狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

オペラ歌手が歌う「ナツメロ」は芸術か悪趣味か

2006-12-03 07:55:57 | 音楽

「ナツメロ」とは本人にとって懐かしい歌だ、と定義すれば世代によって該当する歌の範囲は広い。

生まれ育ったその時代、その場所そして関わった人々を、そのときに流行った歌のメロディーで回想する。 まさにナツメロの世界だ。

 ≪新曲を 覚えた頃は もうナツメロ≫

                 *

あるコンサートにナツメロを聴きに行ったら、想い出の詰まった懐かしい歌をオペラ歌手がベルカント唱法で歌った。

◆ベルカント:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88

暫しあの日、あの頃の友の顔でも回想しようという言う思いは、歌手の声量たっぷりのオペラ風の美声で打ち砕かれた。

期待はずれにブツブツ文句を言っているだけだったら良く聞く話で、特に問題も無かった筈なのだが、・・・。

このナツメロンファン、メルマガの主唱者で、期待はずれの鬱憤を自分のメルマガの記事にしてしまった。

≪オペラ風に歌われる歌謡曲には戸惑いを感じた。更に欧州
帰りのオペラ歌手古川精一さんとのデュエットデ歌われた「旅の夜風」
には悪趣味を感じた。≫

それが転送、転載によって件のオペラ歌手の目にとまってしまったからさー大変。

早速歌手本人から反論があった。

しかもこのコンサートは「霧島昇・松原操夫妻の持ち歌」が目玉で、件のオペラ歌手が霧島・松原夫妻の実の娘さんだと言うから問題は複雑化。

さー、ベルカント唱法で歌い上げる「旅の夜風」は芸術か、はたまた唯の悪趣味か。

ことの顛末は当事者の記事で。

 

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冒涜と悪趣味の意味
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          渡部亮次郎

<東京・渋谷のホテルセルリアンタワー東急ホテルの教会で開かれるサロ
ン・オーケストラ・ジャパンのコンサートが9日夜、3ヶ月ぶりに開かれ
た。

今回は嘗ての歌謡スター霧島昇・松原操夫妻(いずれも故人)の三女でオ
ペラ歌手(ソプラノ)大滝てる子さんが両親の持ち歌を敢えて歌うとい
うプログラムがはさまれていた。

「一杯のコーヒーから」「蘇州夜曲」のほか森山良子作曲の「涙(なだ)
そうそう」も。オペラ風に歌われる歌謡曲には戸惑いを感じた。更に欧州
帰りのオペラ歌手古川精一さんとのデュエットデ歌われた「旅の夜風」
には悪趣味を感じた。

オペラはオペラ、歌謡曲は歌謡曲なりの歌い方があって、ファンを納得
させている。融合は不可能である。花も嵐も踏み越えて、をオペラ風に
歌うとご両親を懐かしむより冒涜しているように感じた。

次回は「セルリアン・ニューイヤーコンサート」として、1月11日(木)
午後2時半と午後7時だそうです。4000円。>(「頂門の一針」11月10日
 625号 身辺雑記)

これに対して「頂門の一針」を転載した上海発のメルマガに当の大滝て
る子さんから9日後に以下のような文が寄せられていると伝えてきて、
直ちに私のところへ転送されてきた。

<文中の霧島昇・松原操、両親の歌を「冒涜」というお言葉本当に悲し
く思いました。両親の歌を歌うようになるまでにはいろいろな深い思い
そして経緯がございます。

融合は不可能もという言葉も、本当に残念に思います。安易な、そして
顔の見えない批判を私自身も慎みたく思います。主催の方にお尋ねになっ
て是非一度お手紙を下さいませ。お話が出来ますのを楽しみにしており
ます。(2006/11/19 04:15:04 PM)>

「両親の歌を『冒涜』というお言葉」はおかしい。ご両親の歌をオペラ
風な歌い方で歌われるのは、あの歌に対する冒涜と言っているのであっ
て、私は歌手を冒涜したのではない。企画が悪趣味だといっているのだ。

例は悪いが、逆に演歌歌手がオペラを歌ったら、オペラ界は「融合」
「成功」といいますか。お父上とお母上のデュエットには独特の息継ぎ
とか情感の込め方とかが存在し、いわば独特の世界を形成して今日に至
っている。

それをオペラ調で歌われると、音吐朗々ではあるが、途端に歌謡曲でも
演歌でもなくなる。霧島もミス・コロムビアも消される。だから子が親
を消してしまうのだから冒涜と敢えて言ったのである。

子が親を思う事は美しい。しかし、それを演歌でもない、ォペラでもな
い、わけの分らないものにしてカネを取るというのは、少なくとも企画
は悪趣味と反省すべきだ。

大滝さんが演歌を演歌なりに歌えるなら許そう。ドイツだかベルカント
だかの唱法でしか歌えないのに、親の歌を子供が歌ってどこが悪いと開
き直るのは悪趣味だ。人格的に問題がある。親の歌は親のもの、子供は
自分の歌を歌うべきだ。

音楽の発声法には疎いがドイツ唱法とかベルカント唱法とかで演歌を歌
われると気持が悪い。以前、霧島昇・ミスコロムビアご夫妻のご長男で
東京音楽大学教授の坂本紀男さんがラジオ番組で父上の名作「胸の振り
子」を歌われて、やはり違和感を覚えた。クラシックの歌い方だったか
らである。

お兄さんの坂本さんも大滝さんも演歌を歌っているようで演歌ではない。
ファンは懐かしくて1度は聴くが、似て非なる歌だから2度は聴きたくな
い。それを「受けた」と感じるのは勘違いだ。兄妹ともに勘違いしてい
る。あまりにも鈍感だ。

演歌は演歌、オペラはオペラでいいと思うのである。演歌には小節が不
可欠だが、ドイツ唱法とかベルカント唱法で歌われると、全く似て非な
るものになってしまう。

主催者は99%の人が喜んで帰ったといってきた。他人はどうであれ、私
は気持が悪かったからあのように書いたのである。音楽もまた感性の芸
術である以上、賛否のある事は当然であって、多数だから正しいという
ものではないだろう。

松原操(ミスコロムビア)に関する『ウィキペディア』を見ると「霧島
・松原夫妻の忘れ形見である長男の坂本紀男と三女の大滝てる子は、現
在も父母のヒット曲を歌い継いでいる」とある。二人して両親を歌い継
いでいると思いながら両親を否定していることに気付かないだけなのだ。

特に大滝さんはご両親の歌を歌うことを仕事にされているようだから、
私のような素人からの批判には厳しい抵抗をして当然である。

そうですか。なるべく聞きたくないものだ。それにしても見ず知らずの
者に手紙を寄越せとは大滝さん、思い上がりだろう。2006.11.22 

 

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分類すれば「ゲテモノ」
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             渡部亮次郎

メイルマガジン「頂門の一針」の1愛読者から、以下の投書を戴いた。
霧島昇・松原操夫妻の3女でソプラノ歌手の大滝てる子さんが両親の遺作
をオペラ調で歌ったことを咎めたことに対するご「感想」なのである。

<演歌は日本の文化に根ざしている。ご維新から昭和まで突っ走った歴
史の裏で泣いた庶民の哀歓が日本の歌調を生んだ。

ワインも日本酒もそれぞれの土壌、文化から生まれており、ブレンドす
る事は考えない。それぞれに味わうことが普通だろう。

最近、外国の歌手でも日本の歌曲をすばらしく歌う人がいるが(ロスチ
ャイルド一族の女性)、さすがに演歌は歌わない、いや歌えない。

ワグナーに「夕星の歌」という哀切きわまりないアリアあるが、小節を
利かせて歌っても感動は呼ばない。

演歌を音吐朗々とバリトンで歌うことは罰せられはしないがそれは1回
だけでお許し願う「座興」に過ぎない。分類すれば「げてもの」に入る。
(長岡新太)>

この方は昭和1桁。幼少の頃から、78回転、モノーラルでクラシックを聴
き続け、長じてはナマの演奏会を梯子し、多分、家を1軒建てるほどにつ
ぎ込んだという人である。

それほどなのに演歌に関する理解も深いこと。音楽というものを高いと
ころから俯瞰しておられること、日本人としては最高のレベルと言って
も過言ではあるまい。

オペラ歌手となった霧島・松原の遺児たちが「旅の夜風」初め両親の遺
作を有料で歌うことについて、私は私のメルマガ「頂門の一針」11月10
日号で強く非難した。

2006年11月9日に渋谷のホテルで行われたクラシックの演奏会に出てきて
ご両親の遺作を何曲か歌われた後、ヨーロッパ帰りの男性オペラ歌手を
わざわざ舞台に招いて「旅の夜風」をオペラ調で朗々とデュエットされ
たからである。

<東京・渋谷のホテルセルリアンタワー東急ホテルの教会で開かれるサロ
ン・オーケストラ・ジャパンのコンサートが9日夜、3ヶ月ぶりに開かれ
た。

今回は嘗ての歌謡スター霧島昇・松原操夫妻(いずれも故人)の三女でオ
ペラ歌手(ソプラノ)大滝てる子さんが両親の持ち歌を敢えて歌うとい
うプログラムがはさまれていた。

「一杯のコーヒーから」「蘇州夜曲」のほか森山良子作曲の「涙(なだ)
そうそう」も。オペラ風に歌われる歌謡曲には戸惑いを感じた。更に欧州
帰りのオペラ歌手古川精一さんとのデュエットで歌われた「旅の夜風」
には悪趣味を感じた。

オペラはオペラ、歌謡曲は歌謡曲なりの歌い方があって、ファンを納得
させている。融合は不可能である。花も嵐も踏み越えて、をオペラ風に
歌うとご両親を懐かしむより冒涜しているように感じた。

次回は「セルリアン・ニューイヤーコンサート」として、1月11日(木)

午後2時半と午後7時だそうです。4000円。>(「頂門の一針」11月10日 
625号 身辺雑記)

私は演歌は演歌でしかなく、オペラとは異質のものと考える立場から、
こうした試みは悪趣味であり、ご両親のご功績たる確立された演歌に対
する冒涜であると非難したわけだ。

趣旨をこのように「頂門の一針」625号に掲載したところ、それを上海在
住の日本人の方が御自分のブログに転載し、それをたまたまご覧になっ
た大滝さんが書き込みをされ、私に手紙を下さいとして居られた。

しかし、メルマガに書くのではなく手紙を寄越せという言い分に正直、
立腹した。なんで私がわざわざ手紙を書く必要があるのか。そこで演奏
会の主催者を通じて抗議すると共に、メルマガにその怒りを公表した。

ところが、今度は主催者が怒った。主催者宛の私信をメルマガに掲載(公
開)したのは許せない、という怒りである。だが私の書いた手紙を公開質
問状とするか親展とするか平信とするかは執筆者の勝手であると考える
私は、主催者の抗議文掲載要求を拒否した。

私宛に来た私信を断りなしに公表したら、プライバシーの侵害だから抗
議されて当然である。だが私が書いた文章を私が公開しようが、すまい
が、私の勝手である。それを勝手に怒るのは非常識であり、その非常識
を天下に晒すのは可哀想だから未だに晒していない。

大滝さんは、コトを逆にとらえて私が主催者からの私信を私のメルマガ
に断りなしに掲載したと完全に誤解して例の上海のブログに抗議の書き
込みをしているらしい。大滝さんは私と年が近いだけに、主催者の非常
識にはお気づきにならなかったようで、笑いを誘われる。

オペラ調で歌われた演歌の1曲が、私の過剰な反応から非常識な反応を呼
び、誤解に基づく反応を呼んだが、長岡新太さんの投書を「裁定」とし
てこの問題にケリを付けたい。主催者も一瞬の隙でつい座興を興行して
しまったものとして許したい。2006.1129

 

 

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