狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

思い出の歌 (3) 「さびしい男とチャコ」

2006-07-02 08:12:26 | 音楽

沖縄の学校の新学期に春の印象は無い。

1957年の4月も夏の到来を思わせる暑さだった。

憧れの高校に入学して未だ数日、次の授業の担任教師が入室するのを私は期待の目で待ち受けた。国費帰りの若い男性教師だと聞いていた

その教師は予想外の変わった印象を皆に与えた。
簡単な自己紹介の後、いきなり黒板に公地、公民と書いた。

授業は日本史なので大化の改新から始まるのかと思ったら、それには触れずに「君達、○○学会を知っているか。」と質問をした。
当時の高校1年生は情報に対してウブだった。

未だ米軍の占領下でドルが流通し、本土との交流も当時は外国なみに遠い存在だった。

勿論テレビも普及していない時代だ。 ほとんどの生徒は○○学会の意味が理解できなかった。

それから、その教師は授業はそっちのけでとうとうと○○学会の悪口を述べ立てた。

型破りながらその新任教師はウブな生徒たちの心を掴んだ。

中には「アイツ漱石の『坊ちゃん』を気取っているのではないのか」と皮肉る者もいたが その教師の斜に構えた言動は今までの教師に無い新鮮な印象を皆に与えた。

その頃フランク永井の「東京午前3時」や「有楽町で遭いましょう」がヒットして巷にはその甘い低音が流れていた。

同じフランク永井の曲でそれほどヒットはしなかったが「13800円」と言う変わったタイトルの曲があった。

ある日の授業で件(くだん)の教師いきなり授業で奇妙な行動にでた。
何の前触れも無く黒板に「13800円」の歌詞を書き並べた。

それから資本主義社会における「資本家の卑劣な陰謀」について講義を始めた。

「13800円」の歌詞の内容は詳細は忘れたが当時のサラリーマンの生活を暢気に歌ったモノで「けして多くは無いが、自分の月給は13800円。 楽じゃないがたまには一杯飲めるし、何とかやっていけるさ。」と言った、取り様によっては、けして悲観的でない、陽気な歌だった。

これが卑劣な資本家のインボウの歌だと言うのだ。

13800円と言えば当時の高校生にとって40ドル弱で大金だった。

が、その本土帰りの教師に言わせるとそれは低賃金であり、「13800円」はその低賃金を労働者に納得させる為のインボウだと言うツナガリだった。

情報にウブで純白な生徒の脳細胞はこの一風変わった国立大卒のエリート教師の熱気の篭った授業を真綿の様に吸い込んで行った。

あれから春秋幾たびか過ぎ去り、半世紀と言う時の流れを今更のように感慨を持って想う。
あの教師、いや先生はその後大学教授となり10数年前に退職したと風の噂に聞いた。 お元気でいるのやら。
その先生の授業を半世紀前聞き入った同級生も、既に数年前大学教授を定年になった。
今年の夏は暑くなりそうだ。

ところで当時の人気歌手フランク永井の歌で「13800円」を話題にするのはよっぽどの変わり者で、普通は「有楽町で逢いましょう」に色んな思いを重ねて回想するであろう。


フランク永井には今までの流行歌手に無いバタクサさがあった。

バタくさいとはバターのにおいがする意から「西洋風」と意味だが、当時の社会状況では西洋風=アメリカ風であった。

それまでの人気歌手三橋美智也や春日八郎の日本調なドロくささに比べて名前にフランクというカタカナが入っているだけで歌手そのものが垢抜けて見えた。

フランク永井の経歴もバタくささに色を添えた。

進駐軍のキャンプ地でのトレーラー運転手。

アメリカ軍のクラブ歌手に。1954年(昭和29年)にビクターと契約、ジャズなどを得意とした。

その後都会的なムードが作曲家・吉田正の目にとまり、歌謡曲に転向。

1957年(昭和32年)の「有楽町で逢いましょう」でスターの座を不動のものにする。

「有楽町で逢いましょう」は当時の有楽町そごうデパートのキャンペーンソングだという。

フランク永井の歌で時折出てくる英語の発音も当時はかっこよく聞こえた。(例えば「西銀座
駅前」のABCXYZ等)

もう一つ唐突に思い出したが、その頃ウクレレ漫談の牧伸二がラジオの人気者だったが、その持ちネタの一つ。

フランク永井は低音の魅力 

三船浩も低音の魅力

牧伸二は低脳の魅力  

あーあーいやんなっちゃた 驚いた

 

◆俺 は 淋 し い ん だ

作詩 佐伯孝夫  作曲 渡久地政信  唄 フランク永井

昭和33年

◆夜霧に消えたチャコ 昭和34年

宮川哲夫 作詞    歌 フランク永井
渡久地政信 作曲

★フランク永井(1932- )
宮城出身。進駐軍のトラック運転手などを経てキャンプまわりの歌手となる。昭和30年にレコードデビュー。当初はジャズを歌っていたが、作曲家の吉田正の薦めで歌謡曲に転向、32年に現在の第二京浜を歌った「夜霧の第二国道」がヒット、有楽町そごう開店記念曲「有楽町で逢いましょう」が爆発的なヒットとなった。33年には「羽田発7時50分」、34年には「夜霧に消えたチャコ」がヒット。ほかにも自らスカウトした松尾和子とのデュエット「東京ナイトクラブ」やリメイク曲の「君恋し」などがヒット。「西銀座駅前」の西銀座駅は現在の丸の内線の銀座駅で、当時は銀座駅とつながっていなかったため、西銀座駅の名称であった。紅白の連続出場などを続け一線にあったが、60年に愛人との金銭トラブルから自殺を図り再起不能に。(引用「誰か昭和を想わざる」)

(続く)

 

 

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