狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

島田県知事と民間人への命令、軍事史学会副会長の原剛氏によると、沖縄戦を巡る「戦場地域の行政責任」は次のように説明されている。★軍か行政か、民間人への命令、国家の至上命令

2023-10-24 11:29:44 | ★改定版集団自決

 

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              ★

戦後僅5年に発刊された沖縄タイムス編著『鉄の暴風』に端を発する沖縄集団自決の軍命論争は、拙著『沖縄「集団自決」の大ウソ』により、軍命は捏造であることが証明された。

仮に「軍命」が存在したとしても、軍命を発することのできる人物は座間味村、渡嘉敷村の両隊長ではなく、彼らの上司である第32軍司令官の牛島中将でもない。

唯一法的に民間人に命令を発する権限があったのは内務官僚から沖縄県知事に派遣された島田叡沖縄円知事であった。

【ゆっくり解説】沖縄戦 第13話 島守の沖縄戦 島田叡 島守は如何に沖縄戦を戦い抜いたのか?

軍・行政が住民疎開に尽力 利用された「軍命」2008-09-27 

沖縄戦を通じて言えること、軍隊(陸軍)と言えども士官クラスは殆どが士官学校出身で戦時法律に精通しており、軍服を着たキャリア官僚と言われるほど頭脳明晰だった。

 

軍事史学会副会長の原剛氏によると、沖縄戦を巡る「戦場地域の行政責任」は次のように説明されている。

実際に、米軍が上陸する二カ月前の1945年1月に軍司令官・参謀長・各部長・幕僚などが集まり、戒厳令に関する検討を行っているが、結局は戒厳令の宣告を大本営へ具申するに至らなかった。

このため、第三十二軍司令官は、戦場地域の住民の避難・保護についての責任を形式的には持たないことになり、あくまで県知事に責任に責任があるという形式が貫かれていた。」(『沖縄戦「集団自決」の謎と真相』)

沖縄戦に際して、軍は戒厳令について検討はしたが執行はせず、行政責任は最後まで県知事に委ねられた。

■安仁屋政昭ー苦し紛れの「合囲地境」

安仁屋政昭沖縄国際大学名誉教授は、沖縄戦でも戒厳令が施行されない限り、民間に対する命令権は行政側(県知事)にあると反論され、狼狽した。 ちなみ

安仁屋教授は「軍命派」の理論的リーダーであると同時に「大江・岩波集団自決訴訟」の被告(大江)側の応援団である。

そして安仁屋教授は、苦し紛れに「合囲地境」と言う聞きなれない新概念を捻りだして「合囲地境」は、「戒厳令と同等の軍命が可能」と軍命を主張した。

だが、誰にも相手にされず以後沈黙したままである。

■軍と行政を峻別した太田少将

「沖縄県民斯く戦えり」で有名な太田少将も、軍民の役割分担を充分心得ていた。

太田少将は、沖縄県の実情を報告するのは県の職務だが、「県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き」、県に代わって「緊急御通知申し上げる」と、自身の「越権行為」の弁明に電文の大半を費やしている。

電文「沖縄県民斯く戦えり」の冒頭部分

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる

軍隊が民間に命令できるのは、戒厳令が執行されたときであり、沖縄戦当時、戒厳令は執行されていなかった。

太田少将は自決直前の今わの際にも戦場現場の軍と行政の責任分担について峻別していた。

 

               ★

戦時中に、よく言えば「利用」され、悪く言えば「悪用」された言葉に、「軍の命令」という言葉だ。

実際には命令は発せられていなくとも、また軍が命令する権限がない場合でも、沖縄県民は当時の社会風潮から「軍命」と言った方が万事迅速に行動に移す傾向にあった。

例えば「○○へ集合」という場合でも迅速を期す場合「軍命」という言葉が頻繁に悪用された。

県外疎開も実際に住民に命令出来る立場にあったのは行政側であったので、県外疎開を緊急課題と考えた軍は行政に協力を依頼した

初県外疎開に反対の風潮にあった県民に対して行政側は「軍命」を利用した

だが「軍命」も頻繁に利用(悪用?)されると住民側もこれに従わないようになってくる。 オオカミ少年の例えというより、そもそも軍命なんて軍が民間に下すものではないということは一部には知れ渡っていたのだ。

『沖縄県史』第四巻には「集団疎開に対する県民の心境」として次のような記述がある。

≪当時の戦局からして、国家の至上命令としてどうしても疎開しなければならなかったのである。 刻々に迫ってくる戦火への不安、その中で県民は島を守るべき義務を軍部と共に負わされ、生活を軍部の専権にゆだねさせられた。

しかし、このような状況にあって、一家の中堅である男子壮年者は沖縄に留まり、老幼婦女子のみを未知の土地に送るという生活の不安や、肉親の絶ちがたい愛情に加うる、海上の潜水艦の脅威などから、住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった。(略) 

かくして昭和19年7月中旬垂範の意味で県庁、警察の職員家族が疎開し、同8月16日1回目の学童疎開を送り出すまで、学校、部落、隣組などにおける勧奨が燃え上がるなかで隣組の集会などに持ち込まれる流言、戦況に対する信頼と不安の錯そうなどから家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた。≫

沖縄県史の記述の中にも「命令」を「利用」した当時の緊迫した状況が読み取れる。

学童疎開も「従わなければならない」という意味では軍どころか「国家の至上命令」としておきながらも、「住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった」というくだりでは、命令ではなく勧奨と言葉の使い分けをしている。

>家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた

軍の命令」が親兄弟の命を奪わねばならないほど厳格なものだったら、賛否の論議の余地はなかっただろうし、疎開命令に対しても絶対服従であり、荷物をまとめたりほぐしたりも出来なかっただろう。

むしろ米軍来襲におびえて、荷物をまとめたりほぐしたりする住民の様子は、米軍上陸を目前にしてパニックになり、「自決すべきか生き延びるべきか」と迷ったあげく、結局グループのリーダーの決断に委ねた座間味、渡嘉敷両村の住民の心境に相通ずるものがあるのではないか。

どちらの場合も一家の主が拒否しようと思えば出来た。

学童疎開を拒否した家族は結局戦火に巻き込まれ多くの被害者をだし、集団自決を拒否した家族は戦火を生き延びた

軍命という言葉は、戦時中は行政側や一部民間団体に利用され、戦後は左翼勢力によって悪用されている。

以下は世界日報の引用です。

真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 3部<13>

 

軍・行政が住民疎開に尽力

「南西諸島守備大綱」で詳細な指示

picture 今年6月23日の「慰霊の日」、沖縄県南部にある摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」に刻まれた戦没者の前で手を合わせる遺族(敷田耕造撮影)
 沖縄の地で米軍を迎え撃つ日本軍は、敵の圧倒的な攻撃力をいかに封じ込め、反撃するかに心を砕くとともに、沖縄県民の疎開にも配慮した。

 

 軍が沖縄県庁と疎開計画を立案したのは昭和十九年の夏ごろから。重点を置いた島外疎開については、戦闘開始までに沖縄本島約十万人、八重山群島約三万人が九州・台湾に避難できた。

 一方で、疎開住民を輸送する船舶の不足、疎開先の受け入れの限界などの事情から、軍は島内疎開も視野に入れていた。この一環として十九年暮れに策定されたのが「南西諸島警備要領」。その特徴と経緯を、沖縄守備隊第32軍高級参謀、八原博通・元陸軍大佐の著書『沖縄決戦』(読売新聞社、昭和四十八年)から、紹介する。

 〈本要領中、最も注意すべきは、住民を当然敵手にはいるべき本島北部に移すことであった。一億玉砕の精神が、全国土に横溢(おういつ)していた当時、これは重大な決断であった。私は、軍司令官に相談申し上げた。「サイパンでは、在留日本人の多くが玉砕精神に従って、軍とともに悲惨な最期を遂げた。しかし沖縄においては、非戦闘員を同じ運命を辿(たど)らせるべきでない。アメリカ軍も文明国の軍隊である。よもやわが非戦闘員を虐殺するようなことはあるまい。もし島民を、主戦場となるべき島の南部に留めておけば剣電弾雨の間を彷徨(ほうこう)する惨状を呈するに至るべく、しかも軍の作戦行動の足手纏(まと)いになる」といった主旨を述べた。こういうと、一見語勢が強いようだが実はそうではなく、私も内心軍司令官のお叱りを受けるのではないかと、声をひそめて申し上げたのであった。ところが、軍司令官は、よく言ってくれたとばかり、直ちに裁断を下されたのである〉

 戦闘に参加・協力できる県民を除いて六十歳以上の老人、国民学校以下の児童とその世話をする女子は十数万人と、八原参謀は読んだ。だが、米軍の日増しに激しくなる空襲や家族がバラバラになることを嫌い、北部疎開は思うように進まなかった。結局、五万人ほどが北部に疎開した

 着任して間もない島田叡知事は沖縄県民の食料確保のために、わざわざ台湾総督府に出掛け談判した。結果、台湾米約十万袋を獲得し、この海上輸送にも成功した。

 六月上旬、東京・目黒の防衛省防衛研究所の戦史資料室を訪ねて、「軍命」「沖縄戦」「第32軍」の中から、三十点余りの資料を閲覧した。八原参謀の『沖縄決戦』の下書きとなったノートのコピーや、米国から戻された作戦資料などもあったが、南西諸島警備要領そのものはなかった。

 ただ、沖縄のジャーナリスト、上原正稔氏が翻訳・編集した『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』(三一書房、昭和六十一年)に掲載されている「南西諸島守備大綱」が、この南西諸島警備要領と同一のものと推定される。

 タイトルが違うのは、米軍が押収した日本軍機密文書の英訳を上原氏が日本語に直したものだからだ。『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』によれば、極秘扱いのこの文書は、「閣議決定による国家総動員法の要旨に基づき、球一六一六部隊(第三十二軍司令部)牛島満司令官及び、沖縄県知事、鹿児島県知事の命令により、次の付属文書を提出する」という文から始まっている。その内容は、八原参謀の手記と重複するものだが、「南西諸島守備大綱」の方がより住民の疎開について詳細な指示がなされている。日本軍が駐屯した島の島民への指示も記載されている。

 「船舶の事情により、予期される戦闘地区から事前に疎開できず、しかも、軍隊のいる島の島民は、敵軍の砲撃の被害を少なくするために、それぞれ身を守るための壕(ごう)を掘らねばならない

 また、「(住民の)混乱を避け、被害を少なくするために、島民を適当な場所に疎開、あるいは、離島に疎開させること」とも記している。

 専門家によれば、避難壕を造ることや安全な場所に島民を誘導するという仕事は、村長、助役ら行政担当者と、戦闘部隊を後方から支援する基地隊が中心になって行うという。つまり、軍も行政も住民保護に心を砕いたのである

 こうした事実を踏まえれば、精神的に限界状況にあった住民が集団自決に踏み切ったことを取り上げて、「日本軍は住民を守らない」などという左翼の主張がいかに的外れで、「反日運動のために捏造(ねつぞう)されたスローガン」にすぎないかが明白になる。

 実際は、全国各地から召集された日本人がわずかな武器を手にして、日本を、そして沖縄を守るために貴い命をささげたのである。もし、日本軍が沖縄に一兵士も送らなかったならば、果たしてどうなっていただろうか。北方領土や樺太がソ連領になったように、沖縄もまた米国の一部になっていたかもしれない。

(編集委員・鴨野 守)(世界日報掲載:6月29日)

 

【おまけ】

下記動画、「you tube で見る」をクリックすると再生できます。

 

最初に「北山(ニシヤマ)に集合」と言ったのは安里巡査の相談を受けた赤松隊長の助言であり、少なくとも「命令」ではない。 それが最終的に「赤松隊長の自決命令に」変化していく過程は、まるで伝言ゲームのようである。(伝言ゲームで自決命令など出すはずはなく、それを実行する人もいない)

上記動画で「巡査」というのは、安里巡査のこと。

島外の出身で渡嘉敷島に新しく赴任した安里巡査(戦後比嘉家の養子となり比嘉喜順と改姓)は、島民に避難場所を指示するほど島の地形に精通していなかった。

本島から渡嘉敷島に赴任したばかりの若いおまわりさんが、島を取り囲んだ米軍の「鉄の暴風」に遭遇し、住民を避難させるため悪戦苦闘する。 

安里氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者の太田良博記者は、安里氏が戦後沖縄に在住していたにもかかわらず、何故か安里氏には一度も取材をしていない。

 

渡嘉敷島の駐在であった安里巡査は、集団自決の現場を目撃した生き残り証人として最重要証人であり、曽野綾子氏の『集団自決の真相』には登場する。

改めて安里氏の証言を読むと、『集団自決の真相』やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくる。

下記に『集団自決の真相』に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

曽野氏は、『鉄の暴風』(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安塁喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前に訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏を主題する地元マスコミは一社もない。

安里氏の証言は地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に、真実がある。

沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

安里喜順氏の証言-2

赤松隊長に面会
 艦砲が激しくなって渡嘉敷の山は焼けてシイジャー(しいの木)だけが残っていた。
 阿嘉島にも水上特攻隊が駐屯していた。
 その頃渡嘉敷島には招集された防衛隊員がいたが、小さい島なので招集されても家族のことが心配になり、自宅に帰って家族の面倒を見ながらやっていた。
 防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 赤松部隊の隊長は民家を借りていたが、昼は海岸の方に行っていた。その海岸は秘密地帯になっていたらしく、私は行ったことはなかった。
 赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談


 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。部落から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。部落を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時部落の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。

渡嘉敷島の玉砕
 私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた
 空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので、部落を出発する時からもう平常心ではない。
 集まった防衛隊員達が、「もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔よく自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。
 私は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は、「生きて虜囚の辱めを受けず」だったので、言っても聞かなかった。
 そこで「じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡をとってからその返事を待って、それからでも遅くないのではないか」と言って部隊長の所へ伝令を出した。
 だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。
 そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として、手榴弾を持っていたと思う。
 その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たちがいた。
 玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しようと言うことになって、自分たちで歩けるものは一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。
 その時友軍に、「危険だから向こうに行け」と言われて、元の場所に帰ってきた。
 その頃は全員の頭がボーとして何も考える事ができず、死のうが生きようがどうでもいいと言う気持ちで近くの広場で寝ていた。
 その時自決するチャンスを失ってしまってそのままになった住民も多かった。

避難生活
 あの広場で玉砕してから2、3日は飲まず食わずでいたと思う。それから段々と集まってきた場所が、あの避難小屋を作ってあった恩納河原であった。
 それからは避難小屋での生活が始まった。山の畑を耕したり、芋を作ったり、ソテツで澱粉を作った りして食いつないでいたが、小さい離島なので、持っていた食料も底を尽き、山のソテツも取り尽くしてしまい、食料を探すのに必死だった。その頃船  が沈められて、海岸にはよくメリケン粉や缶詰などが流れ着いていたので、それを拾って食べたこともあった。
 渡嘉敷港の近くに友軍の食糧を積んであったので、私が赤松隊長に相談して防衛隊員などから力のある人を集め、その食糧を取ってきて友軍と民間で分けたこともあった。
 赤松隊長は、「私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きて下さい」と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった。
 米軍が上陸してからは、本島との連絡は全くできないので、私は赤松隊に行って情報を取りそれを住民に伝えていた。
 七、八月頃になったら米軍からビラがばら撒かれた。それには「もう戦争は終わったから山から降りてきなさい」と書いてあった。

 渡嘉敷島の住民の中にも、伊江島の住民の捕虜から情報を聞いて早く投降した人たちもいた。
 そのとき私も軍と一緒に投降した。(沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行 第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768)

(昭和63年2月8日採話)

                     ◇

この証言記録は戦後43年を経過した昭和63年に採話されている。

改めて説明するまでもなく、赤松隊長が自決命令を出したという主張が真っ赤な嘘であるということが、この証言からわかる。

何よりも、仮に、軍の命令による自決なら、自決に失敗した住民は当然「命令違反」で処刑の対象であったはずだ。 

ところが、7、8月ごろまで赤松隊長と食料の分け合いをしていた事実や、情報交換をしていた事実から、軍の命令による自決が、嘘であることは自明である。 

軍命説は、後年になってからの援護金申請のための方便であることが証明されているが、それを証明したのが、軍命説派である石原昌家沖国大名誉教授の調査によるというのは、いかにも皮肉である。

安里巡査の証言が、最重要だという理由は、安里巡査の当時の年齢と職務にある。

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため、既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受け信憑性に欠ける点が指摘され、それが真相解明の大きな妨げになっている。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに援護金支給の問題が絡むと、今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、当時渡嘉敷島の巡査であった比嘉さんは信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里(比嘉)巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会には無縁の「よそ者」であり、、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。 従って安里巡査に地域共同体の呪縛はない。

安里巡査は、親族に「集団自決」実行者のいない証言者であり、赴任当時29歳という年齢的にも、村の指導的立場の警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、しかも戦後一貫して沖縄に在住しているのにもかかわらず、地元マスコミで比嘉(安里)さんに取材したものは1人もいないというのも不可解である。

その理由は?

比嘉さんが渡嘉敷島で起きた集団自決の「不都合な真実」を知っていたからである。

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沖縄戦、県外疎開の実体

2023-01-16 04:24:01 | ★改定版集団自決

 

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沖縄の県外疎開の実体

2008-09-23 07:40:51 | ★改定版集団自決

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沖縄左翼が唱える念仏やお題目には、「日本軍は住民を守らなかった」がある。

渡嘉敷島や座間味島の場合、話題になる赤松隊長や梅澤隊長のことを「守備隊長」と記している文があるが、彼らの任務は「特攻」であり、守備の為の装備はされていなかった。

特攻艇マルレによる出撃前を嵐のような艦砲射撃で集中攻撃を受け事実上は、住民を守るどころの騒ぎではなかったことが梅澤隊長の手記からは読み取れる。 

日本軍は住民を守ろうとしても守れなかったというのが実態であろう。

沖縄タイムスや琉球新報の報道を見ると日本軍は住民を守るどころか殺戮するため沖縄にやってきたような印象を受ける。

俳優の今井雅之さんが特攻隊の映画を作製したが、14歳の沖縄の少女から「琉球民族を殺戮した特攻隊を賛美するのですか」といった内容の手紙をもらって驚いたという。(テレビインタビュー)

第1回 常に僕の心の中にあり続けた作品

幸い少女に逢う機会があり、説明したら「誤解していた」と感謝されたという。

まさか学校で、「特攻隊は沖縄人を殺戮の為出撃した」と教えているとは思わないが、

戦艦大和は「沖縄攻撃の為出撃した」という新聞記事が掲載される沖縄では、このような少女が次々出てくるのも不思議ではない。(卒業式で日の丸を引きずり下ろした女子高校生も同じ類)

戦艦大和の特別任務

続・戦艦大和の特別任務★それは沖縄県民の虐殺であった!

沖縄配備の第32軍の中でも沖縄では特に評判の悪い長参謀長が県民の県外疎開に真っ先に動いていたことは前にも書いた。

 

■沖縄ではあまり知られていない「県外疎開」の実体■

第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった県民の県外疎開を閣議決定させるという素早い動きをしていた。
  緊急閣議決定で法的根拠は得たが、県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。今の時代で安易に想像するように、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。
 県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であり、当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。
  当時の沖縄の状況は新聞の扇動報道に乗せられた各民間団体の宣撫活動で巷は沸き立っていた。県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。
  民間人への命令権限の無い第32軍は、県に協力を求め、県は警察の持つ組織力と機動力が適任と考え担当部署を警察部と定めた。
  平和な時代の後知恵で、軍の命令は絶対且つ不可避であった、と主張する勢力があるが、実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全確保のための県外疎開にしても、県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。

■県外疎開が進まなかった理由■
  県外疎開には、いろんな阻害要件が次々発生して、軍の思うようにうまくは実施できなかった。
  その第一は、沖縄の地理的要因であった。 当時の沖縄では、本土他県に行くと言うことは重大事件で、特に疎開の対象が老幼婦女子に限られていたため、家族と別れるくらいだったら一緒に死んだ方がましだという風潮も阻害要因であった。東京から長野に汽車で疎開する学童に比べれば、沖縄の学童が九州各県に海路で疎開することは一大決心を要した。
  次に疎開実施を阻害したのは泉県知事が軍の指示にことごとく反抗し、県外疎開に消極的な態度を示したことである。「公的な立場では言えないが、個人の意見では引き揚げの必要はないと思う」と発言し、県外疎開などせずに済めばこれに越したことは無いといった県内の風潮に拍車をかけていた。(浦崎純著「消えた沖縄県」)
  疎開は不要という空気は、疎開を促進しようとする軍司令部の末端にもその風潮はあった。軍の指令がうまく行きわたらない地方の部隊では、軍が沖縄でがんばっているのにわざわざ疎開などする必要は無い、と疎開実施をぶち壊すような放言をするものもいた。
  遅々としてはかどらなかった疎開が一挙に盛り上がったのは昭和19年10月10日、那覇市が米軍の大空襲で壊滅的打撃を受けてからである。 何事も切羽詰まってからでないと行動を起こさない県民性は昔も今も同じことであった。
  サイパンでは米軍の投降勧告で集められた日本人の老人や子供にガソリンがまかれ火を点けられたり、呼びかけに応じて洞窟から出てきた女性が裸にされ、トラックで運び去られたという証言が記録されている。

  当時の沖縄には南方帰りの県人が多く、大本営がサイパン陥落の直前に県外疎開を準備し始めた状況から、沖縄県民が「サイパンの悲劇」を知っていた事は想像できる。
  沖縄県、陸軍省、内務省などの間で疎開計画を協議した結果、疎開人数は県内の60歳以上と15歳未満の人口(約29万人)の3分の1にあたる10万人、疎開先は宮崎、大分、熊本、佐賀の九州4県と台湾に決まった。
 
■沖縄戦の本質■
  沖縄戦記には軍の側から見た戦略的な「戦史もの」、そして住民の側から見た「証言もの」と、多数の出版物があるが、軍と住民の間に立って「軍への協力と住民の安全確保」という二律背反の命題に挑んだ地方行政側の「戦記」は極めて少ない。
次の引用は本土復帰当時の公使・日本政府沖縄事務所長・岸昌氏が荒井紀雄著『戦さ世の県庁』の序文で沖縄戦の本質を語った文の抜粋である。
<戦争を遂行するために、「戦争」から国民ー非戦闘員を護るために、どのように準備をなし、どのような行動をとるべきか。 平時を前提として制定されている地方制度に何らかの特例を設けるべきか、非常の措置を行うためにどのような組織・権限ーそして特別規定が必要であるか。 すべてこのような問題に直面し、実際に回答を出さざるを得ないもの、それが沖縄県であり、沖縄県で遂行された「戦争」であった。>
  沖縄戦当時、島田叡県知事と共に、県民の安全確保に努力した荒井退造警察部長(現在の県警本部長)の長男の紀雄氏が、父退造氏が軍と住民の間に立つ文官として沖縄戦を戦った様子を、多くの資料・証言を基に記録したのが『戦さ世の県庁』である。 戦火により多くの県政関係の資料が消失・散逸した中で同書は現在望みうる最高の記録と思われる。


■軍司令官vs県知事■
 泉守紀氏が第22代官選沖縄県知事の辞令を受けたのは、昭和18年7月1日のことである。 丁度同じ日付で荒井退造氏も沖縄県警察部長の辞令を受けている。
  
  まだ戦火を受けていない昭和18年の沖縄の夏は、のどかな町の風景とは裏腹に、県庁幹部が一新され、来るべき沖縄戦を予知してか県庁内外に何時にない緊張が走っていた。そんな空気の中、泉新知事は、沖縄防衛の第32軍が翌年3月に沖縄に着任すると、軍との対立を深め、修復不可能なものとなっていく。(野里洋著「汚名」)
  
そして政府は昭和19年7月7日の閣議決定で「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄県の県外疎開を沖縄県に通達したが、泉知事は公然とこれに反対したと言われている。
   当時の沖縄県の状況を称して、戒厳令に近い「合囲地境」の状態であったので軍の命令は不可避であり、県や市町村の命令も軍の命令であるという意見は、泉知事の第32軍への反抗で、軍が県民疎開の実施に苦慮している状況をみれば、それが机上の空論であることが明らかである。
  県民の疎開については、第32軍は法的には直接住民に命令を出せないので県の協力が必須であったが、泉県知事のかたくなな反抗に困り果てた結果、昭和19年1月31日に軍司令官統裁の参謀会議で「沖縄県に戒厳令を布告、行政権を軍司令官が掌握し、知事を指揮下に入れる」と検討したが、実行に移されることはなかった。
■県外疎開に水をかける「街の情報屋」■
  その頃の沖縄県民の県外疎開に対する無関心振りを、当時の那覇警察署僚警部で戦後琉球政府立法院議長を務めた山川泰邦氏は自著『秘録沖縄戦史』(沖縄グラフ社)で次のように述べている。
<だが県民は、襲いかかってくる戦波をひしひしと感じながらも、誰も必勝を疑わず、その上無責任な街の情報屋は、「まさか、沖縄に上陸するようなことはあるまい」と勝手な気炎を吐いたため、これが疎開の実施に水をぶっかけるような結果になった。それに、当時海上は潜水艦が出没して、既に2回にわたり集団疎開船が撃沈され、多数の犠牲者を出したために、「どうせ死ぬなら、海の上で死ぬより、郷里で死んだ方がよい」と疎開の声に耳をかたむけようとしないばかりか、はては疎開を命令で強制された場合のことを心配する始末だった。>
  勇ましい情報を垂れ流し、県民疎開の実施に水をかけていた「街の情報屋」が誰であったかを山川氏は特定していないが、当時の新聞報道やその他の史料から推測すると、県民疎開を発案した軍や協力依頼されていた行政側ではないことは間違いない。 そして決起大会の壇上で抜刀して檄を飛ばしていた「軍人より軍人らしい民間人」と「街の情報屋」の姿がここで重なってくる。 戦後、琉球政府時代になって活躍した著名人の中にも、当時は民間団体の責任者として県民を扇動していた人物が多くいたという。そのような雰囲気では県外疎開などは県外逃亡と見なされ軍の思惑とは裏腹に県外疎開に水をかけていたのだろう。   
  
  ■軍は住民を守ろうとした■
 島田知事は泉知事とは対照的に軍と緊密に協力し県外や県内北部への疎開など県民の安全確保に全力をそそいだ。 後の沖縄県の調べでは県外疎開は昭和19年7月から翌年3月まで延べ187隻の疎開船が学童5,586名を含む6万2千名(疎開者数を8万とする資料もある)を疎開させ、これに合わせて沖縄本島北部への県内疎開は約15万と推定されている。 
  翌年3月の米軍上陸前という重要な時期に県内外の疎開が円滑に行かなかったのが、後の沖縄戦での「軍民混在」という住民巻き添えの悲劇に至った伏線になっている。 
軍を悪と見なす現代の感覚で、軍と県の対立といえば聞こえはよいが、泉知事は、軍の方針の県民疎開に反対し、住民もその風潮に煽られて疎開に必要を感じていなかった。 現在、昭和19年7月7日の閣議決定の記録は確認できないが、同じ日付の陸軍省課長が、「7月7日 課長会報 軍務(課長二宮義清大佐)沖縄軍司令官より国民引揚げの具申あり。本日の閣議で認可するならん」と述べていることから、沖縄県民の県外疎開が7月7日に閣議決定されたことと、それが軍の発議で行われたことは確認できる。(大塚文郎大佐ー陸軍省医事課長ー「備忘録」、「戦さ世の県庁」孫引き)


  「軍は住民を守らなかった」という左翼勢力のスローガンからは想像も出来ないが、昭和19年の夏に沖縄に着任した第32軍の司令官と参謀長は、沖縄が戦地になることを予見し、且つ「県外疎開」の法律の不備を危惧して、大本営の発議により着任前に「閣議決定」に持ち込むという早業を行った上で、後顧の憂いを極力小さくして沖縄に着任していたのである。

                   ◆

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政府主導の「公金横領」■茶番劇!靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって

2022-12-28 12:30:07 | ★改定版集団自決
 

 

 

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログを編集して再掲しています。

今回はこれ。⇒茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって2010-10-31

古い記事の引用なので、新しい読者にとっては理解しにくい部分が予測できる。

例えば証言者としての石原昌家沖国大教授や玉井渡嘉敷村村長など。そして関連する裁判も大江・岩波・集団自決訴訟の他に靖国合祀取消訴訟など。

沖縄戦については再検証の上、いずれ資料集として発刊の予定だが、その前に現在の読者の理解のため関連記事を再掲しよう。

今回は石原教授の致命的証言!援護法申請で2020-08-28に関連する記事。

               ★

 

那覇地裁で沖縄靖国合祀訴訟の判決が出た。

結果は、もちろん原告の敗訴。

だが、常識ある人なら誰でも原告敗訴を予想できた。

さらにこの真っ当な判決に「不当判決」といきり立つ「識者」がいるのも想定できる。

世の中は面白い。(笑)⇒靖国合祀取り消し訴訟不当判決

この裁判は根っこで「集団自決」「援護法」そして「教科書記述」と複雑に絡み合う。 

だが、当日記がブログで取り上げるのは今回が初めてである。

集団自決に関しては、しつこいほど書いている当日記がこれまで避けてきた理由は、きわめて単純。

馬鹿馬鹿しくて論評に値しないからだ。

だが、その馬鹿馬鹿しい裁判も新聞が一面や社会面のトップで曲曲しく報道すると、多くの読者が誤解する。

当然、当日記としては誤解を解かねばならぬ。

それにしても「集団自決訴訟」の当事者ともいえる沖縄タイムスが、この靖国合祀取り取消訴訟について社説を書いていないのは不可解だ。

沖縄タイムスは、この訴訟が「死者の尊厳」の問題にみせながら、実際はイデオロギーのみの茶番劇であることを一番分かっているからではないか。

まあ、社説はしばらく待つとして、この問題で張りきっている琉球新報の社説を引用する。

靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するな

琉球新報社説 l2010年10月28日               

 沖縄戦で肉親を亡くした上、無断で靖国神社に「英霊」として合祀(ごうし)され、精神的苦痛を被ったとして、県内の遺族5人が起こした合祀取り消し訴訟で、那覇地裁は国、靖国神社双方への請求を退け、損害賠償も棄却した。
 今回、原告が問題視したのは、戦争の被害者である肉親が、加害者側に立つ軍人・軍属と同列視されているからだ。判決は、尊い肉親の御霊(みたま)を無関係な宗教団体が勝手に祭ることで当然生じる精神的苦痛に背を向け、非戦に向けて沖縄戦の歴史を正確に刻む営みに対する理解が欠けている。
 
沖縄戦で犠牲になった人たちの意思確認がない無断合祀を追認した上で、神社側の「信教の自由」を認める形の筋違いの司法判断が及ぼす影響は大きい。先例となる大阪地裁判決をほぼ踏襲し、激しい地上戦があった沖縄戦の特殊事情を深く考察した形跡もない。
 判決理由で、平田直人裁判長は、英霊として祭られたことへの原告の嫌悪感も理解できないわけではないとしながら、「合祀によって社会的評価が低下するとは想定できず、遺族の信教の自由の妨害とは認められない」と指摘した
 
国が神社に情報提供したことが合祀につながった点についても、「宗教的な色彩はなく、合祀の一部を構成しているとまでは言えない」と国の責任を否定している。
 判決によると、
靖国神社は援護法と絡んだ国による情報提供に基づき、遺族の同意なしに10人を合祀した。うち6人は避難壕から追い出され、砲弾の雨の中で死を迎えた主婦や2歳の幼児ら一般住民だが、「準軍属」として合祀された。判決はこうした矛盾と非人間性を正当化、追認した。
 遺族の苦痛が法的保護の対象か、権利侵害になるか否かという狭い解釈論にとらわれ、大局を見失ったという印象を抱かざるを得ない。
 
法廷でも証言した石原昌家沖縄国際大名誉教授は「壕から追い出され死亡した住民が壕を提供したとされるなど、沖縄戦の真実を捏造(ねつぞう)した」と強調し、合祀取り消しが沖縄戦の真実を正す手段と指摘してきた。
 事実と違う合祀に伴う遺族の二重の苦しみは救済されず、原告は控訴をすぐ決断した。控訴審は沖縄戦の本質に迫りつつ、被害者を戦争に馳せ参じた英霊として祭る無神経さを常識で問う曇りのない裁きにしてもらいたい。

                       ◇

「集団自決訴訟」と「靖国訴訟」では真逆のことを平気で主張する石原昌家沖国大名誉教授と「援護金」について2、3述べてみたい。

 

■政府主導の「公金横領」■

原告は、肉親が英霊として靖国に祭られているのは精神的苦痛だというが、戦死した親の墓を暴いて遺骨を靖国神社に持ち込んだわけでもなければ、また合祀して皆で英霊を侮辱し貶めているわけでもない。

それどころか毎日多くの参拝者が手を合わせて戦死者の鎮魂を祈っているのではないか。

それが精神的に我慢できないというのなら、せめて金銭面では身辺をきれいにしてから言うべきではないか。

まず靖国に合祀された根拠となる「援護金の受け取り」を拒否し、過去に受け取った総額を国に叩き返してから、大口を叩くべきではないか。

英霊としての援護金はしっかりもらっていながら、その一方で精神的苦痛クソもないだろうが。

軍人でもない一般住民が、沖縄に限って靖国に合祀さたれた経緯は、戦後沖縄の市町村が援護法の一般人への適用を熱心に国に働きかけ、それに同情した国側が「拡大解釈」で支給するために軍人扱いしたことが原因である。 その過程で2歳の子供も軍人あるいは軍属として靖国神社に連絡が行き、それが合祀に繋がった。

従って何とか「援護法」を沖縄の民間人に適用したいという国側の善意が、「軍への協力」や「軍の命令」を考え出させたのだ。

現在の弛みきった厚生省官僚達と違って、当時の厚生省援護課には、担当窓口職員にわざわざ沖縄出身者を配属し、沖縄の声を出来るだけ聞くという心優しき官僚がいた。 これは後述のタイムス記事から窺い知ることが出来る。

石原教授は、援護法について「靖国訴訟」では、「戦闘行為が不可能な2歳児が軍属扱いで合祀されるのは、国家による歴史捏造だ」と主張している。 つまり国が援護金を沖縄の民間人に支給するため民間人が「壕提供」や「食料提供」等を軍の命令・強制で行ったと申請書の作成を指導したというのだ。これらは自らの意思で行ったのでははなく、国が指導した書類上の方便であるための事実ではない。 従ってで歴史捏造という論法だ。

ところがこの人物、「集団自決訴訟」では「集団自決」は軍の命令だと主張している。

一方では国が援護金支給の口実にするため「軍の命令」を捏造したと言いながら、その同じ口で「軍の命令」で集団自決をしたと主張する。

こんないい加減な人物が沖縄の新聞では「識者」として意見を吐くので事情を知らない読者は皆騙されてしまう。

「軍への協力」「軍命による行為」が書類上に記載されなければ、遺族は「擁護法」で救済されなかったのだ。

そこに国側の「善意」の思惑が働き、「援護法」が適用されるに文章を改ざんしてまで救済の道を開いた。 これがが事実である。

ところが石原教授は、この事情を一番良く知る人物でありながら、「靖国訴訟」では「国が歴史を捏造した」と原告側の応援団になり、その一方で「集団自決訴訟」では、国側が自決命令と方便を使った事実には目を閉ざし「集団自決は軍の命令だ」と被告側の応援団にまわるような二枚舌の人物である。

そこに教科書問題が絡むと石原教授はさらに、教科書にも「残虐非道な日本軍」と記述しなければならないと主張する。 

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

言葉を変えれば当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を横領したと言われても仕方のない強引な処理であった。

従って靖国に合祀された戦死者の遺族が「合祀取り消し」を訴える裁判なsど馬鹿馬鹿しくて付き合ってはおれないのである。

ただ、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

原告は、控訴をするというが、援護金の受け取りを拒否してからの控訴でなければ、恥の上塗りになるだけだ。

 

【おまけ】

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

【おまけ2】

政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。

その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大教授の論文はこれ。

政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

語るに落ちたとはこのことだが、石原教授は「集団自決」という言葉さえ「強制集団死」とすべきだと主張している。

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集団自決、嘘つき教師が嘘の上塗りを出版!

2022-12-27 08:15:30 | ★改定版集団自決

集団自決、嘘つき教師が嘘の上塗りを出版!

2020-08-23 07:12:54 | ★改定版集団自決

 

きょう(23日)の沖縄タイムス社会面

宮城恒彦さん死去 86歳

座間味「集団自決」証言

               ★

沖縄タイムス+プラス ニュース

座間味「集団自決」の証言者 宮城恒彦さん死去 86歳

2020年8月23日 09:19

 沖縄戦中、座間味村で起きた「集団自決(強制集団死)」を生き延びた宮城恒彦(みやぎ・つねひこ)さんが21日午前2時10分、肺炎のため亡くなった。86歳。家族によると2週間ほど前から体調を崩し、入院していた。葬儀は22日、豊見城市の自宅で近親者のみで執り行われた。併せて初七日も繰り上げ法要で行った。

戦争体験を語る宮城恒彦さん=3月17日、豊見城市

 戦後は小学校の校長を務めた。ハルさんを壕に残したことを悔やんでいたという母ウタさんが亡くなったのをきっかけに、88年から戦争体験者への聞き取りを始め、自費で証言集28冊を発行した。

 告別式は、三七日(みなんか)の9月10日、もしくは五七日(いちなんか)の9月24日に開かれる予定。喪主は妻の美代子(みよこ)さん

                ★

戦後75年の節目に沖縄戦の語り部が他界するのは残念。

ご冥福をお祈りする。

だが、宮城恒彦氏のように嘘の証言をする方に対しては、歴史の真実として反証しておく必要がある。

過去ブログをサルベージし集団自決、嘘つき教師が嘘の上塗りを出版!2011-05-26を編集して再掲します。

                ★

「集団自決」軍命を記録 座間味村の戦争体験記第23号発行

2011年5月24日      

「人を狂気に陥れる戦争を二度と起こしてはいけない」。座間味村民の戦争体験を23年間発行してきた宮城恒彦さん=10日、豊見城市渡嘉敷の自宅
 
  【豊見城】沖縄戦中の1945年3月26日、座間味村で起きた「集団自決」(強制集団死)の生き残り、宮城恒彦さん(77)=同村出身、豊見城市渡嘉敷在住=が23年間続けてきた沖縄戦体験記発行に一区切りつけた。同村住民の戦争体験を収集し、最終号の第23号を3月に発行。宮城さんは「集団自決」で姉の宮平ハルさん(当時19歳)を失った。「最も悲惨な目に遭うのは住民だ。人を狂気に陥れる戦争を二度と起こしてはいけない」との思いに突き動かされ、33人の証言を刻んできた。
 最終号には、軍命による「集団自決」を明確に示す宮平春子さん(84)の証言を収録した。当時座間味村の助役だった兄、故・宮里盛秀さんが「軍の命令で、潔く玉砕しなさいと言われているから」と言った言葉が記されている。
 宮城さんの姉ハルさんの最期を見た故・宮里美恵子さん(享年85歳)の証言も記録できたことから「一段落ついた」と体験記に終止符を打った。
 宮城さんは戦後、ハルさんを失ったことを悔やみ、自分を責め続けた母親・ウタさん(享年91歳)を前に、体験を語れなかったが、ウタさんの他界後、初めて語った。座間味村史にある想像を絶する体験の多さに衝撃を受けた。中学校で国語教師をしていたため休みを利用し、戦争体験者を訪ね聞き取りを重ねた。
 89年に1号を発行した。多くの住民が語りたがらず、古傷に触れるようでつらかった。「方言で質問すると返してくれた。体験者でないと分からない複雑な思い、惨めさがある」。険しい表情で振り返る。
 体験記は毎回、1500冊発行し座間味村内の小中学校や過去の赴任校などに置いている。「文字も大きく、行間を広げ読みやすく工夫した。平和教育にぜひ活用してほしい」。体験記が“語り部”として受け継がれるよう強く願っている。

            ☆

座間味島の集団自決を命令したのは軍人より軍人らしい言動で、住民から畏怖されていた宮里盛秀助役だと言われている。

だが、これを覆す重要証人が盛秀氏の実の妹の宮平春子氏というのも不可解である。

肉親の証言は信憑性に欠けるという常識が、ここでは通用しないのである。

ここに登場する宮城恒彦氏は、大江・岩波集団自決訴訟の最高裁判断が出た翌日4月23日の沖縄タイムスで「これ(関与)は『命令』そものだった」というデタラメなコメントを吐いた元教員である。

宮城氏の発言はもちろん間違いであり、最高裁が「関与=命令」と確定したけではない。

宮城氏は軍人より軍人らしい「参謀長」と呼ばれた教頭が登場する『潮だまりの魚』の著者でもあるが、氏の発言ががいかにデタラメであるかは以下に引用の沖縄タイムス記事を読めば明白である。

参考⇒証言集『潮だまりの魚』に見る守備隊長の実像

沖縄タイムス 2008年1月31日(木)  
 
 悲劇の島から史実訴え/座間味村が証言集

 座間味村教育委員会が沖縄戦で「集団自決(強制集団死)」を体験した住民らの証言などをまとめた「戦世を語りつぐ 座間味村平和学習ガイドブック」を発刊した。制作を委託された編集委員会が三十日、同村教委に引き渡した。沖縄戦の「集団自決」に対する日本軍の強制を示す記述を文部科学省が削除させた教科書検定問題が起きる中、「座間味での沖縄戦の真実を伝え続けよう」と編集作業は進められた。
 編集委員会は二〇〇六年十二月に発足し、同村で「集団自決」を体験した宮城恒彦さん(74)が委員長を務めた。沖縄戦を体験していない世代の編集委員が、体験者数十人から聞き取りをした。


改ざんNO


 同ガイドブックでは、座間味島の「集団自決」を「三月二十六日、米兵は大挙して住民のいる壕の近くまでやってきました。それを知った住民はパニック状態におちいり、(中略)死の道へと急いだのです」と書く。宮城さんは「抑えた表現にしたが、住民を『パニック』に追い込んだのは、日本軍の強制だったことは明白だ」と説明する。

 「『敵の手にとられないように玉砕するよう、軍より命令があった』と当時、村助役だった兄が父に話すのを聞いた」との宮平春子さんの証言を収録し、編集後記には「文部科学省による『高校の歴史教科書改ざん』に対する答えは、多くの証言者の声やこの冊子に記載された内容が証明しています」と記した。


改訂も検討


 編集委員の一人、宮里芳和さん(59)は「『軍から玉砕命令があった』との証言は複数あり、日本兵側からも軍命を示す証拠や証言が新たに得られ始めた」といい、同ガイドブックの改訂時に盛り込みたい考えだ。

 二千部を発刊した。修学旅行生の平和学習などに活用し、希望者には販売する予定。問い合わせは同村教委、電話098(987)2153へ。

  宮城恒彦氏                                            ◇

 写真

 >「三月二十六日、米兵は大挙して住民のいる壕の近くまでやってきました。それを知った住民はパニック状態におちいり、(中略)死の道へと急いだのです・・・抑えた表現にしたが、住民を『パニック』に追い込んだのは、日本軍の強制だったことは明白だ」

 

米軍が大挙して壕の近くまでやって来て中の住民がパニックに陥ったのなら、集団自決の原因は米軍であることは小学生でもわかることだ

このお方本当に国語の先生だったのだろうか。

それを「住民を『パニック』に追い込んだのは日本軍の強制だ」とは、まるでヤクザの言掛かりではないのか。

最高裁判断でさえも、「関与=軍命」と自分の都合の良いようにに決め付ける人物なのである。

このような理の通らぬ話がいかにも「正論」であるかのように、もっともらしく掲載される・・・これが沖縄タイムスの正体である。

■似たもの同士の宮城恒彦と宮城晴美■

>改訂も検討

宮城恒彦氏は、当初は自著で「軍命や強制はない」という内容で出版しておきながら、後で「言葉としての命令だけでなく、強要や誘導、目に見えない命令があった」といった苦し紛れの弁明で証言を変更した。

あげくの果てに「改定も検討」とは『母の遺したもの』が「軍命なし派」の証拠として係争中の裁判の原告側証拠となると、改訂版を出版をした宮城晴美氏のケースと全く同じパターンである。

おっと、もう1人『沖縄戦と民衆』を反対派の証拠に使われた林博史関東学院大学教授の例も、自著の内容と発言が違うという点では似たようなものだ。

宮城恒彦氏:
「米兵が大挙壕の近くに来て住民はパニックになり死の道を急いだが、住民のパニックも軍の強制である」

◆宮城晴美氏:
「母が言及している時間帯における梅澤隊長の命令が無かったとしても、以外の時間で梅澤さんの命令があったかも知れず、梅澤さんの責任はあると思うし、そもそも軍としての命令はあったと思う」(平成19年7月27日大阪地裁証人尋問)

                     ◇

【おまけ】

 読者の安仁屋正昭さんが宮城氏の人物像についてコメントされています

 5月13日

私の手元に平成9年5月発行の「しおだまりの魚たち」という小冊子があります。
この著者は本日記の「軍の関与=軍の強制=軍の命令」という明らかな間違いを読者に信じ込ませようとしている宮城恒彦氏です。
彼の経歴には、校長・島尻教育事務所所長が記されており、それなりの見識と社会に対する責任がある人物であることがわかります。

この冊子には、座間味の集団自決に遭遇した自身と家族、並びに村人や当時最も尊敬されていた校長先生夫妻の自決の様子が書かれています。
勿論、忠魂碑前の事も。
しかし、軍の命令によって自決をしたなどという最も核心的な事は何処にも書かれていません。
むしろ、迫りくる米軍の恐怖により、自分たちで相談して決した事になっています。

2008年6月20日に宜野湾市の志真志小学校にいた革マル派の宮城じゅんという教師が幼い子供達に集団自決の劇を演じさせ、問題となった時のことでした。
この宮城恒彦氏は会場となった体育館まで遠いところから出て来て、一番後ろで壁にもたれながら見ていました。

元教育事務所長といえば、所管する百数十校を指導とする総責任者だったはずです。
集団自決という最も悲惨な事件を子供達に演じさせるという暴挙に、何もせず傍観し、挙句の果ては 関与を命令と誤認させる原稿まで書くというのであれば、「嘘つき・世を惑わす者」として、何れ裁かれなければならない思います。

左翼思想を信じ込み、一方的な情報を与えられて活動している者達より、この宮城恒彦氏の方が罪が深いと言わなければならないと思います。

【おまけ】

証言集『潮だまりの魚』に見る守備隊長の実像 

2007-07-12 10:09:28 | ★集団自決

《ひと》沖縄戦「慰霊の日」に体験記を出す

2004年06月23日

写真

 

宮城恒彦さん

 沖縄戦で米軍が最初に上陸した座間味(ざまみ)島で45年3月26日に起きた「集団自決」の生き残りだ。当時は11歳。母親と姉弟で逃げ込んだ壕(ごう)の中で手榴弾(しゅりゅうだん)が爆発し、19歳の姉と担任の教師が亡くなった。

 「戦後、母が戦争を語ることはなかった。毎年3月になると、思い出したように嘆息した」。書き始めたのは、母親が他界した翌88年から。「自決」で住民173人が犠牲になった。自分だけでなく、島の人にも聞いてまとめた。

 「慰霊の日」に合わせて出してきた体験記は今年、16冊目になった。毎回、1千部以上を発行し、学校などに配っている。さらに、23日には、東京の出版社から過去の15冊をまとめた「潮だまりの魚たち~沖縄・座間味島の戦世(いくさゆー)」(クリエイティブ21)を出版する。

 元小学校長。一番苦しんだのは「日の丸・君が代」問題。惨劇を招いた戦前の教育が頭をもたげたが、個人の意見も言えず、公私のはざまで悩んだ。「自決の時、校長が合図をし、女性教師が手榴弾を投げた」。教師になったのも、あの時の体験で教育の大切さを知ったからだという。

 講演をよく頼まれるが、全部断る。10年前に一度だけ引き受けたが、「自決」の場面で胸が詰まり、しばらくの間、言葉が出なかった。

 「若い人にどう伝えるかは難しい。元気なうちはとにかく聞き書きを続けたい」

(文・大矢雅弘、写真・水野義則) 朝日新聞

http://mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000119999991201

                    ◇

    ■証言者は「平和教育者」■

琉球新報の「沖縄戦特集<史実封殺> 届かぬ沖縄の心④」で証言をした宮城恒彦さん。

彼はこれまで何度か朝日の記事でも紹介されている。

朝日が紹介する『潮だまりの魚たち』(2004年6月発行)は、座間味島における著者宮城恒彦ほか多数の戦争体験者の証言集である。

著者自身が「集団自決」の生き残りであり、集団自決に触れられている箇所も多数ある。

が、同書では集団自決に関する梅沢命令あるいは軍命令には、伝聞も含め、全く触れられていない。

座間味島出身で集団自決の生き残りの証言集なら、当然これまでのマスコミが報じる集団自決を命じる“悪鬼”梅沢守備隊長を期待するのだが、そのような記述は一行も無い。

    ■「潮だまりの魚」に見る“悪鬼梅沢”と梅沢隊長の落差■

それどころか、集団自決発生の前後のエピソードとして、梅沢隊長が村民の女性らに山への避難を命じた記述(163頁)や、

あるいは戦闘により重傷を負った日本兵(少尉)が他の兵に対して、村の娘たちを無事親元に送り届けるよう指示した記述(167頁)などの、

軍による集団自決命令と完全に矛盾する人間的エピソードが、いくつも証言として載録されている。

これらの記述は、従来マスコミに流布している残虐非道な「悪鬼梅沢」とは全くかけ離れた普通の青年の行動が伺える。

これも、著者が、自身を含めた体験者の証言を丁寧に確認、記録した結果なのであろう。

このように、近年著される書籍においては、緻密な調査や史実の検証により、慶良間列島における集団自決については、部隊長命令あるいは軍命令によるものとはされないのが一般なのである。

より厳格に言うならば、学術的には軍命令で集団自決したという根拠は極めて薄いということになる。 

 

    ■真実と「平和教育」の狭間

その一方、元校長の宮城さんは「平和教育」との板ばさみなのか、

「軍命令」に関しては苦しい証言をしている。

<言葉としての命令だけでなく、強要や誘導、目に見えない命令があった>

「軍が直接命令をした」と言わずに「目に見えない命令があった」、

当時11歳の少年が「直接命令する軍人の姿」は理解できても、

「目に見えない命令」という抽象的な意味を理解できたとは思えない。

結局、宮城さんは多くの証言で「軍が命令して集団自決した」とは一言も証言していない。

>「自決の時、校長が合図をし、女性教師が手榴弾を投げた」

琉球新報特集でも次のように証言している。

<1945年3月26日の朝、宮城さんの家族が隠れていた壕に、気も狂わんばかりに逃げ込んできた女性が米軍上陸の様子を生々しく伝えた。  この言葉を引き金に「集団自決」が起こった>

いずれの証言も生々しい証言ではあるが、梅沢守備隊長の命令で自決したと決め付けるには根拠が乏しい。

せいぜい「目に見えない命令」とするのが精一杯だったのでしょう。

真実の証言とマスコミの煽動で揺れ動く心のあやが読み取れる証言だ。


    ■「歴史は政治で改ざんするものではない!」■

沖縄タイムスが異常な執念で同じ内容の社説を書き続けている。

何度議会を煽って、何度議決を繰り返しても「歴史の改ざんは出来ない」。

以下の社説のタイトルをそっくりお返ししたい。

社説【「検定撤回」再可決】歴史の改ざんを許すな (7月11日)

同じく琉球新報も7/11の夕刊は一面トップ、社会面トップの大見出しで「史実のわい曲」と来た。

「主体隠し」史実わい曲 教育関係者ら憤り  (7/11 9:42)

「歴史の改ざん」も「史実のわい曲」も沖縄の新聞ではすっかり手垢に塗れて陳腐な単語になり果ててしまったようだ。

これだけ連日紙面を使って大騒ぎするのなら、主張の対立する専門家、学者を総動員して紙面で大論争をする企画を組むのが新聞の本分だとおもうのだが、

沖縄の新聞は既に報道機関としての使命を忘れ去り、サヨク勢力のプロパガンダをその仕事としている。

その結果、「不都合な事実」は徹底的封殺し、偏った「市民運動」の走狗と成り果てている。

 

   ■沖縄の新聞に捧げる「二枚舌」(ダブル・トーク)の称号■

自らの主張に反する数々の証拠や証言は紙面から封殺する一方、都合の良い「証言者」だけの主張を連日取り上げ続ける。

学術的議論・検証を避けて、自分たちの主張だけは「紛れもない事実」と根拠無しに連日騒ぎ続ける。

「政治が検定に介入してはならない」と主張する一方、県議会の議決(政治の主張)が受け入れられるまでは検定に介入し続ける。

これだけで「二枚舌」の栄誉を受ける資格は充分だろう。

「歴史の改ざん」と「史実のわい曲」は鏡に映る己が姿ではないか。

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沖縄タイムスが黙殺する、渡嘉敷島玉井村長の手記、

2022-12-13 12:02:49 | ★改定版集団自決

 

プロフィール画像

 

玉井村長の手記、沖縄タイムスが報じない2008-09-14

 

渡嘉敷島・死線を越えた人たちの再会ー「集団自決」問題で騒いでいるのは関係ない人たち。

 沖縄戦の集団自決問題でクローズアップされた渡嘉敷島。

昭和45年(1970年)、日本軍の責任者であった赤松元大尉は渡嘉敷村から慰霊祭のスケジュールを受け取り、招待の打診を受けた。そして赤松元大尉は出席の意向を伝え、3月26日に那覇に到着した。そこで赤松元大尉は大ブーイングを浴る。

「赤松帰れ!」

「人殺し帰れ!」

 そして赤松元大尉は村の人々とともにその場を後にした。つまり、赤松元大尉を非難しているのは当時の軍人、島民ではなく、全く別の人たち、つまり反日サヨクの組合員たちだった

赤松元大尉は残念ながら那覇で足止めを食い、渡嘉敷島にわたることができなかった。赤松隊に所属していた生き残り将兵十三人と遺族が渡嘉敷島に渡り、慰霊祭に出席する。

 同行した皆本元少尉の話。「島の方がたは大変残念がっていましたね。『赤松さんにぜひ来てほしかった』という声を何度も聞いております。のちに関西で行われた会合では、当時の玉井村長さんがわざわざ来てくれました」

慰霊祭の様子を琉球新報と沖縄タイムスが次のように書いている。



琉球新報(三月二十九日付)
「この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、報道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。赤松元大尉が本島まで来ていることを知らされても『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない』と言った言葉が返ってくるだけ。本島で繰り広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二十五回忌の慰霊祭-」

沖縄タイムス(三月三十日付)
「五十年配の人たちは男女の別なく、生き残り将兵等と手を取り合った。炊事班に借り出され、赤松隊で働いていたという夫人などは、顔を覚えていた何人かをつかまえ、当時はお世話になりました、と涙を流さんばかりだった」

 慰霊祭のあとの「第三戦隊戦友会村民懇親会」では村のご夫人や娘さんが島の踊りを披露して歓迎し、出席した皆本元少尉は一緒に踊った。

手元の本にそのときの写真が一枚載っている。「集団自決は強制だった」という人たちは、この写真を見て何というのだろう。「死ね」と言った人たちを歓迎するわけないだろう

島に渡れなかった赤松元大尉はモーターボートを借りて、渡嘉敷島沖まできて、島へ向けて手旗信号で何かを合図している。おそらく元部下が島にいて元隊長の意を汲むことになっていたのだろう。あの日あの時あの場所にいた死線を越えた人たち同士にしかわからない感情が手旗信号で伝わったと想像する。

平成19年(2007年)、沖縄で集団自決軍命令の教科書記述削除に抗議する、いわゆる11万人集会(実際は2万人弱)に参加した渡嘉敷村の人はゼロである。

                  ◆

「沖縄タイムス史観」でいえば、渡嘉敷島の戦隊長は「鬼の赤松」であり、当時駐屯していた軍人は「住民を死に追いやった島の仇である」ということになるだろうが、実際は報道とは異なり、島の遺族会と旧軍人との交流は戦後ずっと続いている。

大江健三郎氏が創り上げた「島の慰霊祭に参加の為那覇空港に降りた赤松元隊長を“島の人々”が追い返した」といった神話が、島の人々にとっては、不本意な出来事であり、「故赤松隊長には気の毒なことだった」という気持ちが本音であった。

沖縄タイムスが決して報じることない、赤松氏が追い返された当時の玉井渡嘉敷村長の手記を入手したので全文引用する。

地元在住の重要証言者であるにも関わらず沖縄タイムスが一度も取材もしなかった知念元少尉と遺族会との交流も記されている。(取材もされずに知念少尉の「発言」は『鉄の暴風』には捏造されて記載されている)

沖縄タイムス史観に従えば赤松隊長の副官であった知念元少尉は遺族会の憎むべき仇のはずだが・・・。

取材されない重要証人 副官知念少尉の証言

マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

 

沖縄に住んでいてもタイムス等の新聞報道に汚染されると、渡嘉敷村民が赤松隊長にどのような心情を抱いていたかについては、ミスリードされ結果として誤解されてしまう。

玉井村長が抱いていた赤松隊長に抱いていた心情を、沖縄タイムスは決して記事にすることはないだろうし、下記の玉井村長の手記を記事として報道することも決してない。

                    ◇

終戦50周年祈念「いそとせ」沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行 に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想

遺族会発足当時を想ふ     渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八


 戦後50年の節目を迎えることになった。想えば半世紀の長い年月であるが何故かそんなに時が流れた感がしない。戦災で焼失破壊された自然や物的なものは年と共に逐次その姿を取り戻し復元されつつあるが、ただ一つ取り戻すことのできない尊い人の命がある。私達は常に心の奥に犠牲になった肉親や同胞を弔い慰める気持ちがあるため時の流れを感じないかも知れない。
 昭和22年復員して帰って見ると島は過去の姿はなく、生き残った村民は自失呆然で自給自足もままならぬ状況であった。
 焼け残った住宅の補修や仮設住宅の設置に追われ乍らも何かしら足が地につかずの感がしてならない、村を復興するには先ず何より、村民に心の安らぎを与える途を講ずる必要を痛感し戦没者の慰霊供養を最優先すべきであることを決し、慰霊碑の建立をすることになった。
 建立場所を西山の集団自決現場近くに設定したが、現地はその当時、機動力が使用できる場所でなく、すべて人力で搬送しなければならない状況にあり、いろいろ検討の結果これを実現するには肉親を失った方々が組織をつくり、率先して村当局と協力し、全村民への奉仕を呼びかけるため、はじめて遺族会が結成された。
 学童をはじめ全村民の協力を得ていよいよ建立を始めたが、現場に辿り着く道らしい道がなく、天に昇るような険しいけもの道を海岸から砂や砂利を擔ぎ頭に乗せ、各自体力に応じて搬送したことは孤立した島で共に死線を越えた人々の固い絆があってこそ実現できたと思ふのである。
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。
 西山の山頂に建てられた慰霊塔(白玉之塔)には軍人、軍属、防衛隊、一般住民を含め430余柱が合祀され、毎年3月28日、集団自決の日を村の慰霊の日として行事が行われてきたが、昭和34年予期しないことにこの地一帯がホークミサイル基地として接収された為に塔への出入りが自由にできない状況となり移設を余儀なくされた。
 移設場所を港の北側、部落を一眺する丘に選定し、移設費用全額米軍負担として、昭和35年に移設を完了し現在に至っている。
 
渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるみみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。
 昨年(平成6年3月28日)数え年による50回忌の慰霊行事を実施した。村民や遺族の他本土から戦友会員100余名参加して盛大に行われたその状況が、NHKのニュースで全国に放映されたことは最も印象に残ることである。
 50年の歳月は、戦争の傷跡を埋め尽くし、島の何処を眺めても戦争と直接つながるものは見ることができない。部落を見下ろす丘に戦没者の芳名を刻した白玉之塔が建っているのみである。
 戦時中谷間の避難小屋で生まれた戦争を知らない子が、現在村の指導者として活躍している姿を見るとき、時の流れと世代が変わった実感が湧いてくる。
遺族会も高齢化と共に会員が減少し運営もきびしい状況にあるが、何としても維持存続し戦争の悲惨を後世に語り継がねばならない。慰霊の塔の維持管理、慰霊事業はすべて村主導で行われているので、遺族会としても村の平和行政の推進に積極的に協力して行きたい。
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。村遺族会としてもその厚意を有り難く受け、戦争の犠牲を無にしないよう、またこれを契機に会の再建をして行く決意を新たにしている。
 かっては玉砕場(集団自決跡地)又は基地(ホークミサイル基地)と呼ばれた西山の頂上は、沖縄の本土復帰を記念して設立された「国立沖縄生年の家」があり、戦争を知らない全国から集ふ青少年が自然を満喫しながら研修に励んでいる姿を見るとき、平和の尊さをしみじみ感ずるのである。

注 1.西山は北山のこと。
  2.玉井喜八…1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没
  3.「国立沖縄生年の家」…現在の「国立沖縄青少年交流の家」
  4.句点、読点は適宜補った。

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集団自決、「もうやめなさい!」 パニックに瀕した長老たちの悲劇

2022-12-13 11:13:03 | ★改定版集団自決
 

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログ「もうやめなさい!」 パニックに瀕した長老たちの悲劇2008-07-14 

を一部編集して再掲します。

               ★

集団自決を決めたのは、長老たちの咄嗟の判断だった。

昭和61年沖縄で開催された「海邦国体」は、全国1巡目の最後の国体であった。

その翌年の昭和62年、2巡目のトップとして「京都国体」開催された。

前年の沖縄国体の熱がまだ覚めやらぬ沖縄の老人会グループが郷土の選手団の応援に京都国体を訪れた。

その中の一人に座間味島の戦争体験者の長老がいた。

長老は、戦時中座間味島に駐屯していた旧軍人を訪ね、懐かしい昔話に花を咲かせた。

そのときの長老の談話が聞き取りされている。

「昭和19年の11月3日か12月8日のこと、(日付がどちらかは不明確)那覇市の護国神社で決起大会があり、そこで在郷軍人(沖縄出身の武勲者)たちが主となって、県民鼓舞の大演説をぶち上げた。 中でも印象に残ったのが直前まで那覇市長を勤めていた當間重剛氏は演壇で日本刀を振りかざし、『米軍が来たら、戦国時代の落城と同じ、女子供は自決させるべし』と演説をし、『決議』となり、それを参加していた座間味村三役がそれを帰島後、村民に伝えた」

座間味島に駐屯していた軍人たちはこの民間主導の決起大会には参加しておらず、この事実も戦後40数年を経ってから京都国体に応援に来ていた島の長老から初めて聞かされた事実だったのだ。

 ちなみに抜刀して大演説した當間重剛氏とは戦後、米軍民政府に琉球政府の主席に任命された人物だ。

確認のため昭和19年の11月3日前後と、12月8日前後の「沖縄新報」を調べてみたら、11月3日前後の新聞自体が県立図書館などには保存されていなかたが、12月8日付けの新聞は保存されていた。

米軍が座間味、渡嘉敷両島に殺到して猛攻撃を開始する約二ヶ月前の「沖縄新報」(昭和19年12月8日)に次のような記事がある。

けふ大詔奉戴日

軍民一如  叡慮に応え奉らん

一人十殺の闘魂

布かう滅敵待機の陣

戦時の新聞なので見出しと記事がやたらと勇ましいのは何処の新聞も同じだが、沖縄新報の見出しによると、特に昭和19年の大詔奉戴日は10月10日の那覇大空襲の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各団体が主催して沖縄各地で関連行事が行われた様子が報じられている。

ちなみに大詔奉戴日とは日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことをいう。

真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。

そして、同記事では「鬼畜米英」についても各界の体験者の談話を交えて、次のような大見出しを使っている。

米獣を衝く  暴戻と物量の敵を撃て

お題目で獣性偽装

野望達成で手段選ばぬ

昔も今も新聞が国民を扇動するのは同じこと。新聞が舞い上がって県民を鼓舞しているのが分かる記事だが、慶良間島からも県庁で行われた「大詔奉戴日」式典には島のリーダーたちが参加している。

村長を始め村のリーダーたちはこの雰囲気に煽られて、島に帰った後数ヶ月で目前に迫った米軍上陸にパニックを起こし判断を誤ったのではないのか。

島のリーダーたちにとって、「鬼畜米英」の話は単なる新聞記事の見出しだけではない。その数ヶ月まえの7月ににサイパン陥落の際、鬼畜米兵から逃れた多くの日本人が、崖から身を投げた「集団自決」があり、その大部分は慶良間出身の沖縄県人であったという。

                  ◇

「集団自決は軍の居た所にのみ発生した」という「軍命あり派」の主張は軍人がいなかった読谷村チビチリガマの集団自決やその他の例で否定されている。

集団自決実行の分岐点は避難時のグループリーダーの判断の如何だった。

自決実行の間一髪、子供の泣き声で我に返ったリーダーの一瞬の判断で集団自決を免れたグループ。

その目撃談を紹介しよう。

座間味国民学校上級生(今の中学2年生)の宮里米子氏の体験談である

忠魂碑の前に集まった宮里米子氏の家族は敵の砲弾を受けて逃げ惑う。

<『潮だまりの魚たち』クリエイティブ21刊より引用

轟く艦砲の恐怖と寒さに震えながら、米子の家族は避難所を探して近くの山を目指して歩いていきました。 丘の斜面を登っている途中、砲弾のうなり声の合間から、ひそひそと人の声がもれてくるのに気がつきました。話がよく聞き取れないので、敵か見方かはっきり分かりません。おそるおそる声の方に近づいていきました。そして気づかれないように、雑木の間からのぞいてみました。すると、月明かりの下でひとつの家族が寄り添っているのが目に止まりました。年寄りと子供たちのようでした。うつむいた人たちの髪に雲間からもれてくる月が淡くさしています。 そしてすぐ側に銃を持った一人の兵隊が立っていました。米子は「どうするんだろう」と、息を殺して見ていました。長い沈黙をやぶったのは、群れの中の男性の悲壮な声でした。

「トー、ナマヤシガ(さー!今だよ)」

するとその日本兵はおもむろに家族の方に銃を構えました。腰には弾丸を詰めたベルトが重そうに巻かれています。銃身が月影に鈍く光ります。引き金に指をかけた時、一人の子が緊張に耐えられなくなったのか、突然わめき出しました。その瞬間、兵隊の指が引き金から離れました。泣き出した子どもは抱きしめている母親の両腕から抜け出ようと、もがきます。 母親も泣き声でさとしながら必死になって止めています。突然、この親子の姿を見ていたおばぁさんらしい人が、銃を向けていた兵を止めました。

「ナー、シムサ、シムサ(もう止めなさい、止めなさい)」

兵隊は間をおいて、銃を降ろしました。そして、その家族から目を背けるように、こちらを向きました。兵隊の姿をしていたのは、何と村役場の職員一人でした。>(『潮だまりの魚たち』クリエイティブ21刊、P149、150)

生きるか死ぬかの緊迫の瞬間。この家族の生死を分けた分岐点は「軍命令の有無」ではなく、その家族のリーダーの判断だった。

そのリーダーの判断に従った村役場職員は、銃の引き金から指を離した。

ところがこの哀れな村役場職員、別の壕で自決して果ててしまう

<息も絶え絶えに着いたところは産業組合の壕でした。 そこは村の三役などの避難所で、書類や食料なども保管されています。村で一番大きな防空壕でした。そこにはちょうど誰もいません。ほっとした疲れがどっと押し寄せてきて、米子の家族はいつの間にか深い眠りに落ちていきました。「新神里の家族は出てください。新神里の家族は出てください。ここは役場の家族が入ります。出てください」  何度もそう繰り返されて目が覚めました。 その声の主を見ると、先程、銃を構えていたあの役場の男の人でした。 当時の役場の職員といったら、とても怖い存在だったので、米子たちは何も言わずに、素直に従うしかありませんでした。(略)米子たちが出た後、役場職員の家族を中心に大勢の人たちが、その壕の「集団自決」をしたのです。生き残った者は一人もいませんでした。>(p151、152)

村役場の職員は軍人より怖い人が多かったという証言があるが、助役が腰には弾薬帯を巻いて三八銃を持ち歩いていたという証言と役場には常に2~3丁の三八銃があったという証言から、座間味島の助役が、渡嘉敷島の金城兄弟のような役割りで銃で自決の「手助け」をして回ったことも推測できる。

>「トー、ナマヤシガ(さー!今だよ)」

>「ナー、シムサ、シムサ(もう止めなさい、止めなさい)」

いずれもグループリーダーのとっさの判断である。

「軍命の有無」なんて彼らにとってはどうでもよかったのだ。

繰り返し述べよう。

野生の動物でも人間でも、グループのリーダーはパニックに瀕すると往々にして判断を過つ。

 

ここにもパニックで判断を誤った長老(リーダー)の悲しい話がある。

子供を殺し自分は生き残った長老と伯父。

金城重明氏は特殊な例ではなかったのだ。

慶良間島の集団自決には他にも数多くの「金城重明」がいたのだ。

ただ、彼らは「軍の命令」と責任転嫁することなく自分で贖罪の十字架を背負って生きた。

ここが、金城重明氏と他の「金城氏」との大きな違いである。

 整備中隊の壕 -3- (沖縄タイムス8月23日朝刊総合3面)
「父さんも来るんでしょ」
(40)子どものために伯父「自決」

 四月一日朝、座間味村阿護の浦に米軍の船団が近づいて来るのが見えた。「大変だ。速く逃げよう」。壕入り口に出ていた宮村文子(81)は、奥でひざを抱え一塊に座っている人々に呼び掛けた。
 伯父は「私は逃げない。やーん、死にぃー?(あんたも死ぬね)」。「いーいん、わんねぇ死なん(嫌だ、私は死なないよ)」。親にも家族にも会えずに、死ぬわけにはいかない。文子は即座に断った。

 一方の伯父は家族を失っていた。自らが手にかけた妻や二人の子の遺体は壕入り口に毛布を掛けて横たえられていた。伯父はポケットを探り、黒砂糖を取り出した。「これを食べて、お母さんに会いなさい。会ってから死ぬんだよ」と、文子に渡した。

 伯父は文子に「子どものためにも、自分はどうしても死ななければいけない」と話した。幼い息子に手をかけようとした時、「お父さんも来るんでしょ」と問い掛けられたのだという。伯父は「絶対に行くから」と安心させていた。伯父は子どもたちの遺体の場所を示し「僕が死んだら、そばに寝かせて」と言った。

 伯父はいつの間にか、壕の天井の丸太に掛けたひもを、自分の首に巻きつけていたようだった。文子を挟んで隣に座っていた老人にひもの先を押し付け、「おじー、へーくな、ひっぱてぃ、ひっぱてぃ(おじいさん、早くこの綱を引っ張ってください)」と懇願した。

 伯父が本当に死のうとしていることに文子は驚いた。「やるな、やるな」。老人を押し留めようと強くつねった。しかし返事をしなかった。

 暗闇の中、急に隣にいた伯父の体がパーッと上がっていく気配がした。「うっ、うっ、うっけけけけけ…」。うめき声が壕内に響いた。二、三分して声が途切れると、ひもが緩められたようで、伯父はドサリと地面にたたきつけられた。「なんで、そんなことするか」。文子が怒ると、ひもを引いた老人は「わんにん、なーふりむんなってぃよ、わきんわからんどぅやんどー(私はもう頭がおかしくなっている。訳も分からないんだよ)」と、泣き続けた。老人も伯父同様に、妻や子どもたち、親族たちを手にかけていたのだった。

 文子らは壕を出て、ユヒナの浜へ急いだ。老人を急かすと、「わんねぇーふりむんなとぉくとぅ、あっちんしーうさんろー(頭がおかしくなって歩くこともできない)」。老人は苦しげにうめいた。=敬称略(編集委員・謝花直美

                      ◇

(私はもう頭がおかしくなっている。訳も分からないんだよ)」と、泣き続けた。老人も伯父同様に、妻や子どもたち、親族たちを手にかけていたのだった。

パニックで判断を誤り妻子や親族に手をかけ、なお且つ死に切れなかった人たち(別の「金城氏」)の心中は平和な時代に生きる我々の思慮の到底及ばない世界である。

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新・天皇メッセージ、悪意ある推量、「訪米前に沖縄行けぬか」 昭和天皇、

2022-11-10 00:49:01 | ★改定版集団自決

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天皇メッセージ、悪意ある推量

2012-11-14

 屋良朝苗氏の日記=沖縄県公文書館

 

 昭和天皇が1975年の初訪米を前に「米国より先に沖縄県に行くことはできないか」との意向を側近に示していたことが13日、分かった。沖縄県公文書館が今年9月に公開した当時の屋良朝苗知事(故人)の日記に、宇佐美毅宮内庁長官(当時)の話として記されていた。

 昭和天皇は47年9月、連合国軍総司令部(GHQ)に米軍の沖縄占領継続を求めた「天皇メッセージ」を伝え、その後の米軍の沖縄駐留に影響を与えたとされる。識者は「沖縄に犠牲を強いたという負い目が、訪問に強い意欲を持った背景にある」と分析。当時の昭和天皇の沖縄に対する思いを伝える貴重な記録として注目されそうだ。 2012/11/13 19:55   【共同通信】

                   

2022年(令和4年)9月26日物故したノンフィクション作家佐野眞一氏は、2012年11月4日宜野湾市で行われた講演会で、沖縄に媚びる「大文字言葉」を乱発した。「大文字言葉」とは佐野氏の造語で、沖縄2紙に媚を売り「沖縄世論」に忖度する左翼的言辞のこと。

 講演会では、オスプレイ問題に関しても、沖縄2紙の見出しをなぞる程度の薄っぺらな知識で、「欠陥機」「危険なオスプレイを配備するのは沖縄に対する差別」などと沖縄左翼や沖縄2紙が聞いたら泣いて喜ぶような「大文字言葉」の大サービスであった。

おそらくは沖縄紙の見出しの「島ぐるみオスプレイ阻止」の「島ぐるみ」を見てオスプレイ反対が県民の総意であると考えたのだろう。

ところが会場から、「オスプレイの事故率は海兵隊軍用機平均の事故率より低いのに、オスプレイだけが危険という根拠なんですか」と問われ、「事故率が低いのは知らなかった。勉強不足だった」と直に己の無知を認めたが、「いずれにせよ、アメリカでは飛んでいない欠陥機を沖縄に配備するのは危険」などと開き直ったが会場から「アメリカでも飛んでいる」と声が上がり、佐野氏が立ち往生した。

佐野氏が沖縄では沖縄2紙の論調を繰り返せば受けるだろうと高をくくって、大恥を晒したことは前にも書いたが、実は当日の講演会で上記引用記事に出てくる「天皇メッセージ」についても触れており、沖縄左翼が狂喜乱舞するような言説を吐いていた。

■佐野眞一氏の典型的「大文字言葉」⇒「昭和天皇が命乞いのため沖縄をアメリカに売り渡した」

講演会で「昭和天皇が命乞いのため沖縄をアメリカに売り渡した」という例の言説を披露した。言葉が不明瞭でよく聞き取れなかったが、誰かの記者会見で「沖縄売渡しの天皇メッセージ」が明らかになったと言うのだ。

佐野氏によれば昭和天皇は自分が沖縄を売り渡したという贖罪意識のため生前沖縄の地を踏むことが出来ず、代理に沖縄訪問をした皇太子ご夫妻(今上陛下ご夫妻)が過激派の火炎瓶攻撃を受けたのも昭和天皇の「天皇メッセージ」のせいだとのこと。

昭和天皇は生前、全国行幸で唯一訪問できなかった沖縄行幸を希望していたと伝えられていたが、今回の屋良朝苗氏の日記の発掘で昭和天皇が沖縄訪問を希望していたことが事実として確認されたことになる。

昭和天皇個人はアメリカより先ず沖縄訪問を切望しておられたが、復帰後急速に左傾化した沖縄の状況に鑑み、保安上の都合で天皇の意志は叶えられなかったのが事実である。 その後も再三沖縄訪問を希望されたが体調を崩し、ついに沖縄訪問と言う心残りのまま逝去されたことは周知のとおりである。

昭和天皇は47年9月、連合国軍総司令部(GHQ)に米軍の沖縄占領継続を求めた「天皇メッセージ」を伝え、その後の米軍の沖縄駐留に影響を与えたとされる。

これに関して反日サヨクが「沖縄売渡し」と糾弾するが、全ては悪意の推量に過ぎない。

識者は「沖縄に犠牲を強いたという負い目が、訪問に強い意欲を持った背景にある」と分析。当時の昭和天皇の沖縄に対する思いを伝える貴重な記録として注目されそうだ。

ここでいう「沖縄に犠牲を強いたという負い目」も反日サヨクの悪意ある推量にかかると「命乞いのため沖縄を売り渡した負い目」と悪意ある推量に置き換えられてしまう。

昭和天皇が沖縄に負い目を感じるとしたら、終戦の決断が遅れて沖縄で悲惨な地上戦が行われ戦後も米軍の占領下に委ねざるを得なかったことであり、「命乞いのため沖縄を売り渡した」からではない。

「戦勝国に占領された領土が一滴の血も流さず返還された例は、歴史上沖縄を措いてない」と言われるが、これには昭和天皇の深い叡智(潜在主権の主張)のなせる業だが、これに関しては後述する。

反日左翼に占領された感のある沖縄論壇では、日頃は保守を自認する人でも「天皇メッセージで沖縄は売られた」を妄信する人が多く、天皇の責任は追及すべきと言う保守系論客さえ散見される。

敗戦国の君主は、ほとんどすべて、命乞いをするか、海外に逃亡する。

昭和天皇は、敗戦を受け入れながらも命乞いをしなかった唯一の君主といえるが、これについても後述する。


先日も、ネットはやらないという知人の某氏から「天皇メッセージ」の英訳文が発見されたという話を聞いたが、当時GHQの政治顧問だったシーボルトが天皇御用係寺崎英成氏が忖度した「伝聞」を自分なりに解釈しワシントンに送った英文の手紙(署名は勿論シーボルト)のことであった。

少なくとも天皇自筆の「天皇メッセージ」なるものは歴史上発見されていない。

それに「昭和天皇が命乞いした」などは反日サヨクが天皇糾弾のために用いる常套句であり、「マッカーサー自伝」によれば、昭和天皇は初めてマッカーサーを訪問した時の様子を次のように記している。

天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」
 私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。≫(「マッカーサー自伝」天皇との会見 下巻pp141-143)

 

「天皇メッセージ」と称するシーボルトの手紙を公表した沖縄公文書館

【GHQ顧問シーボルトの手紙の画像】
PDF画像(2頁)(226KB)

 

「天皇メッセージ」については過去にエントリーしているの昭和天皇が沖縄を売った?馬鹿な!」から一部抜粋し引用する。

           ☆

昨日のエントリーに続いて本日も「疎開」について書く予定であったが、「おまけ」に書いた「潜在主権」に絡む「天皇メッセージ」に読者の反響が多かったので、その中からコメントを二つ引用するする。

■宮古島よりさんのコメント

昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」として反米左翼複合体がデマの宣伝活動に利用している、悪名高き「沖縄メッセージ」とはいかなるものか。

「沖縄メッセージ」とは、昭和22年(1947年)宮内府御用係の寺崎英成がGHQ外交局長ウィリアム・シーボルトへ沖縄に関する天皇の意見として伝えたもの。

以下、ウィリアム・シーボルトの記録。

「天皇は米国が沖縄をはじめ、その他の琉球諸国に対する軍事占領を継続するよう希望している。天皇の意見では、そのような占領はアメリカの利益になり、また、日本を防衛することにもなる、ということである。

 また、天皇は、沖縄(その他必要とされる諸国)に対する米軍の軍事占領は、主権を日本に残したまま、長期(※中略)25年ないし50年またはそれ以上の租借方式という擬制に基づいて行われるべきであると考えている。天皇によれば、このような占領方式は、米国が琉球諸島に対していかなる恒久的野心ももっていないと日本国民に確信させ、ひいてはこれより、他の諸国、とりわけソ連や中国による同様の権利要求を封ずるであろう。」

つまり、沖縄を日本に主権を残したまま(潜在主権)、租借方式という擬制は(あくまでレンタル)、米国占領統治によりソ連や中国の共産主義を跳ね除け(日本の国防の米国に担ってもらう)、いずれ長期租借が解かれたとき、琉球諸島は日本復帰するという昭和天皇の沖縄に対する確固とした意思が分かる。

「昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」というのは大いなる間違い。

「思わざる 病となりぬ 沖縄を 訪ねて果さぬ つとめありしを」

昭和63年8月には、天皇皇后両陛下の沖縄への来島は決定していた。病気になられても、なお、陛下は沖縄への思いはあった。

          ☆

■涼太さんのコメント

本日のエントリーで長年の疑問が解決しました。
例えば、「戦傷病者遺族等援護法」も「教科書無償法」も日本本土と、同時期に導入されています。米国の委任統治だからこそ、チャント日本国の行政サービスがあったのですね。
特に、援護法などは民間人にまで50年間に渡り、それこそサラリーマンの生涯賃金に匹敵する額が支給されています。
それでグダグダ言っていたら罰が当たります。
よく言われる基地負担も、今度の大震災で明らかにされた電力負担、それ以外にも京浜工業地帯も公害に苦しんでいます。これなどは産業負担なのでしょう。国には様々負担があります。
それを日本国で分かち合っているのだと思います。

常々思うことだが当日記の読者はレベルが高いのが自慢であり、筆者の説明では足らない部分を埋め合わせてくるので助かるのだが、宮古島よりさんが筆者が敢て触れなかった「天皇メッセージ」の文言を挙げてその概略を説明して下さっている。

一方の涼太さんが、主権は日本のまま米軍統治下になった沖縄で「援護法」や「無償措置法」が適用されたことに着目されたことはさすがです。

日本政府が「援護法」や「無償措置法」を適用したのは、戸籍を残したまま里子にやった子ども(沖縄)が、いつかは祖国に帰ってくるという昭和天皇の親心(「天皇メッセージ」)を政府当局が勘案したからに他ならない。

さらに沖縄の教育に関して、政府は沖縄の学生だけに限る選抜試験を行い、全国の国立大学に国負担で受け入れている(国費留学制) ちなみに仲井真県知事はこの国費留学制度の恩恵で東京大学を卒業している。

いわゆる「天皇メッセージ」とは、、宮中御用掛の寺崎英成が昭和天皇との会話の中から聞き取った天皇の気持ちを、昭和22年9月19日(金)に総司令部政治顧問シーボルトに伝え、それをシーボルトが英訳してワシントンに送ったとされることである。

これも沖縄に関する大きな誤解の一つだが、保守系の論客の中にも「天皇メッセージ」とは天皇自ら「沖縄をアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。

筆者の知人にも終戦時、既に米軍占領下にあった沖縄が米国統治になったのはやむ得ないとしても、「天皇自らが(命乞いのように)沖縄を売り渡す手紙を書いた」のは許せないと息巻く人もいるくらいだが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。

寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。

「天皇メッセージ」はシーボルトの手紙では"Emperor of Japan's Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands"と訳されている。

だが近代史研究家の秦郁彦氏も驚嘆するように、敗戦直後の社会党政権(片山内閣)下で、当時の社会情勢では政府の誰もが思いも及ばなかった「主権は残した(潜在主権の)まま」いつかは祖国に帰る日のために統治を委任するという方法を思いついた昭和天皇の判断力の確かさは「天皇メッセージ」というより、いまでは死語になりつつある「昭和天皇の大御心(おおみごごろ)」と訳した方が的を射ているのではないか。 (当時世界一の経済力を誇る米国の統治下にあった沖縄では、食糧不足で喘ぐ祖国日本では食すること出来ない米国産の豊富な少量供給の恩恵に浴した。 その名残の一つがプラムポークランチョンミートであり、戦前の沖縄にはなかった牛肉文化の繁栄である)

秦郁彦氏はいわゆる「天皇メッセージ」についてその著書「昭和天皇五つの決断」(文藝春秋)で、次のように述べている。

「23年早々という早い時点で、アメリカのアジア戦略の動向を正確に探知して、適切な情勢判断を示した天皇の洞察力には脱帽のほかない・・・」

          ☆

「天皇メッセージ」(昭和天皇の大御心」について稿を改めて詳述すると書いたが、とりあえず凪論さんの孫引きで、小林よしのり氏の「昭和天皇論」を、全文引用させて頂いた。

小林よしのり著「ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論」を読む 2 ~サンフランシスコ講和条約と先帝陛下のかかわりの虚と実~

「昭和天皇論」は、先帝陛下が政治家として動かざるを得なかった時代に脚光をあてている。その中で非常に興味深いのがサンフランシスコ講和条約直前における先帝陛下と政治のかかわりである。昭和24年9月にソ連が原爆保有を表明し、同年10月に中華人民共和国が成立した。それはまさに「アジアの冷戦は朝鮮半島、台湾海峡、ベトナムでいつ熱戦に転じてもおかしい状況下」であり、日本国内で強硬に主張されていた「全面講和」は絵空事に過ぎなかった。

 当時占領軍のトップであったマッカーサーは

「日本としては永久中立が保たれればそれが理想であります。また米ソ双方にとっても利益である筈であります。」(昭和25年4月18日第10回会見)

「(日本は)将来いかなる戦争があろうとも中立を保たなければならない。ソ連も軍事上の利点から日米の中立を尊重するものと信じている。」(「リーダーズ・ダイジェスト」)

と現実離れした「非武装中立」を主張し、アメリカ政府はアジアの共産主義との対立のために日本の再軍備と米軍の基地保有が必要との見解に立っており、両者の間の溝は非常に大きいものであった。その中で吉田茂総理大臣はマッカーサーに対しては米軍駐留の主張を引っ込め、ダレス国務省顧問に対しては日本側からの米軍駐留申出を行う用意があることを示唆するなど日本の立場は混乱していた。そのような状況下でダレス国務省顧問が来日し、案の定日本側の姿勢に激怒した。その中で側近の松平康昌を通してダレス国務省顧問にメッセージを送ったのが先帝陛下であった。「吉田茂はマッカーサーに媚びていて信任できず、米軍駐留に関する交渉は吉田とマッカーサー以外の人物によって行うべきだ」という趣旨のメッセージを送り、マッカーサーの頭越しに日米の講和交渉が行われるきっかけとなった。

 先帝陛下のメッセージで大きな影響を受けたのが沖縄である。連合国側には米軍による沖縄の信託統治や日本の沖縄に対する主権放棄を主張する声が非常に強く残っており、沖縄が日本から切り離される危険性は非常に高いものであった。ダレス国務省顧問は、

「日本に主権を残しつつ米国の戦略的要請を確保していると解釈解釈できる条約を作るもので、以前の国際法には見られない表現」

である「潜在的主権」という表現を用いて意見を調整し、沖縄の本土復帰において法的根拠となったのはまさにこの「潜在主権」であった。小林氏は

「もし昭和天皇が米国政府に『沖縄メッセージ』を送らなかったら?

そしてやる気を失いかけていたダレスに絶妙のタイミングでメッセージを送って感激させていなかったら?

歴史は違う方向に動いていたかもしれない。

当時の日本には、ここまで現実的に日本を護るための手段を打てる政治家は他に誰もいなかったのである!」

と結ぶ。

 そのような講和交渉の現実を見ると、漫画原作者の雁屋哲氏が「美味しんぼ日記」で



「沖縄を米軍の基地にしたのは誰なのか。

それは、昭和天皇である。

昭和天皇が『沖縄にずっとアメリカ軍に存在して貰いたい』といったのが始まりではないのか。

昭和天皇の沖縄についての発言は、いちいち、私はここで挙げないが,様々な文書で明らかにされている。

もし、私の言葉に疑いを抱く人がいたら、ちょうど良い機会だ、昭和天皇の言行録を、当たって欲しい。ちょっとした図書館に行って、昭和天皇についての書籍を調べれば、すぐに分かることだ。(その意図があるから、私はわざと、文書をここに引用しないのだ。読者諸姉諸兄が自分の目で、昭和天皇が何を言ったのか読んで欲しい。それで、驚かなかったら、おかしい)

昭和天皇が、沖縄をアメリカに渡すと言った言葉に従って、その後の政府は忠実にアメリカに沖縄を自由に使うことを許してきた。

歴代の自民党政府が六十年以上にわたって、アメリカに沖縄を自由に使うことを許してきたのだ。」

と述べているのは、雁屋氏の無知と傲慢をさらけ出すだけのものであると言える。

「また、天皇は、沖縄(その他必要とされる諸島)に対する米軍の軍事的占領は、主権を日本に残したまま、長期-25年ないし50年またはそれ以上の-租借方式という擬制(fiction)に基づいて行われるべきであると考えている。天皇によれば、このような占領方式は米国が琉球諸島に対していかなる恒久的野心ももっていないと日本国民に確信させ、ひいてはこれにより、他の諸国、とりわけソ連や中国による同様の権利の要求を封ずるであろう。」

と述べる先帝陛下のメッセージは間違いなく沖縄の本土復帰の法的根拠となった「潜在的主権」に沿ったものであり、連合国による沖縄の主権放棄への要求を封ずるものであったと言える。おそらく雁屋氏は無知をこじらせたか、史実を明らかにされると自らのイデオロギーにとって都合が悪いのであろう。


引用終了   ☆

「疎開」のひと言を取り上げても、反日左翼のように悪意に満ちた色眼鏡で見れば、「残虐非道の日本軍」の象徴になる。

昭和天皇が、アメリカが沖縄を永久支配しないことの保障のために、主権は残したまま(潜在主権)、施政権のみ一時預かると、当時(昭和23年)の状況でいえば最適の判断をしたことも、悪意に満ちた極悪複合体に言わせれば「天皇が沖縄をアメリカに売り渡した」となるのである。

           ☆

【追記】

中国新聞が共同配信の後半部分も掲載しているので保存資料として引用する。(太字部分が後半)

中国新聞 '12/11/14

昭和天皇「訪米前に沖縄行けぬか」 側近に意向示す
 
 昭和天皇が1975年の初訪米を前に「米国より先に沖縄県に行くことはできないか」との意向を側近に示していたことが13日、分かった。沖縄県公文書館が今年9月に公開した当時の屋良朝苗やら・ちょうびょう知事(故人)の日記に、宇佐美毅うさみ・たけし宮内庁長官(当時)の話として記されていた。
 
 昭和天皇は47年9月、連合国軍総司令部(GHQ)に米軍の沖縄占領継続を求めた「天皇メッセージ」を伝え、その後の米軍の沖縄駐留に影響を与えたとされる。識者は「沖縄に犠牲を強いたという負い目が、訪問に強い意欲を持った背景にある」と分析。当時の昭和天皇の沖縄に対する思いを伝える貴重な記録として注目されそうだ。
 
 日記によると、屋良知事は皇太子(現天皇陛下)の沖縄国際海洋博覧会(海洋博、75年7月開幕)名誉総裁就任の正式発表を受け、あいさつのため同年4月16日に宮内庁を訪問。その際、宇佐美長官が知事に「天皇陛下から『私はどうするのだ アメリカに行く前に(沖縄に)行けないか』との御下問があって困った」と打ち明けたという。
 
 当時は、同年9月末の出発に向けた初の天皇訪米の準備が本格化していた時期に当たる。
 
 さらに日記には、宇佐美長官の話から、昭和天皇が「(海洋博に)外国元首が見えて、天皇が参加して居られぬ事になると大変具合が悪いとの事も話されたようだ」という記述もあった。
 
 昭和天皇は終戦後、全国を回ったが、米占領下だった沖縄は訪問できなかった。
 
 沖縄県は72年5月に本土復帰を果たし、同年11月に復帰記念植樹祭、翌73年5月に特別国体「若夏国体」が県内で開かれた。植樹祭と国体には天皇が出席するのが恒例で、屋良知事は植樹祭出席を「宮内庁に正式要請したい」と記者会見で明言したが、知事を支える革新陣営から強硬な反対論が出て、植樹祭も国体も昭和天皇の訪問は実現しなかった。
 
 知事は復帰前の69年春と復帰直後の72年春の園遊会に招かれ、昭和天皇と直接の面識があったことから、日記には「(宇佐美長官から)陛下の御気持もうかがって胸がいたむ」とも書いている。
 
 昭和天皇は87年10月開催の国体(海邦国体)での沖縄訪問が決まったが、直前に体調を崩して開腹手術を受けたため、天皇として沖縄の地を踏むことなく89年1月に逝去。93年4月の植樹祭で、現在の天皇陛下が歴代天皇として初めて沖縄県を訪問した。

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上原正稔、反戦運動に不都合な人間「真実明かせばパージ」

2022-10-27 13:33:10 | ★改定版集団自決
 
 
 

 

 

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ハーバービューホテルの決闘!太田元知事vs上原正稔2009-04-20 

本書に屡々登場するドキュメンタリー作家上原正稔氏について触れておこう。

太田元知事vs上原正稔、二大怪人、ハーバービューホテルの決闘!

先ず筆者の友人N氏が、初めて上原正稔氏を探し当てた時の体験談を紹介しよう。

今から約20数年前の話である。

当時N氏は本土のジャーナリストの依頼を受け、上原正稔氏と面談設定を予定していた。 そのころ携帯電話を持たない上原氏に連絡することは至難の業であった。 風の便りによると、上原氏は秘書の屋比久氏の携帯電話を通じて連絡できると聞き、秘書が呼び出してくれるものと早合点した。 早速屋比久氏に電話を入れ取次ぎを依頼した。 

ところが屋比久氏曰く「呼び出し?勘弁して下さい」と丁重に断られた。

それもそのはず、屋比久氏の住居は寄宮中学校の先のマンションの一室であり、上原氏の住居は再開発前の農連市場内にあるという。 直線距離にしても5000㍍以上離れており、おいそれと電話呼び出しできる距離ではない。

これでは「勘弁して欲しい」も当然である。

そこで、N氏は屋比久氏に農連市場内にあるびっくり食堂の裏に間借りしている上原氏の住居を教えてもらい、直接上原氏の探索を開始した。上原氏は以前から農連市場界隈でその特異な風貌にパイプをふかしながら散策する姿を目撃されていた。 だがN氏はその日まで上原氏を捉えることも目撃することもできなかった。びっくり食堂とはボリューム満点でびっくりするほど美味しい沖縄そばが売り物の大衆食堂だった。

N氏はびっくり食堂の裏に間借りをしていた上原氏宅の前に立ち、声をかけた。

「ごめん下さい。上原先生。お邪魔します」

だが何度呼び掛けても返事がない。

留守かと思ったが念のためドアを開けたら鍵は掛かっていない。

「不用心だな」と呟きながら、中を一瞥して驚いた。

家具一つない部屋の中にはゴミクズの山があるだっけだ。

「しまった。一足遅かったか。引っ越したか。」と内心思った。

引っ越し跡と思われるゴミクズが散乱する人気のない光景が目の前にあった。

だが、いくらゴミの部屋とは言え他人の部屋だ。土足で踏み込むわけにはいかない。

念のためもう一度声をかけた。

「上原先生、いらっしゃいませんか」

その時、信じられない光景が目の前で展開した。

部屋の中央にうず高く積まれたゴミの山が突然グラグラと動きだいたのだ。

そして、中から顔面を髭で覆われた達磨大師のような怪僧が姿を現したのだ。

いや、実際は僧侶ではなかかった。

この人物こそ沖縄の怪人上原正稔その人だった。

上原氏は、眠そうに目をこすりながらこう呟いた。

「誰かね、こんな早く」

その時、時間は既に午前11時を過ぎていた。

「早いですか」

「なるほど、昼飯には早いかもしれない」

びっくり食堂でソーキそばでも食べながら用件を伝えるつもりのN氏は、上原氏の寝起きの一言にミョウに納得した。

部屋の中は家具類やテレビはおろか、電気製品らしきものは何一つない。

N氏が引っ越し跡の「廃墟」と間違えるのも無理はなかった。

だが、N氏は部屋の片隅にこの部屋には不似合いの電気釜があるのを発見し、そっと蓋を開けてみた。 廃墟と見える部屋の様子では自炊の様子は見られなかったが、時には米でも炊くのかと思ったのだ。

電気釜の中にご飯の残り物あるいは炊飯前の米など自炊の形跡を期待したN氏の思い込みは見事に裏切られた。 中には近隣の農連市場ではよく廃棄されている萎びたキャベツの葉が二枚ほど入っていた。

N氏の驚きを目ざとく見つけた上原氏は呟いた。

「あーそれ、知人からのもらい物だが、コメが無いのに自炊などできる筈もない」「電気釜など、不便なものだ」

「キャベツも煮炊きできないなんて」

長々と、N氏と上原氏の衝撃的な出会いについて述べてきたが、これ以上上原氏の正体を暴露したら、問題が生じる可能性がある。

金銭的には全く無欲な人物だが人並み以上に名誉を重んじる上原氏の逆鱗に触れ「名誉棄損」の請求でも提訴されたら困る。今日はこれくらいにしておこう。

代わりに最近産経新聞の那覇支局長が上原氏宅で撮影した写真を引用しておこう。

もっともN氏がゴミの山から出てくる上原氏の衝撃的姿驚いた時に比べれば、産経新聞の写真の衝撃の度合いがはるかに少ないが・・・。

産経新聞は執筆用のテーブルの置き場を聞いたが、元々テーブルはないとのことだった。(執筆は図書館を利用するとのこと)

沖縄関連の資料などが乱雑したマンションの一室で過ごす上原さん=那覇

上)反戦運動に不都合な人間「真実明かせばパージ」

沖縄戦関連の資料などが乱雑したマンションの1室で過ごす上原正稔さん=那覇市
沖縄戦関連の資料などが乱雑したマンションの1室で過ごす上原正稔さん=那覇市

「ぼくは沖縄の反戦運動にとって、最も都合の悪い人間だから…」。そう語る作家が沖縄にいる。上原正稔(まさとし)さん、78歳。以前は地元紙に沖縄戦のノンフィクションを連載するなど知られた存在だったが、今は表舞台から姿を消し、知人のマンションに身を寄せる。

沖縄戦の真実を明らかにしようとすれば、パージ(追放)されるさ」。上原さんは自嘲気味に笑った。

 

               ★

佐野眞一著の『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』(集英社)の一部を拙ブログで引用したところ、太田昌秀元知事とドキュメンタリー作家上原正稔氏の「ハーバービューホテルの乱闘」について、もっと詳しく知りたいという声があった。

詳しくは同書を読めば済むことだが、何しろ650頁を超す膨大な本ゆえ読破するにも覚悟がいる。

だが、沖縄に在住する者なら殆どの登場人物は新聞等でお馴染みの名前なので、その「書かれたくなかった」実像に触れると下手なコントよりよっぽど笑わせてくれる。

筆者が個人的に知る人物も複数登場する。 中には共に酒を酌み交わした友人も登場して笑いを誘ってくれる。

だが、夥しい数の登場人物の中にあって、太田元知事と上原氏という特にキャラの立った怪人の乱闘場面は圧巻である。

お二人の絡んだ場面を抜粋して同書読破の手引きとして引用する。

<太田に会った目的は、米留体験を聞く以外にもう一つあった。太田の知事時代の業績に、沖縄戦最大の激戦地の摩文仁の丘に「平和の礎」を建てたことがあげられている。
その「平和の礎」と、やはり琉球大学教授時代の太田が、アメリカの国立公文書館に出向き、同館に所蔵されていた沖縄戦の未公開フィルムを調査、発見したことから大きな記録運動のうねりとなった「沖縄記録フィルム1フィート運動」の二つのアイディアは、自分のアイディアが盗まれたものだと、抗議する男がいる。
この人物は上原正稔(まさとし)という1943年(昭和18年)生まれのドキュメンタリー作家である。 上原には太田に会うだいぶ前に会った。 上原を人目見て、この男は現代のキジムナーだな、と思った。 キジムナーとは、沖縄の人々に昔から愛される伝説の妖怪である。
黄色のシャツにピンクと紫というちぐはぐな靴下を履いたファッションの配色感覚だけでも、この世のものとは思えなかった。 その奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な出で立ちに小さな体を包んで登場したときは、立派な髭をたくわえた顔とも相まって、愛玩用の犬が二本足で立って現れたかと思った。 若者が被るようなキャップ、首のスカーフや茶色のサングラス、ポパイのようなパイプも、どこか現実離れしていた。
「1フィート運動も、“平和の礎”のアイディアも、最初に発案したのは僕です。 それを太田昌秀に盗まれた。 それ以来、太田とはケンカです。 僕は太田に首を絞められたこともある。 彼は知事失格というより、人間失格の酒乱男です。 売名欲の塊です」

ーー首を締められた? 穏やかじゃないですね。 どこで首を絞められたんですか。

「ハーバービューホテルです。 その件で僕は太田を告訴しました。
初めて聞く話だった。 後で入手した告訴状には、こう書かれていた。

被告人(引用者注・太田)は、告訴人(引用者注・上原)に対し、平成4年9月13日、午後9時頃、那覇市泉崎2-46の沖縄ハーバービューホテル二階「鳳凰の間」において、右手拳で告訴人の左わき腹を一回強く突き、さらにたじろぐ告訴人の左上腕部を痛みを感じるほど強く握り締めて、3メートルひきずるなどして暴行を加えた

告訴状に付随した陳述書には「太田氏が顔を上気させ、目を吊り上げ、恐ろしい形相で私に駆け寄り」といった、さすがはドキュメンタリー映像作家らしい臨場感あふれる記述もあった

 

著者の佐野氏が描く上原氏の描写が秀逸で思わず笑ってしまったが、対する太田知事もこれに決して引けをとらない。

筑紫哲也氏が「沖縄の良心」と沖縄に忖度して紹介する太田元知事の素顔の怪人ぶりは、上原氏がキジムナーなら、太田氏は脂塗れのアンダケーボージャー(脂食い坊主)とでも言うべきか。

アンダケーボージャーとは沖縄の伝説の怪盗ウンタマギルの子分のこと。 

元知事のことを怪盗の子分に例えるのは礼を失するとも思えるが、上原氏のアイディアを盗んだというのなら怪盗の子分程度に例えられても仕方がないだろう。

それにしてもかつて今上陛下(現在の上皇)もご宿泊したことのある沖縄の最高級ホテルの宴会場で、満座注目の中現役の知事が上原氏の首を絞め3メートルも引きずる暴挙にでたとは。

通常では到底信じられることではない

まさに『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』に登場する人物の中でも際立つ千両役者である。

太田氏は琉球大学教授から県知事、そして参議院議員とエリートコースを歩む人物だが、一方の上原氏は組織に属しない一匹狼で、その名は知る人ぞ知る沖縄の怪人である。

まるで接点のないように見えるご両人だが、沖縄戦記を発掘してそれを出版するという分野においてはご両人の活動分野は重なっている。

ここで佐野氏は上原氏が言う「乱闘劇」について裏付けのため再度太田氏にインタビューするのであるが、その部分を紹介する前にキジムナーこと上原氏について少し触れておきたい。

太田氏については沖縄を忖度のみで沖縄を語る筑紫哲也氏などによって「沖縄の良心」のように描かれているので、当日記の読者ならよく承知のことと思う。

沖縄タイムスに取り込まれた大江氏と筑紫氏

一方、上原氏については沖縄県人でも知る人は少数派であるが、古くからの当日記の読者なら、琉球新報に連載中の沖縄戦記を前日になって突然発表中止という言論封殺の被害を被ったドキュメンタリー作家として、また係争中の集団自決訴訟でも原告側の証拠となった『沖縄戦ショウダウン』の著者として記憶に新しいだろう。

「大江岩波集団自決訴訟」の原告側の準備書面に出てくる上原氏に関連するくだりを抜粋すると次の通りである。

≪さて、今回新たに提出した重要な証拠のなかに、沖縄出身の作家上原正稔氏が記述した『沖縄戦ショウダウン』があります。上原氏は、琉球新報に「沖縄戦ショウダウン」を連載中、当時の集団自決の生き残りである金城武徳氏らを調査した結果、渡嘉敷村民の自決について、
「国のために死ぬのだ。だれも疑問はなかった。村長が立ち上がり音頭をとり、『天皇陛下万歳』と皆、両手を上げて斉唱した」ことを確認しています。

(2)続いて、被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありますが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。

(略)

(4)太田氏(「鉄の暴風の筆者」ー引用者注)は沖縄タイムス上での論戦において、「あの玉砕は軍が強制したにおいがある。アメリカ兵が目撃した集団自決の資料の発見者で翻訳者である上原正稔は、近く渡米して目撃者を探すそうである」と記載しています。その上原正稔氏こそ、先に紹介した『沖縄戦ショウダウン』の著者でした
原氏は、『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない金城武則氏、大城良平氏、安里喜順氏、そして知念朝睦氏といった集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく真実に気がつきました。そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白しているのです。 さらに、「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」「一人の人間をスケープゴート(いけにえ)にして『集団自決』の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い」と結論しています。
『沖縄戦ショウダウン』の記事が沖縄の有力紙琉球新報に掲載されている意味は重大です。そのことは、沖縄の言論人にも事実を調査し、真実を見極めようという誠実な人がいること、そしてそうした沖縄でも赤松隊長命令説の虚偽が自明なものとして知られていたことを意味しているからです。 

 いま、上原氏の「沖縄の人々の責任は限りなく重い」という言葉に込められた沖縄の良心の叫びを、噛みしめる時が来ているのです。
(大江岩波訴訟・準備書面)

これに対する被告側は、「『沖縄戦ショーダウン』は、赤松氏を一方的に評価する人物だけからの証言によって執筆されたもので信用性がない」などと客観的反論を放棄し、「信用性がない」といった極めて情緒的文言で終わっている。

被告側は上原氏の著書は信用できないというが、上原氏は被告側のバイブルともいうべき『鉄の暴風』を出版した沖縄タイムス刊で、同じ沖縄戦を扱った 『沖縄戦トップシークレット』『1995年3月刊)を出版している。

同じ沖縄戦関連で同じ沖縄タイムスが出版した『鉄の暴風』はバイブル扱いして、他方では同じ沖縄タイムス刊で沖縄戦を出版する上原氏を自分の都合の悪い記述だから信用できないという。

これが「集団自決」訴訟を通じて被告側弁護団が取ってきたダブルスタンダード手法である。

                ★

雑誌『うらそえ文藝』(2009年5月)に掲載の集団自決特集は星雅彦氏執筆の論考「集団自決の断層」と、上原正稔氏執筆の論考「人間の尊厳を取り戻す時ー誰も語れない“集団自殺”の真実ー」そして執筆両氏の対談という三部構成になっている。

沖縄戦記の実証的調査の先駆者とも言える沖縄在住の知識人のお二人の対談から要点を抜粋引用する。(太字強調は引用者)

:・・・単刀直入に質問します。
沖縄戦において集団自決は、果たして隊長の命令で行われたものなのかどうか。そのことを簡単明瞭に答えて下さい。

上原: 結論的に言いますと、隊長の命令は全くなかったんです。これが隊長の命令があったと喧伝された背景については、何度も書きましたけれども、読者はほとんど読んでないので、読んでも古いから今改めてこういう質問と問題が提起されているから答えますけれども、とにかく隊長命令はなかった。これはもう動かしがたい事実です。・・・・・

・・・(略)・・・・

それからこの裁判で、証言者たちが前言を翻して、逆な発言をするのも不思議な現象だ。例えば、宮城晴美さんのお母さんの宮城初枝さん、以前は宮平初枝さんだが、その人が軍命について嘘の証言をしたことを告白したのを、娘が証言したことを告白したのを、娘が後でまた裏返してあの告白は嘘だったという経緯がる。その上、戦後生まれの宮城晴美さんは自分の証言の真実性を訴えたりする。また、二重の虚言的な操作をする人が出てきたりして、非常に疑心暗鬼になる。ただ、住民が本当のことを言えなくて、奥歯にものの挟まったような状態で証言するのを、私は数人から何度も感じてきたわけです。
また、四十年ほど前に渡嘉敷島に宿泊して、私は当時の村長と駐在巡査と宮城初枝に会って話を聞いたわけです。そのとき何かしらしっくりせず隠しているなと感じたものです。
隊長命令があったとは誰も言わなかったし、なかったとも言えないふうに、非常に曖昧だった。
「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれど
ある程度の確信はあったがあの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。

上原:  
集団自決と関係者の発言はまさに援護法というものが作用しているんです。
実は一九五一年九月八日に「サンフランシスコ平和条約」が締結され、それで沖縄は日本から切り離されて、沖縄から抗議の声上がったわけですよ。どこにもこの記録はないんですが、僕の推定では、沖縄の声を日本政府は聞き入れて、沖縄はアメリカに自由に使ってくださいと提供したが、そこで沖縄に申し訳ないという気持ちがあったわけですよ。そのために沖縄にお金を落とすことにしたわけですよ。これが援護法の拡大適用というやつです
それで、この援護法というのは、本来は軍人と軍属だけにしか下されないものなんです。
ヤマトでは東京でも大空襲の被害者にはお金は一銭も下りてません。また、原爆被害者にもお金は一銭も下りていません。それは原爆手帳というかたちの診療を受ける権利しかないわけです。
それなのに、日本政府は自国民には一銭も出してないが、沖縄には集団自決者にも援護法を拡大適用にして給付金を出した。沖縄の人たちはそれを隠し通したわけですよ。

:  一般住民にも遺族年金が支給されたのは、『鉄の暴風』が隊長命令で集団自決が起きたと書きたてたために、後で援護法が適用されるようになっあっと、そんなふうに解釈している人もいる

上原: いや『鉄の暴風』が書かれても書かれなくても援護法は、拡大解釈されたのです。沖縄だけです。

: 「沖縄住民に特別配慮を賜った」わけだ。

上原 :
この援護法というものに、厚生省は条件を付けた。それは軍協力者であるということ。
そうであれば五歳以上の者は受ける権利がるということだった。後年、幼児も含めるようになったようです。

: 隊長の命令とは関係ないが、追いつめられ住民は軍民一体にさせられた…。


上原:  それでね、渡嘉敷村役場でも、それから座間味村役場でも偽の報告書を作ったわけですよ
それぞれ「赤松隊長の命令によって我々は集団自決をしました。」と。
座間味でも、「梅澤隊長命令によって集団自決をしました。」と出して、遺族年金がもらえるようになったわけです。それで、それに立ち会った県援護課の照屋昇雄さんは非常に重要な証人なんですね。まだ那覇には健在の照屋さんは、二〇〇六年の一月の産経新聞インタビューの中で、そのことを証言している。

<星雅彦「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれどある程度の確信はあったが、あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。>⇒集団自決を追って星雅彦


 

■「一フィート運動」を始めたのは上原氏■

沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会

被告側が沖縄戦の実践的研究者である上原氏を論理的に反論できないので、情緒的に排斥した理由は上原氏の次のような調査姿勢にあると思われる。

上原氏は、独自のルートで、アメリカの公文書館で眠っていた「沖縄戦映像」を取り寄せて、記録フィルムに残されている「場所と、人物を特定したい」と沖縄各地を調査し、証言を集めてきた。

上原氏は従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えて無理やりイデオロギー問題に摩り替える手法をとらなかった。

上原氏は、当初は『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない多くの集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく沖縄戦の真実に気がついた。

そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、

「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白している。

彼は言う。

「反戦平和なんてボクには関係ない!」

「大切なことは、沖縄戦を撮影したフィルムに、無数の沖縄住民の姿が映っているということだ。ボクは、フィルムの中の『主人公』たちに、この映像を届けたいんだ!」

そう、沖縄戦を記録した映像の中には、悲惨な戦闘シーンだけではなく、生き残った沖縄の人々の、驚くほどの「笑顔」が残されていた。

そして彼はフィルムに封印されていた沖縄戦の真実の物語を追求している異色の沖縄戦研究家でもある。

「1フィード運動」は、その後同運動に大田昌秀元知事や、新崎盛暉、安仁屋政昭、石原昌家等のサヨク学者が運営委員として加わり、運動がイデオロギー化していく。そして創設者上原氏の名を消して「1フィート運動は自然発生的にできた」などと大嘘を吐き、イデオロギー化していく。

1フィート運動を乗っ取ったサヨク集団が解散する記者会見の現場に乗り込んでサヨクどもを罵倒する沖縄の怪人

創始者の上原氏は「一フィート運動」がイデオロギー化するのを嫌ったのか、組織を離れて独自の活動をするようになる。

上原氏の沖縄戦の記録発掘に対する姿勢がどのようなものかは、次の沖縄テレビ・サイトから垣間見ることが出来る。


第14回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/14th/05-330.html
『むかし むかし この島で』(沖縄テレビ制作)
 
 
 
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新版・続沖縄タイムスを恐喝した男!究極の「転向者」富村順一

2022-08-14 12:21:22 | ★改定版集団自決

 

過去ブログで最近アクセスが急上昇の記事を、一部編集の上再掲します。

今回はこれ。

続沖縄タイムスを恐喝した男!究極の「転向者」富村順一2009-08-11 06

なお、本稿の前編は追って再掲の予定です。

 

■究極の逆転向者ー富村順一■

沖縄タイムスは、極左作家富村順一氏の恐喝に屈して『鉄の暴風』に記載の「不都合な」記事を人目を避けるように削除し、その歴史に致命的汚点を残した。

口止め料として沖縄タイムスから50万円を脅し取った上、タイムスの願いを踏みにじって自著で「削除記事」を暴露し大儲けをした富村順一氏について今回も触れる。ちなみに沖縄タイムスの御用作家として、沖縄タイムスから複数のサヨク書籍を出版している富村氏が沖縄タイムスを恐喝した理由は『鉄の暴風』で「不明死した」と記述された座間味村の元戦隊長梅澤裕氏が生存しているという事実の口止め料だ。

現在大阪西成区に在住の元極左活動家、富村順一氏は、係争中の「集団自決裁判」には不自由な車椅子で大阪地裁まで来て、沖縄タイムスの「軍命説」を180度変更し、梅澤・赤松両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。

左翼に襲われ車椅子生活に!

それまでの極左的発言から、ドラマチックな「転向」をし、原告側応援団の仲間入りした富村氏は、それまでの作家として、あるいは沖縄の「文化人」としての安逸な生活を失ってしまった。 

富村氏が「転向」の代償として受けたのは社会的経済的マイナスの他に、「裏切り者」として左翼集団による肉体的暴力だった。その結果現在車椅子生活を強いられている。

富村氏は、左翼集団の暴力により、足のみならず手にも損傷を受け、原稿を書くことさえママならない状態であるという。

■富村氏が極左作家になった経緯■

富村順一氏は1930年5月3日、沖縄県国頭郡本部に生をうけるが、生来の反抗心から学校でトラブルを起こし小学校二年で放校となる。

15歳で終戦を迎えるが、戦後は窃盗、暴力行為と刑務所の出入獄を繰り返し、1955年保釈中にクリ舟で米軍統治下の沖縄を脱出し、奄美徳之島経由で島伝いに鹿児島に上陸する。

以後全国を放浪するがその間も犯罪を重ね、各地の刑務所の出入獄をくり返す。

1970年7月8日、「70年安保騒動」に刺激をうけ、「東京タワー占拠事件」を引き起こす。 

その日、富村氏は牛刀二丁を手に、たまたま東京タワー見学中の米人宣教師を人質にとり、タワー特別展望台を占拠して、次のように叫んだ。

「日本人よ、君たちは沖縄のことに口をだすな」

「天皇は第二次世界大戦で300万人を犠牲にした責任をとれ」

「沖縄の女性みたいに、正田美智子も売春婦になり、沖縄人民のためにつくせ」

結局富村は、逮捕、起訴され、懲役3年の実刑を受けるが、公判中その過激な言動に共鳴した左翼弁護士の支援団体が結成されり。

獄中で弁護団と交した手紙が『わんがうまりあ沖縄』(富村順一著 拓植書房 1972年)として出版されることになる。

『わんがうまりあ沖縄』は、この手の本には珍しく重版を続けベストセラーの仲間入りをする。

理由は、出版日が沖縄返還の日の直前という話題性と、特異な犯罪を起こした沖縄出身者という好奇の目もあったが、そのたどたどしい日本語の文体をそのまま校正なしに出版したことが読者の興味をそそったのだろう。

ちなみに同書の前書きには「富村公判対策委員会 富村順一手記編集委員会」の名で次のような解説が付いている。

○原文中、ら行とだ行の置き換えが、たとえば「やられる」が「やだでる」のように用いられています。これを17頁~35頁までの間のみ、ルビをつけ例としました。 それ以降は原文のままにしておきました。

○原文の漢字の誤用はカタカナに書きかえました。しかし、これはすべてではなく、誤解をまねくものを主にし、本人の原文中、カタカナで記されているものとの区別はつけません。

○送りガナはあえて統一しませんでした。

○原文中、促音がないものが大部ありますが、それも原文のままです。

○原文中、「   」の部分を傍点をつけ、「    」をはずしました。

支援弁護団と出版社の描いた「小学校もろくに出てない虐げられた沖縄人が書いた日本に対する抗議の書」、といったイメージは見事成功した。

富村は、同書の成功以後極左集団の支持を受け、次々とサヨクが狂喜するような過激なテーマの出版を続けた。

沖縄に戻っても沖縄タイムスを始めとする左翼メディアや左翼文化人にちやほやされ、講演会や執筆活動に追われるようになり、すっかり沖縄左翼のヒーロー的存在になる。

富村氏の著作を拾ってみると、沖縄の左翼文化人が喜ぶような過激なそのタイトルが並んでいる。

『沖縄にとって天皇制とは何か』沖縄タイムス社 編。 沖縄タイムス社。 1976。 タイムス選書 

沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 富村 順一 編著。 柘植書房。 1995。 

『沖縄戦に散った愛 天皇の押し花になった子供たち』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。 

『隠された沖縄戦記』 富村 順一 著。 JCA出版。 1979。 

『韓国の被爆者』 富村順一 著。 JCA出版。 1980。 

『皇軍とアイヌ兵 沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯』 富村 順一 著。 JCA出版。 1981。 

『最敬礼拒否の足跡 戦犯天皇を裁く』 富村 順一 著。 破防法研究会。 1974。 

十字架と天皇。 富村 順一 著』 たいまつ社。 1977。 (たいまつ新書18)。

『富村順一氏意見陳述集 「東京タワー事件」』 富村 順一 著。 富村公判対策委員会。 1971。 

『もう一つのひめゆり部隊 -戦後沖縄の売春婦-』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。  

 『琉球慰安婦 天皇制下の闇の性』 富村 順一 著。 JCA。 1977。  

 『わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記』 富村 順一 著。 柘植書房。 1972。 

                    ◇

富村順一氏の人となり知るための参考に、本人を良く知ると思われる人物のネット記事を次に紹介する。

ニホンの夏を駆け抜けた三人との出会い(転載)

毎年この時期になるとなぜか三人の人間のことをおもいだす。ひとりは沖縄人であり、ひとりは日本人であり、そしてもうひとりは韓国人だ。ふたりはすでに故人となられ、もうひとりは消息が掴めない。▼最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった。

                   *

 
嘗て「東京タワ-事件」というのがあった。1970年7月8日の『朝日新聞』に「8日午前11時半ごろ、東京芝公園の東京タワ-特別展望台(地上250メト-ル)のエレベ-タ-前で、男が刃物を持ち『韓国人と20歳以下の者はおろしてやるが、日本人と、アメリカ人はおろさない』とわめいていると愛宕署に連絡があった。20人ほどいた客をエレベ-タ-で降ろしはじめたとき、男は新潟市の日本ル-テル教会宣教師ヒンズ・ダビテさん(39)のところへ男がかけより、ダビテさんの首に刃渡り20センチの包丁をつきつけた。愛宕署員が『刃物を捨てろ』と説得する一方で、さらに応援がかけつけ、約15分後にすきをみてとびかかり、警棒で包丁をたたき落とし、脅迫、銃刀法違反で逮捕した。調べに対し男は沖縄・本部東区富村順一(40)」と報じられていた。
1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。
 
私はこの資料を『青い海』大阪編集室で見た。編集長の津野さんから色々来と話を聞かされたが私には関心がなかった。あんなことで世の中が変わるのか、というのが正直な感想であった。大阪でも沖縄でも敬愛する先輩たちが富村裁判の応援に名前を連ねていた。
1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、
また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。

私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ-スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など)をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ-をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある若いころは、ならず者だった。胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略)
 
【おまけ】
沖縄タイムス・コラムに掲載された富村順一氏に関する記事。
1973年は沖縄返還の翌年である。
 

1973年6月22日http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/tomimura.html

  沖縄タイムス  唐獅子

  意識した熱狂を

 

わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。

60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。

マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。

ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。

先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。

さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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コメント (2)

改定版・沖縄タイムスを恫喝した男、富村順一・沖タイの執筆者

2022-08-14 11:58:03 | ★改定版集団自決

 

 

 

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■恐喝された沖縄タイムス■

沖縄在住の芥川賞作家目取真俊氏が自身のブログで、「大江・岩波集団自決訴訟」の判決文を誇らしげに引用し、『うらそえ文藝』に掲載の上原氏の発言を批判して「裏事情を知っているだけで、判決文も読まないものが口出しをするな」といったニュアンスの文を書いている。

『鉄の暴風』を訴えなかった理由

ところが判決文では触れていない「裏事情」を、これ以上発言されると一番困るのは沖縄タイムスであり、その意味では同じ立場の目取真氏も困るはずだ。 

そこで目取真氏は沖縄タイムスの意を受けて星、上原両氏に、判決文全文を読んでいないことを盾に、これ以上の発言を封じようと画策していることは容易に想像できる。

目取真氏は、沖縄タイムスが富村順一氏に恐喝され50万円支払ったことを、大した問題ではないといった書き方をしている。

だが、これこそが大問題なのだ。

富村氏の恐喝は、沖縄タイムスが『鉄の暴風』の記事のデタラメな記事を指摘したに過ぎず、沖縄タイムスにとって二つの意味で大きな汚点になる。

いや、新聞社としては致命的ともいえる大きな打撃でもある。

先ず恐喝した富山氏は、過去に沖縄タイムスから著書を出版したり寄稿をしていたタイムスにとっては重宝な「識者」言われる左翼作家であること。

そして恐喝の理由が、問題の書『鉄の暴風』の記事削除であり、沖縄タイムスは実際削除に応じたこと。

恐喝を受けた当事者の新川明氏(元沖縄タイムス社長)が、「うらそえ文藝」の当該記事を見て立腹し、何らかの対抗手段を打つと息巻いていたが、結局この事件(50万円恐喝)には沖縄タイムスOBを含む複数の証言があるというので、問題化することを諦めたと聞く。

そして脅し取った50万円(当時の50万円は現在の数百万円に相当)は、当然タイムス社からの出費だが、その出金名目は「原稿料」とした、という生々しい証言もある。

さらに恐喝した当人の富山氏が78歳の高齢ながら当時は(現在は故人)大阪でお元気であることも沖縄タイムスが対抗手段を打つことなく沈黙を守る理由だという。

目取真氏はタイムスが恐喝されたことの真偽を同社に問い合わせ、それが事実だと知って愕然としたのではないか。

そこであのような目くらまし記事を書いて「沖縄タイムスが恐喝に屈した」という「うらそえ文藝」の告発を、「矮小化」(左翼の得意の表現)し、星、上原両氏のこれ以上の発言を封じ込めようとしているのではないか。

まさに、沖縄版・言論封殺魔の登場である。

■証言の信憑性■

「集団自決訴訟」の特徴は、70数年前の体験者の証言と、数十年前に彼らに聞き取り調査した人物の記録、という極めて曖昧な要素のある証拠物を根拠に争われているという点である。

しかも数十年前に聞き取り調査に応じた体験者も大半は鬼籍に入ってしまった現在、彼らが残した記録に「思い違い」や「勘違い」などがあったとしてもそれを本人に確認する術はない。

いや、その聞き取りをした人さえ「聞き違い」などが考えられるが、聞き取りした人にも既に物故した方がいて、この問題の検証の難しさを倍化させている。

証言者がその時、その場所にいたからといって、その証言を無条件で信じることは出来ない。

■証言者のバックグラウンド■

アリバイ証言を求める場合、家族や、親族の証言がその信憑性を疑われるように、証言者のバックグラウンドが証言に及ぼす影響を無視することはできない。

ここで「集団自決訴訟」に登場する証人をそのバックグラウンドによって、大きく二つに分けてみる。

①本人または近い親族が「援護金」を受給している証人

②「援護金」とは無関係な証人

この二種類の証人は夫々同じような証言をするという特徴を持つ。

①の証人は金城重明氏や、宮里春子氏、宮村幸延氏のように「軍の命令があった」と証言しているのに対して、

②の証人は宮平秀幸氏のように「軍命令はなかった」と証言している。

通常の刑事裁判ならこの時点で「援護金受給」という経済的バックグラウンドを考慮すれば、①の証言は信憑性に欠けるとして却下されてしかるべきである。

だが、奇怪なことに「集団自決訴訟」では①の証言はほとんどそのまま採用されている。

その一方で、②の「援護金受給」に無関係な人びとの証言はことごとく虚言として却下されている。

■証言者のプラス派とマイナス派■

裁判には集団自決当時、現場にいなかった戦後生まれの学者や関係者も多く登場するが、彼らはその「証言」が経済的、社会的に見て本人にプラスかマイナスかによって二つに分類できる。

①プラス派⇒宮城晴美氏、林博史、安仁屋政昭、大城将保、石原昌家など

②マイナス派⇒照屋昇雄、星雅彦、上原正稔、安里巡査、知念少尉

外にも①の【プラス派】には高校教師から琉球大学教授に駆け上がった、高嶋伸也氏や元県知事で沖縄戦戦記本を多数出版した太田昌秀氏などの大物もいるが、

中でも宮城晴美氏は、那覇市役所の臨時職員だったのが『母の遺したもの』を出版した後、わずか三カ月足らずで那覇市歴史博物館の主査のポストを得た。

その後は女性史研究家の肩書きで新聞その他の団体から講演会等で引く手あまたの地元知名士になり、母校の沖国大では講師を努めていると聞く。 

更には琉球大学に博士論文提出中というから高嶋教授の後釜でも狙おうかというほど社会的にも経済的にもプラス派の代表者であろう。 

おっと、教科書執筆者の高校教師・坂本昇氏なども①の【プラス派】の代表だろう。この方も沖縄では有名人になって沖縄の大学のポストを狙っているとか。

 

一方、②の【マイナス派】の証言者が少ないのは地元のマスコミが証言しても取り上げないせいもあるが、

経済的、社会的にマイナスになるなら、でしゃばって証言するより沈黙を選ぶのは人間の常なので、人数が少ないのも仕方がない。

例えば、戦後早い時期に現地で聞き取り調査をした、照屋昇雄さんなどは、「軍命があった」と証言しておれば地元ではチヤホヤされ、各地で集団自決の重要証人として執筆や講演会などを請われ、社会的にもプラス面が多かったはずだが、「軍命はなかった」と証言したばかりに嫌がらせなどを受けた。 

いや現在も受けているときく。

照屋さんの場合も当然マイナス面ばかりである。

最近『うらそえ文藝』で沖縄タイムスに捏造記事の訂正と謝罪を要求した、星雅彦氏と上原正稔氏が、その後沖縄の文壇から締め出され兵糧攻めに遭っていると聞くが、これも証言したための典型的なマイナス面であろう。

■富村順一・・・・・最大のマイナス派証言者■

もう一人、最大のマイナスを被った証言者がいる。

自ら座間味島を訪問し、聞き取り調査をした結果、これまでの極左的言動から一変し、沖縄タイムスの『鉄の暴風』のデタラメな記事を批判する側に「転向」した富村順一氏こそ、「転向」で最も激しいマイナスを被った人物だろう。

富村氏については改めて詳しくエントリーしたい興味ある人物だが、ここでは概略を述べる。

 

天皇糾弾を叫んで東京タワージャック事件を起こした男

富村氏は、沖縄返還の前年、天皇糾弾を叫んで東京タワージャック事件を起こし逮捕された。 

服役中、彼を支援する左翼弁護団と交した獄中記がベストセラーになり、出所後は「作家」として生計を立てるようになる。 

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「富村順一 沖縄タイムス 東京タワー」の画像検索結果600×484
 

勿論出版物の内容は左翼弁護団が「天皇糾弾・反日・沖縄人」というキーワードでおだて上げたせいか、

『棄民・戦争・天皇』とか『皇軍とアイヌ兵』といったいかにも左翼が喜ぶタイトルで10冊ほど出版するほどの売れっ子作家になる。 

沖縄では沖縄タイムスを始め、出版社と新聞社からの原稿依頼が殺到し、沖縄の知識人・文化人から大歓迎をされ、さらに、各大学、各地で講演することもあった。 

そして沖縄タイムス刊『沖縄にとって天皇制とは何か』(1976。 タイムス選書)の執筆者の一人にもなる。

ところが座間味島で聞き取り調査をしているうちに、『鉄の暴風』の余りのデタラメさが徐々に発覚し、流石の極左が売りものの富村氏も、沖縄左翼の捏造体質にあきれ返ってしまう。 

特に「朝鮮慰安婦と不明死した」と侮辱的に書かれている梅澤元隊長は存命という情報を島の古老から得て、富村氏は梅澤元隊長探索の旅を開始する。

元隊員や多くの人脈を辿って大阪で警備会社の重役をしていた梅沢氏と大阪の梅田で会うことになる。 その頃は未だ『鉄の暴風』には梅沢氏の「死亡記事」が平気で記載されていた。

富村氏の慶良間島取材後に「梅澤生存」を記した『隠された沖縄戦記』をするのだが、その出版年(1979年)から判断して1978年ごろのことである。 

その後30年経って梅澤氏は「集団自決訴訟」の原告の一人になるわけだが、その時は『鉄の暴風』の存在さえ知らなかったようだ。

梅澤氏は、作家というより刑務所を出たり入ったりのヤクザ者といった方が似合う富村氏に梅田の居酒屋に呼び出され、二人は酒を酌み交わしながら座間味島のことを語り合った。

そのとき梅沢氏はこう語った。

「確かに悲惨な島であった。私は自決命令を出していない。 だが、私が自決命令出したとして公表されれば、助かる島の人は一杯いるでしょう。(援護法に該当) またお金も降りるでしょう。それでいいんじゃないでしょうか。もう終わったことです。」

「私は自分が悪者になってもいいよ。座間味は大きな犠牲を出したんだから、自決した人もいる。 私は生きのびて、こうやって生きのびているだけでありがたい。それから考えると、あまり重視する問題じゃない」(富村順一著『沖縄戦語り歩き』拓植書房1995年』)

富村氏は梅澤氏の言葉に大きなショックを受ける。

沖縄の論壇から総スカンを食う覚悟で『隠された沖縄戦』を出版し、沖縄タイムスの歪曲報道を暴露する。

通常のパターンだったら沖縄人が沖縄戦記を出版した場合、沖縄マスコミは揃って宣伝記事を書くものだ。

だが、『隠された沖縄戦』の場合、沖縄マスコミ、知識人、文化人は皆これを黙殺し、沖縄の書店でもこれを販売するものはほとんど無かった。

従って富村順一氏のことを知る沖縄県人は、左翼文化人と古い記者以外ではほとんどいない。

ましてや富村氏が沖縄タイムスに乗り込んで「捏造記事」をネタに恐喝した話など知る人は少ない。(タイムスを恐喝した話は『うらそえ文藝』に詳しい)

何よりも不可解なのは、『鉄の暴風』で「死亡記事」を書かれた「悪鬼のような梅澤元隊長」が生存していることが判明したのだから、新聞にとっては重大ニュースであり一面トップで扱ってもおかしくなかったはずだ。

だが、実際は『鉄の暴風』から該当記事をソッと削除しただけで、タイムスも新報もこの重大ニュースを報道することはなかった。

それ以降、富村氏はあれほどチヤホヤされていた沖縄マスコミからも干されてしまい、多くの出版物も今ではほとんど絶版になっている。

おまけに左翼集団に襲われ重傷を負って車椅子生活を余儀なくされるのだから、富村順一氏ほど「転向」によって損害を被った人物もいないだろう。

富村順一氏は、沖縄マスコミの徹底した黙殺により、沖縄では忘れ去られた沖縄戦記作家であり、元極左活動家であり、そして「転向者」でもある。

従って現在「集団自決」に興味を持つ人でも、その名を知る者は少ない。

『鉄の暴風』から「梅澤死亡」の記事が削除されるのは、出版後30年経過した1980年になってからだが、沖縄タイムスはその年にはどうしても「削除版」を発行せねばならぬ理由があった。

それは、富村氏が削除の件でタイムスを恐喝しただけでなく、前年の1979年発行の自著『隠された沖縄戦』で、梅澤氏が生存している事実を書いて『鉄の暴風』の捏造体質を暴露していたからである。

富村氏が「梅澤生存情報」を使ってどのように50万円を脅し取ったのか。 

おそらくは沖縄タイムスが、「そのうちソッと削除するから、騒ぎ立てないでくれ」と口止めの意味で50万円を支払ったのであろう。

だが、富山氏は50万円を脅し取った上、口止めどころか自著でも暴露して大儲けした。

富村氏も良くやるね。

 

 

 
 
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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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コメント (1)

新・沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2022-08-11 10:38:06 | ★改定版集団自決

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沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2012-05-12 07:10:03 | ★集団自決

 

                 ☆

■1983年6月8日付沖縄タイムスの記事は、典型的な「歪曲報道」である。 

 

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。(1983年6月8日付)

             ☆

上記記事の次の結語に、沖縄タイムスの歴史捏造の大嘘が表れている。

日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である

歴史が新聞記事で決まるわけではないし、県民大会や県議会決議で決まるわけではない。

勿論、歴史が裁判で決るわけではないが、大江岩波訴訟で、挙証責任のある被告大江側は一審、二審を通じて「軍命」を立証できず、その後も軍命を立証する証拠・証人は一件もない。

沖縄タイムスが言う「歴史の事実」は同紙の願望に過ぎない。

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し『鉄の暴風』、『秘録沖縄戦』(山川泰邦)、『沖縄ノート』(大江健三郎)などの沖縄戦関連の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当て、ことの真相を問いただす。

ちなみに『鉄の暴風』が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、『沖縄ノート』はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 『秘録沖縄戦』も、『鉄の暴風』の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚と思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の51周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の『鉄の暴風』だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては『鉄の暴風』や『沖縄ノート』がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

 

タイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。

だが、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのをむしろ歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だった。

赤松氏はこのような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていた。

翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には、歓迎のため赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

 

(つづく)

 

【おまけ】

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

■梅澤・赤松両隊長が怒った沖タイ記事

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

”非難したくない”

出迎えの玉井村長語る

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで事実誤認で報じる沖縄タイムスの無知(実際は陸軍大尉)はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であった。

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

先ず記事の見出しに躍る”怒りの声”と”非難したくない”と言う玉井村長の矛盾を沖タイはどう説明するのか。

 

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加したという。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行った。

だが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸し、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく、島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、こう印象つけられた。

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

赤松元隊長は「鬼の赤松」といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

■渡嘉敷村民の真意は?

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ  

渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしたが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内で読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、

赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。

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石原昌家沖国大教授の二枚舌、沖縄「集団自決」否定された軍命! 2015-11-26

2022-08-10 08:07:22 | ★改定版集団自決

 

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沖縄「集団自決」否定された軍命! 2015-11-26

 

 2007年9月29日に行われた「教科書検定の撤回を要請する県民大会」(”11万人集会”)の前後、沖縄戦を巡る三つの裁判が行われた。

一つは慶良間島の元戦隊長梅澤さんらが大江健三郎よ岩波書店を名誉毀損で提訴した「大江岩波集団自決訴訟」。 

そして靖国合祀の取り消しを沖縄戦の遺族が求めた「沖縄靖国合祀取消訴訟」と、ドキュメンタリー作家上原正稔氏が有給新報を訴えた「パンドラの箱掲載訴訟」である。

ちなみに「パンドラ訴訟」は、第二審で被告の琉球新報が逆転敗訴を喫したが、上告を断念したため、琉球新報の敗訴が確定した。 

ところが沖縄2紙は琉球新報の敗訴確定を一行も報道せず,県民の耳目から隠蔽した。

琉球新報の敗訴確定を報じたのは本土メディアだけであった。(【おまけ】参照)

三つの訴訟はそれぞれ原告と被告、そして表面上の請求原因は違っているが、実質の争点が沖縄戦であり、さらに論点を絞ると「集団自決と援護法の関係」になるという点では大きな共通項を持つ。

慶良間島の戦隊長だった梅澤氏らが大江健三郎氏と岩波書店を訴えた「集団自決訴訟」は最高裁判断で原告側が敗訴しているので、集団自決の「軍命の有無」論争は「軍命説」が確定したと一般には思われている。

だが、事実は違う。

沖縄2紙の印象操作による大きな誤解である。

たしかに「大江岩波集団自決訴訟」は、最高裁で原告側の名誉毀損と損害賠償の請求は敗訴が確定した。

だが、最大の争点である「軍命」については挙証責任のある被告大江・岩波側は裁判を通じて立証することが出来なかった。

「軍命説」を流布させた張本人の大江氏と岩波は法廷で「軍命」の挙証義務があるが、それが立証できなかったため事実上梅澤氏らの名誉回復は確定した。

法廷では「軍命説」を立証できなかったが、裁判官は問題の大江健三郎著『沖縄ノート』が出版された当時の歴史研究では、大江氏が「軍命説」を真実として信じても仕方がなかった、という「真実相当性」を適用し、大江・岩波の「名誉毀損」は免責とした。

ただ名誉毀損が請求原因である裁判で大江・岩波側が勝訴したため、あたかも「集団自決は軍命だった」ということが最高裁で確定したかのような印象操作記事を沖縄2紙が垂れ流し、それに誤誘導された読者が多い。

この沖縄2紙の印象操作については、しつこいが何度でも指摘しておく。

「パンドラ訴訟」でも原告上原さんが陳述書で強調されているように、集団自決には「援護法」が大きく関わっている。 

集団自決の真相を解明しようとすると、その適用を受けるため申請書を偽造したという点に触れねばならない。

この援護法の「秘密」を隠蔽しようとする勢力との壮絶な戦いが裁判という舞台で展開されることになるのである。

沖縄2紙を筆頭に反日サヨク勢力は、「援護法カラクリ」を必死になって隠蔽しようとしているが、これが結果的には「極悪非道の日本軍人」という歴史の捏造を生み出すことになりる。

その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤さんと故赤松さんということになる。

上原正稔さんが、琉球新報を提訴した記者会見の冒頭で、梅澤さんと故赤松さんに沖縄県民として謝罪した理由は、すべて「援護法と集団自決」の複雑な関係にある。

集団自決と「援護法」の関係を深く検証すればするほど、援護法申請書の偽造などに行き着き、詐欺行為の疑いを持つ人も多い。

より直截にいえば、援護法申請書の偽造は「公文書偽造による公金詐取」といわれても仕方ない行為である。 沖縄県人の立場としては言い難い言葉だが、筆者はこれまでに何度も「公金詐取」と指摘している

■石原教授のトンデモ発言

反日サヨクの急先鋒であるOABテレビに、石原昌家沖国大教授が出演し、靖国訴訟の援護法関係でこんな意味の発言をしていた。

「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」。 

だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、裁判では遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言しているくらいである。

したがって「本人(遺族)が知らない間に」とは真っ赤な嘘である。 それどころか遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、石原教授は「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無い。

ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。(チビチリガマには1人の軍人もいなかった)

大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。

石原昌家教授「沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)

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■政府主導の「公金詐取」■

現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないという。

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈をしたことになる。違法の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

元々「援護法」は沖縄住民に援護金給付をする目的の特例だったため、当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にした。  

通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘しできるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも役所は給付したくないように見える。 お役所仕事といわれる所以である。

ところが、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦に限り拡大解釈し軍に協力した住民に適用した。

当時の厚生省は、何とかして給付させたいという善意が働いて、書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見される。

 申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場を指導したのもその一つだが、厚生省側でも沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。

沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていた。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美)

                   ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

また、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

■石原昌家氏の二枚舌■

集団自決の軍命論争ではいろんな場面で沖縄の識者たちがカメレオンのようにくるくると自説を変えていく例が多い。これを一々論じていたら一冊の本が出来るくらいなのでここでは深く立ち入らないが、援護法の研究者を自認する石原昌家氏の立場は微妙である。

石原氏は「集団自決訴訟」では被告・大江、岩波側を支援し、軍命はあったと主張する

石原氏は「集団自決」という述語は「強制集団死」と呼ぶべきだと主張し、述語の中に軍命を意味する「強制」を使うなど、徹底した「軍命派」である。

その一方で、沖縄靖国訴訟では原告の遺族側の証人に立ち、「軍命は政府側が住民を靖国に祭るためのに指導した方便」という意味の証言をして、結局は軍命が「政府によって偽造されたもの」(軍命否定)といった自己矛盾の発言をしている。

つまり政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と偽って申請するように示唆したというのだ

もっと具体的に言えば、石原氏は自分の体験も含めて、援護法申請書に「実際はなかった軍命による自決」と書いて出せば、援護金をもらえたと証言しているのだ。

この人物、同じテーマの裁判に首を突っ込んでしまい原告と被告が逆の立場であることをうっかり失念して「オウン・ゴール」をかましたことになる。(爆

参考: 茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって

 

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集団自決の証言者、金城重明氏死去

2022-07-24 06:04:18 | ★改定版集団自決

 

 

 

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沖縄タイムス+プラス ニュース

金城重明さん死去 93歳 沖縄戦の「集団自決」証言 元沖縄キリスト教短期大学学長 平和活動に尽力

2022年7月24日 09:10

 沖縄戦中、渡嘉敷島で起きた「集団自決(強制集団死)」を生き残り、体験を証言した金城重明(きんじょう・しげあき)さんが19日午前10時18分、急性心不全のため、那覇市内の病院で亡くなった。93歳。渡嘉敷村阿波連出身。葬儀は23日、日本キリスト教団首里教会で関係者のみで執り行われた。喪主は妻の恵美子(えみこ)さん。

 1945年3月、当時16歳だった金城さんと兄は母と弟、妹を手にかけた。88年2月、国の教科書検定の違憲性を問う「第三次家永教科書訴訟」の沖縄出張法廷で「集団自決」の体験を証言。「愛する母と幼い弟妹を『鬼畜米英』に渡すより自分の手で殺すことがせめてもの愛情。号泣しながら手をかけ、死に至らしめた」と体験を語った。

 岩波書店発行の「沖縄ノート」(大江健三郎著)などで、旧日本軍の元戦隊長らが「集団自決」は「軍命」とあるのは名誉毀損(きそん)と訴えた「『集団自決』訴訟」では、2007年9月、那覇で開かれた出張法廷で体験を証言した。沖縄キリスト教短期大学名誉教授。学長を務め、講演などで平和活動に尽力した。著書に「『集団自決』を心に刻んで」など。(社会部・當銘悠)

 

 

沖縄タイムス紙面掲載記事

「沖縄戦の真実伝えた」 金城さん死去 関係者らしのぶ

2022年7月24日 

 渡嘉敷島で起きた「集団自決(強制集団死)」を生き残った金城重明さん(93)が19日、亡くなった。体験の重みを背負いながら語り、平和を訴え続けた。活動を共にした人たちは「戦争の真実を伝えてくださった」と生前をしのんだ。

(1面参照)

 家永教科書裁判支援全国連のメンバーだった村上有慶さん(72)は「(家族を手にかけた)『加害』の証言は本当に苦しいものだったと思う」。話しづらそうにとつとつと体験を語る金城さんの姿を覚えている。

 1988年、法廷での金城さんの証言を振り返り、「あの証言があったから、他の人も親族間での『集団自決』の証言をしてくださるようになった」と話した。

 歴史教育者協議会元委員長の石山久男さん(86)は「亡くなられたのは本当に残念」と声を落とした。2006年度の高校教科書検定で「集団自決」の軍の強制などが削除された教科書問題で「金城さんに『集団自決』の真実をしっかり伝えていただいたことはとても大きかった。金城さんのこれまでの証言や思いを私たちが何とか引き継いでいかなければ」と声を強めた。

 渡嘉敷島で「集団自決」を体験した吉川嘉勝さん(83)は「先生の行動に勇気付けられて自分も語る活動を始めた。思い出したくない記憶を語り始めた先生の勇気は、多くの人に戦争の真実を伝えた」と振り返る。

 祖父母や母が座間味島の「集団自決」で生き残った宮城晴美さんは、会うと優しく声をかけてくれた金城さんの姿を思い出す。「身を切り裂かれるような思いで体験を語ってくれた。どんなに大変だっただろう」と声を詰まらせた。(社会部・當銘悠)

(写図説明)「集団自決」訴訟の所在尋問で入廷する金城重明さん(中央)=2007年9月10日、那覇市

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沖タイの捏造体質、[社説]教科書検定 沖縄戦の美化に危うさ

2022-04-29 08:56:15 | ★改定版集団自決

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ウソも百回つけば真実になる。

これを実行している沖縄戦を巡る沖縄タイムスの大嘘記事である。

沖縄タイムス紙面掲載記事

[社説]教科書検定 沖縄戦の美化に危うさ

2021年4月1日 05:00有料

 文部科学省は、2022年度から使われる教科書の検定結果を公表した。

 今回、沖縄戦の記述は全体的に薄く、合格した歴史教科書の中には、住民が多数犠牲になった沖縄戦の実相をゆがめかねないような表現が見受けられた。「殉国美談」や国家主義的な歴史観が中高校生に植え付けられることを危惧する。

 自由社の中学校歴史教科書は、沖縄戦について「日本軍はよく戦い、沖縄住民もよく協力しました」と記述している。

 「よく協力した」というのは、執筆者の全くの主観であり、沖縄戦の歴史的事実に照らして住民視点に欠ける。さらに、住民が壕から追い出されたり、兵隊に食料を強奪されたり、スパイ容疑で殺されるなどの日本軍の「加害性」への言及はない。

 日本軍兵士よりも住民の犠牲者が多かったのはなぜなのか。その疑問こそ解き明かされるべきだろう。ほかの教科書と違い、復帰後も広大な米軍基地が残ったことなどは、取りあげていない。

 また、自由社教科書は1879年の「琉球処分」について、「一種の『奴隷解放』」という伊波普猷の言葉を引用している。伊波が「一種の『奴隷解放』」と言ったのは事実だ。

 ただし、伊波のこの指摘が学会の定説になっているわけではない。県内の専門家の間では、明治政府による強権的な併合という解釈が有力だ。近年、「琉球併合」という言葉も使われるようになった。

■    ■

 高校歴史総合教科書では、明成社が「一中健児之塔」の写真説明文で顕彰碑と表現している。顕彰は、功績をたたえ、美化する意味合いが強い言葉だ。

 同窓会が建立した一中健児之塔の案内版には「志むなしく斃(たお)れた一中健児を追慕し、御冥福を祈り、世界の恒久平和を希求する」と記されている。慰霊碑(塔)と呼ぶべきものだ。同窓会は「顕彰碑ではない」と批判。元全学徒の会は近く見解を発表する。

 また、同じ文中では、「ひめゆり学徒隊」を「部隊」と表記している。

 軍隊の組織を指す「部隊」は、かつてひめゆりが、殉国美談として取りあげられていた時代に頻繁に使われ、問題とされてきた言葉である。元学徒ら当事者が「部隊」という言葉を使ったことはない。軍と一緒に積極的に戦闘に参加した印象を与える、その言葉を意識的に避けてきたのだ。

■    ■

 米軍基地の記述では、東京書籍が伊江島の土地闘争と名護市辺野古の新基地建設反対運動の写真を並べ、時代を超えて沖縄の人々が抗議していることを説明する。第一学習社は、県民投票の結果や在沖米軍基地を巡る沖縄と本土の意識のずれを示す世論調査を紹介。基地問題にどう向き合うか考察を促すものもあった。

 沖縄戦から現在につながる基地問題では、出版社により扱いに濃淡が分かれている。

 米軍機の騒音や環境汚染など県民が基地の重圧に苦しんでいるという実態がどれだけ書かれているのか。現在の問題にも焦点を当てるべきだ

>さらに、住民が壕から追い出されたり、兵隊に食料を強奪されたり、

これらは全て「援護法」」による「軍のために行った(軍の命令)ことことにしたら援護金が貰える」というという援護法のカラクリを偏向報道で「悪逆悪逆非道の日本軍」に捏造した記事である。

>スパイ容疑で殺されるなどの日本軍の「加害性」への言及はない。

スパイ容疑も伝聞による捏造記事の類だが、本件については明日掲載の予定。

 

過去にも再掲したが、最近アクセスが急増した関連記事を引用する。

沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける2012-05-12 07:10:03 | ★集団自決

 

■沖縄タイムス 1983年6月8日

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

             ☆

この30年前の沖縄タイムスの記事が筆者の不注意により未完のままアップされてしまったことを改めてお詫びしたい。

結果的には予告編の役割をしたが、本稿は本編である。

当日記を古くから読まれている方は上記引用の記事を読んで、アウトラインは理解できるでしょうが、複雑に絡み合った集団自決の整理のため、記事に書かれている事実の説明から始める。

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。

が、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのを歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だったという。

このような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていたが、翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

《村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には、赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

■比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

(つづく)

                 ★

【おまけ】

再論・集団自決!沖タイの歴史観、歴史に政治介入を!2018-04-05 1

 

歴史に政治介入を!沖縄タイムスの歴史観 2009-12-01

 

2009年11月30日 18時30分 (QABテレビ)
高校教科書検定問題 大会実行委 改めて要請 

おととしの教科書検定で沖縄戦の集の記述から「日本軍の命令」の表現が削除された問題で沖縄からの要請団が文部科学大臣を訪ね、検定意見の撤回を要請しました。川端文科大臣を訪ねたのはおととし9月の県民大会を主催した実行員会の玉寄哲永委員長などです。

メンバーらは川端大臣に対し「集団自決は日本軍の命令で起きたもの。その事実を教科書にしっかりと書いてほしい」とおととしの教科書検定意見の撤回と記述の回復を求めました。

しかし川端大臣は、検定に政治介入することは好ましくないとして、政府や大臣がこの問題に直接、関わるべきではないとの見方を示しました。

                    ◇

「政治主導で教科書検定意見を撤回瀬よ」とは、「歴史記述を政治介入で偏向せよ」ということである。

無茶苦茶な要求をする要請団の主張。

「政治介入で歴史を書き替える」ことの恐ろしさを、このちょん髷ジーさん達、気が付いていないのか。

これに対して、⇒川端文科大臣の極めて真っ当な意見の【動画】

 

これを今朝の沖縄タイムスは、どう伝えているか。

社会面トップの見出しはこれ。

教科書検定 文科省が撤回困難  

失望も新たな意見期待

「政治主導で議論を」

ここでもちょん髷ジーさん(玉寄世話人)が、

政治主導で議論すれば、新たな検定意見を求められるかも知らない」と、

しつこくも「残虐な日本軍」を教科書に記述するように迫っている。

その意見が大見出しにもなっていることに、沖縄タイムスの意志を垣間見ることができる。

そこで当日記もタイムスに負けず劣らずしつこく書かしてもらう。

集団自決に関して「軍の強制があった」、或いは「軍の命令があった」という客観的証言はただの一つもない。

係争中の「集団自決訴訟」でも大阪高裁の判断で「軍命(強制)があった」とは証明されず、事実上「軍の強制(命令)」は否定されている。

歴史の専門家で行われる審議会で検証された教科書検定意見でも、「軍の強制(命令)」は削除の意見である。

にもかかわらず、「検定意見の撤回」すなわち「軍の強制」の記述の復活が、沖縄では、あたかも真実に基づく正論であるかのように喧伝される理由は一体何なのか。

それは、沖縄タイムスや琉球新報ら沖縄マスコミのウソの報道による県民の洗脳の結果に他ならない。

ウソ報道の一つの例として去る9月末に行われた「9.29県民大会」で発表された「アピール」として「集団自決が教科書から削除された」というウソの抗議文を発表している。

だが、沖縄紙はそのウソを何の訂正も無く真実として掲載している。

最近の調査によると沖縄の大学生は沖縄戦の知識に欠けるとの調査結果が発表されている。

あす「慰霊の日」 5大学1129人、3割「由来知らない」2009年6月22日 

沖縄戦アンケート

 

大学生にしてこの有様だ。 高校生が新聞や左翼教師に洗脳され、

「沖縄のオジー、オバーが嘘つきだというのか」

と開き直るの仕方のないことだろう。

2007年9月29日 沖縄県民大会 高校生の発言

沖縄紙のウソ報道で洗脳された、ちょん髷ジーさんが「政治介入で歴史を書き替えよ」と、文科大臣に迫るのもまた仕方のないことなのか。

                      ◇
「教科書検定意見」の核心である「軍命(強制)の有無」に関するウソを撒き散らした『鉄の暴風』であり、これが全ての誤解の原点であるが、最近沖縄の識者の中にも、『鉄の暴風』が垂れ流したウソに対して批判をする動きがある。

雑誌『正論』(2009年12月号)で沖縄文化協会会長で「うらそえ文藝」の主幹でもある星雅彦氏が、『鉄の暴風』へ厳しい批判文を寄稿している。

その全文をを2回にわたって紹介したい。

じっくり読んでいただいて沖縄タイムスが撒き散らした「ウソの暴風」を蹴散らして欲しい。

                     ◆

 

『正論』2009・12月号掲載

「鉄の暴風」はGHQの宣撫工作だった -沖縄集団自決の真実と謎
星 雅彦 (沖縄文化協会会長)


■米兵の犯罪王国
                                                                                                       一九四六年の沖縄。戦争の後遺症を引きずりながら、人々は大いなる開放感を抱いて元気を取り戻しつつあった。戦前からの指導者十五人が住民の福祉増進を図るために設立された沖縄諮絢会の委員として選定され、四月には執行機関として沖縄民政府が誕生した。その一年後には、県外疎開者や軍人の帰還が続き、沖縄はようやく活気を取り戻し始め、本当の意味での戦後生活が始まった。
 他方、米軍は行政面で秩序を保持しているように見えたものの、米軍兵士たちはキャンプの外に出るとやりたい放題。暴力犯罪と性犯罪が頻発した。そこで米軍政府は住民には自己防衛を強化するように呼びかけ、他方、米兵には住民の地域への立ち入りを禁止した。だがその効果はほどんどなかった。
 住民たちは自已防衛のために村落の入りロや街角のガジュマルの枝に、鉄のガスボンべの廃品筒を吊り下げた。それは緊急の場合に打ち鳴らす災難除けの鉦代わりなのだ。近年まであっちまっちで見かけることができた。

 四八年八月十九日の深夜にある夢件が起こった。白人と黒人の米兵二人が、民家をのぞき見しながらある村を徘徊していた。それを見つけた住民がガスボンべを打ち鳴らすと、自警団の青年たちが飛び出してきて米兵を追いかけ、逃げ遅れた一人ともみ合った挙句、相手が拳銃を取り出す直前にナイフで胸を突き刺して死亡させてしまったのだ。その後の軍事法廷で弁護人側は「正当防衛」を主張したが、受け入れられず戦時刑法を適用してその青年は絞首刑に処せられた。自警団には自衛心とある種の怨念が入り混じった闘争意識があっての事件であったが、この判決が正当だとは言い難い。逆に米兵が自警団員を射殺するという事件も何件か発生した。ほとんどの場合、犯人は本国へ強制送還という形で処理された。
 一九四九年九月までの六ヵ月間の警察調査では、米兵の強姦一八、殺人二九、強盗一六、傷害三三という犯罪数が計上されている。この状況に対して、県民が抗議したりデモ行進したりすることはなかったが、「ヤンキ一・ゴーホーム」という思いは日毎に強くなっていた。そこで米軍政府はあの手この手で懐柔政策を練り、宣撫工策班が動きはじめたという。
 日本本土でも戦後の混乱期には、同様な犯罪が頻発しており、GHQ(連合国軍総司令部)は、いち早く日本人をマインド・コントロ一ルする計画に着手した。

■マインド・トロール

 今次大戦の終戦直後、アメリカという産業と科学と軍事の発達した大国と対戦して、無残に敗北したという思いから、多くの日本人は絶望感と虚脱感に襲われたが、そこから立ち上がる過程で贖罪意識なるものはなかったようだ。ところが、アメリカは日本が二度ととアメリカには刃向かえないように、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)を実施、あらゆるものに検閲という言論統制をしくなど「マインド・コントロ一ル」を巧妙に行い、日本人に贖罪意識を植えつけていった。その一例がGHQの民間情報教育局企画課のブラッドフォード・スミス課長が全国の新聞各紙に昭和二十年十二月八日から十日間にわたって連載した『太平洋戦争史』である。そして十二月十五日には、GHQが公文書において「大東亜戦争」や「八紘一宇」なる用語の使用を禁止するという指令を出した。
『太平洋戦争史』の主な内容は「戦争を開始した罪、それ以降日本人に対して歴史の真相を隠蔽した罪、日本人の残虐行為、とりわけ南京とマニラでの残虐行為に関する事実を強調したもの」であった。少し長文だが同書の序言の冒頭部分を引用したい。
「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に暇がないほどであるが、……次々に動かすことのできぬような明瞭な資料によって発表されていくことになろう。これによって初めて日本の戦争犯罪史は検閲の鋏を受けることもなく、また戦争犯罪者たちに気兼ねすることもなく詳細に、かつ完全に暴露されるであろう。これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜及び非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取り扱い等であるが、これらのうち何といっても彼ちの非道なる行為で最も重大な結果をもたらしたものは『真実の隠蔽』であろう」
 同書の狙いは、国民と軍部を明確に分離してその対立を作り出し、東京裁判をサポートすることであった。そしてGHQの強力な宣撫工作を後押しするように、朝日新聞は「奪う『侵略』の基地―国民の対米憎悪を煽る」、読売報知新聞は「恥づべし南京の大悪逆暴行沙汰」などと、大々的に同書に追随する記事を掲戴した。

■米軍政府と沖縄タイムス社

 沖縄においても事情は同様だ。一九四八年七月一日にガリ版刷りの新聞が創刊された。沖縄タイムス社の「沖縄タイムス」である。その創刊号一面トップには沖縄軍政府副長官のW・H・クレイグ大佐と軍政府情報部長R・E・ハウトン大尉の短い祝辞が掲載されている。その間に「沖縄再建の重大使命 軍民両政府の命令政策を傳達 国際及地方の情報を報道せよ」という大きく力強い文字が躍っていた。このこと一つをとっても、同紙が沖縄の米軍政府のバックアップを受けていただろうことが分かる。
 そして四九年五月、同紙では常務の豊平良顕と常務の座安盛徳が中心になって沖縄戦記の編纂計画を立案する。そこで生まれたものこそ本稿で論じる『鉄の暴風』である。
 同社の歴史を回顧した高嶺朝光著『新聞五十年』を見ると、「市町村や一般にも協力を呼びかけて手記、日記類などの資料収集に三ヶ月を費やし、牧港篤三、太田良博の両君が取材、執筆に当たって同年十一月には脱稿した」「『鉄の暴風』のタイトルも豊平君らが考えた」とある。
 企画を立ててから取材三ヵ月、執筆三ヵ月。つまりわずか半年で『鉄の暴風』は誕生したのである。紙不足の時代である。協力を求めるガリ版刷りのチラシを作って配布するとしても限度があるし、交通機関や通信機器はないに等しい。そんな不便な時代によくぞと思う。
 それが可能になったのは、やはり米軍政府のバッグアップがあったからではないか。新聞発行の許認可は米軍政府情報部長のハウトン大尉が握っていた。彼は四八年六月二十八日に、沖縄夕イムス社に発行許可を出している。それは、「うるま新報」の瀬長亀次郎が政治運動を始めたのを警戒して対抗紙を育てようという意図からであった。

■出版の背後にちらつくGHQの影

『鉄の暴風』の執筆者は、記者で詩人の牧港篤三と記者で小説家の太田良博の二人。牧港は日本の戦記出版類は大抵読んだという戦争通で、太田は米国民政府(ユースカー)に勤めていた経験があった。太田は米国民政府から沖縄戦に関する資料を提供してもらっていたと思われるが、漏洩防止の密約をしていたのだろう、米軍資料について口外することはなかった。私は三十年ほど前に、米軍情報に関連したことを太田に訊いたことがあったが、彼は薄笑いを浮かべて「憶えてないなあ」と言うだけであった。ニ人は本島内に数回出かけた程度でほとんど現地取材をしておらず、伝聞や手記や日記、そして米軍資料をもとに戦記物語を書きまくったらしい。
 書き上がった原稿は豊平の監修をへて、翁長敏郎(のち琉球大学教授)が英訳を担当、十二月で作業は終了した。
 その頃、軍政長官としてJ・R・シーツ陸軍少将が着任した。シーツ長官は『鉄の暴風』の英文原稿を受け取ってはいたが、その内容については明確な説明は何も受けていなかったようだ。そうしているうちに五〇年三月二十九日、座安盛徳は『鉄の暴風』の原稿を抱えて上京する。沖縄に本の印刷機がなかったため、朝日新聞社に発行を依頼しようとしたのだ。ところが朝日新聞者は座安に対し、「戦記ものはもう流行遅れだ」といってけんもほろろに断る。戦記物の人気は峠を越していて、売れてもせいぜい二、三千部程度だったのだ。

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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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★瀬長亀次郎、戦争を煽った大政翼賛会の黒歴史

2022-02-12 06:47:09 | ★改定版集団自決
 
第32軍司令部の長勇参謀長が首里市内で講演したことを伝える45年1月27日付の記事(沖縄新報)。県民を戦闘要員として組織する考えを表明し、「稼働能力のある者は国民義勇軍の組織を」「一人十殺、これで行け」など、防衛隊や義勇隊などとして県民の根こそぎ動員をもくろむ第32軍首脳の考えを明確にしていた。

 沖縄への米軍の侵攻が迫り本土からの救援が望めない状況下で、日本軍、行政、警察が一体となって県民を戦力化し、国土防衛の組織体制を確立した。1945年2月、島田叡県知事をトップとする大政翼賛会沖縄県支部が主体となり、警察部が推進役となって各市町村長や学校に義勇隊の結成を指示した。15~60歳の県民の疎開を制限し、義勇隊への参加を義務とした。

 日本軍は45年3月、大規模な防衛召集で計2万人の県民を集めた。3月末には旧制中学と師範学校の14歳以上の男子学徒が防衛召集され、二等兵とされた。さらに防衛召集の対象ではない多くの民間人が、義勇隊や炊事婦、看護婦などとして動員され軍に配属された。

 義勇隊は根こそぎ動員の象徴の一つとされる(沖縄県史各論編6)。弾薬や食料運搬の任務を負い、戦闘を命じられた者もいた。本来、兵役法の対象は17歳以上(志願は14歳以上)だが、法的根拠のない17歳未満や女性も動員された。

 戦後の県の調査で、県出身の軍人軍属の死亡者数は2万8228人とされているが、動員の全容は分かっていない。本土では国家総動員法による徴用は軍事産業労働などが主だったが、沖縄では動員された多くの県民が戦場で激しい戦闘の巻き添えになって死亡した。

              ★

「読谷バーチャル資料館」

.大政翼賛会

■解説文

 1940年に結成された国民統制組織。日中戦争が長期化するなか、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発するという情勢をとらえ強力な政治指導体制を確立するためにつくられたファッショ的な政治体制。首相を総裁に、知事を支部長にした全国組織として結成され、政治・経済・文化・生活など各面で国民統制を行ったのです。第二次世界大戦に突入していくとその統制は一層強まり、42年には翼賛壮年団が結成され、続いて大日本産業報国会・大日本婦人会・大日本青少年団をはじめ町内会・部落会・隣組などがつづいて結成されました。
 41年には沖縄県でも協力会議がもたれ、選挙では翼賛会の人物が当選できるように働きかけたといわれています。末端組織の隣組では10戸くらいの家々をまとめ、出征兵士の歓送・留守家族や遺族の世話・防空演習・国債の消化・貯蓄の奨励・生活物資の配給など国民生活を画一的に統制し、個人の生活まで干渉してゆきました。「ぜいたくは敵だ!」のかけ声のもと、パーマや指輪、卵、しょう油まで戦争遂行のため統制されました。しかし、厳しい監視をかいくぐり“敵”の上に“素”を書き込んで「ぜいたくは素敵だ!」とした日本人がいたことも見逃せません。

■写真解説

大政翼賛会の機構図

読谷山村大日本国防婦人会幹部

ぜいたくは敵だ

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瀬長亀次郎と言えば不屈の精神で米軍の弾圧と戦った「不屈の男」、あるいは「米軍が最も恐れた男」で知られている。

だが、瀬長の正体が不屈どころか、偽クリスチャンに入信し米軍に諂う「卑屈の男」である事実を知る県民は少ない。

(あの顔で首に十字架を下げ、キリストに十字を切る姿は、「不屈の男」どころか、まるでマンガである)

瀬長の「不屈神話」次のようにして作られた。

瀬長が公然と反米を掲げる人民党の幹部であることを危惧した米国民政府は、管理する琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置を行い市政運営の危機に見舞われるが、多くの市民が、瀬長の市政を支えるために「自主的な」納税によって財源を確保しようとの瀬長側の呼びかけに応じ、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し、当選後の納税率は86%、最高で97%になった。これにより当座の市政運営ができるようになり瀬長は市政運営の危機を脱する。

これこそ「瀬長神話」の典型である。

当時の那覇市は、米軍の資金凍結を待つまでもなく財政破綻状態であり、米軍が大株主の琉球銀行の融資により辛うじて自転車操業をしていた。

「市民の納税率アップで財政危機を脱した」との説明だが、元々マイナス5の財政に納税率アップをしても、マイナス5がマイナス4になるのが関の山。財政危機の脱出など瀬長信者が創作した神話に過ぎない。

だが瀬長氏は当時非合法であった共産党員であることを隠し、那覇市長に当選した。 また犯人隠避の罪状で投獄されている。

結局、瀬長氏は米軍の財政援助なくしては市の公共事業が成り立たないのを承知で米軍に反抗し、米軍が大株主の琉球銀行からの融資を凍結され、辞任に追い込まれることになる。 現在の那覇市の泉崎橋が工事途中のまま長期間放置され、那覇中学や上ノ山中学に通学する生徒が大迷惑したことを昨日のことのように思い出す。

長年、琉球銀行の総裁を務めた富原守保の著書『金融の裏窓十五年』には、那覇市に対する融資凍結について「人民党市長誕生」「那覇市の資金を凍結」などとと2頁に渡って詳述してあるが、「市民の納税率アップ」については一行の記載もない。

《人民党市長誕生

・・・(1956年12月の那覇市長選挙で)対米批判勢力を代表する人民党候補が初めて中央都市で勝利を収め、米国側をあわてさせることになった。米国統治のお膝元で、”赤い市長”誕生したというので内外で大きな反響を呼び、当時は日本本土の中央紙でも大きく報道されたSで長市長の那覇広く知れ渡った。・・・

那覇市の資金を凍結

当時、これら(那覇市の都計資金)の融資は琉球銀行が取り扱っていた。当間前市長時代には、区画整理資金や水道施設資金などは申請があればどしどし融資していたが、瀬長市長に代わってからは一切の貸し付けが停止された。このような補助金や復興資金の取り扱いについては、事前に米民政府の承認を求める必要があったため、民政府と相談の上きめたことだ。革新派は、この貸付停止措置を不当ととして強く抗議し、融資再開を迫ったが、私は既定方針を変えなかった。というよりも私の権限ではどうにもならない点もあった(『金融の裏窓 15年』:53頁~54)》

               ★

カメジローのキャッチフレーズである「不屈」は人民党が結成した昭和22年(1947)から日本共産党に合流する昭和48年(1973)の間に好んで使っていた言葉で、現在もそのイメージが強い。

だが、いろいろ調べているうちに瀬長カメジローが決して口外しない秘密のワードが複数あることに気がついた。

法政大学の「法学志林協会」が発行する雑誌『法学志林』(2018年3月発行)に掲載された平良好利著「沖縄政治における『保守』と『革新』」に、次のような興味深い記述があった。

《三 沖縄革新勢力について

(1)沖縄社会大衆党

まず沖縄の革新勢力を考える上で重要なのは、沖縄社会大衆党(社大党)の存在である。本土においては「五十五年体制」以後、自民党に対する野党第一党の地位にあったのは、いうまでもなく日本社会党である。しかし、沖縄では、この日本社会党の支部的存在であった沖縄社会党はまったくの弱小正当であり、野党第一党の地位にあったのは社大党であった

社大党がなぜ野党第一党の地位にあり、しかも1950年代は琉球民主党と勢力をほぼ二分するほどの強さをもっていたかについては、同党の誕生経緯と党の性格を見る必要がある。同党は前述したように1950年10月に平良辰雄を党首ととして結成された政党であるが、その背景には同年9月に行われた沖縄群島政府知事選挙があった

これまで米軍の任命によって知事が選ばれていたことを考えれると、戦後初めて行われたこの知事選挙は、米軍占領下にあったとはいえ、沖縄の「民主主義」にとってはまさに大エポックであった。

この知事選に名乗りをあげたのは、沖縄民政府工務部長の松岡政保、琉球農林省総裁の平良辰雄、沖縄人民党首の瀬長亀次郎の三名だったが、選挙は事実上、松岡と平良の一騎打ちの様相を呈した。松岡は政保は15歳でハワイ移民としてアメリカに渡り、米トライステート工科大学を卒業して長くアメリカで生活したあと、39歳で帰郷(1936年)し、沖縄製糖嘉手納工場で技師や工場長を務めた人物である。戦前はまったくと言ってよいほど無名であった松岡だが、戦後は米軍占領下でその”米軍通”を買われ、民政府工務部長に抜擢される。地上戦で廃墟と化した沖縄ではインフラ建設など戦災復興が最大かつ緊急の課題であったが、その復興事業を一手に担ったのが、この松岡率いる工務部である。 民政府の一部局でありながらも同政府予算全体のおよそ五倍のものぼる膨大な復興費を米軍から割り当てられていた工務部は、まさに当時絶大なる力を持っていたのである。

対する平良辰雄は、第八高等学校中退後に沖縄県庁に入庁し、県出身者として初めて課長(振興計画課長)にまで上り詰めたエリートであり、戦時中は大政翼賛会沖縄支部壮年団長なども務めた人物である。この平良支えたのが、民政府知事の志喜屋孝信、副知事の又吉康和、行政法務部長の當間重剛、官房長の比嘉秀平、琉球海運社長の桃原茂太らであり、なかでも中心になって支えたのが、當間、桃原、比嘉の三名であった。

平良の親友の当間は、京都帝国大学法学部を卒業し、戦前は那覇市長や大政翼賛会沖縄県支部長などを歴任し、戦後は民政府で経済部長や行政法務部長を歴任し、のちに第二代行政主席となった人物である。(略)

(2)沖縄人民党と沖縄社会党

沖縄の革新勢力を考える上でおま一つ重要なのは、瀬長亀次郎率いる沖縄人民党の存在である。同党は前述したように最も反米的な性格を持つ政党であり、日本復帰後は日本共産党に合流していった政党である。米軍統治下においては一定の支持を得ていたことは確かである。とりわけ、米軍への一貫した抵抗姿勢や聴衆をひきつける演説のうまさなどもあって、党首瀬長亀次郎への個人的人気は高かった。

先に述べたように、米軍は1954年に瀬長を「共産主義者」としてレッテルを貼り、強引なかたちで逮捕・投獄している。また56年に彼が出獄し、那覇市長選挙で勝利して沖縄の中心都市の市長に就任すると、米軍は市への補助金を打ち切って圧力を掛け、最終的に市町村自治法と選挙法を布令によって改正し、彼を市長の座から追放するのであった。

こうして米軍が弾圧を加えれば加えるほど、逆に瀬長人気は高まっていき、よく58年の1月の那覇市長選挙では彼の支援した兼次佐一(人民党第二代委員長、社大党初代書記長)が当選したほか、同年3月の立法院選挙では瀬長率いる民連(民主主義擁護連絡会議会)が5席も獲得するという快挙をみせる。また、日本復帰を目前に控えた1970年の国政選挙(衆議院選挙)において瀬長が二番手で当選したことは、彼の人気の高さを物語っている。

同党が日本共産党沖縄県委員会へ移行したあとも、県民の一部から根強い人気を得ているその背景には、こうした米軍統治時代の瀬長および同党の「抵抗の軌跡」があったといえよう。(略)

米軍統治下の沖縄政治の特質は先ず第一に、保革を問わず沖縄の主要四党がいずれも「日本復帰」を党の方針として掲げ、アメリカ統治からの脱却を目指していた。しかも、米国支配からの脱却がイコール沖縄独立ではなく、日本への復帰であった。

第二に注目すべきは、沖縄では当時の日本の政治構図である「自由主義」か「社会主義」かといったイデオロギー的対立が見られなかった

野党第一党の社会大衆党は「必ずしも社会主義の繁栄を掲げているわけではない」と表明していた。また当時最も反米的であった瀬長率いる人民党も、「共産主義」の実現を掲げて打たわけではなかった。

これら両党とは異なり唯一「社会主義」の実現を謳っていたのは社会党であるが、当時大きな輪では大きな影響力を持っていなかった。

(3)保革対立と”中道性”

以上のことから考えると、沖縄政治の特質の一つは、その政党間の政策距離が近いこと、すなわちそこから導き出される”中道性”というものにあったといえるのではないか。(略)

沖縄の抱える課題は米軍統治時代は大きく分けて二つあり、その一つは米軍統治体制の打破すなわち日本国への復帰であり、いま一つが米軍統治下にあっても住民の生活を豊かにすること、すなわち沖縄の経済振興を図っていくことであった。前者の課題により熱心に取り組んだおが革新陣営であり、後者の課題により関心を示したのが保守陣営であった。(略)

以上のことを考えると、沖縄の抱える現実的な課題を保革それぞれが分担して引き受けた、ということである。

この保革の関係について沖縄選出の元衆議院議員嘉数知(自民党)は、次のように述べている。

「保守が基地の段階的整理縮小を求めてきたのに対し、革新側は即時返還という主張だった。ただ、『基地を減らす』という根本的部分では共通する面もあった。 保守は、沖縄を〔経済的に〕発展させるために国の力を借りる必要があるという現実路線に立つ一方で、基地に起因する事件事故に厳然と抗議してきた。 〔一方、基地に対する〕革新側の強い反発が政府に『沖縄を放っておいてはいけない』という意識を持たせ、顔を向けさせる役割を果たした。対政府という視点で見た場合、一定の歩調で問題解決に取り組み、切磋琢磨しながら沖縄を発展させてきたという側面もある。結果において、保革対立が相乗効果お果たしてきた部分がある」。(2014年10月19日付琉球新報)

■國場幸太郎1927‐2008年。那覇市生まれ。1953年、東京大学経済学部を卒業し、米軍統治下の沖縄に帰郷。沖縄人民党に入党し瀬長亀次郎書記長を支えるとともに、地下組織の日本共産党沖縄県委員会書記もつとめ、米軍の武力土地接収に対する農民の抵抗運動(「島ぐるみの土地闘争」)を支援した。後に人民党内の路線対立により沖縄を去り東京に移住、現代沖縄研究に取り組む。1964年より宮崎県で高校・高専の教員をつとめた
沖縄の歩み 岩波現代文庫』より

占領期最大の恐怖「公職追放」:終戦の翌年、正月早々の衝撃(1)https://www.nippon.com/ja/series/c085

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斉藤 勝久 【Profile】

日本は敗戦後、勝者の占領軍に7年間支配された。占領期の前半に日本は史上、初めての異民族による公職追放(パージ)を経験。職業軍人をはじめ、「好ましくない人物」と判断された政治家、経済人、言論人、地方の実力者ら約21万人が追放され、社会的制裁を受けた。戦勝国が行う粛清に全国の人々が脅えたのだ。しかし、荒療治のパージがなければ、戦後の非軍事化と民主化は実現しなかったともいわれる。語られなくなった公職追放の実態を、連載で見ていく。
 

ポツダム宣言に基づくパージ

終戦(1945年8月15日)の20日前、米英中3か国の首脳が日本の戦争終結条件を示した「ポツダム宣言」を日本に発した。日本が受諾したこの宣言の第6項に、「無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序が生まれない。そのため、日本国民を欺き世界征服に乗り出す過ちを犯させた者を永久に除去する」(意訳)とある。この規定に基づき、GHQ(連合国軍総司令部)によるパージが行われた。


増田 弘氏
政治学者。立正大学名誉教授。専門は、日本政治外交史・日米関係・安全保障論。1947年神奈川県生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒業、同大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。著書に『公職追放』(東京大学出版会、1998年)、『マッカーサー』(同、2009年)など。

公職追放研究の第一人者で、多くの元GHQ担当官とも米国で面談し、この分野の著書も多い増田弘・立正大学名誉教授は、パージの意義をこう話す。「公職追放なくして戦後民主主義は考えられない。パージは日本人を、戦争推進に関与・協力した軍国主義タイプと、平和国家として日本が再生するのに好ましいタイプの2つに切り分ける“ナイフ”だった。民主化の推進力となった公職追放は、新憲法制定や教育改革などと並んで日本変革に重大な足跡を残した」

米国は戦時中の43年から、日本降伏後の対日戦後計画に取り組んでいた。武装解除のほか、日本の戦争を主導した戦犯の逮捕、大政翼賛会などの解散に加え、戦争政策に関与した役人や好戦的国家主義者らを公職や私的企業から締め出す「公職追放」の構想をまとめる。

45年8月末、GHQトップの連合国軍最高司令官に任命されたマッカーサーが、絶対的権力者として日本に上陸した。マッカーサーとその幕僚たちは、米政府の構想を実行していく。

GHQの標的となった内務省

昭和天皇とマッカーサーの初めての会見が行われた1週間後、二人並んだ写真に日本人の多くが大きなショックを受けていた頃、マッカーサー司令部が突然の発表を行う。終戦からまだ40日しかたっていない45年10月4日、GHQは日本政府に、治安維持法や特別高等警察(特高)などの廃止、内務大臣や警保局長、警視総監、各道府県警察部長(本部長)、特高全職員らの罷免を命じた。

マッカーサー連合国軍最高司令官と天皇陛下(1945年9月27日、東京・アメリカ大使館)=時事通信

これにより、内相や内務省の警察の首脳、特高職員ら約6000人が一斉に辞めさせられた。天皇とマッカーサーの写真を掲載しようとした新聞を内務省が発禁処分とし、それをGHQが怒りを込めて覆したことも関係していた。当時、最有力の官庁だった内務省はGHQの標的とされ、後日、解体されていく。

東久邇内閣は終戦直後に、皇族の東久邇宮(最前列)を首班としてスタートしたが、50日足らずで総辞職した=共同通信
東久邇内閣は終戦直後に、皇族の東久邇宮(最前列)を首班としてスタートしたが、50日足らずで総辞職した=共同通信

特高パージはまだ公職追放の前触れに過ぎないが、この指令で終戦直後に始まったばかりの東久邇内閣が崩壊した。首相の東久邇宮稔彦(なるひこ)王は皇族(当時)で、「全国民が総懺悔(ざんげ=悔い改めること)するのが我が国再建の第一歩」と「一億総懺悔」を訴えていた。しかし、首相はGHQの突然の指令に納得できず、抵抗の意地を示して総辞職したのだ。GHQはさらに同月30日、教職パージを命じ、これで軍国主義的な教職員約7000人が追放された。

当時の日本にはGHQの動きに賛同する者は少なく、占領軍に非協力的だった。これに不満だったGHQは、同11月に日本軍の武装解除がほぼ完了すると、近づく総選挙の前に「好ましからざる人たち」の一掃を計画する。これで、日本中が震え上がるのは、年が明けてのことである。

GHQが考案した追放者範囲を広げる規定

1946年1月1日、久しぶりに戦火を恐れることのない正月を迎えた。昭和天皇は年頭に当たり、「新日本建設に関する詔書」を発表し、現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定した(人間宣言)。そして同1月4日、ついにGHQから日本政府に「公職追放令」(第1次)が通達された。

追放の該当者は、A項が戦争犯罪人、B項が陸海軍軍人、C項は超国家主義・暴力主義者、D項は大政翼賛会指導者、E項は海外金融・開発機関の役員、F項が占領地の行政長官、G項はその他の軍国主義者や極端な国家主義者。追放の対象となる在職期間は、日中戦争の発端とされる盧溝橋事件の起こった1937年7月から、終戦の45年8月までとされた。

該当者の対象項目で問題なのがG項で、「軍国主義政権反対者を攻撃した者。言論、著作、行動により好戦的国家主義や侵略の活発な主唱者たることを明らかにした一切の者」などが含まれる。

「G項は追放に該当するか、白か黒かを判定する時に、いかようにも判断できる項目で、追放者の範囲を広げるため、GHQが考案したものだ。G項が魚のすくい網のような効果を発揮して、後に首相になる鳩山一郎や石橋湛山ら大物政治家らも、これで次々と追放されることになった」と増田氏は説明する。

追放者の烙印をおされると、公職から追放され、退職金も恩給ももらえない。政治家であれば政治活動が禁止され、経済人なら会社にも入れず、言論人は言論活動ができなくなった。

日本のパージ政策は、先に降伏したドイツでの非ナチス化政策をモデルとした。ドイツでは、ナチス党員ら追放者に対して重労働、財産の没収、市民権の剝奪など刑罰的な制裁を科した。日本ではそこまで厳しくなかったとはいえ、周囲から冷たい視線を浴びて、いつまで追放されるかわからず、「塀のない監獄」に長く入っているようなものだった。さらに、ドイツにはなかった独特のG項があるので、すねに傷を持つ日本人はおびえた。

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