治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

「想像力の障害」は治さなくてはいけないものなのか その3・完

2021-03-20 07:14:03 | 日記
「想像力の障害」は治さなくてはいけないものなのか その3・完



治した方がいいのだろうか、想像力の障害。
ていうか、花風社周りのアプローチに取り組んでいたら治ってしまうのではないか?

少なくとも私の中で
「私がかわいいと思うから治さないで」というのは萌えでありセルフィッシュだと思うようになった。
だって想像力の障害で不便をしているのは本人たちである。
だから「かわいいから治ってほしくない」なんてこっちの自分勝手だし、いくら私がかわいいと思っていても、治るときは治ってしまうだろう。

ただし、想像力の障害は、治すべき標的症状ではない。
視覚優位と同じように、発達の一段階であり、未発達。視覚優位の段階を脱していない子には視覚支援が必要なように、想像力の障害があるうちは周囲の通訳が必要だ。

でも治る子の場合、その段階はやがて通り過ぎる。発達は経過だから。
そしてニキさんも書いているとおり、体調にも左右される。
この一年見てきたように、普通の人たちも想像力の障害スペクトラムの中を不安等があると行ったり来たりする。


私がどうしても理解できなかったニキさんの特性? 思い込み? あるいは事実?
それはニキさんが親御さんとの葛藤を抱えていると自己申告していたこと。
なぜ理解できなかったか。
私にはどうしてもニキさんがかわいがられて育った人に見えるから。
会ったことのある人たちも賛同してくれる。
どう見てもかわいがられて育った人に見える。

でもご本人は葛藤を抱えているらしい。
自分がスペクトラムの人間だと親御さんに言いたくないらしい。
だから自分がニキ・リンコだという事実を親御さんに隠し通したいという強い思いを持っていた。
だからペンネームを使った。
そのペンネームを剥ぎ取ろうとしたのが「彼」だった。執拗に身元を照会しようとした。

それが裁判を起こした理由でもあった。ペンネームを使う権利はニキさんにある。それを「自分が知りたい」というだけで要求してくる自閉脳。他人の権利を侵害して恥じない自閉脳。これは成敗しなくてはいけない。
世の中の人は自分の疑問にすべて答えてくれるわけではない。
いくら知りたくても知る権利のないことはあるのだ。
それがわからない自閉症者は時としている。そして実に不愉快な存在だ。


ところが、ニキさんの個人情報をペラペラ敵方をなだめるためにしゃべってしまうダメダメギョーカイ人がいた。
例のブロック大先生だ。
ブロック大先生は、気がつかなかったらしい。ニキさんの情報を、彼女が隠したがっている情報をペラペラしゃべるのは彼女に対する人権侵害だと。
私が指摘したら、びっくりしていた。

思うにブロック大先生は、画面分割に失敗したんだな。
・ニキさんの権利
そして
・彼をなだめること
その二つに画面を分割できなかったのだ。支援者にも「想像力の障害」はある。
かなり強く、ある。
彼をなだめる方に注意が行き、ニキさんの権利を大先生は踏みにじった。

「発達障害と少年犯罪」を読んでわかったこと。
いかにギョーカイが虐待を警戒しているか。
逆に言うと支援者は保護者に対し「性悪説」を取っている。
親の人格を信用していないからこそ
親心を徹底的に去勢し
強く強く「障害受容」なるものを押しつけるのである。
不安に駆られた保護者たちが「治ってほしい」と思うのはたしかに危ういだろう。
ところがギョーカイが考えるよりずっと健全な親、不安の弱い保護者もいるのだ。
不安の弱い保護者の存在がギョーカイは見えていない。
一律に不安があると思っている。一律に虐待の危険があると思っている。

でも考えてみてほしい。
この一年、コロナを怖れていた花風社クラスタの人を見たことがあるだろうか?
他人が自粛していないこと、マスクしていないこと、をきーきーとがめ立てた花風社クラスタの人を見たことがあるだろうか?

不安がより強い方に合わせる それが私の言う「甘やかし」である。
この場合、「彼」はニキ・リンコが面白くなかった。
ニキ・リンコに加害者は(それに比べると)どうでもいい存在。
明らかに彼の片思いであった。
こういう場合騒ぎ立てる方のごり押しを聴く。それがギョーカイ。
とにかく「低きに合わせる」。それがギョーカイ。
そしてそのギョーカイが勝手に心配している「虐待の可能性」を、そんな可能性のない親たちにも押しつけて「ありのままを認めろ」とか言っているだけの話なのである。

虐待気味の親が「治そう」とするのはたしかに危険だろう。
だからそっちに忖度するのだろう。
だが私はあえて不安の強い人には忖度しない。
そのほうが健全な人々の健全さを守れるから。
不安の強い人々に私は興味がない。ギョーカイが対応していればいい。私は健全な人々の健全なリソースを引き出すことに興味がある。

新型コロナだって、実は曝露されていても自分の身体でやっつけてしまった人が多いだろう。
そういう個別の人体の力を計算に入れない数理モデルははずれっぱなし。人の中に備わっている力を信じていないし計算に入れていないから。
ギョーカイがやっているのはそれと同じ。
健全な親の持っている懐の深さ、たくましさが見えていない。

この一年見ていて、花風社クラスタで過剰防衛過剰自粛している人はほぼほぼ見られなかった。
自粛を自粛しまくっていた私に文句を言ってくる人はいなかった。
というか夏はみんな感染予防しながら海に山に遊んだね。
子どもの発達はつねに緊急事態。○歳の夏は一度しか来ない。親子で遊ぶことはとても大切だ。
学びの場でも他人の子のノーマスクをとがめる人などいなかった。
どちらかというと過剰な感染防止対策が子どもの発達に悪影響を及ぼすことを心配する人の方が多かった。

ギョーカイよ、見るがいい。
あなた方が想定していたのと違う客筋が確実にあるのだ。
その人たちは治したいのだ。なぜなら治ればあなた方のような想像力の障害がある支援者に一生つきまとわれずにすむから。


今の花風社は不安が比較的弱い人の集まり。
健全な人の集まり。

だから不安の強いニキさんとは路線が違い始めたのかもしれない。

でもニキさんの本を必要としている人には読んでほしい。
何より上手だし。語り口が。
異文化としての自閉がよくわかる。
読むと目の前の我が子が「かわいい」と思えるようになるのがニキさんの本。
とくに「俺ルール」と「自閉っ子におけるモンダイな想像力」が超お勧め。

今子育てに悩んでいても、ニキさんの本を読むと、色々謎が解けて、自閉っ子がかわいくなる。

いつか治るにしても、今、かわいく思える方がいいと思いませんか?
「治ってほしい」と「かわいいな」はもちろん両立しますからね。




「想像力の障害」は治さなくてはいけないものなのか その2

2021-03-18 11:45:29 | 日記
さて、ニキさんの本を読めばわかるとおりモンダイな想像力は方向性によってはかわいい発言につながるのである。
私は今回本を読み直して、いかに私がニキさんとの仕事を楽しんでいたか思い出した。良質のフラッシュバックだった。
そもそもこの本の中ではリンコ姫、あさみリトルという二人の子ども時代のキャラも作って画伯に漫画にしてもらった。ニキさんの子ども時代と自分の子ども時代、大人の言動への受け取り方が全然違うからそこから対比させれば面白いかも、と思ったのである。ニキさんは大人の言葉を素直に(字義通りに)受け取る。けれども想像力が定型だった私はその頃からもう大人が本音を言っていないことに気づいている。子どもの頃から想像力の違いは始まっていたことをしめすためにキャラを作った。

発達障害啓発バブル時代、何人かの(何組かの)啓発部隊が全国をぐるぐる巡回していて、ニキ浅見掛け合い漫才ペアはその一つ。他の専門家の先生たちが真面目な話をする一方で私たちの講座にはいつも笑いが絶えなかった。ニキさんがあれこれ自閉の特徴を面白く語ってくれたから。
『自閉っ子におけるモンダイな想像力』にも出てくる「熟睡ガード」のネタなど確実に会場から笑いが取れる鉄板ネタだった。私たちの講演は普段悩み事の多い保護者の皆様にひとときのエンタメを提供していたと自負している。しかも聴いたあとは自閉の謎も解けているし、なんだか子どもがかわいく思えてくる。

でもずっと私はジレンマを抱えていた。
かわいいで済ませていいの?
モンダイな想像力の不便を抱えるのは本人なのだ。
それをかわいいかわいいと言って肯定していていいの?

私自身は相当想像が当たることでトクをしてきた方だった。
それが雇われていたときも高評価につながっていた。そして仕事の場で評価されることで自己肯定感っていうやつをやしなってきたと思う。
今回の口の発達講座だってそうだ。二週間前、栗本大久保対談の文字起こしを読んでいて思いついたことをかたちにしたら短期間でこれだけの学びの場ができた。そうやって私はいつも「思いつきが当たってトクをしてきた」人なのである。
その私が熟睡ガードとかかわいいとか言って済ましていていいの?

それに25周年を迎えた今、花風社は想像力の障害を治す糸口を手にしている。

身体の安定
不安の除去
○○・○○・○○への注目
選択の機会

治っちゃいそうではないか。

「治さなきゃいけないのか? 活かす方法はないのか?」という質問は参加者の方からも出た。

実際、今も昔も「天然キャラ」として愛されている子がいる。
ニキさんだってそうなんじゃないかな。偽科学批判クラスタはやけに心が狭いようだけど、何かをトンデモがってさえいればニキさんを「天然キャラ」として仲間に入れているのかもしれない。知らんけど。
ニキさんは自分の老い先短さを強調し「努力して改善したとしてもそれをエンジョイする時間が少なかったら損だから身体アプローチはやらない」と計算高く決めたけれど(そしてこの計算高さは私には決してないものだ。正直、この考え方には驚嘆した)、ちゅん平さんはそのへんの損得にこだわらず努力をしてその実りを得た。神田橋先生とお仕事をすることを選び、治る路線に乗った。そしてなんと、被雇用者として働けるようになった。それでもライブハウスの帰りに「通勤快速」が来ると「乗っていいのかな?」と一瞬考える。そのエピソードを聴いて私たちは悲しまない。むしろほっこりする。

かつてのちゅん平さんは、想像力の乏しさを活かしていた。
支援者に「あなたは世界の中心ではないのよ」と教えられて反発するどころか「あらそうだったの」と肩の荷を下ろしていた。
妙な想像をしない(余地がない)素直さは、学ぶ上での力にもなるのだ。

「天然キャラ」に治まるのでは? というご意見もあった。

私としては「そうかもしれないけど、天然キャラは収まるものであり目指すものではない」である。
むしろ
天然キャラを許容してくれるコミュニティ選びが大事かも知れないと思った。
あわれむのでもなく、かばうのでもなく、天然キャラを許してくれるコミュニティ。
ギョーカイはあわれんだりかばったりはするが、面白がりはしない。
私はあわれむことはないが、面白がる。それでも面白いから治らなくていいのか? とずっとジレンマを抱えてきた。

想像力にバグのある人が生きていくために
同調圧力をかけてこないコミュニティ選び
忖度を要求しないコミュニティ選びは大事だと思う。
そして25周年を迎えたとき、花風社クラスタはそうなっていた。
それが見えない人もいるだろう。愛着がまだ発達段階にあり、縦関係しか見えない人にはそれが見えない。パターナリズムの中で仕事をしている人、医療に世話になることが多い等の理由でパターナリズムを受け入れてしまっている人には花風社クラスタが実はバラバラの価値観で動いていることが見えないかも知れない。そして私が、それこそ理想のコミュニティだと思っていることも。
ニキさんもちゅん平さんも「いい子」だと思っているが、私が見ている二人の「いい子さ」は全く別のものであることを見抜けた人はどれくらいいるだろう。

花風社クラスタのそれぞれがやっていること、実は相当バラバラ。でもお互いのことに口出ししない。「オタクのやっていることはトンデモ」とか言わない。第一そんなにヒマじゃない。
「エビデンスガー」の人たち「えらい先生達が言ったことから外れるのは危険」と他の家の子育てまで見張っている人たちの方がずっと同調圧力と悠揚と流れる時間(皮肉です)の中にいるのだ。

そしてなぜか、同調圧力がない・少ない環境で私はずっと育ってきた。私にとってはそれは自然な環境だった。ギョーカイとギョーカイに洗脳された親たちが、初めて遭った同調圧力だったのだ。
私がこれまで同調圧力に接しないですんだ保護要因は色々あっただろう。
家庭、環境、地域性、職業等。

コロナ禍において、私は自粛を自粛しているけど、それは隠していない。
花風社クラスタの中ではとくに非難してくる人はいない(そんなにヒマじゃない)。
面白くない人はいるかもしれないけど、黙っている(そんなにヒマじゃないし)。
不要不急の旅の写真をアップすると、喜んでくれている人もいる。
別に自粛がなくたって、子育ての間はそうそう旅行なんてできるものではない。だから旅の写真を喜んでくれる人「も」いる。
とにかくみんな、そんなにヒマじゃない。


不安の除去、体調の安定とともに大事なのはコミュニティ選びだ。
そして花風社クラスタは、
・想像力の障害は治す方法がある
・想像力の障害は時としてかわいいね
の両立を可能にした。
『自閉っ子におけるモンダイな想像力』を出したころ、かわいいと思ったが不便だと思った。そしてかわいいと感じる自分にジレンマを感じていた。でも今は、選べる。
それが今ここ、だと思っている。




「想像力の障害」は治さなくてはいけないものなのか? その1

2021-03-16 09:45:13 | 日記
さて、創立25周年記念無料読書会第二弾ではニキ・リンコさんの『自閉っ子におけるモンダイな想像力』を取りあげました。

その日の午前中は栗本さんの「口の発達を考えよう」講座。
終了後栗本さんにお茶を飲んでもらいながら後始末をして、さてランチにでも・・・と思ったところに夫より情報が。街では今日サッカーの試合もあり人出が多い。飲食店もこんでいて普段は日曜日閉じている行きつけの焼肉屋さんも開いている。

「そうなの」と言いながら栗本さんと二人で街へ。
サッカーの試合が始まってユニフォーム姿の人はスタジアムに収まったのか見られませんでしたが、なんとか宣言やっているとは思えないほどの人出でした。ここでこれなら都内はいったいどうなっていることやら。

「何にします?」と栗本さんに聴きました。タイ料理もインド料理もあるよ。でも栗本さんは夫の口から「焼肉屋」という言葉が出てからずっと焼肉が脳みそにこびりついていたようです。だからとにかく焼肉。
ニキさんの言葉で言うと「先着一名様」っていうやつです。
このように非自閉っ子も「先着一名様」になることもあるし「逆行想像力」や「画面分割」に難が出ることもある。
つまり「想像力の障害」もスペクトラムなのです。
この一年さんざんそれを目撃したからこそ、この本を読書会に取りあげたかった様な気がします。

たとえば去年の緊急事態宣言。
大嘘つきの人が「42万人」「八割減」とか言った。
そうしたら神奈川県のLINE(その後ブロック済み)で毎週末成績表が送られてきた。
曰く鵠沼海岸が~箱根湯本が~ 人出がどれくらい減ったか増えたかの成績表です。
こんなもん送られても困ります。鵠沼海岸なんて一度も行ってないし箱根がガラガラなのは知ってるよ。開いてるホテル探して二度泊まりに行ったから。
そもそも感染防ぐために人出減らそうっていう話なのに県職員が出かけて野鳥の会みたいに人数えてるのかよ。それで「鵠沼海岸は76ポイントダウンでした。あと4ポイント!」とかやってるのかよ。これが逆行想像力にバグが入った状態です。
そして「とにかく感染予防」とがなりたて経済を殺してもいとわない専門家()の皆さんを見ていると、完全に画面分割に失敗していますね。
行政も医療も想像力の障害を大いに発症し、外しまくりました。

そう、特に医療クラスタがメタメタだった。
予測外しまくり。怯えまくり。脅しまくり。
私は放射脳関連騒ぎのとき比較的冷静だった彼らを思い出して不思議な感じがしました。
そして思い至りました。彼らが今回こんなに怯え、脅し、かつ予測を外し続けるのは、放射脳関連と違って今回医療従事者は全国的に(っていうか全世界的に)前線に身をさらしているからではないだろうか。
つまり「不安」が彼らの予測能力を曇らせているのではないだろうか。

前年炎上を経験し、医療従事者には呆れていました。
なんで底辺医療従事者に至るまでこれほど一般人に対し上から目線なのだ。
なぜ保険証なんてめったに使わない一般人からも毎月金奪っていきながら治らないと開き直るのだ
なぜ自分なりに治している親御さんを罵倒するのだ。自分たちが治せないくせに。

でもコロナ禍でわかりました。
いざとなると自由を制限される人たちだから他人の自由も尊重できないんだろうな。
パターナリズムが癖になっている。底辺医療ですらパターナリズムを押しつけてくる。一方で自分がパターナリズムで縛られる対象になることも平気みたいだ。口枷つけて飲食や会合制限されてそれが何年続いてもいいみたいだから。

ああ自由の身でよかった。8回GoToできる身分でよかった。

このように「不安は予測能力を曇らせるのでは」というヒントを手に入れたので、今回読み直してみたくなったんですよね。『自閉っ子におけるモンダイな想像力』を。

そもそもニキさんは不安が強い人。
私にはどうしても何に怯えているのかわからない場面で怯えていることも多かった。
だから行動原理が違った。

たとえばニキさんなら絶対「治った自慢」なんていうコーナーを作らないと思う。
そういうコーナーを作ったら面白くない人が攻撃してくることを察知し、それを防ぐために作らないと思う。
ニキさんはそういう人。
『発達障害は治りますか?』を作るときにもニキさんは参加しないと言った。
なぜなら神田橋先生と組んだりしたら「偽科学批判クラスタ」に袋だたきにされるから。
そしてニキさんは「偽科学批判クラスタ」とのつきあいを大事にしているから。
私はその頃「偽科学批判クラスタ」なんて存在も知らなかったけど、ずいぶん心の狭いコミュニティをニキさんは大事にしているんだな、としか思いませんでした。そして私はもちろんニキさんが参加しなくたってまったくかまわなかった。それってニキさんが決めることだからね。
そしてニキさんが治りたくなくたって、私が治そう路線を追求するのも、ちゅん平さんが治そう路線に乗っかるのも、またそれぞれの自由です。

私の行動原理はこう。
「治った自慢」が集まると素敵だと思う。きっと勇気づけられる人もいると思う。そういうコーナーがあって勇気づけられる人がどんどん出てくるのはいいことだから、作ろう。
面白くないやつ? いるのそんなの? よくわからないが、他人の治った自慢が嫌いな人は勝手に悔しがっていればよい。どっちみちそんなやつらとはつきあうのごめんだし。

我々が治った自慢をしていることを面白くなく思う人の気持ちはきっと、ニキさんの方がわかっていると思う。
コロナではやりの言葉になってしまったけれど
ニキさんは私よりずっと「同調圧力」ってやつに敏感だった。
というか同調圧力の強いコミュニティにいたんだ、と今になってわかる。
ニキさんが何を怖がっているのかわからなかったけど、今ならわかる。
ニキさんの方が私より、何かと同調圧力の強いコミュニティにいた。偽科学批判クラスタだけじゃなく、西日本なこととか、地方なこととか。あるいは単純に戦う体力がないこととか。
私には同調圧力を跳ね返す様々な保護要因があった。嫌いな相手には忖度しないですむ様々な保護要因が。
ニキさんは私よりずっと怖いものの多い人だった。

そして今回、
感染を、自粛警察を、マスク警察を
とにかく何が何だかわからないものを怖がっている人の多さを見て
私が気づかないいろんなものへの忖度をしている人たちを見て
そしてその人たちがことごとく予測を外していくのを見て
ふと思いついたのです。
もしかして想像力の障害って不安からきてる?
そして読み返してみると、ニキさんご自身寝不足や体調不良がモンダイな想像力を連れてくることに気づいているではありませんか。たとえば新千歳から伊丹に飛ぶのに羽田から浜松町への切符買うあのエピソードとか。

だったら日々体調を整えることを覚えた花風社クラスタにとって
凡医に「様子をみましょう」と言われたら具体的にどこをみるか覚えた花風社クラスタにとって
想像力の障害も治るものになっている?

それが読書会を企画した動機でした。

続く

何度かあの事件のことを書きます。 その5 最終回

2021-03-05 07:08:39 | 日記
さて、裁判が終わって判明したこと。
それはこの事件が初めからマッチポンプだったということだった。

なぜ「彼」が私たちを十年にわたり誹謗中傷するためだけのHPを作ったか。
それはギョーカイ人のアドバイスによるものだったのである。
「そんなに主張したいのなら自分でHPを作れば」と提言したのが、花風社クラスタの早期発見早期ブロックに励み続けている辻井政次大先生(中京大学、アスペ・エルデの会)だったのだ。

自閉脳はりちぎですからね。
その言葉のとおり、HPを立ち上げて十年やったわけです。
なんのことはない。この事件はギョーカイ人による教唆で始まったわけです。

では自閉脳は犯罪を犯しやすいのだろうか?

いくら差別と言われようと
「犯しやすい」と私は思う。
ただし条件がある。
そこに現行のギョーカイのような偏った支援が加わったなら。
とくに私たちが見たような「発達障害啓発バブル」の時代、「生きづらさは社会のせい」にされた。当事者側は理解してもらえばよく、努力する必要はないとされた。

ところが被害妄想の強い人は、他人の自由な活動によって、生きづらくなる。

けれども、私たちが榎本さんに『元刑事が見た発達障害』の中で教えてもらったように、警察は他人の自由を守るために仕事をする組織なのだ。他人の自由な活動を邪魔する者がいるとき、警察は動く。



だから嫌いな他人
主張の違う他人の成功に被害妄想を抱いてしまう人はそれだけで犯罪リスクが高まる。
ネットがあればその実行がしやすくなってしまう。

嫌いな他人が成功しても、自分には理解できない賞賛を受けていても平気でいること。
これは私による「社会性の定義」の一つである。
発達障害啓発バブルは、社会の無理解による生きづらさと、他人の自由を許せないという自閉脳の抱きがちな生きづらさを混同させ、どっちも相手に解決策を強いればいいという誤った方法を当事者に植え付けた。
その残滓はまだ、ネットの方々で見られることだろう。

私は長年、自閉症者には遵法教育が必要だと思っていた。
けれども彼らにまず必要なのはトラウマ処理である。
自分の嫌いな他人が活躍していてもそれに圧迫されないようなトラウマ処理。
その方法は言葉以前のアプローチしかない。
なぜなら言葉以前に負った傷に由来しているからだ。
だが医療は、支援ギョーカイは、それを提供しない。「社会の理解があれば」としか言わない。
この生きづらさは社会の理解がないせいだという。
自閉脳はそれをりちぎに真に受け、その矛先は自分に苦しみを与える活躍している誰かに向けられる。
苦しい。苦しみもがいていたとき、支援者が言った。
「そんなに苦しいのならHPを作ってそこで主張すれば」
それは私たち夫婦の人権侵害活動だったのだが、支援者という人たちは一般人に人権はないと思っているから平気でこういうアドバイスをする。
わかるでしょう。こういうアドバイスをするような人たちが社会との架け橋になどなれるはずがない。
遵法教育が必要なのは支援者であり、当事者に必要なのはまずトラウマ処理ののちの遵法教育だ。
だが支援はそのどちらも提供しない。寧ろ逆をやる。「生きづらいの? それって社会のせいだよ」とささやくことによって。

花風社が潰れたらどんなにうれしいか。
そう堂々と表明する人たちはたくさんいた。
でも花風社は25周年記念を迎えた。
なぜなら「花風社があってよかった」人もいるからだ。
花風社があったからお子がよくなった。そう感じる人もいるからだ。

みんなちがってみんないいとはこういうこと。
ところが支援の世界は自分のめんどりである当事者しか大事にしない。
当事者がわめくためのHP作成を促し、その結果一般人の人権侵害になっても平気なのだ。健常者は人間ではないから、支援者にとって。

私が支援の世界に別れを告げるのも当然であろう。

辻井大先生は学生ボランティアを育てているらしい。
その人たちの多くが支援者としての道を歩み始めるらしい。
その手下が県の集まりでこよりさんをにらみつけたり、栗本さんが愛知県内で講演すると妨害行為をしたり、それはそれはうまく洗脳して手先として使っているようである。
育ててしまったボランティアの就職口のためにも、支援などなくなればいいと主張する私とその支持者は目障りだろう。
なぜブロックするかというともしかしたら
支持者がいること自体に耐えられないからかもしれませんね。

最後に。
他人の子が治った治ったと喜ぶだけで傷ついてしまう人にどういう配慮をすればいいか。

それは廣木さんが主張するとおりじゃないかな。
「わかり合えない人は、放っておきましょう」



あと廣木さんは「課題の分離」という言葉も使っていたな。
治ることを邪魔する人は、彼ら自身の課題があり、それはこっちの課題とは別物なのである。

他人の子が治るだけで自分が責められていると思うような心の傷は
その人のこれまでの体験が生み出したもの。
神田橋先生が私の抱えた事件のことを
「これまでの恨み辛みを全部浅見さんにぶつけている」と解説してくださったように。

他人の治った話にいらだったり、信じられない人は
それまでの傷つき体験をぶつけてくるだけ。
十年もアンチをやっていれば
自分がアンチを続け、ときには事情をあまり知らない凡医療従事者を巻き込んでもまだ花風社が揺るがないことで
彼らの傷は十年前より深くなっているかもしれない。


でも彼らの問題は彼らの問題。
彼らの傷は彼らが癒やすしかない。
一生懸命癒やしているのだろう今も。
癒やすつもりでじっとみているのだろう。
その治療方法がうまくいっていないだけだ。
うまくいっていなければスイッチすればいいんだけど、それもうまくない人がいる。

私たちは堂々と、治っていきましょう。
そして支援がいつかいらなくなるといいね。
弱者性は早く返上したほうがいい。その方が自由に生きられるから。
制度に左右される必要もなくなる。

みんな57歳になったときは、私くらい自由だといいなと私は勝手に思っています。
もちろん押しつけはしない。
それはみんなの自由だから。
私は自由で幸せ、というだけだから。
幸せな人を増やすために仕事をしているから。





何度かあの事件のことを書きます。 その4

2021-03-03 19:55:28 | 日記
原告はうちの夫婦二人だったが、検察に呼ばれるときには、夫婦でも別々なのである(検察官は同じ)。
とくに勤め人(当社比)である夫は自由時間が私ほどなくて、タイトなスケジュールに無理やり入れ込んでもらった。
ちなみに「精神障害の手帳ホルダーを訴える」ことは勤務先にも報告しておいた。
勤務先大代表等に変な電話等が入った場合対応してもらうためである。

「彼」は内山医師の診断書を方々に送り付けていたが(これがあるとなんでも言うこと聞いてもらえるプラチナチケットだと思っていたので)
教育機関だろうと研究機関だろうと、「官」の場合には送られた方も責められるという妙な構図があった。今のコロナでもそうかもしれないが、とにかく「官」は無難が好きだから、たとえ自分のところの職員に瑕疵がなくても、そういう迷惑な文書が来るだけで宛名の当該職員が責められるという不思議な現象が見られた。
「民」はそこがもっと寛容である。だから夫も私も何に遠慮する必要もなかった。被害にあって訴訟を起こしたことを誰にも責められなかったし(国民として当然の権利だから当たり前である)「了解」という感じで代表電話等の担当者にも話を通してくれた。
私が民間好きなのは、こういう融通が効くところがあるせいでもある。
そして民間人しか社会性の障害を治せないだろう、とまで実は思っているかもしれない。
福祉や医療って、民のふりしていても金の出所が「官」なので、頭が「官」なんですよね。だからびくびく、びくびくしているんです。きっと今回も最後まで口枷を外せないでしょうね医療や福祉は。

まあともかく、勤務先の了解も取って、夫が検察に出かけた。
私も別の日に。
起訴されたことで相手には国選弁護人がつき、型通りの示談の申し入れがあったが、即座に断った。私たちが望んだのは金銭的な賠償その他ではなく、とにかく有罪になってもらうことだったからである。

二人とも同じことを検察官に訊かれていた。
「反省や謝罪を求めますか?」
そして同じ返事をしていた。
「求めません」
そんなの求めるわけがない。

と言ってもどうして求めなかったのか、二人で話し合ったことはない。
「いらないよねそんなもん」で終わり。
口裏合わせも何もしなかったが、二人とも「反省も謝罪もいらない」という意見は一致していた。それだけの話である。
だから夫の真意は知らない。ただ最近、なぜ私が「謝罪も反省もいらない」と言下に言ったのか、改めて考えてみた。

まず、自閉脳をリスペクトしていたからだろう。
当時藤川洋子先生の著作をよく読んでいた。司法と発達障害のことを掘り下げた著作の数々。そこでも藤川先生は「反省なき更生」が現実的ではないかと繰り返し書いていた。つまり、反省しなくても更生する人が発達障害者には多いし、それでいいのではないかと。
私も自閉脳の皆様との付き合いのなかでこれを実感していた。
そしてこちらとしてはやめてもらえばいいだけなので、反省をしてもらう必要はなかった。

そして合理的配慮だろう。
自閉症者に「人の気持ちがわからない」とまでは言わない(一般的にはそういう見解もあるけれど)。
けれども嫌いな相手の行動が自分を圧迫していると誤学習し、嫌いな相手の主体性を認めず気に入らないとワーワー騒ぎ立てる人たちだということは知っていた。
行動を止めることはできてもこちらにも自由があるなんて自閉症者には理解できないかもしれない。
自分の嫌いな相手にも行動と言論の自由がある。それが理解できないのが自閉症の障害特性なら合理的配慮してあげようじゃないか。だから謝罪も反省もいらない。

あと、別に彼にこちらの気持ちをわかってもらわなくていいと思っていたし、彼が私を一生恨んでも嫌いでも全く構わないと心底思っていた。
とにかく有罪になってほしかった。
それは未来につながることだから。
こういう当事者を甘やかす支援ではいけない、それでは実社会で通用しない、とこれから子育てする親御さんたちや教育関係者、そしてギョーカイに突きつけるためにも、彼には有罪になってほしかったのである。

そして私たちの希望は通った。

「彼は終始裁判官が自分の味方だと思っていたかも」というのは二名から聞いた。
うちの弁護士と、そして公判に欠かさず出かけた物好き凡心理士Zである。
そもそも法廷は三人制だったらしい。
こんなちっぽけな事件に三人制とか、東京地裁が実はこの事件を大切に思っているのかもしれないと思った。被告人が手帳ホルダーであることも関係していたかもしれない。
そして三人いる裁判官のうちの裁判長は、終始にこやかに彼に接したらしい。

「社会性の障害のある人にとっては味方に見えたかもしれない」ほど。
ところが弁護士にも心理士にもそれがテクニックだとわかっていたらしい。私は一回も行っていないからどんなもんだったかは知らない。
つまり、高額な診断費やセミナー代を二人分無料にできるような交渉能力(?)があっても、裁判長のやわらかな物腰の裏にある冷徹な判断は見抜けないのが自閉脳のようである。
社会性って奥が深いよね。

発達障害啓発バブルにちょこっと乗って(ニキ・リンコほどではなくそれが彼の腹立ちの種だったわけだが)
プラチナチケットは判決に効いたか?

効かなかった。
むしろ重い判決が出た。

なぜか?
「改悛の情」っていうやつである。

彼は「違法だと知らなかった。わかったのでもうやらない」と言ったそうである。
そしてそれはこちらにしてみると、引き出したかった最大の答えである。
なぜなら自閉脳としては、精いっぱいの理解だから。
どうせ嫌いな相手が人間としての権利を有しているとはわからないのが自閉症なのだ。
ところが一般人である司法関係者はそう取らなかった。
たんに違法だという知識を得たからもうやらない、とだけ言った彼の言葉を
「改悛の情がない」と断じた。
原告である我々二人が改悛の情など求めなかったのに
司法はそれを理由に刑をむしろ重くした。
プラチナチケットどころかむしろ足かせになった障害特性。

このあたりのギャップ。
実社会と支援の世界の違い。
これをよく知っておいた方がいい。
「反省なき更生で十分」
これこそが社会に求める理解ではないのか。

ちなみに後日談が。

『自閉症者の犯罪を防ぐための提言』が本になり、藤家寛子さんが読んでくれた。
そして言った。
「彼はやはりひどいと思う。浅見さんたちの気持ちを全然わかっていない」

広島の駅前での出来事だった。
二人で講演に出かけたときのことだ。

つまり相当治ったあと(今ほどじゃないけど)。
治ると「人の気持ち」に思いを馳せるようになるのである。
赤本の頃はお父さんに「死んだらちょうだい」と言っていた人が
私たちのつらさに思いを馳せてくれたのである。

やっぱり治ったほうがいいでしょ。
治る人と治らない人
皆さんはお子さんにどちらを望みますか?

何度かあの事件のことを書きます。 その3

2021-03-02 18:31:06 | 日記
いやあ、凡心理士Zへの反響にはびっくり。
「いるいる」っていう感じ。

そもそも人間は、本能的に健康な人が好きなはず。
それを不健康な人間、妄想に取りつかれている人間に萌える心理士等の援助職って、私から見ると変態スペクトラムなんですが、そういう援助職が少なくない、ということを心理士ギョーカイからも教えてもらいましたわ。

そしててらっこ塾大久保さんのこの言葉が示唆に富んでいた。

=====

学生時代から趣味が「人間観察」と言う人とは付き合わないようにしている。
でも、このギョーカイに入って気づいたのは、愛着障害の支援者と同じくらい、当事者を観察の眼差しで見ている支援者が多いということ。
だからそもそも本人たちの辛さをどうにかしようという発想が出てこない。
理解ばかり。

=====

なるほどです。
観察すること自体に喜びを覚える変態たちにとっては、「つらさをどうにかしよう」なんて思うわけがない。だってつらがっているのが面白いんだからね。そこに欲情しているんだからね。欲情の対象を変えようとするわけがない。よくわかりました。

私がニキさん藤家さんに最初に治ってもらいたいと思ったのは(創立25周年記念動画2を参照してください)
別に彼女たちが萌えの対象ではなく、「仕事仲間だったから」っていうのもわかりますね。


さて、そうやって凡心理士Zは怪文書を受け取っても何も言わず(クライエントじゃないし(笑))

主治医はごねられて20万円×2名を無料にし

また別の有名団体は海外の研究者を招聘したたか~いセミナー(ビジネスクラスで海外から呼ぶ飛行機代通訳代その他が反映されたたか~いセミナー)に彼と主治医を無料で招待した。

どうしてか?

ここでもまたごねたわけです。「障害者で収入がないから払えないから無料で参加させろ」と。そして主催者は障害者割引、どころかご招待して、その条件が「主治医と一緒に来てください」ということ。つまり数万円×2名分を無料にした。患者の交渉によってのこのこ無料で出ていく主治医もすごいよね。

こうやって支援職はそろいもそろって彼を甘やかし、彼は立派に「障害者であることに甘える」大人になったわけです。
「自分は障害者である」ことを前面に出せば世の中は思い通りになると思ったのでしょう。そしてその誤学習を培ったのはギョーカイです。
私が普段から「自閉脳とギョーカイの体質が合わさって起きた事件」と言っているのは、そういうことなわけです。

こうやってさんざん甘やかされてきたから、うちにも甘ったれたことを言ってきたのだと思う。

「ニキ・リンコが実在するかどうか気になって夜も眠れない」(いや、寝なければいいのでは?)
「パスポートか源泉徴収票を見せろ」(だったら入国管理官か税務署員になれば?」)

っていうわけでわざわざコンタクトして住所知らせてくれたので、そこに訴状を送りました。
彼は厚生労働省にまで「浅見は障害者を訴えるようなひどい人間である」と言いつけに行っていましたが、そんなもの法治国家なのですから他人の権利を侵害したら訴えられるのは当たり前です。障害者割引をするギョーカイの方がおかしいだけ。
でもそういうおかしな言動をするくらい、支援者たちは彼を甘やかしたのですよね。

それは支援者たちに能力がない、実行力がない、っていうのもあるかもしれないけど
やはり「妄想を持っていたりする頭のおかしなひとたちが基本的に大好きで見守って愛でていたい」という変態性があるからだと思います。
そういう人たちが言う「ありのままでいいんだよ」
受け入れられますか? 皆さん。

この勝手に疑問を抱いて勝手に答えを迫って答えてもらえないと駄々をこねる
という自閉脳の迷惑パターンはSNSとかでも見られます。
花風社クラスタもおととしそういう目にあって、みんな一層決意を固めましたね。

「やはり迷惑だから治さなくては」

そういうことですね。

さて、凡心理士Zはまだ関わり続けます。
判決まで。
そして判決後、どういうことになったでしょう。
判決に障害者割引はあったでしょうか?
それはまた後日。

何度かあの事件のことを書きます。 その2

2021-03-01 11:14:28 | 日記
仮に凡心理士Zとしておこう。
というか、実を言うと名前も覚えていないのだ。メールを深く深く探ればまだやりとりは残っているかもしれないけど。
顔は覚えている気もするが、今度会ってもわからないかもしれない。

覚えているのは女性であることと、会ったのが横浜駅西口のカフェだということ。
私も頻繁に多摩川を越えていた時代だったので、横浜駅で会ったと言うことはきっと神奈川県の人だったのかもしれない。

そのときに見せられたのは「彼」が書いた怪文書である。私について罵詈雑言+詐欺呼ばわりが連ねてあった。
凡心理士Zはどこでそれを手に入れたか?
「彼」の自宅まで出かけたのである。「彼」がやっていたなんかの自助活動?に興味を持って自宅訪問までしたらしい。そしてもてなしを受けたらしい。とても愛想がよかったと言っていた。悪印象は持っていないようであった。

とりあえず私にそのコピーをくれたので預かった。
そして四方山話をしたと思う。
いや、色々貴重な情報をくれた。
それにより私は
・彼の暮らし向きはさほど悪くない
・過敏性は相当
・薬物による三次障害も相当
等の情報を手に入れた。中でも一番貴重だったのは「ここだけの話ですが」と前置きして教えてくれた「よこはま発達クリニックはふだん20万円取る診断の費用を彼からも彼の妻からも一円も取らなかった」という事実である。
「ここだけの話」として彼が凡心理士Zに話したらしい。それをまた「ここだけの話」として凡心理士Zが私に話したのである。

その日はお茶を飲んで別れた。
基本開けっぴろげな私としては胸襟を開いて話したつもりだった。けれども礼儀を重んじて、一番の疑問はさすがにぶつけなかった。
だからこそ事後のメールにちょっとびっくりした。なんか私への通知表みたいな感じだったのだ。
悪い通知表ではない。でも通知表をもらう理由がない。
私としては友好的にかかわったつもりであっても、凡心理士Zとしては胸襟を開いておらず、それどころか私をじろじろと観察し、そしてそれを臆面もなく当の本人に言っていいと思っていたようだ。
職業柄そういう人間観察の習慣が身についているんだろう。だったら隠せよ。
あっちに行って観察し、こっちに来て観察する。
なんのためだろう。あののぞき趣味がその後彼女の臨床上役に立っているのだろうか。


愛甲さんが創立25周年記念動画その5を見てこういう感想をくださった。

=====

理数系思考の人は、物事を自分とは関係のない3人称で捉えますが、文系思考の人は、物事を1人称で捉えようとします。
発達障害の世界に命が吹き込まれ、未来の希望へとつながっていくためには、1人称的、2人称的観点が不可欠だったのだと思います。

発達障害当事者のニキさんと藤家さんは1人称、身体の不自由さに気づいた浅見さんは2人称、そこが原点となって花風社の「目から鱗」の著作が次々と生み出されていくことになったのでしょう。

=====

私はつねに発達障害の人を二人称の視点で見ていた。それは意識したものではなく、自然に人と人との関係性は二人称ではないのだろうか。
私が「治ってほしい」と願うのはつねに二人称の視点からである。凡医凡心理士凡ST凡OT等はどこかで観察の対象として見ているようだが、私は常に「私は社会が楽しいよ。治ると君たちも社会が楽しくなるよ」という視点から発信している。
そして二人称の視点を「彼」にも向けていた。だからこそ訴訟を起こしたのだ。訴訟を起こすなんて、究極の二人称的行動ではないか。
だが、凡心理士はあくまで「彼」のことも私のことも観察の対象としていたようだ。彼を観察の対象としていたギョーカイ人は他にもたくさんいたが、地の利のせいかヒマだったのか、それともマニア度が高かったのか、凡心理士Zは自宅にまで出かけてその生活をつぶさに観察し、リビングにあった空気清浄器の台数まで教えてくれた。

ちょうど読者のふうりんさんがこういうつぶやきをしてくださっていたが

=====

他人はどうかわからないけど、私にとっては楽しいと思えることが大事。
自分のペースで進めて結果がみえてくることと、心からよくなってほしいという思いの伝わる文章だから楽しい。
#花風社

=====

私は赤心から、同じ社会を生きる仲間として、発達障害の人たちが治り、自由を享受してくれたらいいと思っている。
ところが凡心理士Zはあくまで三人称として私を見て、そしてぺらぺらとこちらに情報をしゃべったようにあちらにも浅見と会った体験談を話しているだろう。

こいつは使い捨てでいい、と私の本能が決めた。
そして「よこはま発達クリニックは(他の患者からは高額な料金を取っているにもかかわらず)彼とその妻から料金を取らなかった。理由は『金がない』とごねたから」という情報を振りまくことにした。
その結果Zが私を見限ってもなんの痛痒もない。「ここだけの話」をリークした私を一生非難していればいい。

観察されて不快だった私は事後のメールで、当日あえてぶつけなかった疑問をぶつけた。
凡心理士Zが「彼」から自宅訪問の際預かった怪文書にはニキ・リンコと浅見淳子にまつわる例の詐欺呼ばわりが書かれていた。

「あなたこれ真顔で受け取って、そして否定しなかったのですか? あなた心理士でしょう? 人を治す仕事でしょう? ならどうしてこれほどの妄想を肯定するの?」

それに対し凡心理士Zはこう答えた。
「彼は私のクライエントでないので彼を治す義務はありません。あくまで私的な理由で自宅を訪問しました」

もちろんこれは言い訳にすぎない。
でも百歩譲って聞き入れるとしても、彼の主治医だった内山氏が同じウソ八百を肯定し続けたことはどう説明する?
内山氏とニキ・リンコさん、そして私は発達障害啓発バブル時代同じ大会に講師として呼ばれ控え室を共有したことさえあったのである。それでも「ニキ・リンコはいない。浅見淳子が商売のため一人二役を演じている」というウソを肯定してしまう主治医なのだ。

それでも20万円払って診てもらいたい人がいるのだから不思議なもんである。
「彼」とその妻は払わずにすんだけど。
なぜ払わずにすんだかって? 「障害者で貧乏なので払えないからただでみろ」とごり押しして内山氏がそれに負けた、それだけの話である。

私はニキさんや藤家さんが(育ちのよさもあって)そんなに強気な交渉ができるとは今でも思わない。
「彼」のほうがよほど世渡り上手ではないか。

ちなみにその後凡心理士Zはクライエントでもない彼の公判全部に出かけ、有罪判決まで見届けたらしい。
不思議な趣味の持ち主である。
内山氏かこの心理士か、どちらかが「ニキ・リンコは実在する」と真実を教えてあげれば
彼は前科を背負わずに済んだのである。
支援者の存在意義が、私にはわからない。