治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

主役は藤家さんですよ

2017-10-31 10:10:44 | 日記
12月3日の鹿児島講演、最初に主催者様が企画された意図は、ふだん接している不安で頭がいっぱいのお母さんたちに希望を持ってほしいということで
そのためには現在の藤家さんを見てもらうのが一番、だということでした。
要するに主役は藤家さんで私は前座のはずだったのですけど
折しも新刊で出たばかり。ポスターに「発達障害、治るが勝ち!」がどーんと貼ってありましたので、二本立てにしていただきました。

こちらからごらんください。



藤家さんが最近この話(過去のつらかったころから現在に至るまで)を語るのは珍しいと思います。

レジュメです。

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「自閉っ子的明るい未来の切り拓き方」

1 幼少期の身体感覚
  ・生まれてくる力の弱い子
  ・パジャマでおじゃま
  ・能力の凸凹
  ・年ごとの発育状況
  ・身体が無くなるとは
  ・姿勢
  ・困ること
  ・ヘタレな自分

2 学校時代
  ・一番の悩み
  ・サボりの嘘つき 
  ・精神的症状
  ・内科的症状
  ・恥ずかしい思い
  ・大学進学という希望
  ・現実
  ・大学中退
  ・それから

3 働けるようになるまでの道のり
  ・学校時代にできること
  ・将来の夢と田舎の現実
  ・学校に通う意義
  ・限界とそれに立ち向かう強さ
  ・通信制大学
  ・卒業後
  ・やり遂げること

4 身体のためにできること
  ・芋本活用
  ・気持ちいいという感覚

5 私、治っている!
  ・治っているとは?
  ・個人的見解

=====

実は先日、画伯のおうちにデザイナーさんともどもお呼ばれしまして、画伯と奥様の美味しい手料理をいただきました。
そのとき「他の誰かになりたかった」以来藤家さんと直接は顔を合わせていないデザイナーさんに最近藤家さんがちょくちょく横浜のセミナーにやってくるという話をしたら、「え? ひとりで旅ができるのですか?」とか驚いていました。
当時しか知らなかったらそう思っても仕方ない。
そのあとも本は作ってるから、就職したこととかは知っているんですけど、あの藤家さんが一人で飛行機に乗って・・・とかはやはり実感がわかないみたいです。

昔を知っている人はそうなんです。

そこからどういう道筋を経てここまで来たのか。
ご本人の口からライブで聞きたい方はぜひお申込みください。


忖度SST

2017-10-30 10:36:33 | 日記
先日、母の家でテレビを見ていたら小池百合子氏が映りました。それを見て母が「排除発言で失速した。奢る者は久しからず」的なことを言ったのでびっくりしました。そしてそういえばこの人はこういう教訓的なことを言いながら私を育てたなあと思いました。そして皆さんもご存じのとおり、そういう教えは私の中で全く実を結んでいません。

希望の党が失速したのは排除発言ではなく、とにかく発表した施政方針のやっつけ仕事感と実現性の薄さが際立っていたから。つまり負けるのは「知ってた」。とにかく民進党を割ってくれたということで、私自身は小池氏を支持しませんが感謝するものであります。そして「排除」。あの発言でかちんときた人は多かったでしょうが、ほっとした人も多かったはずなのです。民進党を支持していながら左側の人に巻き込まれているのを歯がゆく思っていた人は「ああやっと分かれてくれた」と思ったでしょう。左右に割れて左側の方が勢いがあった、っていうのは最初から見えていたことだと思うのですね。もともとの民進党の支持層がそうだったのだから。

でもメディアは排除発言のせいにしておきたいでしょう。だって力を失いつつある中で自分たちの影響だとアピールしたいでしょうからね。そしてそれがワイドショーで流され、真に受けて「やはり口を慎まなければ」と誤学習してしまう情弱な人が一定数出るわけです。

育つ途上で何度もこういうこと言われたのに、一向に私が言うこと聞かなかったのはなぜかよく考えてみてわかったこと。

それは、実は「大して本気で言ってない」ことを見抜いてからだと思うのですね。

ワイドショーの受け売りにすぎないことを垂れ流しているだけ、というのが一つ。

そしてもう一つは、そういうことをしたり顔で説く本人も色々我慢している。そして若いもんにも自分と同じように我慢せよと説いている。
これ、私は社会人の初めのころからさんざん年上の女性にやられて、おかげですっかり女嫌いになりました。

どういうことか?

正しいことでも言うべきことは言う。でもそれをすると叩かれる、という世の中があった場合

「口をつぐんでいた方がいい」というのは「叩かれないための処世術」であって「正しい生き方」ではない。実はそういう世の中を自分でも憂いているけどそういう世の中を変えるよりは我慢する方を選び同じような我慢を教えているだけ。

それが説教される方には見えてしまっているのです。


だったら私は処世術より正しさを選ぶよ、という判断をしてきたんですね。

なぜなら私はあなた方ほど薄汚い生き方はしないから、と言ってきたんですね。
こうやって私は先輩たちに喧嘩を売ってきました。
でも心の広い先輩もいて、私はどちらかというと目上の人にかわいがられる方でしたよ。

心の狭い人たちには
「それだと損をする」とさんざん言われましたけど、その結果が今なら別に損はしていないと自分では思っています。

もともと茶色っぽい生徒の髪を黒く染めさせる。なんで? と思ったのですがどうやら当該の学校はいわゆる「底辺校」にちかい位置づけで、就職のためには黒髪でないと、という焦りが教師たちにあったらしい。そして管理教育が暴走して人権侵害状況に至った。

これなども実は教師たちもよくわかっていない企業社会を勝手に忖度して黒髪原理主義に走っているだけ。

そういう風に「大義」より「目先の損得」にとらわれてよく知らない世間を勝手に忖度してその忖度した奴隷道徳を教える。

これが巷のSSTのやり方にも通じます。

愛甲さんも言ってました。
子どものころ診断がついた子たち。遊んでいた子はなんだか治っていき、SSTをがっつり入れると思春期に崩れる。

当たり前の話だと思います。
忖度でこしらえた不安な世界観を植え付けているんですものね。



凸凹キッズの未来に希望を持っていい理由

2017-10-27 09:06:19 | 日記
12月3日の鹿児島講演。
第一部は私の講演でタイトルは「凸凹キッズの未来に希望を持っていい理由」。
第二部は藤家さんが子どものころつらかったときのことから働く大人になるまでのことを語ります。
大阪講演では藤家さん、主として就活の話になるようなので、子どものころの感覚過敏のつらさ、世界観が自閉だというつらさについて聴きたい方はぜひ鹿児島講演へのご参加をご検討ください。詳細はこちらです。
週末までには特設ページもできる予定です。



さて、凸凹キッズの未来に希望を持っていい理由。
これはいくつもあるのですね。
まずは社会情勢。
社会情勢から見て、おそらく凸凹さんたちは今後生きやすくなる道がいくつもできます。
社会を俯瞰すると、どう見ても未来は明るいのです。
ただしギョーカイでは逆のことを言うでしょう。
だからギョーカイではなく社会にアンテナを張っておきましょう。
というお話をすると思います。

あと大きいのは「学校と社会が違う場所である」のに
学齢期のさなかだとそれが俯瞰できなくて、ずっと苦しいのかと思ってしまいがちなことです。

最近はギョーカイの悪口に忙しくてあまり言わなくなりましたが、私、自閉っ子シリーズ時代は本でも講演でもネットでも学校の悪口に忙しかったもんです。

よく言ってたのが「教師は人の道を説くな」というの。

今にして思えば、それは「教師が持っている狭い世界観で子どもをジャッジしてあれがいけないこれがいけないとか言ってもそんなの広い世間では許されること多いよ」っていうもの。
社会では誰とでも仲良くしなくてもいいし、逆上がりができなくても居残り練習しなくていいし、掃除が始まってるのに埃の舞う中で給食食べさせられたりはしません。

それどころか

学校で叩き込まれるルール、たとえば
1 多数決はつねに正しい
2 誰とでも仲良く
3 金儲けは汚い

ってむしろ信奉していたら世の中わたっていけないわけです。これにはまってる自閉っ子は多いのよね。この三つを信じているからこそ社会に出られない・出るのが怖いわけです。だってこの三つは通用しない。この三つはね、私に言わせると地方公務員のルールなんです。

そして学校以外の場所でも支援って受けられるようになりましたね。
給付系のところもあれば、自費のところもあります。
そういうのを主体的に選択し利用できる時代になりました。それはとてもいいことです。

でも覚えておかなければいけないこと。

そういう支援先にいるのはまあ、普通のおじさんおばさんのことが多いです。そして学校の先生たちだって、先生である前に普通のおじさんおばさんです。
人間がおぎゃあと生まれて普通のおじさんとおばさんになるまでには、知らず知らずのうちに自分の限られた環境からある一定の価値観を身につけているものです。それは狭い狭い価値観であることもあります。
そして目の前に支援の対象としてやってきた子どもは、その価値観に合わないふるまいをするかもしれません。叱られるかもしれません。

でもそれぞれの資質は違い、その子がどうやって、どういう力を伸ばして世の中をわたっていくかは、親にだってわからないわけです。
どんな世の中が来るかも、親にはわかっていないことが多いわけですから。
そこでたまたま支援者である普通のおじさんおばさんの価値観に染められたら、その子はせっかくの資質を伸ばせないかもしれません。素直にアドバイスに従ったら、損をするかもしれません。

だからこそ、「教師は人の道を説くな」と私は言ってきたのです。
教師は学業を教えるのが本業なのではないでしょうか?
自分の狭い価値観で人格形成に踏み込まないでほしいのです。

それはおそらく、私自身が決して教師から見た「いい子」であったわけではなく
一方で教師から見たいい子になろうと自分を繕っている(と私からは見えた)いい子ちゃんタイプの人たちにむしろ反感を抱いてきて
社会人の初めのあたりまで、そのいい子ちゃんたちに何かと説教され
でも今になったら仕事にも家庭にも愚痴だらけのいい子ちゃんタイプの人たちよりむしろ、自分の好きな人と好きなことをやって食べていける幸せを手に入れたからかもしれませんね。
いい子ちゃんタイプの人たちにはむしろ眉をひそめられることの多かった私。へへんざまあみろ、という気持ちがどっかにあります。

かといって私が荒れる問題児だったわけではないと思います。
表面だけてきとーに学校に合わせながら、学齢期をやり過ごし、学校という機能から学力と学歴とこれから出ていく社会によって改変可能な社会性の原型だけもらって意気揚々と社会に乗り出した感じです。
この「学校とてきとーにつきあいながらやり過ごす」ことのできない人の多さに実はびっくりしています。学校の先生の言うことは話半分に聞いていればいいし、面従腹背でいいと思うんですけど。

そして社会は学校よりずっと優しい場所でした。ずっと学べる場所でした。
学校よりよほど、フェアに特性を見てくれる人がいる場所でした。
学校で学校だけに通用するルールを消化しきれなくて苦しんでいるお子たちには、社会の方が優しい場所だと知ってもらいたいもんです。
この辺は改めてニキさんの著作を読んでもらえるとわかります。
なんといっても、ニキさんと作った本たちが原点ですよ。

さて皆さんは

授業中床に寝転がってる子。

がいたらどうします?

栗本さんは「放っておく」と言いました。
榎本さんも「放っておく」と言いました。
学校の先生は得てしてこれを注意する。そしてそのとき「おかしいよ」という言い方をするそうです。二人は異口同音に「それがいやだ」と言っていました。私は「そうなのよね。学校はそこでおかしいよとかそういう言い方するのよね」と思いました。「他人から見たら変」が学校を始め多くの支援者の視点なんです。

たとえ放っておいても栗本さんなら寝転んでいる子を見て、その子が今自分の何を育てているか観察するでしょう。
榎本さんは寝転がっている子はそのままにしておいても、学校の先生や施設の職員が死んだふりしている自傷他害には現行犯の段階で介入するでしょう。っていうか、まず犯行を起こさせないようにするみたいです。

小学校二年生の定型の子は授業中床に寝ないかもしれません。
そして社会に出たとき床に寝ないほうがいいです。
でもそれは、発達の遅れがあるのなら遅れて育てばいい能力です。
二十四歳くらいのとき藤家さんは花風社にきても床に寝てました。
アラフォーになった今、立ち仕事を立派に勤めています。
将来床に寝ないためにこそ、今は床とつきあっているのかもしれないです。

そこで「おかしいよ」という「他人の目にどう映るか」を優先させていること自体
どこに出しても恥ずかしくない立派な地方公務員メンタリティなのです。
地方公務員が悪いわけではないですよ。
支援者も支援者である前に一人のおじさんおばさんとしての価値観を背負ってしまっているのです。
それを相対化することに自覚的である人は、あんまりいないようですね。自戒をこめて。

でもみんな、「ここは譲れない」があると思います。

私の場合だと

・自由に生きてほしい

ですかね。
そして私は自分の価値観に沿った本を出していいのです。
自分でリスクを取ってるし、民間人として選び選ばれる仕事をしているからです。
そして学校文化の中で、地方公務員養成講座を知らず知らずのうちに受けて苦しんでいる人たちに、自由というオプションを示しているんでしょうね。

だから花風社は、凸凹キッズが自由に生きるための本を出していくでしょう。

そして自由は

買えます。買える部分もあります。

そのためにも労働できる大人になることは大事です。

そしておまわりさんにつかまらないことも、とても大事です。

仕事の探し方

2017-10-24 09:06:48 | 日記
そういえばブログあんまり書かない時期にも、ひみつのお部屋では色々書いてましたね。
「仕事の探し方」について考えることが多かったのです。
きっかけは色々あった。

・マルチや猫烏賊に引っかかる人は(私には)思いがけないほどいるんだけどどうしてなんだ問題。

・数万円もする自己啓発セミナーとか誰が出るんだと思ってたけどそれなりに出る人いるらしいぞ問題。

・「異才発掘プロジェクト」の「育てにくい子は挑発して伸ばす」という本を読んだ話。

・公務員でも人事異動はいやなこともあるらしい、という話。

が渾然一体となって仕事観についてあれこれ考えたのですね。

これはひみつのお部屋に連載みたいにして書いたので、飽きちゃった。のでここにはつらつら書きませんけど、すごく簡単に言うと、世の中には
・誰かが作ってくれた仕事
に雇われる方法もあれば
・自分で自分の仕事を作る
方法もあり、誰かが作ってくれた仕事に雇われると安定がもたらされる限り誰と働くかどこで働くか何して働くかも選べないというお話。どっちかを選ばないといけないようだというお話。だから、自営を選んだ人が営業で苦労するのは当たり前だし、安定した雇用を選んだ人たちが一緒に働く人やときには仕事内容まで選べないのは当たり前だという話。

私自身のことを言えば、一緒に働く人と仕事内容を一から十まで自分で決めたかったので独立しました。そして二十一年前「誰もいらない会社を作ったなあ」と強く自覚していました。自分しか必要としない会社を、多くの人に必要とする会社に育てていくっていうのが起業じゃないかな。だから自営に乗り出して最初から「私の仕事は誰かが求めている」と目をキラキラさせている人を見ると牧歌的だなあと思います。なんでそんなに思い上がれるのでしょうかね。

でも世の中、「雇われる」という選択肢を選びたくなくて、あるいは選べる状況になくて、でもお金がほしい人もいる。そういう人がマルチとか猫烏賊とかに引っかかってしまい、でもうまくいくわけがないので(たいていは)、なんでだろうと考えたあげくに、「実力不足である」という事実から目を背けたいがためにたどりつくのが「お金に愛される」「なりたい自分になる」みたいなセミナーなんだろうなということです。そしてみんなで集合写真とってSNSにのっけてなんかが進歩した気になるわけですね。実際には一日に数万円払ってなんかきいてみんなで飲み食いしただけの記念なんだけどね。

実力を養う、という地道な方法ではなく「マーケティング」でどうにかなると思っている人が、その「マーケティング」を金で買おうとするのが各種猫烏賊講座だなと思ったわけです。

「マーケティング」がない人は生き残れない、かもしれないけど、実力がなくてマーケティングだけあっても生き残れないんだけど、そこでマーケティングだけ売りたい人がいて、「あなたのうまくいかないのはマーケティングを知らないからですよ」と甘い声でささやきかけ「実力不足」から目を背けてくれる、という仕組みが出来上がっているのだなあとわかってきたのです。

そして「異才発掘プロジェクト」の「マーケティング」は「異才発掘」で、私はそれが反日的で反感を抱いていたのだけれど、「実は異才など発掘するつもりはなかった」(でもああいう風にマーケティングしたので:浅見’s view)「カンチガイ親子が集まってしまった」と正直に告白しているのを見て「やっぱりそうなのか」と思った次第です。


そしてあのプロジェクトの目的は「この子たちはどうせ雇われるの難しいから自分で自分の仕事を作れる人に育てたい」と堂々と書いてあるので

だったら私みたいな人を育てたいんだな、と思いました。
そして私みたいな人は別にわざわざ不登校しなくても育つよ、と思いました。
これまでの日本の教育でもイノベーションは生み出されているし、不登校経験しなくても自分で自分の仕事は作れますよ。

というか、「異才発掘プロジェクト」みたいなことはきちんと登校している子に、普通に家庭でやっていることだとさえ思います。

つまり「不登校児上げ」になるのも「ポジショントークだなあ」と思ったわけです。不登校児を一人前にしたい人は、不登校児がいなくなると困るからポジショントークするよね。

ということで、またもや「発達障害、治るが勝ち!」を「ポジショントーク」で検索してみました。
十か所あるらしい。

そのうち最初のところを、前後かなり合わせて引用しておきます。

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「ありのままを受け止めることこそ愛」とギョーカイは言う。けれどもかわいいわが子だからこそ、「治るといいな」と思うことは間違いなのだろうか? 「治ってほしい」と思うこともまた、親としての愛情の表れなのではないだろうか?
 また発達障害を持って生まれた当事者にとっては、たった一度の人生なのだ。だったら「少しでも治れる方法があるのなら知りたいな」と思うことはいけないのだろうか?
 ギョーカイはこうした当たり前の親心、本人心にダメを出す。「治りたい」と願うことを奨励しない。「ありのままを受け止める」という美しい言葉のもと、実質ある種の諦観に達することこそ正しいと言い張る。
 なぜだろう?
 自分たちは治す手段を持たないから。
 治す手段を持たないけど、ずっと支援者として君臨していたいから。
 ならば「専門性」を振り回し、諦めてもらうのが手っ取り早い。

 十数年、こうした意識無意識の支援者の思惑にまんまとはまっていく人の多さを見て、「みんな素直なのだなあ」と感心してきた。
 本当は心の奥底で「治りたい」という気持ちがあっても押し殺していく。「みんなちがって、みんないい」が発達障害の世界でお互いを励まし合う決まり文句であるにもかかわらず、「治る」「治りたい」と表明する人がいると寄ってたかって叩き始める。社会に向かっては多様性を理解してほしいと訴えながら、発達障害の世界の中では「治らない」という一律な考えを押し付け合っている。
 というわけで「治ろうよ」と訴えてさんざん批判されてきた私である。そしてだんだん悟っていった。
「叩かれるから治るという言葉は使わないようにしよう」と悟ったのか?
 その逆である。
 本当は治りたい人がこれほど多いのに、蛇蝎のごとくこの言葉を嫌う人たちを観察し、気づいたのである。
 この人たちの発言。その多くは美辞麗句に飾り立てられている。けれどもよく見ると、ポジショントークである。さもなければ負け惜しみ。
 そして、ギョーカイ内で叩かれたくないがゆえに、大して自分の頭を使わず、えらい人が言うからというだけの理由で「一生治りません」をオウム返ししている層も実は厚い。本当に治るかどうかに興味はないのだ。ただ自分が仲間外れにならないため、保身のための「治りません」というオウム返しをしているだけ。
 素直と言えば素直だ。でも愚かだと思う。
 そしてその言葉を当事者保護者が鵜呑みにして、「治す」ことではなく「社会の理解」というものに依存していくと、本人も資質を活かせない。
 社会も得しない。自分も得しない。得をするのはギョーカイだけ。まさに「国破れてギョーカイ栄える」である。

 治った人たちを見てわかることがある。
 自分の生きづらさを社会のせいにしなくなったときこそ、治り始めるときなのである。

 ここで「治るとはどういうことか?」と疑問に思った人も多いだろう。
 それをぜひ、この本の中で説明していこう。
 あわせて、私がなぜ「改善」等もっと無難な(つまり福祉の世界でも叩かれない)言い方ではなくあえて「治る」という言葉を使い続けるかも説明していこう。

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多様性のお花畑

2017-10-22 09:27:20 | 日記
さて、しばらくブログが途切れていました。
時間的には忙しくないのですが頭的に忙しい。次の本と12月3日の鹿児島講演(新ネタ)の準備で忙しい。神田橋先生のところにいつか行きたいと思っていた方、鹿児島講演は藤家さんも子どもの時のつらかったころからしゃべるし私も新ネタなので鹿児島行くいい機会ですよ!

まあそれはともかく。
なんでブログの更新途切れたかというととくに書きたいことがなかったからで。
でも書きたいことが出てきたので再登場しました。

人間、いろんな側面を持っていて、たとえ障害児を授かった人たちだって「障害児の親」という以外に様々なアイデンティティがありもともとの生き方があり信条があったはずですが

たまたま子どもに障害があっただけで「多様性多様性」とか言ってその実本当には多様性を重んじていないお花畑に夢を見られる能天気さを疑うものであります。

だって多様性多様性言っている人が「薬をなるべく使いたくない」という一派が行政主導で講演開くと言ったら突撃したりさ。多様性多様性言っている割には自分と考えの違う人にものすごく偏狭ではありませんか。

このあたり「発達障害、治るが勝ち!」に書いてあったなあと思ったので引っ張ってきました。そしたらまあ、多様性という言葉は二十何回使っているらしいですよ、私。あの本の中で。

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「厳しい一般社会」と違い、支援者たちは、ちやほやしてくれる。無理も聴いてくれる。それはなぜかというと、支援者たちにとって、発達障害者はお客だからなのだ。
 そして一般社会はたしかに、発達障害者をお客さん扱いにはしてくれないかもしれない。
 けれども一般社会は、支援の世界よりずっと多様性を許容してくれる場所でもある。そして自分の決断したとおり、自分の脚で歩ませてくれるのは一般社会の方なのである。このことは心に留めておいてほしいと思う。

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 本当は心の奥底で「治りたい」という気持ちがあっても押し殺していく。「みんなちがって、みんないい」が発達障害の世界でお互いを励まし合う決まり文句であるにもかかわらず、「治る」「治りたい」と表明する人がいると寄ってたかって叩き始める。社会に向かっては多様性を理解してほしいと訴えながら、発達障害の世界の中では「治らない」という一律な考えを押し付け合っている。

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 発達障害関連の団体はよく「多様性を認める社会の実現」を訴える。だが、私の目から見ると、社会はそれなりに多様性を受け入れていると思う。初等教育の場はまだまだ集団主義が強いかもしれないし改善点はあるかもしれないが、初等教育というのはこれからどの道に進んでもある程度つぶしが効くようにしておかなくてはいけないから限界はあるだろうとも思う。少なくとも一般社会は、それなりに多様性が許されている場所である。
 だからびっくりしてしまうのだ。多様性を誰より希求してやまないはずである発達障害の関係者たちが「一律の選択」を仲間に強要したがることに。

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 ギョーカイの支援者たちは「一次障害は治らない」と言う。そして二次障害になってしまうのは「社会の無理解のせい」だと言う。二次障害を防ぐには「社会の理解が必要」で、二次障害を治すのには「周囲が配慮すること」が必要。つまりギョーカイの仕事はない。ならば自分たちが事業費をせしめるのではなく社会に金をばらまいた方がいい。実際に仕事をするのは社会なのだから。それを今のところ、「社会の理解が大事」と言うだけで支援事業費をもらっている。ギョーカイは好待遇を受けている。社会に感謝こそすれ恨むいわれはないはずだ。
 ところがこのプロ支援者たち、仕事もせずにお金をもらっている割には必死に汗水流して血税を納めている社会の皆様に文句ばかり言う。彼らが言う文句のひとつは「社会が多様性を許容しない」ことだ。社会がもっと多様性を許容すれば発達障害の人はもっと生きやすくなるそうである。そしてこれも大ウソである。

「改善するけど治りません」のように、よく考えたらつじつまの合わないフレーズを支援者はよく使う。そんなことがありえるかよく考えず、オウム返しで覚えてそのうち本気にしてしまう人がいるように、制度上は支援者の世話になっている当事者保護者の人たちは本気で「社会は多様性を許容しないところ」と思いこんでいるかもしれない。そうすると、進む道を誤る。
 社会は支援者が罵詈雑言を浴びせるよりずっと多様性を許容する場所である。少なくとも支援の枠組みという養鶏場でめんどりの生を押し付けられるよりはずっと多様性を許容する場所である。社会に出たら障害者枠では巡り会えないような仕事とも出会える。そして何より、支援者の世界では箸の上げ下ろしまでうるさくチェックされる。
 ソースは私、である。「治る」というごくふつうの言葉をひとつ使うだけでこれだけごたごた言われる。自閉っ子も努力が必要というだけでがたがた言われるのだ。こんな偏狭なクラスタ、一律な考え方を皆が共有することを当然視して同調しないと食ってかかる人々には生まれて初めて出会ったというのが正直な思いである。
 発達障害支援にかかわらない一般社会では、もっと「人は人、自分は自分」が保障されている。できるだけ早く支援が必要でなくなるように修行して、さっさと一般社会に出てしまえばそこの方が支援者の支配下にあるよりずっと多様性が許されている。

=====

 テレビ番組などで発達障害特集が組まれるたび、有名人が発達障害を告白するたびに「これで生きやすくなるのでは」という期待がわきあがる。その期待自体が、社会性の障害の産物だと思う。毎回、なぜこうも牧歌的な期待を持つ人々がこれほど多いのかと思う。
 まず、人が発達障害についての情報を耳にしたからといって、理解されるとは限らない。そして、理解されたからと言って発達障害を好意的に見てもらえるとは限らない。理解が進んだ結果、「発達障害の人は避けよう」という人だって出てくる。それこそが本当の理解であり、多様性のある社会である。多様性のない社会だから発達障害者が受け入れられないのではなく、多様性のある社会だから発達障害を理解しても付き合わないことを選ぶ人も出てくるのが当たり前なのである。

=====

すっごい多様性っていう言葉をよく使っていますね、私。

さて、私は期日前投票を済ませたので、台風も来ているし、ゆったりと、今日は「ちゃんとしたおでん」でも作ろうと思います。先日忙しい日に「手抜きおでん」を作ったのでね。いや、それなりにおいしかったけど。

信念と信念(大阪市障がい者就労支援フェスタ ご案内)

2017-10-20 07:12:48 | 日記







11月15日、大阪市にて「第29回、大阪市障がい者就労支援フェスタ」が開催されます。
今年は藤家寛子さんと浅見淳子が講師を務めます。

すでに藤家さんのしゃべる内容をもらっていますが、一言でいうと「ぴっちぴち」です。
支援の力を借りながら虚弱体質を克服し、そして支援に別れを告げるまでを追ってくれています。
就職を望む人たち、なんとか就職に結び付けたいと願う支援者の人たちにとっては貴重な情報です。
これを藤家さんは一時間でしゃべります。

その前に私が「発達障害者は発達する」方面の話をします。
私が概論、続く藤家さんが当事者としての話をする構成です。

URLはこちらです。




今回企画してくださった側には、並々ならぬ信念があります。
メールの引用を許可していただいたので、貼り付けますね。

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就職に関する相談に来た方々を「つなぐ」というのが障害者就業・生活支援センターの役割です。相談に来た方々を「障害者雇用枠の就職ありき」「障害者就労支援ありき」で就労移行などの福祉サービスにつないで行くことが多数派かもしれません。私もそういう時期がありました。

しかし「30歳からの社会人デビュー」を読んでから、就職に向けて(または職場での悩みを解決するために)「支援をどう『活用』して行くか」を一緒に考え、時期が来たら「支援は卒業して良い」と送り出す、という方針に変更しました。実際に支援をしている方々から苦言をいただいた事も、自分のあり方を見直すきっかけになりました。
藤家さんにとっての浅見さんのような存在が、私の目指す支援者です。

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今回の企画者の方は、就労支援はしていますが、当事者を一生抱え込むことには固執していないということですね。
自分たちが必要でなくなったらさっと身を引くことも想定しています。
そしてまさにそれを実践してきた藤家さんに生の声を聴きたいと思ったのですね。

「藤家さんにとっての浅見」とは、支援者というより年長の応援者。
つまり社会に出たら出会うナチュラルサポートです。
そういう立場を目指していらっしゃるのですね。

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平成20年から障害者就業・生活支援センターが大阪市から「発達障害者就労支援コーディネーター事業」を受託し、発達障害のある方の就職相談窓口として相談対応をしていますが、今もたくさんの方が診断を受けた後に「障害があるから就労支援を利用しなければならない」という思いで相談に来られます。

障害の診断があるから、障害者手帳を持っているから、障害者雇用枠の就職を目指さなければならない(そのほうがうまく行く)、就労移行などの支援を利用しなければならない(そのほうがうまく行く)。この思い込みを修正することから始まることが多いように思います。
棚ボタはないこと、試行錯誤と努力でしか結果は出ない、試行錯誤する手段の1つとして就労支援がある。それを伝えると、障害枠ではなく一般枠で挑戦する方も出て来ます。


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なるほど。障害者雇用枠を必ずしも目指さなくていい。これをきちんと支援側として伝えるというのは画期的かもしれません。
それをすでに実践されているのですね。素晴らしい。
そしてそれをさらに進めるには藤家さんの体験や、私が「発達障害、治るが勝ち!」に書いたことが活用できるでしょう。

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11月15日の講演会は「発達障害のことを知ってください」という単なる啓発にはしたくないと思っています。
参加者は当事者と家族、支援関係者が中心になるでしょう。
障害があっても「障害者雇用や障害者支援ありき」はなく、必要な時に必要な支援を使って、不要になれば卒業していいこと、棚ボタはなく試行錯誤と努力でしか結果は出ないこと、主体的に人生を決めていいこと、努力すれば実ることを、浅見さんと藤家さんのお話から皆さんが感じ取って帰ってくださるといいなと思っています。


=====

素晴らしい会になりそうですね。
なぜ今回こういう会にしようと思ったか、企画側にきちんと信念があります。
そしてそれは、福祉の世界だけではなく、社会を見据えている。
「社会にとって有益なこと」を追求しています。


私は「発達障害、治るが勝ち!」には「社会に知っておいて
もらいたいたった一つのこと」を書きました。
栗林先生は本が届くやいなやそこを真っ先に読んだそうです。
そして「賛同します」とすぐにメールを送ってこられました。
その「たった一つのこと」を私は今度も伝えに大阪に行きます。

信念と信念の融合が生んだ講演会。

定員200名。多いようで無料だということを考えるとあまり多くないですね。
ぜひ聴きたい! という方は、どうぞお急ぎください。

皆様にお会いできるのを楽しみにしております。



何をしたらおまわりさんにつかまるか

2017-10-17 09:48:31 | 日記
何をしたらおまわりさんにつかまるか
を元おまわりさんの榎本氏に根掘り葉掘りききました。
皆さんと一緒にもききましたし、その後もききました。
その結果わかったこと。

これまで私は支援者の人たちから
「こんなことぽっち(と支援者の目には映っている)のために逮捕されたり起訴されたりするのか」という疑問の声を聴いたことがありますが
警察の論理を知ってみれば「ああ、あれはたしかに逮捕案件だったんだなあ」って筋が通っているのですよね。
だから警察法知っておくといいですよ。

そしてこれは障害のあるなしに関係なく
逮捕=この世の終わり ではなく
逮捕されたそのあとも人権は守られている。
たとえば留置場では看守は絶対に留置人にケガさせないし、留置人が看守にケガさせない体制も整っているんだそうです。つまり、強度行動障害の人に殴られてケガさせられても我慢させられている一部施設職員よりは看守の方が人権が守られているわけですね。

そして榎本氏は発達障害支援の現場に出ても絶対に体罰的なことはしない。
元警官だからこそできない、と言います。
それでも放っておくと将来施設職員を殴りそうな行為をする子は止める。

どうやって? っていう話ですよね。

まあそんなこんなを急ピッチに消化して、次のミーティングに備えているのが今ここなんで
ブログの更新が数日止まりました。

その他、講演では皆さんのご質問が有意義だったですね。

痴漢冤罪。
深刻な問題です。障害があってもなくても。
とくに自閉っ子が痴漢の冤罪をかけられたらすごく自己擁護に苦労しそうです。

自閉女子の性被害。
なんで多いんだろう。

自閉男子なぜだか職質かけられる率高い問題。

自閉女子が性被害にあえば、交番に駆け込めばいい。でもその結果逮捕されるのが健常男子だったらギョーカイも猿烏賊も口を極めて差別ガーがいえるんだけど、性的いやがらせをしていたのが自閉男子だったらどうするんだろ。「逮捕は差別!」っていうのかな。それとも黙るのかな。「逮捕は差別!」なら被害にあった自閉女子はどうなるの? 揺れるギョーカイ+猿烏賊心。

っていうか
猿烏賊減ったね。
それと先日の鳥頭会議、よく見てみたらエビデンスガー言わなくなったね。

ABAのみで他害が治らない場合、他の方法を試す必死の親をトンデモ扱いしている自称支援者に信頼を寄せる人は相当の数寄者です。マニアの類であり、結果より手続きの精緻さを求める親としては亜流の人たち。
エビデンスだろうがエピソードだろうがとにかく「目の前のこの子」が他人を殴らなくなるようにするのがまっとうな親心です。子どもと社会の両方に目配りしている人たちです。

他害を「ありのまま」にして他人にケアをまかせれば、その子が犯罪者になるかどうかは「相手次第」になります。警察にもっていかれるか、あるいは施設の方針で現場の支援者が殴られても我慢させるか。相手に運命を委ねることになります。

支援者の中で、我慢させられた結果大量殺人を起こす人は多くない(ていうか相模原のあの人が殴られたかどうかも私は知りません)。でも働いている人がそういう我慢させられる職場にはだんだん人がいつかなくなります。これからの労働力不足の時代はとくにそうでしょう。
そうなったら「ありのまま」に育ったお子さんを自宅で面倒みればいいですね。親の命尽きる日まで。

他害する人を犯罪者にしない職場はすなわち労働者に我慢させ、丸腰の支援者を留置場の看守ほども守る気のない職場です。そういう職場にわが子を託して平気な人は思う存分ありのままに育て、エビデンスにしがみつき、犬の曲芸で治らなかったら「生まれつきだから治らない」と開き治っていればいいでしょう。

私はそういう人と方針が違います。

私が遵法教育をやりたいのはなぜか?

発達障害の人に自由に生きてもらいたいからですよ。
発達障害の人こそ、自由に生きないと幸せになれないから。
そしてそのためには
「何をすればおまわりさんにつかまるか」を知っておくのはとても大事だからです。
そこを抑えておけば、存分に資質を開花できるのですから。

過度な水遊びと多飲が芋本で治った件

2017-10-13 11:40:51 | 日記
夏のはじまりごろ、あるご相談を受けていました。
自閉っ子で、家計に差し支えるほどの水遊びと多飲をするという話。
私は世界的ギョーカイ大大大メジャーであるローナ・ウィング氏が自閉症のお子さんを水の飲みすぎでなくされた話を思い出しました。水の飲みすぎという問題行動はあって、でもそれが直接健康被害になり死に至ったのは更年期と重なったときらしい。逆に言うと更年期まではご無事だった。そして更年期までその問題が消えなかったわけです。

いたましい。
死もいたましいけど、そこまで水を飲まなければいけなかったご本人の苦しさがいたましい。
周囲の人は、解決してあげたい、と思ったことでしょう。

ローナ・ウィングさんと言えばギョーカイメジャーたちが敬礼するような対象ですから、きっと「標準的な」療法をお取りになったんでしょうね。なんだろ。視覚支援かな。コップの絵に×とかするのかな。タイムスケジュールかな。水は何時何分に飲んでいいとか決めるのかな。それとも犬の曲芸かな。

まあともかく水も飲みすぎると命にかかわるわけですね。そして過度な水遊びや多飲は自閉っ子あるあるだと思います。

私はここ数年栗本さんの門前の小僧をやっていますので、水遊びと多飲に悩んで方に芋本をお教えしました。そして先日ご報告。水遊び治まったそうです。そしてほうぼう発達して友だちと遊ぶようになったとか。

そうでしょ。

これは言うまでもなく芋本オリジンの知見ですから

・家でできて
・金がかからなくて
・できたら身体の中に何も入れない

方法です。必要なのはお母さんの二本の腕。そしてたいていのお母さんは二本の腕があるから大丈夫。なくても大丈夫です。椅子でも床でもあればできる方法です。児童デイとか行ってるんだったら支援者の二本の腕でもいいですよ。

栗本さんはただのおっさんで日本のギョーカイメジャーたちが一斉に敬礼するような人物ではありませんが、大ギョーカイメジャーでも解決できなかった問題は解決できるのよ。

いいねえ、東洋の知恵。

皆さんも東洋人なんだったら、それを利用するといいですよ。



「障害者施策」とは要するに「加算」である。(ギョーカイにとって)

2017-10-12 08:22:01 | 日記
さて、選挙前っぽいギョーカイ人のツイートをいくつか解説してみましたよ。
まずはおなじみの吉川センセ。



そうなのです。彼らにとって「障害者施策の拡充」とは「加算」を意味するのです。自分たちの仕事への報酬の加算。そして新たなビジネスへの予算の確保。
これは内輪ツイートなのかもしれない。
同じ業界の仲間に向けて「どこどこ党に投票するのが一番儲かるかも」という。
ただ、障害当事者・保護者の方に「この人たちと自分たちは利害を共有している」という誤学習があると、これがあたかも「自分たちのことを守ってくれる人」に見えてしまうというマジックです。

もちろんこのセンセたちと障害当事者保護者の皆さんは、利害を共有しているかもしれない。でも微妙なズレがあるかもしれない。微妙じゃないかもしれない。医療福祉が潤うことによってトリクルダウン効果があるかもしれないしないかもしれない。

だってさ、この人たちにとっては

・なるべくたくさんの人が
・なるべく重い障害に
・なるべく長い間留まる

ことが「合理的」だからです。もちろんそれを超えた良心を持っている人はいるでしょう。あくまで経済的には合理的。そして経済的な関心が深い人だからこそ加算加算いうわけですね。

そんなもんです。

そしてどっかのやはり事業所の経営者らしき人。





ここも加算、がキーワードです。
彼らにとって「障害者支援=加算」。
当事者にはトリクルダウンがあるかもしれないしないかもしれないのです。

たとえば就労支援。
当事者の就労はしていないけれど、支援者の就労にはなってる、みたいな就労支援事業者いっぱいありますよね。見学と研修と飲み会で食ってけるこの時代としては優雅な階級です、就労支援者。そして就労成果が捗々しくなくても社会のせいにしておけるらくちんなお仕事。


これに比べて私は、官に望むものがあまりないのです。
何しろ

・自分でできて
・金がかからなくて
・できたら身体の中に何も入れない

方法を伝えていますのでね。
そして運営に必要なお金は市場から得ていますので、官から予算をつけてもらう必要はないのです。

だからこそ、最初「自立支援」を誤って解釈してしまったのです、私は。
そして「社会の理解が広まれば発達障害の人たちは生きやすくなる」と誤って信じていたのです。
そのあたりを「発達障害、治るが勝ち!」から引っ張ってみましょう。

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 この第一部では、そうやって偶然発達障害とかかわりを持つようになった「あくまで一般人の私」(つまり、支援者という立場ではないという意味だ)が十数年発達障害者支援の経緯を見守り、気づいたことをまとめておく。端的に言うとそれは「このままだと発達障害の世界と一般の世界が近づくどころか遠くなっていく」という危機感である。
 私は「発達障害者の社会参加を促す」ことをまじめに考えていた。支援者を名乗る人たちも当然そうだと思っていた。でも今は、それに疑いを持っている。危機感を持っている。そしてだからこそ、解決策を模索してきたし、自信を持っておすすめできる一応の解決策にたどりついたと思っている。
 本書はそのプロセスの記録である。

『自閉っ子、こういう風にできてます!』出版直後に話を戻そう。

 この評判となった対談本を出した私に様々な発言の場が与えられることになった。発達障害に関する啓発活動の中で、私はプレイヤーの一人となったのである。啓発の目的は、社会に、とりわけ仕事場に、発達障害の人を受け入れてもらうこと。私は精いっぱいのことをしようと思った。アインシュタインやエジソンを埋もれさせていては社会の損失である。
 ただ、(とくに私の生活圏である首都圏においては)満員電車に乗って週に五日どこかに通えることが安定した職を得る大前提になる。そして当時あまり指摘されていなかったことだが、発達障害のある人にはこれが難しい。たとえ天才的な能力がある人でも、とりあえずはどこかに雇用されることからキャリアを始めることが多いとすると、ここはクリアしておかなければせっかくの才能が埋もれる。だからまず、この人たちの身体の弱さをどうにかしよう、と訴えた。
 そして身体特性に合わせた多様な働き方を考えようとも主張した。ニキさんは二つ大学に入り、二つ中退し、その後縁あって結婚し、その間ずっと主婦をしながら職業を得たいと願い、それでも無職を長く続けてきた。季節に翻弄されすぎて、外に出られない時期などがあるのが仕事を持つことを妨げていた。
 だが、ついに在宅でできる翻訳という仕事にたどりついた。大卒が当然とされている出版界において、大学中退の人が翻訳家という仕事をするのは珍しいことだったが、そのための営業努力を自力でやってのけた人だった。そしてそれは何かの「就労支援」を受けた結果ではなく、彼女が本を読み、趣味の集まりなどを通じて世の中を観察し、自分で独自にたどりついた工夫の結果だった。
 翻訳家を含む自由業は、たしかに経済面では不安定な自由業だ。けれども、大黒柱が他にある家庭の主婦としては悪い仕事ではない。そもそも、感覚の偏りのある人にとって、在宅で仕事をすると自分の職場環境を自分で作れるのは都合がいい。通勤の苦労もない。
 私はニキさんが自力で自分の生きやすいライフスタイルにたどりついたことに敬意を抱いていたので、「在宅でできるような仕事もありではないでしょうか」などと力説したりした。それもこれも私が「発達障害の人の持つ才能を活かせる社会の実現を」という支援者たちのセールストークを真に受けていたからである。

 実に愚かであった。というか空気を読んでいなかった。悪気はひとつもなかったし、むしろ貢献したい気持ちでいっぱいだったのに。

 当時の私は知らなかった。「自立支援」とはどういうことか。私は一般人だから、自立支援と言えば文字通り自立を支援するのだと思っていた。
 支援の世界(以降、支援業界を略して「ギョーカイ」と呼ぶ)では違っていた。
「自立支援を広げる」とは「自立支援」を謳う事業体が行政を説得し、血税から事業費の名目で行政に金を自分たちに支払わせる――すなわち、売り上げを得るシステムを広げることだったのだ。

支援者はどう「売り上げ」を得るかを知っておこう

 一般人は、障害者福祉の世界がどう売り上げるかは知らないし考えたこともないだろう。もしかしたらどこかの裕福な篤志家が自腹でかわいそうな人たちの面倒をみていると思っているかもしれない。実際に、そういう時代もあった。
 現在、実は多くの場合、福祉事業体は営利を追求している。しかも福祉は、確実に収入が見込める事業である。ニーズは多く、売り手市場で、おまけに売り上げは公金から支払われるからである。つまり、福祉事業所がケアを受け持っている障害者(=利用者)一人当たり一日当たりを根拠に行政が事業体にお金を支払う。その原資はもちろん、みんなが汗水たらして働き納めた血税である。
 私は当時知らなかった。それまで「障害の重い人が待ってたらやってくる」事業を営んでいた福祉の事業所が、自立支援法の制定により、「措置」という自動的に売り上げの源(=利用者)が送られてくるシステムを取り上げられ、新たな金づる――と言ったら言い過ぎか――新たな売り上げのもとを探していたことを。
 そこに発達障害が登場した。
 これまで支援の対象ではなかった人たち(知的障害がない、知的障害が軽度、特定の学習能力のみの障害)が新たな見込み客(利用者候補)になった。
「もっと自立を」は「もっと自立支援ギョーカイに金を」のメタファーだったのだ。

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保護者の主体性

2017-10-11 09:56:49 | 日記


このツイートを見て違和感の根っこがわかりました。



何をどの程度採り入れてどう組み合わせるか、それは各家庭の主体性にまかされているはずなのに、ABAやってる人はすごく排他的でお鼻が高い。そしてその割にかかわっている人がよくなっていないんです。

ABAやっているおうちでも感覚統合やその他をやっていてそれに効果を感じているかもしれない。なのに「あれはトンデモ」とこきおろしている専門家にそういう保護者たちが好感を抱くはずがないんです。主体性のある保護者ならね。そして治っていくのは、主体性のある保護者のお子さんたちですから。専門家におまかせしている人たちではなく。

昨日のブログをFBで見て、この数年でお子さんの発達障害ばかりか弱視やアレルギーや喘息まで治ってしまった人が「ABA? 聞いたこともない。ツイート集読んだけどこの人たちはロボットを育てたいのか」と疑問を呈していました。そして「治る仲間では誰もABAやってない。こんな療育知らずにいてラッキーだった」とおっしゃっていましたが、逆に言うと花風社がやっていることを一ミリも知らない人もいます。でもそんなもんだと思います。私の目には社会は饗宴だと見えているので、縁がある人には縁がある。そして縁がある人が治っていくように私は情報を提供しているのです。

でもそこで知らない人がいると焦るくらいだから、鳥頭会議が開かれるのでしょうね。肥大した自己像を持っているのでしょう。

保育園に知らしめたい、みたいなツイートもありましたが、それも保育園の主体性ですよね。栗本さんが定期的にみている保育園もあるし、最近栗本さんは保育園の研修のお仕事多いですよね。そしておとといは保育園の先生から「どの本から読めばいいですか」のお問い合わせがありました。状況をよく聞いて、根っこ本から読むのがいいと思いますとお返事しました。

昨日は保護者の方から同じお問い合わせがありました。息子さんに診断が下り、「生まれつきで治りません」と言われ、それでも何かできることがないかと探してある方法にたどり着いたそうです。私の知らない方法でしたが、それで短期間でよくなったそうです。よかったよかった。そして家でできる方法が他にもないかと思ってたどりついたのが「発達障害、治るが勝ち!」。読んで感銘を受け、何から読めばいいかというお問い合わせ。私は状況からしてやはり根っこ本がいいと思いました。

そして改めて根っこ本を開いてみました。まえがきがわかりやすい(自画自賛)。これをお送りしましたよ。

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人間脳の根っこを育てる まえがき

 発達障害について、わかってきたことがたくさんあります。
 発達障害者は発達する。
 なぜ?
 発達障害とは発達のヌケであり、ヌケならいつでも取り戻せるから。

 発達障害とは心の障害ではなく神経発達の障害である。
 どういうこと?
 発達障害は全身にかかわるということ。
 そして中でも中枢神経は、頭蓋骨と背骨の中にあるということ。

 そもそも神経が育つとはどういうプロセスを経るものなのか。
 進化と発達の過程を見つめ直すと
 そこには発達の近道へのヒントがたくさんありました。

 こうやってわかった発達援助の方法は
 心身に負担がかからないから、多くの人が取り組む気になります。
 やってみて簡単だから、くじけずに続けられます。
 それを、この本にまとめました。


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それでも「トンデモ」と思う人たちには「発達障害、治るが勝ち!」からちょっと引用してお答えしておきましょう。

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 エビデンスエビデンスの人たちは一面切り取り型の療育方法を広め、一面切り取り型マインドを持った後進を育てる。そこで中途半端に育った人材には就職先も必要だろう。後進の職場開拓のためにも攻撃的に、エビデンスを振り回す。
 ところがよく観察してみると、エビデンスエビデンス姦しいわりにはそのエビデンスもあまりエンドユーザーには具体的に提示されない。なぜなら、エビデンスを取る途上の倫理的問題をクリアしているとは言い切れないから、との話だ。誰も見たことのないエビデンスを振り回す支援者と、具体的に見たこともない「エビデンスのある方法」という支援者のセールストークに乗っかって、いつまでも改善が見えなくても、あるいは改善が見えてもまたすぐ崩れやすくても、唇かみしめてしがみつく保護者。「エビデンス」という言葉は実はただの枕詞だと気づくと、その姿は滑稽である。
 そしてその「エビデンス祭り」に参加するもしないも、個々人、個々の家庭の主体的な選択なのである。

 エビデンスがある、とドヤ顔して、私たちが「治った」と喜ぶのを「エピソードにすぎない。身体アプローチにはエビデンスがない」とこき下ろす人たちに指摘しておきたい。
 あなた方のやり方に惹かれないのはその「エピソード」がないからである。あるのはエビデンスがある、という主張だけで、実際に良くなった人のエピソードがない。むしろ、エビデンスにしがみついている人はそろって成果を見せていない。それが私たちの目に映っている現実である。
 エピソードがない。だから信用できない人もまたいるのである。
 みんなちがってみんないい、なのだから、エビデンスを選ぶ人もいれば、エピソードを選ぶ人もいるのである。

 信用してほしかったらエピソードを出してみろ!
 てなもんである。

【付記・枕詞としてのエビデンスとは?】

 そもそも、発達障害の世界で支援者たちが「エビデンスのある~」と言いながらどこかから(そのほとんどが欧米である)新しいプログラムを引っ張ってくるときは、「枕詞」と考えておくとさほど見誤らないですむ。どんな「枕詞」かというと、「これからこのプログラム持ってきて日本での元締めになるつもりですけど一応エビデンスあるのでよろしく~」というギョーカイ内のご挨拶がわりなのである。
 最近は「エビデンスのある友だちづくりプログラム」というのを見つけて大笑いした。どこかから補助金を受け外国から来た講師の講座を行い、最後は自分のところの合宿(有料)でフィニッシュするらしい。「エビデンスのある」という言葉に引っかかる保護者がいて、「このプログラムに出たらうちの子も友だちができるかも」とすがるような思いで子どもを合宿に送るのだろうか。
 なんで枕詞を用いるかというと、どうも支援者たちは、「自分の療法こそ日本一!」という桃太郎ごっこをしてつばぜりあいをしているからのようである。そして発達障害者支援が始まる前も始まったあとも厚生労働省に呼ばれたりして、一生懸命自分の療法を売り込んでいる。彼らにとって「エビデンス」は「この方法の拡大に公金つけてね」と申請用紙に貼る印紙みたいなものなのである。
 橋を作れ道を作れと与党議員にロビー活動する土建屋。それを発達障害支援ギョーカイにもってくると、エビデンスエビデンスの人たちになる。そして、議員が地元の土建屋のために持ってきたクマしか通らない山奥の道よりもなお経済効果は薄い。得するのは土建屋だけだ。
 そのばからしい活動に当事者保護者として自分が巻き込まれるかどうかは個々が主体的に決めればよい。

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思うように桃太郎になれなかった人たちは、鳥頭会議を開くのですね。