治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

自閉症と私6 (みんなみんな一次障害)

2013-02-28 10:51:28 | 日記
愛甲さんの本を出そうと思ったきっかけは、神田橋先生と愛甲さんと三人でお食事していたときに
「なんか治しちゃう人だね」みたいな言葉で、神田橋先生が愛甲さんを評していたことがきっかけかもしれません。
おいしいおさかなをいただきながら耳ダンボになって、「おお、愛甲さんも治すのか」と思いました。
愛甲さんにお会いになった方ならわかると思いますが
本当に穏やかな方ですからね。

ところがこの愛甲さんが、セラピーで強度行動障害の人をどんどんよくしていると知って
しかもそれが、本当に何気ないことをやっている結果だと知って
「じゃあそれ、家庭でも参考になるかも」と思って生まれたのですね、脳みそラクラクセラピーは。

治す人って結構方々にいて
医者とは限らない。
愛甲さんは言語聴覚士で臨床心理士だけど、作業療法士だって治す人いるし
いえ、別に試験を受けるような資格の人じゃなくても
ソーシャルワーカーや施設の人でも治す人いるよね。

一方で治さない人もいっぱいいる。資格者でも資格のない人でも。
以前は「支援がない支援がない」と言っていた皆さんですが
支援はそれなりに増えて、ようやく支援にたどりついたけどろくなもんじゃねーって言うのがイマココじゃないでしょうか。

そして愛甲さんのお仕事の一端としての「強度行動障害への対応」は、「自閉っ子のための道徳入門」でも見ていただいたわけですが



今回の脳みそラクラクセラピーは、そうした重いケースから、家庭で「社会性のある子に育む」ためのヒントから
まあ割と広く網羅しています。

というわけで強度行動障害ってまあ今わりと引っかかってくるテーマなんですけど
それについてシンポジウムがあったみたいよ。
そこで強度行動障害の人に対する薬物治療について、お医者さんがこんなこと言ってました。

えっと、ソースはここ
主催は愛知県心身障害者コロニー。
あれれ聞いたことあるぞ。

=====
いわゆる強度行動障害を示す児童や成人に対して、薬物による治療が行われることが少なくありません。
これまでに知的障害や自閉症等の障害を持つ人の、攻撃的な行動や著しく反復的な行動に対して、抗精神病
薬、抗うつ薬、抗てんかん薬、ADHD 治療薬などの投与が試みられ、有効であったと報告している研究も見
られます。しかしそれらの研究の数はけして多くはなく、また質の高い研究は少ないままです。こうした薬
物の効果は限定的で、薬物療法のみで、強度行動障害が改善することはあまりありません。薬物以外での取
り組みが効果を発揮しやすい状況をつくり、その効果を助けることが、薬物を使う目的となります。
一方で知的障害や自閉症のある人では、身体にも何らかの弱い部分があることが少なくありません。また
副作用が現れたときに、上手く伝えられないことが多く、より慎重に薬物を使う必要があります。また使わ
れる薬物の中には、眠くなったりだるくなったりするものが多く、また新しいスキルや行動パターンを身に
つける際に妨げになることもあります。
=====

これを抄録にのっけてるのが、かの有名な吉川徹センセイだっていうのが驚きです。
この方向性の人が、どうして神田橋先生の本を妨害したんだろう?
方向性は似てるじゃないですか。少なくとも素人目にはそう見えますが。

違うのは、神田橋先生には治す力と意図があり、もうお一方の方はそれがあいまいなだけかな。
いえ、患者としてかかったわけではないので、医師としての技量などは知りません。
でも、いつも「社会ガー」の言論を貼ったり、大地君につまんないちょっかい出したり
「治す」人である神田橋先生の本の妨害をしたり、「家事のできる引きこもり発言」をしたり
とにかく「障害者をあくまで弱い人にしておきたい」ことが見えるので
きっと治す意図はないんだろうと思うし。

治す意図があっても、今のところはまだ自分の力量に満足せず、修行している臨床家はいっぱいいらっしゃると思うんですよ。
実際に神田橋先生のところだって、いつも陪席の先生がいっぱいいらっしゃる。
「先生は天才だから」で終わらせず、一生懸命何かを学ぼうとされている先生は多いのだと思いますよ。

それにちゅん平の主治医の先生だっていい先生です。



「30歳からの社会人デビュー」の巻末、主治医の先生への質問を入れました。
ちゅん平がひどかった状態から、今の状態まで、ずっと支援されてきた方です。
「なぜ彼女が自閉症だと気づいたか?」というその契機についておききして
ああ、この先生は、本当にちゅん平を健康にしたかったのだ
そしてちゅん平を、障害者として以前に人間として見ていたのだ
ちゅん平はいい先生に恵まれたのだ、と思いました。

でも吉川センセイはタイプの違うセンセイのようです。

ただしこれ、私は吉川センセイを侮辱しているわけではありません。
「神田橋先生のところに行く人はおりこうだけど、吉川センセイのところに行く人はバカ」と言っているのでもありません。
自分で好きなところを選ぶ権利が、皆さんにはありますからね。

何年も待って、高い初診料を払って
それでも家庭内暴力、不登校一つ治さない、という評判の医院がうちの近所にあります。
それはそれでいいのでしょう。
「治らない」ことを選ぶ権利だって、人にはあるのです。
「治すことが正しくない」と信じる権利だって人にはあるのです。
治らない医院にえんえんと通い続けるのも、その人が気に入っているのならそれはそれでいいでしょう。
今は一応、日本はそれくらいの自由が許されている国でしょ?

「発達障害専門医が足りない」という時代が長く続きました。
当たり前だと思います。
その頃「発達障害専門医」とは、こんな感じだったのですから。増えるわけがありません。
社会が必要としてこなかったのです。だから増えなかったのです。

私が問題視しているのは
日々臨床で「治す」ことと向き合っている臨床家は、それだけで忙しく
本を書いたりついったーで零細版元をいじめたり講演したりしている時間があまりないだろうということです。

そして「治る」ことを選んでいる人たち(当事者・保護者)も
「これはトンデモか? あれはトンデモか?」と吟味するより
とにかく「目の前のこの子をラクにしたい」ということに一心だということです。
彼らにとっては「よくなること」が「仲間内で物知りだとたたえられること」に優先するからです。

「治る」ことを選んでいる保護者が求める情報は
「誰にでも再現性のある、普遍的な情報」ではないのです。
「とにかく目の前の子をラクにするのに応用可能な情報の土台」を求めているのです。

そしてそれを提供しているのが花風社です。
その土台から話をそらさないから、花風社の本を読み続けて下さる方々がいるのです。
「治らない」ことを選択する自由もあれば
「なんとか治したい」と願う自由もあるのです、この国では。


そしてしばしば、他人の選択の自由を奪おうと攻撃するのが
「治したくない臨床家」
「治したくない当事者・保護者」であり

その逆があまり見られないということに私はずっと腹を立てています。

しかも
「治したくない臨床家」
「治したくない当事者・保護者」

が「トンデモ」等の言葉で「治したい、治りたい人たち」を揶揄していることに
ずっと腹を立てています。
だから、反撃し続けています。

私は再三、保護者や当事者が(無理矢理)団結する必要はない、と言ってきました。
それは、これほど将来に抱く展望の違う人たちが、団結するのは無理があると考えているからです。

そうではなく、その時々でゆるく集まればいいのではないでしょうか。
花風社はその場の一つを提供しているのです。
一つの本の愛読者っていうのは、ゆるい集まりですからね。

さて

表題の「みんなみんな一次障害」について説明しましょう。

神田橋先生は、EBMと代替療法の線引きを、一言で片づけられました。
「発達障害は治りますか?」を読んだ方ならおわかりのことと思います。

実はあの収録の前の晩、長崎の居酒屋で岩永先生、愛甲さんとお食事しながら
「線引きはどこにあるのだろう?」と話していたのです。

そうしたら愛甲さんが
「きっと神田橋先生が、一言でぴしっと決められると思いますが」と予言したのですが
その通りになりました。

EBMと代替療法の境はともかく
実は一次障害と二次障害の境も曖昧です。
私は治っていく人を見て
「一次障害は治らず二次障害は治るというより、治っていく人は一次障害にも改善が見られている」と思うようになりました。
別に発達障害でなくなるわけではありません。
ただ、劇的に治っていった人が治ったのは二次障害だけではないという実感を持っています。
逆に言うと一次障害に改善が見られないと二次障害すら治らないという感じでしょうか。
だから長年膠着状態の人が多いのでしょう。
吉川センセイも「薬の効果は限定的だ」と書いていらっしゃいますね。薬は症状に働きかけても、一次障害には働きかけないんですよね。

そして今、いささか乱暴な言い方ですが
「どこからどこまでが一次障害で、どこからどこまでが二次障害か、それは治療者で決まる」と考えるようになりました。

この場合の治療者には、本人も含みます。
長沼先生は「健康な人とはどういう人ですか?」という私の質問に対し
「自分で自分が治せる人」と即答なさいました。見事に即答でした。
私の実感とも合っているものでした。なるほど! と思いました。

つまり、治せない治療者にとっては
「すべてが一次障害」です。

神田橋先生は「みんなみんな発達障害」とおっしゃいましたが
治せない治療者にとっては「すべてが一次障害」です。

ですから私は、猿烏賊さんたちに言うのです。
「安心したまへ。君の子は治らない。たとえよその子が治っても」

治したくない人は治らないのですから、安心していればいいと思うのですよ。

そして私は
「治りたい人」に役立つ情報収集を続けるつもりです。

続く (不定期連載です)

自閉症と私5 (他人の選択の自由)

2013-02-27 11:22:55 | 日記
先日知人とお食事したとき、発達障害とは関係ないけれどもこのブログを見ているその方が
「あれは社会の縮図ですよ」と教えてくれました。
何がかって? 猿烏賊騒動です。

別に障害児の親だからあんなことするわけではなく、
社会には方々にああいうやっかいな群れが時折いるのだと。

「そうなのですか。じゃあ私は今まで幸せだったんだ。
あれほど民度の低い群れを見たことはありませんでしたから」

そう言いました。

もっとも、私のように人間関係に恵まれてきたひとは、自閉っ子関係者にもいます。
ある読者の方も、一連の騒動を見ていて
「私は今まで幸せだったのだと思います」とメールしてこられました。
親の会活動はするけれど、みんな適切な距離を守っている。そらパパさんの周辺のようなことは起きない、と。

一方で、親の会の活動に疲弊している人は、猿烏賊山を見て
「ああいう人はどこにでもいます」と言います。

だから親の会も様々なのだと思います。
今の親の会で、他人の選択の自由を尊重できない仲間に悩んでいる方
河岸を変えた方がいいかもしれません。
イヤな仲間と無理して付き合うことはありません。

さて、祭り。

神田橋先生の本を出すことで起きた祭りで
「アンチ神田橋・花風社」の人たちが掲げる理由は大きく分けて二つありました。

1 障害は治らないもの。治ることを取り沙汰するのはけしからん。
2 必ずしも検証されていない方法を用いるのは、正しくない。

「発達障害者は発達します」なんて当たり前、という嘲笑も起きましたが
「治る」という言葉も「発達する」という言葉も、別に定義のすりあわせをしていません(猿烏賊と私が、すりあわせをする必要もないと思っています)。
けれども今ははっきりと言っておきましょう。
「発達する」とはただ成長するという意味では私は使っていません。
「一次障害が改善されていく」ことに限って使っています、私は。
そしてちゅん平や大地君に起きたのはそういうことだと思っています。

まあ、1と2については、次回以降に譲ります。詳しく考察していきます。
今回は「他人の選択の自由」ということに的を絞りましょう。

当時、ベムこと宮本晋は異様なテンションで彼が「トンデモ」と呼ぶ人たちを攻撃していました。
花風社もそのターゲットになりました。

その様子があまりに異様だったので、「あの人のターゲットにされるのが怖い。だから表立ってかばえませんが応援しています」と多数の声が寄せられたのですが(そして私はそれを再三教えてあげていたのですが信じず)
宮本は「正義は自分にある」と信じ切っていました。
「見えないものは、ない」認知をもつようです。

みんな違ってみんないい、をお題目のように唱えながら
よそのうちが自分たちと違う方針を選ぶことさえ許容できない人たちがいる。
宮本晋や、認定心理士という微妙な資格で、狂ったようにEBM! EBM! と叫び上から目線の説教を繰り返すそらパパこと藤居学、そしてそのシンパを見て、私は
「自閉っ子を授かりながらその親に向かない人というのはいるんだなあ」と思いました。
人間の多様性を否定しているからです。
他人に選択の自由を認めていないからです。
そういう人が、特性のある子を育てるのは、苦労するだろうと思いました。
私が曲がりなりにも、一部の自閉っ子たちとうまくやってこられたのは
彼らを異文化の人としてリスペクトしていたからです。人の多様性を認めない人にとってそれは難しいでしょう。

当時寄せられた多数の声。

「そらパパさんもベムさんも、ご自分の好きなやり方をなさればいいと思います。なぜよそのお家のことまで支配しなければ気がすまないのでしょう」

最もな疑問です。
不思議でしかたがなかった。花風社は民間の一版元に過ぎない。一版元の本に過ぎないのだから、自分が読みたくなければ読まなければいいだけ。
藁にもすがる思いで読む人もいれば、ちょっと試しに読んで見る人もいる。本への思い入れなんて人それぞれ。
それをなんで、他人にまで読ませまいと顰蹙を買うほどテンパってアンチ活動するのか。なんの実りもないのに。

しかもおかしいのは、一版元が一冊の本を出すだけで、あたかも自分たちの方が価値観の押し付けにあっているような認知をしているらしいことです。
花風社は為政者ではありません。政府が親学を奉じるのとは話が違います。
選び選ばれるのが民間の存在です。いやなら読まなければいいだけの話です。
それをどうして、他人の家の選択にまで口を出さなければ気が済まないのでしょう?

私自身は相当人の好き嫌いが激しい人間だけど
嫌いな他人の考えを変える野心はないんですね。
そして彼らが幸せだろうと不幸だろうとそれで自分の幸せ度が影響されることは別にないわけです。自分の提唱したやり方でなくても、幸せになってくれたら、その方が世の中のためでしょう。
ただ私は私なりにその時々のニーズを読みながら、善意で企画立ててますけど(くどいけど、アンチは信じなくてもいいよ。しょせん商売人? そう。善意を食い扶持に変換できるのが商売人の醍醐味ですよ。)

だから、会ったこともない吉川徹に「花風社に儲かってほしくない」と言われた時にはほんとにはああああ?って感じで。
他人の金についてうんぬんすることは、下品なことだって親に教育されませんでしたか? 皆さん。
そういう基本的なしつけを受けてないまま医者になったんでしょうか。

もっとも、ベムも
あの療法は金の無駄、この療法は金の無駄、と他人の懐に干渉してた。
ブログや自閉症協会の掲示板、Twitterで大騒ぎしてました。
この人も、自分の財布と他人の財布の区別がついていない人だったのかも。
言われた方にしてみれば、ただただ迷惑なだけです。
本当に、区別がついてなかったんだと思いますよ。
ある保護者についにハッキリと、「迷惑だ」って言われたとき、「俺終わってる」とショック受けてましたから。

というわけで、一部の保護者が


・なぜ押しつけられてもいないものを押しつけと感じるのか
・なぜ他人の選択にまで口を出すのか

とっても不思議だったんですけど
「脳みそラクラクセラピー」作りを通して、そういう状態
(つまり、自他の区別がつかない状態)は、一種の
「発達の遅れ」なのだと知ることができました。




自他の区別っていうのは、この本でも取り上げた。


=====

自分には自分の人生があり、他人には他人の人生がある。それぞれの苦労や喜びがある。
自分の人生は、自分が築いていく。でも他人の人生は、本人が築いていく。
他人が成功を遂げることは、自分の成功を減らすものではない。
(「自閉症者の犯罪を防ぐための提言」より)

=====

本当に不思議だったんです。アスペルガーの人のこの認知。
勝手に思うようになるはずのない他人を思うようにしようとして苦しむ。
でもそれは「発達の遅れ」なんだってさ。


つまりね、
勝手に他人と自分を同一視するのが「発達の遅れ」だとすれば

今からでも取り戻せるんですね。
発達障害者も、定型発達者も、微妙な人も
みんな発達するからね。

「脳みそラクラクセラピー」の最初のページにこう書きました。





続く(不定期連載です)

*次はいよいよ「治す」のお話。

自閉症と私4 (治りっこないでしょ)

2013-02-26 08:35:11 | 日記
発達障害に関し、治る治らないの言葉を使うと過剰な反応がおきますが
それは前の記事にあったように
二次障害は治るとか一次障害は治らないとか
ギョーカイのご本尊の「親のせいではない」問題とかいろいろあって
結論としては「治らない」といっとかないとギョーカイの市民権を得られないと思っている人が多いからかもしれません。

私もギョーカイの端くれにいたころには
そういう思いを共有していました。
とくにギョーカイの本音(連載記事の前回参照)を知ってからは
「治るわけがない」と思っていました。

だから、愛甲さんが来たとき怒りました。
そのときの様子を、新刊「脳みそラクラクセラピー」から抜粋します。


=====

愛甲 私は長崎大学大学院の岩永竜一郎先生のもとへ特別支援教育の勉強に行って名刺をいただきました。その後、鹿児島に行って、師匠の神田橋條治先生に岩永先生からいただいた名刺をお見せしたら、岩永先生と会いたいなあとおっしゃるのです。このお二方が会われるのであれば、いっそのこと本にして多くの方にも読んでいただいたらよいと思いました。そのとき私の脳裏に浮かんだのが花風社でした。
 だから面識もない浅見さんにいきなり電話をしたんですよね。そうしたら、いかにもいやそうだったけど、「一回会ってあげましょう」みたいな感じで。
 
浅見 わはは。無礼なやつですみませんでした。私は「神田橋條治先生? なんでそんな大物の方の本をうちのような小さい出版社が出さなきゃいけないんだ!」と腹が立ったのです。おまけにそのとき、もう発達障害にへきえきとしていたので。

愛甲 お会いした浅見さんは、桜島が大噴火しているような感じで怒りに充ちていました。でもその後、この出会いが「発達障害は治りますか?」という本につながり、結果的にはあの本が世に出てお役に立てていて、よかったなと思います。

=====

なんで私が桜島状態なほど怒っていたかというと、もう発達障害やりたくない、という気持ちからだけではありません。
治る? ふざけんな!
一次障害どころか、二次障害にも無力じゃないか、医療も福祉も。
今更治るなんてふざけんじゃないよおおおおおおお。



という気持ちでぶんぶん怒っていたのです。
だって愛甲さんは
「神田橋先生は治すんです。三十年引きこもっていた人が、一回でハローワークに行ったり」
「長い時間をかけてカウンセリングなさるんですか?」
「いえ、五分診療です」」

とかわけのわからないこと言うわけですからね。怒ったのです。

だからね、「治る」って言われて怒る猿烏賊スペクトラムの人たちの気持ちもちょっとわかるんです。
一番最初に怒ったの私なんですから。

でも今は信じてます。
信じざるを得ません。
自分が出した本をきっかけに神田橋先生のところに訪れた読者の方々に、本当に「長年の引きこもり→就労支援→就労」とか、そういうことが起きているから。

でも別に魔法を使ってるわけじゃないんです。
今になるとわかります。わからざるをえません。
ご報告受けますのでね。何がどうしてどうなってよくなりました、っていう。

なんで治るのか?

それは魔法ではありません。
きわめて論理的な治療によって治っていきます。
要するに、「見立て」が正しいから、これに尽きます。
今になるとわかります。
先生のもとでは
「どこが病んでるか?」がはっきりとわかるからです。
そしてその病んだ部分に対応がなされるからです。
めったに鹿児島まで行けない人たちに、どうやって対応していいか、五分の間に教えてくださるからです。
それは西洋医学の薬であることもサプリであることも漢方であることも
あるいは感覚運動アプローチ的なものであることも

要するに、一次障害にせよ二次障害にせよ、なかなか治らないという現状は
「見立て」の問題でつっかかってることが多いからだと思います。
少なくとも私にはそう見えます。
そして「見立て」用には、「発達障害」っていう概念はおおざっぱすぎるのです。
発達障害の概念を否定するものではありません。
ただ、「発達障害」という診断に終わらせず、個々の脳みそのかたちに則った治療じゃないと治らない。
先生の治療はおそらく、個々の脳みそに則っているものなのだと思います。だから治るのでしょう。

まあそれは後知恵で
とにかく最初愛甲さんが来たときの私は、桜島のように怒っていました。
それでも「発達障害は治りますか?」を出そうと思ったのは、
本当に治す人がいるのなら、
治る可能性があるのなら
皆さんに知っていただきたいという気持ちがどこかであったからだと思います。

またもや善意の人である私は(くどいけど、アンチな皆様は信じなくていいよ)
私は発達障害にへきえきとしながらも、神田橋先生の本を出すことにしました。

そして、祭りが起こりました。

続く(不定期連載です)

自閉症と私3 (二次障害は治りますか?)

2013-02-24 13:20:02 | 日記
さて。

前回の記事はこう終わりました。

=====

本当に本当に期待しないんですか?

本当に「二次障害は治るけど一次障害は治らない」
って思っているんですか?

=====

皆さんが(当事者や保護者の皆さんが)
どこまで一次障害を改善したいかどうかはともかく
そういうこと言い出せない雰囲気がありますよね。
療育なるものにつながればつながるほど。
ギョーカイ活動に熱心であれば熱心であるほど。

だって「二次障害は治っても、一次障害は治らない」っていうのが統一見解だったでしょ。
これに疑義をさしはさむとね、すっごいバッシング食らうし。
それが怖くて言い出せないひとも多いでしょ。

でもウソだったみたいだ。この統一見解。

いや、今このときも、研究者の先生たちが生物学的な研究をして
(「とりわけ傷つきやすい人々」への配慮からなかなか表には情報出てきませんが)
やがて一次障害へのソリューションが発表されるのかもしれません。
でも少なくともこれまでは、上記のものが統一見解でした。

表向きには。

ギョーカイの本音は違います。

「二次障害は治せるけど、一次障害は治せない」

これはギョーカイの本音ではありません。

私は真実を知るきっかけに恵まれました。



愚かにもずっとこう思っていたもんですのでね。

「自閉症は持って生まれたものかもしれないけど
『ニキ・リンコはいない。浅見淳子が商売のために偽の自閉症者を演じている』みたいな妄想は、どう考えても持って生まれたものではないので(だって彼が生まれるときにはまだ私たち生まれてなかったもん)
治るんですよね、二次障害だから。
名医がついているし。」

って安心していたんですけど、


医療が解決できないことがはっきりして、ついに法的措置に踏み切るとき、ギョーカイメジャーに「どうして予約何年待ちの名医がついていながら治してくれなかったんだろう?」と言ったら
ギョーカイのヒミツを教えてくれました。
「治りっこない」そうです。

なぜなら

・大人になったら治らない。
・治す気がない人は治らない。

だから彼は治らないんだそうです。

そのときギョーカイの本音を知りました。
ああ、そうだったのね。


ギョーカイは「早期介入、早期介入」と言いますけど、
なんで早期介入にやっきになってるかっていうと
「大人は手遅れ」って思っているからかもです。
実は、一次障害どころか二次障害も治らないと思っているからかもです。
じっさいにめったに治っていかないでしょ。

だからちゅん平が貴重なわけでしょ。



自分たちの介入で治った人がめったにいないのなら
「障害は治らない」ことにしておいたほうがラクですよね。
(あ、ちょっと話ずれますがこの変則技で
「治ったら偽者認定」も「治らない」派の人たちがよく出してくるヘリクツですね)

さて

一次障害どころか二次障害も治らない。
これがギョーカイの本音です。
そうわかると、謎が解けるでしょ。いろいろ。

二次障害回避原理主義で、知的障害のない子に能力を伸ばすチャンスも与えず障害者としての生き方をすすめるのも

従って支援校がいわゆる軽度の子でぱんぱんになって、重度の子たちの居場所を奪いつつあるのも

そしてきちんと大学出た人に単純労働しか用意しないのも

子どもの療育なるものに熱心なギョーカイメジャーが多くて成人支援は手薄なのも

企業を集めた就労支援セミナーでギョーカイメジャーが堂々と「この人たちに努力させてはいけません」とかのたまって一般社会をあきれさせるのも

全部「大人は手遅れ」「二次障害も治らない」と考えられているからです。
治らないのは一次障害だけではない、とギョーカイは考えているのです。

ん、でもなぜ二次障害になるか

そこで「親のせい」にはできないもんだから(何しろギョーカイ神社のご本尊が「親のせいではない」と涙で書かれたお札なもんですからね)
他のもののせいにしなければなりません。
とりあえずとばっちり食らうのは「社会」。
「社会のせい」にしとけばギョーカイは安泰です。
「自閉症者は本当は心のきれいな人たちです。いじめる社会が悪いのです」
「自閉症者は頑張らなくていいのです。社会が理解すべきなのです」
言ってるギョーカイ人も、自分たちがいいことやってるような気がして、気持ちよくなるかもですね。

でもね

こんなこと言われて真に受けたら、治る気なんてわいてくるわけないじゃないですか。

治る気をなくすような言論活動をしておいて
「治る気のない人は治らない」と言い放つだけのカンタンなお仕事。



なんで「社会の理解ガー」ばかりに走るか?
考えてみるまでもありません。

自分たちが治せないからです。

なぜ人生の質を切り下げてでも二次障害回避原理主義をすすめるか?
二次障害すら治せないからです。二次障害が「不治の病」だからこそ、人生で多くのものを犠牲にしても避けようとするのです。

「早期介入が大事」というお題目のもとに成人支援はなおざりなのはなぜ?
「大人になったら手遅れ」だからです。

そのようなギョーカイの本音を知った夏
愛甲さんが会社にやってきたのです。


続く(不定期連載です)


追伸

昨晩「一次障害に働きかけないこと前提」のギョーカイ集まりについての記事を見つけました。
強度行動障害に関しての集まりがあったようです。

今朝起きて、それについてついーとしておきました。

ついーと1



ついーと2


本当に貴重な機会ですよ

2013-02-23 06:18:11 | 日記
さてさて

この週末は、ゲラ待ちながら

・食育の記事一本書いてクライアントに送った
・頼まれた翻訳一本やってた
・頼まれたインタビュー原稿一本起こしてた

と版元らしからぬ仕事をしながら(いや、営業しないでもどんどん依頼が来るのは本当にありがたいです。猿烏賊の皆様に喧嘩を売られたらちゃんと買ってさしあげてついでにプロモーションの機会にするという余裕は実はこういうところにあったりする)
ついったーでおしゃべりしたりしてました。
夜はおいしいもの作って食べた(飲んだ)。
あとiTunesで「テルマエロマエ」レンタルして見ました。

MLも流しました。

というわけで
ご登録者にはすでにお伝えしてありますが
3月9日の、貴重な機会についてのお知らせです。
どれだけ貴重かというと
藤家さんの講演にニキさんと私がゲスト出演。
三人揃うことって、本当にめったにありません。
自閉っ子、こういう風にできてます! のあとのお二人を揃って知る貴重な機会です。

お近くの方はぜひ と書いたけど
お近くじゃなくても、ぜひ。

貼り付けますね。

このお知らせは
しばらく一番トップに張っておきます。
よろしくお願いいたします!

=====

3月9日、藤家さんの京都での講演
「30歳からの社会人デビュー」に
ニキさんと私も出演することになりました。

最初に藤家さんが、就労までの道、その後、就労後一年経ってからのことを語り
(最近は新人の指導も担当しているようです)

その後、「自閉っ子、こういう風にできてます!」でもおなじみの三人の講演を
ライブでお届けします。

三人そろっての講演は、貴重な機会です。
もしよろしければ関西の方、近県の方
どうぞお出かけくださいませ。

詳細・お申し込みは主催者様のサイトをご参照ください。


たくさんの皆様とお目にかかれますことを楽しみにしております。

浅見淳子


=====

「脳みそラクラクセラピー」がここで買えるのか? とお問い合わせありましたが
たぶんここが初売りです。
あとは画伯次第。
そのために義理チョコにGODIVAを張り込みました。画伯! ダジャレ言ってないで頑張って~!

神田橋先生直伝の脳みそラクラク体操載ってます。
画伯がマンガにしてくれてますよ。

どちらもお楽しみに。


今日で17歳

2013-02-23 06:17:33 | 日記


今日で17歳になりました。
そりゃいくらなんでもサバ読みすぎでしょ? って言われるかも。
えっと、でも私は基本的に開き直り能力(@神田橋先生)の人なので
自分がおばさんになってみたら、驚くほど若さへのこだわりがありません。
むしろ、若いと色々大変そうだな、と思います。
まあ私はまだ中身が子どもだしね。たぶん死ぬまで。

17歳になったのは、私ではありません。花風社です。
平成7年の暮、勤めていた会社を辞めて
平成8年の今日、法人登記したのです。
失業保険をもらわないまま、社長になりました。
なぜかというと、会社辞めて編集プロダクション作ります、いずれ版元にします、と宣言した私に、
出版業界の人たちがどっと仕事をくださったので
会社を辞めたその日から、一日14時間仕事をしていたからです。

エージェントだった私に、編集や翻訳をなぜやらせてくださったのか。
それは今もわかりません。
ただただ期待に沿おうと必死に働きました。
前勤め先の社長も含め、当時お世話になった方の中にはこの世を旅立たれた方もいますが
あのとき仕事をくださった方々に、感謝しています。

そして今は、読者の皆さんに感謝しています。
花風社が今日あるのは、皆さんの力です。
本当に本当にありがとうございます。

若くて実績の何もない私に仕事をくださった方々が、当時の私に唯一認めていたもの。
それは、やる気でしょう。
やる気のある若者は、それだけで応援されます。
発達障害の世界でも、やる気のある若者の足を引っ張るのではなく応援する、まっとうな方々は増えてきていると思います。
そしてそういう方々が、花風社の本を愛読してくださっていると思っています。

ひたすら感謝し、
そして信頼に恥じない仕事をしていきたいと思います。

自閉症と私2 (岩永先生にやってほしかったこと)

2013-02-22 07:30:50 | 日記
私が岩永先生にお会いして、「これはお願いしたい」と思ったことは
まずニキさんやちゅん平
そして同じように、へんてこな身体感覚で生きにくい人を、生きやすくしてほしいということです。
それは様々なかたちを取るでしょう。
へんてこな身体感覚の説明をし、周囲にいる人に理解を促すこと。
適切なトレーニングを教えてもらい、本人がそれに取り組んで、マシになること。
自分の特性をはっきりと自覚し、それに沿った環境を整えるヒントとすること。

つまり原点は「目の前の人がラクになるのなら、岩永先生の本を出したいなあ」という気持ちだけでした。
くどいけど私は善意の人です(くどいけど、別に納得しなくていいよ。アンチに翻意を促す気持ちは、私にはありません。一生アンチでいてください)。

以前ある読者の方が
岩永先生の本に「感覚統合」というタイトルが入っていないのは検索に引っかからなくて不便だ、と言ってきたことがあるのですが
少なくとも「続」と「続々」を出した時点では「感覚統合」より「自閉っ子、こういう風にできてます!」の方がブランド力高かったでしょ、と言いました。
そうですね、と納得されていました。

ていうか私には、実を言うと
「感覚統合の本を出している」という意識すらなかったのです。
「ニキさんやちゅん平や、その他へんてこな身体感覚で社会に出にくい自閉っ子たちを救うことができるのは岩永先生のようだから、岩永先生の本を出している」という意識しかなかったのです。
「自閉っ子、こういう風にできてます!」で気づいたへんてこな身体感覚をなんとかしてくれる人が見つかった。
だったら続と続々を出そう。
解決編につなげていけばいいと思いました。
感覚統合、っていうのは岩永先生についてきたおまけみたいなもんです。(ごめんなさい)

ところが知らず知らずのうちに私はここで
自分が本来さほど興味のなかった一領域に足を踏み入れてしまったようです。

それはなんでしょう?

感覚統合?

いえ、違います。

実を言うと、「ああ、私、これやりたくなかったんだ」って気がついたのは
先日ABAなるものをテレビで見てからなのです。

私が、実は興味がなかったもの。

それは「療育」です。

私は「療育」には興味がなかったんだ。

私の興味があるのは
「異文化交流」であり(何しろもともと翻訳出版の人だったのですからね)
異文化交流の結果知った、「生きづらさ」であり
それをどうにかすることという方向性から

私が興味あったのは「脳の可塑性」なのだと
「療育」じゃないんだと
自覚したんですよね。

それは「ABA」にとことん興味がわかないことを突き詰めて考えた結果
ようやく気づいたことなんですけど。
それ以前にも、自分がよくあるタイプのSSTに興味がないことには気づいていたんですけど。

ようするに「療育」っていうのは党派心の争いの場であり
素人でありながら、そこに勝手に参戦して闘ってる物好きな親たちもいるわけです。
そこに私は足を踏み入れてしまったわけですね。
私が岩永先生の本を出した動機は「ニキさんとちゅん平と、その他似たようなへんてこな身体感覚の人たちがどうにかならないもんか」だったんですけど。
岩永先生の本を出したことで、私は知らず知らず戦場に足を踏み入れていた。
人生のモットーは「専守防衛」なんだけどね。

なんでABAやSSTといった「療育」に興味がないか。

それは一次障害に働きかけがない(あるいはあるように私の目には見えない)からです。

っていうか、皆さんは期待しないんですか?
一切期待しないんですか?
一次障害への働きかけ。

本当に本当に期待しないんですか?

本当に「二次障害は治るけど一次障害は治らない」
って思っているんですか?




続く(不定期更新です)

自閉症と私 その1 ( はじまりは岩永先生)

2013-02-21 09:53:37 | 日記
ちょっとでかいタイトルですけど
前エントリとも関連してくるし
今のうちに、このこと書いておきます。

「自閉っ子と未来への希望」に書いたように
元々翻訳出版に携わってきた私。
翻訳を教えていたとき、ちょっとユニークだけど熱心な生徒としてやってきたのが後のニキさんです。
そこから自閉症との付き合いが始まりました。

やがて自閉症の知り合いが増え
何人かとは一緒に仕事をすることになりました。
そして気づいたのは、その身体感覚の不思議さと、それがゆえの生きにくさ。
そして私たちに、それがわかりにくいため
心の問題であるかのように解釈してしまい
その結果自閉症の人と私たちが分かり合えないのではないかということでした。
それに加え、私自身が曲がりなりにも「変人枠」で生きて来られたのは、体力があったからだと改めて気づき
季節の変動に翻弄されやすく体力もないというのは不便そうだなと思っていました。
世の中、変わり者でも仕事はありますが、体力のない人には選択肢があまりありませんからね。

そして身体感覚は、社会生活に大いに関係があります。
コタツの中の脚がなくなるような身体感覚の人が、街中を歩くのは大変。
引きこもりがちになっても不思議ではありません。
「自分の身体がどこからどこまでかわからない」
「五感が過敏」な人にとっての世界は
私たちよりずっと生きにくいはず。

自閉の人と私たちの間に橋をかけたくて
「自閉っ子、こういう風にできてます!」を出しました。
今に至るまで版を重ねています。

これを読んで
岩永竜一郎先生という長崎大学の先生が長崎に呼んでくださいました。
このヘンテコな身体感覚について研究し、治療し
そして自分の専門性の蛸壺にこもらず、広く地域支援している岩永先生との最初の出会いです。
ニキさんと藤家さんに、検査受けてみる? ときいたら「受ける受ける!」でした。
二人とも生きにくさの原因は知りたかったのです。当たり前ですね。

こうやって
私は、ヘンテコな身体感覚が何とかなって、そして自閉症の人が生きやすくなりますようにとの願いを込めて
続 自閉っ子、こういう風にできてます!
続々 自閉っ子、こういう風にできてます!
の二冊を出しました。

つまり、私は基本的に善意の人です。
その善意が全員に通じると思ってるほどお花畑ではないし
全員に感謝されることを求めるほど感謝に不足感はありませんが
(おかげさまで日々感謝を実感できますのでね)
善意の人だということは言っておこうと思います。
信じない人がいるのは重々承知ですが、信じて下さる方、実感してくださる方も多いはずなので
一応言っておこうと思います。

多くの方々に喜ばれた岩永先生の本が、しかし
花風社が「トンデモ」呼ばわりされる初めでした。
岩永先生が、感覚統合という分野の第一人者であったというだけで
そらパパこと藤居学などは、支援者としての専門性さえ認めず、嘲笑しました。
「岩永先生が専門家? プゲラ」というのが、砂のお城の見解だったのです。

一体何様?
って思う方は別に、感覚運動方面の方だけではないのではないでしょうか。

今になって見れば、岩永先生は押しも押されぬ自閉症支援の第一人者であり

かつて藤居と一緒に、花風社を叩いていた吉川徹は黙り、ベムこと宮本晋は消え、味方だったはずの悪ノリ組もめっきり減りましたが
そもそも彼らが最初に叩いたのは、岩永竜一郎先生だったのです。
岩永先生の本を出したことで、花風社を叩いたのです。

忘れている人が多そうなので改めて指摘しておきます。



続く(不定期連載です)

療育とエビデンス

2013-02-19 08:41:30 | 日記
さて、猿烏賊の人たちが大好きなエビデンス。
でも彼らは別に発達芳しいわけではない。

一方で、神田橋先生の本を読んで
「おむつがとれた」
「頭ごんごん打ち付けるのがなくなった」
「絵カードが使えるようになった」

みたいな話が、出版直後からどんどん飛び込んできた。

先生にお話しすると
「うれしいねえ。でもそれはまだ治癒ではない」とおっしゃっていた。
そうなのか、と思っていたら
その後、「言葉が出た」とか「IQが上がった」とかそういう話に発展し
「ああ、一次障害の改善までいっての治癒なのだ」とわかった次第である。

一方で、エビデンスのあるというABA。
いったいどういうエビデンスなのか、いろいろな人にきいてもはっきり答えが返ってこない。

だいたい療育のエビデンスってどう取るんだろう、と不思議だった。

だってさ、たとえば「○○療育のエビデンスを取ります」っていうとき、コントロール群に入れられたらたまんないでしょ。
そういう実験を本当にやって、それでエビデンス取ったのなら、ひどい話だなと思っていた。

そうしたら先日どっかの物理教師がこうつぶやいていたので
(無断引用御免。今度会ったらサッポロクラシック一杯おごってあげます)



そうだろそうだろと思った次第。
人を教え導く立場でありながら、生徒の一部をコントロール群にするなんて、人間じゃないよ。

「それ不思議に思ってたのよね」と言うと、こういう答えが返ってきた。



ふ~ん。だからエビデンス自慢の人に「エビデンスってどんなんですか?」ってきいてももごもごもご、で終わるのか。
ていうかこれだったら、優れた療育者だったらみんなやってることじゃん。

あとはこの会話の流れを見てもらえれば。



要するに、この物理の先生は「お勉強をできるようにする」のが仕事なのでこういう方法をとってるけど
「エビデンスある療法を!」がお仕事の人の下で療育を受けると
コントロール群に入れられるほどひどい扱いは受けないまでも
「効果あったな。じゃあしばらくやめてみるか。それで効果が消えるかどうか見て論文書こ」とか
そういう扱い受けるの?

まさかね。

間違ってたら教えてね。

いずれにせよ「療育のエビデンス」ってたいしたことないじゃんと思いました。

そしてABAですよ。凄腕セラピストがテレビに出るというので見てみた。

見て良かった。

今までABAに抱いていたうっすらとした疑問が裏付けられたし
私としては、まったく興味持たないでいい分野だとはっきりわかった。
凄腕であれならば、あとは推して知るべし。

何が? って
とにかく話が遠いですね。
行動変容を起こすのが目的なんだろうけど
それにしても話が遠い。
あれじゃあコストかかるわ。時間もお金も親のエネルギーも。

なぜ話が遠いかというと
一次障害ほったらかしでしょ。

逆に言うと、あれを「療育」と思っている人たちが
「治る」って信じられないのは、無理ないと思った。話している次元が違う。

脳みそラクにする療法は
もっと話が早いですよ。

TEACCHは定型脳にできて自閉脳にできない仕事を外注するシステムなので
脳みそをラクにすることには成功しているし
ある意味「発達援助」なんだけど

ABAは「発達援助」度はぐっと低いなあと思いました。
これも誤解だったら教えてね。

そうしたらそらパパこと藤居のこの何を今更発言

エピソード主義?

ま、ともかく。

あああああ、療育のエビデンスってその程度なのか。
だったら、あくまで「エビデンスガー」の人たちは
体感音痴の自分たちがよく理解できない方法、気に入らない療育方法、人にやってほしくない療育方法をけなすための方便として使ってただけじゃん。海老踊り。

じゃあ私が見ている
・ABA信者発達してない(するわけない。一次障害に働きかける療法ではないのだから)
・感覚運動アプローチ即効性がある
・食育に気をつけているおうちのほうが安定している
・脳みそラクにする方法は話が早い。

も堂々と、主張することにしましょ。
要するに障害児といえど人間としての生体であるということは変わりがないわけで
生体としての健康は重要よね。

それがトンデモなら
「標準的な療育」とやらにこだわっている人より
そういう頭でっかちさんたちにトンデモがられている人の方がずっと成果上げてますよ。

各地から届く便り(サクラサクも含めてね)からそれがわかります。

変人枠とコンプレックス

2013-02-15 11:55:37 | 日記


私はかねてより「自閉っ子は変人枠を狙えば」と書いていますが
卑屈脳にかかると、これさえひん曲がってインプットされるみたいですね。

このエントリについたたった一行のコメ。
この一行で、コメ主が卑屈脳の持ち主だとわかりますね。

私はアスペルガーと同類にされたくないか?

えっと別に人間というくくりだったら同類なのではないでしょうか。

それからアスペルガーでも私となんらかの属性をともにしている人はいるはずで
そういう人は同類なのではないでしょうか。
お相撲ファンとかね。

私がアスペルガーを軽蔑しているかというとそんなことはなくて
尊敬しているアスペルガーと軽蔑しているアスペルガーがいる。
それは別に非アスペルガーの人に対してと同様です。

保護者の皆さんに関しても同様です。

なんというか「君たち変人枠で行けば」というと、被害的に取るっていうことは
逆に「変人」ってことにコンプレックス感じているんだろうな、
なんで? とそっちのほうが不思議です。

たぶん「変人枠」と言われると「侮辱」と思ってしまうっていうことが
社会を恨むメンタリティと無縁ではないような気がしますね。

ありえない「普通」へのあこがれとか。

それはリンク先のエントリで、学校の先生たちと話して
「私は変人枠ですから」と私が言ったら、先生たちが「そんな~」とか言ったときにも
あれれ、と思ったのですが。

私は変人枠ですよ、明らかに。
だって職業人なのに平日に国技館で酒飲んでる。そういうことしている(ができる)人は変人枠です。
そしてカタギの皆さんが思われているより、変人枠で食いっぱぐれない道というのは、たくさんあるので
そっちを目指せばラクなんじゃない? と言ってるだけです。



そのためには体力が必要だったり

社会性っていったって、双方向で考えなければいけなかったり
つまり「みんな仲良く原理主義」より、理不尽なことされたら「寄ってくるな」とやり返すことが必要だったり

っていうか上記二条件は、別に変人枠じゃなくても、社会人やる以上は多かれ少なかれ必須だと思いますが、

そのために「近道」の情報を書籍で提供しているつもりなんですけどね。

ここんとこ「いいこちゃん志向」とか「過剰適応」の話よく出しましたけど
私から見ると、発達障害の人が、ありもしないきっちりした社会を想定し

それにきゅうきゅうと合わせようとしたり
合わせられない自分を卑屈に思ったり
誰のアドバイスでも聞き入れなきゃと思い込んでいたり
だから考えの違う人が放っておけなかったり
合わせていなそうに見えるのに世の中渡っている人を攻撃したりしていたり
嫌いな他人の成功に苦しんだり
とにかく勝手に生きにくさを自家生産して、勝手に世の中を恨んでいることが
とっても不思議なんですよ。

私は変人枠だし
変人枠であることをラッキーに思ってる。

でも変人枠が向かない人もいるのはわかる。

ただアスペルガーの人に一般的な価値観を押しつけると
それこそ無駄に苦しむことになるから
とりあえず
・食い扶持稼ぐ
・犯罪犯さない
・他人の自由を侵さない

ことを目標にして、のびのびと変人枠で生きていけば? という提案をしているだけです。
上記三つを守れば、社会は生きやすい。
学校より社会の方が懐が深い。これはいつもしゃべること。

そして私が自ら変人枠と名乗っても
「そんな~」と好意で(←ここ重要)言う学校現場からはなかなかこういう発想が出てこないんだろうから

そのあたり、学校との距離の取り方を覚えとくといいよね、と思っています。
公教育も、ずいぶん柔軟になってきたよね。