「愛着障害は治りますか?」まじめに好調のようです。
やはりそれだけ、本当は普遍的なんですよね、愛着障害は。
虐待・被虐待の問題だけじゃなく、それこそ日本の家族制度の中では当たり前だった愛着障害。それを治していい時代になりました。治す方法が見つかりました。そういう本です。
私にとっては、中年期から壮年期へのトランジションの本ですね。
壮年期はどういうフェーズかというと、世の中への恩返しがテーマになりますね。
そもそも、自分にとってはさほど一人称の問題ではない愛着障害の本を出そう、と思った時点でその芽生えはあったわけですが。
昨日某所で、「苦しんでいる人と、苦しんでいない人、どっちがいい支援者かは永遠のテーマ」みたいな話をしていました。
まあ永遠のテーマではないんですけど、花風社クラスタにとっては。
花風社的には、愛甲さんみたいに乗り越えてきた人がいい支援者ですね。つまりもう自分は苦しんでいないこと。自分の苦しみを癒すためにクライアントを利用しないだけの土台ができている人がいい支援者。花風社クラスタは「治るが勝ち」ですから。
でも別の考えの人もいるわけです。「苦しみを共有してくれるこそいい支援者」と言う意見を持つ人たちもいる。
私はもちろん「苦しんでいない支援者」を支持します。その理由はいくつかありますがその一つは、私が当事者の持っている苦しみに気づいたのが自分の中の強い部分からの類推ということが多かったからです。
身体的に、私にも皆さんと同じように強い部分と弱い部分があります。
強い部分は病気をしないところ。疲れが一日で回復するところ。
弱い部分は手先が不器用なところ。
病気をしない自分の身体を自分で便利に使っていたからこそ、そうじゃない人の不利な点には若いころから気づいていました。
何しろ仕事と遊びの両立ができないんですね。人生の楽しみが少ないんです。
ハードワークすると週末寝てたりするわけです。
そして発達の問題を抱えた人の身体問題はそれ以上にへんてこでした。
すぐに熱が出たり季節に翻弄されたりする当時のニキさんや藤家さんが不便そうだなあ、なんとか治す方法ないのかなあ、と思ったわけですね。
それでなんとかなる方法を探したわけです。
だって思いがあるのにそれを実現できない身体だともったいないじゃないですか。
私はいくらでも働ける自分の身体に感謝していたからこそ、不便さに気づいたのです。
学習能力的にも私には強い部分と弱い部分があります。
南雲さんにもあります。
そして南雲さんと本を作ったとき私が言ったこと、それは
「私にも学習能力の偏りはあるけど、自分の偏り方が、学業において有利だとずっと自覚してきた」ということでした。
強いところは読解力、書く力、文字情報に強いこと。
これは私のピークスキルだと思うんですけど、それが学校では「たまたま」有利だったんですね。それは高校生くらいのときから自覚していました。
でも私は極端な方向音痴です。だいぶマシになりましたけど。
地図が読めないと実生活は不便。でも学校の勉強ではあまり困らないんですよね。
南雲さんの方が板書方面では苦労したと思いますが、今、講演依頼されて、講演会場を探し当てていく能力なんていうのは南雲さんの方が高いでしょう。
つまりね、私が凸凹さんたちの不便さに気づいたのは
自分の中の強い部分への感謝の気持ちがあったからです。
だからね、私は苦しんでいる人がいい支援者になるという意見にはどっちかというとネガティブです。
弱い人は弱い人の気持ちはわかるかもしれない。
でも「弱さが強さに転じるとこういう風に便利だよ」はわからないかもしれない。
一方で私は、自分が怖いもの知らずで他人の顔色を伺わないで生きてこられたことにあまり感謝してなかったのだと思います。
それで非難されたことも多かったからかも。
でもよく考えてみれば、この資質は確実に私を幸せにしてきたのです。
そしてびくびくと他人の顔色を伺う人のことが理解したくて、愛甲さんにいろいろ質問したのかもしれません。
これからのテーマは、びくびくした人とどう腹を立てないでつきあうか、かもしれません。
とか書きながら
「治っちゃえよめんどくさいから」とか思ってたりするんですけどね。
何はともあれ
お役立てください。
そうそう
大久保さんのブログ。必見です。
「治せない理由がなくなった」。
本当にそうですね。