治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

学生と社会人の違い

2013-04-30 09:48:24 | 日記
さて、先日もコメント欄で触れたように
私は療育に学生が介入することに異議を唱える気はない。
ただ、学生を無料で、あるいは安く使って回していたとしても
利用者側に支払いが生じる以上、してはいけないことはあると思ってる。

あるギョーカイ大メジャー大会に出かけたときには、セッションの一回一回の前に
この大会スタッフは学生ボランティアなので不備があっても目くじら立てないでね、みたいなアナウンスがあって
ああこういうところは社会人を育てないだろうな、とその団体に興味をなくした。あれから一度も参加していない。
別にその日の運営に不備があっても目くじら立てなかったと思う。
でもそれは、参加費払ってる参加者に対して運営側がドヤ顔で言うことじゃないだろうよ。他人のお金と時間に対して感覚が鈍すぎる。

学生をボランティアで使おうと安く使おうと勝手である。
でも参加者には関係ない。参加者は決められた対価を支払ってそこにいる。
舞台裏を見せるのはプロとしてみっともない。

この前ここで触れた促成栽培学生セラピストたちの体験談がサイトにアップされていたので読みに行ってきたが
事業所のホームページで、クライアント募集を同時にやっているにもかかわらず、アルバイト情報誌のようなノリで、その脇の甘さにびっくりした。
学生セラピストになれば勉強になる、学校や他のバイトと両立できる。。。
学生セラピストの志望動機が、見事に「自分にとってのいいこと」のオンパレードであった。
さっすが学生である。
社会人にとっては
賃金が発生する以上、「相手にとっていいかどうか」が最大の評価軸である。自分が勉強になるかどうかは、お客には関係ない。
コンビニセラピスト諸君だって、賃金が発生する以上は同じだろう。

自分が勉強したいのなら他人の金を巻き込むのはやめた方がいい。
クライアントは学生の勉強のためではなく、自分のかわいい子の将来のために費用を払っている。
「勉強になります」っていうのは
プロは表立って言わないのが礼儀である。
相手に尽くす。結果として自分も勉強になる。それが順序だ。
学生を使う社会人は
せめてそれくらい教えてあげておくれ。

「自閉っ子、こういう風にできてます!」が出たのは2004年。
その時点で私は社会人の先輩としてちゅん平に決まりごとを教えている。
お手持ちにお持ちの方は、P223を見ていただきたい。
「なぜ講演のたびに謝礼の額が変わるか」
私はきちんとちゅん平に教えている。
そして仕事に臨む心構えも。
本当のことを教えたのは、ちゅん平のためだ。

仕事の目的は、仕事をする側の勉強のためではない。謝礼を払った方が対価に見合ったものを受け取ることが目的だ。
そういうこと学校で教えてくれないからこそ、社会人の先輩が教えてあげましょう。

発達障害者就労支援の近未来予想(一案)

2013-04-29 08:44:11 | 日記


他の障害の人たちを就労支援してた人が発達障害に移ってくることって割とよくあるみたいだ。
なんで? ってきくとよくある答えがこれ。

もう身体は障害者が取り合いだから。

それなりの企業は、雇用率を満たすため、対処のわかりやすい身体の人を雇用してきた。その結果障害者の取り合いになり、今後雇用率を満たすためには、未知の分野である発達障害に手を出さざるを得なくなった。行政もそこにお金をつける。就労支援事業が盛んになったのは、一人一日通ってくると何千円という感じで行政が事業所にお金を払うから。
要するに西部開拓のノリで発達障害就労に関わりはじめた人たち。
います。マジメな話。別にそれが悪いとは限らないと思ってる。


だって利益は、元からの福祉セクターだって考えてるし。

元からの福祉セクターの人は金儲けじゃなく、新しく参入してきた株式会社が金儲けだなんていうのは幻想。どっちも社会貢献の気持ちはあるだろうし、一方でどっちも利用者の頭数で入ってくる税金を原資としたお金を当てにして運営されてる。利用者の数=売上だ。それが行政委託事業。制度がこうである以上、就労させることより自分のところに留めておくことに熱心な人は必ず現れます。

就労支援事業所が満杯で、事業拡張したいと願うくらいに、今は税金が投入されている。
裏を返せば、就労という夢を叶える人が少ないほど、多くの税金が就労支援事業に注ぎ込まれる。これがイマココである。

非福祉の人にこの話をすると「それは続かないよ」と言われる。
保育園と幼稚園が子ども園になるとか、とにかく国はどうやって縮む経済に対応するか汲々としている。今後就労支援事業だけに人が溜まり、就労の成果がなかったら、国はバッサリ予算を削るでしょう。そう言われる。

そうだね。
成果が見られなくて、そして予算がバッサリやられる時は、また運動が起こるだろう。
そしてきっとその時のスローガンは美しい言葉になるだろう。「福祉の切り捨ては許すな」とか。
福祉の切り捨ては、福祉を事業にしている人の失業でもあるが、そこははっきりとは語られないだろう。

自分の事業の存続のために、いつまでも就労させず利用者に留めておきたいような事業所は、結局産業としての就労支援事業にとってはマイナスなんでしょうね。
ちゅん平がやる気のない支援者を主体的に動かしてシューカツした様子はこの本を読んでくださった方はおわかりでしょう。



いい支援者選んでね、皆さん。そのためにうちの本を参考にしてください。
西部開拓の気分で参入してくる人、コンビニセラピスト、こうした新顔に加え従来の死んだふり路線も跋扈するギョーカイですから。
私としては、高機能の子には
できれば就労支援を使わずに就職できるくらいになると一番いいなと思ってます。







プロとアマチュア

2013-04-28 07:46:28 | 日記



昨日は画伯と国技館まで稽古総見を見に行きました。
番付ごとに稽古する力士たち。そのへんきっぱりとした世界です。
そこで思い出した話を画伯にしました。

先日ある研究者の方とお会いしたとき
ASDで社会性がなくても研究者にはなれるというありがちなギョーカイ見解を浅見さんどう思います? ときかれました。
いつものギョーカイがつくウソの一つだと思います、と答えました。
そしてどうしてそういうウソが出てくるのか、仕組みもわかりますけどね。
だいたい研究者って社会性がないとなれないでしょう。

そうです。オタクと研究者はキッパリ違う、とその方はおっしゃいました。
おお、なるほど。その通りですね。
大学院生までなら、社会性がなくてもなれるかもしれないそうです。
でも研究者として賃金を得る水準まで行くには、ニーズを見極めたり、売り込みをしたり、人脈を築いたりが必要だそうです。
だから社会性は欠かせません。ただそれが、小学生が教えられるような友だち原理主義ではないだけです。
そう教えていただきました。
納得でした。

だからといって私は、研究者という職域がASDの人に無理だと言うつもりはありません。
ただ「ありのまま」では無理だというだけです。
ギョーカイはそこをはっきり言わないもしくはごまかす有機体なので
だから私は「ギョーカイ発表を真に受けてはソンですよ」と言い続けてるわけです。
ASDに向いている職業っていうものの存在は否定しませんが
「ありのまま」でできる仕事はないのです。この世に。

私はそこで画伯に話を振りました。
アートの世界でもそうでしょう。
プロとアマチュアの境が見えないまま参入してくる人いるでしょ。
そして食べられないで終わるよね。
でも今って、あたかもプロとアマチュアの境がないかのような情報を送り出す輩が多くて、
リテラシーないとそれに引っかかるのよ。

昨日見てビックリしたのは、学生セラピスト募集っていうやつだな。
40時間の研修でセラピストになれるんだって。

ここで画伯ビックリ。
40時間の研修? なんだよそれ。そんなものでセラピストになれるわけがない。

でしょ。社会人を経験した人はそう考えるよね。
でも何らかの都合で、あたかもなれるように宣伝する人たちがいて、そういうのを真に受けると、世の中で仕事として賃金を得て食べて行くことがどんなことかわからない人が増えて
そうするとオタクと研究者の区別がつかない人が増えるんだと思うよ。
お絵描き好きだとそれで食べていけるように思うんだと思うよ。

そんなおしゃべりをしていたら、稽古の番付も進んで、横綱大関の稽古が始まりました。
そして白鵬関が稽古相手に指名したのはなんと蒼国来関。八百長の冤罪を晴らして土俵復帰が決まったとはいえ、元々の番付だって本来横綱と組める地位にはありません。
そこをあえて指名する横綱かっこよすぎ。
そして横綱が土俵に上がると、関脇以下はささっと土俵下に。
空気が読めなくても入門はできるかもしれません。でも空気が読めないと、幕内まで番付は上がらない。ていうか、幕内に上がる頃には読めるようになってるわけですね。

研究者も客商売だと先日の先生は言ってた。横綱も客商売。だからこういう粋なはからいをするのですね。

すべての商売は客商売です。
ただ必ずしも友だち原理主義ではないだけ。
けれども客商売であることを隠そうとする分野が三つあります。教育、福祉、医療。
そこにくるっと囲まれている皆さんに必要なのは、ギョーカイのウソをウソと見抜くリテラシーで
それがないとオタクと研究者の、プロとアマチュアの区別がつきません。たとえ向いている職業であろうと才能に恵まれていようと、「ありのまま」ではやっていけないということがわかりません。
そして、コンビニセラピストへの道を歩み出し、その賃金の安さにびっくりして
「国はもっとここにお金を出すべきだ」とのたまわく、一端のギョーカイ人へと成長していき、ルサンチマンの再生産が始まるというわけですね。

それに巻き込まれないようにしましょう。
こういう本を読んで。もちろん私も客商売ですよ。

「そらまめ式」について知っておくべきただ一つのこと

2013-04-26 08:35:36 | 日記
昨日、またそらパパこと藤居学の周辺で
かつてベムこと宮本晋が千葉県発達障害者支援センターに迷惑メールを出した、という事実を疑う見解が見え隠れしていた。

いつもはエビデンスガーの得意な人たちである。
でも、この場合、ベムの言うことを信じる「ソース」がベムがわざわざ鍵かけてつぶやいた「俺はやってない」の証言だけである。お得意のエビデンスが実に脆弱だ。

もう一度整理しておこう。
ベムは迷惑メールを千葉県発達障害者支援センターに送った。
それをセンターは任意で警察に提出した。
私のブログを通じてそれを知ったベムは、センターに怒鳴り込んだ。訴えると息巻いた。
そしてセンターは困って警察に電話した。
警察は私に連絡してきて、センターと話してくれと言った。
私はセンターに電話して、ベムに何か文句があるのなら直接私に言えと言って下さいと言って、私のケータイの番号を彼に教えてもらってかまいませんと言った。
いまだにベムからは連絡がこない。
そして彼は見えないところに行った。

これだけの話。
それを何も包み隠さず書いてきた。もしウソだったら、発達障害者支援センターが訂正を求めてくるだろう。

エビデンスガーの得意な(はずの)人たちがなにゆえにベムをそれほど信頼するかはわからないが
どうやら別に事実は知らなくても、なんとなく誰かを嘘つき呼ばわりして盛り上がっていればいいらしい。
「愚民」にはそういうネット上の楽しみ方もあるのだな。これもひとつの友だち原理主義だ。
別に発達障害の世界に限らず、こういう「愚民」は見かけるよね。

大地君の本から神田橋先生の本への攻撃という一連の動きの反撃として
私が皆さんにお伝えしてきたこと。

それは「エビデンスガー」と言って他人の家の療育にまでおせっかいを出していたベムは
しょせん子どもが性器露出したエピソードをおもしろおかしく書いちゃうような父親であるということ。
すなわち、花風社の本を読んで一生懸命勉強している人たちより
志も人権意識も低いということだ。

そしてもっともらしく差別や療育の理論を振り回すそらパパこと藤居学。
彼について知っておくべきことは
しょせん子どもが犬のようにお皿なめても放っておく志の低さが根底にあるということ。
だからこそ
あの「そらまめ式」のホームページの膨大さにかかわらず、療育上の効果はそのあたりのお母さんより全然乏しいということだ。
そう。「そらまめ式」について知っておくべきただ一つのこと。
それは、あれを書いた本人が効果を上げてないということである。

それでも彼らにシンパがいるのはそれはそれで別に不思議ではないけど
そのシンパたちにいざ「じゃあなんでそんな脆弱な根拠のベムのウソを信じるの?」ときくとはっきり答えられない。
別に事実に興味はないんだね。ただベムがやりこめられて、一緒にくだらないことで盛り上がれる仲間がいなくなったのがちょっと面白くないだけ。


なんでこんな昔の話を? って思うかもしれません。

昔じゃありませんよ、。神田橋先生の本が出てまだ三年です。
そしてお子さんにとって、三年間ってとても大きい。

三年間を振り返ってみましょう。

本当に効果を上げたのは誰だったか。
どういうことを頑張った人たちだったか。

過去は水に流すだけが能じゃありません。
観察して、そして信頼すべき情報を見極める参考にしてください。

ちょうどギョーカイサイズ

2013-04-25 10:07:48 | 日記
そういえばずっと前に読み終わりましたよ。
乙武さんの「ありがとう3組」。

前のより読みやすかった。
もちろん読んでいる途中「わたしのーおはかのーまーえにー」っていう空耳が何度も聞こえたし
息がはあはあしたけど。

まあ、考えてみれば、自伝はともかく
自分を主人公にした小説を書けるというのは
相当自分が好きじゃないとできないと思うの。

内容は、うん。ちょうどいいのではないでしょうか。
なんというか、距離感的に
乙武さんの打ち出す発達障害のある子の姿って、ちょうどギョーカイサイズです。

「困った子じゃない。困ってる子」みたいなクリシェ。
それを真顔で信じている段階。

ギョーカイのプロ市民ぶりや死んだふりぶりにうんざりしている私はある意味「知りすぎた人」。
その点乙武さんは、ギョーカイメジャーの大本営発表に近い発達障害観をお持ちです。
だからギョーカイは、この人と組めばいいんじゃないかしらね。

私の立場は
「トラブルには死んだふりして支援という名のプロ市民活動ばかりしている支援者のもとでは子どもは社会人にならないので修行の仕方を考えましょうね」という人なので
ギョーカイともこの手の啓発書とも全然かぶらないのでした。

それにしても、「障害があるにもかかわらず」自分を愛せる人なんだなと思ってたけど

そうじゃなくて今回「障害があるからこそ」自分を愛せる人なんだなと気がつきましたです。
だって何やっても周囲は感動するでしょ。
先日も台湾のプロ野球での始球式の様子が流れてきて、さすがだなと思いましたが

始球式どころか、手足のない人は何をやっても感動されます。
自分でご飯食べたりケータイメール送ったり。

日々感動されていたら、自分が好きになるのは当たり前で
そこが「できそうに見えるけどできない」発達障害の人と真逆だなあと思いました。

だから発達障害者の一部は、激しく乙武さんがキライみたいだけど

私から見ると、乙武さんの発達障害マーケティングは
ギョーカイにとって、使い勝手がいいと思います。

子どもの病気で早退する同僚が迷惑じゃなかった理由

2013-04-24 10:10:59 | 日記
預けている子どもが発熱したら、保育園から電話がかかってきて
お母さんは早退して迎えに行かなきゃいけないと知ったのは
若い頃勤めた職場で、同僚がよくそういう電話を受けていたからだ。

ぱたぱたぱた、と慌てて帰って行く。
「お大事に」と送り出す。
迷惑だと感じたことは一度もなかった。
むしろ「大変だなあ」と思っていた。
病児保育の必要性を感じたこともない。
熱が出たら、心細いはずだ。お母さんにそばにいてもらいたいだろう。
小さなお子さんならなおさら。

当たり前かもしれない。
それぞれが担当する業務を責任もってやればいいだけの職場だったから。
女性が仕事を続けたければ
そういう職場を選ぶという戦略の取り方もある。

普段から、子どものいる人は時短勤務だった。
元はフルタイムだったけど、妊娠出産を機に会社と交渉したのだ。
交渉ごとだから、もちろんこっちには条件はわからない。
ボーナスも出るけど、それなりだと言っていた。他人の財布だから、とくに関心はなかった。
それでも今思うのは
妊娠出産の前の働きぶりで、会社との交渉は有利にも不利にもなるだろうなということだ。

女性は男性と身体が違うのだから
妊娠出産と子育てを両立させるためには
職種から考えるのも大事だと思う。
だからそのための公務員志望、っていうのも悪いと思わない。
公務員であることのメリットとデメリットをはかりにかけて、メリットを選ぶっていうのもそれはそれで一つの生き方だろう。そしてどんどん子どもを産めばいい。

法律でいろいろ決まるのもいいことだけど
それがそのまま運用されるとは限らないし
三年の育休が、女性の雇用をますます厳しいものにする側面もあると思う。
解雇規制があまりにきつすぎることで、ブラック企業が現れたように。

そもそも、政府が小さいほうがいいと思っている私としては
あんまり国に生き方を指導されたくないんですよね。

自分から売り込むこと

2013-04-22 09:50:30 | 日記
ニキさんとの出会いは、ニキさんからの売り込みだったが
そういうのかっこわるいと思っていた時代があった、とニキさんに言われてびっくりしたことがある。

「なんで?」

職業人生の最初から出版界にいた私は
売り込んだり売り込まれたりするのが日常茶飯事で
それがどうかっこわるいのか想像もつかない。

「でもアイドルとかでも、友だちが勝手に応募して、みたいなのがあったでしょ昔」

そうだなあ。
なんであんなウソつくんだろう? 考えたこともないからわからないけど
自薦より他薦のほうが、なんとなく信憑性があるような気がするのかな?
他に理由を思いつかない。

私は花風社を作る前に二つの会社で正社員をやったが
両方とも募集に応募したのではない。
面白そうなことやってる会社だなあと思って「人いりませんか?」とききに行った。

「いりません」と言われた。
でもいざ求人の必要が出てくると
真っ先に声をかけてもらえた。そして試験を受けた。倍率は一倍だ。

花風社を作って編プロとしての営業をかけたり
版元になりたいときには取次口座を開いてもらうためまた足繁く通ったりした。

売り込みっていうのは、やりたいことがある以上必要なことなのだから
それを恥ずかしく思う感覚がわからない。

ニキさんは企画のつぶてを投げつけてくれた。
ちゅん平は原稿をどさっと送ってきてくれた。
白くま母さんはワードファイルで大地君が周囲に配っている自分の取り扱いマニュアルを送ってくれた。

そうやってご縁がある。今がある。
世の中はそういうものだ。

逆に売り込みしないで「ああなりたい」とかぼやいている人を
社会は「怠慢」とか「実行力がない」と見なすので

そのあたりをカンチガイしないようにしましょう。

断られたらどうしよう? って。

教えてあげましょう。
普通は断られます。
そこでくじけないことです。

親の顔が見たい

2013-04-19 16:14:07 | 日記
なんらかの場で接する人に家族がいることを知っても
別に普通は、その人に会いたいとは表明しないもんである。

でも私はよく言われる。
「だんなさまはどんな方ですか? お会いしてみたい」

「へんなの~私は別に他人の家族に会いたいとは思わないなあ」

と会いたがられている当人に言ったところ
「そりゃおまえ、親の顔が見たいっていうのと同じ心理だよ」と言われました。
なるほど~。私の行状に原因があったか。

というわけで、身内の企画ではありますが、愛甲修子さん、瀧澤久美子さん、岩永竜一郎先生その他、豪華講師陣の揃う社会人講座を開く大学がありますのでお知らせいたします。
どなたかもおっしゃっていましたが、料金もお得。
何回か行けない回があっても全然もったいなくないお値段ですわね。
「親の顔が見たい」的な方にもおススメです。

ご興味あるかたどうぞお出かけください。

療育や制度は全国均一でなければいけないか?

2013-04-17 10:04:30 | 日記
デイケア一つとっても、すべての地域が平等ではない。
そういう現状を前に
「全国均一の制度を」という声はよく聞く。
私はだいたいそう話題が出ると、肯定せずに黙っている。

基本的にその必要はない、と考えているからだ。
むしろ、療育も制度も、今より地域ごとにバラエティがあってもいいと思う。

「自閉っ子のための道徳入門」をお読みいただいた方はご存じのとおり
うめさんちはご一家でノースカロライナに滞在され、診断と療育プログラムの作成を受けた。
地元民には無料で提供しているサービス。外国人には有料で売る。
それは立派な町おこしだ。ノースカロライナの。

日本でもそういう地域があっていいと思う。
私は服巻先生やちゅん平さんとの出会いがなければ、佐賀なんて一生行かなかったかもしれない。
でも今は関東の人間としては佐賀通の部類に入り、この前なんて某所で出会った佐賀出身の青年に「佐賀に詳しいですね~」と驚かれたくらいだ。
しかもこれからは、近隣のアジア諸国が豊かになってくる。
自由貿易協定などで人とお金の動きがスムーズになり
そこの富裕層が日本の先進地域に診断治療にやってくる、なんていうことが実現すると
療育も立派に外貨を稼ぐ手段となる。



そして日本は、北朝鮮や中国と違って、戸籍に縛られず、どこにでも居住の自由がある国だ。
実際療育を求めての転居だって普通に行われている。
町おこししたいところが、療育に力を入れたっていいと思っている。

でも実は、中央集権のもとではそれにも限りがある。
方針が国によって決められ、お金も国から下りてくるからだ。
昨日、あんなままさんがコメントしてくださったように
「国の補助にたより、自立していない地方のゆがみ」がある間は難しい。

そしてどうして、国の補助に頼らなければいけないか?
それは現状では、国が多くの仕事をするかわり(たとえば療育のガイドラインだって国の方針で決まるでしょ)お金もいったん国に集めているからだ。
だから地元の議員の仕事は「国に陳情し、お金を落とすこと」になり
狭い地域の利害だけに走って国家の計を考えない政治家ばかりが多くなる。

私は事業者なので、皆さんが書籍代と一緒に支払ってくださった消費税をお預かりしている。
そしてシーズンになると会計士が「何月何日までに納めてください」と金額を書いた納付書を送ってくる。
金額の内訳が書かれている。国に納めるものと地方に納めるもの。
国の方が額が大きい。
こうやって国はいったんお金を集め、うやうやしく地方に配るんだな、っていうのが
消費税を納めるたびに実感できる。

それだったら消費税を地方税化せよ、そして権限も地方に渡せ。
そうしたら地域の実情にあった使い方をするから。
というのが日本維新の会の主張する消費税の地方税化である(そこかよ)。
地方税にも二段階設けて、地域で使う分の他に、豊かな地域と貧しい地域の差がなるべく出ないように再分配の余地も残すというのが維新の政策であるはずだ。

このように地方分権にすれば、国民にとっては選択が手の届くものになる。
一億以上いる国家には声が届かないとあきらめていても
大枠を決める広域自治体は1000万規模で
住民サービスを行う基礎自治体が数十万規模なら
今よりももっと「自分の声が政策に反映する」希望が出てくる。

今の日本の国は中負担中福祉と言われている。
低負担低福祉と思う人もいるだろう。
私は基本的に小さな政府がここちよいが
高負担してもいいから高福祉にしたいという人もいるかもしれない。
道州制になったら、それも可能だろう。
住民の意見が一致すれば、地方で税率を好きに決め
たとえば所得税50%、消費税25%だけど医療も教育も福祉もただ
という(かつての)北欧型の社会を作ってみたっていいわけだ。
それがいい人は、そこに引っ越せばいい。
さっきも書いたように、日本人には移動の自由があるのだから。
そしてそこで、自閉症の療育をどんどん進歩させ
どんどん豊かになるアジアに売ってもいいし
低負担低福祉の地域に住む住民に売ったっていい。

このように私は、地方がそれぞれ独自性を発揮する方がいいと思っているので
全国一律に、っていうのは別になくていいと思っています。

よかったら「消費税の地方税化」をぐぐってみてください。
たくさんの賛成意見とたくさんの反対意見が見つかると思います。

一番反対するのは国です。国に雇われて生きている人たち、すなわち官僚は絶対いやでしょう。
だって取り分が少なくなるわけだからね。
権限も今より制限されると、威張れなくなる。お金が自由にできなくなり威張れなくなるのだから、反対するのはまあ当然だ。
維新の会は、そういうとんでもない提言をしているので
まあ激烈反対されるのは、織り込み済みなのです。
石原氏や橋下氏のキャラにあれこれ言う人は多いでしょうけど
あのくらいの人たちじゃないと、やっていけませんわね、とも思います。

そして、反対するのは官僚だけじゃなく、自立が恐い地域
維新が提言している地域格差をなくす再分配機能をよく知らない人も反対するでしょう。

でも私は賛成です。国民としても、自閉っ子を応援する立場としてもね。
全国一律を目指すより、地域によって力の入れどころを変えた方が、療育だって進むと思う。
そしてそれで日本の自閉っ子を幸せにして
世界に展開してほしいです。


というわけで本日は
「消費税の地方税化と自閉っ子と未来への希望」のお話でした。

変人枠を増やそう

2013-04-16 10:31:02 | 日記
今朝起きてまずしたことは、乙武さんの「ありがとう3組」のダウンロードです。
思っていたより早く、また読む勇気が出てきたようです。
たぶん筍(水煮じゃないよ)を食べて元気が出たのでしょう。

教育現場が、どうして友だち原理主義を捨てきれないのか
原因は大人の世界にあると思います。

私は横浜で生まれ育って、在京の大学を出て、出版界に入りました。
つまり見事に、人生半ばまで、首都圏以外の文化に触れませんでした。
雑誌やなんかが、全部東京目線で作られていることにお気づきの方はいらっしゃると思いますが
実は出版界というのは、しょせん二兆円産業ですから(今は切ってる)非常に小さな世界で
地方出身者はたまにいても、地方の大学出身者はあんまり見たことありません。
在京の(しかも比較的よいめの)四大卒という限られた人材を回してやっている小さなギョーカイです。

だから地方には、中核となる都市があって、そこは小さな東京みたいで
そのまわりに田んぼが広がって山はき水は清きふるさとがある。
そういうのが持っていたステレオタイプのイメージでした。

ところが私には、発達障害というテーマとの出会いがあり
地方の文化に触れる機会が増えました。
いい点もたくさん発見し、これじゃあ息が詰まるだろうなと思うこともたくさん発見しました。
いい点も、閉塞感も、中にいる人より外にいる人の方が気づきやすいかもしれない部分はあります。

昨日画伯に、「ねえ画伯の知人の範囲内で、代々公務員っていう人いる?」と聞いてみました。
画伯はまず、その質問を見て笑ったそうです。
そして「いるわけないだろ」と返事をくれました。
そうなのですよね。
まさか梨園じゃあるまいし。どうして代々同じ仕事をする意味があるでしょう。

でも地方では、そこが違うのです。
画伯は東京しか知らない人だから、時々いろいろな話を聞かせてあげるのです。
地方では公務員がいい仕事で、しかもそれがコネで決まること。
学校の先生は、だいたい同じ大学の出身者なこと。
近隣の県同士が、なぜかライバル意識を持ち合っていること。
だから航空会社が飛行機飛ばしたくない無駄な空港がどんどんできたりすること。
「隣県にあるんだからいいや。そこへのアクセスをよくしよう」という発想ではなく
「隣県にあるんだからうちにも作ってくれよずるいじゃないか」という発想になること。
そうやってできた無駄な空港は、どこも街の中心から遠く、不便きわまりないこと。
要するに「国全体がどうなるか」「乗客の利便性」ではなく
自分たちの目先の利益だけを追求している人たちによって、物事が決まっていってしまうこと。

私が一票の格差を重視しているのは、だからなこと。

学校が友だち原理主義を捨てられないのは
こういう中で生きて行かざるを得ない、と先生たちも承知しているからでしょう。
私がここや本の中で「変人枠で生きていけばいい」と説いても
変人枠という言葉にネガティブな意味しか取れなかったり
なんのこと言ってるかわからない人が時折いるのは、だからでしょう。

変人枠とは、在京のいい大学出て二兆円という小さな産業に飛び込んでそこでやっていく人だったり
画家になったりする人のことです。
他にもいっぱいモデルはあります。
都会にはそういう人がいっぱいいます。必ずしもリッチではないけれど、楽しそうに生きています。
だから都会の場合には、地方公務員の運営する学校が友だち原理主義を教えていても
やがてその嘘くささに気づいて、てきとーに学校をこなしながら、自分の好きな道を選べます。

地方ではそれが難しい。
成功のロールモデルが公務員でそれがコネで決まっていく世界に、
意欲ある若者がどうしてとどまろうなんて考えるでしょうか。
教師になりたければ県の名前の教育学部を出なければならない世界で、多様性のある教育を確保するのは難しい。
そのかわり地方には地方のメリットが福祉や教育の面ではあります。
先生たちの結束は良くも悪くも作りやすいし
教員採用に落っこちたら福祉に行くでしょう。

地方に足りないのはだから、教育や療育ではないのです。
大人になったときの「変人枠」。
そこで生きていけばいい。だから凸凹のままでも健やかに育てばきっと生きる道があるという希望。
これが足りないのです。
そしてそれは教育や療育に確実に影響していきます。

都会に生まれたら変人枠で生き生きやっていける子でも、地方では障害者として一生を終えるくらいの差があるかもしれない。
むっとする人もいるでしょうけど、私は本気でそう思っています。

だから道州制です(そこかよ)。
近隣同士でいがみあっている場合ではありません。競争相手は隣の県ではありません。世界です。
1000万程度の広域自治体、数十万人の基礎自治体で仕事を分けて
広域自治体は世界と勝負して、今住んでいる地域に変人枠をいっぱい設けてほしいです。
変人枠を求めて上京した人の中にも、本当は故郷に住みたい人もいるでしょう。

先日出たデイケアの話にしても
ああいうオプションを増やすには、適切な自治体の大きさがあります。
数万の自治体でデイケアが不足するのは不思議ではありません。
数百万単位でも不思議ではありません。
福祉や教育といった身近な問題が機能するのは数十万という試算は正しいのではないかと思います。

私が統治機構改革を望むようになったのは
その中でも中央集権を終わらせ、道州制を望むようになったのは
自閉っ子の未来を考えてでもあるのです。

私の寿命がどのくらいあるかわかりませんが
とりあえず自分の親より先に死なない決心はしています。

それと、見たいものが三つあります。

1 改憲
2 道州制
3 横浜駅の完成

です。

政治的に中立であれよ、と言われるかもしれませんが
私にはそんなつもりはありません。
第一、ギョーカイは政治的に中立じゃないし。

まあ今後も時々、こういう話書きます。
とりあえず今回は、道州制と自閉っ子と未来への希望、のお話でした。