかの人たちです。世界日報と八重山日報、そして江崎さんのブログ「狼魔人日記」くらいです。

 江崎:よく「新聞に書いているものを真っ向から否定して大丈夫か」「営業妨害で訴えられるんじゃないか」と言われますが、何も空想で書いているわけではない。全てネタをキチンと持って書いていますから平気です。最近では、新聞記者の実名も挙げて書いています。

 最初は罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせられましたよ。お前はニセ沖縄人だ、沖縄人がそんなことを言うはずがない・・・しかし段々減ってきて、いまではたまにあるくらい。ブログは日に大体1万人、テーマを絞った場合は2万人もアクセスがある。それだけの読者がいるわけです。

 星:沖縄戦で、軍民あわせて18万の犠牲者が出たと言われています。住民と日本軍の数を比べると、住民のほうが若干多い、とも言われています。それだけ夥(おびただ)しい軍民が沖縄戦で犠牲になった。

 その死んでいった人たちを、まるで軍の強制だけによって死んでいった、と先入観を持った解釈をしてしまうのでは、あまりにも沖縄戦の真相から乖離しています

 集団自決のなかで、自ら死んだことを美しい物語にしようなどとは毛頭思っていない。どれが虚構で捏造なのか、頭を冷やして考えてみるとよい。彼らの多くが、当時の殉国の思想で自決した人たちだと理解している。我々がいま平和でいられるのは、戦史した軍民のおかげだと考えることもできる。これから意図的に歴史を捏造するのではなく、イデオロギーに偏向せずにきちんとした歴史(認識)をしなければなりません



****

 
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/
「軍命令はなかった」-『うらそえ文藝』星雅彦氏 上原 正稔氏
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/75/
鴨野氏の裁判への多大な貢献に感謝http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/41/
大田昌秀 『集団自決写真』の嘘(狼魔人日記)
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/74e0dbd42fb16e46b5501e173df8c95f
沖縄タイムスは腹を切って詫びよ!星雅彦氏と上原正稔氏の対談(狼魔人日記)
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/67263ffd966721fdb0f6de46dccfb9ae
星雅彦氏の疑義!『鉄の暴風』と地裁判決へ(狼魔人日記)
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/d0dd592e7047950f93ce2b5e6c5fe96b
パンドラの箱掲載拒否訴訟、琉球新報の言論封殺(狼魔人日記)
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/af94ca0aae346c9c78fe864d96e6d484
大江健三郎と大田昌秀の大嘘!(狼魔人日記)
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/700ae20bc474991b427eca1f98ce10b8
集団自決の軍命はなかった・今まであったと考えていた星雅彦氏と上原正稔氏が沖縄集団自決の真実を会見・地元文芸誌が特集・沖縄タイムスと琉球新報は自主廃業しろ・教科書を改めよ!凄絶極めたサイパン・沖縄戦(正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現)
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/40904986.html
沖縄公文書に見る渡嘉敷島集団自決の実相(阿比留瑠比さんのブログ)
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/426052/
上原正稔から琉球新報へ(上原正稔日記)
http://blog.goo.ne.jp/uehara-shonen/s/%BD%B8%C3%C4%BC%AB%B7%E8
慶良間で何が起きたのか⑥ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔 投稿 · 2012年5月(八重山日報)
http://www.yaeyama-nippo.com/2012/05/01/慶良間で何が起きたのか⑥-人間の尊厳を懸けた戦い-上原-正稔/

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戦争反対と言う新興宗教

2022-04-19 09:23:10 | 外交・安全保障
 
 
沖縄サヨクの特徴は政府のおこなう政策には「何でも反対」を訴え、後でその「反対」が間違っていたと知っても、反省することは決してない、こと。
 
例えば安倍元首相の祖父の岸信介元首相が断行した日米安保改定の時、日本中の左翼メディアが「アンポハンタイ!」と一斉に煽り立てた。
 
勿論現在の沖縄メディアは、基本的に護憲であり日米安保反対、自衛隊反対の路線に変わりはない。
 
だが、ウクライナ戦争が勃発した昨今、日米安保に反対する国民が果たして何人いるか。
 
ウクライナ戦争で国民が覚醒した現在では日米安保に基づく、集団自衛権の行使に関して疑問を持つ人は少数派だろう。
 
ところが、米軍撤退を叫ぶ共産党勢力が県議会の与党を占める沖縄では、「安保改定」を戦争の準備と捉え「戦争反対」を叫ぶ沖縄メディアがほとんどだ。
 
沖縄タイムスもその例外ではない。
 
社説

社説[ウクライナと沖縄]戦争反対の声広げよう  

沖縄タイムス
2022年3月17日 05:33
 

 国連によると、ロシア軍による侵攻でウクライナから国外に避難した人の数が、15日までに300万人を超えた。

 ロシア軍の攻撃は集合住宅や学校、病院などにも及ぶ。平和な生活を一方的に奪われた一般市民の被害は、拡大する一方だ。首都キエフへの総攻撃が懸念される。

 事態が悪化する中、県内でも、自治体や議会、大学、市民団体、平和運動グループ、高齢の沖縄戦体験者、テレビ映像に心を動かされた児童生徒らが連日、各地で声を上げ「戦争反対」「即時停戦」を呼び掛けている。

 玉城デニー知事は、避難民受け入れを表明、県営住宅の確保や生活物資の提供など支援策の検討を始めた。

 県議会や自治体議会は、ロシア軍の撤退を求める決議を相次いで可決した。

 沖縄弁護士会は、会長談話を発表し、ロシア軍の侵攻を「国際法および国連憲章に違反する」と厳しく批判した。 県内の大学でも、それぞれが独自に即時停戦と平和的解決を求める学長メッセージを発表している。

 少人数ながら県内の至る所で、世代を超えて多くの人たちが「NO WAR」「STOP WAR」の声を上げている。

 ウクライナの惨状を伝える報道に接し、身につまされる思いでいる人が、県内には少なくない。

 沖縄だからこそ言えること、言わなければならないことが、あるはずだ。

 戦争による解決に、明確に「ノー」と言い続けよう。

■    ■

 ロシア軍のウクライナ侵攻と77年前の沖縄戦を単純に比較することはできない。でも戦争がもたらす類似点も少なくない。

 最大の共通点は、何の罪もないお年寄りや子ども、女性が戦争の犠牲になり、生き残った人々も塗炭の苦しみを背負い続けなければならないことだ。

 人道危機は、ウクライナで起きている現実そのものである。

 沖縄戦の孤児は、米軍によって孤児院に収容されたが、衰弱がひどく、栄養失調や病気などで亡くなるケースが相次いだ。

 「戦時のうそ」の積み重ねによって真実が見失われてしまうこと、敵への憎悪を吹き込み愛国心をあおること、言論統制がはびこり疑問を許さないこと、なども共通点として挙げられる。

 イラク戦争が始まった時も沖縄の中から平和的解決を求める人々の声が上がったが、今回の「NO WAR」の声は当時をはるかに上回る。

そして戦争には種類がある。

➀侵略戦争

➁個別的自衛権の行使による戦争⇒自衛隊による国土防衛

➂集団自衛的自衛権の行使による戦争⇒日米安保に基づ国土防衛

国際的にみて➀は犯罪であるが➁・③は合法である。

ちなみにウクライナ戦争では、ロシアが武力による現状変化を求める侵略戦争であり、ロシアは国連憲章違反の加害者である。当然戦争犯罪の対象になる。

一方、ロシアの侵略を受けたウクライナは被害者である。

沖縄タイムスが主張する「戦争反対」は、侵略戦争と個別的自衛権をごちゃ混ぜにして、無条件・戦争反対である。

現在プーチンが恐れるNTОも集団的自衛権の行使に基づく軍事同盟である。

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WiLL10月号 沖縄集団自決裁判に画期的判決 「琉球新報」「沖縄タイムス」の大罪

2022-04-19 07:40:06 | 資料保管庫

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WiLL10月号 沖縄集団自決裁判に画期的判決 「琉球新報」「沖縄タイムス」の大罪2021-06-26

 

2013年8月13日・・・この日、沖縄のドキュメンタリー作家、上原正稔氏が琉球新報を相手取った訴訟で逆転勝訴が確定した。それはパンドラの箱裁判と呼ばれ、上原氏の集団自決をめぐる連載ノンフィクションが突如、打ち切られたことに対する裁判だった。

琉球新報が自紙に長期連載中の上原正稔著「沖縄戦記・パンドラの箱をを開けるとき」の最重要部分を一方的に削除した理由はこうだ。

当時、沖縄集団自決を巡る文科省の教科書検定に反対し、琉球新報と沖縄タイムスは「集団自決は軍の命令」と主張。 教科書から「軍命による集団自決」という文言の削除を求めた文科省に対し、沖縄2紙は「軍命説」を煽りたてる働きをしていたからだ。つまり、上原氏の連載では真実が明かされ、集団自決に軍命令はなかったことが貴重な証言や豊富な資料を以て書かれていたからである。

沖縄の全体主義はこのように情報統制を行っているが、今回の福岡高裁那覇支所の判決は、そんな特異な言論空間に風穴を開ける画期的なものだった。8月12日までに琉球新報が最高裁に上告しないことが明らかになり、上原氏の勝訴が確定したのだ。

しかし、上告しないことで裁判自体を闇に葬ろうとした琉球新報の意向に沿って、沖縄タイムスだけでなく、他のメディアもこの勝訴確定を黙殺したままだ。

琉球新報の敗訴確定を黙殺した沖縄2紙に対し、いち早く「沖縄集団自決裁判に画期的判決」と題する対談を企画したのは月刊誌『will』であった。

「集団自決 will  上原正稔」の画像検索結果

 
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以下月刊誌『WiLL』10月号の抜粋である

WiLL10月号 沖縄集団自決裁判に画期的判決
「琉球新報」「沖縄タイムス」の大罪

フリージャーナリスト・鴨野守

詩人・美術評論家・「うらそえ文藝」編集長 ・星雅彦

ジャーナリスト(狼魔人日記管理人)・江崎孝

ドキュメンタリー作家・上原正稔

■「なかった」ことにするな

 鴨野:上原正稔さんは琉球新報の夕刊で、沖縄戦に関する連載「パンドラの箱を開ける時」をお書きになっていましたが、最終回の慶良間諸島の集団自決の真相に迫る箇所について、琉球新報から「これまでの原稿の焼き直し」と批判されて書き直しを求められた。上原さんはそれを拒否して08年8月に連載を打ち切り、最終回も掲載されなかった。

 上原さんはこの件について裁判を起こし、7月29日、5年越しに福岡高裁那覇支部は原告の請求を棄却した一審判決(那覇地裁)を覆し、琉球新報社の契約違反を認め、105万4千円の支払いを命じました。

 江崎:さらに上告期限である8月12日までに、琉球新報の上告申請がなされていないことが判明し、これによって「琉球新報の敗訴」という福岡高裁判決が確定しました。

 上原:私は絶対に勝てると思ったので、HPでも判決の日をXデーとして、「Xdayのカウントダウン・・・あと×日」と書いていました。

 これで、軍命令を出したと言われてきた梅澤裕さんと赤松嘉次さんの汚名を晴らすことができた。梅澤さんと赤松さんの弟の秀一さんに電話で報告すると、「(名誉回復は)もう諦めかけていた。涙が出るほど嬉しい」と喜んでくれました。

 判決の日には記者会見をすることを各新聞社などに伝えてありました。ところが、会見に来た大手の新聞社は共同通信だけ。しかも、共同通信は報道しなかった。朝日も読売も毎日も産経も報道しない。結局、琉球新報と沖縄タイムスがベタ記事で、あとは世界日報が大きく報じてくれました。世界日報はこの裁判が始まった時からずっと追っかけてくれて、ちゃんと報道してくれました。産経新聞は8月11日に石川水穂さんがコラムで詳しく書いてくれましたが、しかしタイミングが外れているのでニュースとしてはとても弱い。

 この判決は沖縄の歴史をひっくり返す、とても重要な判決です。集団自決の真実を伝えようとするのを琉球新報が潰そうとし、それに戦って勝ったわけですから。

 つまりこれは右も左も関係なく、メディア全体が敵だったわけです。僕はわりと楽観的な人間なんだけど、勝訴して初めて自分がどれだけ巨大な存在と戦っていたのかを実感して、この国のメディアはどうなっているのかと疑問に思いました


 江崎:上原さんがおっしゃったように、この判決をほとんどのメディアは報道していません。判決が出た時は琉球新報も沖縄タイムスもベタ記事とはいえ報道していたのに、上告せずに判決が確定したことは一切、報道していません。それ以外にも私が知る限り、新聞、テレビ、ラジオ、どのメディアも報道しておらず、私のブログ「狼魔人日記」で知った人が多いくらいです。

 つまりこれは、「報道しない自由」によってフェードアウトする魂胆です。ちょうどオスプレイ、それから米軍ヘリ墜落事故があり、これを新聞は朝から晩まで報道し、裁判については触れないでいる。そしてほとんどの沖縄県民、そして日本国民に琉球新報の敗訴を知らせず、忘却するのを待つつもりなのです。

 しかし、これは非常に重要な裁判なのです。単に掲載拒否、契約違反といった問題ではありません。琉球新報が全面削除を要求した上原さんの原稿は、集団自決の核心である「(集団自決の)軍命はなかった」という部分だけで、この行為がおかしいのだと鉄槌が下された。

 つまりこれは言論の自由、そして日本の歴史にもかかわる重大な判決なのです。それを一切報道しないのは、不思議でしょうがない



理不尽な原稿ボツ

 上原:詳しい経緯を話しますと、僕は2006年初頭に、琉球新報から「連載をやってくれ」と頼まれました。その年の4月から年末まで「戦争を生き残った者の記録」を連載し、その次に2007年5月に、裁判となった「パンドラの箱を開ける時」が始まった。

 その最初の回で、伊江島(いえじま)戦について書きました。そしていよいよ集団自決について書くことになり、「慶良間(けらま)で何が起きたのか」の資料と原稿を連載担当者の前泊博盛(次長・編集、論説委員)に出しました。そうしたら編集部から呼び出されて、琉球新報の6階の空き部屋で枝川健治(文化部長)、上間了(編成、整理本部長)といま編集局長をやっている玻名城泰山が入ってきた。前泊はぼくの右隣に座り、3人は向こうに座って「慶良間で何が起こったのか」を発表しないと言うわけですよ。

 説明を求めたら、「これは編集方針に反しているから」とか「君は前に同じことを発表しているじゃないか」という。これを掲載しないのなら連載をストップすると言うと「かまわない」というので、余計に頭に来ました。

 それで連載がストップしたんですが、たくさんの人たちから「連載を再開しろ」という抗議の電話が殺到した。あまりに多いので2007年10月に連載は再開されたんですが、結局、慶良間で何が起きたのかを飛ばして違うものを書きました。

 08年まで続き、170回を迎えた頃、「もうそろそろ終わってくれないか」と言われたので、さすがにそれは承諾した。ただし、最終回の181回は集団自決の真相に絞り、赤松さんと梅澤さんのことを書いて、2人は決して軍命を出したことはない、赤松さんと梅澤さんに謝罪しなければならない、と書きました。ところが、社長を加えた編集会議が開かれ、書き換えろ、と言われた。僕は「これは絶対に書き換えません」と言ったのですが、結局、最終回は掲載されなかったんです。二度にわたる前代未聞の暴挙に、僕は怒って裁判を起こした。そしてこのたび、僕の勝訴となったわけです。

 星:上原さんと同じように、私も書いたものが理不尽にボツにされた経験がありました。

 私は長い間、集団自決問題について沈黙を守ってきていました。しかしある時、琉球新報から原稿依頼があり、それまでの集団自決についての報道に腹を据えかねて考えていることや思っていることを書いたら、すぐボツにされました。

 それだけではなく、ずっと担当していた美術月評から私は予告なしに外された。40年間、書いてきた月評を「もう終わりです」の一言だけで終止符を打たれてしまった。私が体調命令を否定して軍命はなかったと固執したため、封殺されたわけです。無礼千万な幕切れだった。

 そういう悔しさを持っていたんだけど、今回の判決で一歩前進したような気がしますね。これだけで急には明るくはならにだろうけど、一筋の光が届いたような気がします。


「沖縄の怒り」へ印象操作

 鴨野:集団自決については戦争当時、座間味、渡嘉敷の戦隊長であった梅澤裕さんと赤松嘉次さんの弟さんが、2005年に「私たちは集団自決の軍命を下していない」として、大江健三郎と岩波書店を訴えました。社会的にもクローズアップされた問題です。

 判決は控訴棄却ということになりましたが、しかしその間、様々な新証言も出てきましたし、裁判所の判決文には「軍が命令を出したということに関する直接的な証拠はない」という文言が盛り込まれており、そういった意味では、この問題について非常に前進した裁判でした。

 いまの沖縄の状況、教科書問題や米軍基地移転問題などの根本にあるのは、沖縄の本土と日本政府に対する怒り、アメリカに対する怒りのマグマです。この怒りがいろいろな形となり、政治や社会問題に火を付けているわけです。

 そこで、沖縄に長く住んでおられて、言論活動にかかわってこられた御三方とこれから先、沖縄戦をどのようにとらえ、またどのように伝えていったらいいのかについて、話し合いたいと思います。

 星:集団自決について言うと、第一に「軍命があったから集団自決が起きた」と、左翼の人たちは怒りのマグマとして発言し、琉球新報や沖縄タイムスがそのことを次々と報道して怒りを募らせている。

 私は名嘉正八郎氏とともに、40数年前から沖縄本島を中心に県史編纂のために取材して歩いてきた。慶良間にも3回行っています。そういった取材をした結果、軍命があったとはとても考えられなかった。

 鴨野:私は30年前、世界日報の記者として沖縄に1か月あまり滞在し、沖縄戦に直接参加された方、生き残られた方に取材をしました。つらい話も聞いたけれど、全体のトーンとしては「本当に県民が一致団結して日本を守るために、郷土を守るために戦ったんだ。戦って負けたけれども悔いはない」という、潔さみたいなものがあったことが印象に残っています。

 ただ、遺族会の金城和信先生が元気なうちはそういった証言はきちんと残っていたのですが、終戦から50年、60年経っていくなかで、だんだんとそのような手記は排除されて、「沖縄戦はつらかった」「壕から追い出された」といった暗い部分が協調されるようになっていきました。

 江崎さんは、小さい時に学校で教えられた沖縄戦の歴史と、その後、ご自分でいろいろな著作などを読んで知った歴史との違いを感じられたそうですね。


沖縄二大紙の情報偏向

 江崎:小学校高学年か中学校ぐらいの年齢の時に、『鉄の暴風』を読みました。もちろん、子供の頃ですからあまり理解はできませんでしたが、印象としては「日本というのは沖縄にひどいことをしたんだな。けしからんな」と思いましたね。

 しかし、20歳過ぎくらいになって読み返した時、「あれ、おかしいんじゃないか」という違和感、疑念が生まれてきた。そのあとに読んだのが、曽野綾子さんの『ある神話の背景』(現在『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実ー日本軍の住民自決命令はなかった!』として小社より刊行)です。これによって、疑念が確信に変わり、自分で本気で調べてみようと思いました。自分なりにいろいろな文献を調べていくと、どうしても沖縄の情報は沖縄にある二つの新聞、沖縄タイムス、琉球新報に偏っていることがわかった。この2つを無視しては語れない。


 先ほど、沖縄の怒りのマグマという話があったけど、その怒りもはたして沖縄県民の本当の気持ちなのか。すべて沖縄タイムス、琉球新報の色眼鏡を通して本土に伝わっています。現在の普天間基地移設問題などもそうです。沖縄に住み、新聞を丹念に読み、様々なメディアを人一倍調べた結果言えることは、全てを一緒くたにして「沖縄の声」とか「沖縄の怒り」と言ってしまうのは、明らかに間違いだということです。

 もちろん、怒りがないとは言いません。しかし、新聞を通すと非常に大きく拡大されてしまう。拡大された「声」は、実はタイムスと新報の「声」なのです。もっと言えば、戦後顕著になってきた沖教祖、自治労、教育界、大学の教授・学者たちの声です。沖縄では、保守的な教授はちょっとした発言でたちまち排除されてしまいます。すべて左翼で固められている

 ですから、沖縄戦を調べるには、タイムス、新報という二大新聞の動きを調べていかないと、間違った印象になるんじゃないかと思います。

 鴨野:星さんは、曽野先生よりもっと前から取材をしておられました。

 星:取材をしてショックだったのは、集団自決をしようとしたけれど生き残ってしまった人が、死んでいる人を見て「うらやましい」と呟いたことです。

 ということは、死んだ人たちは必ずしも強制ではなくて、自ら国のために死ぬんだと自主的に死を選んだ人たちもいた。つまり、軍命だと主張するのは、自分に都合よくまやかしくさい感じがする。曽野綾子さんにも当時そのことを打ち明けたし、彼女もそれで何か確信を握ったようでした。

 江崎:なぜ、星先生は30年近く、集団自決について沈黙なさっていたのか疑問でしたが、あれは話しにくい状況だったわけですね。


宮城晴美の衝撃告白

 星:以前から革新的な思想家たち、たとえば川満信一、新川明、岡本恵徳らとの付き合いもあったので、政治的な発言は極力避けてきた。ただ、裁判が起きた時に、「この問題はこんなところにまで来てしまったのか。もう黙ってはいられない」という気持ちになった。

 江崎:しかし、星先生の発言にはタイムスも新報も一言も触れません。肯定も反論もしない、無視です。

 星:触れないのは、私の発言を歓迎しなかったからでしょう。

 鴨野:上原さんはこの集団自決問題についてどう思っていたんですか?

 上原:僕が沖縄戦の研究をはじめたのは1983年頃です。その頃、1フィート運動をはじめた(ひとり1フィート[約100円分]のカンパで、アメリカの国立公文書館等に保存されている沖縄戦の記録フィルムをすべて買い取り、戦争を知らない世代に沖縄戦の実相を伝える運動)。

 当時、新聞に登場していた仲宗根政善、大田昌秀などに協力をお願いして、4か月の間に1千万円も集まった。運動は大成功でした。

 ところが、その間に悪い連中(共産党系や沖教祖)がこの運動の乗っ取り工作をはじめて大変でした。僕はその時、「人間ってこんなに汚いものか」とはじめて知り、それから反戦平和を言っている奴らを一切、信用しなくなりました

 集団自決の問題について、曽野綾子さんの『ある神話の背景』を呼んで知りました。その時はビックリしたけれど、それだけで詳しいことを調べることはしませんでした。

 ところが1995年6月23、24、25日に、沖縄タイムスに宮城晴美が「母の遺言 切り取られた自決命令」を発表した。そのなかで宮城晴美は、母親の宮城初枝がこれまで軍命があったという自分の証言は実は嘘だったと書いている。これには衝撃を受けました。
(※参考:「母の遺したもの」宮城初江氏の証言
 鴨野:ご存じのように、宮城初枝さんは「家の光」の懸賞論文で自分の体験、戦争体験を書いて、そこで軍命を書き、入賞した人です。その人が村からも「軍命があったことにしてくれ、そうしないと村にお金が落ちないんだ」と言われてそう書いた、と。

 上原:晴美はこう述べています。

 「母初枝はその著書で梅澤隊長が集団自決を命令した、と書き梅澤隊長を社会的に葬ってしまったが、実は母は島の長老らの圧力に屈し、国の役人の前で梅澤隊長の自決命令があった、と証言した。

 その裏には、援護法(軍人軍属等の公務上の負傷・疾病・死亡に関する国家補償の法律)があり、援護法は軍人、軍属に適用されるもので、一般住民には適用されないものだ。自決で亡くなった人は戦闘協力者として年金を受け取るべきだ、との動きがあった」


 いま問題になっている援護法について、最初に発表したのは宮城晴美です。これが集団自決の謎を解く鍵になり、ぼくの「沖縄戦ショウダウン」に続くわけです、。

 1996年6月に、僕は渡嘉敷の集団自決を目撃したグレン・シアレス伍長の手記を「沖縄戦ショウダウン」として発表し、そのなかで沖縄タイムスの「鉄の暴風」を批判し、赤松さんと梅澤さんをスケープゴートにしている沖縄のメディアを徹底的に非難したのです。

 星:1972年頃、私は宮城初枝さんに会って取材しました。私が「軍命はなかったんじゃないですか」と質問すると、うなずいた。「もっとはっきり言ってください」と言うと、「はっきりは言えないんです」と、心苦しそうな表情だった。
(※参考:母の遺したものへの裏切り~ 座間味島


最高裁判決の意味

 江崎:キーワードになるのは、援護法です。この実態を解明しないと、集団自決の真相はわからない。

 金武町(きんちょう:当時は金武村)で援護法を申請するのに、村長が誰の命令だったかを書く項目がある。村としては「なるべく貰えるものは貰いなさい」という指導をしているので、関係のない人でも「軍命があった」と書く。それは架空の人物でもよくて、たとえば「田中軍曹」と存在しない人の名前を書けばOKだった。このことを証言したのは、金武町の教育委員会の奥間俊夫さんです。

 厚生省も琉球政府も各市町村の援護課の窓口も、「何とかしてやろう」と思っての共同正犯だった。ところが、架空の人物ではなく、実際の人物の名前を書いてしまったために、現在の集団自決問題が起きることになってしまったのです

 星:「集団自決に軍命があったか、なかったか」という問いかけは、私に言わせるともう終わった問題でした。平成23年4月21日の最高裁の判決を受け、大江健三郎は勝った勝ったと喜んでいたけど、最高裁は、集団自決については「真実性の証明があるとはいえない」と結論を出した。ただし、大江健三郎と岩波書店を免責した理由は、「表現の自由の保護」を梅澤さんと赤松さんの人格権に優先させた結果だった。逆に言えば、「軍命はなかった」と受け取れるわけです。

 星:援護法のそういうカラクリは、数年遅れたからやむを得なかった部分のあるけれど、援護金を出したのは、ある意味で日本政府の善意からと受け取るべきです

 江崎:援護法の対象はあくまで軍人と軍属で、本来、非戦闘員である一般住民は対象外です。本土でも東南アジアの島々や中国大陸でも、多くの一般住民が犠牲になりましたが、沖縄以外は援護法の給付の対象にはなっていません。

 沖縄戦は壮絶な戦闘だったということもあり、特別に準軍属という身分を与えて援護法で救済することとなった。しかし、その準軍属という身分には積極的な戦闘参加が条件だった。この「積極的な戦闘参加」という条件と軍命にカラクリがある。

 星:しかし、安易に援護金を出し過ぎたんじゃないかと思う。また、実例を挙げることもできるが、左翼の発表のなかにはあまりにも捏造が多すぎる

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集団自決、パンドラ訴訟、琉球新報の敗訴確定

2022-04-19 05:00:02 | 資料保管庫

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県議会で爆弾質問!照屋守之自民県議、新聞の言論封殺につい2014-03-07

              ★

昨日の沖縄県議会の一般質問で自民党の照屋守之県議が、「普天間飛行場移設問題をめぐる新聞報道は、公正公平な報道とは言えず多くの県民から苦情が寄せられている」として新聞報道について6項目に渡る新聞批判の質問をした。

新聞の顔色を窺うの常とする沖縄の政治家が公の場で新聞批判の質問をするのは異例のことであり、照屋議員の勇気決断に拍手を送りたい。

6項目の質問に関しては追ってご報告するとして、時間切れ間際に照屋議員の放った爆弾質問で会議場に衝撃が走った。

照屋議員が事前に配布してあった、集団自決にからむ世界日報の号外紙(おまけ参照)を掲げて、県に迫ったのだ

「このニュースを知っていたか」と。

地元のドキュメンタリー作家上原正稔氏が慶良間島の集団自決について、琉球新報に長期連載中の沖縄戦記「パンドラの箱を開く時」の中で「軍の命令はなかった」と結論付けた箇所を2度にわたり本人の了解もなく削除した。 

これに怒った上原氏が琉球新報を相手に「パンドラの箱削除訴訟」を提訴し、福岡高裁で琉球新報が全面敗訴した。 この手の裁判は最高裁まで持ち込まれるのが通常だが、最高裁で敗訴したら否応なしに全国版のニュースになるのを恐れた琉球新報は上告を断念し、自ら全面敗訴を確定させた。

琉球新報の敗訴が確定した事実は、沖縄のメディアは団結してこれを隠蔽し、一行の報道もしなかった

照屋議員の質問に県環境部長などは「本日配布された世界日報の号外を見て初めて知った」という始末である

歴史が専門といわれる高良副知事が県を代表し「集団自決にいろんな意見があることは承知している。今後この問題を検証していきたい」と答弁し、今後に期待を抱かせた。

歴史問題を歴史の専門家でもない県議会の質問にするのは県議会に馴染まないのではないかという意見もあろう。

だが他県の県議会は措いても、沖縄県議会には「集団自決」を検証する義務がある。

2007年3月、文科省が高校歴史教科書に対し「集団自決は軍の命令による」といった記述は削除せよとの検定意見を出した。

これに反発した沖縄2紙が「軍命はあった」と主張し、検定意見の撤回を求める狂気に満ちた大キャンペーンを張ったことは記憶に新しい。 その年の9月29日には大幅水増しで全国に恥さらしをした「11万人集会」が行われた。

そしてその年の沖縄県議会は、沖縄2紙の狂気に満ちた「軍命はあった」の記事を鵜呑みにし、「文科省検定意見撤回要請」の決議を採択している

沖縄県議会の異常さは、同じ年に同じタイトルの「文科省検定意見撤回要請」を異例とも言える2度にわたり決議していることでもわかる。

したがって「集団自決の軍命が崩壊した」とことを意味する琉球新報の「パンドラ訴訟」の敗訴確定を「知らなかった」では済まされないはずだ。

県の検証とは別に沖縄県議会も独自に検証委員会でも組織し、2007年に沖縄2紙の発狂記事を鵜呑みにして決議した議会決議の洗い直しをする義務があるはずだ。

今朝の沖縄タイムスには昨日の県議会での爆弾質問に関する記事は一行も掲載されていない。

【おまけ】

当日傍聴席にいた上原正稔氏みずから県幹部や県議そして記者席のマスコミにも配布された世界日報の号外はこれ。

 

 



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