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ひぐらし:神の解体から創造へ

2006-08-26 00:43:11 | ひぐらし
(本題の前に)
まず断っておくが、以下の内容は「私自身の」ひぐらし批判ではない(例えば、私は目編プレイ時からオカルト要素の混入を確信していた)。あえて言えば、これはひぐらしのプレイヤーが作品に対して(特に皆編以降)見せるようになった批判の根源にあるものを分析する記事である。つまり私の興味は、ひぐらしが主張をどのように展開していたかを分析し、またそれに対するひぐらしプレイヤーの反応について考察することにある。その点を踏まえた上で、以下の記事を読んでもらいたい。


一般的な考えを追認するのはそれほど難しくないが、それと逆のものを人に納得させるのは非常に難しい。私たちに関して言えば、「神の解体」は割とすんなり受け入れることができるが(ドラマ「トリック」を想起せよ)、一方で「神の創造」には胡散臭さを感じることがほとんどである。ひぐらしについて言えば、その推理基準が「人為100%」(=オカルトが完全に排除されている)であると勝手に規定した人間が数多くいたことを指摘すれば十分だろう(根拠のない解釈とは願望の投影に他ならない)。「人為100%」の人々の反応はすでに何度か述べているので、ここではさらに一歩踏み込み、ひぐらしへの期待が批評に変わった過程を「神の解体と創造」という観点で分析したい。


まず先に言っておくが、推理の緻密さといった「質」に関しては私も文句(笑)が山ほどある。しかし、ここで問題にしたいのはあくまで「作品の方向性」だということを強調しておきたい。さて、ひぐらしはその始めにおいて、「神の解体」という方向性を持っていた。それは「オヤシロさまの祟り」(=神の仕業)を装う犯人に立ち向かうという展開から明らかだし(鬼・綿・目編)、また神解体の理論自体も綿編TIPSのスクラップ帳を中心によくまとまった形で提示されていた。つまりこの時点ではひぐらしの方向性は明確であると同時に一般に受け入れやすいものであり、しかも理論的によく構築された内容だったと言える(記憶が曖昧な人は綿編ののTIPSを読むべし)。


しかし皆編において、「神の創造」へと目に見える形で方向性が変わる(もちろん罪編でも強烈に暗示されてはいたが)。神がいる可能性は常に意識させられ続けたことだからよくよく考えれば唐突なものとは言えないけれども、神の登場に説得力がなければやはり人は納得しないものだ。しかも「神の創造」という一般の、現代の思考様式に反する方向性なので、本来であれば「神の解体」以上に多量の説得力ある説明が必要とされる(はじめから神のいるゲームなら、「その世界の前提」としてプレイヤーが受け取るのでそんな大変でもないのだが…)。しかし残念なことに、皆編の描写は新事実の説明などに追われ、羽入がどのような存在かを理解させたり、納得させたりするレベルには到達してなかった。そこにプレイヤーの不満の一つがあったと考えられる(もっともそれらは非常に感覚的なもので、あるやり方をすればすんなりと納得できたというように単純なものでもない気はするが)。


※ただ、スクラップ帳で神を解体してみせた鷹野が実はもっとも神にこだわる存在だったというのは、非常に興味深い構図だと思う。


ところで、上の記事を見て「羽入がいるのは十分推理できたんじゃないか?」と少しでも思ったのなら、残念ながらあなたに私の主張は伝わっていないと思う。「推理が可能か否か」とは推理の「質」に関する話であって、私が今話題にしているのは「物語の方向性」だからだ。わかりやすく言うと、羽入の存在が推理可能だったかを問題にしているのではなく、「神の解体」を進めてきたひぐらしが最終的に羽入という神を登場させた「ことによって何を主張したいのか?」を問題にしているのだ。つまり私は、羽入肯定(=「神の創造」)がひぐらしの方向性に与えた影響とプレイヤーに対する波紋を論じているのである。


神が解体されていた頃(すなわち羽入肯定以前)、プレイヤーにとってひぐらしの方向性は非常にわかりやすかったことだろう。というのも、オカルト・宗教・神といったものが結局人によって作り出されたものに過ぎないという説明・考え方はまさに現代の思想の方向性そのものであり、そこに生活するプレイヤーもまた、意識してにせよ無意識にせよ、その影響を受けているからだ(※2)。ゆえに、「オヤシロさまの祟り」というオカルト的(誤解を恐れずに言えば宗教的)事件の真相は人為的なものである、という「オカルトの種明かし」的な構造は受け入れやすいものだったと考えられるのである(ドラマ「トリック」が受けた理由の一つもここにあると思われる)。  [続く]


※2
もちろん事はそう単純ではく、21世紀は「宗教の世紀」だと言われるように、宗教が未だに強い影響力を持っているのは間違いない。とはいえ、それは現代の物質文明に対するカウンターパートとしての位置づけであり、またそういった方向性によって冷遇されてきた宗教の見直しという側面が大きいと私は考える。つまり、ごくごく単純化して言えば、あくまで主流は物質文明・物質化なのである。

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