治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

制度依存を減らす 身体アプローチが発達した成果

2023-02-15 08:59:45 | 日記
さて、『療育整体 勝手に発達する身体を育てよう!』の直販おまけとして薄い本を作成しております。責了して現在印刷中。
ちなみに『療育整体』本体も責了して現在印刷中です。

「薄い本」の第一ページ目はこんな感じなのですが



本当に、感覚統合から療育整体まで、よく身体アプローチもこれだけ発達したな、と思うのです。

そして一つのキーワードが「応用力」だと思ったので
2月18日に応用力養成講座2023を創立27周年記念に行うこととしたわけです。

思うに最初、ASDの人たちの「身体がつらい」ことに気づいた私は、まずこれを世の中に知らせようと赤本こと『自閉っ子、こういう風にできてます!』を出しました。

それを読んで感覚統合の人たちがやってきました。


感覚統合の人たちの発達援助における役目は何だったでしょうか?
それは、今思うと
「本人たちも不思議で仕方なかった一般の人々との体感の偏移」について、説明する言葉を持っていたことです。
そして当時から、細々とですが、「感覚統合」というものが療育や教育の場で活用されていることがわかりました。

それまで「うちの子(自分)はなんだか身体の使い方がへんてこだ」と思っていた人たちに説明が与えられたわけです。

でも感覚統合の実際のセラピーの恩恵に浴することのできる人は少なかったです。
資源がないし。
その資源はほぼ子ども向けに限られていたし。
そして「資源がない、資源がない」と訴えるのもギョーカイ側の戦略で、それに花風社もまんまと利用されていたわけです。

が、一方で私は当時でも、感覚統合が役に立つ、と信じていました。
なぜかというと、一般の人々の応用力を高く見積もっていたからです。実際よりかなり高く。
まさか国に日付を決められないとマスクを外せない国民だとは、このコロナ禍になるまで知らなかったのです。
自分はそうじゃないし、周りの人もそうじゃなかったからです。

だから感覚統合の本を出したら、大人には資源(具体的に言えば感覚統合のセッション)は与えられなくても、みんなそこから勝手に自分の身体に必要なアプローチを引き出して活用してくれると思っていました。
大人には療育センターの利用はできなくても、ジムがあるし、公園があるし、河川敷があるし、自宅があるし、場所も自分でできる身体アプローチはいくらでもあるからです。
週末川沿いを走ると、身体を動かしている人がたくさんいます。
身体の使い方に難がある人たちに感覚統合の理論をしてもらえば、その一人になるためのヒントになると思ったのです。

ところがどうしても「先生に指導されなければ始められない」人が多いジャパンでした。
そういう人のために民間のセラピストが仕事していたりもしました。

でもとにかく、感覚統合のころは「先生依存」「場所依存」だったのです。
感覚統合で自分の(わが子の)偏移はわかった。でも指導されないと始められない。なのにリソースがない! と。
リソースがない、と連呼させて自分たちの領域を広げるのがギョーカイの作戦で、うまいこと花風社を利用してやったりだったわけですが、実際にリソースがないと始められないと洗脳された人も多かった。

ところが

花風社の身体アプローチは発展し、その「制度への依存度」をどんどん減らしていきました。
実効性を考えると、制度への依存度は減らさざるを得なかったのです。
月に二回のセッションを待つより、自分でできた方がいいに決まっていますので。

=====

大原則
制度への依存度が減れば実効性は高まる。

=====

でも

だからこそ皆さんの応用力が大事になります。
3月13日にならないとマスクを外せない人には不利な展開です(本当に外したくない人は別)。
「個人の判断」ができない人には不利な展開です。

依存度が減ったからこそ「個人の判断」ができる人、しかも「予測を当てられる人」が有利になるわけで

やはり応用力は大事なのです。
ところがどうやら、本当に応用力を養われないジャパン、というか
応用力がなくても生きてこられるほどゆるい国だったと言えます。

だから経済は30年停滞し
コロナ禍からの脱出も世界から一年遅れたわけですが。

こうやって感覚統合から療育整体に至るまで
身体アプローチは発達しました。

療育整体以降どうなるか
松島さんも新刊の中で言及されていますし
大久保悠さん@てらっこ塾や私も


それぞれ発信していく2023年以降になるでしょうね。

『療育整体』の新刊受付
Amazonでも始まりました。



「どかん」にまつわる誤解があるみたいなので書きます

2023-02-06 09:31:38 | 日記
さて、今日はいきなりですが「どかん」について書いておきましょうかね。先日の飲み会で出た話なので。

花風社クラスタの皆様はたしかに「どかん」と発達することが多い。それが小学校就学問題前に起きると、それ以降はするするとメインストリームの人生を歩める。もちろん色々波はあるけど、それは最初から健常児だった子も同じ。皆さんの子ども時代青春時代を振り返ったって、色々あったでしょうが。

で、メインストリームの人生を歩める最大の長所は何かっていうと、親が見栄張れることではもちろんなく、「医療・福祉という公金チューチューシステムの餌食として人生を送らなくて済む」がゆえに「自由を保障される」ということです。

コロナ禍でよくわかったでしょう。いかに福祉や医療の世話になると自由を制限されるか。うちの母は要介護でもなく病気していないので在野の老人として忖度マスクくらいの制限しかありませんが(それも個人の判断でやっているだけ)、入居施設入っている人はそもそも面会も外出も制限されているでしょう。そして病院などは職員は通ってくるし医者たちは飲み会するしドラマに病棟貸し出しているのに面会は制限しますし妊婦にはマスク強制します。はなから一般人を下に見ている。そんな人々とずーっとかかわりあう人生を送りたいですか?

とにかく「医療・福祉の世話になる」というのは一生こういう高圧的な奴らによる奴隷もしくは家畜扱いを受けるということです。そこから自由になるには(形式上だけでも)健常児者になった方がいいわけです。

なんの話だっけ。

ああ、「どかん」ですね。

それで花風社クラスタは時々「どかん」と発達する現象がみられるのでそれをみんなで喜んでいると、

「うちには起きない」みたいないじける軍団がいるそうです。

その一つの理由としては、金魚なり、原始反射なり、高プロテインなり、割と「さっさと発達する(人によっては)」手段が出そろったなう、なので、それをやれば子どもが「どかん」と発達する、という誤解が行き渡っていることがあるからみたいです。

でもお子さんは自動販売機じゃないんです。130円入れたらペットボトルが転がり落ちてくる、みたいなものじゃないんです。人間の発達は。

私が「どかん」という現象に「どかん」と名付けたのはなぜかというと

それまで地味にやっていた数々の試行錯誤

・金魚
・指いい子
・藤川理論(もどき)
・メディア制限
・外遊び
・首上げ  等々

が全然実っていないかのように一見見えたのにある日突然「どかん」が起きて、わかることは

発達がお子さんの中でたまっていて
それが顕在化するともう止まらないくらい発達する。

という現象がよく見られたからなんです。
自動販売機方式ではなく、「たまりにたまっていたものが爆発した」現象を「どかん」と名付けたのです。

マニュアル頭の人にこれが理解難しいのはとてもわかるのですが

でもこれくらいでくじけていたら、そもそも仕事すらできないと思うのです。ルーティンワークならできるのかもしれないけど、私はそういうの経験したことないから逆に「試行錯誤する習慣のない人がどうやって仕事をこなしているのか」の方が不思議なんですけど。

これまで学校でも職場でも他人の命令に従ってマニュアル通りにこなしてきた人たちにとってはだから

子育てが初めての「非マニュアル仕事」なんだと思います。
だから戸惑うのかもしれないし、よそが「どかん」しているのを見て「うちも130円入れているのに~」と焦るのかもしれませんが、

私が「どかん」と呼んできたのは「地道な積み重ねが全然実らないように見えてある日一気に実る現象がよくみられるよね」ということなんです。

あと、これからは、たとえ健常児にならなくてもなるべく医療福祉にからめとられないことがとても大事です。

ちょっと読み書き苦手で言葉が遅くて・・・でもお料理得意で・・・みたいな子がいるとすると

てきとーに学校生活をこなし、なんとか卒業して、板前修業してNY行けば年収二千万取れるかもしれない、という時代がくるわけですから

勉強できないくらいで支援学校に行き就労Bに行き本当は自立させる気持ちも能力もない支援者の家畜として月15000円の給料を65歳までもらうのと

お勉強は苦手だけど体力と好きなことに関しては努力する意欲のある前向きな子

では人生ががらりと変わっていくのです。
この落ちぶれる国から逃げ出す自由も、医療福祉にからめとられないということが最低条件なわけです。

だから「発達障害、治るが勝ち!」はますます正しいのですよね。

この短い(当社比)ブログで何を言いたかったかというと

・「どかん」は自動販売機方式ではなく地道な積み重ねの結果
・治るが勝ち

なんだけど

でもこれからは(これまでもそうだったのだけれどこれからは特に)「発達障害が完全に治らなくても別にいい」「むしろたくましさが必要な時代」」っていうことです。

そうなると、ますます身体アプローチは大事なんだけど、ここで誤解してほしくないのは

統合されていない原始反射なんてあっても別に構わない。
統合できるのだけしたらいい。
最初の二つ(恐怖麻痺とモロー)だけは統合してた方がいいけどね

ということです。

ぜ~んぶ統合しないと社会に出られない、みたいな妙な誤解をしている人も多そうなので書いておきますね。

あと「治してくれるから、大先生のダメ出しに耐えるの」みたいな悲惨な方向を選ぶママさんも、考え直した方がいいです。

子どもは治った方がいいけど、治らなくても生きていけます。
だけど、たかが子どもに障害があるくらいでダメ出しするような支援者に、なんで傅かなきゃいけないんでしょう。
ママにはママの人生があるはずです。
プライド持たなきゃ。

生活の中の地道な積み重ね、というのが肌身でわからない人は、ぜーったいにこよりさんの本は読んでください。


苦労と優しさ その2

2023-02-04 08:22:44 | 日記
さて、松島さんは苦労人だから優しくて、「しなくていい苦労はさせたくない」という思いを突き詰めた結果療育整体があれほどシンプルになったわけですが

苦労していない人独特の優しさというのもあるのです。
という話を私は松島さんにしました。
理解できているかどうかはともかく。
苦労していない人の優しさというのもあると私は思っています。

苦労してきたから優しい人と、苦労してこなかったから優しい人がいると思います。世の中を見渡してみても。

私は親の入院代とかで苦労はしてきませんでしたが(そもそも親は入院しない子ども時代でした。っていうか母に至っては私が生まれてから全く入院していません)
それでも私にも優しいところがあります。

一方で私の言動には「優しくない」と思われる要素がたくさんあるのも知っています。
いくつかあげてみましょうか。

「浅見淳子が優しくないと思われる理由」

まず、

・「誰かが傷つくから」という理由で言動を選ばない。

私は発達障害者による法的被害を受け、それを司法で解決しました。その事実は全く隠しておりません。
発達障害者の迷惑行為に苦しんでいる人は多いはずです。
それを隠すのが支援だと思えません。
共存のためにこそ、私は発達障害者に迷惑行為をかけられたときには「迷惑だ」と明言していますし、支援者たちが何かを恐れて負の面に言及しない中で、非支援者民間人として迷惑だと明言するのが使命だと思っております。

・「結果の不平等」に肯定的。

やった人とやらなかった人では結果が違うのは当たり前のことだとみなしているので、結果の平等を求めるサヨク的メンタリティの人たち(福祉業界に多い)とは相性がよくありません。

・「成功しなかった人たち」に気づかない。

栄養アプローチでも身体アプローチでも治っていない人もいるみたいですが、治った人にしか興味がなくてその人たちをほめたたえるのに忙しく、治っていない人のことは存在に気づいていません。おまけに

・「成功しなかった人たち」がひがみで絡んでくると、同情したりなだめたりするのではなくきっぱりとはねつける。

卑屈な人は嫌いです。きっぱりと付き合う気がない。
治らないことは、仕方ないことだと思います。でもその人たちが「治ったからっていばるな」とかいばってもいない治った人たちに難癖付けているとやだなあ、と思いますね。

・卑屈メンタルがわからない

私は「治った自慢のお部屋」を作ったとき「他人の治った自慢を苦痛に思う人」というのを想定していませんでした。「他人の治った自慢に希望を見出す人」だけが見えていました。いや、心のどこかでひがむ人もいると知っていたけれど、そういう卑屈な人のことは勘定に入れなかったっていう感じかな。自分が付き合いたい相手でもなかったし。

・絡んできた相手を慰めない。むしろ全否定する。

それと、発達障害の人とかその親には、なぐさめられたくて絡んでくるみたいなアプローチをする人が多いけど、そういうのは嫌いだから支援者がやりがちな「おおよしよし」はまずやりません。
そういう人はなぐさめないとよけい絡んできて色々難癖つけるんですけど、最後には「あんたなんか大嫌いだからあっち行って」と言います。面と向かって大嫌いと言われることってあまりないらしく、びっくりされることが多いのだけれど。私は大嫌いな人には大嫌いと言います。

という振舞をしてきたために、あまり気づかない人もいるけど、気づいている人は気づいているでしょう。私は結構優しいです。

そして私の優しさは「自分がラクチンであるがゆえの優しさ」です。

自分が基本ラクチンだから、親身になってしまうのですね。

たとえば最初に自閉っ子たちと仕事し始めてわかった四つの不定愁訴。



こんなのはただの一つも経験したことがありません。
感覚過敏はなく、夜になると自然に眠れます。
暑いと汗が出ます。

だからかわいそうに思った。不便だろうなと思った。「治ればいいな」と心の底から思ったのです。

2000年代からそう思っていて、治せる人を探し続け、2015年には四つ治るための方法が花風社から出そろいました。
15年かかったけど、全部治るようになりました。治る知見を揃えました。自分で投資して、本作って、世の中に問いました。

この四つの不具合には親なら気づいていた人も多いし、中には「苦しそうなわが子を見ていると、代われるものなら代わってあげたい」なんていう方もいました。

でも他人で「これどうにかならないの」と真摯に追及して治る方法見つけてきてきたのは結果私だけだったかもしれません。

専門家たちはあの不具合を観察し、外に向かって啓発して「配慮を」とか社会の理解を訴えてそれで終わっていた。
誰も「治してあげたい」とは言い出さなかったのです。私は思ったけど。

それでどんどん本を出してしまったのですね。素人のくせにとかエビデンスガーとか言われてもひるまなかった。治せない医療がえらそうに言うんじゃねえ! くらいの気持ちで(そして言動で)やってきた。
そして今の花風社ラインナップがあるわけです。

それと、基本、自分が心身ラクチンだと
「先が見える」のですよ。

ああ、これはこうなってこうなるな、みたいなのが見えてしまう。

『発達障害は治りますか?』が出て、大変な炎上が起き、魑魅魍魎が湧いたとき「五年後、十年後をみよう」と私は言いました。そして13年後の今、「治った、治った」という人がたくさん出てきて、身体アプローチ「で」発達する人が増えた。そして身体アプローチもどんどん手軽になり、訓練みたいに頑張る必要がなくなり、ついには十数秒で変わってしまう療育整体まで出てきて、身体アプローチ「も」発達してきたわけです。
治るのがますます簡単になってきた。

そして「治るなんてうそ!」と言い張る人たちが高齢化&フェードアウトし、新しい世代は最初から「発達障害でもやりようがある」と思う世の中になった。

私がマスクを外したのは2020年のGW明けなので、三年早かった。今子どもたちの発達が―とか言われ始めましたが、私はスーパーで小さなかわいいマスクをみたときに「これはやばいことになるぞ日本」と思って外したのです。

必要性を感じない&被害が予想できていたから注射も打たなかった。
打っていない事実を隠す必要性も感じなかった。
今となっては大正解でした。

そして私が「発達障害は身体アプローチだ」と気づいたのは2000年初頭。赤本こと『自閉っ子、こういう風にできてます!』が2004年。『発達障害は治りますか?』が2010年。小田原大先生デビューが2014年。『人間脳を育てる』が2016年。『NEURO』が2019年。そして今『療育整体』なわけです。

2010年に湧いた魑魅魍魎の言うことをはいはいと聞き入れておとなしく引き下がっていたら、それ以降の身体アプローチの展開はなかったのです。

そういう展開にはどうしても闘いがつきまといますので、闘ってきた私は優しく見えないかもしれませんが、心の底から「治ってほしい」と思わなければできなかったことです。

まあそれと同じような予測能力を小田原の大先生にも働かせてしまったんですね。それで一年前に「そのままのやり方で集客どうすんのよ」みたいなことを言った。そうしたら「できてます」。「でも行き詰まるでしょそのやり方じゃ」みたいな応酬があり、大先生は返事をしなくなった。

今大先生が集客できているかどうかは知りませんけど、もしできていたら万々歳。できていなかったら「予測通り」ということで、どっちみち私は納得かな。

ただ、大先生のところに(以前ほど)人が行かなくなったらしいことには心を痛めていました。大先生の売り上げだけのためじゃないですよ。鹿児島へのアクセスが制限された今、やはり生でみてもらうことは大事で、情報量が違うし、誰かがその役目を果たさなきゃいけなくて、それは大先生だと思っていたので。だから「人が行っているかどうか」はとても気にしていたのです(優しいでしょ)。

それでもどうやら以前ほど人が行かなくなった理由が、コロナっていうよりも、「ダメ出しがきつい」だとわかり、ああそれなら行かないでいいかもな、と思いました。

子どもを治してもらえるからって親がダメ出しされても唇かみしめて通い続ける人は、自己肯定感大丈夫? って思ってます。子どもが治るのと、親御さんの自己肯定感と、どっちが大事かわかりませんからね。


お子さんは治らなくたってハッピーに暮らす方法はある。

でも親御さんが自分の自己肯定感を大事にしないと、先も見通せなくなりますから。

だから松島さんを見つけるまで、小田原の大先生と不仲になったことは公表しませんでした。

生で会うのは本当に大事だから。

5月以降はイベント等も大っぴらにやりやすくなるでしょうから、皆さんも(そして私も)対面の感覚を思い出しましょう。

『療育整体』のQRコードにも大いなる期待が寄せられているけれど、一本一本は短いですよ。

まあ数十秒で変わるのが療育整体の特徴でもありますが、ながながとしなかったのは「各地に会いに来てくれる人には会いに行こうよ」という励ましの意味もあったから。一応今日からやれるやり方は載せるけど、でもチャンスがあるのならみてもらってくださいね。

苦労した人の「しなくていい苦労はさせたくない」も優しさだけど
苦労らしい苦労を体験してこなかった人の「これ、治らないかな?」と非難されようと妨害されようと追求してきた粘り強さもまた優しさなんだと、わかってくださる人がいればいいと思います。

でもわからない人がいても別にいいです。
私は仲間がそんなにほしくない人なので。

仲間がほしい人って多いですね。
私はそんなに要らないのです。

これから療育整体の分野に乗り出すと、そっちの人が私に興味をもってFB申請とかしてくれるかもしれませんが

やめておいた方がいいです。
口が悪いんで。
おまけに基本、発達障害者嫌いなんで(そして嫌いと明言する権利があると思うくらい発達障害者には嫌な目にあわされてきたんで)、私の言動に傷つくと思います。

どうしても私の発言に興味があれば
ツイッターアカウント作ってフォローして、いやになったらリムるくらいのスタンスがいいと思います。

そしてだいたいの発達障害関係の人とは私、全く気が合わないんで。
だいたいの人とは長続きしないと思います。

松島さんとは、全く違うキャラなんですよ。
どっちも優しいと思うし
どっちかというと、っていうか言うまでもなく、松島さんの方が圧倒的に優しいですが。

でも私も優しいんです。
ただ皆さんがその優しさを理解できるかどうかわからないので。

というわけで、帯はこうなりました。
今回はどうしても「苦労」という言葉を入れたかったのでした。