美智子妃のディオール衣装が4着もあった昭和の御成婚、東宮御所も豪華新築

2018年03月08日 | 美智子さんについて

昭和34年の皇太子ご成婚では、美智子さんに4着のクリスチャン・ディオールの衣装が作られたことが、結婚直後の新聞に出ている。                      
                 



これは皇室記事ではなく、「家庭」欄の記事である。

御成婚のお支度に関わるデパートに焦点を当て、各社間の受注競争やさや当て、宮内庁への配慮と忖度、そして当日のドレス写真をめぐるマスコミとの攻防の様子が書かれている。
その中に、美智子さんの御成婚衣装の情報が詳しく出ている。

毎日新聞・昭和34年4月13日 「ローブ・デコルテ物語」より(縮刷版の245p)

(引用開始)

お支度の中でもいちばん花やかに取りざたされたのは、朝見の儀から仮御所まで美智子妃殿下がお召しになるローブ・デコルテを誰が作るか。
そしてどんなデザインかということだった。
田中千代、松田はる江、ミス・ヘイの名がクローズアップされたが、なんといっても本命はパリのディオール・デザインによる四点とうわさされた。
六年前からディオールの店と契約して商売にならない投資だけを続けてきたDデパートも、これでようやく日の目を見たと張り切ったものだ。
パリと東京を結んで着々すすめられたローブ・デコルテ四点も、三月下旬には完成、その記録写真もとって無事宮内庁に納めた。

(引用終了)



紙面には4着の衣装の写真が掲載され (以下、「」内上記記事より引用)

「Dデパートの株が上がったとうわさされるディオール・デザインの服四点である。
皇后さま、皇太子さま、秩父、高松両宮妃とおそろいで、美智子さんを加え、二十数枚のデザインのなかから選んだものといわれる。」



写真の一枚目は、朝見の儀やパレードで着用したウエスト正面に大きなリボンのついた、誰もが見たことのあるローブデコルテ

「朝見の儀から馬車行進までずっと着ておられたローブデコルテで、白地に金とおしの絹織物。遠目にはベージュに見えるが雲間に竜とホウオウの模様がとんでいる。
京都の竜村で織り上がるまで一か月。十五メートルを使っている。
値段は秘密だが、Dデパートのディオール・コレクションの場合よりズバ抜けて高いという事もないらしい。」



そして2枚目は、上記のローブデコルテと共布で作られたコート(マント・エシャルプ(フランス語))。
馬車パレードでドレスの上に羽織っている。


3番目の写真は、

「五回の披露会のうちにお召しになるはずの夜会服。生地はローズピンクのシルク・オットマンで、胸に共布のばらが飾られている。皇太子さまのお好みがたくさんとりいれられているというのはこの服。」

画像:ミスユニバース世界一の伊藤絹子氏と並べられてお気の毒だが、適当な画像が他に見当たらなかった。
”婚約の頃”と書かれているが、これは披露宴のディオールドレスである。
このドレスは見たことがあったが、これがディオール製とは気が付かなかった。殆ど知られていないのではないか。)


そして最後の4番目の写真のドレスは、

「同じく披露宴の服だが、これはいかにもディオール調で、白チュールに白シュスのアップリケをしてある。
人造ダイヤ二千個以上をちりばめたきらびやかなもの。」


(個人的には、このドレスが一番素敵だと思った。優美で可愛らしい。
旧い新聞で写りが悪いこともあるかもしれないが、これはおそらく初めて見たと思う。
ネットで画像を探したが同一と思われるものは見つけられなかった。
上記縮刷版245pに出ているので図書館で見てください。)

「この四点は二カ所の縫製工場とDデパート技術者の総力で、独特なディオール技術をとりいれている。」



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4着もあったとは知りませんでした。

ディオールだと報道されるのは、有名な白い正装ドレスだけなので、その1着だけだと思いこんでしまうようです。

当時、このブランド名を知る日本人がどのくらいいただろうか?

人造ダイヤを2000個というのも、今なら相当批判されそうな派手派手しさだ。
半年前には、ナイロンのドレスで記者会見したのに、文字通りの大出世である。

それにしても、この当時でこの衣装なのに、その後、経済大国となった次世代の雅子妃のデザイナーが森英恵、芦田淳、伊藤すま子というのは、ちょっと考えさせられる。


この10年余り、皇室では絶対に国産のものしか使わないとか、私の世代からすると、仰天するような嘘が平然と報道されるのには驚く。
ディオールの結婚衣装に始まって、美智子さんもシャネルのバッグを持っていたし、美智子妃、華子妃がこうした海外のブランド品を身に着けたことで、同世代の主婦層も購入するきっかけとなったのだ。

もうひと世代上の妃殿下にも舶来好みのかたもいたし、なにより、昭和天皇の帽子は「ボルサリーノ」だった。


美智子さんの若いころからの衣装道楽は、この最初の衣装づくりでの「勘違い」から始まったのかもしれない。



なお、この当時の記事を見ると、衣装と同時に新東宮御所の建築の話題が大きく出ている。
ともに、昭和の御成婚の豪勢ぶりを示すもので、有名な話だがついでにまとめて書いておきたい。





◆御所や宮殿よりも先に新築された東宮御所◆----------------------


昭和の御成婚パレードで、若い男性が投石して馬車に乗り上がろうとする場面が一瞬映る。
青年はその動機について、「ご成婚は贅沢すぎるとの意見を、直接、皇太子夫妻に訴えたかった」と供述している。まだ当時、日本は貧しかったのだ。
そして青年の話すように、その豪勢さはディオールのドレスだけではないのだ。

前年の昭和33年11月27日の婚約決定の時点で、東宮御所の新築が報じられており、設計は東工大の谷口吉郎氏。
婚約直後から、週刊誌や婦人雑誌(婦人生活、主婦と生活など)に設計図や模型が掲載。予算額も明示され、総工費、当時で2億3千万円。

皇太子の強い希望もあって、設計図にはすでに子供部屋も設けられ、結婚前から「初の親子同居」が認められていたこともわかる。
東宮御所の完成は結婚から一年後の昭和35年4月。

(言うまでもないが、平成の皇太子夫妻はこの同じ建物にずっと住んでいる。結婚や愛子内親王誕生で多少の改修は行ったが。)

ところが当時、まだ天皇皇后の住居である「御所」も戦災で焼失したままで、ずっと「御文庫」(戦時中の防空建物)住まいだった。
御文庫は、非常に湿気が強く、「爆弾よけのため壁や天井が厚く作られており、居間に日がさすのは年に数えるほど」(朝日 昭和35年6月28日)で、吊るした背広が数日でシミだらけ(入江侍従談・婚約時の週刊読売)等々、衛生上も健康上も良くないと書かれている。

親である天皇の家がこういう状態なのに東宮の家を先に作るというのは、普通ちょっと考えられない。まだ「長幼の序」の感覚が強く残っていた時代である。
昭和の吹上御所の設計は宮内庁で総工費が約1億6千万円。
完成は、東宮御所から1年半遅れの昭和36年11月。(朝日同上)

またこの頃、戦災で儀式や要人接遇を行う宮殿すらなかった。
今では信じられない話だが、宮内庁舎の上階を使うなどしてしのいでいた。
             
まだその当時は日本の国際的地位も低く、要人来日も少なくそれで済んでいたとも言えるかもしれない。
宮殿が出来上がったのは、御成婚から9年半後の昭和43年11月。

そして更に・・・・

バブル絶頂期に即位した明仁・美智子夫妻は、今度は莫大な予算を組んで平成の新御所を新築した(表向き58億円だが、実際はそれをはるかに上回る(70億とも)のは周知のことで、当時、新聞でさえ少々揶揄した表現だ)。

昭和の御所の約3倍の規模で、膨大な部屋数と80畳の晩餐・映画会、コンサート可能な多目的ホール、その上、なぜか要人の宿泊施設まで備え、「平成のチャウシェスク宮殿」とまで言われた。美智子皇后の意向が強いとも書かれている。(週刊文春 1993年4月15日他多数)
とにかくこのご夫婦は、常に「豪華新築」なのだ。

今、生前退位に伴うわずか1年ほどの“仮住まい”(旧高松宮邸)の改装に何億円もかけているのも、こうした感覚の延長だろう。
なお、昭和天皇・皇后は、昭和35年の御所建築の期間、
「宮内庁舎の別むねになっている内廷庁舎にお住まいになる」と書かれている
(朝日・S33年6月28日)。マスコミはどうして黙っているのだろうか?


4着のディオール衣装に新しい東宮御所、なぜ「初の民間出身」の美智子さんをこんなに「破格の待遇でお迎え」しないといけないのか?

ちょっと前まで、明仁皇太子が彼女のポートレートを写真展に出品しても、誰もお妃になるとは想像もせず、素通りしていたというのに。

実際、お祝い記事と共に
「十二ヒトエなんか、コナ屋の娘が着たって似合うものですか」
「すっかり仕組まれた猿芝居」「あんな成り上がり者が皇后になるなんて」等々、旧勢力の口を借りて、結構、辛辣な言葉が書かれている。(週刊新潮 昭和33年12月15日)

美智子さんというのは、一体どういう「お客様」なんですかね?