治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

不登校クラスタを観察してわかったこと

2018-06-30 10:22:15 | 日記
昨日はワールドカップがなかったので久しぶりに飲酒し、早く寝て今日は四時前に起きて仕事していました。
私は何時に起きて仕事しよう、と決めるとほぼ百パーセント実行できます。逆に言うとそれができないということがどういうことかよくわからないです。そしてそういう能力の土台はなんといっても学校生活に端を発していると思います。
だから不登校を許容する親の気持ちはわかりません。
行けない時期があるのは仕方ないと思います。
過敏性などがあればとくにです。
そして学校が完璧な場所だとは夢にも思いません。
それでも「学校はクソだ」」と思いながらでも通い続けることは、意味があると思います。
そして不登校の状態にあるのなら
いつかはそこを抜け出すことを目標にするべきだと思っています。
不登校を容認するだけではなく、負け惜しみが高じて「学校に行ける子の方がおかしい」となってしまうと、もう二度と抜け出せないでしょう。
不登校する事が親にとってはどれほどつらくても、負け惜しみを言って子どもの現状を追認するようでは子どもがかわいそうだと思います。
いつかはそこを抜け出すことを目標にすべきだと思います。

神田橋先生の本が出て祭りになったとき、私はそれを必死に叩く海老踊りの人たちと「読んでみよう、やってみよう」という人たちを五年後十年後見てみようと言いました。
八年経ちました。
結果は明らかです。
エビデンスと心中した人たちとはきっぱりと違う結果が出て、一次障害が治っている花風社クラスタ。
そして今般の炎上を起こしたのは不登校方面の人たちでした。

しばらく観察してわかりました。
不登校っていうのは親の生産性に影響しますね。
ホームスクーリングは一見よい勉強法に思えますが、結局本来官がプロを雇って無料で提供して義務教育にお金がかかるだけではなく、0・5人~1人の親の生産性を必要とします。
多くの家庭が二馬力でやっと生計を立てている現状の中で、それだけの生産性を子どもに取られるだけでも親の老後にも影響してきます。
そういう意味でも、学校に通うのは子どもにとってお仕事ですね。

けれどもこれだけ不登校が多い現状の中、教育機会確保法というのができて、フリースクール等をオルタナティブな教育現場と認めそうになったそうです。
けれども土壇場でむしろ「メインストリームに戻す努力」に舵が切られました。憲法判断したのだと思います。

教育機会確保法は数年後に見直されるそうですが、おそらく発達障害者支援法と同じ問題を産んでいくと思います。
すなわち支援する側のモラルハザードです。
『発達障害者支援法は誰を救ったか?』から引用しましょう。

=====

親として子どもを育てる以上「自立してほしい」というのは当たり前の本能である。専門家はそれを否定する。そして専門家に洗脳され、本能である親心を唇噛みしめて押さえつける親もいる。その結果、発達支援ギョーカイが栄えるための人身御供として我が子を差し出す。

=====

おそらく商売人たちが「学校なんか行かなくていいんだ」と近寄ってくるでしょう。
そしてめんどりにし、データにするでしょう。
その本音を隠してちやほやするでしょう。
でも将来その人たちが仕送りをしてくれるわけではありません。
それはよく覚えておきましょう。

赤本を作った頃からの私の目標は
「週に五日働ける力をこの人たちにつけること」でした。
そのために

睡眠障害を治してほしい→『自閉っ子の心身をラクにしよう!』
季節や気候に体調が翻弄されないようになってほしい→『芋づる式に治そう!』
感覚過敏を治してほしい→『感覚過敏は治りますか?』

等々の本を作ってきました。
もともと「週五日働く人に育てる」ことが目標の方たちがうちの読者層なのですから、不登校クラスタとは意見が違って当たり前です。
そして2010年に私が言ったことは
「気の合わない同士が同じ道を歩む必要はない。分断しましょう。そして五年後十年後を見てみましょう」です。
そしてエビデンスと心中派はエビデンスと心中し、私たちは身体アプローチを追求していって、そのうちDSMが私たちに追いつき、「言葉以前のアプローチ」にたどりつきました。そして一次障害が治っています。

今朝久しぶりに存在を思い出した猿烏賊のブログに行ってみたら大学生の息子さんが不登校ということ。
大学生が不登校?
よくわかりません。
義務教育でないのだから、不登校ってありえない。
それはもう、大学行きたくないという表明にほかならない気がしますね。
そうしたら別のことをすればいいだけ。

あっち方面は治らなくてまだ大変そうだな~と思いました。




『発達障害者支援法は誰を救ったか?』



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炎上も発達する その8 なぜ診断を信じるのですか――内山杉山マッチポンプ

2018-06-29 11:13:34 | 日記



さて、地ゴロ心理士が言うように「発達障害は誤診が多いから治ってしまう人はいるけど治ったら発達障害が治るのではなく誤診だったと思うことにしている」のが現場の意見なら、今これを読んでいる皆さん・皆さんのお子さんも誤診かもしれないわけだ。逆に言うと、発達障害でなくなる日が来るかもしれないということだ。そうでしょ? だったらギョーカイがどんな方言でその現象を呼ぼうと、「今のところはとりあえず診断基準に沿う特性が見られるようだけれどそれが消えるかもしれない」可能性はあるわけである。

だったら治った治ったと喜んでいる花風社クラスタが取り組む

1 自分でできて
2 金がかからなくて
3 できたら身体の中に何も入れない

アプローチやってみようよ、という発想だってありなはずである。というわけで取り組む人が増えている。ありがたいことに炎上もそのきっかけとなっている。

私は発達障害の人の中には治る人がいると思っている。けれども専門家たちが「治った例は誤診」とあくまで強弁するのならそれを逆手に取って
「じゃあ誤診例かどうかやってみれば?」という提言もできるということである。あなたも・あなたのお子さんも 誤診かもしれない! 誤診だったら、治ってしまうかもしれませんよ。

こよりさんが「診断はインチキ占い」だと思ったのは、ちょろっとテストして数時間我が子に会っただけの医者が「一生字は書けない」と言っても「あてにならない話だなあ」と見抜いたからであろう。自分は日々母親として接し、違うロゴのジュースを出すと泣く姿を見ているわけである。ジュースのロゴの違いがわかって泣くのなら字は読めるようになるだろう、という母親としての正しい判断であった。そしてこよりさんの勝ちだった。○○の勝利である。

もっともちょろっとテストして数時間会って・・・では済まないかっちりした診断を受けている人もいる。私の事件の加害者だった自閉症者(『自閉症者の犯罪を防ぐための提言』ではXとなっている)と藤家寛子さんだ。

周知の事実であるが、Xは誰もが羨む内山登紀夫により自閉症の診断を受けた。当時(今もそうかどうかは知らない)内山医師の名前が入った診断書はプレミアもんであったらしい。その証拠にXは「自分こそが本物の自閉症者である」とこの診断書を誇らしげに方々に送っているのだ。よその出版社からも「送られてきた」ときいたことがあったし、研究所、学校などにもばらまいていたのだからよほどうれしかったのだろう。診断をもらったことが。しかも有名医から。

特別扱いされない一般庶民が内山医師から診断書をもらうには、何年もウエイティングリストに載ったあげく二十万円+税払って指定された日に赴き、一日で他職種による面接を受けたりテストをしたりしてA4六枚の診断書をもらえるらしい。そして別に治んないらしい。

でもXはこの支払いを免除された。しかも、診断は二十万円払った人よりていねいだった。何しろ面接も一日ではない。何度も何度も呼び出され医師による面接を受けて夫婦で診断をもらった。たった一日の面接に二十万円+税を払ってしまった人、その後も自費診療にえんえんと通いしかも治らない人は腹が立つかもしれない。でも内山医師を責めるのはお門違いというものだ。高度な経営判断の末「この人物はそれだけのコストをかけても使える」として特別扱いする権利はクリニックの経営者である内山医師にあるのだから。何らかの意味でXが「使える」という判断だったのだろう。

まあ要するに、彼は「本物の自閉症者である」可能性がそれだけ高いと言うことだ。でしょ? そうじゃないというのなら「内山医師がヤブである」可能性しか残されていない。

けれどもXよりもっと時間をかけて診察を受けた人がいた。藤家さんである。

彼女が診断まで要した時間は十年だ。『藤家寛子の闘病記』からスクショを持ってきた(私は版元だけどよい子はまねをしないように)。



つまり彼女は九年かけて二次障害を治し、それでもなお残った生きづらさがあり、その頃までには主治医の瀬口先生はアスペルガーの疑いを抱くようになっており、きちんと手続きを経て診断されたのだ。昨今「二次障害が治ると一次障害も治るように見えるケースがあるらしいので藤家さんはこっちじゃないか」と思いたいアホウがまたいるようだが、診断の経緯は彼女自身の手で各著作に書いてあるし『30歳からの社会人デビュー』には主治医インタビューも載せてある。

つまりXも藤家さんも、誤診例ではない可能性は「数時間見て診断された」人よりは相当高い。

けれども内山医師がそれだけコストをかけて診断書を書いたXを杉山医師は会いもせず誤診と片づけた。なぜかというと、「悪いことをした」からである。

その頃のギョーカイは犯罪と障害のつながりを否定しようと必死だった。つまり、プロパガンダ作りに必死であった。専門家たちがいくら否定しても様々な事件の加害者たちに診断がついてしまうからだ。そしてそれは報道された。今では犯罪と障害のつながりを否定しない杉山医師も当時は火消しに回っていた。

そしてその火消しの途中で、Xは自閉症ではないと宣言した。自分にとって、彼が自閉症であり続けることはまずいからである。なぜなら自閉症者は天使だと主張を繰り広げていたので(これも佐々木正美敬称略の悪しき遺産のひとつである)あれだけ暴れ回っている人間は自閉症ではない、とアクロバティックな言い訳をしたのである。

よくそんな見え見えの言い訳を恥ずかしげもなく堂々と言ってのけたもんである。自閉症の人は悪いことをしないから、悪いことをしたらたとえ内山医師が診断してようと誤診にしてしまうというアンフェアプレー。他の世界なら一発レッドカードである。

私は被害者として、「いつか支援者たちが彼を治してくれるのではないか」という希望を持っていた。内山医師の患者だときいて安心していた。名医についているのだから、いずれ治るだろう、と。当時おろかにも私は、医療が発達障害を治すと思っていたのである。名医がただ「発達障害ってこんなもん」と説明するだけの人だとは思ってもいなかったのだ。

ところが医療は発達障害を治さなかった。それどころか、いつの日にか治せるようになろうという意欲さえなかった。そしてどうしたかというと、内山医師という有名医が時間をかけて診断した自閉症者を杉山医師という別の有名医が「あれは悪いことしたからニセモノ」と否定してまで「自閉症者と社会をつなぐ」という自分たちの仕事からさっさと逃げたのである。

こういうご都合主義診断現象を、私は「内山杉山マッチポンプ」と名付けたのである。

一方で藤家さんはめざましく治っていった。風が痛いという告白にギョーカイ人たちは萌えたが、風も痛くなくなってしまった。極端に脆弱であるがゆえに在宅生活を余儀なくされていたのに、作業所に五日通い始め、飼い殺しの成人支援を突破した。そして身体も強くなったため、結構な肉体労働を含む販売員として週五日勤務し資格もとり、風は痛くなくなったけど腰が痛くなった。それもきっとコンディショニングによって折り合いの付け方を学んでいくであろう。

多くの当事者保護者が彼女に希望を見いだした。
治りたい人たちは治る人がいることに希望を見いだす。

治ると都合の悪い人たちはそうではない。
自閉症支援の先進地域をリードする公立病院のきちんとした医師が十年かけた診断を否定しようとする。彼女が治ったということを信じたくないばかりに、突然ニセモノ扱いをはじめるのである。風が痛かった頃は講演につれていくほど萌えたのに。
藤家さんに会い、言葉を交わし「典型的なアスペルガー」と語ったゲーリー・メジボフ先生の見解すら否定する勢いで。

要するに、誰もそこまで治った例を見たことがなかったということであろう。
見たことがないのだから、ニセモノと思い込む方が安心できるのである。
彼女がニセモノである方が自分たちが安心できるからニセモノ扱いする。
何しろ自分たちのもとでは誰一人治らないのだ。
ここも判断基準は「自分たちのちっさい器をどう守るか」なんである(はい人格攻撃)。

つまり、診断なんていい加減なのである。
政治的に決まっているのである。

どれだけ第一人者として君臨している専門家たちが診断しても、悪いことをしたり治ったりする「自分たちに都合の悪い当事者」はニセモノと呼んで視界の外に追い出す器のちっさな人たちが恣意的に決めていることなのである(はい人格攻撃)。
そんなものにとらわれて「障害と診断されて障害は生まれつきだから治るなんてウソだ」と涙目で治らない教にしがみついているのは滑稽以外の何物でもない。

ここでまたちきんはじめに登場してもらおう。




この短いフレーズに、「治らない教」のエッセンスが現れている。
まず医師が絶対的に正しいという大きな誤解をしている。「内山杉山マッチポンプ」に現れるように、医師たちはご都合主義で診断を出したり引っ込めたりゆがめたりしているにもかかわらず。

そして「本人の主観」に重きを置いていない。うちの母の運転は安全極まりなかった。だから世間でどれだけ高齢者ドライバーの危険が指摘されていても私たちから免許を取り上げることはなかった。けれども本人が「やめたい」と言ったら、それは絶対に正しいタイミングなのである。

医師が「一生字が書けません」と言ってもこよりさんはお子さんが字を書ける人になることを見抜いていた。親としての主体性をもって本人を観察しているからである。
本人の主観、親の観察。
発達という本来医療で扱う問題ではない領域で、それに医療がかなうわけがない。

本人と親。
これは医療より貴重なリソースである。

中でも「どういう問題行動を起こすか」は貴重な情報源なんである。
そこに治るルートのヒントがあるからだ。
そして当然、それはひとりひとり違う。
その「ひとりひとり違う」見抜き方をうちの本は伝えているのである。
だから治っていくのだ。


治らない教の信者たちはまだ黎明期であり黎明期を一生脱するつもりのない発達障害医療にやすやすと洗脳され、無責任な専門家の戯れ言ばかり聞いて、肝心の子どもの様子を見ていない。子どもには可能性がある。問題行動と言われるものの中にさえ可能性がある。こよりさんはいつもと違うジュースを出して泣く我が子の中に「将来読み書きできるようになる可能性」を見いだした。そういう視点を持たず医師たちのインチキ占いを信じている親には、絶対発達障害は治せないであろう。

その人たちに贈る言葉は

安心したまへ、君たちの子は治らない


っていうだけである。あの当時も今も。

そして私たちがわかったこと。
発達障害は治る。
でも治すのは医療ではない。
誰が治すのか?
それが明瞭にうちの本には書いてあるから、だから読者は誰も「医師法ガ~」とか言い出さないのである。
そういういちゃもんをつけてくるのは、読まずに酸っぱい葡萄している治らない教信者だけである。


そしてそういういちゃもんをつける動機は「本当は、心の奥底では治りたい」からだろう。
でも検証されていない方法には手を出せない。ちきんだから。


「自分がちきんだから子どもが治らないかもしれない」ことを認めたくなくて、今次の炎上では
治ったと喜ぶ読者にまでちょっかいかけてきたというわけである。


自分がちきんだと認めてしまえば速い。
あるいは図書館ででもいいから読んで試してみれば速い。
その両方ともできないほどギョーカイの洗脳にがんじがらめになっている自分を認めたくないちきんたち。
ありのままでいいですよ。
そうしたら身体を張って「発達障害は一生治らない」と証明できるであろう。




そうそう。
花風社クラスタの皆さんは追い越していけばいいんですよ。
このちきんの群れをね。

私たちは治す方面にいくけどね。
道はそれぞれ。
自分で決めればいい。

あ、それと
一人称の「治る」に興味を持った人はまずお手軽に
399円で

『藤家寛子の闘病記』をどうぞ。



ニセモノ扱いを本人がどう思うかも書いてあります。立派なもんですよ、ニセモノ扱いされることへの藤家さんの態度は。


続く(不定期

炎上も発達する その7 ギョーカイ人に対する人格攻撃をいとわない理由

2018-06-28 05:17:23 | 日記
「考え方は批判しても人格攻撃はいけない」
などとしたり顔で言う人がたまにいるが、私は「小学生かよ」と言ってやりたい。
小学校の教師がしたり顔でこういう学校でだけ通じる道徳を説いたのは、学級運営上の都合である。
そんなものが実社会で通用するわけがない。
相手に人格の問題があって、それが事を進めない原因になっているのなら、それを指摘するのが当たり前ではないか。

私事だが、82歳の母が先日運転をやめた。
ずっと運転しているわけにはいかないが、私たちから止めることはなかった。母は安定した運転をしていたからだ。
けれども茅ヶ崎で90歳のおばあさんが事故を起こし逮捕されたニュースを受けて、自分からやめると言った。本人が決めるほど確かなことはないので、私たちもその決断を支持した。
車をディーラーに引き取ってもらう二日前、偶然ジムで出会って送ってもらった。小さい頃から何万回も送り迎えをしてもらったそれが最後のドライブだった。母は大学生のときに免許を取ったから、60年あまりの優良ドライバー生活に別れを告げた。

そのことをネット上の「ひみつのお部屋」に書いたら、ちゅん平さんが母の車で湘南をドライブした思い出を書いてくれた。
そうそう、そういうことがあった。青春時代乖離していたちゅん平さんは思い出が少ない。だから湘南ドライブなんかいいかな、と思って母に車を出してもらったのだ。
江ノ島のデニーズでランチしたねえ。

それからこよりさんが母の車で「コンディショニング会場→饗宴会場」に送ってもらったと感謝の言葉を述べてくれた。そうそう。こよりさんはリウマチがあり杖ホルダーだから(コンディショニングでずいぶんよくなった)母に迎えにきてくれないかと頼んだら快諾してくれたのだった。

かつてこよりさんは故佐々木正美先生によって講演のパートナーに選ばれ登壇していた。
私は当然、それはお仕事だったと思っていた。けれども先生がこよりさんにギャラも払わず、菓子折一つ贈ってきたこともなく、おまけに杖をついて交通費自腹で杖ついてやってきたこよりさんを主催者の出した車にも乗せない人だった、と知ったのはこよりさんと私が沖縄に一緒に講演に呼ばれたときだった。
沖縄の人たちはあたたかくもてなしてくださり、仕事に対しては対価を払ってくれた。
そういう当たり前の行為が、佐々木先生からは一切なかったということだ。
佐々木先生は無料でこよりさんを使役し、そのエピソードを本に書き講演でしゃべり自分は対価を得て、菓子折一つ贈らなかった。それどころか、杖をついて見送るこよりさんを車にも乗せなかった。
そして主催者である現地では「弱者の味方です」みたいな顔をしている社会福祉法人等も、障害と病気を持ったこよりさんになんの配慮もしなかったということだ。
「支援があればラクになる」という誤学習をしている人は、これを覚えておくといい。

佐々木先生を慕う人は多い。その講演や著作に涙し、優しさを見いだしたのだろう。
けれども実際に佐々木先生と接して何か優しい心遣いをしてもらった人はいるのだろうか?
ただきれい事の言葉に酔っていただけではないのだろうか?
そしてそれがギョーカイのスタンダードになってしまった。
「ありのままでいいのです」「努力しなくていいのです」と言いながら、ありのままに努力せずに育った支援者たちが将来仕送りをしてくれるわけではない。傷ついた心には耳障りがいいかもしれないけど無責任極まりない言葉。それが支援者の口から容易に出てくるようになってしまった。

考えてみてほしい。
自分には主催者からの送迎の車が出て、一方で自分が登壇させた人が杖をついているとき、いやそうじゃなくても杖をついている人が視界にいるとき、とくに不便な場所であれば、せめて駅まで一緒に乗せたいと思うのが普通の人間ではないだろうか。
母が迎えにきてくれたのだって、私がこよりさんのリウマチのことを話したからである。それは大変ね、と快諾してくれたのである。
そして母はかつて、私に加害行為をしていた自閉症者から迷惑電話を受け取ったことがあった。
普通診断に20万円+税を取る内山登紀夫医師がなぜだか無料で診断し治療したあの男だ。
彼の行為がエスカレートし、私の実家にまで及んだとき「なんでこういう非常識なことをするの? 恥を知りなさい恥を」と一括し退治したときすでに70代だった。
私が「誰かギョーカイ人がそういう対応をしてくれないだろうか」と思った「きっぱりとした態度」。そして「死んだふり」を基調とするギョーカイ人が決して取らない毅然とした態度。それを初めてしてくれたのは、心配をかけるまいと事件のことを知らせずにいた老いた母であった。

弱い人がいたら助ける。
世話になったら菓子折の一つも贈る。
迷惑行為はきっぱりと拒否する。
それは私たちが育ちの中で学ぶこと。それこそが自己肯定感だ。
そしてギョーカイ人たちは、大物ですらそういう学びを身につけないまま大人になり、支援者になっている。
社会の中で人々とやっていく常識的な能力を欠いているのである。
こういう人たちが社会との橋渡しなどできるわけがない。
だから私は人格攻撃をいとわないのである。
人格がなっていない。
それこそが彼らが支援者として機能しない一番の理由なのだから。


それに、このヤブ医者ながしのツイートをみてほしい。





そして、この地ゴロ心理士の何様のつもりツイートをみてほしい。



私はずいぶんていねいに現状を教えてあげてますけど

支援者だというだけで、なぜこのような生意気な口をきけるのか。
これこそ明らかに人格攻撃でしょ。
そしてこれだけやられてなぜ私がやり返していけないのか。
彼らの人格攻撃を責めず、私の人格攻撃を責めるのなら、支援者はえらいという実在しないヒエラルキーにとらわれているだけだ。彼らの攻撃がオッケーで私の攻撃がまかりならんと反射的に思う人がいるのなら、自分がフェアな人間だという幻想は捨てたほうがいい。
そしてこういう言葉を吐く彼らは明らかに「支援者だから威張っていい」と誤学習している。

そして、気をつけておかないといけないこと。
あからさまにはしないかもしれないが、こういう支援者たちは、皆さんを、当事者保護者を見るときも、どこかこういう傲慢な感覚を持っているはずである。
だから、治せないのだ。
平気でこういう生意気な口を利くこと自体が、彼らの援助者としての無能の証拠である。

プレクイズの記事にいただいたこよりさんのコメントを貼らせていただきます。

=====

不安と恐怖 (こより)
2018-06-22 07:31:03
「発達障害は治らないけれど、親と支援者が子どものために協力して、その子が過ごしやすい環境で安定できるようにしていきましょう」という言葉を信じてきた人には、自分たちがあきらめた事、あるいは考えた事も無かった事が実際に起こっているというのは恐怖でもあり、不安でもあると思います。

自分達にとっての真実が「もしかしたら違っているのかもしれない」「私達の世界が崩壊するかもしれない」というのは恐怖だろうと思います。

かつて佐々木正美先生は「いい子だと言い続ければ、いい子だと信じて接すれば子どもはいい子になる」「ありのままをみとめてあげれば子どもは安定する」と何度も言い続けていました。その言葉を信じた親は、その言葉に自分自身をも重ねて、「自分のやっている事はまちがいない 自分もこのままで」いいのだ」と意識的にあるいは無意識に刷り込んだと思います。


その「ありのまま」を貫かれた先生が亡くなった今、その言葉もすべて過去になり、根拠なく「大丈夫ですよ。そのままでいいのですよ」と言ってくれる人を亡くした事で混乱している人も多いと思います。私に迷惑メールや迷惑電話を寄こした人は、そういった人たちでしょう。

支援者に寄りかかっていれば大丈夫、という世界が崩れだした現実を認めたくない人はその不安から逃れるために今必死に「治った子ども」「治った大人」の存在を否定せざるを得ないのでしょう。

佐々木先生が講演活動を止めてから出した数冊の本の中に、「どうか忘れないでください、子どものことを。」という本があり、タイトルは先生からのメッセージのように感じました。

この「子ども」は先生ご自身であり、先生の息子さん達であり、ご自身が関わってきたすべてのお子さんや親御さんを指すように感じました。

今こうした世代交代が進み、「ギョーカイのトレンド」が過去になっていく中、自分たちを守ってくれる後ろ盾がない事に気づいてきた人は、自分たちの攻撃が有効だと思う方に標的を変えたのでしょう。

体が安定していない人が、安定している人に向かっていっても、相手はびくともしないのですが、自分が衝撃に弱い人にはそれも理解するのは難しいだろうと思います。

=====

ギョーカイとそれに洗脳された治らない教信者の人たちは、いつまでも佐々木先生を慕っていればいい。

私たちは佐々木正美(敬称略)を

解毒しよう。



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炎上も発達する その6 診断はインチキ占い

2018-06-27 09:37:35 | 日記


先日奄美大島に行ったとき、食事の席にお醤油が二種類出てきた。普通の醤油と島醤油だそうである。
島醤油を味わってみたらなんのことはない、九州のお醤油であった。九州に行き慣れていない関東や関西の人は知らないだろうが、九州はお醤油も味噌も甘い。関東と関西は味付けは違うが、基本となるお醤油はあんまり違いがない。
そしてふと不思議に思った。沖縄で出てくるのは私たちが普段使っているお醤油だ。つまり奄美と沖縄では文化圏も距離も近そうなのにお醤油が違う。要するにお醤油の流通などというものはかなり政治的な思惑の産物で、奄美は薩摩支配がより強烈だったということだろう。そして沖縄は一つの県であるために、中央との結びつきがストレートなのだろう。

発達障害の診断に関しての流通も、政治的に決まっている。

こよりさんはご自身のご次男のことを「一生字が書けない」と宣言した医者の言うことにたじろがなかった。生活を見ていたら今は書けなくても書ける気配が濃厚だったからである。だってジュースのロゴの違いがわかり、自閉っ子のこだわりらしく別のロゴのジュースを出すと泣くのだ。ここで「こだわりがあって自閉っ子は育てづらい」とならず「ジュースAとジュースBの違いがロゴでわかるのならいずれ字も書けるようになるだろう」と判断したのがこよりさんの○○が賢いところである。その子育てに学ぶ方は多いのだが、先日奄美大島の読者の方から二冊ご注文をいただいた。私が大好きなあの島にうちの本を読んでくださる方がいてうれしかった。のだが、実はもう四冊目だという。お友だちにプレゼントするのに猫本はうってつけだそうだ。
「支援者なくても凸凹っ子は育ちますよ」があの本のテーマだった。
たしかに、これほどママ友に贈りたい本も、他にはないかもしれない、と思った。

「支援があれば生きやすくなる」は大嘘である。
支援がなくても生きやすくなる。いやむしろ、めんどりコースに乗っけられる支援なら「ない方がマシ」だ。「支援があれば」は自分たちの食い扶持を確保しておきたいギョーカイのご都合主義だっていうだけだった。薩摩が黒糖と引き換えに「これが醤油だ」と「自分たちにとっての醤油」を高い値で売りつけたのとおんなじなのである。

多くの人が医者には期待していない、唯一の期待はサービスを利用するための診断だという。
けれどもこれほどのインチキ占いなら、診断も真に受ける必要があるだろうか?
私は「発達援助の非医療化」を勧めよう、と思ったと同時に、「診断なくても治ればいいよね」と思った。「早期診断」し「早期介入」すれば予後はいい、という伝説は敗れ去ったのである。発達障害者支援法施行から13年、早期診断され早期介入された人の方がどんどん縮小再生産の生を押しつけられ福祉に囲われた生涯を過ごすことになった。現状サービスを利用するためには診断を待たなくては仕方ないシステムのようだが、診断がまだなくてもやれることはいくらでもある。どこから治りやすいか見極めて、そこから取り組んでみればいいのである。「睡眠サイクルきちんとしたいな」と思うのなら黄色本こと『自閉っ子の心身をラクにしよう!』を読んで一日五分のワークに取り組んでみればいいし、「季節ごとに心身の調子が翻弄されたり登校渋りがある」というのなら『芋づる式に治そう!』を読んでみればいいのである。感覚過敏のつらさをどうにかしたいのなら『感覚過敏は治りますか?』にGO!



そしてサービスがいらない人、たとえばどっちみちサービスの乏しい成人の人などは「自分は発達障害かも」と思い、ネットや本を見て「あるある」だと思ったら、診断なんかなくても、あるいは診断を待ちながらでも、今日からできることがあるんである。

私は生きづらさを感じて診断がほしい、という思いを味わうほど生きづらかった経験がないので、診断の与える心理的な安心感については肌身でわからない。でも多くの人が診断を受けることに安心を見いだしているのならそれはあるのだろう。

でも言っちゃわるいが基本はインチキ占いなんである。「これがお醤油です」みたいに政治的に決まっているのである。だから、診断はいらない人にはいらないのではないかと思う。「診断なくても治ればいいんじゃないの?」と思いかけたときに、こういうツイートをいただいた。



これを読んで「そうだなあ」と思ってしまったのである。

診断が不要なら待機待ちの列に並ぶ意味あるかね?
別にお墨付きなくても今日このときから「私って発達障害かもしれない。まずはどっから治るかな。どっから治したら生きやすくなるかな」と思えばいいのではないだろうか。

どっちみちどっかの地ゴロ心理士が先日言っていたように、こういういい加減な世界なのである。



誤診で人様の大事な子に薬与えたり福祉で囲ったりするなんてギョーカイ人たちは人倫に悖る集団だなあと思う。
でもこの地ゴロ心理士は根っからの悪人じゃないと思う。ただ「上」に従順なだけ。そして発達障害者支援法ができる前後から、「上」の人たちは実にいい加減な診断をしていたのだ。
私はこの「上」の人たちのいい加減さを先日来「杉山内山包囲網」と名付けていた。けれどもその自分でつけたネーミングを今朝変更した。アルゼンチンの劇的な勝利を見届けたあとに変更したのである。

「えらい専門家」たちが政治的な意図でするてきとーな診断が行き渡っている現象を私は「内山杉山マッチポンプ」という名で以降呼ぶことにする。
言うまでもなくそれは「内山登紀夫」「杉山登志郎」という発達障害者支援法施行当時の二大巨頭と言ってもいい有名医に由来する(敬称略)。あ、当時のずば抜けた大物としては故・佐々木正美先生がいた。先生がこよりさんにした仕打ちも知らない世代が今度の炎上で読者になってくださった以上、それについても触れないわけにはいかないですね。

まあ少しずつ。
次回は「杉山内山包囲網」改め「内山杉山マッチポンプ」について書いて「診断のいい加減さ」を皆さんにお伝えしようと思います。そんなに診断がありがたいか、それを「下されない」間はなんにもできないものなのか、それは一人一人、一家庭一家庭が考えればいいと思います。

続く(不定期

炎上も発達する その5 エビデンスガーとは何だったのか?

2018-06-26 07:46:48 | 日記
さて、ではととさんの黒歴史コメントから始めさせていただきます。

「治るなんてインチキ」と仲間内で言い合って身体アプローチに手を出さないよう見張り合っているオバカさんたちへ。


の記事にいただいたコメントです。

=====

黒歴史 (とと)
2018-06-22 10:08:44
かつて私は某パパさんのブログの愛読者でした
多数の発達障害本のレビューや考察と、データがたくさん載っていて、読み応えがあって信頼できるサイトだと思ってました。

某パパさんがエビデンスエビデンスいうのも、エセ科学に騙される当事者科学を救いたいという善意で言ってるのだと私は本気で思ってました。

でも某パパさん主導の大地くんバッシングがきっかけで、某パパさんの人格を疑うようになってしまい、だんだん某パパさんのブログを見なくなりました。

ある日、某パパさんが「リゾートマンションを買って療育」などという、エビデンスのかけらもないおかしなことを言ってることをツイッターのRTで知って
「なーんだ。某パパさんもエビデンスに従って行動してるわけじゃなかったんだ。
ただ単に自分と違う考えの人を批判や非難するときの口実にエビデンスって言ってるだけなんだ」
ということがやっとわかりました。
わかるの遅いって!(自分ツッコミ)

=====

つまりととさんの考えの変遷をたどると、


「そらまめ式」すごいブログだ→エビデンスガーは親仲間が騙されないようにやってる→大地バッシング。あれ?この人変?→リゾートマンション なんだエビデンスなんて言い訳だったんじゃん!

と気づいたとこういうわけですね。

鈍いですね(ブ)。

最初に彼がかみついたのは感覚統合、そして大地君。ここで花風社に目を付けていたら神田橋先生が出て大騒ぎ。つまりそらパパこと藤居学が一貫してパニックになった概念、それは

「本人や親のやり方・頑張り方次第で予後に差が出る」

という概念です。
これを広めたくなくて彼は必死だった。
なぜならそれが広まれば、砂のお城が砂でできているにすぎないと皆気づいてしまうから。

彼は「働きかけの結果違いは出ませんでした」ということをみんなに思い知らせるための理論構築をあのサイト、そらまめ式と称する砂のお城にまとめたんですな。

そのサイトは人気を集め、そこでレビューしてもらうと本が売れる、ということでギョーカイ人たちは犬のごとく尻尾を振りました。ほんとちっちゃいよね。いや、陰で悪口言っている人もいたけどとにかくもともとギョーカイ人は親の機嫌を取るし仲良くしておくといつか自分が本を出したとき売ってくれるかもしれないしというみみっちい根性をむき出しにしていてみっともなかった。だから私にも「仲良くしておいた方が版元としてトクなのでは」みたいなちびちびしたアドバイスをする人がいた。ところが私はそれが下策だと見抜いていた。むしろ花風社バッシングしながらいつまでも赤本こと『自閉っ子、こういう風にできてます!』のリンクを外さない藤居に外せと言ってやりましたよ。売れたから外せなかったんだろうね。売れたって言ったってリンクから稼げるなんてほんの小銭。それを対立している版元の本をいつまでも正面から外さない。ほんとちっちゃい野郎だぜ。だいたいこういう吝嗇体質のやつがエビデンスガーに走る。読んだ本またサイトで売ったりとにかくやることがせこいのが偽科学批判を趣味とするバカどもの特徴。絶対に損をしたくないのよね。金魚の一振りもしたくないの。

私は砂のお城で本を売ってもらうより、あのお城が砂だという事実を突きつけることを選んだわけです。それが私の戦い方でした。

ともかくあの炎上での「エビデンスガー」はエビデンス重視というより「治りたいと思って抜け駆けする人を出さない」ための必死の言い訳だった。浅見は不埒なことに「治そうよ」と言い始めた(当たり前だ。こっちは自閉症者に迷惑したんだから)。そしてエビデンスのない方法を提唱し始めた(当たり前だ。ギョーカイメジャーたちがこぞって無能ぶりを見せてくれたんだから)。もしかしたら治る人が出てきてしまうかもしれない。彼らが恐れたのはそれだったんですな。

でも我が子に少しでも不便のない人生を送らせたいと思った人はいくら藤居がけなそうと花風社の本を読んだし、やってみたし、そして治っていった。

当時私が不思議で仕方なかったのは、「どんな方法だって治ればいいとなぜ思えないか」なんだけど、理由はシンプルだった。

彼らは「よそんちの子が治るのがいや」だったんですな。そしてよそんちの子を治さないためには自分ちの子を犠牲にするくらいちきんだった。

ちきんはじめと私が名付けた猿烏賊がいましてね
まだこんなことぶつぶつ言ってるの。



いや、それはそれで自分で決断することだと思うよ。仕事だってそうでしょう。サラリーマンを嬉々としてやっている人もいる。いやいややっている人もいる。私は33で独立したけど、それが本当にいい決断だったって今になるとしみじみする。あのとき独立しなかったら、私は仕事を続けていなかったかもしれないし続けていてもパート並の給与しか稼げなくなっていたかもしれない。でもあのとき独立したから色々な意味で自由になったわけで。

もちろん失敗する可能性はあったわけだ。でも最後は自分で決めた。自分で決めたら周囲は協力してくれた。そして色々あって今ここにいて、自分の決断は間違っていなかったとはっきり言える。

でもそれはやってみたからわかること。
そしてみんなそれぞれが自分で決めることでしょうが。


そして身体アプローチをやってみた人はわかった。これは危険性がないし、そもそも始めると子どもたちが進んでやりたがる方法だ、と。
子どもは自分にいいことを知っている。
犬の曲芸的な療育に抵抗するお子たちがいるのなら、それが役に立たないことを子どもは知っているからだ。
そういう子どもが抵抗する場面ばかりを見てきた人たちは、どんなアプローチも子どもに無理矢理やらせるとしか思えないのだろう。
でも「言葉以前のアプローチ」は違った。どんな子にも無理のない方法を私たちは伝えている。
たとえばこの本で。





ちきんはじめはやらないことを選んだ。花風社クラスタはやることを選んだ。その結果こいつが「発達障害者は発達する」ということがたんなる成長だとは全くレベルの違う話だとも知らずに暮らしている(昨日のブログ参照)。





昨日も書いたように、私があのとき神田橋先生のあの言葉に感動したのは当時のギョーカイでは誰も発達していなかったから。こいつらはレベルが低いから自分たちが発達していると思ったんだろう。でも花風社クラスタが知るとおり、「発達障害者は発達する」ってレベルの違う話だった。在宅生活していた青年が数年以内に父親になって我が子をその手に抱くような話だった。そしてそれは神田橋先生一人の力じゃなかった。ご本人とご家族が健やかな暮らしを手に入れたから。つまり、

「本人や親のやり方・頑張り方次第で予後に差が出る」

が否定しようもない事実だということがわかってしまった。

でもちきんはじめはたぶん、頭の片隅でこっちが気になっているんだと思う。いろいろケチをつけている。こんな感じ。




私は自分が普通になりたいと思ったこともなければ、普通に憧れたこともない。色々な意味で人と違うルートを生きてきた。それを後悔していない。でもニキさんは「普通になりたいという気持ちを否定しない」と言った。南雲さんは「普通になりたいという気持ちを支援者たちはなぜ否定できるのだろう?」と言った。私たちは安易に「普通にならなくていいんだよ」と言う。でも普通になりたいと本人が思うのは自由だし、そのときの普通はそれぞれ違う。ニキさんは「悪目立ちしないこと」を普通と定義しているようだし、南雲さんがここで言う「普通」とはすらすら読み書きできることだろう。

そして親がいくら負け惜しみで「普通なんか目指さない」と言っても、そして心の弱い親仲間でそれを確かめあっても、人生の主体であるお子さんは普通になりたいかもしれないということを、花風社クラスタの人たちは頭の片隅にとどめておいてもらえればと思う。

最近の炎上でアンチ(今回は出歯亀と命名。理由は追って説明します)がある花風社の読者のことを情弱呼ばわりしていた。
見てておかしくなった。
その方のお子さんは3歳半まで言葉がなかった。自閉症の特性が強く見られ保育園は転園を勧められた。そのことにお母さんは感謝しているようだ。幸い支援者にも恵まれ、ていねいにていねいに育てられた。二次障害を恐れるより、教えるべきことはきちんと教え、身体アプローチにも励んだ。お子さんは順調に育ち、そして自ら中学受験を選び日本中知らない人のいない名門校に入った。クローズドだ。そして伝統ある部活動にも励んでますます社会性が育っている。そしてそういう子は一日の疲れをその日のうちに取る方法も知っているからアンチが恐れるような二次障害にもならない。その人をつかまえて子どもを学校に行かせることすらできていない出歯亀が情弱呼ばわりしている。これが滑稽ではなかったら何が滑稽なのだろう? というほど滑稽な風景であった。

別に名門中学高校への進学が幸せを約束するものではないとアンチはケチをつけるだろう。それはそのとおり。
でも唯々諾々と「支援級→支援級→もしかしたら支援校→作業所で一生低賃金」のギョーカイめんどりエリートコースに乗るより、本物の社会の中での本物のエリートコースの方が「将来自分で食べていける」仕事につく可能性は相当高いのが現実である。

出歯亀の知らないこと。
とにかくすでに私はあのときのひどい炎上を生き延びたということ。
そして生き延びたからこそどんどん治っていく人たちを目撃することができたということ。
あのときの炎上がどれくらいひどいかというと、あの何もしない自閉症協会がベムこと宮本晋の暴れっぷりにあきれてスレッド削除するくらいひどいもんだった。
あの無為無策の自閉症協会が動くくらいですからそれはすごいものですよ。

でも色々な段階で気づいた人がいた。
大地バッシングの時。
神田橋先生の時。
そしてリゾートマンションのとき←New!

そして今、言葉以前のアプローチに取り組んでいる人たちはどんどん治っている。
医者の介入じゃなく治っている。
私は治さない医療に腹を立てていた。でも腹を立てる必要なんかなかったんだなあ、と今思う。だって治るのに医療はいらなかったんだから。

考えてみれば当たり前でしょ?
発達ってどこで起きるかっていうと、診察室じゃない。
社会の中で起きるんだから。

もちろん読者は個々に医療とのスタンスを考え、取っているだろう。
医療に助けられている人だって多いだろう。
私のスタンスとしては
「治る。でも治すのは医療じゃない」とわかったということだ。

このあたりのことを、私は『発達障害者支援法は誰を救ったか?』にはこう書きました。

=====

一時「この世界、誰とも仲良くしたくない。というか、誰とも仲良くしなくてすむのならもう少し発達障害やってもいい」と考えていた私だが、気づけば仲間ができている。その仲間は発達障害者支援法から甘い汁を吸う生態系――すなわち医療を頂点とし、医療に診断を「下し」てもらうところから「治さず伸ばさずめんどりとして育てて顔色を伺い合って甘い汁をくるくる回し当事者保護者を置き去りにするギョーカイ」――とは違う生態系をなすこととなった。

 そしてそこで実践しているのは「発達援助の非医療化」である。発達援助を医療からも福祉からもできるだけ遠い場所でやること。一般社会の中でやること。なので、別に医者はいらないのである。そして金もかからない。ので公金に頼らないですむ。何より、支援者に頼らないで済む。

=====



『発達障害者支援法は誰を救ったか?』


Amazon Kindleストアで絶賛発売中!


君たちの周りの発達障害者なんて発達してないじゃん?

2018-06-25 09:45:29 | 日記
今日は寝不足なのでツイッターのコピペです。

題して

君たちの周りの発達障害者なんて発達してないじゃん?

連続ツイートね。

=====
ギョーカイの支援受けてる発達障害者は発達してないよね。家庭内暴力もそのまんま、不登校もそのまんま、ずっとクスリ飲み続け感覚過敏治らず知的障害なくても支援校だのフリースクールだのから作業所というめんどりコースで一生福祉の固定資産。

「発達障害者が発達するなんて当たり前」とか言っても君たちの周りに発達している発達障害者なんていないじゃん?ってのが本音。私が神田橋先生の言葉に感動したのはあのとき名医()である内山医師の患者からストーカー被害を受けていたからだけどその文脈を知る人も少なくなったね。

当時私は犯人が名医にかかってるから安心してた。でも治らない。それで地元できいたらよこはま発達クリニックなんて行っても治る人ひとりもいないって。家庭内暴力やってる子はずっと親を殴り不登校の子はそのまんま引きこもり。ていうかクリニックにかかってから不登校始める子もいたらしい。

なんのために二十万円払うかというとA46枚の診断結果もらうため。そんだけ。治らない。なんの問題も解決しない。そのクリニックに何年も待機待ちの列ができてたんですよあの頃は。発達障害者は発達するなんて全く当たり前ではなかった。

私の事件の加害者は二十万円払わずに見てもらった。なんでだと思う?

そして治らなかった。私たちへの攻撃を10年やめられなくて結局警察が動いた。医療も福祉も誰も彼を止められなかった。止められたのは司法だけだった。私が「発達障害者は発達する」がレアだと思ったのはそんな文脈の中です。不登校児を登校に持ってくことにすら成功してないバカ親たちにはわかるまい。

不登校してるのなら学校に行けるようになってこそ発達。感覚過敏があるのならそのせいで生活不便にならなくなって発達。知的に伸びて発達。学習障害治って発達。友達ができて発達。週5日どこかに通えて発達。レベルの低い成長を発達にすりかえてるんじゃないよバカども。

不登校の子が不登校のまんまで「うちの子は発達している!」とか強弁イタすぎる。発達するっていうのは引きこもりの青年が北海道から鹿児島に一回行ったことをきっかけに就職して結婚して父になったりすることを言うのだ(実話)。

それから発達遅滞、弱視、アレルギーのお子がメガネいらずになりアレルギー出なくなり知的に正常域になって中学受験に成功したり(実話)。

スモールステップじゃないんだ「発達する」っていうのは。ドカンなんだ。

鼻息荒く「働ける大人にする!」と情弱親から高額な料金取ってた支援団体が10年経って作業所とか作ろうとしていたら、それは失敗したんだって早く気づけ。

=====

そして治りたくない人の愚痴↓

我が子を一生介護してたい人は「ありのままを受け入れて」「発達しない発達障害者で」治らなくてもいいよね!

私は自分も健康でありたいと願うお母さんたちを応援しますわ。




炎上も発達する その4 ヤブ医者ながしが歴史を変える

2018-06-24 05:23:29 | 日記




例のヤブ医者ながしツイートを見て

私が思ったのは「ここまで言われるのなら私もリミッターを外してもいいのかな」ということ。
リミッターを外すとはどういうことかというと、本格的に読者に向かって「医療役立たず宣言」をしてもいい時期がきたのではないかということ。私がそういう宣言をしようとアンチには影響はないし、花風社クラスタは自分の頭で考える人が多いのだから本当に医療が役立たずかどうかは私がなんと言おうとそれぞれが自分で考えるだろうから影響は軽微。だからこそ「医療役立たず宣言」くらいはしてもいいのではないかと思ったのである。

元々『感覚過敏は治りますか?』の帯を考えるとき



「感覚過敏が治った人はたくさんいます。
治した医者はみたことありません」

だったのを「え? 神田橋先生は?」という意見があり

「そういえば神田橋先生のところに行って色々なことが治ったあげく感覚過敏が治った人はいるであろうから、神田橋先生も感覚過敏を治していないというのはウソである」と判断して「めったにいません」という表現に変えました。でもこの本を読んでもらえばわかるとおり、栗本さんも「治るけど治すのは自分じゃない」と言っている。そして神田橋先生だって「技術移転」を大切にしているのは拙著『発達障害、治るが勝ち!』を献本したときにいただいたコメントの通りである。皆さんから見ると「神田橋先生が治してくれた」「栗本さんが治してくれた」と思えるかもしれないが、お二方から見ると治したのはあくまで親御さんやご本人。この点が花風社の本を読まずに「治る」という言葉に過剰反応しているアンチにはわかんないところですね。

ま、ともかく、一部にいいお医者さんはいても、たいていはダメなわけだから、ここでは嫌われ者になるのをいとわない花風社としては「医者役に立たないじゃん」ってはっきり言っていいのかなと思ったのです。

でも実はそう乱暴には言い切れない。役に立つお医者さんもいる。別に神田橋先生ほどかっとんでなくても先日KeiさんがコメントしてくれたようにKeiさんのおうちなどはヤブ医者ながしと違って知能指数が上がっていくことを知っているお医者さん、しかも複数、と出会っているし、花風社の本を熱心に読んでくださっているお医者さんたちもいる。そういう人は、あやしいおっさんである栗本さんからも積極的に学ぼうとされている。なぜなら患者さんが中心にあるから。自分の医師免許が中心ではないから。そういう心あるお医者さんがいるのは確かだし、先日私が「発達援助の非医療化を推進する」と宣言したとき「それはいい!」と言ってくださったドクターもいる。患者中心に考えている人はながしのように医者だからって威張って55歳の女性をつかまえて生意気な口を利かないものなんである。

そしていぬこさんのコメントにあるとおり(注:いぬこさんのおうちは発達遅滞が治り正常知能になりご本人の希望でお受験し見事成功しました)

=====

ヤブ医者ながしのツイートを見て、コメント
しようにも腹が立つやら、呆れるやら、怒り狂って文章がまとまりませんでした。
今日のkeiさんのコメントを拝見し、一言一句、
心の底から腹の底から同意です。
そして治れば、発達検査、IQを測定する機会も無くなります。普通に学校のテストを受けれるようになるから。

あんな見方をされるなら、二度とヤブながし
には罹らないでしょう。
あれで、専門医。
しかも、仕事したくないとまで書いてある。
健診で初めて指摘され、不安とドキドキで
辿り着いた医者がこんな人間だったら…。
ゾッとする。
患者に対し、あまりに無礼過ぎる。

専門医語るな!やりたくないなら別の診療医
になればいい。治ることにあれだけ歪み精神
をお持ちならなれないでしょうが。
治りたくない方々が、治せない医者ながしと
治らない談義に花を咲かせるのは結構。
でも、それ、医療じゃないから。
そして、国から自己負担以外の医療費が出てることを忘れるな。


=====

そしてみならい怪獣さんがコメントしているとおり

=====

Keiさんが書かれている通り、こんな見立ての医者だったらおかしいと思った患者は居なくなるから、治った人、IQが上がった人を見た事ご無いのも無理ないなぁと思いつつ、有害なのは、まだ安全性も確立できていない薬を人体実験よろしく処方が出来てしまう事。
少しでもおかしい、納得できないと思ったらさっさと逃げないと廃人になりますね。

また、治る事を社長が返信されていますが、親ならそれで十分どと思います。
親ではなくて、何もない人でも当たり前の成長後の理想の姿ではないでしょうか?
医療的な治るとは関係無い所でいいのではないでしょうか?
人間の幸せって論文で説明できるものでしよか?

親は論文を見て子育をしているのではなく、子供の様子を見ながら育てます。
論文のネタ、メシのタネにする医者は必要ありません。
仕事をしたくないならご自由に。


=====

医学的な基準やなんかをヤブ医者ながしは知っているのかもしれないけどやつが1ミリもわかっていないことがある。
それは、親心だ。
こいつは「なんとか少しでも不便をなくして幸せな人生を送ってほしい」という親心を1ミリもわかっていない。きっとこういう人間的に破綻したやつが医療には多いんだろう。だから平気で無礼な振る舞いをするし医者の元ではこんなに治らないんだろう。

私は赤本こと『自閉っ子、こういう風にできてます!』を作って以来、自閉っ子たちに「なんとか週に五日働けるようになってほしい」というその一心で本を出してきた。そのために
・感覚過敏
・睡眠障害
・季節によって体調が翻弄されること
から解放してくれる知見を求めて黄色本芋本人間脳その他の本を出した。私に

・家でできて
・金がかからなくて
・できたら身体の中に何も入れない

方法の必要性に目覚めさせてくれたのは『発達障害は治りますか?』だった。その結果ヤブ医者ながしがディスるように

感覚過敏が治り睡眠障害が治り季節によって体調に翻弄されなくなり

その結果として脳みそに余裕ができて

社会性が出てきて

その結果人とうまく付き合えるようになって

家族を思いやれるようになり、彼氏彼女ができ、生活が楽しくなり

その結果一次障害と見なされていた

学習障害、知的な遅れ

も正常域になる人、近づいていく人が増えた。


これを私たちは「芋づる式」と解釈した。「治しやすいところから治す」と芋づる式に治っていくのだと。

それが医学的な治るではないのなら、私たちは医学的な治るなどに用はない。ヤブ医者どもが勝手に論議していればいい。当事者の人生をそっちのけにして。

私は自分の影響力()の及ぶ少ない範囲で医療に無能宣言をすることもできるけれど、実際にはいいお医者さんもいるのでそこまではしない。

でもことあるごとに問いかけたいと思う。

医療的に見て治るとは言えないとか医療的なガイドラインとかそういううるさいことを言われたら

「医療が何をしてくれた?」

と問いかけ続けたいと思います。
おそらくこう問いかけられたら多くの人が
「なんにもしてくれなかった」ことに気づくだろうから。

そこで「医療によって助かった!」と言える人が非常に少ないのが今ここ。
花風社クラスタだけじゃない。猿烏賊にさえ医療は役立たずと言われている始末ですからね。




その現状をみんな今一度思い出すといいですね。

だけどみんな「診断だけはしてくれる」と思っているでしょう。

それも私はウソだと思っている。

それを私に思わせたきっかけはもちろん、内山杉山包囲網(敬称略)だっていうことを、読者の多くは知っているだろうけれど、ここのところの炎上で新しく読者になった人たちは知らないでしょう。そもそも医師の診断がどれだけいい加減なものか。
だから次回はそれを改めて書きましょうね。
それと、故佐々木正美先生がその人格者としての顔と裏腹に、こよりさんにどんなひどいことをしたかももう一度書いておいた方がいいかもしれないですね。
ヤブ医者ながしも佐々木先生も、医者じゃない人をバカにしているという意味では同じかもしれない。
そんな自分たちを見下す医者という人種に、人生託しますか?
私ならごめんこうむります。


続く(不定期

炎上も発達する その3 答えられていない質問

2018-06-23 11:06:48 | 日記
昨日の猿烏賊ツイートを見て、2009年から10年の炎上時は花風社を知らず、その後読者になって「治った!」と喜んでいる方が

「新幹線報道を受けてのツイートだったんですね。いちいち事件のたびにそんなこと気にしていたら生きづらいでしょうね」(大意)みたいなことをおっしゃいました。
本当にそうだと思います。
事件報道で「偏見が広まる」というありえない恐怖感はたぶん
「社会の理解があれば生きやすくなる」と同根の誤学習に支えられていますね。
『人間脳を育てる』を読んで「恐怖麻痺反射の統合」をしたらいいんじゃないですかね。

本当に世の中見えていない。
事件報道は偏見を広げないし
社会の理解があっても生きやすくならないし、っていうかなる段階は過ぎたし
そして嫌いな出版社に炎上を騒ぎを起こしても本が売れるだけです。

ふうりんさんがお気づきだったようです。
コメントから引用させていただきます。

=====

事件に発達障害が関係したと言うな、治せと言うなという炎上だったけど、事件の度に不安になる親はいる。独特の世界の切り取り方が関係していると実感としてわかるから。支援者が誰でも事件を起こすわけではありませんなどと当たり前のことしか言わず有効な手立てを出せないから。

=====

そうだったんだなあ、と思いました。
私は今回も不思議でした。
「愛知県一宮市出身の自閉症の診断がついた男が新横浜小田原間を走る新幹線の中で人に斬りつけた」という報道で、地元で見ている限り小田原や新横浜が抗議した様子はありません。愛知県一宮市の人は「このあたりの精神医療の乏しさではあるある」とおっしゃっていましたが、それでも一宮から抗議は出ていない。新幹線は大迷惑したでしょうけど再犯防止策の必要性は叫ばれても新幹線は「新幹線の偏見につながる!」なんて報道に抗議してませんね。したのは自閉症クラスタだけ。それはふうりんさんが言うように「独特の世界の切り取り方が関係している」と実感でわかるから不安になるんですね。そして今度の炎上のきっかけは私が犯罪と障害特性の関係を否定しなかったことでしょう。

私は事件報道があって診断の事実が報道されると塊になって抗議する人たちにむしろ犯罪の小さな小さな芽を見いだします。自分が生きづらいから新幹線で隣に座った人に斬りかかるのと、「加害者には診断があった」という全き事実(しかもこのケースは親が発信)を報道するなと押しかけるその姿は警察法(『元刑事が見た発達障害』参照のこと)に照らし合わせて罪があるかないかだけです。

結局は「自分の思い通りにならないと気が済まない」ということで「考えの違う他人が許せない」ということ。そしてそのために自分に本来の権限がないところまで自分の考えを押し売りしに行くところ。「エビデンスのないものは出すな!」と息巻いた前回の炎上の親たちもそれ。もしそういう態度で社会に暮らしている人たちが事件報道で変な目で見られるのなら、それはふだんからその言動を疎まれていたからで報道のせいではない。報道によって偏見を持たれたのではない。最初から嫌われていたんです。

こよりさんちは親子そろって診断が出ているけど私はあの事件でこよりさん親子が犯罪者予備軍だとは思わない。むしろ佐々木正美先生に無料で使われたという意味では支援者につけ込まれているほうだと思いますよ。

私はこれ、NHKの人にも言ったことありますが、でかいメディアって大変ですよね。広く集金しなきゃいけないからクレーマーに屈しないといけない。うちのような極小メディアだとその点考えの違う人の抗議は突っぱねられるのが強みです。強みは弱みの裏にある、はここでも正しい。「毎日新聞が引っ込めた」ことは「花風社も引っ込める」ことには直結していないのです。

第一私自身が皆さんご存じのように自閉症者による犯罪の被害者であって、その裁判の様子を本にもしている。その中で自閉症者の特性のみならず支援の世界が犯罪を許す土壌であると指摘している。一方であの本を読んだ方たちはおわかりになるとおり、私は自閉症の人たちは法が守れる人たちだとはっきり書いている。でもそのための遵法教育は定型発達の人たちと若干違いがある。私は自閉症支援として、加害者には有罪判決を受けてもらった。そして担当刑事が民間人になったと聴くや本も書いてもらったのです。

これくらい私は「自閉症の人が犯罪を犯さないこと」に力を注いでいます。

そして前回の炎上の時、医者を含む人たちに問いかけて全く答えのなかった質問があります。
それは
「私は自閉症者の特性と支援者の無為無力によって犯罪被害者となった。なぜその私が発達障害
治ってほしいと思うのがいけないのだ。なぜ支援者の無為無力を指摘してはいけないのだ」
ということ。

これは誰も答えていない。答える必要もないですけどね。答えられないんでしょうし。

今回「発達障害を手がける版元だから発言を控えてほしい」と言われ、わけがわかりませんでした。「影響力ガー」というお決まりの言葉が出てきたのですが、今ならわかります。要するにずぶの素人ではなく一般人よりは少しは発達障害について知り、発達障害の人とも交流があると思われる私が犯罪との関連を取り沙汰すると偏見が広がるとおそれて介入してきたのでしょうね。

でも私は立派に被害者なんですから。
何度もこういう炎上食らってそのたびに粘着されているんですから。
発達障害を知るからこそ、当事者保護者のいやらしさも人一倍知っているんですから。
そしてそのときに支援ギョーカイの無為無力ぶりもじゅうぶん味わったんですから。
それがあっての今の活動なんです。

要するに「立場上発言を考えてくれ」とか寝ぼけたこという人たちは村社会に暮らしていて、私もその村の住民だと思っているんでしょうね。

でも私は何度も言ったでしょう。私は「化外の民」なんです。
ギョーカイ村の外にあって、社会とつながっている。
自分も社会人だから社会人一般に対してフェアな仕事をしていく。
だったら仲人口なんかきけるわけがないじゃないですか。

そして村社会の人には信じられないかもしれないけど
当事者保護者であの報道を恐れない人
「一般社会にフェアであろう」という私の姿勢を支持してくれる人もいるんです。
いや、村社会の方を向いていないからこそ信用してくれている人もいるんです。

その人たちが私の顧客なんです。
そこから逃げる人もいれば入ってくる人もいる。出入りは自由。
その数が少なくなったら私が消えればいいだけなんです。

「この村社会は変だ」「これでは社会と共存できない」
こういう思いを持っていたお客が潜在的にいたんです。
一般社会にたいしてフェアでありたいと思っていたお客さんたちが。
私がはっきりもの申すまで、その人たちには読みたい本がなかったんです。

だから読みたくない人は読むな、と私は言ってます。
ただ私をどっかに告発したり弾劾したりするのなら、ちゃんと商品を読んで案件を構成しないと誰も相手にしないよ、特に役所はね、と言っています。役所はなるべく仕事減らしたい生態系なんですから。

とにかく

前回の炎上から答えがない私の疑問。


「私は自閉症者の特性と支援者の無為無力によって犯罪被害者となった。なぜその私が発達障害
治ってほしいと思うのがいけないのだ。なぜ支援者の無為無力を指摘してはいけないのだ」


に答えられる人がいたらコメント欄へGO!

言っておきますが、私は村社会の一員ではありません。
村の人たちとは、誰とも仲良くしたくありません。
村で嫌われ者になるという脅しは私の口を封じません。

もちろんその他のコメントも歓迎ですが、この質問の答えがあればご遠慮なく。
答えではないただの罵倒のゴミはゴミ箱に入れますが。

私が真剣に共存を書いて考えた本

『自閉症者の犯罪を防ぐための提言』お得なKindle版はこちら!





『発達障害者支援法は誰を救ったか 電子版』発売開始です!

2018-06-23 06:36:34 | 日記


『発達障害者支援法は誰を救ったか? 電子版』発売です!

目次は以下の通りです。

=====

「発達障害者支援法の害」から身を守るには
「実力以下の人生」へと導く特別支援教育
「専門性」があるからこそ消化試合を用意する支援者たち
二次障害への恐れが、片道切符を用意する
自立支援の意味 支援者たちにとって
勝ち逃げ世代の支援者を信じるか
発達支援ギョーカイはまだ奈良時代
当事者保護者の苦しみはどうしたら救われるか?
支援者の言う「自立支援」は自立を支援することではない
虫取り少年たちの跋扈する医療
コンビニ療育
ギョーカイジャパン最大の発明品 「二次障害」
祈りの時代から修行の時代へ
花風社にとっての「自立支援」とは
身体の問題はほぼほぼ解決した。その経緯。
地位や名声に恋々としない人が治す
「他人への迷惑」をどれくらい許すかの客観的基準
問題意識があれば、仲間は自然にできる
発達援助の非医療化
一般社会に出たい人たちへ。

=====





内容紹介

発達障害者支援法施行から13年。

果たして発達障害者支援法は誰の役に立ったのか?

どのように支援法を解釈すれば

発達障害者とその家族はラクになるのか?

施行時より発達障害の世界を見つけてきた著者による渾身の提言。



本書より



「発達障害者支援法がなくなればいいとは思わない。助かった人もいるだろう。けれども、発達障害者支援法にあぐらをかいて、当事者のかけがえのない人生と引き換えに、実効性のない支援をえんえんと続けてもよい安心感をある種の支援者に与えてしまったのはたしかなのである。」



「たくさんの人が社会で活躍する人になってこそ、発達障害者支援法は意味を持つ。それを私たちは、忘れないでいよう。」

そして会わせて、こちらもお読みください。
最初はギョーカイに従順だった私が、なぜギョーカイに別れを告げ「治る」「修行」路線を歩み始めたのか。
その経緯がよくわかる本です。

自閉っ子と未来への希望kindle版お得なキャンペーン価格で販売中!




*しばらくこのページはトップに貼っておきます。
日々の更新はこの下をご覧ください。

炎上も発達する その2 人生棒に振らせた人と振った人

2018-06-22 09:28:42 | 日記
さて、今日はどっち方向に行こうかなあ、と思っていました。
猿烏賊と今回のアンチたちが何に洗脳されている方面に行こうか
それとも「なぜ私が医師の判断など当てにしないか」方面に行こうか
そうしたら日付の変わった頃、神コメントをいただいていたようなので、まずはそれをまるごと貼らせていただきます。コメントが多くて、このコメントが二ページ目になってしまっているのはとてももったいない。

=====

Unknown (Unknown)
2018-06-22 00:03:19
炎上勢は単純に怖いのでしょう、これまで治らない教を信奉してきた身としては。


彼らが恐怖を抱いている対象の一つは
「自分達の宗教やご神体が、良からぬ連中によって破壊されてしまう!」といった
これまで自分が”正義と信じてきた世界”が崩壊する可能性 です。


個人が抱いている世界観というのは、得てして客観的な現実よりも
本人にとっては「現実味」が大きいもの。

「生まれて」もいなく、「発達して」もいない人間にとっては
当事者とその家族は、医療や福祉の業界といった「箱庭」で囲えるような
ペットか家畜(めんどり)のような存在なのでしょう。


それを守り、悪しきパラダイムシフトを回避すべく
視野の狭い人間が反射的に暴挙に出るのは想像に難くない話です。

彼らが原理主義じみたテロリストなら、爆弾か生物兵器でも使ったのでしょうか。



もう一つ恐怖を抱いている対象は
自分たちが後世から悪人扱いされてしまう可能性 です。

だってそうでしょう。

彼らが行ったことは、つまるところ
「脅しをエサに、他人様の人生を棒に振らせた」
基本的にそれのみです。


もし今後も自助努力によって治る人間が増え続け、
「発達の治療?じゃあ医療いらないよね。」というのが世間のスタンダードになれば
彼らは無知な人間にウソを吹込んで
貴重な時間とカネを溶かさせた、詐欺師や負の遺産か何かとして認識されます。


それを回避するには当事者に対し

「お前の治るは治るではない!」
「それは自分達の医学ではこうなっているんだ!」
「今からでも遅くないから、めんどりらしくカゴの中へ戻れ!」

上記のような人の可能性を潰し蹂躙するようなセリフを
ことのほか声を大にして叫ぶ必要が存在するでしょう。


しかし、それが自縄自縛でしかないことに気付けていないという事実に
「信じる神を間違えると悲惨だなぁ」という
なんというか可哀相な感想を覚えずにはいられません。

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そうそう。
「脅しをエサに、他人様の人生を棒に振らせた」
それが
「生まれつきの障害だから、一生治らない」
「ありのままでいいんだよ。社会が理解すればいい」
と言い続け、「治さない医療、伸ばさない療育、アリバイ的特別支援教育、飼い殺しの成人支援」を正当化してきたギョーカイのしてきたことです。

そして2009年から2010年の炎上で「エビデンスガー」をやった人たちは
うっかりそれを信じた人に対して、同じことをやったかもしれませんね。

当時「花風社の提言を実践してみよう」と考えそちらに向かった人たちは
彼らが口を極めて罵ったようにリテラシーがなかったのではありません。

「ありのままでいいんだよ」のギョーカイトークを、自分の社会人としての常識に照らし合わせて「本当だろうか」と疑問に感じるだけのコモンセンスがあり

ネット上でおしゃべりし、机上の空論を交わしているだけではなく日々の生活に地道に取り組んでいたため
実際に子どもの身体をラクにすると他の面でもいい影響が及ぶだろうということが実感できた人たちです。

そして「これやると70パーセントの人に効果がある」とかいう論文より目の前の子どもの状態を重視した。

その人たちが「身体をラクにすることによって芋づる式に治った」と喜んでいるのが今ここです。

そしてその様子を見てきた第二次炎上のときのアンチは、もうあまり騒がない。
(第一次は裁判になった件)

なぜなら私が当時「わかった。じゃあ5年後10年後を見てみよう」と言ったから。
そして結果は明白だから。
今騒いでいる人たちは、なぜ前回騒いだ人たち(含医者その他専門職)が沈黙しているか、知った方がいいです。


当時、神田橋先生や私のことを口を極めて罵っていた猿烏賊の現況はこんな感じみたい。



でもこれも、自分で決めたことですから自分で責任を取るしかありませんね。

そしてこの猿烏賊の発言に

「今回なぜ炎上が起こったか」のヒントがありますね。

治らない人たちは、脅えるんです。
事件報道にビクビクする。

治る人たちは、事件報道などに脅えない。
そんなものが偏見をもたらすとは考えない。
自分の子はそんな危険はないとわかっているから。
そして、治ることを知っているからね。

実は自信がないからこそ、報道に脅えて腹を立てるんです。
治らない教信者は、哀れですね。






続く(不定期