治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

『感覚過敏は治りますか?』がたちまち増刷した件と支援者のサバイバル術と新刊からの抜粋

2018-05-31 08:51:10 | 日記
さて、『感覚過敏は治りますか?』書店発売二週間で増刷です。まあいわゆる「たちまち増刷!」ってやつでしょう。
そしてもうすぐ出る電子書籍『発達障害者支援法は誰を救ったか?』の中の栗本さんに関するパートを引用しておきます。SSTについても書きたいんだけどね、本当に深い話題だからちょっと月末は忙しいですね。明日以降書きます。

なんだっけ。

そうだ栗本さんだ。
なんで無名のおっさんに目を付けなぜ無名のおっさんの本が売れたのか。
それを書いときます。
これは皆さんのためでもあり、栗本さんのためでもあります。
だって上手に説明できないんだもん。自分のこと。

あくまで編集途上ですからね。



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 2018年現在から振り返ると、結果的に私は最初解決したかった三つの問題
1 感覚過敏 2 睡眠障害 3 季節の乗り切り方
を解決する本を出せてしまった。以下の通りである。

・感覚過敏→『感覚過敏は治りますか?』
・睡眠障害→『自閉っ子の心身をラクにしよう!』
・季節の乗り切り方→『芋づる式に治そう!』

 ギョーカイはえらい先生を最初に立て、その人たちが解決できる課題、できそうな課題、あるいはできそうだとみんなに信じ込ませられる課題しか取り扱ってこなかった。主人公はあくまで支援者でなくてはならないので、身体感覚の解決は後回しにされた。身体の問題になると、主役は本人。本人しかどこがつらいかわからず、支援者にはわかんないからである。でも社会性とかなんとかなら外から見てもわかった。そして「支援者からどう見えるか」の曲芸を教えることに終始し、当然一次障害は治らないので、「一次障害は決して治らないものなのです」と当事者保護者を洗脳した。

 私としては、ギョーカイで誰がえらいか等には興味がなく、たんに「発達凸凹の人たちの社会進出の邪魔になっているこの三つの問題を解決する方法はどこかにないものか」と解決策を探し続けた。そして、栗本啓司さんという一万パーセント無名なおっさんを見つけた。神奈川県小田原市飯田岡というところで「からだ指導室 あんじん」を主宰しつつ、方々の施設等で障害児者の身体アプローチを指導している人だった。
 私事であるが、小田原市飯田岡は戸籍謄本によると私の祖父生誕の地である。祖父は青雲の志を抱き故郷を出て勉学に励み、小田原高校や湘南高校などの名門校の校長を歴任し藤沢で天寿を全うした。けれども生誕したのは飯田岡で、現在「からだ指導室 あんじん」になっている物件の大家さんは私の旧姓である。つまり、江戸時代くらいまで遡ると栗本さんと私は親戚だったかもしれない間柄だ。
 そうとは知らずに出会って、私は偶然出会ったこの人に三つの疑問をぶつけた。感覚過敏どうにかなりませんか? 睡眠障害どうにかなりませんか? 季節によって体調が左右されすぎる問題、どうにかなりませんか?
 そして本が生まれたのである。この本を読んで、一次障害が治った人がたくさん出てきた。なぜなら栗本さんは、これまでギョーカイ人の誰も注目していなかったところに注目してそこに働きかけたからである。すなわち、発達障害という以上、内臓や関節の機能にも発達の遅れがあるはずだと指摘し、そこに働きかけた結果、たんに体調が整うだけではなく、一次障害が治っていく人が増えたのである。
 働きかけといってもきつい運動ではない。「え? こんなカンタンなこと?」と思うような働きかけで身体がラクになり、そうなると脳みそがラクになってできることが増えるのだ。つまり、一次障害が治っていくのである。「治りました!」という声がどんどん届くようになった。それは、提唱したこっちが不思議になるほどであった。
 でも不思議でも何でもないことが判明した。
 DSMが改訂され、第五版において、発達障害が神経発達障害と定義し直されたのである。
 神経発達障害なら、身体アプローチに効果があるのは当たり前ではないか。神経は全身に張り巡らされているのだから。
 そしてとくに背中へのアプローチに効果があったのは当たり前ではないか。発達障害は中枢神経の障害と言われる。そして中枢神経は脳だけにあるのではない。背骨にも格納されているのである。

 逆に言うと、発達障害にまつわる困りごとは「言い聞かせる」等の言葉によるアプローチでは改善しない。一瞬改善してもすぐ戻ってしまい「やはり治らないのだ」と絶望を重ねてきた人も多いだろう。こうやって言葉によるアプローチ、脳みそへのアプローチ、頭でっかちなアプローチにこだわり続けた結果、関係者一同期待しないこと、絶望することばかりを学習してきたのである。
 でも発達障害は脳みその障害というより神経発達の障害なのだ。
 そして神経発達は言語能力の発達よりずっと前から起きているのである。
 神経発達障害ということは、言葉で言ってどうこうできる以前の領域にバグがあるということであり、そこに働きかけるのは言葉以前のアプローチ、すなわち身体アプローチしかない。

 こうやって私が「自立」を「支援」するために解決したかった三つの問題の解決は無名のおっさんによってもたらされ、栗本さんは無名から「知る人ぞ知る」くらいまでには出世した。
 もっとも栗本さんを見つける前、身体アプローチを追求する途上、花風社は感覚統合の専門家の本なども出した。そして思わぬ突っ込みを受けた。『自閉っ子、こういう風にできてます!』に有名支援者たちがこぞって萌えてくれたことにより、ギョーカイではメジャーな出版社になっていたのに感覚統合という海のものとも山のものともわからない分野に手を出すのは危険である、と。おそらく支援者たちはこういう風に自主規制して、「たとえ治る可能性があるものでもギョーカイで叩かれそうな気配があれば近づかない」のかもしれない。私は空気を読まなかったのでギョーカイ受けより「自立」を「支援」する方法がないかを最優先させて出版活動をしていた。

 私にブランド志向がないわけではない。悪いけど、発泡酒や第三のビールを飲むくらいなら水を飲んだ方がいい。本物のビールでも某スーパー○ライには手を出さない。神田橋先生に焼酎風呂を習いお風呂に入れる焼酎と飲む焼酎を分けている人もいるようだが私はたとえお風呂に入れる焼酎でも安酒はごめんである。すなわち酒類においてはブランドにこだわり続ける私が解決策さえ持っていれば無名のおっさんでも進んで本を出したかというと、その頃までに私は「有名支援者」の無為無策にうんざりしていたからだ。

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つまり、ギョーカイが無能だから無名のおっさんにもチャンスがあったわけですな。
そしてたちまち増刷してしまったわけです。

昨日の私のツイートをたどっていけば、放課後等デイなどを経営する人たちがいかに金の亡者かわかります。
びっくりした人いたみたいだけど、あんなもんよ。
とくにギョーカイ成分多めで、フォーマルなアセスメントのお免状取るためにギョーカイ人に貢いでるところは、それがウリだと思っているから(ここが社会性の障害。保護者はそんなの興味ない)自分たちほどギョーカイに貢いでいないと思われるところにはサクラになっても突撃蹴散らすつもりのようですな。

でもさあ、公金商売なんだから本来経営難しくないはず。
実際に安定的に売り上げている業者だってあるでしょ?

どういう業者かというと、騙しているか、治してるよね。
ギョーカイ成分多めの業者は、治さないでもうけなきゃいけないから大変だ。騙す方向に腕を磨くしかない。

騙したくない人は、治すしかない。
じゃないと生き残れない。
逆に言うと治せば無名でも生き残れる。
栗本さんがいい例だ。

治さないでもうかる時代は終わりつつあるからね。
大ギョーカイメジャーとともに旅立たれたのですよ、治さないでもうかる時代は。
今の若い(当社比)親御さんたちは治りたい人たちよ。
若くてもギョーカイに洗脳されている人もいるけどね。

そのあたりのことも新刊には書いておきましたよ。
そこもそのうち引用しましょう。

新刊『発達障害者支援法は誰を救ったか?』冒頭部公表します

2018-05-30 11:00:23 | 日記
さて、SSTの記事を続けようかなあと思っていたら昨日の記事にいただいたふうりんさんのコメントがとても深くSSTの本質に触れています。先日ご紹介したみるさんのブログ同様、ふうりんさんのコメント、よく読んでおいてください。ソーシャルスキルの本質へのヒントになります。

これを題材に記事を書く余裕は、今日はありません。新刊が佳境です。

力入れて書きすぎ、電子で出すのが惜しくなりました。電子書籍オリジナルとしては長くなりました。紙の本換算で百ページ近くあります。それでも速攻が電子書籍の醍醐味ですから、今回は電子で出します。繰り返しますがAmazon Kindle本は専用端末がなくてもスマホやタブレット、PCで読めます。PCで読めることも強調しておきたいと思います。あっという間に出版になると思いますので、読みたい方はアプリをダウンロードしておいてくださいね。

というわけで、本日は

冒頭部公表します。立ち読みしていってください。編集途上です。

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「発達障害者支援法の害」から身を守るには


 発達障害者支援法。
 二〇〇五年十二月十日に施行された。
 その目的は以下の通りである。

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第一章 総則
 (目的)
第一条  この法律は、発達障害者の心理機能の適正な発達及び円滑な社会生活の促進のために発達障害の症状の発現後できるだけ早期に発達支援を行うことが特に重要であることにかんがみ、発達障害を早期に発見し、発達支援を行うことに関する国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、学校教育における発達障害者への支援、発達障害者の就労の支援、発達障害者支援センターの指定等について定めることにより、発達障害者の自立及び社会参加に資するようその生活全般にわたる支援を図り、もってその福祉の増進に寄与することを目的とする。

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 この法律ができたことで、それまで陽の当たらなかった発達障害者は「生きづらさ」を脱出できるのだ。人々はそう手放しで喜んでいた思う。
 私も喜んだ一人だった。この法律の施行と前後して、偶然にも発達障害の世界と出会った私は、周囲の人々と同様この法律ができたことを喜んでいた(私が発達障害の世界と出会った経緯については『自閉っ子と未来への希望』に詳しく書いたのでここでは割愛する)。愛すべき発達凸凹のある人たちを救う法律ができた! 脳の発達に凸凹があり、学業はできるのに人間関係がうまくいかないとか、全体から見ると知的な遅れはないのに読み・書き・計算など特定の分野ができなくて苦労してきた人たち。その人たちはこれまで、発達障害だと見抜かれなかった。だから自分にはなぜ皆にできることができないのかわからず、傷つき、二次障害になり、不登校等につながっていた。今後はその人たちの発達障害が早期発見され、早期介入され、不得意が緩和され得意を伸ばす環境が与えられその能力を発揮して社会に貢献する社会人となって活躍するのだろう、と私は考えた。おそらく一般人としてはごくあたりまえの捉え方だと思う。そして私と同じように一般人である多くの当事者保護者も、「発達障害者支援法ができたから自立への道が開けた」と考えたはずである。

 ところが、そうはならなかった。ある意味、発達障害者支援法があったから、障害者としての不自由な生き方を押しつけられた人たちが増えた十三年間だった。つまり、本来健常者として自由な生き方ができたはずの人たちが、障害者というカテゴリーに組み込まれ、一般社会と切り離され、福祉の世界へと片道切符を渡され、支援という名の囲い込みのもと制限された中で生きることになったのを目撃した十三年間でもあったのである。
 そしてそれは今も続いている。ある意味、発達障害者支援法は障害者を増やしてしまった。障害者として生きる人を増やしてしまった。もっとはっきり言うと、発達障害者支援法の理念によって害を受ける人たちが出てきた。
 なぜそうなってしまったのか?
 なぜ発達障害者を救うはずだった発達障害者支援法が逆の結果をもたらしたケースがこれほど多いのか?
 自分が発達障害者支援法の害を受けないためにはどうすればいいのか?
 それを提言したくて本書を書くことにした次第である。

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シリーズ おバカさん対応ガイド 啓発熱心ママ編

2018-05-29 07:04:34 | 日記
昨日の出来事でわかったのは、結局啓発熱心な人っていうのは倫理観が甘いということだ。
私の母を個人的に知っているからと言って、高齢の母を通じてウエメセで私に説教するとか鬼畜だろう。
倫理観が甘い人が啓発しているから、社会から見て変なものになるのだ。
「健常者に人権なし」を堂々と言うのは、倫理観が甘いからである。

そしてギョーカイの洗脳にころっとやられてしまうのも倫理観が甘いからだろう。
まともな倫理をもってするなら、税金だけかすめとっておいて治さず伸ばさず飼い殺しにしてそこに開き直って社会にだけ理解を求めている現在のギョーカイのうさんくささに気づくはずである。倫理観がないからそれに気づかず洗脳されてその手先となって「社会の理解ガー」をやっているのだろう。

治った当事者にきくと「社会の理解なんかいらなかった」と言う。
それよりは感覚過敏をなんとかしたかった。睡眠障害をどうにかしたかった。
脳みそぐるぐるをどうにかしたかった。
社会がいくら理解してもくさいものはくさいしまぶしいものはまぶしい。
そっちをどうにかしてほしかったという。
要するに啓発熱心な保護者は子どもっていうより子どもを産んで育てた自分が誤解(笑笑)されたくないために啓発活動に時間を投じ、子どものために何かやっているつもりになれるという自分をごまかしている人たちなんである。誤解恐怖症なんである。

啓発啓発うるさい親にはこう言ってやればいい。
啓発活動して何が治る? 感覚過敏は治りますか? 睡眠障害は治りますか? 季節によって体調が崩れるのどうにかなりますか? 脳みそぐるぐる治りますか? 社会性生えますか? これ全部、花風社読者は手中にしてるんだけど。え? 啓発活動しても子どもはラクになんないの? それで社会は理解するの? 理解しないでしょ? なのになぜ行政に予算もらって毎年毎年ポスター作ったりしてんの? もしかして親のエンタメの一環? ならわかるけどね~。でもさ、啓発に熱心なあまりに十数年鬱治らない夫が他人に八つ当たりして迷惑かけて病身にむち打ちながら会社に行ってお昼にダイエットペプシとカロリーメート食べてるのをツイートしてそれをみんなが痛々しく見てておまけにお母さんが啓発の会で司会しているその横で子どもが性器露出してたらなんのための親の会活動なの?


ってきいてみればいいんです。
そしたら二度と誘われなくて済むからね。
時間の無駄だから。啓発活動。
「啓発すればなんとかなる」と啓発に励んでいる親たちは「治す気も伸ばす気もないけど、僕たち支援者として君臨していたいもんね」という支援者に洗脳されているだけ。情弱。35年ローン組むくらい情弱。近づかない方がいい。

『感覚過敏は治りますか?』
絶賛発売中です。
本当に役に立つ本ってこういう本のことを言うと思う。
98000円引きで買えてラッキーだった、って読んだ皆さんは実感しているのではないでしょうか。

ギョーカイママ、あかんやろ

2018-05-28 14:40:11 | 日記
と思わず使い慣れない関西弁が出てしまうくらいあきれた出来事があった。
今朝のことである。
母のとこに用事があり出かけてきた。
そしたら
詳細は省くが母の知り合いでありどっちかというと社会の理解ガーをやっている自閉っ子ママから電話がかかってきて「浅見さんあの言動じゃあ誤解されるだろうせっかくしごとしているのにかわいそう」と上から目線で言ったそうである。

母がどんな反応をしたか知らない。知りたくもない。母は女子力高いのでそこで心にもなく賛同したのかもしれない。しなかったのかもしれない。まあともかく、いくつかの思いが私の脳裏をよぎった。

一つは「それでは誤解される」というような発言を私は二十代の頃からさんざん先輩女子にされてきてそのことごとくを無視してきたからこそ仕事でも家庭でも充実しているっていうことだ。今更55歳になって82歳の母にちくられたって痛くもかゆくもないということである。誤解なんていうのは道を歩いていれば石ころがあるようにごく自然な現象であり邪魔だったら蹴っ飛ばせばいいだけで、怖くもなんともない。逆にこのギョーカイママが啓発活動にいそしむのはこの人が誤解を恐れている人だからであろう。我が子が歩む道からは石ころをすべて取り除きたいのであろう。石ころがあれば蹴っ飛ばせばいいのだけれど、そういう風に育てる自信はない。だから社会の方に道路を整備して石ころ一つ落としてくれるなと要求する。社会の理解ガークラスタの仕組みが手に取るようにわかった。私たちから見ると啓発活動なんていうのは実に無駄な行為だが誤解がそれほど怖ければ啓発にいそしむ根拠はあるのだろう。

それと「それでは誤解される」と主として女子が言うときの本音。それは「私が気にくわないからやめて」なんだけど、こっちのメリットデメリットにすり替えなければきいてもらえないと思って「そのままだとあんたのデメリットになるよ」と主語をすり替えて脅しをかける。堂々と率直に「あんたのことは嫌いだ」っていうだけの勇気がなくそのままではあなたの損よみたいなこと言う。これも飽きるほど見てきて、そして全部木っ端みじんに砕いてきたパターンである。

そしてこのギョーカイママの明白なマナー違反。
それは気にくわないことを、全く仕事に無関係な、高齢の、生みの親にむかってチクったということである。
これを礼儀知らずと言わず何が礼儀知らずなのだろう。
しかも私はもう還暦に向かう年なのだ。30年前に親元を離れたのだ。親の育て方が悪かったとしてもいくらなんでももう責任から解放してあげていい年齢ではないだろうか。
私は別に内山医師のご両親のところに行って(どこにお住まいか、お元気かどうかも存じあげない)あんたの息子の患者に迷惑かけられた、とは訴えない。当たり前ではないか。

ソーシャルスキルなってないじゃん、と思った。
こんだけ自分が礼儀知らずで啓発も何もないもんである。
その活動が実らず社会が自閉症を理解しないのなら親が常識を欠いているからである。
それとこの人たちにどうしても見えていないこと。
それは私にも支持者・賛同者がいるということだ。
誰とも(無理矢理)仲良くしないと決めて、それで覚悟を決めて種々の問題提起をしている。考えの違う人が多いのは重々承知の上だ。けれども考えを明確にしているからこそ味方もできる。私は二十代の頃から「誤解されたらどうしよう」なんて考えずに自分を貫いてきてそれでも食いっぱぐれない程度には恵まれてきたのである。運が強かったのかもしれない。でもその運を呼び込んだのは、明確な問題意識なのである。
自分が叩かれたくないから、誤解されたくないから明確な問題意識を持たない、表さない。そういう生き方もあるだろう。でもその人たちに私は憧れの気持ちを1ミリも抱かない。だから言うことを聴くことは決してない。上から目線で語られてもこっちにしてみたら蹴飛ばすだけだ。

母は職業人としての私を知らない。だから一言「あ~そういうの、全部蹴散らしてきたんだ20代の頃から」と言っておいた。親子の会話としてはこれで終わりである。

そして当該のギョーカイママにメールを打っておいた。

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ギョーカイのなかで○○さんと私の立場は違う。
○○さんの周囲の人たちは私のことがわからない人もいる。
でも私の周囲は○○さんたちがやっている啓発活動そのものが時代遅れで役立たずと思っているからおあいこです。(編注:ここが専守防衛、やられたら倍返しのとこ)
「私の周囲は啓発活動すると誤解するから○○さんがかわいそう」なんてことは言いません。お互い信念に基づいて大人として行動しているのですからそんなことは失礼ですね。

以上お礼とお願いです。
花風社がやっていることを気に入らないのはかまいませんが母が個人的にお世話にになったことを利用しないでいただけるとありがたいです。

浅見淳子

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「誤解されるのが怖い」
こういう人が啓発活動にはまり、そしてギョーカイ系の役に立たないSSTにはまるのだと思います。
つまり怖がりの親が、啓発に走り
怖がりの親が、SSTに熱心なのだと思います。
「誤解される」「嫌われる」っていうのがこの世の終わりだと思っているから。

本日のみるさんのブログ、必見。





*電子書籍オリジナルの新刊。
本場所終わりましたが今日も四時起きで書いてました。
お楽しみに!



SSTに熱心な親の子に限って結局福祉に囲われる人生を歩む理由 その1

2018-05-27 09:13:12 | 日記
秋田犬のマサルちゃん(暫定)の社会性はすごいなと思った。
初対面のザギトワ選手を見て、この人が自分の新しい家族だと一瞬で理解したようだからである。たぶんザギトワ選手からもマサルちゃん歓迎オーラが出ていて、それを察知したのであろう。自分がえっちらおっちら遠くからやってきた理由を知ったのである。

何を隠そうそのときに思い出したのは過去のちゅん平さんと過去のこよりさんだ。
でも悪いから言わなかった。
そしてFBでマサルちゃんがすごいというだけ書き込んだら、ちゅん平が負けを認めていた。
それだけちゅん平の社会性も発達したのである。

何しろちゅん平は同じ家に住んでいても家族が家族と気がつかなかったのである。
この世は自分が主人公の一幕の劇。親が別の部屋にいるときは「出待ち」。そして自分が死ぬと「完」という字が出てこの世はなくなる、というのがかつてちゅん平が持っていた世界観であった。
こよりさんは下のごきょうだいの出産を終えてきたお母様が預けられてきた親戚のおうちにこよりさんを迎えに行くと誰だかわからず「おばさんもこの家の人?」ときいたひとである。親戚のおばさんがお母さんになったと思っていたのだ。

社会性の障害、というものをたんに「お友だちができない」とか「コミュニケーションが成り立たない」と見なしてやっきになってSSTをしている人を見ると「あほだな~」と思ってきたが、その人たちはたんに社会性の障害の本当の恐ろしさを知らないだけかも、と思うようになった。
私は知っている。初期の頃から「親は出待ち」とか「たんなる情報端末」とか「下のきょうだいの出産の時人が交代したかと思った」とかオソロシイ話をたくさん聞いてきたからである。みんなもっと当事者にどう社会が見えているか知った方がいい。『他の誰かになりたかった』を読むといい。

なんで自閉っ子とのコミュニケーションが成り立たないかというと、「人間が人間とわかっていない」のかもしれない。人間が人間とわかっていなければ親を親ともわからない。社会性の障害っていうのはそこまで私たちと自閉っ子たちとで違うもんなんである。なんとか教室で先生とやりとりしてなんとかなるもんではない。

でもちゅん平さんやこよりさんの例に見られるように、社会性は育つ。
マサルちゃんに追いつける日が来る。
そもそも犬っていうのは社会性を武器に生き残ってきたような種である。
そして人間の社会性は残念ながら、犬レベルでは生きづらい。
マサルちゃんに追いつき追い越さなければいけないのだ。

私自身がいわゆるSSTの実効性に対しては懐疑的であるので、うちの本の中にはSSTはないなあ、と思っているが、身体アプローチは社会性を養う近道である。
中でも花風社的に言うと、SSTの決定版はある意味『人間脳の根っこを育てる』だと思う。
なぜか。
犬より前からやれるからである。
そして犬を追い越せるからである。
だから人間脳の根っこなのだ。

ところが従来型SSTはせいぜい犬止まりですな。

そして身体作りより何よりまずSSTに萌えるうちの子に限って伸びないのは当たり前ですな。

というのを次回書きますが、その前に皆さん

大久保さんのブログ



みるさんのブログ





よく読んでおいてくださいませ。
この記事二つに、大きなヒントがあります。



続く(不定期)

書いています

2018-05-26 20:47:27 | 日記
本場所中であるが、ご存じのとおりの事情なのであんまり相撲は見ていない。だけど早起きして仕事をする習慣だけは身についている。今日も起きたのが3:58だった。昔から起きたい時間を決めるとその時間に自然に起きられる自分が不思議だったが、これも広義の「やりたいことができる身体」だと思えば不思議ではないのかも。

5月中に出すつもりだったこの本。なんか途中で書く気をなくした。そしてそれは正解だった。沖縄に行って帰ってきたことで、多くを学んだからだ。

沖縄に行く直前に、偶然沖縄のドクターからメールが来た。『発達障害、治るが勝ち!』を読んでくださっての賛同のご意見だった。私が沖縄に行くことを告げると、山城さんたちの狼煙作戦はこのドクターのところまでは届いていなかったらしく、急遽申し込んでくださった。そしてあちらでお話ができた。

エビデンスというもののカラクリを教えていただいた。そして私の目指すところは「発達援助の非医療化」なのだと発達支援ピラミッドの頂点に君臨するドクターに堂々と意見を申し上げた。そして賛同を得た。

そのあと栗本さんの講座に、「誰このおっさん」と思いながらヨガマット持って駆けつけてくれた人たちの姿を見た。

その人たちへのメッセージをこの本には込めることになった。だから沖縄から帰ってきてからでよかったのである。

大事に大事に書いてます。
近日中に電子書籍として出版します。

シリーズ おバカさん対応ガイド 金がほしい金がほしい編

2018-05-25 14:26:36 | 日記
私が猫本こと『支援者なくとも、自閉っ子は育つ』を作った理由のひとつは、「もっと支援が~」と言ってみんな支援者がいないとどうにもならないように思っているが実は支援そんなにいらないよ、と伝えたいこと。
もうひとつは「金もあんまりいらないよ」と伝えるためである。

我が子に発達の遅れがあるというと、専門家を頼って、うちにもっと金があればどうにかなるかのように誤解して嘆く人たちは多い。
でも私が十数年見てきてこれだけは断言できる。
金があるなしは発達に関係がない。

もちろんお金があるおうちならではの方法を採れたおうちもある。
でもそれは余剰の部分であって、一番土台にある「発達を促す」ところではお金持ちでもそうではない人でもあまり関係がない。
都会か田舎かも関係ない。
いや、都会には都会のリソースが、田舎には田舎のリソースがあるのだから、よその土地をうらやましがって時間を潰すのは難しい。
「療育先進地」と言われたところが悲惨なことになっているのはごらんの通りである。

こよりさんちは山奥で、旦那さんには失業期間もあり、何よりこよりさんは嫁いで28年間順繰りにご老人を介護していた。
それでもご子息二人はそれぞれの障害特性(学習障害・知的障害ありの自閉)と折り合いをつけながら、田んぼのあぜ道で遊びながら、高校生になると友だちが持っているものを買ってもらえないことに時には不満も抱きながら、働く大人になった。

そういう姿を知ってか知らずか相変わらず「金があれば金があれば」の人たちがいる。
そして犬の曲芸のようなABAやSSTに大金をつぎ込む。そこで教えられるのは場面限定の曲芸だけ。それでも親の方が近視眼的になってて「土台から育てる」という大局的な目を持てないのである。そして支援組織の餌食になる。

ごくろうさんな話である。

ところで世の中にはホストクラブというのがあって、そこに行って一晩で何十万も使ったりする女子がいるらしい。花風社では「発達はシャンパンタワー」と言っているが本当にシャンパンタワーを作ってホストに貢ぐらしい。

ばからしい。

そしてテレビに出てくるそのホストの人たちを見てみると、どう見ても話もしたくないようなアタマの悪そうな寝癖がついたまんまみたいな髪型の浅薄な顔ばかりならんでいる。なんであんなやつらと酒を飲むのに何十万も使わなくてはならないのか。

まあ他人の金だからいいけど。

そうなのだ。療育に金をつぎ込む人も同じ。

なんであんな療育に金をつぎ込むのかわからない支援者・支援組織に大金を貢いでいる人を見たら

「ホスト遊びしてるんだな」と思えばいいのである。
たぶん「大金使って接待されている」という意味ではおんなじはずだ。

ところで

SSTは無駄だと思ってきた私ですが、だいぶ「なぜ無駄なのか」言語化できるようになりました。これは一回まとめて固まったら電子書籍にすると思います

社会性とは何か? っていう話。
それはね、「友だちできない」とか「ごあいさつできない」なんていう生やさしいもんじゃないんですよ。到底療育で育てられるもんじゃないんです。社会性養いたければ、まずは人間に育てること。親がホスト遊びするほど情弱ならまず親から社会性育てた方がいいんじゃないの~。

お楽しみに。

あるギョーカイに洗脳された夫婦のこと

2018-05-24 06:00:19 | 日記
減薬っていうのは大変なんだなあ、とちゅん平さんを見て思ったのだが、考えてみれば人生の半分以上薬をのんでいたわけである。それでも減薬中会社に事情をきいてもらい休ませてもらって、体調もよくなり、昨日から仕事に復帰したそうだ。何しろ使える人材なので、復帰は諸手を挙げて歓迎してもらったようだ。特性理解とかなんとか言うけど、別にふだん特別な配慮をしてもらっているわけではない。何度も書くが障害のある人にとって職場での一番のサバイバルスキルは「仕事において有能なこと」なんである。身も蓋もないけどこれが現実だ。どうせ曲芸レベルのSSTを教えるくらいなら、仕事ができる人間に育った偏屈者に育った方がサバイバル力は高いだろう。まあちゅん平さんの場合は偏屈どころではなくハイパーりちぎだが。

それでも「休職期間」ということで私の方にトラウマがあった。もうみんな忘れてる、っていうかすでに当時を知らない人も花風社クラスタになっているが、『発達障害は治りますか?』が出た当時のベムの件である。ベムという自閉っ子父がいて、ギョーカイを熱烈に信奉しその思想に洗脳されていた。発達障害は一生治らずエビデンスガーで治すという概念に逆上した。自分は鬱が治らず、休職中であった。ヒマに任せて、薄汚い攻撃をいっぱいしてきた。私の講演先に妨害メールを送ってきたので担当の麻布署榎本刑事(当時)が任意の事情聴取に千葉県まで行って関係者に話を聴いてきた。これにベムは慌て、ツイッターに鍵をかけてウソを言っているのは浅見の方だと仲間にいいわけしていたらしい(鍵の中のことだから私は詳細知らず)。私は一貫して本当のことしか言っていない。ベムがやったことは事実である。そこでウソをついていたら後に民間人となった当時の担当刑事に本なんか書いてもらえるわけがないではないか。そしてベムは吉川徹同様、こっちが本名をつかむと黙り込んだ。そして「花風社にもいいことは起きっこない」と呪いの言葉を吐いて去った。それも負け惜しみである。あれからたくさんの治りたい人が花風社を発見した。

私はあれ以来、いわゆるメンタルの病気で休職する人に偏見を持つようになった。つらいならひっそりと闘病してくれればいい。そして治ってくれればいい。でも病気とヒマが重なるとこうやって人に迷惑をかけることになりうるんだなあと思った。発達障害は生まれつきの障害だから治らないと信じていても鬱は生まれつきではないんだからさっさと治してほしい。ちなみにベムは身体アプローチを口を極めてけなしていたなあ。食育の概念もトンデモ扱いだった。障害のある子にしつけをするのにも一貫して反対し自分の子が人前で性器露出したエピソードをブログで面白おかしく書くという鬼畜父でもあった。間違いなく愛着の問題は抱えていてブロガーとして注目されるのが自己治療でもあり、それに息子のエピソードを利用しまくりであった。

どういう場で性器露出したかというと母親が親の会のパーティで司会している横でということだ。親の会活動に超熱心で地元でも有名なギョーカイママさんだったらしい。今はどうか知らないけど。我が子の発達より夫の鬱養生よりギョーカイが大事だという当時方々にいた本末転倒ママの一人だったようだ。ベムは鬱が治らず食育にも反対で毎日ダイエットペプシとカロリーメートがランチだったが大黒柱である夫にちょっとは脳みそに良さそうなお弁当持たせるよりギョーカイ活動を優先させていたようだ。

今回日大のアメフト部の子が試合に出たいという赤心を利用された事件を見て、私はギョーカイママさんたちが我が子を人質に取られギョーカイ人にこき使われていた様子をたびたび目撃したのを思い出した。親の会がすたれた今、ギョーカイの威光も減じた今、酷使されるママさんたちも減っているのだろうか。お母さんたちがもう少し家庭に注力できる環境ができていればいいなと思う。

いずれにせよ

・一生治らない
・エビデンスガー
・親の会
・しつけは残酷
・子どもはブログネタ

という前時代的なギョーカイの思想に見事に洗脳された夫婦であった。迷惑した。ああいう夫婦がもう二度と出てこないことを願う。

ベムは花風社には味方がいないと思っていたし潰れると思っていた。自分の会社の経費で帝国データバンクに照会かけたりしていた。会社にばれたらこれも横領ですな。業務に関係ない取引先候補でもないところに会社の経費で照会かけるなんてさ。トンデモないのはどっちでしょう。

おかげさまでベムがあれほど騒いで潰そうとした『発達障害は治りますか?』は現在も順調に版を重ねております。それとあのときの担当刑事さんが著者になってくれました。花風社への賛同者、賛同して治っていく人はどんどん増えました。昨日も懸案の自閉っ子の就職が決まったといううれしい知らせがあって、私は家で祝杯を挙げましたよ。

治るが勝ち。鬱も発達障害も。

ところで必死に私を潰そうとしていた頃、ベムにも吉川にも見えていなかったことがある。
私が身体頑健であることと身内との関係が安定していること。
周囲にそういう人が少なかったのかも。だから脅せば引くと思っていたのかも。

でも身体頑健で身内との関係が安定している人を潰すのは、とても難しいのですよ。

そして私がトラブルに遭ったときの対応方法は、『10年目の自閉っ子、こういう風できてます!』のマンガにあるとおり「強攻突破」で

「専守防衛、やられたら倍返し」がモットーだっていうことも

彼等は知らなかったんだなあ。

シリーズ おバカさん対応ガイド 治らない治らない編

2018-05-23 07:53:02 | 日記
身体アプローチでよくなった人たちは心優しいな、と思う。自分たちもこんなに良くなったのだから「治りっこない」とブツブツ言う人たちを見ると「やってみればいいのに」と思ってしまうようなのだ。私はと言えば、とっくの昔にそんな段階は突き抜けている。「治りっこない!」と涙目になっている人を見ると慰めたくなる。

安心したまへ。君たち(の子)は治らない。決して治ることはない。だから安心したまへ。

ただ治る人はいるんでほっといてくださいというところだね。決して「君も治れ」とは思わない。治らない自由はあるだろう。負け惜しみを言う自由もある。治った人を見てニセモノだとか。こちらはその負け惜しみを見てまたせせら笑うだけです。だって治るが勝ちだもんね。『発達障害、治るが勝ち!』にも書いておいたよ。

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 検証しないとやらないのなら、誰かが「治った!」と喜んでいる話だけではやる気にならないのなら、ずっと自分の信じる方法にしがみついていればいいのだ。「治った!」と喜ぶ人たちを、唇かみしめて悔し紛れに「どうせエビデンスがない」と言って自分たちの信じる方法にしがみついていればいいのである。そうしたら望み通り、「発達障害は治らない」ことを身体を張って証明できるだろう。

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いずれにせよ治らないと信じて治らないのなら、自分は正しいのだから堂々としていればいい。そこで負け惜しみが出てくるのは本当は治りたいんでしょうね(小声)。

なんとまあ、詰めの甘い仕事っぷり

2018-05-22 11:40:00 | 日記
今日は朝から自閉の神様が降りてきたので仕事していました。
あるところにさしかかって、「そういえば森先生がコメントくれてたなあ。あれは、びっくりした」と思った内容があったので引っ張ってきます。
「声を上げよう」にくださったコメントの一部です。
全体のコメントを知りたい方は「声を上げよう」に行ってくださいね。



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私を含めて、支援者は社会の人たちと同じ社会の仲間だと意識している一方で、社会の理解があれば…という発言をするのは、支援者が理解者で、その他の社会の人たちはあまり理解していないからもっと理解してもらおう…などと啓発活動をしているわけですね。

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そうかあ。啓発活動ってそういうもんだったのか! って思ったのです。
支援者はその他一般社会人より発達障害のことを知っている。そりゃそうだ。そういう意味なら私だってそうですよ。発達障害っていうとサバン的なものを思い浮かべる一般人多いよ。そして彼らに別に悪気はない。ただそういえば本人たちに失礼にならないと思っているの。ところがその話題は割合ご本人たちを傷つけたりするんだよ、っていうことは教えてあげたりね。そうすると「え、そうなの?」って意外に思われたりね。

そして「発達障害を知っている」という意味では、偶然支援の世界に飛び込んできて事業所から金出してもらった二日間コースの猫烏賊講座に出て修了書もらった程度の人でもそりゃ、今このとき東京駅で電車待っている任意のおじさんおばさんよりはちょっとだけ知識がありますよ。ましてやギョーカイのえらい先生だったらそりゃ普通のおじさんおばさんよりはずっと知識あるよね。

でもさ、啓発が支援だと思うなんて仕事の詰めが甘すぎる。社会人として。
だって「知ってもらう」だけで生きやすくなんかならないもん。
私はギョーカイ人にたびたび腹を立てていますが「彼らは悪意があるのではなく、能力がないのだ」と忠告してくれる人います。治さないのではなく治せないのだ、伸ばさないのではなく伸ばせないのだ、とね。「だからあんまりいじめるな」という含意とともに。この忠告を聴くと一瞬「そうか」と納得するんですがすぐその納得を忘れます。だって治せない伸ばせないのならもっと歯がみして悔しがれよ。自分の無力さを悔しがれよ。プロなら悔しがって試行錯誤して道を探るもんでしょうが。そのプロセスをすっ飛ばして「社会の理解ガー」ばっかりやっているんだもん。

つまりギョーカイが啓発活動で支援した気になっているのは、社会人として、仕事人として、詰めが甘いんですな。納得した。森先生教えてくれてありがとう。

そしてその点やっぱり、栗本さんって治す以外になんの取り柄もないおっさんで、それがよかったね。栗本さんが「社会の理解ガー」やったって一円にもならないし誰も話聴かないもんね。感覚過敏とか睡眠障害の治し方教えてくれるから、みんな我慢して他の話も聴くんだよね。中学生のときおニャン子クラブのコンサート(正確にはうしろゆびさされたい?だそうです)に行ったとか。

これはちゅん平さんが顔をしかめていました。