治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

勝手にアウフヘーベンしてね

2020-02-24 16:44:17 | 日記
さて、「どっとこむ」にて好評連載中、ブルーさんのアンチ考察へのお答えブログです。
今回のブルーさんの考察は本編第8回。
こちら。



いよいよ私の知らない・みてない領域に入ってきたな、という感じです。

今回のブルーさんの記事を読んで「そういえば先の大炎上のとき、そういう人見かけた気がする」とは思うのですが、よくみてないしそれ以降はほったらかしになってます。
というのはこういう専門家たちはほぼほぼ私に@は飛ばしてこない。空に向かってつぶやいているだけだからです。
そしてあれ以降私は基本的に相互フォローじゃないと@が飛んでこないように設定してあります。
時々多くの人を巻き込むと、とんできてしまうみたいです。この場合も内山氏まで巻き込んじゃったので私の知るところになりました。この人もブルーさんに言わせると切り分けに失敗したアンチなんだろうなあ。



ま、まず保護者は置いといて、専門家について。

花風社の本を読んでフェアに対応して、「この対立をなんとか止揚できないものか」と考えていた専門家がいたとのこと。
それは勝手にやってもらうといいんじゃないでしょうか。
ていうか、それが本来の専門家の姿ですよね。
その結果花風社の言説を否定することになったとしても、読まずに騒ぎ立てる低学力な人たちより相当マシな感じがしますが。

読んだ帰結として、花風社のやり方をうっすら理解したり、部分的に採り入れたり、あるいは自分は採り入れなくてもとりあえず花風社のやり方で一生懸命やっている親がいてもそれを許容したり、あるいは全否定だったり、浅見が嫌いだけどやり方としては認めたり、ニーズだけは理解するけどやはり自分は選ばなかったり、って色々反応はあるでしょう。
そしてそういうのをいちいちこっちに報告しなくてよいのです。だって本ってそういうメディアでしょ。自分たちが何か問題解決を求めて発達以外の分野の本を読むときだってそうじゃないですか。

だからアウフヘーベンは勝手に個々人の中でやってくれたらいい。
それこそが本の役目ですから。
というか私だって個々の著者に対してそういうスタンスだし、個々の著者ですら花風社に対してそういうスタンス。それが本の役目です。というか、それが社会人対社会人の対等な関係性です。愛着の発達段階がまだ縦のみの人にはわからないと思いますが。

もっともありえないのは私がどっかの人々と話しあって妥協点を探るということ。
みんな仲良しになってもらいたい人はそれを夢見たりしますが
それは金輪際、ない。
それは期待しないでください。
なぜならこちらには、彼らと仲良くしなきゃいけない理由も彼らのお墨付き?をもらう理由も一つもないからです。
勝手に嫌って、勝手にインチキがっていればいいのです。
こっちも勝手に治りますから。

そして私はかつて神田橋先生に言ったとおり
「今後誰とも仲良くしなくていいのなら、発達の本を出していけると思います」というところは変わっていないからです。
それくらい私は、ギョーカイも発達医療も福祉も大嫌いなのです。
この「誰とも」にはもちろん花風社クラスタの方々や著者の方たちは含まれていません。
それは私が一から本を通じて作った人間関係だから。

そして「花風社は嫌いだけど読者ニーズには一定の理解を示した心理系の人」に関しては

ニーズに理解を示すならそれを仕事に反映させろよな、と思います。
医療や福祉が保護者を邪険に扱う。解決策を与えない。
そこに花風社が入り込んだ。
その花風社が嫌いで、でも保護者ニーズに気づいているのなら、ぜひその大嫌いな花風社をこの世界から追い出すためにも今現在心理系の人々が提供できないソリューションを考えなさい。
それが大嫌いな花風社を潰す近道ですよ、っていうこと。
だから考えなさい。


さて、ブルーさんのおっしゃる「パラダイムの切り分け」についてはこれで終わり。
次は「自他の切り分け」ですが、これは本当にわからないところなのでブルーさんの連載を楽しみに待ちます。
たったひとつこの時点で言いたいことがあるとすれば
花粉症でない人にとっての花粉と同じく、恐怖を感じない人にとっての恐怖はないのと同じ。
それをあることを認めろ、と言われてもこっちには何が怖いのかさっぱりわからないということ。

治すなんて差別→じゃあ治るなよ。こっちは治るから。
エビデンスがないと→じゃあやるなよ。エビデンスと心中しろ。こっちはやるから。エビデンスなくても。そして治るから。
(これはただの言い訳だとブルーさん論破済み)

だけなんですよね。

が、今さっき私は医療や福祉を大嫌いと宣言しました。
ところが医療や福祉でも花風社の愛読者は多い。
その人たちはすでに「浅見が大嫌いという医療や福祉と自分」の切り分けに成功しているのですよね。

心理士なんか愛着障害で頭でっかちでバカばっかり

とか私は常々言っていますが、それでも愛甲さんや座波さんの本は出している。
そしてこれらの職業の方たちも愛読者にもいらっしゃいますし講座にもおみえになる。
私自身個人的にもお二人からは多くを学んでいる。
座波さんとの本作りは私にとってのキャリアカウンセリングでもあったわけです。

座波さんからいただいた24周年のお祝いメッセージにこんなのがありました。
「花風社はおそらく、結果を出したい支援者も増やしている」。

そうだといいなあ、と思っています。
支援職がこんなに結果を出さないで許される時代が続くと私は思わない。
支援職自身の生き残りのためにも結果を出せる人が増えるといいと思っています。
その結果を出せるようになった支援者が花風社を好きだろうと嫌いだろうと私にはどうでもいいことなんですね。
ただ、読まないで読まない人から間違った憶測の情報仕入れて結果的にデマ振りまく、っていうのは一番やばいよね。専門職としても法治国家の一員としてもね。

ではでは。

*写真はお祝いのケーキです。


創立24周年記念保存版  花風社は何を解決したかったか Editor's Note

2020-02-23 11:01:33 | 日記
さて、「どっとこむ」の方でもお知らせしたとおり、本日2020年2月23日は花風社の創立24周年記念です。
ので、3月1日の福岡講演で配布予定の「Author's Note, Editor's Note」を公開いたします。

特別支援教育、発達障害者支援法の黎明期に発達障害に出会った花風社。
最初はギョーカイと動きを共にしていました。
けれども現実の中で、袂を分かつことになりました。

ギョーカイはつねに、「社会の理解」を訴えていました。
花風社では「それだけでは共存から遠ざかる」という問題意識を持ちました。
そしてソリューションを探りました。
その都度、問題意識に基づいて本を出してきました。
それぞれの本が、どういう企画意図の元に生まれたか、公開します。

=====

Author’s Note どうすれば、社会の中で生きられるのか?
 【浅見淳子の考え方は、現実の中でこう変化を遂げてきた。】



『自閉っ子と未来への希望 一緒に働いてわかった本当の可能性』 2011年

 「社会が発達障害を理解すれば、みんな生きやすくなる」とは本当か?
最初は支援者たちと志をともにしていた浅見淳子は、やがて支援の世界と社会との溝に気づく。そして「支援者の言いなりでは社会と発達障害者との共存は無理だ」と悟り、支援の世界と訣別し、実りある未来へと方向転換した軌跡を綴った本。



『発達障害、治るが勝ち! 自分の生き方を自分で決めたい人たちへ』 2017年

「本当にこの支援に頼っていていいのだろうか?」そう疑問を感じたら本書を読んでほしい本。
 なぜ医療は治さず、療育は伸ばさず、特別支援教育はアリバイに堕しているのか?」
そこには発達を阻む仕組みがある。その仕組みをひもとき、自分の人生を自分でつかむことを発達障害の当事者、保護者及び良心の残されている支援者に呼びかける書。



『自閉症者の犯罪を防ぐための提言 刑事告訴した立場から』 2012年

  10年にわたり自閉症者からの加害行為にあった浅見淳子。最初は支援による救済を望んでいたがそれがかなわず司法に訴えることにした。それでもなお、自閉症者と社会は共存できると信じその実現のための提言を行った書。



 『NEURO 神経発達障害という突破口』 2019年

 2004年以来「自閉症は身体障害ではないか?」と仮説を立てて数々の提言をし、解決策を出版してきた花風社。出版して本を読んで実践した人たちが「治った!」と喜んでくれるようになった。なぜか? 実は治るのは当たり前のことだった。発達障害は神経発達障害だったのだから。「お医者さんに一生治らないと言われても絶望しなくていい」と知らせたくて書いた本。15年間の試行錯誤の一つの到達点。

Editor’s Note 1 【生きづらさは、なくなる。】



『自閉っ子、こういう風にできてます!』
ニキ・リンコ、藤家寛子著 2004年

 アスペルガーの二人。いい子たちなのに、努力家なのに、身体感覚と世界観がヘンテコすぎて社会で生きるのがつらい。まずはこのヘンテコさを知ってもらおう! という純粋な赤心から出版してみたら、15年経った今に至るまで売れ続けるベストセラーに。



『10年目の自閉っ子、こういう風にできてます! 幸せになる力発見の日々』
ニキ・リンコ、藤家寛子著 2014年

ベストセラー「自閉っ子、こういう風にできてます!」で多くの人々に衝撃を与えた
・気まぐれな身体感覚 ・へんてこな世界観 はその後どうなったか?
実は前著から出版後10年経ち、二人とも、それぞれのやり方で、「10年前に夢見たような生活」を送っていたことを報告したくて作った本。おめでたいので表紙も水引に。

Editor’s Note 2 【解決策は、見つかった。】


『発達障害は治りますか?』 神田橋條治他著 2010年


「神田橋先生は、治すんです」「まさか!」
社会に無理な要求をするばかりで、一向に治す気も伸ばす気もない発達障害支援の世界に絶望していた2009年夏、「治す先生がいるから本を出そう」と言われたのが本書の始まり。出版から10年。多くの読者が神田橋先生のもとで治っていった。いわば「治そう路線」原点の本。



『愛着障害は治りますか? 自分らしさの発達を促す』 愛甲修子著 2016年

発達障害関係者は「怖がり」ばかり。当事者も、保護者も、そして支援者も。怖がってばかり。社会のあり方を悪意に取ってばかり。だから一般社会と共存できないのではないか?
そういう疑問を持っていた浅見は神田橋先生から「愛着障害がないから彼らが感じている恐怖がわからない」と教えてもらう。そうなの? じゃあ愛着障害って何? 治るの? と自身も愛着障害を治してきた「治せる心理士」である愛甲さんに質問を重ねることで作った本。



『人間脳を育てる 動きの発達と原始反射の成長』灰谷孝著 2016年

身体アプローチを追求してきた花風社は、「身体から働きかけると発達障害は治っていく」ことに気づいていた。でもそれがなぜなのか、理由をはっきり言語化していなかった。そんなときに灰谷さんとの出会いがあり「ああ、これだから発達障害者は身体からの働きかけで発達していくのだ」とその論理と実践を理解できた本。



『脳みそラクラクセラピー 発達凸凹の資質を見つけ開花させる』愛甲修子著 2013年

一言で言うと、本書は不思議な本。どう不思議かというと、これを愛読しているおうちでは治っていく。そもそも「治る」という言葉を使い出したのは愛甲さん。その本人に治るとはどういうことか徹底的にきいてみた。すると、治るとは「普通になる」ことではなく「成長の目詰まりが取れて自分らしさが開花する」ということであることがわかった。



『支援者なくとも、自閉っ子は育つ 親子でラクになる34のヒント』こより著 2015年

発達障害者支援が増えても、一向に「社会に出られる人」は増えない。療育を受けて結局作業所にたどりつくのなら、子ども時代はのびのびと遊んでいた方がいいのではないだろうか。そう疑問を感じさせるほどの支援ギョーカイのていたらく。一方で支援者を頼らないと子どもは伸びる! 凸凹キッズ二人を育てたこよりさんは今、お子さんにお小遣いをもらって悠々自適。支援なくても親子で遊べば大丈夫。それを伝えたくて作った本。



『自傷・他害・パニックは防げますか 二人称のアプローチで解決しよう!』廣木道心、栗本啓司、榎本澄雄著 2017年

自傷・他害・パニックは障害のある人とない人の共存を著しく妨げる。行政もこの問題を解決しようとしている。だいたいが薬物か行動分析であり、前者はご本人たちの健康被害を呼びかねず後者はほぼ役に立たないのに「何かやっている」と言いたいだけのアリバイ支援が行き渡っている。一方で主著者の廣木氏はご子息を含めた多くの人々の自傷・他害・パニックに実効性のある支援をしてきた。そのあり方を伝えるための本。栗本氏によるそもそも自傷・他害・パニックを起こさないための身体作りの提言も必読。


【本当に治るんです! 藤家寛子さんの歩んできた軌跡!】

・診断がつく前の混乱した青春時代を一人称で書いた『他の誰かになりたかった』
・童話作家になりたいという小さい頃からの夢を叶え自閉の少女の内面を書いた『あの扉のむこうへ』
・超のつく虚弱体質を克服し、作業所に週五日通えるようになった頃に書いた『自閉っ子的心身安定生活!』。当時は、アスペルガーで虚弱な引きこもり生活を送った人が週五日外に出られるようになるのはまずありえないことでした。

・そして支援を上手に活用し、必要がなくなったら別れを告げ、完全に健常者と同じ就職活動をして成功するまでを書いた『30歳からの社会人デビュー』
・職場で定着し、能力を発揮し、断薬にも挑戦した『断薬の決意』

すべて版元として誇りを持って出した本たちです。
ぜひお読みください!




2000円で南の島に行く方法

2020-02-20 10:15:12 | 日記
さて、さんざん期待を持たせて申し訳ありませんが
私自身は2000円で南の島に行く方法を知りません。
南の島は大好きで、なるべく安い手段を見つける努力はもちろん怠りません。
飛行機はLCCでもメジャーキャリアでもそのとき安い方を。
ホテルはそれなりにこだわります。
どうしても2000円以上はかかります。
お金より大事なのは「時間的自由」と「好きな時間に戸外にいられること」です。
これを私は大事にしています。なぜなら、私が若い頃夢見ていた生活だからです。
若い頃の私は、勤め人でした。
ので、ふらっと南の島に行く時間的自由がありませんでした。
朝早く出勤し、ビルの中に入り、暗くなってからでないと外に出られない日も多かったです。
お日様原理主義の私にはこれがつらかったのです。
体力に恵まれていた私には、長時間労働は苦にならなかった。
でもお日様の下を歩けない日があるのはつらかった。
だから「いつかお日様の下を自由に歩けるような働き方をしよう」と決心し
それを実現させてきたのです。

ところがアンチに泣きついている発達凸凹保護者らしき人がいたのです。
本当に治るのかな。
本音を言えばうちの子だって治したい。
読みたい。
読んでみたい。
でも自分の払った2000円があの社長の南の島旅行に化けるのかと思うと悔しくて買えない。

バカだなあ、と思いました。
その発達凸凹保護者の人がうちの本を買ったところで、私が南の島に行くか行かないかは決まりません。
私は行くときは行くし、行かないときは行かない。
アンチに泣きつく主体性のない保護者の購買行動と私の旅行は関係ありません。
っていうかその人が本を買ってくれるかどうか、浅見家の今晩のおかずにさえ関係ありません。
「今日はアンチに泣きついていた凸凹親Aさんが本を買ってくれたからステーキにしよう」なんていうことにはなりません。
我が家のメニューは在庫と食欲で決まります。
講演会で本がたくさん売れた日でも、「今日は干物の気分」と思ったら地味に干物を焼くだけです。

無駄な脳みそを使って生きづらい人にはありがちなのですが
「他人の幸せが嫌い」な人たちがいます。
とくに「自分の嫌いな他人の幸せが嫌い」なのです。
そしてこの人たちは、自分が社会で生きるための努力ではなく
「嫌いな他人の幸せを阻む努力」をしてしまい、結果生きづらいままなのです。
そしてその生きづらさは社会が悪いわけではなく
自分の力の及ばないところまで思い通りにしないと気が済まないという困った自分の性質が自分を苦しめているだけなのです。

そしてこの人たちは
「自分が幸せになるかもしれないことをする」よりも「他人が幸せになるかもしれないことを避ける」ことを優先させるという選択をしてどんどん明るい未来を遠ざけます。
この場合だと、2000円出すとお子さんの将来が変わるかもしれない。
現に花風社の本を読んで変わった人はたくさんいる。
だけどそれより「自分の出した2000円であの大嫌いな社長がまた南の島に行くかもしれない」ことの方が悔しいのです。

私は『自閉症者の犯罪を防ぐための提言』に書きました。
私が訴えた自閉症者Xは、未だに私が大嫌いでしょうし、命が尽きるその日まで嫌っていればいいです。
ただ、「自分の嫌いな他人の幸せを阻む」という行為は実にコスパが悪いのです。
彼は十年間それをやって、なんの実りもなかった。
食らったのは有罪判決だけ。花風社を揺るがすこともできなかった。
むしろあの事件があったからこそ、花風社はギョーカイと離れ、独自の路線を歩み始め
治そう山脈を築いたのです。
一方で「自分の幸せのためにする努力」は比較的効率がいいのです。
なぜなら他人の運命をコントロールするより、自分の運命をコントロールする方がずっと簡単で努力が実りやすいからです。

私が嫌いだという理由だけで2000円を惜しむのならそれも自由。
そこで惜しまなかった人との違いを、五年十年見ていればいいです。
そうやって十年間悔しがっているアンチも一人ではありませんしね。
悔しがっているアンチの列に連なればいいだけです。

2000円という金額は、浅見家の夕飯メニューを変えるほどの力もありませんが、それでお子さんの将来が変わるかもしれない。
なぜなら措置の時代からずっと障害のある人にかかわり、治っていく現場をたくさんみた愛甲さんの体験と知見に、2000円で触れられるからです。その結果、希望が持てて、今日このときから何をすればいいかわかり、「治っていく」一人になれるとしたら、こんなに美味しい話はありません。

「自分の幸せ」を優先できるか。
それよりも「(自分の嫌いな他人が)幸せにならない」ことを優先させるか。
それが生きやすいか生きづらいかを決めます。
そこに「社会の理解」などは1ミリも関係ありません。
自分の脳みその癖で招いている不幸を、社会のせい、他人のせいにするのは「不毛」です。
それを支援者ぐるみでやっているから、私はギョーカイが大嫌いなのですね。



凡支援言い訳例文

2020-02-12 10:40:53 | 日記
薬をのませたくないという当然の親心に対峙したときの凡支援。
それ以外の方法を提示できない、という自らの力量&勉強不足という現実から目を背けるために
「薬をのませたくない」という親心を責める。

ここで持ち出すのは「反医療」という言葉。

療育だのなんだの時間かかって税金使う割にはなんにもできないじゃないか、という親心。
ここでも自らの力量&勉強不足以下同文

その場合には「伸びること、できるようになることを期待するなんて障害受容ができていない」

ここで持ち出すのは「障害受容」という言葉。

こうやって整理してみると、凡支援がいかに「顧客のニーズに応えていないか」よくわかるでしょう。
応えていないばかりか未来永劫応える気がない。
そればかりか自分たちの力不足を親の心構えにすりかえてごまかす。

先日リアルに「治る人と治らない人がいると治らない方が恨む。ことによっては触法行為まで仕掛けてくることがある。だから治る人がいないことにしている」としたり顔で言う支援者がいましたが

結局保身でしか仕事していませんね。

治らないで治る人をひがむのは、ひがむ方の問題。
ひがむ方が自分で解決するしかない。
ひがみは陰性感情。
他人の陰性感情につきあうほど人生長くないのでそんなものは自分で解消してほしい。


レベルが低い方に合わせても仕方ないですね。
レベルが高い方に合わせた方が社会全体を底上げできる。

知的障害も治る人と治らない人がいるでしょう。

なんで治らない人のつまんない卑屈な気持ちの問題のために治った例があることを隠す必要があるんでしょう?
ないね。

だから『知的障害は治りますか?』を出すんです。
「治る子と治らない子、その違いはどこに?」だ。
あれ、どこかで聞いたことあるなあ?

専門家にそこまでつきあう必要ありますかね?

2020-02-11 14:51:44 | 日記
さて、ブルーさんのアンチ考察、本編第7回目へのお返事です。
ブルーさんの本記事はこちら。



まず「藁をつかまないでください」から行きましょう。

よくネットで誰かが誰かを批判こき下ろし罵詈雑言(どう受け取るかは受取手の自由)をしていると「自分が痛いところをついているのだ。自己紹介なのだ」とかしたり顔で言う人がいます。そういう場合もあるかもしれませんが、私はこの「自己紹介乙」ってもう少し複雑な経路をたどっていると思っています。

たとえば「浅見は本当に発達障害者を思っているのではなく承認欲求から~」とか言われて私がどう受け取るかというと

「そうか、アンチの目から見て私は(少なくとも一定のオーディエンスに)承認されているように見えるんだな~」っていう感じですかね。
「承認欲求」という言葉で私を非難しているつもりなのでしょうが「気にくわないことに一定の承認をされている」という悔しさがにじみ出てしまっている。
言葉とはこのように読み解くものです。


なんでこんな話をするかというと、ネット上で非難の応酬となる「自己紹介乙」は乱暴過ぎるんだけど、その人がどういう言葉を使うかには世界観が見える、ということです。

そして「藁をつかまないで」と誰かに言っている(凡)医療者とかをみると私が感じるのは「謎の上から目線」です。「藁をつかまないで」と誰かに呼びかけているということは「あなたのリテラシーを信用していませんけどそれって藁ですよ」という割合失礼な発言なのですけど多くの(凡)医療者はそれに自覚的じゃないですね。この辺でもう「だめだこの人たち」と思います。「これじゃあ治せないわ」と思います。

一方で私の目線はつねに平等です。これは愛読者ならわかりますね。人の上に人はなく人の下にひとはない。のでえらい先生でもこき下ろすし自閉症当事者でもきちんと裁判にかける。それと被虐待経験がある人が他人を自己治療に使うことを許さないし障害児の保護者が卑屈だと「やだなあ」と思うしその卑屈さがこっちの迷惑になってくると「卑屈で迷惑」とはっきり言う。でも多くの支援者はここで遠慮するわけですね。この人は被虐待体験がある、この人は発達障害がある発達障害がある子の親である、と。そしてその遠慮が私からみると「上から目線」なわけですが、多くの福祉的クラスタとは感覚の違うところですね。

つまり「浅見は保護者の弱みにつけ込んで~」とか言われると「そうか保護者って弱いのか」と思う。保護者が弱い、藁にもすがりたい人たちであること自体が私にとっては新しい発見。っていうか「アンチは弱いんだろうな」と思います。じゃあ愛読者の皆さんはどうかというと「弱みから立ち直った(あるいは立ち直りつつある)人たち」ですね。

で、なんで立ち直れるかというと、やはり「治る方法を見つけた」からですね。
だからね、「藁にもすがる」人を減らしたいのなら自分たちが治せばいいだけじゃないのかと思うんですが。

私は知的上位層に向けて仕事をしているせいか(これも意図した結果でないことはすでに説明しましたが)読者のリテラシーを基本的に信じています。少なくとも匿名医療者が見も知らぬ民草(彼ら目線)に向かって「藁~」とか言っているよりはずーっと読者のリテラシーを信じています。だから私が言うのはこれですよね。

「ようこそ皆さん花風社クラスタへ。ここ来るまでに支援頼ったでしょ? 藁にもすがる思いで。そうしたら本当に藁だったでしょ?」

そこで「ああ本当に藁でした。なんにもならなかった。っていうかマイナスだった。あれ税金使ってやってるんだからぼったくりですよね~」

って言って自分たちの発達援助を学び編み出しているのが花風社クラスタですね。

次に専門家()の評価基準について。
ブルーさんご指摘のとおり、これはアンチと花風社クラスタではすごく違うわけです。

まず私たちは「治せる」かどうかが唯一の判断基準。
『発達障害、治るが勝ち!』の紙の本がお手元にある方はP107~108を読んでください。
私たちが専門家に求めるのはこれです。

そして私たちは、(とくに医療の分野において)治せる人がめったにいないことを知っています。
だとするとネットで匿名でガーガー言っている連中は「治せない方」であることの確率がずっと高い。

でももしかして治せるのに無名に埋もれているのなら、事と場合によっては話聞いてあげてもいいから
・所属と実名
・これまでの治したエピソード
がわかれば相手してもいいけど、っていう感じですよね。

信用してほしいならエピソードを出してみろ!

てなもんですね。

それで所属と実名がばれてみれば「な~んだ、やっぱり私たちが頼りにするようなレベルの専門家じゃないじゃん」
「引っ込んでろ」「凡医療界に帰れ帰れ~」なわけですね。

要するに「治した実績のある人の知見」しかこっちはほしくないわけです。

そしてこのギョーカイにおいて、トップの医療者であったはずの人たちが治すことを一向に追求せず次から次へと新しい商売を考えて怪文書を振りまいたりしているのも知っています。
これだけクラスタになっているから、「ギョーカイ相変わらずダメ」という情報はどんどん入ってくるわけです。
先日もTS大学のU山研究室からとんでもない怪文書がばらまかれているというたれ込みが。

そして「あかんな」と思っているわけです。
こいつら(ギョーカイ人)は一生治す方法を見つける気はない。
だからこそどんどん自分で方法を見つけようと。

その点、専門家は不自由なわけです。
なぜなら自分の専門分野に縛り付けられているから。

たとえば花風社は一時感覚統合を支持しました。
でも感覚統合のいいところだけとってコミットするのはやめました。
なぜなら最初「自閉っ子のここが治ればいいな」と思った四つの内、感覚統合は1.5くらいしか治せなかったからです。
ところが灰谷さんと栗本さんで全部治るようになったからです。

でも大学で感覚統合を教えている人たちはそうはいかないでしょう。これからも院に進学させたりしなきゃいけないし、院生は就職させたりしなきゃいけない。
専門家というのはその分野の村社会にしがみつくしかない。

ところが花風社は出版社だから自由なのです。
感覚統合は療育の分野で唯一身体にスポット当ててたからやってみた。
本も出したし感覚統合の全国大会で講演やってた~くさん本を売ってもらった。
お互いハッピーだった。そこで終わり。
でももっといいのが見つかった。
だったら今度はそっちを推そう。

なぜかというと、専門家たちが、自分たちのコップの中での出世とか、自分たちが育てちゃった院生とかのために仕事をしているのに対し、出版社が考えているのは「読者の利益」だからです。
読者の利益になる方にスイッチするのは当たり前。

神田橋先生は
・自分でできて
・金がかからなくて
・できれば身体の中に何も入れない

とおっしゃった。
このうち前二つは今も花風社は踏襲している。

でも、ここで藤川理論が出てきた。
メガ盛り。
自分でやってみる。調子いい。読者がやってみる。まずは親御さんが自分で始めた人が多かったですね。調子いい。お子さんにやってみる。調子いい。どんどん治る。

私が自分には一円も入らないのに藤川理論を推したのはただただ「治ってほしい」からです。
そして神田橋先生にもお知らせした。
それを神田橋先生がどのように採り入れるかは先生の裁量。おそらく先生のことだから私たちよりも(もしかしたら藤川先生をはじめとする栄養療法の先生たちよりも)もっと細かく「この人には合う、合わない」がおわかりになるかもしれない。

つまり、凡専門家はしがらみにとらわれる。
神田橋先生クラスだとしがらみにとらわれない。
ただ治すことに専念される。

そして読者もまた、学会やギョーカイのしがらみになんかとらわれないですむんですね。
だってどの専門家にも義理立てしなくていい。
ひたすら自分が、我が子がよくなる方法を横断的に採り入れればいいのです。

だから読者が採り入れていて、私がほとんど関心がないものもあります。
左右脳方面とか。
私、ほぼほぼ言及しないでしょ。
愛甲さんも無関心。でも座波さんは読んでますね。
それぞれピンときたものをやればいいんじゃないでしょうか。

ところが専門家でもないのに、つまり専門家が守らなくてはいけない院生の就職先やなんかがないのに、専門家のリギッドさにつきあっている人たちがいる。

それがアンチ。

おまけに実はそれほど勉強していないですよね。
ただ専門家の持つリギッドさを内面化している。
ますます治らない。
治らないという信念を深めていく。
治っている集団が気持ち悪くて仕方ない。
なのに目を離せない。

不思議な人たちです。

私たちは「治らないと思うのなら治らなくていいんじゃないの」と思ってますね。
異教徒にも信仰の自由はあるわけです。

けれども他人が自分と違った信仰を持っているというだけで(押しつけられてもいないのに)自分たちの信仰の自由が奪われるとカンチガイしている人たち。

ブルーさんの謎解きを待ちましょう。

時代が変わった

2020-02-09 11:56:26 | 日記
先日、シアさんがアンチに喧嘩売っていたのをきっかけに、古参のアンチを見つけました。
それに関してブログも書きましたけど
そもそも神田橋先生の「医者なら治せんといかんわな」という名台詞がどのような文脈で出てきたかはどっとこむのメッセージコーナーに貼っておきましたよ。



それでまあ、そのとき「そこの医者は治せないんだけど、初診料20万円+税取ってるんです。それだけ取ってる人だからいつかは治してくれると思ってほっておいたら、一向に治せないから、地元の福祉の人に言ったら、あそこ行って治っている人いないわよと教えてくれたんです」という話をしたら「そういう商売をいつまでやらせとくのかね」(大意)みたいなことを神田橋先生はおっしゃいました。保険診療でどんどん治してしまう先生には許しがたいビジネスモデルだったようです。先生からみると20万円取って治さない方がトンデモ。

相変わらず治せないのはあれからずっと通い続けて未だに嫌いな出版社に執着しているアンチをみてもわかるとおり。それと横浜の治った消息筋によると、治ったそこんちのお子(中学生)が夏休み部活やったり友だちと遊んだりしている間に、そこに通い続けている同級生は未だに夏のさなかに長袖で(過敏治っていない。せっかくビタミンDを作る季節を逃しているようですね)ママと腕組みしないと外出できないそうです。不便だわ~。やっぱり治るが勝ち!

でも昨日また消息筋の人が発見したところによると、保険診療に切り替えたんですね。
だよね~。こんなに安く治ってしまう手段が出てきた時代にいつまでもA46枚に20万円払う人は多くないよね。
ある意味神田橋先生の目論んだ通りになった。
めでたし、めでたし。

と思っていたらyasuさん登場。



鋭い。

これまでは自費で20万円払うオバカさんだけが被害に遭ってたけど、これからは治せない医療で国民負担を増やすと言うことですね。

私がこれにすぐに気づかなかったのは、この分野治せない医療が多すぎて鈍感になってたかも。
反省。

ところで

いくつになっても親にぶつぶつぶつぶつ言うのは発達障害の人の非常にめんどくさいところなのですが、クラスタの某氏(当事者ではなく親御さん)も親へのわだかまりを捨てきれずに友だちに愚痴っていたらたしなめられたということ。それから愛甲さんの本やなんかの助けを借り、親への恨み言をなくしていった。

いいお友だちだと思う。
親の悪口をいつまでも言い続ける人なんか不愉快なだけ。
それをたしなめてくれて友だちを続けるってすばらしくいい友だちだと思う。

親への恨み言を捨てるとね、社会生活も子育ても、そして自分の健康も順調に行き始めますよね。
親を好きにならなくてもいい。
ただ、恨み言から自立すればいいだけ。
自分の人生なのだから。

「愛着障害は治りますか?」とは私が愛甲さんに訊いた言葉です。
発達障害の人もその親も、不安強くて怖がりでつきあうのめんどくさい人が多い。
なんにも脅されてないのに「脅された」とか被害的に取ったり。

そういうのの背後に「愛着障害」がある、ときき。

あああのめんどくささは「愛着障害」なのか。
治った方がいいね

と思ったのです。



愛甲さんの本は、電子書籍強い。
たぶんふと思いついて、読みたくなるのではないかな。
スマホに入れとけば、いつでも愛甲さんに会えるし。

私はね、発達障害で苦しんでいる人がいると「発達障害は治りますか?」とききにいくし、愛着障害で苦しんでいる人がいるとききにいく。そういう「浅見が誰かにききにいく」シリーズなんですよね。「治りますか?」は。

ちなみに今度はその愛甲さんに「知的障害は治りますか?」と訊いて本ができるのだけれど。

そんなに苦しいなら治せばいいじゃん、というシンプルな発想です。
そういうシンプルな考え方ができない人がたくさんいるのもわかってるけど、
「苦しいから治したい」という人もいて、そういう人に喜ばれている。

正直
発達障害苦しいなら治ればいいじゃん。
治したくないなら治さなくていいから愚痴言うな。
発達障害の自分が好きなんでしょ?

って思いません?
生きづらい生きづらい言うなら治せよ。
治す気ないなら愚痴言うな。うっとうしい。

五桁の人々が鹿児島を発見したことは
治せないクリニックのビジネスモデル変換に、まったく無関係ではないでしょうね。

人間力の違い

2020-02-07 07:23:21 | 日記
さて、昨日の夜遅く『自閉っ子通信』を校了し、ツイッターのどっとこむアカウントを覗いてみるとシアさんがまたアンチに喧嘩を売っていました。
見覚えのあるアンチでした。っていうかリアルで面識があります。私がまだギョーカイと仲良くしていた頃に会った人です。一家でよこはま発達クリニックに行ってると言ってました。その頃私はまだ裁判を抱える前でギョーカイの機能不全にもよく気がついていなくて、単純によこはま発達クリニックはすごいという評判のみをきいていたので一家でお世話になっているなんてすごいなあ、と思いました。

当時私は、たんにギョーカイの評判だけで件のクリニックは名医だと思っていました。だってみんな名医だって言って何年も待ってたし。それを待つことなく優先して一家でみてもらえたなんてなんて幸運なご一家だろう、と思っていました。発達障害の世界における名医が「治す人」をあらわさないことを、こののち私は知ることになります。

というわけでその時点でギョーカイのことは信じていた私ですが、でもそのアンチには好印象を抱きませんでした。当時すでにいい歳だったと思うのですがとにかく親への恨み言がすごい。皆さんもよくご存じのとおり、完璧な人間がいない以上完璧な親もいません。虐待例は言うに及ばず、そこまでされていない人でも親へのいやな思い出なんてあるでしょう。でもそれを乗り越えていくのがまともな大人のはず。それをいい歳してえんえんと親への恨み言を言いつのるのをみて「へんなの」と思いました。そういえば発達障害の人に多いですよね、ずーっと親の悪口を言い続けるの。

親と仲いい人も、疎遠の人もいると思います。同じきょうだいでも温度差あったりね。それは親との相性とか巡り合わせとかあるから色々あっていいと思いますが、このアンチの話で呆れたのは「万が一のことがあっても葬式に帰る気もない」と言っていたことでした。こりゃすごいな、と思いました。

葬送は人間的な行為の一つです。しかも恨みがあるとは言え自分に命をくれた人。その節目さえ放棄するとは、まあようするに人でなしだなあと思ったのを覚えています。そして自分に命をくれた人をそこまで恨めるとすると、自己肯定感もへったくれもあったもんではありません。今も不満でいっぱいの人生を送っているのでしょうしそれも当たり前です。そもそも自分の命を自分で祝福できていないのですから。

だからシアさんが相手にするような人ではないのです。
花風社クラスタは人間力が違うのだから。

ねこ母さんの年末年始あたりのブログを読んでください。「日々 あんのん」で検索すると出てきます。ねこ母さんが実母様と認知症になっている義母様両方を引き取ってお正月を過ごすときいたときには「濃いなあ」と思いました。でもねこ母さんと旦那どんさんはみごとに認知症のお義母様の機能回復まで図って旦那どん様故郷の島に送っていってます。ねこ母さんはまったく消耗していなかったようです。

そういう人間力で、別に保護者ではないのに「どこでも治そう」をやってくれているのです。私が「やりたい」って言ったときにすぐに動いてくれたのは、なんら自分のためではない。「たくさんの人たちが苦しんでいるけど、この人たちが治るといいね」という真心があったからです。自分の親の葬式さえ出ないという人でなしとは段違い。当然人生の楽しみ方も違うでしょう。

自分の親の葬式にも出ない人と私たちは、かかわりを持つ必要はありません。
放っておけばいいです。

親の力を見くびる支援者たち

2020-02-05 09:17:11 | 日記
さて、昨日ブルーさんのアンチ考察第6回へのお返事ブログを書きましたが、



その中でも引用させていただいた味噌ぴさんのつぶやきを見て、「あ、書き忘れた」と思った事があったので書きます。

味噌ぴさん1


味噌ぴさん2


味噌ぴさん3


味噌ぴさん4


親しかできないことがある。
それは厳然たる事実なのに支援者たちの多くはなるべく親をかかわらせまいとする。
「専門性」の名の下に。

最初に「一生治りません」というウソで親を絶望させておいて、親を病ませ、したり顔で親から子を取り上げて療育という子育てのアウトソーシング。
食育もトンデモ、遊びでの発達もトンデモ、と言って「子育ての土台」そのものを奪っていく。
そして治らない治らない言っているんです。
どんなマッチポンプよ。

ペアトレ、という名の下に「自然な親子関係」を奪う。
「二次障害」をでっちあげて「頑張ってもらいたい」という自然な親心を奪う。
そして味噌ぴさんの通級の先生が見抜いたように、ラポールが崩れたところで学校に入ってくるんですな。

それもこれも「専門性」を優先したせいです。
そして匿名の医療従事者たちとともに花風社クラスタを素人扱いしている親たちは、この、徹底的に親を蔑むという専門家目線を内製化してしまった哀れな人たちです。親なのに。
事件を防げるのも親。感覚過敏を治せるのも親。発達を育めるのは専門家ではなく親なのに「自分たちは無力な存在である」「専門家にまかせておいたら安心」と信じ込まされている哀れな人たち。

ところが専門家は感覚過敏一つ治せないんです。
治せるのは親。
その知見を提供するのが花風社の本。

専門家がなぜこのような親蔑視の視点を得たのかは謎ですが、一つは虐待対応とかに気を取られすぎていることがあるかもしれません。

でもシアさんとかが再三指摘しているように、特別支援教育そのものが差別的構造があります。
インクルージョンどこいった?

ともかく

ペアトレだの療育だのにうつつを抜かし、食育はトンデモ、遊びで育つなんてトンデモ、と言っている親子はすでにラポールがぶっ壊れていますから

花風社のやり方を採り入れようと思っても無駄。
本を読んだって何が書いてあるかわからないだろうし、書いてあっても実践できないでしょう。

その点私は民間人で
ブルーさんがご指摘のとおり民度の高いお客さんだけを相手にしていますから
治る治る言っているわけです。

ずーっと前の花風社セミナーの時、画伯がやってきて
「やっぱり浅見さん、これは妬まれるよ」って言われたことがあります。

「へ?」っっていうと
「だって花風社のお客さん、すごくレベル高い。こういう世界を妬む人もいるよ」とか言われて
「そうなのか~」と思いました。

別に「レベルの高い客を」選んだわけではありません。
ただし、私の願いは本当に治すことだったから
治るための本、すなわち原理原則を示しみんなが試行錯誤してテイラーメードな発達援助を編み出せるような本を出してきたから
それを愛読し続けるお客さんは、やはりレベルの高い人たちなのでしょうね。
つまり、ギョーカイが見くびっている人たちとは別の人たちだということです。


なぜ「知的上位層」向けに本を出すのか?

2020-02-04 10:11:27 | 日記
花風社の本はなぜ「知的上位層」向けと言われるのか?



さて、ブルーさんのアンチ考察続き。
本編第6回です。



今度はずばり、ダイレクトに来ていますね。

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花風社の本については、対象顧客は間違いなく、「知的上位層」向けです。

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これはよく言われるんですよ。
こっち側の業界人に。
そして出版不況の時代、一つの戦略として正しい、と評価されることもあります。
今や本をわざわざ買って読む人は珍しい。
だったら知的上位層に絞るのは賢明である。
花風社の場合、著者が誰であっても、必ず買ってくださる方が一定数いる。
だからこそ原則無名だった栗本さんの本が最初から売れたんです。
そういうビジネスモデルは正しい、と評価いただくこともある。

ところがね、別にそこは狙っていなかったんです。

思い出してみましょう。浅見の赤心を。
私はただひたすら「治るといいな」でやってきたわけです。

そしてハウツーじゃそれが達成できないことは割と早く見抜いていた。
一方で一般的な読者がハウツーじゃなきゃこなせないのもわかっていた。
それは感覚統合に関して駄本がどんどん出たことでもわかりました。
うちが出した感覚統合系の著者の本は、ハウツーではありません。やはり「自分を知る」「自分の治し方を知る」ための基本原則を書いています。
売れるためにはハウツーにした方がいいのかも。でもそれには重大な欠陥があります。ものすごく少しの人しか治らない。効果が上がらない。
そこで試行錯誤してたどりついたのが今の形式です。

だからブルーさんのご指摘のとおり

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かつ、花風社の本は、答えが書いていません。全身のつながりに関する基本原理と、個々人の見立て方が書かれています。つまり取り組みのヒントになる仮説 ※2だけが書かれている。

答えを出すのは各人の試行錯誤に任せることにより、完全個別化を達成しています。

発達障害への取り組みにおいて、最重要の原理の一つが「完全個別化」です。そして書籍で完全個別化を達成するにはこの「花風社方式」しかありません。

だから花風社の本は、治ったり、発達したりと、読者に明るいエピソードが発生するのです。

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という結果に結びついているのです。

そのために、最初から「こうやりなさい」と命令されるのを待っている主体性のない人にとっては「なんだかわからない」「治る方法が書いていない」本になります。よくそういう文句言っている人がいますが、あれはこっちのせいではなく向こうの準備ができていないだけなのでミスマッチでしたね、としか言いようがない。
原則を学び、そこから自分なりのテーラーメイドを引き出せる人にとっては読んで実践すれば結果が出る本。結果が出るからこそ出版されるたびに買いたくなるのが花風社の本なのです。
結果としてテーラーメイドができる人たちが愛読することになる。

だから私がアンチたちに「読まなくていいよ」というのは本心なのです。
読んでもテーラーメイドする能力と実践する実行機能がなければ無駄だからです。
読まずにブロックしながらツイートだけ食い入るように見てあれこれ言っているような生き方をしている時点でもう治らないことは決定しているからです。ハイハイ治らない治らない。君たちはね。こっちは治るけど。

売るためには彼らも読んだ方がいいだろう、という考えもありますが
そういう考え方自体が私から言えば愛着障害の産物なのです。
私は自分が正しいことをやっていること、自分の仕事が世の中に受け入れられること、一生金銭的にも愛情的にも困らないことに絶対的な安心感を持っています。
自分は一生大丈夫、という安心感を持っています。
何かトラブルがあればあるほど(裁判や炎上など)この安心感は強くなります。
これは、服薬しながらようやく社会生活を送っている苦しい人たちには決してわからないでしょう。
この安心感を共有していなければいないほど、浅見像を見誤ります。なのにわからなすぎて興味津々だからかわいそうです。

そして「素人集団」「ただの編集者」についてはブルーさんもご指摘のとおり。

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前者は主に凸凹キッズや自閉っ子の親御さんと、成人当事者に向けられたものです。つまり、「専門職や研究者ではないし、だから何も知らないくせにウルセーバカ」といいたいわけですね。

ここでアンチは、悪口を言おうとして、素朴な前提を使っています。それは「国家資格・専門知識のある人が詳しい・賢い」です。

発達障害に関しては、これが今一つアテにならないことは、花風社クラスタの方は経験で痛感なさっていますね。

そして御存知の通り、クラスタの中には、医療・福祉・心理系や、徒手系の専門職の方もいらっしゃいます。

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花風社クラスタの中には、並のアンチたちより一時はずっとギョーカイにコミットした人も多いです。味噌ぴさんのようにローカルギョーカイで会長やった人までいます。そして、皆多かれ少なかれ医療にも頼りました。
その結果「ここではだめだ」と見切りを付けたのです。

浅見が最初から治ってほしいな、と思った四つの点を思い出してください。

1 感覚過敏
2 睡眠障害
3 ボディイメージ
4 季節の変動への弱さ

この四つさえ、医療はなんにも解決できなかったのです。
でも花風社の本を読んで実践したひとは、治っていますよね。
守谷市のなんとかクリニックに行って、この問題を訴えてみるといいです。
あるいは杉山先生でもいいですよ。
どういう答えが返ってくるでしょうか。
もっとも杉山先生は花風社の本も結構診察室にそろえてくださっているそうなので、相当なお勉強家ですから、花風社由来ではなくてもなんだか解決策をお持ちかもしれません。でもそのへんの凡医には期待できないですね。

凡医でも眠剤は出せるでしょう。でも眠剤での眠りは「本物の眠り」とは違いますからね。
もちろんそれでも制度としての医療を上手に利用している人、共働き等で制度を上手に利用している人もいます。それはその権利が当然あります。
ただ「治す」点では頼りにしない。
そして療育のありがたくない副作用にも気づきながらうまく利用しています。

そしてこういう状況の中で、それほど素朴に「医療」を「治そう集団」の上に置いている人たちを見ると、単純に
・世間知らず
・努力不足
あるいは
・田舎者
に見えます。
田舎者とは地域性だけの問題ではありません。
昔っぽい身分制度を無自覚に肯定している感じです。
そしてこの「昔っぽい身分制度を無自覚に肯定」っていうのが、やはり知的上位層の生活習慣には組み込まれていないのですよね、実は。つまり「医者がえらい」という考え方が、民度の高くない層だという証拠なのです。実力をみない。肩書きだけで信用する。

ちょうど智ママさんからご報告がありました。




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心臓の医師に、『息子が小学校の育成級の病弱クラスに進学することになった』と報告しました。
心臓医師は、にっこり笑って、喜んでくれました。

心臓医師だけでなく、口唇口蓋裂専門のSTも、形成外科医師も、息子の小学校への進学を喜んでくれたのですが。
発達医師だけは、微妙な戸惑いと沈黙でした。
なぜ、発達医師だけが、稀な小学校育成級進学の多発奇形の一例を喜ばないのか、謎でしたが、特に問題はないかな?と思っています。

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そうなんですよ。
発達医療の医師は、治せないだけじゃなく性格も悪いことが多いんですよね。
これもまた、「治したい」と願う発達クラスタが医療に期待しない一つの原因になっています。

というわけで「医療は絶対的に上である!」と叫ぶ人たちを見ると感じるのは「愚民観」。
「封建時代の農民みたい」な感じです。
まあたんに、彼らが花風社のやり方に手を出さない言い訳としてこういう言い回しを使っているというブルーさんの指摘はたぶん正しいのだと思いますが。

続きも楽しみにしております。