治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

大地参戦

2015-06-29 07:29:16 | 日記




どこにかっていうと、飯テロにです。
これ、買い物から料理まで妹ちゃんと二人で済ませたんだって。
母さん仕事があるからね。


母さんが言ってた。子どもたちが上手に用意してくれるって。野菜は二種類、一種類は油使っていい、主菜の下にはレタスを敷く、とかディレクション与えておくとばっちり用意するって。修行が親をラクにする典型的な例ですね。だから働ける。障害がある子を授かってもね。

あともう一つ。
「カンカイガー」戦線ですよ。



松崎先生のつぶやきに話しかけてた。

実感なんでしょう。今の実感。


本当にねー、支援者は生きづらさとかカンガイガーの押し売りをやめてほしいね。

生きづらさの押し売りやめろ、っていうのは「治ってますか? 発達障害」の一つのテーマですが

いよいよこのあと、詳細発表しますよ。たんたんと。

五年前に「治る」という言葉を使った理由

2015-06-28 11:18:10 | 日記
前エントリで「人は皆生きている以上迷惑な存在である」という話を書きましたが
大地君の本が出たことも、神田橋先生の本が出たことも、ある種の人々にとっては迷惑なことだったでしょう。だから五年前にあの大騒ぎが起きたんだしね。

でも一方で助かった人もたくさんいる。
そういう意味で、人がどういう行動を起こそうと、眉をひそめる人はいる。それを計算済みで自分が正しいと思うことを実現していくだけです。

というわけで、先日ふうりんさんからいただいたコメントに答えていきましょう。

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ふうりんさんより:

『発達障害は治りますか』から5年。その後も自分で簡単にできることをどんどん教えてもらった花風本こそ私にとって頼りになる支援です。自分で状態をいい方にもっていけるという安心感は大きい。「様子をみましょう。なんかあったら来て下さい。」の医師なんかありがたがらない。医療がそういうものなら行かない。

花風社本がこんなに役に立つのは、相手の立場に立って考えに考えわかりやすく組み立てて、常にアンテナを張り、そもそもの問題点はどこかを押さえ…などなどを手間かけて練り上げた仕事だからだろうと普通はわかる。実践すれば納得するし、初めうまくいかなかったとしても自分を知ることに繋がる。身体から入ることで個人差があっても誰もができる方法を教えてくれるという、差別と真逆な本を出しているのに差別者呼ばわりする人。自分側はちょろっと流し読みしてとんちんかんなこと言ってるだけでも善意の批判者(自称)って認知が歪んでる。もしくは保身のために確信的にやってる小賢しい手。どっちにしろ5年もかけてやることじゃない。歪め続けたら自分が困ることになると思う。

=====

『自閉っ子、こういう風にできてます!』が生まれる数年前、自閉っ子たちとのおつきあいが始まったころから、その身体感覚の不便さに気づいてきて、これだけでもどうにかならないものか、という問題意識をつねに持ち続けてきた私。問題意識は出会いを連れてきてくれるので、次々と知見を持っている人たちに出会い、それを本にしてきました。それが差別者だといわれるのは、たぶん「治すなんて差別」という主張を持つひとたちがいるからでしょうね。でも私は治りたい人に向けて本を出しています。そして保護者支援者として「治すなんて差別」と主張する前に、本人たちの気持ちを慮ってみたらいいと思いますよ。いつまでも頭をがんがんとぶつけて自傷していたいのかどうか。「治ってますか? 発達障害」のテーマの一つがそれです。ご本人たちにとっていいのは治ることを拒否することなのでしょうかね?

=====

ふうりんさんより:

「治る」は言葉遊びを刺激するらしい。言葉の広がりやイメージ、受け手の取り方を考えて選んでるのに間違ってるの一点張り。寛解だったら何?知ってたら治るじゃないだろうと言わずにおれなかった?寛解でも体質アプローチで合ってるじゃんと思うけど。感心があるのは有効な方法なので。「二次障害」で言葉遊びをしたい人も。ヒクツどうしでも微妙にずれる気になるポイントで何を嫌がっているかがまる分かりだからやめた方がいい。人の勝手とはいえ仕事にかかわることで言葉遊びして評判落とすなんてようやるわ。支援者を名乗りながら他人事な言動をする人に近づかない権利はある。私は人間関係の基礎として信頼を大切にしたい。親子でも信頼には行動が大事。ぺらっぺらの批評や安っぽい感傷では信頼できないし、気休めやその場しのぎや評論家気取りのアドバイスは支援になってない。
=====

ふうりんさんのおっしゃるとおりだなあ、と思いましたたとえ「治る」ではなく「寛解」だとしても、身体アプローチはよさそうですね。そしてたしかに、「治る」とか「二次障害」という言葉のどこにこだわるかで、その人が何を嫌がっているかがまるわかりになるのです。支援者としてのスタンスがまるわかりになるのです。

私はウィンドウズもマックも数台のコンピュータをクラウド管理で使っています。そして今使っているこの子は一番の新入り。まだちょっと辞書がおバカです。そしてたった今「かんかい」が変換できなくてコピペしました。それはどういうことかというと、「寛解」って、普通の人が日常で使う言語じゃないということです。

皆さんがお子さんの、あるいは自分の障害を宣告されたとき、まず思い浮かぶ原初的な疑問は何ですか? おそらく多くの場合それは

「それって治るの?」
「何をすればいいの?」

だったのではないでしょうか。
間違っても「それってカンカイするの?」ではなかったはずです。

未診断で中高生くらいまできて、二次障害が出て自傷他害ひきこもりが出て精神科に親が連れていくとき、そこで親が望むのは「お願いうちの子を治して」だと思います。だって治るというのが普通、人々が日常使っている言葉だから。

つまり私にとって、治るという現象を「寛解」や「改善」に置き換えることは、専門家が消費者を無視していたずらにジャルゴンを駆使している、あるいは煙に巻いているようにしか思えないのですよ。
中には専門家のジャルゴンにつきあって頭いいつもりになっている父親とかもいるかもしれませんね。じゃあそういう人がどういう成果を上げているのか見るといいですよ。保護者支援者が揃ってキャラバン脳だったり、父親がギョーカイ活動するとまあ終わりますよね、子どもは。

そして何度も言っているように「改善」はするけど「治る」ことはないと主張する人々は、発達障害がスペクトラムだということを否定しているという自覚を持った方がいいですね。

=====
ふうりんさんより:

体力なくて逃げていたヒクツ観察もこのブログを通じて5年。勉強になりました。次の熱い本も楽しみにしています。

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ありがとうございます。最近は「ぼくアス卑屈に受け取り大騒ぎ+大大大博士祭り」の五周年キャンペーンをやっています。その中で「治ってますか? 発達障害」が世に出るわけですが、その内容が彼ら的にとんでもなくてももう祭りを起こす元気も猿烏賊山には残っていなそうなのが残念です。

今朝起きてからも一度ゲラを読みました。うん。いい本に仕上がっていると思います。

来週発表できるでしょう。
来週は新刊とイベントのお知らせがあります。
どうぞお楽しみに。

「発達障害者は迷惑だ」をくどくど説明する

2015-06-27 11:45:25 | 日記





ということを思いついたのは「絶歌」出版をめぐる一連の騒動ですよ。
ああ、これもスモールステップで説明しないとわかんない人がいるのかな、と。

今回の出版に際し反対している人の中に
「ご遺族のお気持ちが」というのがありますし
それはもっともなことだと思います。

でも逆に、ご遺族が反対したから本を出さないという運びになるとしたら
それはあってはならないことです。

あの本を読んでよかったと思っている人

はそれなりにいるのだし

出た以上プロとして読まなければ、という気持ちで読んで「やはりそれなりに更生している」ことに希望を見出す人もいるわけです。

でもご遺族としていたたまれない気持ちになるのはわかるけど
私は彼が立ち直ってうれしいけど
それは被害者じゃないからかもしれないし。

まああの本が出たことで、よかった人と悪かった人がいるわけです。

つまり人間って、生きて活動しているだけで、誰かの迷惑になっているわけです。
自分としては正しいことをやっているつもりだけど
正しさを共有していない人にとっては迷惑なわけですからね。

だから
「他人に迷惑をかけない子に育てる」というのは

「その子が生きていくサークルの中でなるべく受け入れられやすい子に育てる」という意味です。

たとえばうまーく育った自閉っ子で、愛されキャラの人になって居場所に恵まれていたとしても、その人を見て

「みんながああいう風に育つと思われると迷惑」と思う猿烏賊スペクトラムの人にとっては
いい子もまた迷惑なわけです。

そこで「迷惑だ!」と突撃までする人と
遠くで揶揄している人と
自分と他人の正義の違いをわきまえている人
自分と他人の正義が違うとわからなくてあれこれ脳みそ無駄遣いしている人とかがいるのだと思います。

というわけで人間みな他人に迷惑な存在だから
なるべく迷惑をかけないように育てよう、というのがたぶん親の本能なんだと思います。
それがその子の生きやすさにつながるから。

ところがそこで
「発達障害者は迷惑」と言われるとき、そこには二つ意味があって

1 他人に迷惑となりそうな誤学習をしやすい脳みそだから迷惑

というのと

2 にもかかわらず周りにいる人が「差別ガー」マインドがあり、誤学習を放置するから迷惑

というのがあります。

「発達障害者は迷惑」と言われるときには

主として2に言及されていると思います。

少なくとも私が「発達障害者は迷惑」というときには
周囲の「死んだふり」込みで言っています。

=====

おとといから昨日にかけては新刊「治ってますか? 発達障害」のポエムを書いたりしていました。
暑苦しい本のポエムは、どうしても暑苦しくなります。

本当は週末に新刊の発表をしようと思っていたのですが
そんなこんなでポエムをいじっている間にデザイナーさんからデザインのマイナーチェンジ案が送られてきて

それを見て、今度の本のコンセプトよくつかんでるなあ、とか思いました。
今度も到着したら脱がせてみてくださいね。
脱いでも暑苦しいですよ。

冒頭写真は昨日買った巨大ズッキーニです。

社会の理解を求めることの何がそんなにダサイのか

2015-06-25 09:25:24 | 日記
社会で適応するための努力と社会を変える努力
どっちも必要だ、という声はよく聞きます。
その通りだと思いますよ。

先日、今後使うプロフィールをこれまでのものとちょっと違うテイストにしましたが
私の仕事の中では、社会に自閉症の特性に関する啓発と、改善・治療に関する情報伝達が共存しています。

=====
浅見淳子(あさみ じゅんこ)
編集者。株式会社花風社代表取締役。
異文化としての発達障害に興味を覚え、当事者との交流を楽しんでいる。と同時に、発達障害者が抱える身体面と社会性・情緒面の困難性のつながりに早くから気づき、『自閉っ子シリーズ』をプロデュース。啓発を続ける傍ら、この症状を改善する方法はないかと模索し続けてきた。その成果として神田橋條治医師、長沼睦雄医師、臨床心理士の愛甲修子氏、障害児スポーツの第一人者森嶋勉氏、障害児者への体操指導の栗本啓司氏等の実践に触れ、発達障害者の心身をラクにする方法を伝える書籍を編集。書籍という形で優れた臨床家の実践を伝える工夫を重ねてきた。
著書に『自閉っ子と未来への希望』、『自閉症者の犯罪を防ぐための提言』、ニキ・リンコとの共著に『自閉っ子のための努力と手抜き入門』、藤家寛子との共著に『自閉っ子的心身安定生活!』、栗本啓司との共著に『芋づる式に治そう! 発達凸凹の人が今日からできること』(いずれも花風社)がある。
=====

じゃあなんで私が「社会の理解ガー」と揶揄するかというと
支援ギョーカイの求める社会が

1 それは無理だろうという脳内お花畑
2 それが実現したら社会は正しくないだろうという発達障害者原理主義

のどっちかの場合が多いと気づいたからです。

たとえば就労。
国は障害者雇用率を定め、精神の人をカウントに入れるようにし、雇用率のノルマをさらに企業にとってきつくし・・・・・・

という風に理解を広げて制度を構築している。でもそこで

・この人たちに努力させてはいけません

とギョーカイのえらい先生方が堂々と言うに当たっては、社会にも本人にもよくないでしょ。こういうの聞いたらね、企業はドン引きしますよ。第一失礼ですよ。一般社会に対して失礼。それと努力できる当事者に対して失礼。

だから私は
・努力する当事者と努力しない当事者がいます
・保護者にも育てる気のある人とキャラバン脳の人がいます

と本当のことを言っているんですよ。
だって「社会の理解を促す」って「本当のことを知ってもらう」っていうことでしょ。仲人口じゃなくて。

・たしかに弱いところはあります。
・気を使わなければいけないところもあります。
・でも成長します。
・努力します(人によりますけど)。


というまっとうなことを広めているだけ。

猿烏賊がぼやいているけど


そもそも「治そう」という言葉にきーってなるのは「社会の理解ガー」に熱心な人々だったんですけどね。五年前の大大大博士祭りはすごかったでしょ。

もちろん私の中では矛盾していないんですよ。治すのと社会の理解はね。

そういうと改善ならいいけど治すのはけしからん、とか言うんだけど。

自閉症がスペクトラムなら改善した結果治る人だっているだろうし
治ったってまだ自閉症の人だっているだろうよ。

治っている人のもとにわざわざ押しかけて「カンガイガー」の押し売りをする一部支援者。

それを私は「妖怪人間カンカイガー」と名付けています。




治しやすいところから治す。

転じて

治りやすい人から治る。

でいいでしょ。

人の財布に興味があるようなメンタリティは田舎では普通のことらしいけど
そういう人には、許せないのかもしれないけど

知らんわ、私は。

制度を構築する側は思っているよ。
一人でもうまくいってくれる人が増える方がいい、と。

猿烏賊シンドローム

2015-06-24 09:29:05 | 日記





自分の好き嫌いは、人類共有のものである。
だから自分の嫌いな振る舞いをしていると損をする。
それを教えてあげないと。
と誤学習している状態を

「猿烏賊シンドローム」と名づけました。

それが善意のふるまいに出ることもあるんだけど
カンチガイはカンチガイだし

やっぱりこの世界観を持っていると、生きづらいと思いますわ、方々で。

五年前の騒動で騒いだ猿烏賊が一応学習したことは

「自分たちは花風社が、浅見が嫌いだけど支持する人もいる」

っていうことで

それでわりとみんな黙り込んだ。
消えた人もいる。ベム(宮本晋)とかベム(宮本晋)とかベム(宮本晋)とか。

ここまでたどりつくには「ファンでっちあげ説」とか「非実在説」とかいろいろ認知的不協和から生み出されたトンデモ理論がいっぱい出てきたけどね。

著者が次々と湧いてくるように

猿烏賊も次々と湧いてくるのかもしれないね。

読者からの贈り物をアップします。

西の方から。



ブログや本を楽しみにしてくださっているという方からのキティちゃんシール。
ありがとうございます。

それから都内の先生から。
なんとダジャレ絵カード(笑)。





これ、面白くて、画伯に見せようと思って持ち歩いていたんだけどなかなか見せる機会がなく、ご紹介遅れましたけど

面白いですね。

コンディショニング学校で活用していただいているとのこと。
ありがたいです。
お子さんたちのコンディションを整えてあげてください。

=====

五年前の猿烏賊は、こういう贈り物アップしても
「浅見のでっちあげ」だったんですよ。
私がせこせこ自分でシールを買いに行き、せこせこ自分でダジャレ絵カードを作り
そして「読者がいるふりをしている」っていうのが猿烏賊の主張だったんです。

「自分の好き嫌いは人類共通のはず」という誤学習。おそろしいですね。
それに生きづらいと思うわ。そういう脳みそだと。

バカンスとバカ

2015-06-23 10:07:18 | 日記




昨日は、この夏の臨海学校の代金を払い込みました。
楽しみ
でもふと、他人の休暇にまで文句言っていた人がいたなあと思い出してみたら
猿烏賊史編纂室に持ち込みスクショがありました。
ごっちゃんです。

っていうわけで今日はこのスクショについて検討してみましょう。

まあ他人のお金や時間の使い方へのおせっかいは「自他の区別がついていない」ということでいつもの通り説明がつきますね。

そのあとね。

そういう道徳を振り回す人がどっかにいるらしいですが(あるいはこの男の妄想かもしれない)

私の場合はどうか、を検討してみましょう。

発達障害当事者に働けというか。

言いますね。
その方が幸せだもん。
自己肯定感が上がりお金がもらえる仕事は最高の暇つぶしです。病んでる時間が減ります。好きな仕事で成功できたらなお幸せ。そしてそれが発達障害当事者に不可能だとは全く思っていない。可能だし、それを応援したいと思って活動しています。

福祉に頼るな。

頼る必要がある人は頼るといいですね。
そしてそこに財源を回すためにも頼らなくていい人には切磋琢磨してもらいたい。
支援者はこれに反対するかも。頼れるだけ頼ればいいというかも。そうしたら福祉もまた産業だということを思い出してもらいたいんです。どういう産業かというと、なるべくたくさんの人が、なるべく長い間、なるべく重い障害でいてくれるとお金が入ってくる産業。つまり、福祉のギョーカイと国は利害が対立しているんです。
私がなぜギョーカイという言葉を使うか。それは彼らも経済原理で動いているのに、それをひた隠しにしているからですよ。利用者としては彼らがどういう論理で動いているのかよく知っておく必要があります。

足るを知れ

これは大切なこと。発達障害があろうとなかろうと大切なことではないでしょうか。足るを知らないのはむしろ、女児に股間を触らせて謝りもしないような人たちじゃないの?

凡人として生きよ

これは、はっきりと勧めません。
神田橋先生は発達障害の人に「優れた変人」になることを勧めていますね。
先生のお考えと重なっているかはわかりませんが、私も変人枠を勧めています。これも卑屈な人は被害的にとるんだけどね。なんで変人枠を勧めるかというと、発達障害の人にとって、凡人としてなんとなく幸せになるのってとても難しいからです。
そして実は変人枠で食べていく方法って、世の中いっぱいあるからです。
でもそれは「ありのまま」では無理なのです。効率よく部分的に現実的な努力をしなければならないのです。だから修行が必要なんです。

ところがこの変人枠、ギョーカイは知らない、もしくはギョーカイは変人枠につなげないのです。
ギョーカイが知っているのは「アインシュタイン・エジソン」方面か、もしくはハローワークの障害者雇用方面。その中間の「そんなに才能はないけど変人枠」は彼らの産業構造の中にないんです。
でも知的障害のない圧倒的な層が実はギョーカイの持ってこられない変人枠が向いていると私は考えているのです。
それを障害者枠に押し込めることは本人の健康に良くないと思っているんですよ。

というわけで、なんとかとはさみは使いよう。

他人のバカンスにケチつけてた不思議な人がいたなあ

という発想から記事を書いてみました。

支援する方が健康になる

2015-06-22 09:23:06 | 日記
昨日は栗本さんと私の仲良しコンビ(笑)で
今度都内で開業する放課後デイのスタッフの方たちに研修の講座を横浜にて開きました。
プログラムの一部にコンディショニングを行いたいというご希望。
最初に私から「なぜ身体アプローチが効果あるのか」を講義形式で。そのあと栗本さんの実践講座と続きました。

「なぜ身体アプローチが効果あるのか」って実は、7月に関東のある場所で行う通級の保護者の方向けのお勉強会でお話してくれと主催者様から提示されたテーマなんです。
こういう機会をいただき、改めて組み立ててみて
「おお、この説明だとわかりやすい」ってものにたどりついたので、昨日はそのお披露目になりました。

ここで役立ったのが、実は「活かそう! 発達障害脳」を作ったときに長沼先生に教えていただいたことが多かったんですよね。

相当わかりやすかったようです。栗本さんもわかりやすかったようで
「真似する」と言ってました。
いいですね。どんどん真似してしゃべってください。

ここの開所にご協力しようと思ったのは、オーナーとお話して、その理念に賛同したからです。それで協力するよう栗本さんに命令(笑)しました。
色々賛同したところはあるんですけど、一つあげておくと
地域支援に熱心で、地域ごと子どもたちを育てたい、そして地域のお母さんたちにも働く場を与えたいという思いが強かったこと。
ですから昨日もサービス管理者の方とともに、お母さんでスタッフになる方たちもお見えでした。

そして私がコンディショニングはすごいなと思ったのは、中に膝が痛い方が一人いらして
栗本さんが「はい、ではまず正座してください」と言ったときに「膝が痛いから正座は難しい」とおっしゃって、それでも栗本さんはさっとその場で膝が痛い人なりの指導の仕方を教えてあげていたことです。
身体アプローチ=スポーツではありません。
とくにコンディショニングは負荷がかからない。
指導する方にも負担がかからないのです。
膝痛を抱えた人が指導側に回れる身体アプローチなのです。
当たり前ですね。お母さんたちがおうちでやっているんですから。

昨日はいわば事業所の研修だったわけですが
終えたあと「足が軽くなった!」とおっしゃるのは
ふだんのコンディショニング講座にご参加の方々とまったく同じ。
膝が痛かった方は、別に栗本さんが指一本触れたわけではなく、「こう動いてみてください」って言われたとおりにしただけなのに、膝の痛みが取れたみたいでした。

「スタッフの方が健康になるデイケアになると思いますよ」と私は言いました。
身体アプローチってそういうところあります。

夜になって栗本さんからメールが入りました。

「来た子どもたちがどんどん変わると思います。開所が楽しみです」

わかります。なんか、雰囲気がいいんですよ。

黄色本芋本に関しては、出版直後に支援校の先生からも
「重度の子にはこれしかないですね!」という反応をいただきましたし

コンディショニングを取り入れたい事業所からのオファーが栗本さんのところにはいろいろ来ているようです。
どんどん広まるといいなと思います。

同性愛は変態

2015-06-20 11:18:51 | 日記




なんて言ってはいけない時代ですよね、今は。
最初に言っておきますが、同性愛の人たちの絆に法的な権利が与えられることを反対する立場に私はおりません。

また、性同一障害については、大変な障害だという認識をしています。アスペルガーとの併存が有意に多いとされているのも知っています。そしてその治療のために保険適用されるようになったことを心より寿ぐものであります。でもなお、身体に負担をかけての手術は大変だとは思いますが。

でも一方
「絶歌」からの流れで読んだ高山文彦氏の「『少年A』14歳の肖像」を読んで「変態とは何か?」について考え込んでしまいました。
最近虐待のご報告→虐待の本を読む とかそういう流れもあってね。

14歳の肖像 については、新刊時に読みました。今回本人本の出版で関連書が軒並み品切れを起こしている中で、電子書籍化されていたのでそれで購入して再読。当時も、中ではいちばんマシだったなあ、という印象はあったのでね。

そして考えてしまったんです。変態ってなんだろう、って。

性欲ってなんのためにあるかというと、生殖本能のためですよね。そこから逸脱しているものはみな多少なりとも変態性を帯びていて、人間にとって自然に考えるとキモチワルイものであり、だから差別の歴史があるんだと思います。同性愛もそうだったんじゃないのかな。

愛好者の皆さんがそれなりに多いみたいなので申し訳ありませんが、私はBLとか(読んだこともないしはっきり言ってどこで売ってるかもよく知らないけど)コンセプト聞いただけでキモチワルイと思います。それとロリコンもキモチワルイ。生殖可能じゃない人に向けた性欲は、なんとなくキモチワルイものなのです。

(でも愛好者多いですよね。BLもロリコンも。)

それと同時に、子どもに性的虐待しちゃう親とかも本能が賢くないんだろうなと思うのです。生物として有利な選択ではないですよね、近親者に手を出してしまうとは。

(ああ、私の源氏物語ギライの根っこはここにもありそうだな。)

つまり性欲の本来のところを突き詰めると、生殖可能な相手に対して発動されるのがわりと健康な姿なんじゃないのかな。

そして少年Aは、アダルトビデオを仲間と見てもたったひとり興奮できない自分に嫌悪感を募らせていったんですね。彼の性欲の対象は違っていた。サディストだったんですね。それで猫とかに手をかけていた。じゃないと興奮できなかったんです。

そして矯正教育では「異性愛を育てる」ことが目標の一つだった。

「治る」ってなんだろう、って考えさせられますね、つくづく。

つまり普通に同性愛の人がいても、それは治療の対象ではない。同性愛同士パートナーを見つけて楽しく暮らしてくれればいいだけ。

でもそもそも性欲の対象が他人に大迷惑をかけるとき

治療をすると「異性愛を育てる」になるんだなあ、と思いました。
で、どうやらそれに成功したんでしょうね。

「治る」って変人枠でいいと私は考えてきました。
つまり、猫とか人とかを殺さなければ治ったことになる、っていうのが私の「治った」。

でもそのために、おそらく日本のトップオブトップが集ったはずの「チームサカキバラ」では異性愛を育てる方向に行ったんだ。

これはなかなか興味深い事実です。

写真は昨日本屋さんで見つけて買った本。
ここの本屋さんで「絶歌」を私は買ったわけですが、再入荷で平積みが二面になってましたね。

私にとってはなんとなく、源氏物語より平家物語の方が「健全」なんですよ。

キャラバン脳の出来方

2015-06-20 10:33:13 | 日記




まあ、「障害児を生んだ親は反省しろ!」みたいなかっとんだことを言う人は、不快ではあるけど実害はないよね って言ったら

「ありのまま」「周りの理解を」しか言わない支援者と役に立たないという点では同じ

というご意見をいただきました。まあそうだよね。

ところが
「社会が理解すれば生きやすくなる」という集団誤学習への暴露期間が多いと、「反省しろ!」系の人こそ諸悪の根源であるとカンチガイをしやすい脳になっているんだろうね。

そこできちんと「てやんでえ力」が備わっていると、遠巻きに見てスルーできるわけですね。

もともと「てやんでえ力」がないから「社会が理解すれば、生きやすくなる」という集団誤学習にはまってしまったんでしょうしね。

てやんでえ力が不自由な人のために「社会が理解すれば、生きやすくなる」の発生を説明してみると、これは「ごまかし」から発生しています。

ごまかしとは何かというと、診断を受けてショックを受けている親が、もっとも原生的に持つ願いから気をそらすための常套文句だということです。

「障害があります」と言われた人がもっとも原生的に持つ願い。その一つはなんといっても

「お願い。うちの子を治して」

ではないでしょうかね。

でもこの願いが不適切な対応に結びつくことがある。第一支援者にその力はない。
だから言われるのが「社会が理解すれば、生きやすくなる」ですよね。

だけどこの常套文句が独り歩きし
それをマントラとして唱える集団に入ったりすると、「被差別に敏感な回路」が出来上がってしまう。

本当の敵の見どころを誤り、障害児を生んだことに対し否定的なことを言う人こそが敵である、ああいう集団がいるから「生きづらい」と生きづらさ判定装置の誤作動が起きる。

こうやってキャラバン脳は出来上がるのでしょうね。

「社会が理解すれば、生きやすくなる」

これはある人たちにとっては本当です。
でも全員には当てはまりません。

昨日得た情報によると、大手企業の障害者枠では親をみるらしい。
親のSNSとかもね。
だから学校からそういう指導も入るらしい。
そういう時代になったんですね。

だとすると、子育てブログとかの愚痴は危ないですね。
権利擁護団体で活動している人ほど、子どものできない話とか、写真とか、平気でばんばん載せますけどね。

あと、実名で本を出して実名ばればれのアカウントでよそんちの子の育てられ方を罵倒したりしているとかなり絶望的ですね。

って言ってたら、福祉就労もそれは同じとのこと。

自分のところで働く人間には、きちんとした食生活を送ってほしいと思うのは当然のこと。
そうしたら他人が手料理を一生懸命しているのをけなすような親の子はやはり避けるでしょうね。

逆に、きちんとバランスいいもの食べさせてもらっているな~というのは、企業としても良い方に計算するでしょうね。

なるほど。

こうやって「社会の理解」が進んでも

生きやすくなる人とならない人がでてくるわけですね。

キャラバン脳

2015-06-19 09:05:16 | 日記
元芸能人の政治家の人が、公認もらうために党員1000人集めなきゃ、とか愚痴っているのを見て
「親の会と発想同じですね」と言った方がいました。

そう、親の会。
信じられないことに、支援級に入ると絶対入会しなきゃいけないシステムになってたりするらしい。たぶんそれって法的な裏付けはないよね。

でもさあ、そこで「社会の理解ガー」の講演会ばっかりやって、それにつきあうと体調崩すほど嫌な思いをするのなら、入りたくないじゃないですか。
それで断ると「行政に働きかけるときに数が多い方がいいからかたちだけでも入会して」とか言われたりするんだって。

たしかに行政への働きかけって大事なのよ。
そこに親の会が果たしてきた役割大きいのよ。

でもね、行政と交渉していろいろ制度構築に貢献してきた親の会を見て思うことは
キャラバン脳にはなってないですね、必ずしも。

どっかのお医者さんが「障害児を生んだ親は反省しろ!」って言って炎上しているとき
わりと私の周囲では冷静。
もちろん反省もしないけど、「ああ特殊な人が特殊なこと言ってるね」みたいな感じでスルー。
その空気はロンさんがうまく伝えてるかな。

でもここでキャラバン脳が刷り込まれていると反応したりする。
キャラバン脳の人は別に生まれながらキャラバン脳なわけではなく
文化的な刷り込みの結果だと思いますけどね。

「社会が理解すれば、生きやすくなる」という集団誤学習をどれだけ共有してきたか。
それがキャラバン脳になるかどうかを決めると思います。

でもね、よく考えてみたら
社会が理解しても別に生きやすくならないのよ。
どうやれば生きやすくなるかっていうと、障害が改善することはもちろんのこと、制度ができることなの。
そしてそれは社会の理解とは違うものなのよ。
ここを混同しているとキャラバン脳になって、過激なお医者さんに釣られてしまうのではないのかな。

と思い出させてくれたのは、昨日仕事で偶然聞いた瀧澤久美子さんの講演録音ですよ。

横浜の訓練会を隅から隅まで知っているわけではないので、素晴らしい会だと断言する気はないけど、たぶんいい会。花風社もいろいろお世話になっています。
そしてここではいろいろ制度の構築のための行政への働きかけをやってきたんだけど

社会が理解するより、つまり一般の人が障害を偏見の目で見ないようにしてもらうために血道を上げるより、まずは行政が動いてくれた方が当事者保護者は生きやすくなるのよね。

瀧澤さんはそんなにキャラバン脳ではない。
でも行政にはきちっと言っていく。
「普通の暮らしをください」と。

普通子どもはある一定の年齢を超えると自分で学校に行く。
障害児の親にはいつまでも送迎がつきまとう。
一生にしてみるとこれくらい余分に送迎にとられる。

とか数字を出して、そこへの支援を求めていく。
制度は構築していくけど、キャラバン脳ではない。

その一方でキャラバン脳が服着て歩いているようなのがギョーカイメジャー団体ですね。
報道に文句言ったりさ。

だったら炎上中のお医者さんに文句言うかっていうと、そういうことはしないね。

ギョーカイメジャー団体が難癖つける相手は、確実に(かたちだけでも)謝ってくれる人だからね。
確信犯はほっておく。
これは障害がある人にも同じ。

そして「社会が理解すれば生きやすくなる」という集団誤学習を今日も振りまいているわけです。

社会が理解すれば生きやすくなる人はいると思うよ。

でも生きやすくならない人もいると思う。

どこへの働きかけが有効なのか、もっとみんな考えた方がいい。

ということを、「治ってますか? 発達障害」ではやります。


*スクショ。この人、社会の理解が進めば生きやすくなりますかね?