治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

私の知らないところで役に立っている花風社の本 大阪講演のご報告 その3

2021-07-30 10:33:04 | 日記
さて、連載三回目です。
本当は三回で終わらせるつもり&最後は栗本さんの悪口にするつもりだったのですが、ひろあさんのブログを見て内容変更です。

ひろあさんご自身がブログで会のご報告をされています。




引用させていただきます。

=====

私が私立の特待生、特進コースにこだわるのは、
公立の学校という特殊なルールに縛られずに進路を考えてほしいということと、
私立の特待生、特進コースというのはほとんど大学受験をきちんと経験するという点です。

指定校推薦は基本使わせてもらえません。
総合選抜のほうは大丈夫です。

良い大学に行けば絶対に大丈夫とはいえませんが、
大学受験を戦い抜いた経験があるかないかは、社会に出てからの大切な経験になると思っています。

~~~~~

社会もそうですが、
意外に受験というものも多様性を受け入れてくれます。


でも、それに公教育はついていけていません。


そのことを知る一歩として特待生っていうものから受験を見ることが有効だと思っています。

=====

なるほど、納得です。
それで特待生にこだわられていたのですね。

そして特待生は指定校推薦は使わせてもらえないのですね。
きちんと大学受験を体験することになるのですね。
これも理にかなったシステムですね。

ところで

また首都圏三県になんとか宣言が出るようですが、大人の私にはまったく関係がありません。
夏休みの子どもたちのために、せっかく開いた海やプールが閉じなければそれでいいです。
また、一方で、感染の少ない地域の海やプールが閉じているらしいのが不可解です。

発達障害やり始めてびっくりしたのは、地方民が官をあてにし官を尊ぶこと
官の言いなりになることです。

早期診断とか療育とかへの無防備な信頼も、官がいうことには間違いがない、という誤学習が生んだものに思えることがあります。

だったら都会民がマイノリティなのでしょうか?
一都三県の人口は3800万くらい。
日本人の三人に一人は首都圏民なのです。
我々首都圏民は結構数が多いと思います。

そしてその文化圏では、官はそんなにえらくないし、民間の方が給与水準高いし、大学になると同じ偏差値なら官より私立の方が就職がよかったりする。
みんな不思議なほど大企業に決まっていくのが有名私立大学です。ちなみに、公務員を目指すのはとても少数で、だいたいは地方出身者が帰って墓守するパターン。墓守放り投げて都会でambitionを追及する人も多いから、こんなに首都圏の人口が膨れ上がったのだと思いますが。

地方の閉そく感は、官がえらいこと、官に逆らわないこと、官を目指すことが至上命題になっていることじゃないかと思います。これが「いい子像」の一元化につながります。発達凸凹の人たちにとって生きやすいわけがない。
多様性とかいうと、障害者とかジェンダーなどの問題が取りざたされますが、それまでも改革を官に頼っている。これは矛盾だと思います。

国公立大学が公務員を養成する場だとすると、私立大学はもっと多様な職業を目指し、そして時代の風を読む場所、っていうイメージがあります。
それがひろあさんの解説ではっきりしたところがありました。
ひろあさんにランチタイムで話したのですが、わが母校の私が入った年の他学部、福沢諭吉の文章を出してそれについて書くという課題があり、めちゃくちゃけなした人も普通に合格していました。
また時々入試面接で泣いてしまう高校生もいるようですが、それでも合否には関係ないそうです。
同調も求めないし見ているところは「失敗しない」ことではない。
私立のそういう当たり前が官では考えられず、そして勝手に官に合わせて窮屈がっている人も多そうです。

ずっと公務員養成コースに乗ってきた教員は時代の変化に追いつけません。
こういう講演が、アップデートに役に立つからこそ、多くの方が参加なさったのだなあと思いました。

続く

私の知らないところで役に立っている花風社の本 大阪講演のご報告 その2

2021-07-27 18:17:01 | 日記
ひろあさんの話の途中、私はバッグにしまっていたスマホを取り出すことになりました。
ツイッターで実況するためではありません。検索するためです。
色々知らない外部テストとか、どんどん出てくるので、どういう性質のものか等調べながら聴いていたのです。

それと、ひろあさんの話を聞いているうちに、自分で体験した大学受験のときの思い出が色々よみがえりました。
受験勉強はただ無機質なものではなく、あの中から色々拾ったものもあったのです。
私でいえば、参考書に乗っている英文からバートランド・ラッセルを知り、ペーパーバックを買ってどんどん読んでいたのを思い出しました。あの頃ペーパーバックを取り寄せるのは大変なことでしたが、今では一秒でkindleで手に入ります。
私の志望校は、英語は英文読解一問のみ。
それがいまだに続いているようですから、きっとそのフィルターでひっかかる人がほしいのでしょう。
あのときは長文と思えた文章が、今では長文でもなんでもありません。ていうかあの大学入試の文章で苦労していたら、その後のキャリア構築はありませんでした。
大学入試はそういう意味では、スタートにすぎない。
ひろあさんのお話をきいているうちにそこまで思い出し、バートランド・ラッセルの本をkindleで買ってしまいました。

ランチのあとは栗本さんの講座です。
栗本さんの知識を学びを主眼に再構築し、新しい内容も入った講演でした。
二か所ほど、「栗本さんの中ではつながっているんだろうけど途中経過が見えないな」というところがあり、質問が出るかと思ったのですが出なかったので、他の人はわかったのかもしれないし流したのかもしれません。
いずれにせよ後日質問しようとメモして帰ってきました。

栗本さんとひろあさんの対談も、期待以上に興味深いものでした。
それと、130名強の方が(オンラインも含めて)いらしたようですが、質問の内容から、まだまだギョーカイの影響を脱していない感じを受けました。
一つのキーワードは「体幹」。
体幹が弱いけど何をすれば、というご質問。
これは花風社的には7年前に終わっている話です。

従来のギョーカイ的、ギョーカイの身体方面、具体的に言うと感覚統合

では

ふにゃふにゃする→体幹が弱い→鍛えなければ

ですよね。
それで花風社のアプローチを食わず嫌いしている人たちは身体アプローチ=鍛える=残酷だと思い込んでいる。
というか、そうやって思い込んでやらない言い訳にしている。
だいたいそういう親は体育が苦手なタイプなので、自分がしんどいのもあるでしょうね。

でも花風社の知見は違いますよね。
ふにゃふにゃで授業中座っていられない人に対応するのは「鍛える」ではない。
栗本さんは比較的(あくまで比較的)優しく対応していましたが
「体幹を鍛えなきゃ」とか言ったら大久保さんとかその場ですごい言い返しそうです。
これは栗本さんが優しいとか、大久保さんがきついとかそういうことではなく
栗本さんに比べて大久保さんの弁が立つという話。
「体幹を鍛える」はもう的外れなアプローチだということはすでに花風社クラスタ、わかってから数年は経ってます。
「体幹を鍛える」ではないアプローチで「学習する姿勢」を可能にするのが花風社の本。
そしてひろあさんは塾の先生としてそれを活用して結果を出しているのです。

あと、正直言って
上がってくる質問の数々に

「まだ対症療法で考えている」
「おそらくまだギョーカイの支援者の口車に乗せられている」
「ギョーカイ目線の粗探しを無自覚に(よく言えば素直に)受け入れてしまっている」

=「やっとここにたどりついたがまだまだ伸びしろがある人が多いんだな」

という感想を持ちました。
今回津田さんのところで「学習」をテーマに講演会を開いてくださったおかげでそういうニューカマーな人たちがここにたどりつけたのは、まことに喜ばしいことです。
そして私がこういうこと書くからと言って、これからの各地講演会でも質問はためらわないでくださいね。
皆さんがまだまだギョーカイの影響下にあるということは、伸びしろがあるということ。
そしてギョーカイの影響下にありながらも、やはりこちら側に学びに来ているということ。つまり花風社も伸びしろがあるということ。
そして結果の出せないなんとかセンターの療育と、花風社の進める「言葉以前のアプローチ」の違いを説明するのにいい機会になりますから。

あと私は何度かひろあさんが
「無名の自分と講演を引き受けてくださった栗本先生」とかおっしゃったのにも笑いをこらえていました。
そのおっさん7年前まで誰にも知られていなかったんだよ。

続く

私の知らないところで役に立っている花風社の本 大阪講演のご報告 その1

2021-07-26 11:05:45 | 日記
zoomでも視聴可能な講演を、わざわざ大阪まで出かけようと思ったのは、なぜかわかりません。
あ、ひろあさんにお目にかかったことがなかったからかもしれないし
一年ぶりくらいに大阪に行きたいなと思ったのかもしれないし
津田さんご夫妻をはじめ、皆さんたちにお会いしたかったのかもしれません。

鍵を握るのは吉村知事でした。酒類提供にどうでるか。
でもそれは地道な調査(笑)で津田さんが解決してくださり
喜んで大阪に出かけることになりました。

最初は一泊しようと思っていました。そっちの方が安かったりするし。
でも暑いので、日帰りにしようと決めました。
新横浜新大阪間はもちろん日帰り可能な距離です。
ビジネスホテルの小さいお風呂に入って寝てまた暑い中帰ってくるのではなく、涼しい夜に移動して自宅でゆっくりとお風呂に入って寝たかったのです。

まあそんなこんなで新幹線日帰り、どうせ空いているだろうと高をくくっていたのですが、連休初日に踊り子号が満席、とかいうのを見て、日本民族移動するのだな、と知り、駅で切符を買って当日を待ちました。

車窓を楽しみながら新大阪へ。
始まりぎりぎりに飛び込みます。
現地勢は少ない、ときいていたのですがそんなに少なくもない感じ。ソーシャルディスタンスをとっているので、ゆるゆると机が並んでいます。

ひろあさんの講演が始まりました。

内容はひろあさんに属する知見なので、詳しい説明は控えます。
私が感じたことをつらつらと書いていきますね。

まず、受験テクニックというものが存在するか。
これが当初からの疑問でした。
そしてある人に取っては存在し、ある人にとっては存在しないだろうと思いました。

どういう人にとって存在しないかというと、家庭的に大卒がデフォルトみたいな文化圏にいる人(私がここにあてはまります)。
そういう人が別に教えられなくても知っていることを体系付けて教えてもらうと便利なんだな、と思いました。

あと、これは私の自己肯定感がバリバリに上がった件ですが
発達障害を治したい私が拾っては伝えてきた知見を、発達障害であろうとなかろうと学力を上げることがお仕事のひろあさんが存分に活用してくださっていて
その結果、私の知らないところで芋本とかが広がり
その結果、支援級から進学校に進学したり、特待生になったりしているお子さんが出ていることを知り
本当にやってきてよかったなと思いました。
花風社潰したい人がどれだけネット上で吠えても潰れないのは、こうやって私の知らないところでも花風社の本が役に立っているから。

ひろあさんの持ってきた情報で、現代の外部試験も利用した受験テクニックが存在するのはわかりましたが
目新しいところもあれば不思議なほど数十年変わっていないところもありました。

あと、これは最後に私のコメントとして現地でも述べましたが(おそらく録画にも入っている?)

高等教育をどう国が形作っていくか、
はもちろん、これから世界と伍していくうえでどういう人材が必要かから逆算されており
少なくともをれを私大は意識していますね。
意識せざるを得ない。

ところが公教育がそっぽ向いていますね。

だとするとこの矛盾したメッセージを受けながらお子さんたちは育つわけですが
これは私たち、発達障害の世界で経験済です。
国とギョーカイは違うでしょ、考え方が。

ひろあさんが何気なくおっしゃって私が「やはりそうだったのか」と思ったのは
「国公立は公務員を育てるところ」という言葉です。

これは西日本にいる方がわかりやすいかも。
同じ大都市でも大阪は首都圏より地方の事情にちかいところがありますから(公務員の地位が高いとか)。
発達障害を始める前、私の周囲は早慶上智ICUでほぼ占められていました。
その他の人たちもだいたい在京の私学。そういう業界に私は若いころ生きていました。

だから地方の国公立の教育学部、とかの人を大量に知ることになったのは発達障害を始めてからなのです。
そこですごい文化圏の違いがあったのですね。
地方の官民ヒエラルキーの中にいる人は、発達障害の人の将来に悲観的なものしか描けなかったようなのです。

今は少子化になり、AO入試とか推薦入試とかが増え、逆に言うと「入ってから誰と何をするか」を問われる時代になってきます。

そして少子化になるので、私学の雄みたいな大学が盛大な青田買いをしていますね。

ですからそこに全員持ってかれないためには、私大は様々なインセンティブを用意していると思います。それを利用することは可能です。それが私たちの頃と違うところかなあと思いました。

違っていないところもあります。
たとえばひろあさんがおっしゃってた学習障害のとらえ方。

学習障害が治るための芋づるの端っこ、と言ってもいいかもしれませんが
これは、学習障害などという言葉がなかったころから教育者や保護者の意識の端っこに確実にあったはずです。
これをまず解決しようとしていた人は多かったはず。

それが今、発達障害とか学習障害とかの言葉が出てきて
低学力に言い訳が与えられてしまっているわけですね。
でもそれは違うよ、というのが現場で学力を上げてきたひろあさんのおっしゃりたいことだったと思います。

何はともあれ

とにかく芋本は大事です。
とても大事。
読みましょう。

続く

美しい国だから 瀬戸内海への旅行ご報告その3

2021-07-06 11:18:15 | 日記
三日目。起きたらお天気はよかった、けどだんだん霧が出てきました。
朝ごはんを食べ(豪華だった)ゆっくりと露天風呂につかりました。
チェックアウトの11時までホテルを堪能し、港に送ってもらいます。
この頃にはすっかりお天気になっていました。

観光案内所に荷物を預け、自転車を借ります。
そして小さな半島を一つ制覇することにしました。
きれいな海沿いを走ります。



途中千年オリーブというのがあったので寄ってみました。
樹齢千年のオリーブだそうです。ここで自生していたわけではなく、スペインから移植したそうです。写真を見ると、運ばれてきたときには巨大な流木みたいな感じ。それが小豆島に根を張り、葉を茂らせています。春には花が咲き、秋には実が生るそうです。



この木の植樹祭が2011年3月15日だったそうです。
昭和天皇の行幸50周年行事だったそうです。
東日本では我々が呆然としていた時期。
そのころここでは神主さんを呼んで植樹祭が行われ、島の人たちの祈りがささげられたのでしょう。

本当に日本はどこに行っても美しいなと思いました。
港に戻ると、ちょうど船が出たところでした。次の船は一時間半後。
私たちは付近をちょっと散策し、昨日のレストランに入りました(土曜日だけどやはり他にやっていなかった)。
ちなみに平日は強烈なごま油のにおいがする港ですが(近くに工場がある)週末はおやすみのようでした。観光案内所でオリーブオイルと一緒にごま油も買いました。

帰りの船で高松へ。
今日はオレオレ詐欺の大音量はなし。休日は放送も休みでしょうか。

高松では去年の10月に講演を行った玉藻公園へ。
考えてみればあそこは松だらけです。そして今、松は大事。
先日、県境二つ越えてサイクリングに行ったときも、左手に清涼な気配を感じてみたら松が生えていました。



玉藻公園は、10月と様子が違っていました。
まず細かいことですが、入園料が50円アップ。GoToやっていたときには結構いた人もほとんどいないので、値上げしたのかもしれません。
それから感染の少ない土地なりに冬は増えたのでしょう。そして増えると方向転換をせず「盛る」しかできないのがこの国の行政です。入り口で以前はなかった検温がありました。

10月にはやっていた鯛のえさやりも中止。10月にはお濠で試乗体験ができたお舟はブルーシートをかけられつながれていました。
言っておきますが7月の土曜日です。
10月はやっていたGoToのおかげで、全国からうどんファンとかが集っていた高松。
あれ以降飛沫が、飲食がさんざん悪者にされ、そういう雰囲気ではなくなったのでしょう。

入ってみると松・松・松。
清涼な空気が流れていました。
私はあのとき披雲閣の縁側で感じた清涼な風を思い出しました。あれは松の間を通ってきた風だったんだな。

ひとしきり歩いてノーマスクで出ていく私に入り口の小さなおばあさんが「ありがとうございました」と声をかけてくれました。

さてそれから。

うどんでも食べて居酒屋が開くのを待とうと思ったのですが
高松駅の目の前にある大きなビルに入ると、食べ物やさんがマーボー豆腐屋さんとフレッシュネスバーガーしかやっていませんでした。他は全部休業です。
もう一度言います。7月の晴れた土曜日です。

私たちは仕方なくフレッシュネスバーガーで一息つきました。
10人ほどの女子会が行われていました。バーガーやさんで女子会も変な話ですが、他に開いていないので仕方ありません。

沖縄の国際通りとかも半分閉まっている、とかききますが、あっちは緊急事態宣言中。
半分しか閉まっていないとしたら、やはり沖縄は底力あるのですね。ここは十分の九閉まっています。
宣言もマンボウもない街でこの寂れ方。
日本はどうなるのだろうと思いました。

五時になり居酒屋が開き(これも私たちが近所で開いているのを見つけられたのは一軒だけ)
手短にですが瀬戸内の幸を楽しむことができました。
そしてバスに乗り、空港へ。ゲートでは若者たちがかわき物とビールで「ゲート飲み」をしています。
きっと食べ損ねたのだと思います。何しろ店がやっていないのですから。

帰りの便はあっという間に羽田へ。
行きは時間がかかっただけに「こんなに近かったのか高松」という感じです。

帰ったら接種券が届いていました。
とりあえずファイル。不活化ワクチンの開発待ちかな。
ワクチンパスポートなるものも行方をまだみないと判断できない。
とりあえず見て回った日本は、ワクチン打たない人の行動を制限できるほどの余裕は残されていません。

それにしてもどこに行っても美しい国土、そして親切な人々。整ったインフラ。
陰謀論など信じないけど、この国が買いたたけるなら乗っ取りたい人はいるでしょう。
かつてイタリア半島に住んでいたのはローマ人。今はイタリア人。
千年後の日本に住んでいるのは誰だろう?
さざなみの疫病の前に恐怖感の津波を起こしていては、やがて日本に住んでいるのは日本人でなくなり
日本人が作ったさまざまな遺物はフォロロマーノみたいに観光名所になるかもしれません。「かつて日本人という人々がこの列島に住んでいた」と。

コロナ前から始まるこの国の生産性の低さ。
私からみるとそれは、公共部門や規制産業に人を取られすぎているから。
もっと自由な民間人が自由な経済活動を起こさないといけない。
明らかに私の活動の中には「民間人としてやっていけるメンタリティを育てる」という意味合いが含まれています。

都会は選択肢が多いけど、美しい故郷を離れたくない人も多いはず。
その人たちが地元に残って働ける産業として、第一次産業と第三次産業はとても大事なはず。
それを今潰そうとしているのです。医療と政治が。

永江一石氏とか三浦瑠麗氏とか、この一年私が情報源として活用していた人々が、次々に「この事態を終わらせるために」接種を選んでいます。

でもこの事態を作ったのは医療の不手際です。
世界一、と胸を張っていた医療が数十倍もの感染に襲われた他の国よりダメだった。
そして自分たちはなんの努力もせず国民に負担を強いてきた。
まっさきに注射を独占し、かといって病床は増やさない。
そして接種後の副反応に対する治療は国民負担。

このような状況で接種を選べる永江氏や三浦氏はやはりメジャーな人たちなんだなと思います。
私はもっとマイナーな存在なので、そして自分の中ではとっくに収束しているので、社会的収束なんぞのために副反応を耐えるのは一時間だっていやです。
打ちさえしなければ仕事ができた一日、泳げた一日、自転車に乗れた一日だったのかもしれないのに。
なぜその貴重な一日を医療の不手際のつけを払うのに使わなければいけないのか。
どうしても打てというのなら不活化を待ちますけど。もっともインフルエンザも打ったこともかかったこともないですけどね。医療にどや顔でバカにされる養生の数々が私を守っていますから。

ともかく、高松には去年10月にGoToやっているときに行って、今回行って。
その差異が激しすぎた。
日本人の99.96パーセントがかすってもいないこの病気が、これほどの犠牲を強いるもんですかね?
心から不思議です。
新型コロナの何がそんなに怖いの?
本当に、どこが怖いの?

閉じている店も、今は補助金とか降りているのかもしれない。
でも大事なのは将来の雇用です。
飲食や観光は地方に雇用を生んでいるのです。非公共部門で。
それをめためたにしてまで予防しなきゃいけない病気ですかね?
もし指定感染症の関係で病院が発生を恐れているとすれば
その俺ルールに我々を巻き込まないでほしいと思います。
医療従事者だけ勝手にコロナ禍をやっていればいい。

また10月に講演で高松に行きます。
そのときにはもっとにぎやかになっていますように。
その切り札が「ワクチン」だとは思いませんけど。
国民が冷静にデータを見つめ「怖くない」ことを悟ることだと思いますけど。
エビデンスガ―とか言っていた人たちが、めったにかからない病気におびえている姿は本当に滑稽です。



美しい国だから 瀬戸内海への旅行ご報告その2

2021-07-05 09:46:27 | 日記
そろって回復力のある私たちは前日の疲れを残すことなく朝起きました。
うどん食べに行こう、と言ったのですが朝ごはんがついているらしい。
ちょっと残念に思いながらパックについている朝ごはんを食べました。
そしてフェリー乗り場へ。切符を買って乗り込みます。
きれいで大きな船でした。でも乗客は少ない。朝の便のせいか、お仕事関係の比較的若い人が多い感じです。

快適な船の旅、になるかと思っていたのですが、なぜか大音量で「オレオレ詐欺に注意! 暗証番号は教えない!」という館内放送がずーっと流れていて、うるさすぎる、と思いました。
島は高齢化しているのだろうな、と思ったと同時に「これをずっと流し続けるとはホスピタリティに欠けている島なのではないか」と一瞬不安が頭によぎりました。
のちにこれは誤りだったとわかるのですが。
うるさいのでiPhoneを出し音楽を聴くことに。30分ほど流れた大音量のオレオレ詐欺に注意は止まりました。もしかして、旅の半分だけ流すことに決まっているのかもしれません。

あとでたにしさんに聴いたところによると、この時期の瀬戸内海は霧で欠航になることもあるということ。
高松を出たときはかすかにかすんでいましたが、瀬戸内海を進むうちに日が差してきました。

港に着くと私たちの泊まるホテルの車あり、荷物を持って行ってくれることに。
ホスピタリティはしっかりしているらしい。
そして観光案内所に。
コロナしぐさの消毒液はおいてありましたが、人が来なすぎて、検温器はプラグが抜いてありました。
色々情報を仕入れて自転車を借ります。

それからその日は22キロほど走りました。
途中にあったエンジェルロードというのが名所らしいです。
干潮のときだけ現れる道を歩きながら願い事をするとかなうらしい。
私は二つ願い事をしました。



それから景色を楽しみながら島内をサイクリング。
ただ、地図に載っていた道の駅的なところは、全部しまっていました。それだけ人が来ないのでしょう。
昼食時になりましたが、どうやら港に帰るまでどこも開いていないっぽいです。
車はそこそこ走っていて、さすが瀬戸内海最大の島。奄美大島よりはずっと都会です。
でも観光客はきっと来ないのでしょう。

途中海を眺めていたら、隣の民家から声が。「どこから来たの?」その家に住むおばあさんです。
「横浜です」「おやまあそんな遠くから。孫が一人滋賀にいるけど、それが一番遠いのに」という感じで、「ちょっときて」と窓に手まねきされました。そして「これ自家製だけどよかったら」とスモモジュースと牛のぬいぐるみをくださいました。「小豆島はいいところでしょ。またきてね」。



時々ねこ母さんがすももジュースを自作しています。どんなのかな~と思っていたので、いただいてうれしかったです。
もちろん本来、見知らぬ人にもらったものなど口に入れないのがリスク管理なのでしょうが、身体アプローチをやっている人はいいもの悪いものはわかりますからね。とてもおいしかったです。
牛のぬいぐるみは夫が「学生に見せる」と言っていました。
ああそれはいい考えだなあ、と思いました。
政府は、マスコミは、医療は、分断に熱心です。
都会と地方を分断し、世代間を分断する。
東京の若者たちは、自分たちがどこに行っても歓迎されない存在だと信じ込まされているかもしれない。
でもそうじゃない。それを伝えるのに、いただいた牛のぬいぐるみはとても説得力があります。

サイクリングを続け、港に変える途中、地図を広げていたとき、犬の散歩の途中の女性が「どこに行くのですか?」と話しかけてくれました。
そして道を教えてくれました。
お礼を言って別れました。
そういえば、おばあさんも道を教えてくれた女性もマスクはしていませんでした。
高校生たちはこの島でさえ、マスクをさせられていましたが、見知らぬ旅人の私たちに「こんにちは」と挨拶してくれました。ちょっと沖縄を思い出しました。

港に帰ってきて、あてにしていた観光案内所の軽食コーナーに。
「本日休業」とのこと。ここもか~。
最悪コンビニでなんか買って外で食べるしかないかな~と思いながら港の付近の店を見ていたら、一軒だけ明かりがついています。
やってるのかな~とカスクonノーマスクで覗き込んでいたら、店員さんが飛び出してきました。「どうぞどうぞ」
そしてオリーブそうめん膳をいただきました。

ホテルの車が迎えに来てくれて、あちこち観光しながら送ってくれます。
その間に次の日走る道に目星をつけた私たちでした。

ホテルは立派なリゾートでした。
預けておいた荷物は部屋に入れてくれていました。
数日前に「夕食はバイキングではなくなりました」と連絡がありました。
これもコロナ禍旅行あるあるです。バイキングが売り物の宿でも人数集まらな過ぎて普通のコース料理になるのです。この日もそうでした。
我々はバイキングが嬉しい年でもなく、また食べ物取るときはマスクしろとかビニール手袋しろとか言われるよりは座っていると料理が来る方が嬉しいので、なんの問題もありません。



日本のリゾートが強いところは、大浴場、しばしば温泉がついているところだと思います。
ここもついていました。
脱衣所にいたおばあさんはおそらく地元の方なのだと思いますが「若い人は熱が出るっていうけど、わたしらなんもないね~」と言っていましたが、背中に発疹がみっしり出ていました。自覚のない副反応というのもあるのかもしれません。
私はすでに、お風呂を通じて接種者から何かが飛んでくるという経験を積んできましたので(そしてその際の自分の症状と治し方防ぎ方もわかってきたので)最後に真水で身体を洗い流し、部屋にもどって手当をしました。
本来温泉は真水で流すものではありませんが、接種が一段落するまでは最後に流した方がよさそうです。

フェリーで始まった一日のフィニッシュは太鼓の達人でした。
フルコンボだどん、を出して、瀬戸内海の島で眠りにつきました。

続く

美しい国だから 瀬戸内海への旅行ご報告その1

2021-07-04 10:11:01 | 日記
小豆島に行こう、と思い始めたのは、去年の高松講演がやはりきっかけです。
高松がとても近かったことが印象的でした。名古屋上空からもう降下に入る。名古屋なんてのぞみで隣の駅ですからね。そしてあっという間に着く。
着いたら高松空港から駅に行って、そのすぐそばに港があり、そこから瀬戸内海の色々な島へのフェリーが出ている。その中で最大の島が小豆島。『二十四の瞳』とか『八日目の蝉』とかの舞台です。
こんなにアクセスいいのか~と思いました。
そして夫に「いつか小豆島に行こう」と言っていました。

バカみたいに旅行している我が家ですが、一応原則は「三日間東京を離れられるときにはどっか行こう」ということ。これは私たちなりの今色々物事を仕切りたがる人たちへのプロテストも入っているかもしれませんね。
この狂った時代に比較的自由な職業に恵まれたというめぐり合わせを精いっぱい活かす所存です。

そんなわけで木曜日の朝、大雨の中羽田行きのリムジンバス乗り場へ。
そこから私はその日、これまで人生でしたことのなかった経験を二つするのです。
そして近いはずの高松に12時間かけて着くことになったのでした。

その日は午後13時くらいに着く便で高松に行き、うどんでも食べて、市内をちょこっと観光する予定でした。
天気予報を見ると、今降っている小雨が上がるとか。
晴れではないにせよ観光に差しさわりのある天気とも思えませんでした。
現地のたにしさんからも「雨あがりました」というメッセージが。

私たちは安心してリムジンバスに乗っていたのです。ところが関東があの豪雨。その後私たちがいない間にもっともっと雨はひどくなり、熱海が大変なことになっていますが、木曜の朝もまあ雨は降っていました。
そのせいでしょうか。ひどい渋滞なのです。
羽田までの渋滞はよくありますが、大黒ふ頭を抜けたら流れ出すのです。
けれども今回は大黒ふ頭を抜けても流れない。これはやばいな、という雰囲気が漂い始めました。

本来バスの中は電話はもちろんしてはいけないけど
あちこちの人が電話し始め、ドライバーも含め誰も文句を言いませんでした。
沖縄に行く予定の親子。お父さんが航空会社に電話し、翌日にリスケしていました。
そしてお子さんに「空港行ってごはん食べて帰ろう。明日の飛行機で行こう」と言ったらお子さん「今日がいい」と泣いていました。そりゃあ、今日がいいですよね。でも仕方ありません。

望みをかけていた私たちも、出発30分前にまだ横浜市内にいたころから覚悟を決め「陸路で行こうか」などと話し合っていました。
羽田から品川に出てのぞみで岡山へ。そこからなんかJRであっさり高松行けるらしいよ。そうしたら明日のフェリーで小豆島行けるからね。

出発の15分前に羽田に着きました。いつも35分の道のりに1時間20分。
一応ダッシュしてゲートでマイレージカードをタッチしますが「締め切りました」の文字が。
そうですよね~知ってた。
ところがここで「VIPの方です!」との声が。
プラチナメンバーであることが効いてしまい、ゲートに様子を確認してくれることに。
ここでようやく慌ててマスクをしました。それまでマスクとか言ってられないし誰も咎めません。

ゲートに確認したら、やはりしまってしまったということ。
「乗客が少ないので」ということでした。全員席につくのも早いのでしょう。
私たちは早割の切符でしたから、振替は効かないはず。じゃあ品川に行くか、と思ったのですが「夕方の便でしたらお取りできます」とのこと。
今、需要減で飛行機は間引きが激しいです。本来一日5,6便飛んでいる高松も朝と夕方しか飛んでいません。でも19時前に高松に着く便なら(っていうかそれしかない)振り替えてくれるというのです。
新幹線で行けば費用が別にかかりますから、それでいいと私たちは思いました。

全日空のお姉さんは「普段はこういうことしないのですが」と言っていましたし、私たちもお礼を言いました。
ただ私は言いたかった。この一年私たちがどれだけあなた方の都合に合わせてきたか。
今回だって帰りの便、夕方にこちらに着く便を予約していたのだけれど、それは需要減で欠航。
そのせいで夜遅く返ってくることになりました。
需要減で機種変更、座席変更などはもう昨今当たり前で
函館から変えるとき突然機種変更で座席変更で、おまけに所要時間が30分多くなるというのでなぜかと思ったら
普段は道内を飛んでいるプロペラ機で羽田まで帰らされたときはびっくりしましたよ。全日空本体ではなく道内子会社の運営です。くるくる回るプロペラに「頑張れ~」と祈りながら津軽海峡を越え東北上空を超えて帰ってきたのです。
だからさあ、感謝はするけれど、そんなにえらそうにしないでよ、という感じですかね。

ところがただほど高いものはなかったのです。

それから私たちは空港で6時間過ごすことになりました。
まずはお蕎麦屋さんでランチ+酒。これもお酒を出してもらえたのは二人だからです。あとから来た四人組が「お酒出せませんけど」と言われているのを見て、「おお、ここは東京都だ」と思いました。ちなみに神奈川は四人まで。全くバカらしい。
それからカフェへ。
それからラウンジへ。
旅行一日目というよりテレワーク@羽田の一日になりました。とくに夫はひっきりなしに電話が入りラウンジ内電話ブースに駆け込んでいました。地上にいてよかったかもしれないと思いました。ラウンジは出張の人のためにオフィス環境がばっちりでプリンターも使えます。
私は仕事もしたけど本も読みました。『感染症と日本人』長野浩典著 を読み「変わってねえな日本人」と思いました。面白かったのは、昔から日本人には自粛派と反自粛派がいて、地方でも比較的開放的なところとよそものを絶対に入れないところがあったということ。今度の件で長野県の対応がき〇がいじみていましたが、信濃は昔からそういう土地みたいです。概して海沿いは開放的、内陸は閉鎖的。そしてアマビエさまが熊本出身だということもなぜかわかりました。熊本も海に面していて、疫病には悩まされた土地だったのですね。
あと『ナースのチカラ』4,5巻を読み、どれだけ医療の人たちがうつらないうつさないに気を使っているかわかりました。だからきーきーいうのだね。
でもはっきり言って勝手な俺ルールにしか思えませんでした。
我々の職業では、誰かがかかってもお大事に、だけですから。別に不祥事ではない。医療ギョーカイのキーキールールの押し付けはごめんですわ。

そしてやっと機内へ。
ここで本日二番目のトラブルが。
なんと、高松空港天候不良のため、場合によっては岡山に着くというのです。
実は到着が夜になったとお知らせしてきた時点でたにしさんが迎えにきてくださるとおっしゃてくださったので、私は電波がつながる最後の瞬間に「こういうことで着けないかもしれませんから全日空にきいてダメだったら今回は放置してください。ありがとうございます」とメッセージしました。

高松は雨も上がったというのになぜ? と疑問で頭がいっぱい。
そしてそういえば私は、これだけ旅をしていて、飛行機に乗り遅れたのも生まれて初めてだし、違う空港についてしまうのも生まれて初めてかも、と思い出しました。
ニキさんがよく乗り遅れで正規運賃払っていましたけど、私は意外と慎重な性格のせいかそれがなかった。
あと夫が羽田視界不良で成田に着いたことが一回あります。逆に成田視界不良で羽田についてラッキーだったことも。でも私は未経験でした。

高松の天候不良とは、濃霧でした。
たにしさんによると、管制塔も見えないほどの濃霧だったそうです。
霧が晴れるのを30分上空で待ったけれどダメだったので、私たちは岡山空港に降り立ちました。

私は瀬戸内を見くびっていたようで、終電は早いのかと思っていました。
けれどもマリンライナーというのが夜遅くまであり、通勤客も結構多い。
夜で景色が見られないのは残念でしたが、全日空がお金を出してくれて、私たちは岡山駅までのシャトルバス&マリンライナーで高松に向かいました。
岡山駅で、「ここに何度も講演に来たなあ」と懐かしく思い出しました。とくに啓発最盛期。ニキさんと、藤家さんと、ここを一緒に通ったなあ。

地方の外食事情は今全くわかりません。
なんとか宣言もマンボウも出ていないところでも、時短自粛とかしているみたいだし。
夕食難民になることも覚悟しましたが
高松駅を降りるとたにしさんが骨付き鶏のテイクアウト&讃岐ビールをもって待っていてくださいました。
ありがたかったです。
私たちは宿に入り、骨付き鶏をむしゃむしゃ食べて、お風呂に行き、ぐっすり寝ました。
長い長い一日でした。

続く