狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

政府が「軍命に書き換え」指導

2006-12-12 08:45:38 | ★集団自決

琉球新報 2006年12月7日(水)文化面

問われる「沖縄戦認識」 4  石原昌家 沖縄国際大学教授

不実の記録 政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

「援護法社会」の沖縄では、日本政府が琉球政府を介在して、沖縄戦体験者に「不実の記録」を指導していた。その構図は、「援護課」資料が浮き彫りにしている。

「援護法」適用にのためという日本政府の「善意の外形」によって、一般住民の沖縄戦体験は「軍民一体の戦闘」という「靖国の視点」による沖縄戦認識として決定付けられることになった。「援護法」で一般住民を「戦闘参加者」として認定するにあたって、日本政府は軍命があったか否かを決め手にしていた。それでは沖縄県公文書館の「援護課」資料で、日本政府の「沖縄戦書き換えの指導」を具体的に見ていきたい。

▼軍命と積極的戦闘協力

1957年8月以降、一般住民の「戦闘参加者の申立書」の提出業務が開始されるや、「援護課」は、58年12月までには38,700件を受付して、厚生省に進達した。その後、5万件受付した段階で、那覇日本政府南方連絡所から61年6月30日で受付業務を締め切るよう通達を受けた。それで「援護課」としては4ヵ年で52、682件を受付処理したが、保留してあるのが12、241件にのぼった(61年7月14日援護課「沖縄戦関係戦闘参加者の処理について」)。

これらの援護業務の記録である「援護課」資料の1960年「戦闘参加者に関する資書類」の中に以下のような具体的「書き換え」指導文書が含まれている。

それは昭和34年10月12日付けで、厚生省引揚援護局未帰還調査部第4調査室長から、琉球政府社会局援護課長殿という宛書きで、「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」というタイトルの文書である。

その内容は「別紙記載の戦闘協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦闘協力の内容が消極的に失すると審査課より返却されましたので、死亡者は、要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項の如きこともあったものと推定されるので、其の旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような積極的戦闘協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認欄記載の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います」とある。ここで注目すべき点は、積極的戦闘協力が認定基準になっている、と窺われることである。

更に、62年1月、「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)には、「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から琉球政府への「要調査事項」として「昭20・5・10食料を求めるため部隊に行ったのは軍命令か、申立書の記述ではその点が不明確であるから解明されたい」と、軍命令の有無を重視している。その点については、「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧表ではより明確な文言が記されている。

当時50歳の県庁職員が、「壕生活の指導並びに避難誘導のため麻文仁村に派遣された」が、「麻文村麻文仁で難民誘導の任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死」したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認めがたいとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか 例えば軍命令により弾薬運搬又は食料の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉(職)というが、公務の内容はなにか 軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか」などと具体的に書き方を指導しているのである。

▼0歳児の「準軍属」決定

同じく戦闘参加者についての申立書で未認定の当時9歳の学童のケースとして「壕」提供の記述例をあげよう。日本軍による住民に対する一般的な「壕追い出し」行為は、「艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他に避難場所を探し求めて彷徨している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した」という表現パターンで、「壕提供」ということに書き換えが行われていった。

62年の同書類綴には、援護法の認定が保留になっていた座間味村の明治9年生が昭20年3月28日、「隊長命令による自決」という内容で「戦闘参加者」として認定されている。さらに66年「援護関係表彰綴」には、宮村幸延座間味村総務課長の「功績調書」に、「1957年8月、慶良間戦における集団自決補償のため上京す 1063年10月 集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定」と記されている。

「援護法で」で一般一般住民を「戦闘参加者」として認定し、「準軍属」扱いするには、6歳以上のもの対して「軍命令」によって「積極的戦闘協力」したものに限られていた。しかし、この「援護課」資料によれば、例外的に軍の命令を聞き分けられないと判断した6歳未満児でも、63年以降確定することになったようである。しかし、それは6歳未満への適用が一般化されるのが81年以降であるので、「戦闘参加概況表」の⑮集団自決に該当するケースのみであった。

かくて、集団自決と認定されると、沖縄戦では0歳児でも「準軍属」扱いされ、軍人同様に「靖国神社」に祭神に祀られることになったのである。

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地方紙の文化面は、地方の名士、文化人の意見発露の場所。

中には興味深い寄稿や目からウロコの文もあるようだが、学者先生の文は難しく読み辛いのでよっぽどでないとついスルーしてしまう。

上記はその文化面の「問われる『沖縄戦認識』」シリーズの4回目の石原昌家沖縄国際大学教授 の論文。

人並みの読解力はあるつもりでいたけど、・・・・学者先生の文は難し過ぎてどうもよく判からない。

これって、終戦直後の政府「援護課」の職員が「歴史の書き変えを指導した」ってこと?

お役所仕事は今も昔も変わらない。 

10人の証言より1枚の文書を重用する文書主義は同じだ。

当時の「援護課」の窓口役人が「歴史の捏造を企む」といった遠大な意図を持っていただろうか。

そうではあるまい。 

戦火で打ちひしがれた沖縄県民の惨状を見て、当時の政府担当役人が、補助金申請をした遺族に対し、軍人にしか支給されない補償金を何とか支払えないものか、と窓口での「門前払い」にせずいろいろ「指導」している姿が目に浮かぶ。

自決前に「県民かく戦えり」という有名な電文を打電し沖縄戦で散った大田実少将の

「県民に対して後世格別のご高配を賜らんことを」という血を吐くような遺言を、図らずも「援護課」の担当役人が実行していたとしか思えないのだが。

県民かく戦えり! 大田実少将の遺言

ところが、この「善意の行為」も歴史の専門家の先生にかかると「不実の記録 政府が書き換え指導」と歴史の捏造の証拠と成り果てる。

でも、結局「軍の命令」は政府の指導で書かされたのですよネ

ということは、上記論文は「軍の命令は無かった」という証明になるの

ん? これってサッカーで言う「オウン・ゴール」とか「自殺点」というのじゃない?

だって、石原先生、2ヶ月前の琉球新報で次のようなコメントをいっていたのに。

琉球新報

慶良間諸島における集団死については、軍命の有無が争点となり、日本軍人遺族ら原告団が、軍命があったと記載した岩波書店と大江健三郎氏を訴えている。沖縄戦史を研究する石原昌家沖縄国際大学教授は「慶留間でも軍命があったとの証言を得ており、強制集団死事件を裏付ける公文書。強制集団死を殉国死とし、軍命はなかったとする原告側の言い分を否定する資料だ」とコメントした。

(10/5 10:19)

 

一昨日の日曜日下記のような集会があったらしいが、

まさか石原先生は参加していなかったでしょうね

 

 沖縄タイムス

2006年12月11日(月) 夕刊 6面  
 
「歴史の歪曲許さず」/「集団自決」訴訟 県内7団体、支援の会結成

 沖縄戦の慶良間諸島の「集団自決」の軍命記述をめぐり、元軍人らが岩波書店らを名誉棄損で訴えた「集団自決」訴訟で十日、一フィートの会など県内の平和、人権七団体が「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」を結成した。那覇市古島で総会とシンポが開かれ、共同代表に福地曠昭さん(一フィート運動の会)、高嶋伸欣さん(平和ネット)を選出した。
 約百人が参加したシンポでは、沖縄戦研究者や教師らが、原告が「集団自決」を「殉国の死」と美化し、沖縄戦の事実歪曲を試みている―と批判。大城将保さん(平和ネット)は「日本が戦争のできる国家に変質しようとする時、『軍隊は住民を守らない』ことを体験した沖縄は邪魔な存在」と説明。強制連行などをターゲットにしてきた歴史修正主義者らが「沖縄戦に乗り込んできた」と指摘した。

 下地史彦さん(小学校教師)は「集団自決」の事実が歪曲されれば「沖縄戦のガマや戦跡への見方が変わり、これまでの平和教育が覆される」と批判。安仁屋政昭さん(県歴教協)、津田則光さん(平和ネット)が裁判経過などを話した。

 同会は、一フィート運動の会、沖教組、高教組、平和ネット、沖縄人権協、県憲法普及協、県歴教協で構成。今後裁判傍聴や報告会を行う。同会は個人参加も受け付ける。

 問い合わせは同会事務局、電話098(887)1661(高教組内)。


  
 

   
 

 

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