さて、「どっとこむ」「仕事のお部屋」で連載されているブルーさんのアンチ考察へのまたまたお答えブログです。
今回のブルーさんは
アンチの「量と質に関する読み間違い」を指摘してくれています。
このうち「量に関する読み間違い」はかねてより私がやんわりと(当社比)指摘していたことでして、凡ST関連の証拠保全をもとにそれをコメントで説明しておきました。
こちらね。
ではこっちのブログでは「質」の問題に移ります。
花風社アンチと花風社クラスタの「質の違い」。
これこそが私がいったんはツイッターは閉じようかな、と思った理由だから。
アンチはクラスタの皆さんに失礼でしたね。
どう失礼かというと、見くびっています。
どう見くびっているかというと、皆さんが私に騙されて花風社の本を読んだりしていると決めつけていた。
私は「バカ」の定義を「自分の価値観を相対化できない」と理解していますので、彼らが暴言と取る言葉を次々吐いている私を支持している人は、「治りたい一心で独裁者の暴言を耐えている無力な民」に見えるわけですね。
でもそんなはずがないのです。
私は権力者ではない。民間人です。
民間人は選び選ばれる存在です。
ですから
ブルーさんがおっしゃるように、皆さんが花風社を支持する理由はたった一つ。太字にします。
=====
支持者がいるのは、本の内容に賛同し、試行錯誤したら良い結果が出た人がいるからです。難しい話ではありません。しかし、このシンプルな話がアタマからうっかり飛んでしまっているのです。
=====
このシンプルな話がうっかり飛んでいるのかもしれませんし、意識的にか無意識的にか飛ばしているのかもしれません。
なぜなら(とくに古参のアンチにとっては)花風社の提唱する方法に実効性がある、実効性を感じて喜んでいる人がいる、という事実は絶対に認めがたいからです。
なぜか?
そこにそれがあるのは知っていた。十年前から。
知っていたのに選ばなかった自分がみじめになるからです。
アンチの多くが「選ばなかった理由」を私の「暴言」のせいにしています。
一生懸命暴言集みたいなのを作っている人もいます。
私はそういうのを見ると「あ~昔も今もいいこと言ってんな~私」と思うのです。
考えていることが自分の口から(指先から)出た言葉たちであり、「言わなきゃよかった」と思った発言はただの一つもありません。
めんどくさくてツイッターを鍵かけていた時代には、アンチがくるくる回す「暴言集」が本当にいい仕事をしてくれているな~と思っていました。
鍵をかけていても私の発言が世の中に流通している。なんとまあ、ありがたいことでしょう。
そして栄養療法が出てきました。
栄養療法をやっている人たちはFBでサークルを作っていて、ツイッターにはあまりプレゼンスがありませんでした。
けれどもアンチに連なる人々は、花風社の本に対するのと同じ態度を取りました。
読まずにインチキ扱いです。
要するに「浅見の暴言」は「読まない・やらない」後付けの理由だったとわかります。
彼らの行動原理は「とにかくなんにもやりたくない」であり、そのための言い訳をどんどん探すのですね。
さて、「暴言」集を見て、実際に「暴言だなあ」と思った人もいるでしょう。
そういう人でも別に、私と個人的な接触はしなくてすむのが版元と読者という関係性です。本を読んでやってみればいいだけ。「暴言への嫌悪感」<<<<<<<<治ったらいいなという気持ち
の人はやはり花風社の本を読むのです。
一方で「自分の価値を相対化できない」人から見ると信じられないことに、浅見の言動を見て「そうだ!」と膝を打つ人もいます。
どうみてもこっちの方が言っていることが正しい、という人もいます。
そういう人もやはり花風社の本を読んで実践してみます。
こういう花風社の読者にあるのは何かというと
ブルーさんのご指摘のとおり、主体性です。
花風社の本は、読んで実践してみないと効果がわかりません。
実践するだけの元気がない人
すでに実践するだけの関係性が途切れてしまっている人にとって、治った自慢は最初からすっぱい葡萄です。
一歩で私の「暴言」が結界となって
怖がりの人が入ってこられない世界になっているのが花風社クラスタです。
これも花風社の実践の歩留まりを上げています。
なぜなら「治せない親」というのは「怖がりの親」だからです。
私の「暴言」のおかげで、花風社クラスタには怖がりの人が入れないシステムになっています。
あるいは最初はおっかなびっくり入って来た人も怖がりが治ってくると、以前は「暴言」に感じていたものが暴言に感じられなくなります。
身体アプローチに親子で取り組むうちに、親御さんの「そこはかとない不安」「恐怖麻痺反射」が取れていくからです。
一方でアンチでアクティブに騒いでいる人たちの精神科利用率、服薬率はなかなか高いですよね。
ああいう人たちは身体アプローチも栄養アプローチも結果が出るのに時間がかかりますから、別にこっちに入ってこなくていいのです。どっちみち心底治りたくないようだし。それに、ああいう人たちが入ってきたら、歩留まり悪くなりそうです。
ではその結界を張るために私がわざと「暴言」を吐いているのかというと
そんな意図は全くありません。
私は好きなこと言っても困らない程度には強運なのです。
これほどの強運に恵まれない人には、たぶん理解できないほど屈託なくものを言っているだけなのですが
結果として結界を張っているようですね。
「そんなことを言ったら人にどう思われるか」といった説教臭さを発揮して私の行動を制約できると思っている凡ST方面の人々には理解できないと思います。
「人にどう思われるか」を行動の基準にしている人は、私から見ると全員愛着障害です。
そして花風社クラスタと花風社アンチでは主体性の強力さにくっきり差ができますので
花風社クラスタの皆さんは
行政がアリバイでやっているような支援のむなしさは見抜くし、場合によっては上手に利用するし、卒業時期を見極める目も磨いているのです。
そうなると困るのは誰でしょう?
行政の制度があるからこそ仕事がある凡医療凡支援ですね。
花風社クラスタの皆さんは、我慢して半年にいっぺん凡医につきあったりしているのですが
「治す」ことは期待していない。
それがSNSとかでは見えてしまうので
「引き剥がしだ~」と騒ぐのでしょうね。
でも逆にききたいです。
現行の行政アリバイ医療支援に満足している皆さん。
いったい行政のアリバイ支援が何をしてくれました?
たとえば藤川先生のブログや、どっとこむの治った自慢にあふれているような事態を行政提供支援がしてくれましたか?
指いい子やプロテインで知的障害治ったなんて成果は、行政提供支援では得られません。
なのに唇かみしめてお仕着せの支援にじっと我慢している人たちを見ると
「自分のこと、自分の子のことなのだから自分でどうにかしよう」という主体性はたしかに感じませんね。
そしてその主体性を発揮しているのが花風社クラスタです。
話が合わないのは当然なのですね。
それで攻撃されても、花風社クラスタの皆さんは一生懸命説明していた。
なぜか?
凡医に絶望に突き落とされ、穀潰しの凡支援に翻弄されたあとで
「こんなに簡単な家庭での取り組みで治るんだ」ってわかったので、知ってほしかったのですね、同じ障害児の親として。
でもそれは通じませんでした。
ツイッターは鍵閉じて、平和にやった方がいいという決断をしました。
けれどもそうなると新しい仲間が入ってこられない。
「治るんだ」って知る人がいない。
それでどっとこむを作りました。
そこで皆さんにおおっぴらに治った自慢をしてもらいました。
その結果、他人が治ったのをインチキがる方面の人ではなく
他人の治った自慢に勇気づけられ「いつかは治った自慢をするんだ!」と瞳を輝かせて入ってくる人たちが増えました。
『知的障害は治りますか?』のご注文も
「どこでも治そう」の発足、及び創立記念講演会の好調ぶりも
「新しい世代」の台頭を表しています。
治る人数に定員はありません。
これまで治った人がいた、ということは
これからも治る人がいるということです。
それを知らない人がまだ多い。だから広めたい。
九州のお姉さんずも、方々で次の「どこでも」企画をしようとしている人たちも
そう考えて動いてくれています。
でもアンチは違うのです。
「知っていた」のです。
「知っていたのに選ばなかった」のです。
彼らの選択は、大事にしてあげましょう。
彼らを説得する必要は、もうないですよ。
今回のブルーさんは
アンチの「量と質に関する読み間違い」を指摘してくれています。
このうち「量に関する読み間違い」はかねてより私がやんわりと(当社比)指摘していたことでして、凡ST関連の証拠保全をもとにそれをコメントで説明しておきました。
こちらね。
ではこっちのブログでは「質」の問題に移ります。
花風社アンチと花風社クラスタの「質の違い」。
これこそが私がいったんはツイッターは閉じようかな、と思った理由だから。
アンチはクラスタの皆さんに失礼でしたね。
どう失礼かというと、見くびっています。
どう見くびっているかというと、皆さんが私に騙されて花風社の本を読んだりしていると決めつけていた。
私は「バカ」の定義を「自分の価値観を相対化できない」と理解していますので、彼らが暴言と取る言葉を次々吐いている私を支持している人は、「治りたい一心で独裁者の暴言を耐えている無力な民」に見えるわけですね。
でもそんなはずがないのです。
私は権力者ではない。民間人です。
民間人は選び選ばれる存在です。
ですから
ブルーさんがおっしゃるように、皆さんが花風社を支持する理由はたった一つ。太字にします。
=====
支持者がいるのは、本の内容に賛同し、試行錯誤したら良い結果が出た人がいるからです。難しい話ではありません。しかし、このシンプルな話がアタマからうっかり飛んでしまっているのです。
=====
このシンプルな話がうっかり飛んでいるのかもしれませんし、意識的にか無意識的にか飛ばしているのかもしれません。
なぜなら(とくに古参のアンチにとっては)花風社の提唱する方法に実効性がある、実効性を感じて喜んでいる人がいる、という事実は絶対に認めがたいからです。
なぜか?
そこにそれがあるのは知っていた。十年前から。
知っていたのに選ばなかった自分がみじめになるからです。
アンチの多くが「選ばなかった理由」を私の「暴言」のせいにしています。
一生懸命暴言集みたいなのを作っている人もいます。
私はそういうのを見ると「あ~昔も今もいいこと言ってんな~私」と思うのです。
考えていることが自分の口から(指先から)出た言葉たちであり、「言わなきゃよかった」と思った発言はただの一つもありません。
めんどくさくてツイッターを鍵かけていた時代には、アンチがくるくる回す「暴言集」が本当にいい仕事をしてくれているな~と思っていました。
鍵をかけていても私の発言が世の中に流通している。なんとまあ、ありがたいことでしょう。
そして栄養療法が出てきました。
栄養療法をやっている人たちはFBでサークルを作っていて、ツイッターにはあまりプレゼンスがありませんでした。
けれどもアンチに連なる人々は、花風社の本に対するのと同じ態度を取りました。
読まずにインチキ扱いです。
要するに「浅見の暴言」は「読まない・やらない」後付けの理由だったとわかります。
彼らの行動原理は「とにかくなんにもやりたくない」であり、そのための言い訳をどんどん探すのですね。
さて、「暴言」集を見て、実際に「暴言だなあ」と思った人もいるでしょう。
そういう人でも別に、私と個人的な接触はしなくてすむのが版元と読者という関係性です。本を読んでやってみればいいだけ。「暴言への嫌悪感」<<<<<<<<治ったらいいなという気持ち
の人はやはり花風社の本を読むのです。
一方で「自分の価値を相対化できない」人から見ると信じられないことに、浅見の言動を見て「そうだ!」と膝を打つ人もいます。
どうみてもこっちの方が言っていることが正しい、という人もいます。
そういう人もやはり花風社の本を読んで実践してみます。
こういう花風社の読者にあるのは何かというと
ブルーさんのご指摘のとおり、主体性です。
花風社の本は、読んで実践してみないと効果がわかりません。
実践するだけの元気がない人
すでに実践するだけの関係性が途切れてしまっている人にとって、治った自慢は最初からすっぱい葡萄です。
一歩で私の「暴言」が結界となって
怖がりの人が入ってこられない世界になっているのが花風社クラスタです。
これも花風社の実践の歩留まりを上げています。
なぜなら「治せない親」というのは「怖がりの親」だからです。
私の「暴言」のおかげで、花風社クラスタには怖がりの人が入れないシステムになっています。
あるいは最初はおっかなびっくり入って来た人も怖がりが治ってくると、以前は「暴言」に感じていたものが暴言に感じられなくなります。
身体アプローチに親子で取り組むうちに、親御さんの「そこはかとない不安」「恐怖麻痺反射」が取れていくからです。
一方でアンチでアクティブに騒いでいる人たちの精神科利用率、服薬率はなかなか高いですよね。
ああいう人たちは身体アプローチも栄養アプローチも結果が出るのに時間がかかりますから、別にこっちに入ってこなくていいのです。どっちみち心底治りたくないようだし。それに、ああいう人たちが入ってきたら、歩留まり悪くなりそうです。
ではその結界を張るために私がわざと「暴言」を吐いているのかというと
そんな意図は全くありません。
私は好きなこと言っても困らない程度には強運なのです。
これほどの強運に恵まれない人には、たぶん理解できないほど屈託なくものを言っているだけなのですが
結果として結界を張っているようですね。
「そんなことを言ったら人にどう思われるか」といった説教臭さを発揮して私の行動を制約できると思っている凡ST方面の人々には理解できないと思います。
「人にどう思われるか」を行動の基準にしている人は、私から見ると全員愛着障害です。
そして花風社クラスタと花風社アンチでは主体性の強力さにくっきり差ができますので
花風社クラスタの皆さんは
行政がアリバイでやっているような支援のむなしさは見抜くし、場合によっては上手に利用するし、卒業時期を見極める目も磨いているのです。
そうなると困るのは誰でしょう?
行政の制度があるからこそ仕事がある凡医療凡支援ですね。
花風社クラスタの皆さんは、我慢して半年にいっぺん凡医につきあったりしているのですが
「治す」ことは期待していない。
それがSNSとかでは見えてしまうので
「引き剥がしだ~」と騒ぐのでしょうね。
でも逆にききたいです。
現行の行政アリバイ医療支援に満足している皆さん。
いったい行政のアリバイ支援が何をしてくれました?
たとえば藤川先生のブログや、どっとこむの治った自慢にあふれているような事態を行政提供支援がしてくれましたか?
指いい子やプロテインで知的障害治ったなんて成果は、行政提供支援では得られません。
なのに唇かみしめてお仕着せの支援にじっと我慢している人たちを見ると
「自分のこと、自分の子のことなのだから自分でどうにかしよう」という主体性はたしかに感じませんね。
そしてその主体性を発揮しているのが花風社クラスタです。
話が合わないのは当然なのですね。
それで攻撃されても、花風社クラスタの皆さんは一生懸命説明していた。
なぜか?
凡医に絶望に突き落とされ、穀潰しの凡支援に翻弄されたあとで
「こんなに簡単な家庭での取り組みで治るんだ」ってわかったので、知ってほしかったのですね、同じ障害児の親として。
でもそれは通じませんでした。
ツイッターは鍵閉じて、平和にやった方がいいという決断をしました。
けれどもそうなると新しい仲間が入ってこられない。
「治るんだ」って知る人がいない。
それでどっとこむを作りました。
そこで皆さんにおおっぴらに治った自慢をしてもらいました。
その結果、他人が治ったのをインチキがる方面の人ではなく
他人の治った自慢に勇気づけられ「いつかは治った自慢をするんだ!」と瞳を輝かせて入ってくる人たちが増えました。
『知的障害は治りますか?』のご注文も
「どこでも治そう」の発足、及び創立記念講演会の好調ぶりも
「新しい世代」の台頭を表しています。
治る人数に定員はありません。
これまで治った人がいた、ということは
これからも治る人がいるということです。
それを知らない人がまだ多い。だから広めたい。
九州のお姉さんずも、方々で次の「どこでも」企画をしようとしている人たちも
そう考えて動いてくれています。
でもアンチは違うのです。
「知っていた」のです。
「知っていたのに選ばなかった」のです。
彼らの選択は、大事にしてあげましょう。
彼らを説得する必要は、もうないですよ。