さて、まずはねてまてさんのコメントを一部引用させていただきます。
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なんだったんだろう (ねてまて)
2018-07-29 14:09:56
いかにも何か行動しますみたいなことをツイートしているのに、きっとなにもしない。
または、ツイートで対話してますって…。
道徳心や自分の正義感の押しつけ?
いやですね。なんだろう、一部だけでもすごく感じ悪い。
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こんなこと言う人よく沸いてきますね。
私がこの手の発言に思うことは「ああ、この人は実生活で力のない人なんだろうな」っていうことです。
まずこのツイート主が言っている「誹謗中傷アカウント」は非実在です。あえていうと私のアカウント? でもそれだと「散見」にならない。つまりこういう人にとっては誰かが治ったから治ったと素直に表明しているだけで「見るに耐えない」んです。要するに卑屈なんですね。そしてその卑屈さから目を背け、自分を傷つける発言を「いけないこと」と正義に置き換えている。卑屈で実行力のない人あるあるです。ニキさんが『自閉っ子のための努力と手抜き入門』で言っている「正しい社会」と「自分好みの社会」の区別がつかない段階の人ですね。
そして実生活で力を発揮できていない人って、自信がないもんだから、こういうときに自分で浅見をやっつけるのではなく、誰かえらい人がやっつけてくれることを夢見る。だから有力な医者とか弁護士とかそういう人を持ち出す。厚生労働省ガーもありましたね。医者じゃなきゃ治るという言葉は使ってはいかんのだと厚生労働省に言いつけてやると。だったら厚生労働省に言いつけてみればいいですね。そして厚生労働省が万が一「医者じゃなきゃ治るという言葉を使ってはいかん」という見解を出したら今度は憲法論議になりますね。医学界の言う「治る」以外「治ると認めない」と医療者じゃない人(当事者保護者を含む)に押しつけるのなら権力が「治る」という極めて普通の日本語に制限を加えることになりますから。権力による検閲は日本国憲法で禁止されていますから厚生労働省もそういう話には乗れないはずですが自分で浅見をやっつけられない人は「誰かえらい人を連れてきたらびびるにちがいない」と夢を見るわけです。びびりやの自分の姿を投影し、社会の仕組みを知らず、そして「自分好み」と「社会的に正しい」の区別がつかない発達段階にいる人たちはこういう的外れな攻撃を加えてきます。
私がこういう人たちにどうせ何もできないというねてまてさんと同じ見解を持つのはなぜか? それはこういう人たちが我が子の不登校ひとつ解決できないでいるからです。私も経験ありますが、誰かを法的に処罰してもらうのはとても手間や根気のかかること。つきつめてつきつめて考えてしかもそれを実行に移さないといけないことです。子どもの不登校ひとつ治せない親にできることではないのです。
たとえば猫本こと『支援者なくとも、自閉っ子は育つ』の中でこよりさんはお子さんの偏食を治すのに「白いもの時代」があったことを教えてくれています。白いものから徐々に徐々に受け入れられる味覚を広げていった。同じく偏食を治したいぬこさんのおうちの場合は「小丸時代」があったそうです。小丸なら食べる。だからあらゆる食べ物を小丸に作り上げた。とんかつも小丸にして揚げたそうです。
治す人っていうのはそこまでやるんです。一方で「偏食があるのは仕方がない」と諦め、理解しない学校現場を罵ることで一日を費やしている親もいる。偏食を治す親たちはその瞬間にもツイッターにはりつくのではなく丸いとんかつを作っている。治す親とそうじゃない親は時間の使い方、そして実行機能が全く違うのです。
不登校正当化親たちはそこまでやれない人たち。そして学校に行かない子どもとそこになすすべもない自分を正当化するために社会の理解ガーの方に走る。社会をこき下ろす方に走る。それは弱さなんです。実行機能のなさなんです。
私を含めた皆さんが覚えておかなければいけないことは、「自分を傷つけるからって悪人とは限らない」っていうことです。治った人は治ったという。それが面白くないのは等身大の自分をベースに努力を積み重ねられない自分の方に問題があります。治ることを全くあきらめていたら面白くないとは思わないはず。どこか未練があるからこそそれを達成した人が「見るに耐えない」んです。
逆に考えると自分を傷つける各種発言は、「傷つけようとして」発せられたものではない。発した人にとっては真実である。でもそれが自分にとっての真実ではないのなら傷つく必要なんてないんです。自分は自分なのですから。自分が持っていないものを持っている人はいます。その人たちの発言にいちいち傷ついていたらそりゃあ社会は生きづらいでしょうね。
そして花風社クラスタの治っている人、治った人におかれましては覚えておいてほしいんです。「治った!」と喜んで「じゃあ私もやってみようかな?」と思う人たちもいます。今般の炎上でもいました。一方で「治った!」と喜んでる姿を見て「見るに耐えない」という人もいます。皆さんはどっちの友だちになりたいですか? っていうことです。治った人が発言することで傷つく人と勇気を得る人、どっちを選びますか? っていうことです。どっちを増やしたいですか? っていうことです。そうやって道を選ぶことで、誰だって影響力を持っているのです。
私は治った話を聞いていじける人ではなく勇気を持つ人の方が好きです。人として好きです。っていうか、他人が治った話を聞いていじけ、いじける自分を認めたくなくてえらい人を持ってくるようなちきんは大嫌いです。
だから治った話はどんどん出していきます。治る人を増やし、そして治らない人をますますいじけさせるためにも治った話をどんどん出していきます。
好きな人を励まし、嫌いな人をやっつける。やられたらやり返す。それは人として当たり前の行動だと思っています。
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なんだったんだろう (ねてまて)
2018-07-29 14:09:56
いかにも何か行動しますみたいなことをツイートしているのに、きっとなにもしない。
または、ツイートで対話してますって…。
道徳心や自分の正義感の押しつけ?
いやですね。なんだろう、一部だけでもすごく感じ悪い。
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こんなこと言う人よく沸いてきますね。
私がこの手の発言に思うことは「ああ、この人は実生活で力のない人なんだろうな」っていうことです。
まずこのツイート主が言っている「誹謗中傷アカウント」は非実在です。あえていうと私のアカウント? でもそれだと「散見」にならない。つまりこういう人にとっては誰かが治ったから治ったと素直に表明しているだけで「見るに耐えない」んです。要するに卑屈なんですね。そしてその卑屈さから目を背け、自分を傷つける発言を「いけないこと」と正義に置き換えている。卑屈で実行力のない人あるあるです。ニキさんが『自閉っ子のための努力と手抜き入門』で言っている「正しい社会」と「自分好みの社会」の区別がつかない段階の人ですね。
そして実生活で力を発揮できていない人って、自信がないもんだから、こういうときに自分で浅見をやっつけるのではなく、誰かえらい人がやっつけてくれることを夢見る。だから有力な医者とか弁護士とかそういう人を持ち出す。厚生労働省ガーもありましたね。医者じゃなきゃ治るという言葉は使ってはいかんのだと厚生労働省に言いつけてやると。だったら厚生労働省に言いつけてみればいいですね。そして厚生労働省が万が一「医者じゃなきゃ治るという言葉を使ってはいかん」という見解を出したら今度は憲法論議になりますね。医学界の言う「治る」以外「治ると認めない」と医療者じゃない人(当事者保護者を含む)に押しつけるのなら権力が「治る」という極めて普通の日本語に制限を加えることになりますから。権力による検閲は日本国憲法で禁止されていますから厚生労働省もそういう話には乗れないはずですが自分で浅見をやっつけられない人は「誰かえらい人を連れてきたらびびるにちがいない」と夢を見るわけです。びびりやの自分の姿を投影し、社会の仕組みを知らず、そして「自分好み」と「社会的に正しい」の区別がつかない発達段階にいる人たちはこういう的外れな攻撃を加えてきます。
私がこういう人たちにどうせ何もできないというねてまてさんと同じ見解を持つのはなぜか? それはこういう人たちが我が子の不登校ひとつ解決できないでいるからです。私も経験ありますが、誰かを法的に処罰してもらうのはとても手間や根気のかかること。つきつめてつきつめて考えてしかもそれを実行に移さないといけないことです。子どもの不登校ひとつ治せない親にできることではないのです。
たとえば猫本こと『支援者なくとも、自閉っ子は育つ』の中でこよりさんはお子さんの偏食を治すのに「白いもの時代」があったことを教えてくれています。白いものから徐々に徐々に受け入れられる味覚を広げていった。同じく偏食を治したいぬこさんのおうちの場合は「小丸時代」があったそうです。小丸なら食べる。だからあらゆる食べ物を小丸に作り上げた。とんかつも小丸にして揚げたそうです。
治す人っていうのはそこまでやるんです。一方で「偏食があるのは仕方がない」と諦め、理解しない学校現場を罵ることで一日を費やしている親もいる。偏食を治す親たちはその瞬間にもツイッターにはりつくのではなく丸いとんかつを作っている。治す親とそうじゃない親は時間の使い方、そして実行機能が全く違うのです。
不登校正当化親たちはそこまでやれない人たち。そして学校に行かない子どもとそこになすすべもない自分を正当化するために社会の理解ガーの方に走る。社会をこき下ろす方に走る。それは弱さなんです。実行機能のなさなんです。
私を含めた皆さんが覚えておかなければいけないことは、「自分を傷つけるからって悪人とは限らない」っていうことです。治った人は治ったという。それが面白くないのは等身大の自分をベースに努力を積み重ねられない自分の方に問題があります。治ることを全くあきらめていたら面白くないとは思わないはず。どこか未練があるからこそそれを達成した人が「見るに耐えない」んです。
逆に考えると自分を傷つける各種発言は、「傷つけようとして」発せられたものではない。発した人にとっては真実である。でもそれが自分にとっての真実ではないのなら傷つく必要なんてないんです。自分は自分なのですから。自分が持っていないものを持っている人はいます。その人たちの発言にいちいち傷ついていたらそりゃあ社会は生きづらいでしょうね。
そして花風社クラスタの治っている人、治った人におかれましては覚えておいてほしいんです。「治った!」と喜んで「じゃあ私もやってみようかな?」と思う人たちもいます。今般の炎上でもいました。一方で「治った!」と喜んでる姿を見て「見るに耐えない」という人もいます。皆さんはどっちの友だちになりたいですか? っていうことです。治った人が発言することで傷つく人と勇気を得る人、どっちを選びますか? っていうことです。どっちを増やしたいですか? っていうことです。そうやって道を選ぶことで、誰だって影響力を持っているのです。
私は治った話を聞いていじける人ではなく勇気を持つ人の方が好きです。人として好きです。っていうか、他人が治った話を聞いていじけ、いじける自分を認めたくなくてえらい人を持ってくるようなちきんは大嫌いです。
だから治った話はどんどん出していきます。治る人を増やし、そして治らない人をますますいじけさせるためにも治った話をどんどん出していきます。
好きな人を励まし、嫌いな人をやっつける。やられたらやり返す。それは人として当たり前の行動だと思っています。