治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

栗本さん、ニキさん、浅見のイベント関連お知らせ

2015-02-28 10:01:23 | 日記
大阪のチットチャットで指導者養成講座を開くらしいですが、3月15日29日とも満席になったそうです。もともと半分の定員だったのですがあっという間に埋まったので倍増したけれどもまた満席。人数ぎちぎちですが15日の回には私も見学に行きますのでよろしくお願いいたします。んで16日は某所。へへへ。

今後も毎月開催するそうです。支援者も保護者も大歓迎とのこと。スポーツを療育にどう活かせるかもりしーさんから直接学ぶ絶好の機会ですから興味のある方はお出かけください。チットチャットのHPをときどきチェックするといいかもしれません。

それと、栗本さんが広島に行きます。

ニキさんと私が、静岡に行きます。

お会いできる方、お会いしましょう。

愛甲さん栗本さんの質問会はリクエストが多いですが、お二方と会場を両方抑えなければいけないため今のところ予定はありません。あり次第ここにアップさせていただきます。

よろしくお願いいたします。

*しばらくこのご案内はトップに貼っておきます。日々の更新はこの下をごらんください。



てやんでえ力

2015-02-28 09:53:41 | 日記
ギョーカイ本を読む苦行を始めて一日目(いや別に本だけ読んでいればいいだけじゃないから他の仕事をやりながらだけど)。
前述のようにめったにでない肩こりが出て、栗本さんのアドバイスも採り入れ一晩で治しました。

翌日も苦行を続け、若干の肩こり。
コンディショニングと有酸素運動で治しました。

そして三日目の昨日。
夜ふーっと休みながらワインをくるんくるんさせているときに気づいたんですけど、肩こり出なかったわ。

なんというか身体に抵抗力がついた感じ。ギョーカイ本へのね。
これならもっと読み進められるかもしれない。

「10年目の自閉っ子」の中でニキさんは「てへぺろ力」を養成してると書いているけど、私の場合は天賦のてへぺろ力があるので、今回養成したのは「てやんでえ力」かな(これも天賦かもしれない)。

ギョーカイ何ふざけたこと言ってるんだてやんでえ。

って思ってると身体不調には出ないのかもしれないですね。

というわけで高山恵子さんの本読み終わりましたが、つまんない、っていうかこれ真に受けると有害だろ、っていう内容でした(個人の意見です)。

そして思い出しちゃった。

そういえば高山さんがYTの掲示板にのこのこ出かけていって嘘の上塗りしたあとに、メール来たんですよね、高山さんから。
別に謝罪じゃないですよ。個人として送ってきたものではなく「JDDの委員」として

年次大会のカタログに広告出せっていうメール。

つまり「金くれ」メールです。

そしてお願いするような口調でもなんでもなく「発達障害の関係者が何千人集まるのであんたんとこにも有利なはず」という居丈高さ。かつビジネストークが外国のテレビ通販をヘタに翻訳したみたいな破滅的なへたくそさでした。

「あんなことしたあとよくこんなメール送ってくるなあ」と感心しましたよ。嘘の上塗りしたあとに金くれメール。しかも居丈高に。しかもヘタな日本語で。私にはそのメールそのものが、「社会性の障害」に思えましたよ。

その人が書いた「職場サバイバル本」ですからね。
まあ役に立つわけないですね。

おそらく高山さんに限らず、社会性の障害がある人はこうやって知らず知らずのうちに無礼な行為をしていることがあり、だから叩かれる→怖くなる
ってあると思うのです。

そうすると今度は「うんと気をつける」んですよね。

そしてそれが過剰適応、卑屈になるんです。そうすると資質の開花からどんどん遠くなる→治らない

んですよね。

ギョーカイ推奨のソーシャルスキルは、そういう意味で発達障害をむしろ活かしていないことが多い。

だから治らないんだと思います。

ところで

私は最近、多摩川にさしかかると自然に黙祷している自分に気づきます。もしかしたらそういう人が多いのかも。昨日なんとなく電車が静かになるのに気づきました。

本当にかわいそうだった。写真の笑顔があどけないだけに、本当に悲しくなります。

以前コンクリート監禁事件のドキュメンタリーを読んで、あの事件の犯人はASDではなれないかも、と思いました。

私は自分自身被害者でもあるし、ASDが加害側に回るということは否定しませんが、コンクリート監禁事件や今回の川崎の事件などの加害者は、ASDの人では無理だと思います。そこまで社会性がないと思う。

触法ASDについて報道されたとき、「被害者になる方がずっと多い」というギョーカイお得意の言い訳には「加害も被害もない方がいいだろうよ。クーポン制かよ!」と突っ込んでいた私ですが、以前から療育のスタンダードなSSTって社会に無理な適応を呼びかけているような気がして、むしろこんなのやったら社会が怖くなっちゃうんじゃないかと思っていたのですが

療育スタンダードなSSTにしろ、今回読んだ高山さんの本にしろ。

被害を与えてくる人間には「てやんでえ」という力が必要です。

「てやんでえ」と言える力をいさめるようなSSTでは世の中乗り切っていけないと思うよ。

やっぱりSSTの目的は
「饗宴に参加すること」だと私は思うんですよ。

ギョーカイは違うみたい。
社会は多様性を許さないと誤解していて、そしてそこで叩かれまいということを目的としているみたい。
だから言うことが卑屈。それに
それってサバイバルにつながらないと思いますよ。

治そうよ、って言ってる私は「発達凸凹な脳みそを活かす」ことを提唱しているんだけど
むしろギョーカイは「発達障害的な要素を隠す」ことを提唱しているのね。治せないけど、隠そうよ、みたいな。
しんどい人生になると思います。だとしたら。

言葉以前

2015-02-27 09:06:48 | 日記
高山恵子さんの本を読み続けるのが苦痛です。
でも最後まで読む。あと半分くらいだし。
お仕事として読んでいるんだからね。

ていうか私生活では絶対読まないよこれ。
自分が悩んでいる状態でも読まない。
答えを与えてくれるものではないから。

ストレスマネージメントについて書いてあるんですけど
このやり方だと余計ストレスが募りますわ。
私の場合。
というか、こういうやり方ばかり推奨するからきっとギョーカイは治せないんだな、っていう感じ。

それと、とにかくSSTが卑屈なの。
これはわりと療育スタンダードなSSTに割合感じることが多いんだけど、いつの話よそれ? 昭和初期? みたいな道徳の推奨をする。
こんな窮屈に考えていたら、社会適応って相当屈辱的なものになり、だから治さないんだな、ということもわかる。

たとえばこれ。

=====
4〉1秒でも早く、先に謝る  初対面の相手やお客様を怒らせてしまった時、相手に自分や会社の悪い印象を与えないために、自分の怒りの感情は横に置いて即、謝る。これは社会人にとって大変重要なスキルです。もちろん怒りに満ちて「とても謝罪なんてできない!」ということもあるでしょう。しかし、完全に怒りが治まらないとしても先に謝ることで、相手も「悪かった」と言ってくれることもあります。
=====

ちゅん平が会社で「こうは習わなかった」って言ってた。
日用品売ってる流通の現場でも今、こういう対応は教育しないわけですね。平成27年だからね。
発達障害の人が向いているらしき研究者やクリエイターでもきっとアウト。

私は高山さんを今回批判対象に選んだのは「専守防衛」の論理に従って、
つまりYTのとこにのこのこ出かけて行って妄想を肯定するようなこと書き込んでいたことへのお返しとして
数いるギョーカイ人の中から彼女を選んでいるわけですが

じゃあ高山さんに「嘘ついてごめんなさい」と謝られたって別にその後の私の行動にはなんの影響も与えないもんね。
そんなの当たり前。

それ以外にもとにかく「自己分析・自己分析・自己分析」の嵐で、しかも言葉でそれをやろうとする全部。
これだとねえ、治らない人いっぱいいますよ。
大脳皮質以前の部分で苦しんでいる人が多いわけだからね。
だから大脳皮質以前のところをラクにするのが近道なんです。
理屈っぽく自己分析なんかしなくても、自動的に自分に合った道を選び始めるのです。

とか思っていたらタイムリーなメールをいただきました。

急遽鹿児島行き。
ながーいメールの冒頭に「正直診察にはがっかりした」と書いてある。
そうかい、と思って読み進んだら、最後には「半信半疑で神田橋先生に習ったことをやったらびっくりするほど良い方に変わった! 行ってよかった!」とのこと。

つまりね。この方は自分の分析や望みをかなり頭でっかちにやっていた。そしてその理想に添えない自分をダメな人間だと思っていた。
そこで神田橋先生がしたアドバイスは遊びみたいなこと。
感情が解きはなたれていないことを見抜いたんでしょうね。
そこから治すのが、この方の望みに近づく近道だとわかったんでしょう。

でも頭でっかちになっていると、鹿児島まで行って遊びを勧められた、がっかり、自分の望みは遊ぶことじゃないのに、と思ったわけですね、当初。

でもね、そのアドバイスによって先生は

言葉以前の部分を治療したんです。
しかも先生ご自身は言葉の達人なんです。
だから五分ですむんです。

ギョーカイ本のながーいタイトル自身がもう、アタマ悪い証拠なんだなあ、と思いました。

神田橋先生は言葉の達人で、それで短い時間で治すんだけど

言語能力の残念な栗本さんが治すのは
やはり言葉以前だからですよ、メンタルヘルスっていうのはね。

それを言葉だけでやろうとして、しかもその言葉がつたない人が治せるわけはないよなあと思いました。

でもまあ、これもタイプによるけどね。

私が「私生活なら読まない」というのはそういう意味。
私なら高山さんのやり方じゃだめ。
かえって悪くなる。

良くなる人もいるのかもしれない。


私はこの本でどういう人が救われるのか
ちょっと思いつかないけど。
読んで「やってみよう」と思っても
やっていくうちに悪くなる人もいるんじゃないかしらね。

=====

黄色い本、昨日増刷分が広島に向けて出発しました。
広島の皆さん、売れないと栗本さんがいじけるから、買ってね。

発達障害支援ギョーカイに救われなかったあなたが生きづらさから解放される方法

2015-02-26 10:41:11 | 日記
今日のタイトルもギョーカイ本をまねて長くしてみました。

そう、昨日もまた「ギョーカイ本を読むという修行」を続けました。
選んだのは高山恵子さんの本。
てきとーに新しそうな本を選んだ。また長ーいタイトル。

高山恵子さんといえばギョーカイ人中のギョーカイ人。死んだふりも得意技。何しろYTのブログにのこのこ出かけていって「私はニキさんと浅見さんと両方にお会いしたことがあり、たしかに別人に見えました※が、きっとYTさんが同一人物だとおっしゃるのならそうなのでしょう」と言ってのけた人物ですからね。その書き込みを読んだ瞬間も、私がギョーカイに絶望した数多い瞬間の一つです。相手の持っている迷惑な妄想を肯定する。つまり、嘘つきです。別人だとじゅうぶん知る立場にいながら相手の嘘に合わせたわけです。なんのため? 自閉症者を傷つけないため? 嘘言われて被害受けてる私たちはどうなるの? これがギョーカイの言う「支援」「健常者に人権なし」ってやつですよ皆さん。

で、まあ今回は修行として、その嘘ついた人がどんな嘘を書いているかな、と思って読みました。
書いてあった書いてあった。
職業の適性として「ASDは研究者に向いていて、ADHDはクリエイターに向いている」という紋切り型の嘘。
これねえ、いっときますけど本物の研究者やクリエイターに結構無礼な発言ですからね。ギョーカイの外行って言うときは慎重に。

もちろんASDが研究者になれたり、ADHDがクリエイターになれることだってありますよ。向いてる面はあるもんね。でもギョーカイが嘘つきなのはそこで「社会が理解すればなれる」と強調することなんですよね。

まだ発達障害が知られていない時代、そういった特性を持った人がそういった職業につくことができたのは、本人が頑張り、その姿を見て周りが応援したからです。そこには「こいつは抜けてるとこもあるけどいいところもあるよね」というナチュラルサポートだってあっただろうけど。「発達障害だから努力しては・させてはいけません」なんていうギョーカイの嘘が彼らを取り巻いていなかった幸せな時代に起きたこと。むしろ人としての土台育てを怠る理由を診断が与えてしまう時代には、研究者やクリエイターで食べていけるスペクトラムの人は減るんじゃないかしら。

何しろ今はギョーカイが揃って「傷つけちゃダメ」の大合唱でたとえ本当のことを教えないという戦略をとっているからね。妄想すら肯定するんだから。だからこういう本を真に受けて「社会が理解すればこの子は研究者やクリエイターとして生きていけるのに社会の馬鹿野郎!」というルサンチマン親になったら結局遠回りですよ。

研究者だってクリエイターだって、労基法で守られていません。土日ありません。忙しいときはぶっ続けで働く体力は必須です。うまくいくことばかりではない、ダメ出しされることボツの山を築くことだってあるからストレス耐性だって必要です。そういうものがASやADHDの人にないのなら、せめてコンディショニングして一晩で回復できる方法を身につけておくと有利なのです。ストレス耐性や体力にさほど不自由していない定型発達者も研究者やクリエイターを目指します。その人たちとの競争が待ち受けているのですよ。たとえ偏った才能があっても、土台ができていなければその分スタートは不利なのです。

画伯に聴いた話を思い出します。
たしかにアーティスト、偏っている人いっぱいいるそうです。でも仕事がいっぱい来るようになると、むしろ人間としてバランスが取れるようになっていくそうです。社会が育てるのですよね、その人を。変人枠で健康に生きていくってそういうことですからね。ギョーカイのやり方では、そのスタート地点にすら立てませんよ。

というシビアな現実を私が率直に言うのは「嘘をつかないのが支援」だと思っているからです。

高山恵子さんは違う方針なのでしょう。
前述のYTへの言葉にせよ、※の前で留めておけばなんの嘘にもならないのです。
なぜ※のあとを付け加えるのか、謎です。
勇気がなかったから? YTに対峙する勇気がかけていたから?
だとしたら保身のために被害者であるわれわれに対し死んだふりしたっていうことですかね。
そういう勇気のない人の支援を私なら選びません。

めったに肩こりとかの出ないワタクシ、ギョーカイ本を読むというきつい修行をしていたら肩こりが出ました。でも昨日はジムお休み。
どうしようかなあと思いながら夕飯の支度していたら、お魚なんかさばいたり野菜切ったりが適当な運動になったのか、大分ほぐれました。
それから栗本さんにアドバイスを受け
お風呂→栗本さんに言われたコンディショニング→ワイン
で朝。すっかり元気になっていました。
黄色い本の138ページの現象です。私はもともと一晩寝れば回復できる身体の持ち主ですが、栗本さんはそうじゃない人にも回復力をつける方法を教えています。ストレス耐性が低い人でも、こういう身体を作ることはできる。それが栗本さんの教えてくれていること。
ギョーカイの嘘より、コンディショニングを学んだ方が近道ですよ、皆さん。

それにしてもめったに出ない肩こりがギョーカイ本読みあさりの修行で発症するとは!
生きづらいってこういうこと言うのかな?
でもね、そんなの一晩で治りますよ。治るようになりますよ。

一昨日はしなびかけた大根とバラ肉の煮物を作りました。皮はもちろん捨てました。昨日も書きましたが、圧力鍋の圧をかけ忘れという現象が起き10分ほど生きづらかったのですが、途中から圧をかけて大根もお肉もほろほろに煮えましたよ。



煮卵は週末作っておいたのです。つるんと皮剥けた勝率は五割。五分の星です。卵が変に剥けると、生きづらいですね(棒)。

昨日は鰯をニンニクで焼きました。コンベックに入れたあとでローリエの入れ忘れに気づき一瞬生きづらさを感じましたが、鰯とニンニクは実力があるから大丈夫。おいしくいただけました。何より昨日の快挙は、ゆで卵のつるんと皮剥け率が四勝一敗。大きく勝ち越しました。



生焼けの魚で生きづらがっている炭坑のカナリアさん。それをおおよしよしするギョーカイメジャー。
ルサンチマンに発する妄想を書き散らす当事者。そこにのこのこ出かけて行って妄想を肯定するような書き込みをするギョーカイメジャー。

彼らの救えない生きづらさを
身体アプローチは一晩で回復できます。



「他人に迷惑をかけない子に育てろなんて差別だ!」という主張が有利に働く場面とは

2015-02-25 10:31:14 | 日記
ギョーカイ本、揃ってタイトル長すぎ。
ながーいタイトルのあとに、長いサブタイトル。何言いたいかぼけます。
訴えたいことあるんだろうけど、っていうのがギョーカイ本修行をしてみて気づいたことです。
気をつけないとなあ、これ。

っていうわけでギョーカイ的なタイトルのエントリを書いてみました。
にわかにはわかんないかもしれないけど要するに
賢ママさんのおうちのように「迷惑をかけない子に育てる」という方針を貫き報われたおうちもある一方、迷惑をかけない子に育てる、という方針そのものを批判する人もいて
じゃあ「迷惑をかけない子に育てるなんて差別!」という人はどういう場面でその子育ての方針が効果を発揮するでしょうかというお話。

「迷惑をかけない子に育てる」という方針を見て「そんなの差別だ!」と発言している人は客観的に見ると

「ああ、あそこのうちの子育ての方針は『迷惑をかけない子に育てる』ではないんだな」

とわかります。
ネットの仲間でも「そうだよね、そうだよね」「迷惑をかけない子に育てるなんて差別だよね」と共感を分かち合うことができるし
それを見ている将来の雇用主候補、卒後の行き場となる事業所候補にも丸見えです。

そしてまた、「治すなんて差別!」だと仲間内で盛り上がっていたり
「治す」にこだわる特定出版社を仲間内でたたき続けている姿は
将来の雇用主候補、卒後の行き場となる事業所候補にも丸見えです。

別に悪いことじゃないと思いますよ。
方針がはっきりしていますからね。
親が親活動を自己実現の場にしていて、本名で本を出したりしていれば、よけいわかりやすいですね。
社員候補や利用者候補がきたときに「あ、あの『迷惑をかけないという子育ては差別』『治すなんて差別』の人のうちの子かあ」とか
「中田大地君という子が小学生の時『修行は大事』という本を出していたら騒いだ人たちの一人だな」とかとてもわかりやすい。

そうしたら、同じような方向性を持った雇用者候補、事業所候補とは話が早いかもしれませんね。

「迷惑をかけない子に育てる、なんていうとんでもなく差別的な子育ての方針のおうちもあるみたいですけど、うちの子はそういう目にはあわせないで育てました!」とか。
「修行なんて差別だから一切させていません!」とか
同じような志の人たちと盛り上がって、卒後の進路が絞りやすいかもしれません。
青いお札を共有できるところと巡り会いやすい。



もし
「いやあ、うちの事業所は迷惑をかけない子に育てるという方針の親御さんの子のほうがいいな」と思うような事業所があったら
そこは「差別的!」なのですから
別にそこを利用する必要なんてありませんよね。

だからどんどん
「迷惑をかけない子に育てるなんて差別!」
「治すなんて差別!」と言い続けていればいいと思います。
時の経つのは早い。
親がそう主張する姿をさらし続ける間に、あっという間に18の春が来ます。

発達と縁遠くなる条件ずばりお教えします!

2015-02-25 08:22:15 | 日記
ブログ父、キャラバン母、炭坑のカナリア当事者。
発達と縁遠くなるのにうってつけの条件である。

とにかく「弱者であると前面に出す啓発」を商売にしたら、どんどん発達から遠ざかることができます。
「親の会で自己実現する親の子は発達が以下略」
と最近もベテランお母様に習ったばかり。

そしてその最たるものといえば、青いお祭りですね。

今、自分の「啓発嫌い」の根っこを突き止めるために、あえて考えの違うギョーカイ人の本を読むという修行の真っ最中で、「生きづらさ」のハイパーインフレを起こしているキャラバン母の担当章を読んだ。
そして「生きづらさ」の根っこを見た気がした。

この母自身、特性の強い子で、学校にはなじめなかったそうだ。
でも本は好き。本はふんだんに与えられたそうだ。
そして本を読んで寝るのが遅くなったら、学校行かなくてよかったそうだ。

だったら朝起きてどこか行かなきゃいけない社会は生きづらいだろうね。
そして生きづらさのハイパーインフレ。
「社会の理解ガー」をやってる。
きっと自分の子ども達のためには朝起きなくていい社会の到来を望んで啓発に励んでいるんだろう。

本をふんだんに与えられた社会に相当助けられたと思うんだけど、社会の糾弾に熱心。
「自閉症の人が何かトラブルを起こしても仕方ないと言ってもらえる社会」を目指して青いお祭りその他の啓発活動に励んでいるんだって。

それはまあ自由だけど
大根の皮にもおいしいのとおいしくないのがあるわけで

そうやって「仕方ないと言ってもらいたい」活動に賛同している当事者の人たちが「おいしくない方の大根の皮」認定されても

それはまあ、自分の選んだ道ですからね。

青いお祭りに行けない方のための黄色いお札です。

そうそう黄色いといえば

やっぱり今なら私は、睡眠リズムが整っていない子には
黄色い本を薦めますね。



そうやって本は夜中じゃないときに読んだ方が、身につくしね。

炭坑のカナリア、生焼けの魚を焼く

2015-02-24 06:53:38 | 日記
昨日はコメント欄でもついったーでもFBでも、お祝いのメッセージをありがとうございました。
ちょうど前日、昨日も触れた「大根の皮本」を読み、コメント欄にも書いたように
裁判があったからこそ私はまだ発達障害を続けているのかもしれない、と思いました。
昔は仲良しだった人もいたギョーカイメジャー。でも裁判の経験があったからこそ「治す方向を考えないと発達障害者支援は社会正義に反するだろう」と思うようになりました。
実際私が加害者の主治医であった内山医師にした質問はこれです。
「加害行為を放置するのが支援なら、発達障害者支援は社会正義に反するものなのですか?」
あのまんまギョーカイメジャーに沿っていたら、今頃つまんなくなってたかもしれません。

というわけで大根の皮本続き。

読みながらこの先生は、本当にいい先生なんだろうな、と思ったのも事実なのです。少なくとも内山医師周辺のように、ルサンチマンを訴えて拳を振り上げたりしない。それだけでも、好感がもてます。おそらく臨床家としては神田橋先生と同じように、目の前の患者さんをラクにするのに必死。ただその手がないだけだと思います。おそらく身体の問題にさほど興味がないから遠回りしているのかも知れない。少なくとも本には身体的なアプローチは書かれていません。だからまあ率直に言って、善意はあるけど治療効果はさほどではないのかも。あくまで「対神田橋比」ですが。それでも患者さんにとってはいい先生だと思います。

でもねえ、「生きづらさ」のインフレを起こしていらっしゃるんですよね。「生きづらいでしょ? ね、生きづらいでしょ?」って。
それが押しつけがましくてね。
これがいやになってしまう人はいるだろうし、逆に発達障害に関係のない人が読むと、「やっぱりめんどうそうな人たちだからかかわるのやめよう」と思うかもしれません。

大根の皮系ギョーカイ本のリスクはここ。
ギョーカイ人が必死に「理解を!」と訴えると「大根の皮はいらないわ。捨てるわ私」っていう人も出てくるっていうことです。

そしてここでインフレーションを起こしている生きづらさの一つが「生焼けの魚」です。
「適当にみつくろう」とかが苦手なASD。

新婚時代に生焼けの魚を出して叱られた→生きづらい

なんだそうです。生焼けトラウマ。ぽかーん。
これまで生きづらさにされちゃったら、疲れて帰ってきた上生焼けの魚を出された方はたまったもんじゃないですね。
第一生焼けだったらまた焼けばいいだけの話。

ていうか療育受けてる自閉っ子って、そのへんの定型発達児よりお手伝いしてますよね、今は。少なくとも花風社クラスタの皆さんのついーととか見てると、私は小学生の頃こんなにお手伝いしてないぞと思います。

私がこの生焼けエピソードから引き出す教訓は「おお、やっぱりお手伝いムダにならないな」ということ。「定型発達の子でもやった方がいいけど、自閉っ子はもっとやった方がいいね。家庭を持ったとき自己肯定感が下がるリスクを一個減らすためにでも」ということ。

結婚するまで家事を覚えずに結婚するなんていうのは別に珍しくないと思いますが、それで失敗したときのダメージが違うんだろうな。

でもそれを防ぎたいのなら親の保護下にいる間に何百回と魚焼く練習でもしておけばいいじゃないですか。さすがに覚えるでしょ、そしたら。

そんなカンタンなことを「炭坑のカナリア」を自称する人は「生きづらいエピソード」にしてしまい、ギョーカイ人は「ほら生きづらいでしょ?」と生きづらさインフレを起こす。「この人たちは生きづらいんです! お魚を生焼けにしちゃうんです! それで叱られて自己肯定感が下がるんです!」と叫ぶ。

これはね、外から見るとバカみたいなエピソードです。

そういうカナリアさんが生きづらがっていても、ギョーカイという炭坑が原因なんじゃないかと思ってしまいます。それが正直なところ。

広い社会では「生焼けの魚は焼き直せばいい」と教わると思いますよ。

つまり

ギョーカイより一般社会の方が、実質的な知恵を与えてくれることも多いんじゃないかな。
でも支援者の飛び道具として、「プロの炭坑のカナリア」になってしまうと、生きづらさのインフレにおつきあいしなきゃいけないんですよね。

大根の皮としての発達障害者

2015-02-23 06:10:34 | 日記
しばらく遠ざかっていたギョーカイ本ですが、次の仕事に必要かなと思い色々仕入れてみました。
昨日一冊を読みました。
ドクターと当事者の方の共著。

確かめられました。

「ギョーカイは発達しない」と。
15年前と主張がおんなじ。ぶれてません(ほめてません)。
でもパッケージは変わっています。
タイトル周りが「発達障害を活かす」とか「処方箋」とかになっています。
ただの「社会の理解ガー」に見えないように工夫されています。
だからギョーカイは知らなくても、版元は世の中の変化を読み取っているのかもしれませんね。

「発達障害を活かす」っていったって、長沼先生の「活かそう! 発達障害脳」みたいな「活かす」話は全然出てきません。
神田橋先生や愛甲さんのいう「資質の開花」とか
凸凹の脳みそは凸凹ゆえに発達する、みたいな話も出てきません。

何しろ「発達障害の特性は努力で改善しない」と言い切っているのです。言い切り。すごい。
「特性は改善しない」
ここから訴えが始まるのがギョーカイのお約束ごとで、それは変わっていないようです。

「発達障害の特性は努力で改善しない」と言い切る人の本を、いったい誰が活かせるのか考えてみました。
そして思いついたのはこんなケースです。
正社員として採用した人材がどうも使えなくて、どうやら今流行の発達障害っていうのみたいな感じがするけど、クビにすることはできないし、でもなるべく足を引っ張ってほしくないんだよね、という人事部の人がいたら、この本は活用できるかもしれません。
「発達障害者は社会のお荷物」と認めた上で「いかに飼い殺すか」を教えてくれる本です。

数日前もりしーさんが「饗宴に参加できる子を増やさなあかん」とFBで言ってたのを思い出しました。
饗宴に参加できない子を参加できる子にする。それは「治す」ことです。
スポーツにはそれができるんだと思います。チットチャットみたいな、特性の強い子に合わせたスポーツにはね。
そうやって育った子は、別に飼い殺される必要はない。
そういう時代が来たと私は思っていますけど、ギョーカイメジャーはまだ思っていないというわけですね。

っていうわけで全然発達障害を活かすことにはなってないじゃんこの本、と思って昨日は眠りにつきましたが

朝起きて脳みそが整理されてみると
ああそういえば活用を提言しているかもなあ、と考え直しました。

画伯が以前、使ったあとの出し昆布で佃煮作ってるのをブログに載せてました。マメだなあと思いました。私は割とその場で食べてしまいます。でも画伯は冷凍庫にためておいて佃煮みたいにして酒のつまみにするというのです。

そして画伯は、大根やにんじんの皮もきんぴらにすると言っていました。私はこれ捨てちゃってるなあ。

そして気づいたのです。
昨日読んだギョーカイメジャーの本は、そういう意味で「発達障害者を活かせ」と世間に訴えているのかもしれない、と。

つまりね

出し取ったあとの昆布とか、大根の皮とか、使えないから捨てようと思う前に、工夫して使ってみてくださいよ

っていうことです。

「風呂の残り湯は洗濯に使えますよ」

みたいな。

そうかこれがギョーカイの言う「社会の理解ガー」なんだ、と思いました。

つまんない話ですわ。
私はもりしーさんと同じ。
饗宴に参加できる子を増やしたい。

というわけで予告です。

4月29日、いかがわしいおっさん二人が横浜に来ます。
長時間のセミナーになるのですが
前半は花風社主催で栗本さんのコンディショニング講座。今度のテーマは「集団適応」です。時期的にいいでしょ。
後半はチットチャット主催でもりしーさんの「スポーツ指導者養成講座」。大阪では児童デイの職員さんとか保護者の方とか参加されるようですが、それが関東初お目見えです。スポーツを人作りにどう役立てるか、もりしーさんがそのメソッドを素早く広げたくて開く講座です。
どっちかだけでもいいけど、両方申し込んでいただく場合には、支払いも入場券の発行も花風社とチットチャットがそれぞれ行いますので、若干お手間かけます。
午後花風社、午後から夕方にかけてチットチャット、というスケジュールです。
詳細がわかったらアップしますね。

昨日は栗本さんが都筑区の訓練会に行き、本も完売したそうです。
都筑区の皆様、お気遣いいただきありがとうございます。
でもきっと役に立ちます、その本は。

「障害児の未来は、消化試合ではない」
「成人発達障害者は、大根の皮ではない」

を信念に、花風社はこれからもこのあやしいおっさんたちの知見を広めようと思います。

黄色本、芋本のコンセプトは「今日からできること」です。
成人だからって遅くありません。
今日から身体を変えられます。身体を変えられると状況が変わります。

だから私はギョーカイのように「社会のお荷物だけど工夫して使って」という主張はしません。
「改善」にこだわります。「改善のための努力」をする気のある人に有益な情報を提供していきます。

花風社は今日19歳になりました。
皆様のご愛顧の賜です。
ありがとうございます。

「迷惑をかけない子に育てる」という方針がまた報われました!

2015-02-21 09:57:31 | 日記
朝から嬉しいニュースが。
皆様におすそわけ。

「迷惑をかけない子に育てる」という子育ての方針がまた、報われたというニュースです。

賢ママさんのご子息。

憧れの企業での実習を経て

内定が出たそうです。

おめでとうございます。

そして賢ママさんご自身も先日鹿児島に行かれて、神田橋先生の治療を受けた結果とても調子がよく

地元の先生から減薬の申し出があったそうです。

嬉しい春を迎えられる賢ママさんご一家に
心からの祝福を送りたいと思います。

おめでとうございます!

そして賢ママさんの子育てについて知りたい方
「自閉っ子のための道徳入門」をぜひ読んでくださいね。

ガンと発達障害

2015-02-21 09:36:17 | 日記
発達障害者を末期のガン患者になぞらえる論調を猿烏賊山でみた。
私はかつて、「自閉っ子のための努力と手抜き入門」に「障害児の未来は、消化試合ではない」という一文を書いたことがあるが
発達障害の子どもたちとガン患者は根本的に違うと思っている。
末期のガン患者に接するとき、周囲の人は穏やかに看取りたいと願う。
けれども発達障害の子どもたちは、順調にいけば親を見送ることになる。
子どもたちには未来があるのだ。
その事実に目を向けず、末期のガン患者を自閉症児になぞらえるアナロジーを使う人にとってはきっと、ホスピスみたいな環境を作ることが支援なのだろう。
私の考えは違うし、花風社の出版物に共感してくださる読者の皆様もホスピスを望んではいないだろう。ありえないし。

私自身はガンとは今のところ縁がない。
けれども私は空気から生まれたわけではないので、当然血縁者には高齢者もいて、ガンとは全く無縁ではない。
身内がガンにかかったとき、私は標準医療を否定しないし、標準医療と代替医療の併用も否定しない。
なぜか。
ガンは今や標準医療で治る病気になった。そしてコンディション作りに民間療法を採り入れて調子がいいのなら、それはそれでいいだろうから。

ガンが標準医療で治るようになったのは、数多くの先生たちが「治そう」という志をもって治療研究に当たってきたから。
それに比べて発達障害のギョーカイでは、魚屋が大根売るようなインチキ医療が多い。
医療者なのに「社会の理解ガー」とか「ペアレントなんとか」とかやっている医師たちが海老踊りしているんですからね。医療者は治すのが仕事であって障害理解のない社会を糾弾するのは医療の仕事じゃありません。
そしてあげくの果てには「一生治りません」。
医師たちが権利擁護ごっこにあけくれていたらそりゃ治るようにはならないでしょうね、と思います。
魚屋なら魚を仕入れてほしいですね。大根は八百屋で買います。

ガンの治療にあたってきたお医者さん達は少なくとも「ガンをなくせなんて差別!」という活動に貴重な時間を費やしたりしなかったのではないかしら。
治すという医療の根本的な責務を放棄しなかったのではないかしら。そしてガンは治る病気になったのではないかしら。

そういう標準医療なら、信じられるよね。