治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

八つの質問

2013-05-31 06:53:53 | 日記
さて、六月に某所の教員研修で講師を務めますが
(クローズドな会で一般参加者は募集していません)
昨日そちらから事前の質問が送られてきました。八つです。

大前提として申し上げておきたいのは
私はこういう会に呼んでいただいて、とても嬉しいということです。
参加者は支援級や通級の先生たち。
日々現場で奮闘していらっしゃる先生たちが
「なんとかもう少し自閉っ子のことを知りたい」という思いで呼んでくださったのだと思いますから。

一方で保護者からは「教師の専門性がない」という不満も多いのも事実。
「研修とかよくやってるけど何勉強しているんだろう」という声もよく聞きます。
今度の本にも載ってるけど
教師の専門性ってほんと、なんなんでしょうね。

さて、昨日のうちに6月30日、札幌の講演会の要旨をまとめようと思ったのですが
午前中この質問をいただいて、また考えました。
愛甲さん、栗林先生、ニキさんという貴重な人材にそれぞれ何を語っていただくか。

というわけで、まずは八つの質問に
どう私が答えるか、ここにメモしておきたいと思います。

◎問1 自閉症スペクトラムの人が生きやすく過ごすために当事者や支援者ができることは?

答 身体・認知・向いている学習方法・関係発達などのアセスメントをし、それに合った生活を構築すること。

◎問2 自閉症スペクトラムの人が社会の中で適応していくための生活術とは?

答 自分研究と定型発達研究。あと無駄に社会を恨まないこと。

◎問3 子どものころにどんな支援がほしかったか。してもらってよかった支援とは何か?

答 一言で言えばこれは愚問。この質問が出てくること自体が理解不足のあらわれ。
ということをオブラート100枚くらいにくるんで言おうと思います。私は気が弱いのでね~。

◎問4 社会の中でASDの人たちが理解されるために必要なこと。

答 変人枠への理解が進むこと。「理解し、配慮してあげよう」では全体的には理解は行き渡らない。むしろ「なんか事情があるんだな」とつっこまない「自他の区別」を社会の成員の多くが獲得したとき、発達障害の人は生きやすくなるでしょう。今のようにクリシェで情報交換したり誰かを集中的に叩いたりしているような世の中では、発達凸凹の人は生きにくいままでしょうね。
ということをオブラート100枚にくるんで(以下同文

◎問5 発達特性を持った人が能力を活かせるようになるために、今後社会が変わっていくべきところは?

答 社会に変われというまえに、教育現場よ、君たちが変わりなさい。個性の尊重なんていう点において、社会の方が進んでいる。そこに追いついていないのは君たち教員だ。
ということをオブラート1000枚くらいにくるんで(以下同文

◎問6 浅見さんがニキさんと仕事をする上について何を配慮したか。

答 「自閉っ子と未来への希望」を読みたまへ。ていうか講師に呼ぶんなら著書くらい読んでおきたまへ。それが普通の社会人、少なくとも知識人の仕事のやり方であり、こういう質問が出てくること自体稚拙なんだ。それとも小中学校の教員っていうのは知識人じゃないのかな? ちなみに栗林先生は新刊の中で、教師の専門性についてこう言ってるよ。
ということをオブラート100枚くらいにくるんで(以下同文

◎問7 なぜニキさんの本を出そうと思ったか。

答 問6に同じ。以下同文も同じ。
と言いながら私は親切なので、6についても7についてもそれなりに経緯を説明すると思います。

◎問8 大人の発達障害の方と仕事をし、小中の教師に伝えておきたいこと。

答 障害のある子の将来を、消化試合だと思わないこと。その子にあっている学習方法を探る上で怠慢にならないこと。
これ、今までは「その子に合った学習方法を探して下さい」みたいな言い方をしていましたが、言い方を変えました。「合っている学習方法を探る上で怠慢にならないこと」に切り替えようと思います。
それと、集団を押しつけないこと。建前ではなく本音で接すること。友だち作りにあせらせないこと。
その他、当日いっぱい話そうと思います。

脳内オブラートを忘れないようにしないとね。

というわけで札幌の講演会では栗林先生に「教師と専門性」みたいなことをしゃべってもらうおうと思いました。

今日中に要領まとめますわ。今日こそ。

教室の備品から人間へ

2013-05-30 08:44:31 | 日記
さて、この前からちょくちょく話題にしている新刊は
「自閉っ子のための友だち入門」という本です。
「友だちほしい人、友だちいらない人」
どっちにも役に立つ本です。
栗林先生、愛甲さんが登場しますが
実はニキさんと藤家さんも登場します。

そう。ニキさんが小学生のころ「友だちは教室の備品だと思っていた」っていうのは
今では「コタツの中の脚」同様広く語られるエピソードになっていますが
自閉っ子は発達します。いつまでも友だちが教室の備品に見えてるわけじゃないし
いつまでも友だちがいないわけではありません。
ちゃんと自分にあった社交生活を発見していきます。
というか、発見して、そして社会性を生やしていったり、楽しい時間を持ったりします。
そのプロセスを、最近ちょこちょこ講演でしゃべっているのを聴いておもしろいなあと思い
「一文にまとめてもらえませんか?」と言ったら
ニキさんが、文章にまとめてくれました。

原稿をもらって、読んで、笑いました。
そしていつものとおり、その分析と表現にうなりました。
電話でそう話したらニキさんは

「そお? 自分では当たり前のことを書いただけなので、どこが面白いかわからない。
だからやっぱり編集者って必要なのよね。
あ! 別に浅見さんが編集者として優秀じゃないよ、って言ってるわけじゃないよ。
長沼先生の本はさすがって思ったよ」



って言ってくれました。

時間はかかったけど、友だちは教室の備品じゃなく人間になったし
時間はかかったけど、編集者の存在意義もわかってくれたようです。
よかったよかった。

ということで
愛甲さん、栗林先生、ニキさんが登場しての「自閉っ子のための友だち入門」
出版記念講演を開きます。
場所は札幌駅近く。
日時は6月30日日曜日、13:15~15:45の予定。
講演要項は、別途本日中にアップします。
どうぞお楽しみに!

敵もまた財産(私的五月場所総括)

2013-05-28 10:16:10 | 日記
さて、五月場所が終わりました。
十三勝で準優勝という結果だった我らが稀勢関ですが、北の湖理事長審判部横審それぞれ来場所が綱取りかそうあないかとか議論しているようです。
稀勢の里原理主義者として言わせてもらえれば、綱取りはご本人と相撲の神様が決めればいいこと。
親方たちも横審のおじいさまがたも黙って見ていてほしいもんですが
これが(いじられるのが)稀勢の里の資質(神田橋先生、愛甲さん的に)なので仕方ありませんね。

画伯もブログで五月場所の総括をなさってますね。画伯が人の顔を見る見方って面白くて、私は最近画伯の影響で仏像なんかをよく見るようになりました。で、たしかにお相撲さんは仏像顔が多いので、画伯の分析を楽しんでいます。
画伯の見た目の確かさは、うちの著者さんたちをリアルで見たことのある人には周知の事実ですよね。

相撲部の稀勢の里クラスタ仲間、甚之介兄さんも総括をまとめていますね。画伯同様、こちらもらしい視点です。たしかに内容の濃い日と薄い日があったなあ今場所。一応毎日見たのですが、驚くほど記憶に残っていない日があります。それと、白鵬に対する見方はげどうです。

ということで私も私らしく
「脳みそラクラクセラピー」を作ってからわかった「資質の開花」という視点で今場所をまとめてみたいと思います。

場所中ずっと、九時のNHKニュースで「日本人力士よ奮起せよ」みたいなシリーズをやっていました。
国技館周辺でアンケートを採って、どの日本人力士に期待しているかを調べ、それをフリップにして毎日使っていました。

こういうのをやれば、ダントツは稀勢の里なのです。それは間違いない。
そしてその後、順番は覚えていませんが隠岐の海、豪栄道、栃煌山と続き
大関にもかかわらず琴奨菊は5位でした。たしか得票は一桁。

私はセオリーオブ菊関マインドがあるらしく、これを見てご本人はどういう気持ちになるのかを考えてしまいました。
何しろ「十四敗してもいいから稀勢には勝ちたい」とか「愛される大関になりたい」とたびたび公言されてきた方ですからね。

というわけで、千秋楽を前にして理事長が「稀勢の里は来場所綱取り」と宣言してしまったとき
菊関が千秋楽の相手だというのが、因縁だなあと思いました。
大関取りがかかった一番も、相手は菊関でした。そして稀勢の里は負けました。
最近対菊五連勝だとか、場所前の稽古で圧倒していたとか
そういう感じで千秋楽の本割りを心配している人は少ないようでしたが
私はわからないぞと思って見てました。

結果、完敗です。
実はがっかりするより前に、笑ってしまいました。
ここぞとばかり綱取りをぶっつぶそうと向かう菊関も、いざというときツメの甘いうちのバカ息子も
あまりに「らしかった」からです。
結果、ここのところ千秋楽に勝ち越していたりした菊関は久々の十一勝を上げました。

思うに、暗い情熱だって才能なのだと思います。
暗い情熱って、持っているのが恥ずかしいものかもしれないけど
それは合法的に、そして自分にトクになるかたちで生かせばいいと思います。
ネット上でぶつぶつ言ったりするのは、せっかくの暗い情熱の無駄です。
稽古場で鍛えて本割で発揮すればいいのです。

話を稀勢関に戻しましょう。
稀勢関には、「贔屓を悶絶させる才能」があります。
「ここは落としてはいけない」という勝負は落とします。必ず落とします。
私自身、ちびちび生きる社会人として
大関になるようなスケールではなくても自分なりの勝負を日々していますが
実は私、「ここは落としてはいけない」という勝負を決して落とさない人なのです。
そして落とす人はバカだと考えてきました。
ところが稀勢関は落とすのです。
じゃあダメな子なのかというと、実は長い目で見ると進歩しているのです。
「この子がどうやって大関になるだろうか」と悩んでいたら、ああいうかたちで大関になりましたし
その後、安定した大関でした。
でも安定って壁ですから、どうやって壁を突破するかな、と思ったら
今場所は(最後はしまりがなかったけど)明らかに「ああ、綱取るなあ」と確信させる場所になりました。

人の戦い方も成長も、様々です。

昨日からの稀勢関綱取りを巡る喧々がくがくを見て
私は大大大博士祭りのときの神田橋先生の言葉を思い出します。
「世の中は、敵と味方がつねに同じ数いるものです」
この言葉は、真実だと思うのです。

他の関取衆が、琴奨菊にせよ日馬にせよ把瑠都にせよ、稀勢関との取り組みにだけ目の色を変えるのは有名な話ですが
それは親方やファンから異様に贔屓されていることの裏返しなので、それが稀勢関の資質なのだと割り切るしかないのだと思います。
北の湖親方はかつて「憎まれるほど強い横綱」でした。
顔がそっくりになってきた稀勢関は、星の数ではまーっったく追いついていないのに、不思議なほど愛され、愛されるがゆえにいじられ、そして苦労しています。面白いもんだと思います。
ここでおじさんたちが昇進で特別扱いする様子を見て、他の上位陣の心中やいかに。
名古屋場所は確実に面白くなると思います。

それと、横綱白鵬関。
きっと稀勢の里が強くなることにより、白鵬のお相撲が変わっていくと思います。
あまりに優等生でしたが
そうじゃない、ダークなすごみのある面が出てくると思います。
と思っていたら昨日の優勝一夜明けの記者会見でご自身もそういうことおっしゃっていたようですが
人と人の相互作用って面白いですね。敵もまた財産。

世の中的には、暗い情熱を燃やしている人には「人をねたむな」といい
ぽろぽろ取りこぼしている人には「取りこぼしに注意しなさい」といい
弁が立つゆえに揚げ足取られる人には「口に気をつけろ」と言うのでしょうが

ひっくり返せばそれはいいところなので
思い切って資質の通り突っ走ったほうが効率がよさそうな気もします。
そしてそのとき出てきちゃった問題は、正面から向き合ってつぶしていけばいいです。ひとつひとつ。

今度の新刊の話をすれば
「友だちいらないという気持ちも才能」っていう話が出てきます
そういうことなんだと思います。

違いを教えてほしい

2013-05-27 07:22:22 | 日記
昨日のエントリへのコメント、ありがとうございました。勉強になります。
まずおたけさんや親父代表さんのコメントでいただいた気づきはこれ。

「ああ、父親が連れて行くわけにはいかないな」

言われてみれば当然なんですけどね。

私は「自閉っ子のための道徳入門」を作る前から、瀧澤久美子さんに障害のある方と性のお話をたびたび伺う機会がありました。
そのときに今回と同じように「ああたしかに、言われてみれば当然だ」と思ったのは
「男の子に自慰は必要だけど、女親が教えてはいけない」ということです。
「お母さんにやってもらえるもの」という俺ルールを作ると、とんでもないことになります。
本を読んだ方ならおわかりですね。

そしておたけさんや親父代表さんのコメントで
そういう場所につれていくのは、たしかに父親ではまずいだろうと思いました。
その点、社会人の先輩はぴったりなわけで
一人の人間が、障害があろうとなかろうと大人になっていくときに、多くの人がかかわる必要を改めて思い出しました。

よぼちんさんのコメントを読んでですが
私もその事業主さんから話を聞いたとき、全然不愉快な感じはしなかったんですよね。
むしろよぼちんさん同様「本質的なことがわかっている人だな」と思いました。
男性従業員を風俗に連れていくような人だからこそ、自閉文化への理解も深いのだ、と今の私は理解しています。

というか、皆さんに教えてほしいんです。
もちろん風俗という場に、なんらかの人権侵害があってはいけません。昔のように、飢饉だから娘を売る、なんていう社会に後戻りしてはいけない。
でもたとえば、自閉っ子のための特別支援を当然の権利として主張する人たちが、男性の生理的欲求に答える産業の存在自体を女性の権利侵害と短絡的に結びつけられるのはなぜなのでしょう。
私は純粋に知りたいのです。自分ではわからないので。

もちろん賢ママさんのおっしゃる通り、感染症とかは心配ですし、そういう配慮がなされていない現場もたくさんあるのかもしれません。想像でしかありません。
けれども男性が(私にはわからないけど)種の保存というプログラムのため、強い生理的欲求があるのなら、それを発散する産業の存在が、一部の女性団体なる人々の主張するように女性の権利侵害につながるという主張の裏付けはいったいどこにあるのでしょう。
こういう疑問を持つのは、私が現場を知らないからでしょうか。

私は純粋に知りたいのです。
もし風俗がけしからんと言いながら、当然の自閉っ子の権利として構造化や視覚支援を要求する人がいたら、その違いは何なのか、と。
非自閉で女性である私の身では、どっちも必要性は感じません。なぜ男性がひんぱんに発散しなければいけないかがわからないと同様に、なんでホワイトボードだのついたてだの絵カードだのが必要なのかわかりません。
けれどもどっちも「私には必要ではないけれど生物学的に必要な人がいるから存在するのだろう」と受け入れていて、そこになんらかの人権侵害が生じていないことを前提に、存在自体に異議を唱えるのは女性であり非自閉である私には越権だと思っています。

もちろん男性だって、風俗を利用しない人は多いことでしょう。
そういうところに行かなくてもパートナーに恵まれている人かもしれません。そういう人が性的弱者(なんらかの理由でパートナーに恵まれない人)が風俗を利用しているのをさげすむとしたら、それこそ鼻持ちならないと私には思えるのですが。

そしておそらく生理的欲求の強さも個人差があり、その個人差も、風俗を利用するしないの違いにつながっていることでしょう。
それは同じ「自閉症」という診断があっても、それぞれ特性が違い、どこまでの構造化を必要とするかが違うことと、どう違うのでしょうか。
私は純粋に知りたいのです。

障害の問題に関しては、個人の努力だけではなく制度的な解決を求める人たちが
性の問題に関しては制度的な解決をさげすむのはなぜでしょう。
私は純粋に知りたいのです。

自閉っ子の特性に合わせることを躊躇する特別支援教育の現場も多いといまだにききます。
そして、もしかしたら、一部の現場では
「みんな違ってみんないい」等の「きれい事」を唱えるよりも
「自閉脳にふさわしい支援を与えないことは、男性教師であるあなたが生理的欲求の発散を我慢しつづけるようなものですよ」と言った方が話が通りやすいのかもしれません。

トニママさんのコメントも興味深いものでした。
「現実的な性教育」を学校に要求するのもアメリカっぽいし、学校が難色を示したとき「性犯罪者になったら訴える」と保護者が主張するのもアメリカっぽいです。
こういう教育を学校に要求しなければいけない。それがおそらく、性に関し建前を重視しなければならないアメリカ社会の現実なのだと思います。

日本に問題があるように、どこの国にも問題があります。
私たちは今いる場所で、それを一つ一つ解決していかなくてはなりません。

今日橋下徹氏の外国メディアに向けての記者会見があるようですが、その(現時点での)内容が昨日のうちに発表されたようです。
その中から一部抜き出して貼ります。

全文読みたい方はこちらへ。
大して長い文章ではないのに、全文載せてない新聞もあるようですが
全文が見つかったので、リンクしておきます。

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(橋下徹氏「私の認識と見解」上記リンクより一部抜粋)

 また、沖縄にある在日アメリカ軍基地を訪問した際、司令官に対し、在日アメリカ軍兵士の性犯罪を抑止するために風俗営業の利用を進言したという報道もありました。これは私の真意ではありません。私の真意は、一部の在日アメリカ軍兵士による犯罪を抑止し、より強固な日米同盟と日米の信頼関係を築くことです。一部の在日アメリカ軍兵士による犯罪被害に苦しむ沖縄の問題を解決したいとの思いが強すぎて、誤解を招く不適切な発言をしてしまいましたが、私の真意を、以下に説明いたします。

 日本の安全保障にとって、米国との同盟関係は最も重要な基盤であり、在日アメリカ軍の多大な貢献には、本当に感謝しています。

 しかしながら、多くの在日アメリカ軍基地がある沖縄では、一部の心無いアメリカ軍兵士によって、日本人の女性や子どもに対する性犯罪など重大な犯罪が繰り返されています。こうした事件が起きる度に、在日アメリカ軍では、規律の保持と綱紀粛正が叫ばれ、再発防止策をとることを日本国民に誓いますが、在日アメリカ軍兵士による犯罪は絶えることがありません。同じことの繰り返しです。

 私は、日本の外交において日米同盟を重視し、在日アメリカ軍の日本への貢献を大いに評価しています。しかし、人権を蹂躙され続ける沖縄県民の怒りは沸点に達しているのです。在日アメリカ軍兵士による犯罪被害に苦しむ沖縄の現状をアメリカに訴え、何としてでも改善してもらいたい、という強い思いを持っております。

=====

はっきり言って、これは沖縄だけの問題ではありません。
沖縄の負担に比ぶべくもないけれど、二番目に基地の多い県に住んでいる私は、基地のない県に住んでいる人より現状を知っています。

私は「自閉っ子のための道徳入門」という本を作りました。
お読みになった方はわかっているでしょう。

道徳入門の内容は、説教ではありません。

「生き物として持って生まれてしまった衝動を、いかに社会的に受け入れられる方向に向けるか」

これが私があの本で伝えたかった「道徳」です。

自閉っ子男子を育てている方たちに質問します!

2013-05-26 09:36:16 | 日記
さあて、千秋楽ですよ。

というのでいろいろ忙しいので今日のブログは手短に。

たった一つの質問だけです。
自閉っ子男子の関係者の方々に。

私がお会いしたある特例子会社の関係者。
障害のある従業員と、人と人として良好な関係を続けていらっしゃいます。
日々働いている様子をうかがっても、「本当にこの方、自閉っ子が好きなんだな」というのが伝わってきます。

だから仕事だけじゃなく、一緒に遊ぶこともあります。
飲み会もすれば
男性社員は風俗に連れてくこともあるそうです。




こういう雇用者のいる特例子会社。
皆さんなら、お子さんを送りこむのはいやですか?

片思いのコストパフォーマンス

2013-05-25 11:07:34 | 日記
初日に国技館に出かけたことが、ずっと昔のように思えます。
あれから一度も負けてないんだよ。

だいたい国技館に行くと、とろとろとお酒飲みながら幕下当たりから見て
おしゃべりもいっぱいしますが

そのときに最近見た「悪人」っていう映画の話を画伯にしました。
画伯も見てたらしいよ。
私とは感想がだいぶ違うみたいだったけど。感想っていうか目の付け所が違うというか。

以下若干ネタバレなので注意。

これは吉田修一さんの小説が原作で
主人公は妻夫木聡さんの演じる解体業の青年です。
この子が出会い系で知り合った女性に好意を持つんだけど、もてあそばれる感じになり、殺人に至ってしまう。
殺された子は殺された子で、どっかのぼんぼんに好意を抱いていたんだけど、そのぼんぼんは彼女なんか眼中になく邪険にする。

そもそもこの映画を見たきっかけですけど、私は全然芸能人を知らないので、知っている人が出てると嬉しいのです。
そして殺人を犯したあとの青年と逃避行するのが「踊る大捜査線」の「すみれさん」だったので、「あ、知ってる人がいる」と思って借りたんですよね。なんというか、知り合いに会った感じ。
女優さんっていろいろなキャラを演じ分けられてすごいなあと思いました。

そして画伯に言ったこの映画の感想。

1 妻夫木聡さんっていう人はきっとイケメンなのだと思うのだが、金髪は見事にイケメンをイケメンじゃなく見せるってことがわかった。
2 片思いってよくないな、とわかった。

なんだか妙に画伯は受けていましたけど、私としては素直な感想です。

「片思い」ってコスパ悪いよね。
こっちが思っていても、あっちにその気がないのなら、さっさとあきらめた方が健康のためだと思うんですね。

で、それって恋愛だけじゃないと思う。
友情もそう。
そして人の信条もそう。

自分の考えを誰かに共有してほしかったら
逆の考えを持っている人は放っておけばいいと思います。
別の宗教の信者を転向させるのは、とても難しいでしょ。

これも一種の開き直り能力なのかもしれませんが

誰かを信者呼ばわりしながら、一生懸命転向を迫る人を見ると
片思いすることのコスパの悪さを思い出すのです。
私は片思いだったらやめる。

これが開き直り能力だな。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

来たね。白稀時代。

「友だちいらない」はいいサインなんだって

2013-05-24 09:35:00 | 日記
さて、先日交わした愛甲さんとのおしゃべり。


「自閉っ子とか、自閉っ子のママたちの中には『友だちできない』ことを苦にする人がいます。結構多いです。どうやったら友だちできるのだろうと考えています。
でも一方で、成人になったASDの人の話を聞くと『別に友だちいらなかった』っていう人も多いんですよね」

愛甲さん
「順調に育った人ですね。『友だちいらない』って思っていた人は。
発達凸凹の人は、友だちをほしがる人より友だちをほしがらない人の方が世の中で居場所を見つけ、自分の役割を果たす人になります」


「え? なんでわかるんですか????? たしかに私が確認した限り『友だちいらない』って言った人たちは、地道に居場所を見つけて暮らしている人たちです」

なぜ「友だちはいらなかった」と言う人の方が順調に大人になっているのか?

それも今度の新刊に書いてあります。
栗林先生だけじゃなく、愛甲さんも登場するのです。
といっても「友だちほしい派」の皆さんもご心配なく。
愛甲さんは、脳みそラクラクセラピーを通じて、ちゃんと友だちがほしい人に友だちできていくよう介入する経験もされているので、
友だちほしい人にも役立つ情報がありますよ。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

お待たせ。

乙武さん騒動の銀座のお店に行きたいと思います

2013-05-23 09:28:33 | 日記
さてさて、皆さんからコメント等が寄せられて、それに対して考えるという作業の中で
私が「コミュニケーション能力」というものにうっすら抱いていた疑問がだんだんクリアになってきました。
ご協力ありがとうございます。

これを今考えるきっかけになったのは
今作っている本の関係もあるけど
乙武さんの銀座の一件もトリガーになってるかなと思います。

彼が60万人フォロワーのいる身でありながら、お店の実名を晒していることを非難されている。
それがまるで、お店の生殺与奪権にかかわる問題であるかのように語られていたので

「あああ、やっぱりそれが田んぼ作りの人たちの共通理解なのかな?」と思いました。

私があの件を読んでとっさに思ったのは
「ああそういう料理人は美味しいもの作るだろうな。行ってみたいな」でした。

イタリアンは元来そんな好きじゃないんですよ。嫌いではないけど。
でもHP見て、必死に言い訳している言語のつたなさを見て、メニューを見て、お値段手頃なことを確認し
「この店は美味しいだろう」とカンが働いている、イマココです。

そうしたら画伯もご自分のブログに「美味しそうだ」と書いていたので
そのうち行きましょう、と。
食いしん坊は発想が似てくるのかな。
でも今は予約取りづらいだろうね。有名になっちゃったもんね。

ちょっと落ち着いてからいきましょう、っていうことになりました。

もちろんこのブログにいらっしゃる方は、障害者関係が多いだろうから
「車椅子お断りの店なんてけしからん!」とお思いの方もいらっしゃるでしょうけど

人当たりより仕事の技能で評価される社会の方が発達障害の人は生きやすいですよ。
画伯や私のように「それは旨い料理作りそうな人だな」っていう発想の人を大事にした方がいいです。
おそらく発達障害の人に雇用を生む人の中には、そういう感性の人がいますからね。
もちろんこれは経験もあります。
数多くの腕のある料理人を見てきて、別に美味しい料理を作るからって性格が~)-^&’)~¥あれれ文字化けするなあ。

とにかく私たちが料理人に求めるのは性格の良さでも人権意識でもありません。
料理が上手なことです。

それと同時に

私にとって乙武さんは、グルメ情報のソースではありません。
ついったーでもフォローしてないけど、それは彼がためになる発言をしたときには必ず誰かがRTしてくれるから別にフォローしなくてもいいんじゃないかっていう判断のもとでであって
別に乙武さんを情報源として否定しているからではないけれど
少なくとも乙武さんがほめる店だからいい店だとか、そういう意味で当てにしている情報源ではありません。

でも、東京で無数にあるイタリアンレストラン。その中でこの騒動で
その銀座の小さなお店の名前を知りました。
乙武さんありがとう。

今度のことで、乙武さんの方がむしろ男を落としたのではというご意見もありますし
正直、私にとってそれはどうでもいいのですが

私が乙武さんの同行者でそのような事態に至ったとしたら
お店の人に頼むより、道行くガタイのいい人に頼むことを選びます。
まだシラフの人も多いでしょうし
東京の人情は捨てたもんじゃありません。必ず誰か助けてくれます。

それから私が車椅子ユーザーでそういう小さい隠れた名店に行きたかったら
十二名(の定員だそうです)集めて貸し切りにします。
気の置けない仲間と一緒なら、介助の手もあるし、ワイワイ楽しみながら美味しい料理を食べられます。
それはそれで楽しいのではないでしょうか。

私がこの件で何より驚いたのは
「60万人フォロワーの人が実名を晒す」ことが
「店の経営に差し支える」と考えた人の多さでした。
それは「モンダイな想像力」に私には見えます。



勝手に自分を縛って生きている人が多いんだろうと思いました。

そしてそういう感性で療育に望んでいたら
日本の発達障害ギョーカイだけ、こういう動きに取り残されると思うのです。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

十一連勝!
我々贔屓より、落ち着いて見える土俵上の稀勢関です。

コミュニケーション能力(続き)

2013-05-22 12:24:24 | 日記
さてさて、昨日の記事はいろいろな反応をいただきました。
「浅見さんのお考えは?」ときかれましたけど
私もつらつら考えているのです。
ただ、今ってコミュニケーション能力が重視されているというのが一般的な理解(クリシェでもある)けど
本当にそうなのかなあと、疑問に思うことが多いのです。
コメント欄にいただいたうめさんみたいな体験、私もするし
橋下さんの件の朝日新聞による大誤報、その後のぶらさがり会見でのやりとりなんかを見ていても
「新聞記者なのにコミュニケーション能力ないの?」とか思いますし。

逆に言うと、アスペルガーの人って新聞記者向いてるんじゃないですかね。
自分の嫌いな人を曲解を駆使してあくまで悪者に仕立てるその集中力(こだわりともいう)。
私自身が起こした裁判を思い出すほどの曲解をプロでもやるんだなと思います。
そして自分が理解できないと「自分の理解できるようにしゃべってください」と食い下がれる無邪気さ(社会性のなさともいう)。
お勉強のできるアスペルガーの人は、ぜひ新聞記者を目指したら? あ、でも体力必要だから、うちの本読んで鍛えてね。

という皮肉はともかく


発達障害の世界で(そしておそらく今の時代の広い社会で)
盛んに交わされているクリシェがあります。
「第三次産業が多くなったから、コミュ障だとつらい」というものです。
(あ、ちなみに私はこの「コミュ障」なる言葉がだいっきらいです)
この思い込み、わりと共有されていて、それを理由に知的障害がないのに障害者枠で生きる、って決めてる人いるでしょ。
本当に世の中そうなのかな? と思うのです。
ギョーカイトークじゃないのかな? とさえ思う。

要するに、今の療育って
すでに療育なしに育ち上がって実際に苦労している人への支援と
これから療育を入れて育っていく人への支援がごっちゃになっちゃてるから
世の中を現実以上に「発達障害者にとってつらいもの」と解釈し
いらん心配をしているように見えなくもない。
そうやって本当は新聞記者にもなれる人たちを(皮肉)高等養護に送っているように見えなくもない。

昨日の記事のコメント欄にも書きましたが
神田橋先生が「診断が粗すぎる」とおっしゃったように
コミュニケーション能力も細かくアセスメントしないで、それで勝手にダメがってるような気がしないでもないのです。
「怒っちゃいました」もコミュニケーション能力だし
いろいろな方から聞く「一方的にしゃべってしまう」っていう問題、私はそれ、コミュニケーションじゃないところに問題があると思っています。

このブログ、お父さんたちもごらんいただいているようですが、実感としてどうでしょ。
今の若い人たち(ときっぱり言える年に私はなりました)が「誰とでも仲良く」への信仰をどんどん深めていって「コミュ障はダメ」って言っている間に
世の中どんどんシビアになっていっていると思うのです。

つまりですね、十数年前にはまだ
「どこどこのだれだれさん知ってます」ってことを種に商売していた人っているけど
そういう人ってどんどん淘汰されていると思うのです。
もう人脈だけで渡っていける牧歌的な世界ではなくなったような気がするのです。
皆さんのそれぞれのギョーカイではどうですか?

「意識高い系」のソーシャルビジネス系のネットユーザーたちが
「こういう勉強会を開いた」とか「誰々さんとお食事」とか言って中途半端においしそうなものの写真をSNSにアップするのを見て
「サラリーマンは牛丼食ってるんだぞ。ソーシャルビジネスやってる若いやつらって金があるんだな」とか文句を言うお父さんいますが
お父さん、安心して下さい。
年収ベースでは、間違いなくあなたの方が稼いでいます。
中途半端においしそうなものの写真をアップしている起業家たちのほとんどは、消えていきます。
それは私が目撃してきたからわかります。
彼らがやるべきことは、食事会ではなく仕事なのです。

でも彼らも、犠牲者なのです。
彼らは「コミュニケーション能力」の過信者という意味では、「知的障害がないけれども発達障害だから支援校」という決断を下した人たちと、なんら変わりはないのです。
本当は仕事をしなければいけない時期に、研鑽を積まなければいけない時期に
SNSに食べ物アップして人脈を誇るのが仕事だとカンチガイしているかわいそうな人たちなのです。
仕事を得たいのなら、名刺を交換するのではなく、いい作品を作る方が近道。
そういうことを知らない世代が今、すでに療育に携わっているのです。

くどくど書いてきましたが
おわかりいただけるように、私の中で結論が出ているわけではありません。
ただ、世の中で「コミュニケーション能力」っていうものが、過大に評価されていること
一面的な理解しかされていないことに疑問を持っているのです。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

十連勝!


コミュニケーション能力

2013-05-21 10:50:08 | 日記
さて、昨日の記事に反応いただきました。
重度の方の親御さんたちから。

知的障害のない子・軽い子が支援校に行き、支援校バブルを起こすことによって
支援校しか行き場のない子たちの学習環境が貧弱になっている。
「(普通校でも行けるけど)就職のために支援校」というクリシェは
重度のご家庭に複雑な思いを引き起こさせていても不思議ではないわけですね。

知的障害のない子の中には、支援校になじめず不登校になる子もいる。
不思議ではない話です。

長沼先生がこの本の中でおっしゃっていました。
「とにかく、本人がいたいところにいさせてあげて」
きっとそれが、脳みそラクラクセラピーなんだと思います。



さて

ではなぜ、知的障害のない子を支援校に送りたくなるのか。
私はそれを考えてみました。
三つ思いつきました。

1 自閉っ子を過小評価している。
2 保護者や初等中等教育の現場が「コミュニケーション能力」の解釈に成功していない。
3 保護者や初等中等教育の現場が「変人枠」でのサバイバルスキルを知らない。

先日愛甲さんと「コミュニケーション能力」について話しました。
どう定義するか。
愛甲さんと私の間でも、違いがありました。
それはおそらく、ビジネスの世界で生きているかそうじゃないかに起因していると思います。

逆に言うと「コミュニケーション能力」の定義がまちまちなまま
「ある」とか「ない」とか言っているのかもしれないと思います。

皆さんにとってコミュニケーション能力ってなんですか?

コメントお待ちしております。

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初めての九連勝です。