治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

名誉毀損と「治る」 その1

2017-11-29 08:51:56 | 日記
私が「治そう」という路線に走った大きなきっかけは、皆さんよくご存じのとおり私自身が「自閉症者の特性によって」法的被害を受けたことです。
もっともその前から、私自身赤本などを通じて「社会の理解ガー」をやりながら、支援の在り方に疑問を抱いていたのですが。
こんなに本人たちを甘やかし、恨みつらみを言わせておくだけで本当にいいのだろうか?
この人たちを「ありのまま」で受け入れる場所がいったい社会のどこにあるというのだろう?
そういう場所が増えることが、社会のために良いことなのか?
そしてあの事件をきっかけに、支援者たちの無気力を知り、路線を変えたわけです。
出会いがあり、数年経ってひとつのクラスタを形成するに至りました。

そうすると私が「治らないはずの発達障害を治ると言っているいかさま師」だと断じる人たちが出てきました。
私が何かの法律違反をしているのでは、というのがその人たちにとっての希望的観測のようでした。
私は事件化した裁判で、被告がなぜ「浅見は食品を売っている」と言ったのかがわからなかったのですが、健康食品的なものやサプリに至っては消費もあまりしない私にはそもそも、そういう効果のない物品を売って金儲けしている人の存在すら未知でした。
そういう人になぞらえられていたから名誉毀損だったのだ、と私はだいぶ後になって気づきました。
そして裁判で否定された同じ主張をせざるをえないほど、私のやっていることを気に入らない人たちがいるのを知りました。

最初は私の言っていることは暴論だから支持者はできないだろう、と言われました。
いつかは花風社はつぶれる、というのが彼らの希望的観測でした。
ところがどんどん支持者が増え、その人たちの口から「治った」という実感が聞かれるにつれ、今度は「あれは違法だ」と思い込んで集団自己治療をするクラスタが出てきました。そしてどんどん数を減らし、数人規模になりました。

私は今回の本で「罪刑法定主義」について学び、日本では「法律なければ犯罪なし」であることそしてそれは「個人が個人を罰する」ことを禁止するものであること、そして違法なことをやっていない私を違法だと言い募る人がいたらそれは名誉毀損に問えることを知りました。
個人が個人を罰する危険は、自閉症の人にありがちだと思いましたが周辺の人たちにもそのリスクがあるのを知りました。
けれども、私に罪がないのなら、私を罪人であるかのように言う人はリスクを冒している。
そこで観察することにしました。

彼らはなんとか法違反ではないかとかぶつぶつ言っていましたが、どれひとつあてはまらない。と同時に、彼らはとにかく「治る」という考えが邪魔で仕方なくて、それを主張する(と彼らが思っている)私が大嫌いで、私に支持者がいるという事実を受け入れがたいだけで、実は私が作った本を読みもせずなんとかこの世から消えてくれてないかと望んでいるだけなのを知りました。
読んでいたらしないような思い込みを持っていたからです。
彼らが上げる罪状について、私はどこから見てもセーフでした。
そしてそれは、別に、「おまわりさんにつかまらないように」気を付けていたからではありません。
なんの屈託もなく「治ってほしい」という赤心をベースに出会った人たちと本を作る。
それを読んで喜んでくれる人がいる。
それだけの話だったからです。

そして、私は気づいたのです。

なぜ彼らの批判が的外れなのか。
それは実は私は「治る」とは言っていないからです。
それに気づいたのです。

へ? と思うアンチの皆様もいるでしょうけど
花風社クラスタの中にも「え?」と思った方がいらっしゃるかもしれません。
「でもうち治ったよ?」とお思いかもしれません。

だったらよく読み直してみてください。
花風社の本は一度も「こうやれば治る」というノウハウを提供してはいないことに気づくはずです。
そしてそれは「法的リスクを避ける」ためではないのです。そんな心配は私、最初からまったくしなかった。
ただ私は「どうやったら治るのかな?」と思い続けてきただけです。
そしてその結果は、ノウハウの提供ではなかった。
そういう本づくりになっているのです。




コネがある

2017-11-28 10:48:27 | 日記



角界の事件と、「元刑事が見た発達障害 真剣に共存を考える」が同時に進行していたので、いろいろ考えることが多い日々でした。
今度の本もすごく勉強になりました。
榎本さんご自身が知能犯担当、ということで名誉毀損や業務妨害の項が長くなり、それを縮めるかどうかの検討も含めかなり脳みそ使ったのですが、名誉毀損や業務妨害を通じて「犯罪」とは何かがより明確にわかるようになった気がします。名誉毀損と窃盗は、基本的に変わらないところがあるのだなあ、とわかったのです。
もちろんその基本となるのは警察法。「おまわりさんはどんなときに動くか」なのですが。9月23日の講演に出た方はおわかりですね。愛甲さんはあの部分を「目からうろこ」だとおっしゃっていました。どうぞお楽しみに。

白鵬関の優勝インタビューでの言動が話題になりました。
まず「力士代表としてお詫び」という発言。
力士代表っていうか、その場にいたので当事者ですよね。お詫びなら当事者としてしてほしいです。今場所も活躍した若手力士たちにはなんの責任もありません。
次に「日馬富士関と貴ノ岩席を再び土俵に」「真実を話す」という発言。
現在明るみに出ている話が真実なら、日馬富士関が土俵に帰ることはまあないでしょう。そしてこれから事情聴取を控えている白鵬関は「日馬富士関が土俵に帰れるような」発言をなさるおつもりなのでしょうかね? と疑問を抱かせる危ない発言でした。もっとも鳥取県警はすでに物証も抑えているようですから、物証と矛盾のない発言こそが「真実」なんですけど横綱の口からそれが聞けるんでしょうかね。逆に物証と横綱証言が食い違っていたら悲しいことですね。

元朝青龍のドルジ氏が「モンゴル大統領と安倍総理を会わせればどうにかなる」的な動きを一時していたようですが、これも大いなる誤解にもとづいた行動ですね。三権分立の国では、総理が鳥取県警に一声かけて捜査内容が変更されるようならそっちが大スキャンダルです。権力が厳しく制限されているからこそモリカケなんかが問題になるわけで。そして権力が厳しく制限されているという意味では警察も同じ。警察権の濫用がおきないようにまた法律は精緻にできているもんです。

でも「朝青龍は未開のモンゴルの地から来てるから三権分立も知らないのか」とか馬鹿にしてはいられません、私たち日本人も。なぜなら「コネがある人の方が得」っていうのはみんなどこか心の中で否定できないでしょ? そしてコネのない人は、そこで恨みつらみを抱くかもしれない。生きづらさを感じるかもしれない。

でもいいニュースです。
コネでどうにかできる範囲は2、30年前より縮小してきてる。
よく考えたら昔は「どこどこに顔が利く」ことをまじめに自分の仕事の能力として誇っていたおじさんたちがいました。今そんなこと言ってたらイタい人です。

そういう世の中の移り変わりに支援者側が気づいていないと、当事者によけいな厭世観を吹き込むかもしれないですね。っていうか役に立たない奴隷道徳のSSTをするかも。「本音を隠し、叩かれない」ことこそ処世術だと教えるかも。そしてそれに沿うと、貴乃花親方のやり方はアウトでしょう。でもあれが正しいんです。今親方を処分したら私は日馬富士引退より先に相撲ファンを引退するつもりです。

世の中、よくなっているところもたくさんあるんですよ。

というお話を鹿児島で今週末にするつもりです。

*写真は昨日、母のお誕生日にランチで行った鰻屋さん。この歳で鰻屋さんでお誕生日祝は健康の証。ありがたいです。そしてなんと母と榎本氏はお誕生日が同じ、40歳違いでした。ご縁を感じます。

絶縁していい親

2017-11-24 14:14:10 | 日記



暴行事件を受け、画伯も九州場所(観戦を)休場したようですが
私はフル参戦しています。
っていうか相当お相撲関連に脳みそ持ってかれてる自覚があります。
まあそれくらい、ショックなんですよねやはり。

私は今回、貴乃花親方を支持しています。
親方のすべてを肯定はしませんが、支持しています。

変わり者だと言われ、協会の調査に協力しないことを責める向きもありますが
協会の調査協力には警察の強制捜査のような強制力はありません。
被害届が受理され捜査が進んでいるのなら、
被害側がそちらに情報を一本化するのは不思議なことでもなんでもありません。
とにかく身内のかばい合いを優先させ、大きな正義をその犠牲にする体質は
先日入ってきた長崎市の教師が児童の下半身を盗撮していた件(逮捕もされていないようです)でもわかるとおり、学校でもあるんでしょうし
日本のコミュニティの至る所にあります。そして生産性を下げています。
ギョーカイでも同じです。
専門家たちが権益を守るため仲の悪い同士でもなれ合いをしているから
治るものも治らないのです。その被害を受けているのは当事者の人たちです。


出てくる評議員等の面々の発言をきくに
この体質を変えるには孤高を貫く覚悟がある人じゃなきゃ無理だ、と思います。
年長者、これまでの伝統の中でやってきた人たちが嫌うようなふるまいをできる人じゃないと
あれだけのよくも悪くも伝統に固まった世界は動きません。
それを理解する人と理解しない人がいるのは、これは海に波が立つように自然な現象なのですが
実の親がテレビに出て小銭稼ぎをしながら、「もっとゆっくりやれば」とかしたり顔でお利巧ぶって言う。
平成の大横綱は本当に親には恵まれなかったんだなあ、と思うものであります。

こういう親だから絶縁されるんだろうなあ、と思いました。
ていうか絶縁していい親というのはこういう人だ、と思いました。

親方は立派に独り立ちできる人なので、絶縁できます。
でも発達障害があって、経済的に親に依存せざるをえない期間が長い人だと、金で親に主体性を売り渡されなければいけないようなことになって、資質も開花せず、治らないと思います。
そのためにもベーシックインカム方面の制度が整い
そして各地の発達障害者支援センターの中で、マシなところが出てくればいいな、と思いました。

就学相談について

2017-11-23 09:26:49 | 日記
大久保さんの記事。


就学相談の時期なんですね。

先日の大阪の講演で、休み時間に私たちの後ろの列(つまりお客様としては最前列)から聞こえてきた会話を思い出しました。
私の話が終わったあと。
「やっぱり支援級の先生の言うことを疑ってもよかったんだ~」(大意)みたいな感じのことを話し合っていた若いお母さまたちでした。
就労にはちょっと間があるけど、おそらく発達障害と診断されたお子さんがいて、将来どうなるのか心配で、そしてちゅん平さんの話を聞きにきたのでしょう。そして前座ともいうべき私の話が終わったところでこういう感想になった。

つまり、支援級にいるわが子が受けている教育を見て

・こんなに配慮がない!

方面の不満ではなく

・こんなに学習から(社会性・行動面においても)遠ざけられていいもんだろうか?

という疑問をお持ちの親御さんたちだったのでしょう。

その人たちに「支援級こそふさわしい」と言い切ってしまう人たちがいて、言い切れた時代もあったと思うんです。普通級で苦労するよりは支援級でペースを重んじられながら学習できる方がいい、という伝説がまだ信じられていた時代がありました。

その時代にはもう一つ伝説がありました。
知的障害のない・軽い子が落ち着いて勉強していずれ普通級に戻れる、そして進学し希望の職種につけるという伝説です。

どっちもウソだとわかった。
支援級へ行くのは片道切符だとはっきりしてきた。
そしてあるカテゴリーの人たちにとっては(知的障害がない・軽い)「手厚い支援を受けたほどグレーが黒くなる」ことがわかってきた時代が今です。

なぜか?
結局日本の教育のDNAは特別支援教育に受け継がれ、ベルトコンベヤーで効率よく数を裁くのがその本質になっているからです。

障害のない普通の子は「地方公務員養成講座」を受けます。
そして「長いものに巻かれることこそお利口」という根性を植え付けられます。
「大義を追求するのはバカのやること」と考え
「要領よく身内の論理に逆らわない」人間を育てます。

特別支援教育のベルトコンベヤーはどこに続いているかというと、「良きめんどり」です。
福祉のシステムに合うように育てる。
福祉の支援者たちが扱いやすいように育てる。
その教育を受ける人の範囲が発達障害者支援法によって広がったわけです。ギョーカイ大喜び。でも普通の社会で生きていけるはずの人たちが福祉の人々の生活の糧になっていく。それが特別支援教育の持つ一面でもあるわけです。

ここから抜け出すのはどうすればいいか?

それは、普通の公教育を受けながら地方公務員メンタリティを身に着けず、それ以外の仕事について立派にこなしている多くの人たちを見習えばいいのです。
つまり、主体性を持つことです。
制度の欠陥をよく意識しながら主体的に制度を利用することです。

そして中には、どんどん特別支援教育を卒業させている先生や学校もあるようです。

そういう学校だったらいいのかもしれませんが、まあ先生は異動もあるし。

親御さんが主体的に就学に取り組み、そしてお子たちが一日一日のストレスを解消できる身体づくりをすれば「特別支援教育の害」を最小限にとどめることができます。

私の中の日馬富士問題【暴論・力作・長文】

2017-11-21 10:47:06 | 日記
相撲ファンの中には観戦そのものを休場する方もいるようですが、角界を揺るがせている日馬富士問題。稀勢関がようやく休場しましたので、私も初めて口を開く気になりました。


あ、稀勢関に関しては、これまでも苦しみながら見守ってきましたので横綱になってもなお私たちをはらはらさせる資質を存分に開花しているなあ、という感想。大関になるまでも苦しくて大関になったらラクだと思っていたら今度は成績安定抜群なのになかなか綱取りできなくて横綱になったら安泰だと思ったら初めての大怪我。でも考えてみたら、大関時代にこの大怪我していたらとっくに平幕に落ちていたのですから、強運だということさえできます。どこかで開き直るしかないと思うのですが、来年もまた私たちをはらはらさせてくださるようお待ちしております。まる。

さて、日馬富士問題です。
私は皆さんご存知のとおり相撲ファンであると同時に版元で、そして犯罪被害者で、そして自分の事件の担当刑事だった人と一緒に本を作っているタイミングで日馬富士事件は起きました。

9月の講演に来てくださった方はおわかりでしょう。警察がどういうときに動くか。動かなければいけないか。そしてこのケースは完全にアウトです。日馬富士関のやったことははっきりと警察沙汰です。実際に被害届は受理され、そして鳥取県警の捜査員が国技館で任意の取り調べをしました。

今は国技館本場所中ではないから神は降りていないのかもしれませんが、国技館は聖地。そこで取り調べなんてすごく私はいやでした。万が一そこで逮捕なんてことになったら聖地がけがされて大変。と思っていましたが八時間の取り調べのあと日馬富士関は警察の車ではなく自分の車で出てきました。それをNHKが中継したことで「ワイドショーかよ」というツッコミもありましたが、私は「日馬富士が自分の車で出てきた」「国技館で逮捕が起きなかった」とほっとした者であります。

貴乃花親方が協会に相談せず被害届を出したことを協会内外で問題になっているようですが、これが私が生涯かけて戦ってきた「大義より身内の論理を重んじて恥じない地方公務員メンタリティ」です。学校で習うソーシャルスキルもこれだから私は「教師は人の道を説くな」と言っている。でもその洗脳に染まった人は多いから、「協会のメンツより日本国の刑法を順守する方が大事」というしごくまっとうな考え方に違和感をもつのでしょう。でも私はこの点断固、貴乃花親方を支持する者であります。

エビデンスガーの人にはバカにされていますが(そしてこっちもバカにしているのですが)私は生理的感覚をかなりあてにする者であります。なぜなら、生理的感覚で判断するとだいたい道を誤らないからです。そして生理的な感覚を言ってしまうと、伊勢ケ濱親方より貴乃花親方の方が「まだ」信用できます。それと、日馬富士の張り手は土俵の上でも大嫌いでした。正当な戦い方だし、小柄な横綱だとは言え、あの張り手は獣的で嫌いでした。だからそれが酒席で、しかも道具を伴って行われたらしいとなると、これは心情的にもアウトです。

まあ心情は棚に上げておきましょう。

私は今回の本を作っていて、「日本の国がなぜ近代警察を急いで作ったか」を知りました。それは、外患を防ぐためだったそうです。

維新後の日本は、清国同様列強に切り刻まれるリスクがありました。そんなとき法律がなく、その施行があいまいで、私の刑が横行するような状況では列国につけこまれます。生麦事件は実際、薩英戦争のトリガーを引きました。これは大名行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が切り捨てたわけですが、それが野蛮だとみなされたわけです。いや、野蛮だと「因縁をつけられて」イギリスに戦争を吹っ掛けられたとも言えます。つまり、「人の命を奪うにはデュープロセスが必要」という大原則を無視して「私の刑」を行う分子が国内にいると、外国からリベンジの名のもとに戦を吹っ掛けられるかもしれないわけです。まだまだ体力のない明治初期の日本は、この事態をどうしても避けたくて福沢諭吉その他をヨーロッパに送り視察して近代警察を作りあげたわけです。「取り締まり」という訳語は福沢訳だそうです。

そうやってできた近代警察の父、川路大警視という方は(全部榎本さんの受け売りをもとに私が本で得た知識です)「警察は薬餌」と言ったそうです。つまり、軍がいくら対外的に武器を持っていても、国の中に病があれば倒されてしまう。警察は国の中の病を治す役目をもって任じていたというのです。

そして今回の本を作りながらわかったのですが、警察がその活動で何を保障しているかというと、人々の自由な活動を保障しているのです。
なぜ自由な活動を保障しているかというと、人々の自由な活動こそが社会に潤いをもたらすものだからです。
警察は違法を取り締まるから、皆さんは自由な活動をして社会を潤してください、ということです。

私は出版活動をしていました。自由な合法的な活動をしていた。
それを非合法だと誹謗中傷する人がいた。
「自分の好みに合った世界」と「よい世界」を混同した人が、「自分にとって気にくわない活動をしているには非合法に違いない」と思い込み、その思い込みを公然にした。そして名誉毀損で有罪になりました。
そして私はまた、自由な活動ができます。そこには「自分は被害にあった。でもギョーカイは死んだふりだった」という経験値が積み重なり、「治そう」路線が生まれました。そして今私は自由に「治そう」路線を展開しています。
それが非合法だと思う人がいるならば、きちんとデュープロセスをとればいいのです。私はとったのですから。
その前に「自分は『自分好みの世の中』と『良い世の中』を混同していないかどうか」たしかめることをおすすめしますけど。

私のやり方はある人たちにとっては不快かもしれません。
乱暴で愚直かもしれません。
実は一途に「治るといいな」と思っているだけ。それをわかってくれる人もわかってくれない人もいます。
わかってくれない人がいる現状を見て、もっとお利巧なやり方ができる、とアドバイスしてくれる人もいます。
でもそのアドバイスをする人たちの誰一人として、私のようにがむしゃらに改革する気のある人はいません。みんなテレビで将棋盤を眺めながら「自分ならもう少しうまくやる」と指一本動かさずうそぶいている将棋愛好家みたい。評論家根性。いくじなしで薄汚い。そういう人の言葉が、愚直で一途な人に届くわけがありません。
そういう意味でも私は、貴乃花親方バッシングに違和感を感じるものであります。貴乃花親方のすべてを肯定しませんが、もしお相撲を愛してやまない親方の真意が「協会の都合より日本国のなかで合法的な活動を力士もすべきである。それこそが相撲を守る」という点にあったとしたら、賛同します。

それに対し元朝青龍のドルジ氏が「モンゴル人の間で話し合えばすむこと」的な発言をしていましたが、おそらくモンゴル人にはモンゴル人しかわからない仁義があって、その点で貴ノ岩関が何か先輩の神経を逆なでするような言動があったのかもしれません。私は、稀勢の里が横綱に昇進した貢献者の一人が貴ノ岩関であることを思い出しました。初優勝したあの場所の十四日目、白鵬を押し出す貴ノ岩を思わず溜席で立ちあがりそうになるのをこらえながら正座で応援していたのですから。貴ノ岩が白鵬を押し出した瞬間ーーつまり、稀勢の里の優勝が決まった瞬間ーーはついに膝で立ちました。そしてそこに座布団がたくさん飛んできました。痛かった。でもうれしい痛みでした。
今回は白鵬が貴ノ岩をお説教していたのが引き金だったようですが、あれが「逆なで」だった? まさかね。

ガチンコ力士貴乃花親方の弟子である貴ノ岩は、モンゴル力士の集まりとはふだん一線を置いているようです。稀勢の里の師匠である故・鳴戸親方(横綱隆の里)も、他の部屋の力士との交流を制限していたようです。すごくわかります。私も金輪際ギョーカイ人と仲良く酒なんかのみたくないし(議論はウエルカム)、およそ主義主張の合わないはずのギョーカイ人たちが仲良く写真を撮ってSNSにのっけているのをみると「さみしがりやさんなんだな」と思いますもん。まあこれも、「大義より身内の論理」を同時に学校で刷り込まれる「友だち原理主義」の賜物かもしれませんが。

まあその友だち原理主義はモンゴル人の強いお相撲さんたちの間にもあって、何か貴ノ岩関が先輩たちの神経を逆なでして、そして日馬富士関が「私の刑」を行い、それをドルジ氏が援護射撃しているのだと思いますが。

日本では「個人が個人を罰することはできない」のです。
デュープロセスが必要なのです。
それは島国である日本が、列強から身を守るために明治維新後築き上げた法体系なのです。
警察は薬餌。
ここも「治す」です。


☆☆☆☆

私の発狂ポイント その2

2017-11-18 11:19:12 | 日記
さて、発狂と言う言葉はポリコレではないんだろうけど一人称に使う分には以下同文。

で私の発狂ポイントその2です。

愚直で一途な人を弱虫がそろって叩くのが嫌い。

たとえば何か見解の相違等から合わない相手に攻撃されたとき反撃しているとバカ扱いする人はこう言いますね。「相手にすると同じレベルになってしまう」。これが嫌い。ハナから相手をバカにしているという理由が一つ。もう一つは本当の理由は「相手にしているほどエネルギーや実力がない」なのにその事実から目を背けて上から目線に逃げるから。

同じような言い分に「人を呪わば穴二つ」とか「怒りは敵と思え」とか、とにかく直情をバカの属性にして言いたいことも言わないことをお利巧の属性にして自分はお利巧のつもりでいてそれでも気が治まらないもんだからぶつぶつ言ってるのが嫌い。

「長いものに巻かれろ」的なアドバイスする人が大嫌いです。社会人の最初の時期、女性にこれをさんざんやられて女嫌いになりました。そのままでは損をすると言われましたが、仕事にも家庭にも恵まれている今の状態が損した帰結なら相当上等な損ですわ。まだ若いからわからない、年をとればわかる、と言われましたが、五十を過ぎてもわかりません。「長いものに巻かれろ」的なアドバイスをされると、それまで敬意をもっていたとしてもその敬意がすべてなくなる。吉川をこれほど憎むことができるのはしょっぱなにそれをやられたから。「影響力のあるブロガー(そらパパのこと)とは折り合った方が」みたいな薄汚いこと言われて吉川が大嫌いになりました。私に言わせると、影響力なんかの前に信条を屈することは卑怯。金の亡者。そんなもんになれと私に命じた吉川は言語道断に生意気。私は「影響力のあるブロガー」と折り合うより「治りたい」人に対して「あのブログあてにしてるの? あんなに治ってないのに?」と疑問を呈する方を選びました。そうやってすみ分ければいい。治りたくない人は一生影響力を受けて芋づる式に治る代わりにそらまめ式に治らなければいいのです! 自分で選んだ道なんですから。

さて、先日の大阪の就労支援フェスタにご参加くださったnanokaさんがコメントでこう書いてくださいました。

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浅見社長のお話から自閉っ子を治してあげたいと言う気持ちがひしひしと伝わってきました。

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本当、赤心なんですよ、最初から。

最初は社会性の障害とか聞いた。それは治りにくそうだと思った。やがて身体症状をいろいろ抱えているのに気づいた。それが社会性に相当影響しているだろうと推測がついた。私は出版界という変人でも許される社会で暮らしていたから社会性の障害なんていうのは大したことじゃないと思った。でも感覚過敏や睡眠障害や季節に翻弄されるところさえ治せば社会には出られるだろうし、身体が調子よく社会に出たら一次障害的なものも治っていくだろうと思った。そして本を出して提言してみた。やってみた人たちがいて幸せになっていった。

それだけの話なんですよ。

私が目先の金なんかにつられていたら今の仕事はできなかったのです。
目先の金につられないから今の仕事ができているのです。
そしてどうして目先の脅しつられなかったかというと「こういう薄汚いアドバイスは無視した方がうまくいく」という経験値を積んできたからです。

『発達障害、治るが勝ち!』から引用してみましょう。

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 最初に私の中にあったのは、
・発達障害の人にも働く人になってほしい→それなら週に五日働ける身体になってほしい
という「赤心」であった。自分自身、たいして才能もなく人あたりが良いわけでもないけれど仕事に恵まれてきた。それは体力があって一生懸命働くからだろうという自覚があった。働き者を拒絶する職場はない。だから働き者になれば発達障害の人もサバイバルできると思っていた。
「週に五日働けるようになるためにはどうすればいいか」という問題意識が次々に知見を持った専門家との出会いを呼び、自分の機動力を活かしてそれを本にした。読んでくれる人が増えて、治る人が増えていった。ネット上での攻撃により裁判を抱えたためブログを開設し(http://blog.goo.ne.jp/tabby222)、著者の講演会を開いたり招かれたりして読者と様々なチャネルで交流するようになった。そして、専門家がどう言おうと本当は治りたかった人、わが子にできるだけ自立度が高く幸せな人生を用意するためできることはしたいと思っている人の多さを実感した。花風社がその選択肢のひとつになりたいと思ってやってきた。
「改善するけど治りません」という専門家の言葉に煙を巻かれていたのは私だけではなかった。それでも、なんだかおかしいな、とうっすら感じている人たちはいた。だから思い切って声をあげてみたら、意外と仲間が多かったというのが実感である。

=====


「直虎」はほとんど見ていないけど、私はあの辺の戦国武将って生き方としては全然だめな人たちだと思っています。ちょうど信康を殺す局面らしいけど、ボスにいい顔したくてわが子を手にかけるって何よ。そうやって人間よりお家大事にしてきた愛着障害がここまで続いてる。そして他人の顔色ばっかり伺うことが処世術だとカンチガイし、それをえらそーに説く人がいっぱい。
私はそういう人のアドバイスは一切聞かないし、そういうアドバイスした相手は卑怯者認定してずっと敵だとみなします。

そして私の原点は
「なんとか週五日働ける身体になってもらいたい」→そうしたら社会に出られる→そうしたら様々な社会性の学習ができる

なんです。
そして「人間脳の根っこを育てる」以降

週五日働ける身体→やりたいことができる身体

へと目標が進化していったのです。

nanokaさんのように原点の赤心をわかってくれる人も中にはいるのです。
っていうかおそらくアンチの皆さんが思っているよりは相当多いのです。

支援があれば支援があれば

2017-11-18 09:36:34 | 日記
さて、発狂という言葉はポリコレじゃないんだろうけど一人称に使う分には以下同文で私の発狂ポイントを書きます。
その1を思い出してみましょう。
誰かの主体性が毀損されているとき私は発狂します。
そして先日の大阪の講演で藤家さんの話を聞き
第一次めんどり危機
第二次めんどり危機
に区別できることに気づきました。
第一次めんどり危機は、自閉症支援に特化しているはずの支援組織が、その特化が行き過ぎてしまい、藤家さんの人権無視のレベルまで行ったとき。おそらく人間である前に自閉っ子に見えてしまうのでしょう。その結果部屋探しも一人でさせない。親にも面会を禁じる、というようなまるで罪人扱いにしたときです。


そして第二次めんどり危機は、藤家さんがB型就労で体力もつき働き者としての真価を発揮しだし、それでも支援者が全く仕事をもってこず、藤家さんが自ら職安に乗り込んだ時職安の職員が門前払いしてそれをB型にちくり、B型と職安で藤家さんをB型に閉じ込めようとしたとき。
改めて「30歳からの社会人デビュー」を読み直してみてください。

この二か所の関所を突破しなければ今はありませんでした。
皆さん、よーく覚えておいてください。
支援者の壁を倒していかないと、一般社会には出られない。それが高機能な人をとりまく現状でもあるのです。

私は当日、会場アンケートをしました。
それは皆さんに誤学習に気づいてもらうためでもあります。
「支援があれば生きやすくなる」という誤学習です。
「この中で発達障害者支援センターがあって助かった! という方いますか?」
挙手を募りました。結果はゼロでした。
発達障害者支援法のキモだったはずです。各地に発達障害者支援センターは。
でもとりあえず、「あって助かった」人はいないかとても少ないのです。

後日、知能検査取るだけ取ってもらってそれは助かった、という人がいました。
おそらく発達障害者支援センターの方は、そこまでが仕事だと思っているので、なぜ役立たず呼ばわりされるのかわからないかもしれません。
でもそれは、自業自得でもあります。
「支援があれば生きやすくなる」というプロパガンダを広めたのですから。
それを信じているからこそみんな、「レッテル貼られただけで、あと役立ってくれない」支援者に不満を抱くのです。
「本当は支援があっても生きやすくはなりません」という事実を知れば、支援センターに期待もせず、そして、失望もしないのではないでしょうか。
結局生きやすくなるのに必要なのは、自分で選ぶこと、なのです。
そしてそれは、支援である場合もあれば、支援ではない場合もあるのですから
「支援があれば生きやすくなる」はとくに成人支援の場合、ウソなのです。

たぶんほめられた!(大阪市障がい者就労支援フェスタご報告)

2017-11-16 07:38:31 | 日記
昨日は9時前ののぞみに乗って大阪へ。
藤家さんは前日入って、都会の夜をエンジョイしたはず。
二人で「大阪市障がい者就労支援フェスタ」で講演です。

新大阪に着いてまずは両親との思い出の店でかやくうどん。
食いしん坊の私は、味の記憶が鮮明です。

そして御堂筋線に乗り、梅田から東梅田への乗り換えに成功。ドヤ顔。
会場につき、主催者さんとご挨拶し、えっちらおっちら担いできた280部の自閉っ子通信をお渡しします。事前に送ってもよかったのですが、毎日毎日参加者が増えていく状況だったので、持ってきた方が早いと思って。しかも六割が当事者だそうです。だから張り切って運びました。でも重かった~。よそいきですが、リュックで運びました。

まずは私の講演。
藤家さんの評するところ「フルマラソン走ってしかも勝った感じ」。
やりきった感がしました。

地元の支援者の方に「言いたいこと言って・・・ほんまに東京の人ですか?」「大阪の血は入っていませんか?」「今度は全編あれ大阪弁で聞きたいわ」とか言われたのですが、たぶんこれはほめられたのだと思います。大阪行って、大阪の人っぽく思われたのなら近しさを感じてもらえたのでしょう。

「親ならば治ってほしいと思っていい」と言ったとき号泣していた人たち。「発達障害のわが子に何をしてやれば」という質問に「まずは一緒に楽しく遊んであげてください」と応えたときほっとしたように安堵の表情を見せた人たち。その人たちに向けて、私は仕事をしているのです。

次に藤家さん。
今目の前にいる健康な女性がかつて二時間ボールペンの組み立てをしたら倒れて養生期間を取らざるを得なかったなんて、皆さん信じられたでしょうか。でも本当のことなんですよ。最近は、ジムにも通っているんです。しかも運動したら気持ちいいんですって。
かつて私は「そんなに体力ないのならジムにでも行けば?」と言いました。そうしたら岩永先生が「脳内物質の違う自閉症の人は運動しても快感を感じないことがある」と教えてくださり、そこから違うのか~とびっくりしたのです。ところが今ちゅん平さんはトレッドミルで走ったりマシーン使って筋トレしたりして汗をかく快感を味わっているのです。しかも仕事の後で。立ち仕事のあと、それだけの体力が残っているのです。

何度も聞いているちゅん平さんの話を聞いて、これまで「第一次めんどり危機」と「第二次めんどり危機」を乗り越えてきたなと思いました。つまり、ちゅん平さんにもケージから一生出してもらえなかったかもしれない危機はあったのです。でも第二次めんどり危機のときに救世主のように現れた支援者もいた。だからね、いい支援もあるし、いい支援との出会いをあきらめてはいけないのだなあと思いました。

そして「一般の社会は大変だけど、支援の世界にいたら苦労しない」なんて嘘じゃん、と思いました。
支援の壁をぶち破らないと一般社会に出られないなんて、無駄な話ですよね。

最後には主催者さん「大阪市障がい者就業・生活支援センター」側から、センターを利用しても障害者枠にこだわらなくていい、というお話が出ました。そういう支援が今必要だと思います。



帰りは新大阪でひみつの先生とうどんすきを。一日二美々卯です。
ひみつの先生は今日の講演を聴いてすっきりしたと言ってくださいました。
「自傷他害をどう防ぐか」のお話をたくさん聞きました。
この先生と栗本さんに一回会ってもらうことにしました。

そして赤福と蓬莱のぶたまん&シュウマイ(シウマイじゃなくてシュウマイなのね)を買って帰途へ。

帰ってきたら横田めぐみさんのご両親がテレビに。

横田さんのおうちとは、めぐみさんご自身ともご両親とも年齢構成がほぼ同じです。
だから余計怒りと悲しみを感じる。
私が両親と過ごせた年月と、自由で豊かなこの国で暮らせた日々を思うと。

でも「福祉によるめんどり化」をしている人たちは、拉致監禁という意味では同じようなことをしている自覚はないもんでしょうかね。

お越しくださった皆様
主催の皆様
そして藤家さん

ありがとうございました。

お配りした「自閉っ子通信」、ぜひお役立てください。

相手にしてはいけない

2017-11-14 11:12:25 | 日記
YTの誹謗中傷が続いていたとき、こうしたり顔で言う人たちがいました。相手にしてほしくてやっているのだから相手にしてはいけない。考えてみれば、「問題行動は無視」がスタンダード()な療育なら、そういう考え方になるのでしょうね。

でもそれで被害はやまらなかった。
そうアドバイスした人たちはたんなる無責任。無能力です。

それと同じことが教育現場で起きているんだと思います。
自傷・他害をほっておく支援者たち。

考えてみれば、暴れている人を見て「相手にしてはいけない」「おかしいんだからほっておくしかない」って相当な差別感情から発していますよね。

私たちにはそういう差別感情がなかったから、相手にしました。
私の刑を下すのではなく、法治国家の中でデュープロセスを取りました。
だからこそ「ありがとう」とおっしゃる支援者や保護者もいらっしゃるのです。
障害のある人を対等に相手にしたから。

私が発達障害と犯罪をはっきりとリンクさせているのは、世に起きた大それた事件のせいではありません。

こまめに「殺してやる」メール等を受け取った時期があった。これは裁判の件とは別。とにかく言動が気に入らない人を黙らせるためにそういうメールを送ってくる当事者たちがいたのです。

アスペルガーを名乗る人たちから「殺してやる」メールが来れば、「アスペルガーは危険だ」と思うのが合理的な推論ではありませんか?

そしてその人たちの妄想(支援があれば生きやすくなる。社会の理解があれば生きやすくなる)を全肯定して接待する支援者たち。

この構造が犯罪を産む土壌になっていると思うのです。

自分の気に入らない人も誰かの役には立っている。
「自分好みの世界」と「よい世の中」は違う。

こういう当たり前のことを学習することは、ギョーカイ支援者に近ければ近いほど難しいでしょう。



個人が個人を罰することの禁止

2017-11-13 10:40:33 | 日記
井出草平著「アスペルガー症候群の難題」によると発達障害の人の性犯罪リスクは高いらしいのです。あの本はエビデンスベースドらしいので海老踊りの人たちはそっちを信じるのでしょう。

私の肌感覚では性犯罪に関してはむしろ被害の方が多いような気がしていたんですけど、それはトンデモなんでしょうね(真顔)。

さて、名誉毀損はどうだろう。
名誉毀損は私、被害者としてきちんと加害者が立件されて起訴されて判決も下ったという経験をもち、そのスタート地点、告訴状を受理して捜査してくれた人と今本を作っているわけですが、そこに名誉毀損や業務妨害の話はきちんと項目として挙がってきました。
知能犯担当だった人です。知能犯で扱うのは詐欺・横領・名誉毀損。
そのほかに宿直があって街中の署だったのでその間にありとあらゆる事件を経験なさったようです。

が、私は名誉毀損に関してこう感じていたんです。
私は「たまたま」名誉毀損の被害にあったけど、発達障害の人周辺でこの問題そんなに起きるのかな、と。

一方で割と最初から「罪刑法定主義」というのを習っていました。
これはとても大事なことらしいんだけど、今一つどういうことか肌身でわからなかった。
でも繰り返し繰り返し大事なことだと教わり、二週間くらい考えていました。

罪刑法定主義っていうのは「法律なくば、犯罪なし」ということだそうです。

といってたら元アナウンサーの長谷川豊氏が、選挙運動中にネットで住所をさらされたことに被害届を出して、不受理になったらしく、ブログで「こんなことでいいのか」と憤っていたようなんですが、これが罪刑法定主義だなあと思いました。法律なくば犯罪なし、だから警察としては動きようがないわけですね。

そして考えてみれば、ああだからYTは、そしてアンチの皆さんが今も「でっちあげ」に忙しいんだな、と思いました。

私はギョーカイが広めている二大誤学習が気に入りません。
二大誤学習とは
1 支援があれば
2 社会の理解があれば
の二つです。

一方で彼らがその誤学習を広める講演会をやっても邪魔はしません。
それは彼らの主張。
どっかの自治体が金を投じていても、私も確かに納税者だけど、納税者=金のすべての使い道に口を出せる ではない。
そんなことをしたら納税額が多い方が口を出せるとか、納税していない人は口を出せないとか、非民主的な世の中になってしまう。
よく自分の主張に合わない講演会が自治体の事業として開かれると「納税者だから」とドヤ顔して抗議に行く人たちがいますが、彼らは独裁者になりたいんですよ、要するに。すべての税金の使い道を自分の思うようにしたい。でも残念ながら、日本の体制の下では無理なのです。

講演会なんて行くも行かないも自由なら、そこで聞いた話を採り入れるも採り入れないも自由。行ったからって染まるとは限らない。第一ね、「発達障害、治るが勝ち!」にしたって私が幾多のギョーカイ系講演会を黙って聞きギョーカイ人と交流をしたその結果なんですからね。

私はギョーカイの主張が嫌いだし社会のためにならないと思っているし距離を取った方が自立に近くなるよと主張しているけど、ギョーカイ系の活動を妨害しないし抗議しない。むしろ出かけたりしてますよ。だってそれが自由な世の中でしょ。

共存っていうのはみんなが他人の顔色を伺って叩かれない発言をしているうちに本当に困っている人が置き去りにされるような気の抜けた言論しかのこらずプロ同士で飲み食いしている写真をSNSにあげて仲良しごっこする、なんていう甘いもんではないわけです。
それぞれ違った主張の人がそれぞれ仲間を見つけ切磋琢磨していく、それが共存なんです。

でもそこで、自分と主張の違う人がいると
しかもその人に仲間がいるらしいと知ると
「なんで? なんで?」で脳みそいっぱいになってしまう人たちがいる。

「なんであんな人を支持するのだろうか?」と疑問を持つこともあれば
「もしかして…私のしらない『おいしい』何かがあるのかも…? もしかして損しているのかも私…』というみみっちい根性から花風社クラスタから目が離せなくなってしまう人もいる。

つまり、真の意味で
「みんなちがって みんないい」とは思えない人たちなんですね。

気にくわない。
誰かに罰してもらいたい。
きっとあの人はなんかの法律に抵触しているはず。
そう思って「あの法律では取り締まれないか? この法律では取り締まれないか?」と脳みその無駄遣いをする。
どれもダメそうだと知ると、今度は罪状をでっちあげる。
あるいはしてもいない主張をしているとウソを振りまく。たとえば私が福祉を全廃せよといっているとどこにも書いていない主張を勝手に「浅見はこう言っている」と流布する。
そうやって「なんかこの気にくわない人物を罪に問えないか?」と考えるうちに、自分の方が名誉毀損だとか業務妨害だとかのリスクに近づいているんですね。
そう気づいたんです。



(言っときますけど、私のギョーカイ批判にはこの部分が全くありません。
私は彼らが言っていることのみ言っていると主張しています。
支援があればも社会の理解があればも彼らは言ってきたでしょう、さんざん)



つまりYTが私にやってもいない罪をかぶせて流布したのは

私がやっていることが合法的だったから。
でっちあげないと責められなかったからです。
今のアンチ諸君が「浅見が儲かるのがいや」というちんまい理由で本も読まないままウソを流布するのも要するに「でっちあげないと責められない」からなんですね。
でっちあげたいからあえて読まないというのもあるでしょう。
そしてますますなぜ支持する人がいるのかわけがわからない。
彼らがウソをつけばつくほど、私は別に悪いことをしているわけではなく、彼らの気にくわないことをしているだけだと証明されてしまうわけです。

考えてみればニキさんがこの辺の思考回路を見事に説明していました。
『自閉っ子のための努力と手抜き入門』から引用します。


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ニキ でも独裁者にはなりたかったんですけどね。

浅見 ああ、そうでしたね。自分のことお姫様だと思っていたんだもんね。いつか縦巻きロールが生えてきて、いつか王様になる予定だったのよね。

ニキ 施政をね、「私がやればうまくいく」と思っていましたね。

浅見 根拠は?

ニキ ない。単なる「自分の好みに合った世界」と「よい世の中」の混同ですね。自分のような考えが広まればいいと思っていた。

『自閉っ子のための努力と手抜き入門』P208より
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この「自分の好みの世の中」と「よい世の中」の混同。
これは自閉っ子あるあるですね。
というか
自閉っ子の親あるあるであり、自閉っ子の支援者あるあるでもある。

だったら「罪刑法定主義」ってやはりこの文脈でも大事だなあと思いました。
その目的のひとつは「私(わたくし)の刑の禁止」だそうです。

日本では
個人が個人を罰することはできないのです。
必ずデュープロセスが必要。
それが法治国家です。