桜島に挨拶したあと空港に向かい、さつま揚げを買います。
夫へのお土産はさつま揚げと豚足。そして持って帰れるのはそれだけじゃありません。
九州中から集まった読者の皆様から、各地名産のお菓子等をいただきましたので自分の荷物を宅配便で送り、新調したスーツケースはおいしいものでいっぱいです。。
ねこ母さんは液状になった芋(焼酎ともいう)をくださいました。
うとうとしているうちに、羽田に着きました。
薩摩藩が苦労して参勤交代した距離は、飛行機ではあっという間です。
横浜方面に向かうバスに乗ります。
京浜工業地帯には今日もたくさんのキリンさんが。
奄美の海とは違ったどす黒い海ですが、これが私にとってはうさぎおいし~の景色です。
バスから降りると野菜を買いました。
サラダに温野菜。
さつま揚げに豚足。
芋水。
なんとなく海の幸も山の幸も揃った宴の準備が整いました。
奄美の海で泳いで気持ちよかったこと。
シュノーケリングツアーには入らなかったけどおさかなは見えたこと。
鹿児島で栗本さんが大人気だったこと。ちゅん平が元気そうだったこと。ある人と栗本さんを会わせるという当初の目的は達成したこと。
お土産話はたくさんあります。
久しぶりに自分の寝床で寝て、起きて。
忙しい日々の再開です。
情報がどんどん入ってきます。
中でもうれしかったのは、家で蹲踞させるとは何事だ! と文句を言って出て行った通級の枠が次の親子で埋まり、早速花風社クラスタの先生が身体アプローチを教えてあげたらお子さんがうれしそうで、それを見ていたお母さんが「家でもやろうね」と言ったとのこと。
こうやって喜んでくれる人、活用してくれる人に枠が回るのはいいことですね。
そして私は奄美鹿児島へ飛ぶ機内で書き、桜島を見ながら推敲した檄文を再度推敲しました。
貼ります。
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身体アプローチに納得しない人は、発達障害イコール神経発達障害、という定義に納得していない人である。
「神経発達障害のすべて」という杉山医師監修本を真に受ける限り、杉山医師ですら本当に納得しているか怪しい。あの本は、「今般発達障害イコール神経発達障害となったけどオレたち以前と変わらぬ支援しかする気ないぜ」というアリバイ作りみたいな本であった。末席にABAを連らせて神経発達障害とはまったく関係のない文章を書かせている時点で単なる互助会同人誌であることを露呈していた。
なぜなら神経発達障害という定義が意味するものは端的に言うと
大脳皮質だけの問題ではありませんよ
ということだから。皮質下に興味のないABAではもう役に立たないという事実を突きつけているのだ、神経発達障害という定義は。
それを「神経発達障害」のかけ声のもとああいう陣容の書き手を集めたということは、ギョーカイ人たちは相変わらず友だち原理主義に走り、当事者の未来を犠牲にするつもりだ。
仲間の食い扶持を守り、発達援助は二の次にする意図を示している。
私はあの本をそう解釈した。
私が「誰とも仲良くしない」と宣言しているのはそういう風にブレたくないから。
ギョーカイつながりでやたら友だち多い人のFBとか見てると、全然主義主張の違う人たちがなんか美味しい話があるかもというスケベ根性でつながっており、お互いに顔色を伺って誰もはっきりと主張せずに飲み会の写真ばかり載せている。
だから連中はつまらない。非生産的なムラ社会。そういう人たちが平成の後の時代を生き抜けるとは私には思えない。
発達障害は大脳皮質だけの問題ではないからこそ、学習能力にバグがあるのなら皮質下から土台を作るのが近道なのだ。そして人体の仕組みからしてこことここがつながってるから(例 目と肩甲骨、股関節と耳)これやってみようよ、家でできて一日五分で変わっていく、という私たちの提言を納得する人としない人が出てくるのは自然なことなのだ。
それを一生納得しない人がいるのは生態系からして当たり前なのだ。
全員が治る必要はない。
治らない人は自らその道を選んでいる。
だからこちらが同情するのは彼らに対して無礼である。
彼らは勝手に治らなければ良い。
そして支援者たちがなぜ互助会を作っているか。
それは彼らの根性がみみっちいからである。
できれば自分のやり方を広く公金で広げてもらいたい。
そのために誰かに否定されるのがイヤだから、考えの違う人を否定せずにうわべだけ仲いいふりをしている。
例えば自分のやり方を学校現場で広く使って欲しいと願う支援者は多い。
うちの著者の中にさえそういう考えを持つ人はいる。
だが
学校に発達援助を期待するなど、時代を読み間違えている。
今の時代には絶対権力者はいないから、誰かが号令かけたらその方法が広まるということはない。
官であるがゆえにやたら中立を目指す学校現場ではなおさらのこと。
ところが日本人に積み重ねられてきた封建的なメンタリティと愛着の問題が合わさると「決定権のある人に気に入られれば取り入れられる」という誤学習をする人が出てくる。
そして自分の方法を広めたいばかりに、組むべきではない相手に「あなたのやり方も否定しませんが私のやり方もどうでしょう」と揉み手で近づいていく。
このやり方こそ正しいと信じているおバカさんも多くて、だいたいそういう人は私の生き方に批判的で「そういうやり方では損するよ」とか言ってくる。誰とも波風立てない自分がお利口だとカンチガイしている。私の年代の女子にとくにその傾向が強いと思ってきたが、なぜか発達障害の世界では男子でもこういう種類のお節介をしてくる人がいる。
私はこの人たちが大嫌いだ。弱虫だし、弱虫を押しつけるし、そして実のところこの人たちがやっているのは女性差別だから。
男性が強い主張をしてもこういう人たちは文句をつけないのである。自分たちはリベラルなつもりで、時には女性差別を憎んでいるつもりで、意識高いつもりで障害者にかかわっているだけに差別を糾弾する側のつもりで、私にお節介を言ってくる男も女もその実、女性差別主義者なのである。
高学歴で意識高くて、それでもたいしたブレインストーミングを必要とする仕事についていない人。そういう人がこういう風に高学歴をこじらせる。これは女子に多い。
本当ははっきりした主張をしたいけど、ムラ社会に生きているから、互助会の一員でいないと怖いからはっきりした主張をできない人が腹いせのように私を攻めてくる。これは男女問わずギョーカイ関係者に多い。
桜島を見ながらこれを推敲してる。桜島を近くから見るのは今年二度目だ。
何年か前から好きになった鹿児島。今年目覚めた奄美。どっちも今年は一年に二回も訪れることかできた。
好きなときに好きなところに行ける自由が私にはある。そしてこれは私が望んで手に入れたものであり、同時に誰にでも与えられているものではないことを私は知っている。
「そういう生き方では損をする」と私を攻める人たちが言うように、こういう今の自分の環境が損した結果なら損して良かったと思う。
私のことを損してがってる人々は私ほどの自由を手にしているのだろうか?
今の私はとりあえず今のところ、健康にも、仕事にも、家族関係にも、食い扶持にも心配事がない。
ところがそれらのことに心配事が絶えない人が私を「損する」とバカ扱いする。説教したりする。
顔じゃない、っていうのはこういうときに使う言葉ではないのかな?
私から見ると、彼らは全然トクしていないんだけど。
誰とでも仲良くして気に入ってもらえば何とかなると信じてるクラスタは封建時代に生きていて、いない絶対権力者を恐れて、不適当な相手に媚びを売り、そしてなんでうまくいかないか不思議がってる。
なんでかっていうと根本的に世の中の仕組みを間違えてるから。
と私には思える。
平成の世に身体は生きながら、心はムラ社会か封建社会に生きてて民主主義のセグメント化された資本主義社会に適応していない人たち。
無駄に無力感を持って媚びてはいけない相手に媚びる。
その人たちが現代に適応できなかった理由は多々ある。教育、生育環境、変な左翼思想。同調圧力とかいうやつ。私はそんなもん存在信じてないけど。その他色々。
自分の主張を広めたければ、それを邪魔するものはきっぱりと否定するしかない。
たとえ争っても。
だからこれからもギョーカイ批判はやめない。
誰にも憎まれずに主張を展開するなんて無理なんである。
私はこれからも
治さない医療も、伸ばさない療育も、アリバイ的特別支援教育も、ルサンチマン系の当事者も、他人に求めてばかりの保護者も遠慮なく批判する。
今の時代は斉彬に重用され久光に島流しされるようなことはありえない。そんなことは権力者にも許されない。つまり、誰に嫌われたって命にかかわらない平和な時代なのだ。
そういう平和なリスクのない時代に自分の信じる道を強く主張しなくてどうする。なんのために生きてるんだ?
それがわかっていない人が多い。
そして「正しいこと」ではなく「自分が叩かれないこと」に固執する。
叩かれると命を取られると怖がる。
これが方向間違い。
っていうか本気じゃないのだろう。
正義を通して命取られる時代ではないのに正義を追求せず保身に走ることを選ぶなら。
そんなわけで私は誰かの顔色を伺うがために主張を曲げたくないので誰とも仲良くしない。
敵も味方も作るもんではなくできるもんなので勝手に仲間になってくれるのはかまわない。でも一旦仲間になっても気が合わなくなったら離れてもらってかまわない。最後に罵倒して出て行ってくれてもかまわないしひっそりと離れてくれてもかまわない。
とにかく私は私の道を行く。
方向修正はしてきたしこれからもするだろう。でも私のことが気に入らずに批判してくれる人の批判によって方向修正することはない。自分がすべきだと納得したときにする。
なぜなら
絶対に機嫌を損ねてはいけない人などこの世に存在しないから。
それより
命あるのなら探らなければいけないのは
「何が共同体にとって正しいか」
「何を人々が求めているか」なのだ。
具体的に今私がいる場所から言えば
「治りたいと願う人にオプションを提供すること」
なのだ。
それを追求するのが最高のサバイバル方法ではないだろうか?
気の合わない人と仲良くするより。
私はどこにもいない権力者ではなく人々が抱くニーズに訴えかける。
そして私の主張を取り入れた人に結果を出してもらう。
遠いようでそれが近道だと思っている。
第一次猿烏賊騒動のときには多くの人から
「こっちの気に入るように振る舞わないともう我々は見放すよ」という脅しを受けた。
自分が弱虫だと、自分が愛着障害だと、それが脅しだと思うようである。
私にとっては痛くもかゆくもない。
私にとって、絶対に守りたい人間関係は母と夫だけ。
そしてこの二人は絶対に私を見捨てない。
死以外に、この二人から私を引き離すものはない。
母は無条件に私の幸せを願ってくれている。たとえ私が無愛想で女子力低く母の好みの子どもではなく、母の言うことなど聞かなくても。
夫は本当に私を大切にしてくれる。ギョーカイと戦う私をたしなめるどころか応援してくれる。そして精神的支柱になってくれる。今度の旅も餞別までくれてこころよく送り出してくれた。だから私はなんの心配もせずに各地を思う存分楽しめた。
私の人生にはたくさんいいことがあったけど、そして仕事を通じて社会とかかわれたのは幸せなことだったけど、一番幸せだったのは、結婚する前も結婚したあとも、家族の愛情を疑わないで済んだことかもしれない。
私のことが嫌いな人はたくさんいる。
でも私がこれほど家族に大事にされている人間だっていうことは、動かしようのない事実。
前世の行いがよかったのかな? でも
本当に邪悪な人間は、家族にも愛されないものだと思うよ。
家族間さえうまく行かずに親や配偶者の文句ばかり言っている人が私の人格を云々するのは実にファニーな光景。
私が大嫌いな人たちよ。
私が損しているとバカにしている人たち。
あなたたちは家族とうまく行っていますか?
あなたたちには行きたいときに奄美や鹿児島に行く自由がありますか?
あなたたちはガリガリでメンタルを病んでいた藤家さんのような人が元気に立ち直っていく姿を間近で見て感激した経験はありますか?
あなたたちはコツコツと知見をためていた一万パーセント無名なおっさんが箱根の麓から全国に飛び出し人々の役に立っていくのを間近で見て感激した経験はありますか?
故郷から遠く離れた九州の地で自分の本を読んで役立ててくれる多くの読者と出会った経験がありますか?
あなたがたが大嫌いな私には
そのすべての経験があります。
だからあなた方から見て私がどれほど損しているように見えても
私は私の人生が幸せなものだと感じています。
そして、
土台の人間関係がしっかりしているからこそ
私にとって、あとの人間関係は正直どうでもいい。
誰と訣別しても私は怖くない。実際訣別してきた。
主張の違う人とつるむくらいなら訣別の方がいい。
だからギョーカイとは金輪際仲良くしない。
でも志さえあれば、いつ誰と訣別しようと必ずそこには志を同じくする仲間が出てきます。
それが生態系でしょう。
だから私は、自分の信じることを主張していくら敵を作っても、絶対に孤独にならない。
賛同者は必ずいるから。
そして夫と母がいるから。
この二人は絶対に絶対に、私を見捨てないから。
父が遠くから
いつも私を見守ってくれるから。
誰とも仲良くする気がなくても絶対に孤独にならない。
そういう根っこからの自信があるのが私の強みです。
アンチが束になっても、この根っこは崩れない。
そしてそこが私の強みだからこそ
みんなのために活かすつもりです。
(完)