思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

クレンペラーのマーラー交響曲集・フランス盤の音のよさに唖然!安さにも。

2012-05-30 | 趣味

 クレンペラーのマーラーの交響曲は、曲を超えていると思えるほどの名演奏で、恐ろしくなるほどですが、
日本盤CD(LPも)で聴く限り、音が固く雰囲気に乏しく、録音に恵まれないな、と長年、残念に思ってきました。

 ところが、今回入手したフランス制作の6枚組(EMIにあるクレンペラー指揮の演奏の全て・2,4,7,9番と大地の歌、クリスタ・ルートヴィヒによる歌曲)の音のよさには、正直、度肝を抜かれました。

 きめ細やかで、明晰、響きが豊かで、ナマナマしく、同じ音源?と疑うほど日本盤(HS2088のハイビット盤)とは差があります。
低域の量感が多めなので、サブウーハーの音量は下げて再生していますが、オーケストラも声のナマっぽい美しさも唖然とするほどです。

 これは、売り切れる前に買わないと損です。6枚組で1800円弱とはどういうことでしょうか?安すぎです(笑)。

(なお、装置については、クリック)

 

武田康弘

 

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この書の出版は「事件」でした。 アマゾン・レビュー『ともに公共哲学する』(東大出版会)

2012-05-28 | 書評

以下は、アマゾンに書いたレビューです。

『ともに公共哲学する』(東京大学出版会刊)

この書の出版は「事件」でした。 2012/5/28

By 武田康弘

この本の中心を占めている「哲学対談」(「楽学と恋知の哲学往復書簡」30回)の当事者であるわたし(武田康弘)がレビューを書くのはどうかとも思いますが、敢えて書きます。
日中韓における公共哲学運動の中心者で、かつ東京大学出版会から刊行されているシリーズ『公共哲学』20巻の最高責任者である金泰昌氏(政治哲学者)と、
民主的倫理に基づく民主主義の原理を闡明にして金氏の主張する公共哲学の中心理念である「三元論」(公と公共を分離する思想)の批判を展開した私の対談は、京都ファーラムと東京大学において物議を醸したものです。
わたしは、「哲学とは何か」「公共とは何か」という本質論を展開する中で、原理的思考をしない金氏の哲学を批判しましたが、内容としてこれほど厳しい往復書簡を公開するのは、精神と知力の弱い日本人学者では到底不可能で、強靭な精神力をもつ国際人である金氏だからこそできたことです。
同時に当時の東京大学出版会の編集長・竹中英俊さん(現在は特別顧問)の勇気、東大教授会の反対を乗り越える不退転の努力があってこの本は世に出たのです。
また、いま話題の【東大話法】(安冨歩東大教授の『原発危機と東大話法』明石書店刊)が何故どこから生み出されるのか?について、わたしは【東大病】という造語でこれを説明していますが(日本近代史を俯瞰した分明な記述)、はからずも【東大話法】という一現象を哲学的に解明することになっていますので、ぜひご覧ください。
なお、目次に【東大病】を入れたのは、竹中編集長の英断でした。(5)学歴序列宗教=東大病の下では、自我の内的成長は不可能。詳しくは、わたしのブログ『思索の日記』を参照してください。「事件だった『哲学往復書簡』(金泰昌と武田康弘・東大出版会刊)の裏話」http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/42a9777b53ab6bbc72dc08a38be63cc4
また、最近おこなった安冨さんらとの会談についてもブログにしてあります。「【東大話法】と【東大病】をめぐっての四者会談―安冨歩さんらと」http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/3bf81d122981e306fb908d2837de8553

 

 

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カラヤンは、やっぱりダメ。

2012-05-24 | 趣味

わたしは、中学生のころからLPレコードを聴き始めましたが、最初の頃は、一番人気であったカラヤンのレコードも幾枚か買い求めました。ベートーベンの4番と8番、9番は、最初期によく聴いたものですが、しかし、高校2年生の頃から次第に嫌気がさし、買わなくなりました。

CD時代に入り、今まで千数百枚のCDを購入しましたが、彼のCDは、リヒャルトシュトラウスの歌劇「サロメ」全曲の一組だけ。

あまり長いこと聴かないのも悪いと思い(笑)、先ごろ、カラヤンの得意とするワーグナーの管弦楽曲集2枚を購入し、聴いてみました。この演奏は、批評家から「最高」と評価されているものです。

以下は、わたしの感想です。

 

意識には階層があるが、カラヤンの指揮で音楽を聞くと、感覚神経次元の音響的快感に留まり、音楽が魂(心の深部)に届かない。さらさらと流れてしまう。流線形のクルマがスーと走り抜ける快感はあるが、それ以上ではない。

大スペクタクル映画の面白さで、絢爛豪華。外見を磨き抜いた美は、精神ではなく感覚だけを痺れさす。エンターテナーの楽しさに徹しているので、商売としては上手いが、人間の生死の次元とは別で、なんとも軽々しい。

 わたしは、彼の上っ面の音響音楽は、人間性を堕落させると感じる。深味の世界とはまったく異質、作られたアトラクションの面白さの提供なので、カラヤンの音楽を聞いていると、精神がどんどん軽薄になっていくのが分かる。わたしには「耐えられない軽さ」としか感じられず、苦痛になる。

 

クラシックを気楽に楽しもう!というのならば、それでよいのでしょうが、わたしは、【外的価値の象徴】のようなカラヤンはご免こうむりたいと思います。彼のファンには申し訳ないですが、もしわたしの言っていることが変だとお思いの方は、騙されたと思って、クレンペラーのワーグナーを聴いてみて下さい。1960年~61年の古い録音ですが、幸いなことに、新技術(今年再発売のEMI MASTERS)でとてもよい音で聴けます。次元の違う世界を体感できるはずです。(なお、この輸入盤のCDは、HMVではとても安く買えます。)

どこまでも見通せるような透明性。
圧倒的な存在感。
微動だにしない精神の深み、大きさ。
まるで自然物のような安定とリズムの確かさ。
何もしていないのに、呆れるほどに強い表出力。
こんこんと地下からわき出る泉。
雄大な山脈の広がり。
広い海、永遠に繰り返す波。
演出ゼロ、まばゆい裸の魅力。

とんでもないものを聴いてしまった、誰もがそう思うでしょう。

武田康弘

 

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ちょっと奇跡的な我孫子の空模様―金環食に感動!二種類の写真

2012-05-21 | その他

今朝の金環食、『白樺教育館』の屋上で見ていました。かなり曇がありました。

口径21センチの反射望遠鏡に同架してある口径8センチの屈折望遠鏡に太陽投影板をつけて間接像を見ていましたが、
まだら雲(層積雲)があり投影されない時間には、雲を通して直接肉眼で見ることができました。

雲が薄くなった時には望遠鏡を通して投影版に写る像を、雲が厚い時には肉眼で直接見られましたが、両方とも写真にしました。

(間接像・クリックで拡大)


 直視(液晶画像で見て撮影)したものは、300mm望遠(35ミリ版換算で450mm・70―300ズームの望遠側)で撮り、中央のみトリミングした画像です。

(直接像・クリックで拡大)

小学生から天文少年だったわたしは(今でも少年?笑)、自分の住む街から見ることのできた金環食に上気し、興奮!
太陽が三日月状になると急に涼しくなり、「自然・宇宙」内「私・人間」を実感しました。うーーん、素晴らしい!

 

武田康弘

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わたしが生きる

2012-05-20 | 恋知(哲学)

わたしが生きる、

一人の人間であるわたしは、わたしの生の悦びを味わいつつ生きる。

わたしは、
わたしの感覚、
わたしの感情、
わたしの想い、
わたしの思考を、
繊細に、濃やかにし、強め、深め、豊かにしつつ、より自由に生きる。

わたしは、わたしの生の内実を充実させ、色づかせる。

わたしの外にあるすべての営みは、そのわたしの生を意味づかせ、価値づかせるためにある。物や、制度や、組織は、すべてわたしがわたしの生をよきものにするためにあり、それ自体に価値はない。上記のようなわたしの生を充実させる手段としてのみそれらは価値をもつ。

以上は、人間的な生の原理です。

わたしとわたしの交流・わたしとわたしの支え合い・わたしとわたしの共同を超えた価値や権威は、ほんらい存在しません。
わたしが頭を下げなくてはならない制度や組織があるとしたら、その社会は民主的倫理に基づく民主制社会ではありません。そのような威張った制度や組織がある社会は、特権者以外の人にとっては「悪」です。

 とりわけ税金でつくられている制度や組織は、わたしの生に資する限りにおいて価値が生じます。どのような制度や組織も、それ自体に価値はないのです。

 わたしは、

「わたしの感覚、
わたしの感情、
わたしの想い、
わたしの思考を、
繊細に、濃やかにし、強め、深め、豊かにしつつ、より自由に生きる。」

のです。

 

武田康弘

 

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還暦に思うー「ぼくの人生はぼくのもの」は、悦びを生む。

2012-05-15 | 恋知(哲学)

昨日(5月14日)、人生一巡、還暦を迎えました。
こどもたちと一緒に写真を撮りました(クリックで拡大します)。

 なにも変りはしませんが(笑)、心の区切りになります。わたしは、なぜだか還暦が楽しみでした。60歳代にはいる、自由度が増す感じがします。
 わたしは、今までも本心で自由に生きてきましたが、わずかに社会的評価を気にする心がありました。それが消え、内的に自分自身として生きるー「私の心」の真実だけになれば、気分は最高!です(笑)。

小学5年―6年生のときに読んだ『社会のしくみ』という図鑑に載っていた『ぼくの人生はぼくのもの』という詩に共感して、わたしは「私」の内なる心を貫いて生きてきましたが、二巡目の人生では、余裕をもってニコニコと、大胆不敵・天衣無縫・自由自在・融通無碍の精神で生きていきます。

(a)スポーティーな生活を心がけ、日常の細事を大切にし、自分自身として生きる。(b)民主的倫理に基づく公共世界を拓く=文化の変革・価値観の転回を目がけて生きる。わたしにとって両者は一つで、「悦び」を生みます。

死を迎えるまでの残り時間をよく味わい、有効に使いながら、生を永遠にしていきます。

 

武田康弘

※みなさん、メールやお祝いをどうもありがとう。感謝の気持でいっぱいです。

 

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事件だった『哲学往復書簡』(金泰昌と武田康弘・東大出版会刊)の裏話。

2012-05-11 | 書評

 金泰昌さんからのお申し出により、5年前、2007年の5月から行われた武田・金の哲学往復書簡34回(出版されたのは30回分)の裏話を以下に記します(金さんは、東大出版会のシリーズ『公共哲学』全20巻の編者であり国際的な政治哲学者です)。

 書簡の前半部分(とくに3回と5回の武田書簡)は、明治政府作成の日本の思想を俯瞰的に説明したものです。政治・社会・教育の全体を支配した【近代天皇制=天皇教・東大病=官僚主義】についてのわたしの見解を提示したのですが、それは、その前後の書簡で説明したように、(1)教育と知の目的は「主観性の知」にあるという本質論と、(2)現象学と実存思想(「私」からの出発)に立脚した哲学に支えられた 歴史と現実社会の分析で、まとめて「武田思想」とも呼ばれています(なお、認識論の原理であるフッサール現象学は、旧友の竹田青嗣さんによる解釈が最も有用で優れていると思いますので、それに依拠しています)。

 後半部分は、公共とは何か?の本質論と、それに深く関係する金さんが主導した東大出版会の基本方針=「公・私・公共の三元論」を巡ってのものです。わたしは、実存論に立脚する武田の公共思想を述べ、現代においては近代民主制(人民主権を原理とする)を徹底する以外に「公共性」を実現する道はないとして、三元論は、民主主義の原理論次元では成立しない(現実次元では有用である)と批判しましたが、それは結果として大きな支持を得ました。公的(2008年1月の参議院におけるパネルディスカッションなど)にも、私的(私信やわたしの催す会など)にもです。それらの多くは、このブログ「思索の日記」でご紹介してきました。

 この哲学往復書簡は、2005年の6月に金泰昌さんがわたしの白樺教育館を訪ねて以降、金さんとの二年間にわたる日常的な電話対話の末に行われたものですが、これが公開されて出版されるまでには、凄いドラマがありました。 

 パート1(「楽学」と「恋知」の哲学対話・第1回~第21回)については、スムースでした。
まず『公共的良識人』紙の7月号に(1)から(11)までが載りました。前例のない特別扱いで、8ページの紙面のうち一面から5面までを使い、活字の段組みや体裁も変えての掲載でした。翌8月号にはその続き(12)から(21)までが掲載され、パート1は完結しました。

 問題は、パートⅡの「三元論」(「公」とは区別され次元を異にする「公共」を置く理論)を巡ってのものでした。わたしは、二元論とか三元論という発想(一元論?四元論?)そのものに異和を感じ、従来の国家主義的発想を超えるためには、民主制の原理を明晰に自覚することが必要で、第三極をおく・第三の道を歩むという優れた実践は、その原理を踏まえないと真に力を発揮しないと考えていました。それは、わたしが都立高校生時に全学議長として学校改革を成就させた体験にはじまる数々の公共的運動の成功体験(我孫子市における実践が主)に基づく確信でした。

 ところが、金さんの三元論は、『公共的良識人』紙とそれを母体にしてつくられていたシリーズ『公共哲学』(東大出版会刊)の屋台骨でしたので、それに対する原理次元における強力な反論であるわたしの書簡は、編集部全員の反対で掲載を拒否されたのでした。
(なお、パートⅡの往復書簡は、実は、発表された30回ではなく34回行われたのですが、わたしの反論に対して苛立ちを覚えた金さんが感情的となり、公表できるレベルを超えてしまいましたので30回までとなっているのです。一旦、冷却期間を置くことにして、往復書簡は中断しました。)

 2007年の11月某日、金さんからの電話で「申し訳ないですが、編集部の全員が反対しているので、哲学往復書簡の後半は、掲載しないことになりました。」と言われました。
わたしは、「分かりました。権利はそちらにあるのですから、わたしは批判めいたことは何も言いません。」と話し、「でも、残念ですね。金さんは、日本では異論や反論がなく、ほんとうに自由な対話がない。それが日本の実に困った問題だ、といつも仰っていましたが、今回わたしたちは、異論・反論を忌憚なく出し合いながらも人間関係が崩れないという見本をつくったのに、それが公表されないとは、・・・・」と話しました。
うーーん、と金さんは、唸り、「武田さん、分かりました。その通りです。もう一度、編集会議を開き、強く言います。」と話し、電話を切りました。
翌日、「武田さん、載せることになりました。どうしても載せたい、とわたしは言い、いろいろ大変でしたが、編集部を説得しました。」と金さんからの電話でした。不思議な感動がありました。素晴らしいことと感じ、心が震えました。

 12月号に載りました。6面から8面の3ページですが、一面に、大きく太い文字で【「楽学」と「恋知」の哲学対話・武田康弘と金泰昌の往復書簡その3】と記載されています。この号は、大反響でした。発行元の「京都フォーラム」に多くのメッセージが寄せられたとのことですが、参議院調査室や人事院の関心も集め、翌1月(2008年1月22日)の参議院におけるパネルディスカッション『公共哲学と公務員倫理』  (パネラーは、わたしと金泰昌さん、東大教授の山脇直司さんと調査室の荒井達夫さん)においても、参加者にコピーが配布されました。

 なお、この往復書簡を発表する段階で、金さんは、自身の書簡を大幅に加筆・訂正しましたので、それに対してわたしも一部手直ししましたが、必要最小限に留めています。加筆・訂正前のオリジナルは、「白樺教育館」のホームページで読むことができます。
(余談ですが、この往復書簡の日付を見ると、わたしは、金さんの書簡を受け取った翌日に返信しているものが多いのです。Eメールが日常化していなければあり得ないことで、よいか悪いかは分かりませんが、自分でも驚きです。)

その後、この哲学対話の続きをしたいと金さんから再度の申し出があり、テーマは「命」ということになりました。まず、武田さんが書いてほしいと言うので書いたのですが、金さんはわたしの思想に応答することが難しいようで、返信がなく、そのまま中断して今日に至っています。というわけで、それからしばらくの間、金さんとの交流はありませんでしたが、2010年の春に珍しく金さんから電話があり、「哲学往復書簡を東大出版会から本にして出したいのだが・・・」とのことでした。

 わたしは、まったく思いもよらぬ話でビックリしました。「東大病」批判も書いた往復書簡が東大出版会から出る?そんなことがあり得るのかな、不思議な気持ちと同時に、金さんにはかなり不利な内容を含む往復書簡を出すという勇気にも感心しました。

 わたしは、この出版に際して、東大出版会の編集長・竹中英俊さんと知り合い、それがきっかけで、メールでやりとりする友人になりました。Facebookでは、いつも私のブログ『思索の日記』に「いいね」を付けてくれます。

東大出版会から本を出すにあたっては、またまた大変な難産でした。この金泰昌さん編集の『ともに公共哲学する』は、金さんの膨大な日本での対話の中から選出したものですが、わたしとの往復書簡がメインで、全体の四分の一(90ページ)を占めています。目次には(1)から(30)までの書簡の小見出しがズラリと並び、(5)【学校序列宗教=東大病の下では、自我の内的成長は不可能】という文字も目立ちます。

よく出せたものだな、と思いましたが、実は、竹中編集長の不屈の闘いがあってのことでした。東大出版会から本を出すには、教授会の賛成が得られなくてはなりませんが、やはり始めは「ボツ」になったのだそうです。それを再度の挑戦で竹中さんは出版にこぎ着けたのですが、彼らをどのように説得したのか、詳しいことは不明です。今度聞いてみましょう(笑)。
はじめボツになった理由は、推察するに、オリジナルすぎる思想でしょう。わたしも金さんも、自身の具体的経験から立ち上げた思想で前例がありませんから、東大という官知の大学人は、どのように遇したらよいかが分からないのです。意味ある反対論はなく、ただ「勝手なことを言っている」程度の言葉しか出なかったようです。

わたしは、東大教授のみならず大学人との交流が多くありますが、彼らは書物に頼るのみで、自身の具体的経験から立ち上げ自身の頭で考える力が弱いので、オリジナルの思想を構築することが出来ないのです。哲学教師はいても哲学者(恋知者)はいません。自分の力で哲学したい方は、大学ではなく、「白樺教育館」の大学クラスにお出で下さい(笑)、と最後に宣伝して、この裏話をおわりにします。

武田康弘

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哲学教師はいても哲学者はいません (荒井達夫)
2012-05-1209:43:11

 日本国憲法の制定に深く関わり、さらに内閣法制局長官、人事院総裁を務めた故佐藤達夫氏は、次のように述べています。

「昭和22 年新憲法の実施とともに、公務員は〝天皇の官吏″から〝全体の奉仕者″となり、その結果、公務員制度についても根本的改革が行なわれました。」(「人事院創立15 周年にあたって」『人事院月報』昭和38 年12 月号)

佐藤氏は、法制的に我が国の公務員の原点を指摘したわけですが、この佐藤氏の言葉を哲学的に掘り下げて「官」の存在意義を説明する学者は誰一人出てこなかったのです。それを成し遂げたのが、武田康弘さんの次の言葉です。

「公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた『官』は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた『官』は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的公共を実現するためにのみ存在する。これが原理です。」(武田康弘

未来永劫消えることのない、人々の魂に響く言葉といえるでしょう。

「書物に頼るのみで、自身の具体的経験から立ち上げ自身の頭で考える力が弱いので、オリジナルの思想を構築することが出来ないのです。哲学教師はいても哲学者(恋知者)はいません。」(武田さん)

これは、まったくそのとおりです。

――――――――――――――――――

みなさん、ありがとう。 (武田康弘)
2012-05-1214:13:41

荒井達夫さんの大活躍、古林治さんの支え、
コメントを寄せてくれているみなさん、とりわけ、わたしの教え子の綿貫信一さんや染谷裕太さんや青木里佳さんや西山祐天さん・・・愉しい哲学の会の清水光子さんや川瀬優子さんや楊原泰子さん・・・mixiの仲間たち、
鎌ヶ谷市公民館のとわの会のみなさん、
わたしを金さんに紹介してくれた山脇直司さん、竹中英俊さん、わたしを高く評価してくれた金泰昌さん、
同志の福嶋浩彦さん、旧友の竹田青嗣さん、
恩師の竹内芳郎さん、討論塾のみなさん、
内田卓志さん、
熱心に講義を受けられ、ディスカッションに参加された参議院調査室のみなさん、
人間性豊かな心、愛ある人たちの共同がなければ、根源的な変革は不可能です。みなさん、これからもよろしく。
悦びの生、意味充実の知、日本を魅力ある社会に変えるために、ぜひ共に!

 

 

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わが日本人の集団ヒステリーは、ほんとうに困りものー小沢氏の政治生命を断つまで裁判を続ける!

2012-05-10 | 社会批評

 

わが日本人は、ほんとうに集団ヒステリーだな、とつくづく思います。

どこまで追いかけ回せば済むのか?

どこまでイジメ続ければ済むのか?

これは、わが日本人の国民性なのでしょうか。

何の法律を犯していなくとも、「罪人=悪人に違いない」という空気をいったんつくられたら、そこから逃れられない集団ヒステリーの国。

 根拠がなくても、証拠はなくても、黒・クロ・くろ。

国家権力(強権をもつ検察庁をはじめとする官僚組織の集団意識)とマスコミの共同戦線がつくる空気で、みなの心身は金縛り。

「肩書き人」(東大卒とか官僚とか天皇家に象徴される由緒正しき家系とか)は無条件で尊重されるが、ひとりの人間としての実力者は、胡散臭い者と見られ、嫌われる。日陰者にするまで、あるいは死ぬまで「許さない」。

国家権力が総力を上げて(検察史上最大のお金=税金をかけて)捜査したにも関わらず起訴できず、検察審査会の強制起訴による裁判でも「故意や共謀は認められない」として無罪になった「事件」(検察庁の政治的意図によりつくられた事件ならざる事件)をクロにするまで裁判を続けるという執拗な行為は、人権蹂躙もはなはだしく、もはや「狂気」という他はないでしょう。

今朝の東京新聞の社説・【小沢元代表控訴】『一審尊重の制度改正を』は、正鵠を射るものと思いますので、ぜひ、ご覧下さい。「特捜検察が一人の政治家を長期間にわたり追い回し、起訴できなかった異様な事件」であるとし、「検察による不起訴、強制起訴による裁判で無罪なのに、『黒』だと際限なく後追いを続ける制度には手直しが急務である」と結んでいます。

 

武田康弘

 

東京新聞社説

小沢元代表控訴 一審尊重へ制度改正を

 一審無罪の小沢一郎民主党元代表を検察官役の指定弁護士が控訴するのは疑問だ。そもそも検察が起訴を断念した事件だ。一審無罪なら、その判断を尊重するよう検察審査会制度の改正を求めたい。

 新しい検察審制度で、小沢元代表が強制起訴されたのは、市民が「白か黒かを法廷で決着させたい」という結果だった。政治資金規正法違反の罪に問われたものの、一審判決は「故意や共謀は認められない」と判断している。

 つまり、「白」という決着はすでについているわけだ。検察が起訴する場合でも、一審が無罪なら、基本的に控訴すべきではないという考え方が法曹界にある。国家権力が強大な捜査権限をフルに用いて、有罪を証明できないならば、それ以上の権力行使は抑制するべきだという思想からだ。

 とくに小沢元代表の場合は、特捜検察が一人の政治家を長期間にわたり追い回し、起訴できなかった異様な事件である。ゼネコンからの巨額な闇献金を疑ったためだが、不発に終わった。見立て捜査そのものに政治的意図があったと勘繰られてもやむを得ない。

 小沢元代表はこの三年間、政治活動が実質的に制約を受けている。首相の座の可能性もあったことを考えると、本人ばかりでなく、選挙で支持した有権者の期待も踏みにじられたのと同然だ。

 新制度は従来、検察だけが独占していた起訴権限を市民にも広げる意味があり、評価する。だが、新制度ゆえに未整備な部分もある。検察官役の指定弁護士に一任される控訴判断はその典型例だ。検察でさえ、控訴は高検や最高検の上級庁と協議する。

 指定弁護士の独断で、小沢元代表をいつまでも刑事被告人の扱いにしてよいのか。「看過できない事実誤認」を理由とするが、検察審に提出された検察の捜査報告書などは虚偽の事実が記載されたものだ。どんな具体的な材料で一審判決を覆そうというのか。

 むしろ、「白か黒か」を判定した一審判決を尊重し、それを歯止めとする明文規定を設けるべきだ。最高裁も二月に、控訴審は一審の事実認定によほどの不合理がない限り、一審を尊重すべきだとする判断を示している。むろん被告が一審有罪の場合は、控訴するのは当然の権利だ。

 検察による不起訴、強制起訴による裁判で無罪なのに、「黒」だと際限なく後追いを続ける制度には手直しが急務である。

 
 
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武田の公共の本質論が、都の職員の研修論文にー首都大学東京機関誌「みやこ鳥」

2012-05-07 | 社会思想

 

わたしが、数年前(2005年6月以降)に行っていた「公共」と「哲学」に関する論争は、シリーズ『公共哲学』(東大出版会)の編者&最高責任者である金泰昌さん、東京大学教授の山脇直司さん、千葉大学教授の小林正弥さんとのものでした。

 「公」と「私」という二元ではなく、その媒介項として「公共」を考えるという彼らに共通する三元論思想(オリジナルは金泰昌さんによる)と、わたしの民主主義の原理につき主権在民を徹底化させていく他はない、という思想の闘いであったわけです。

この思想上の闘いを参議院調査室の荒井達夫さんが注目し、参議院におけるディスカッションや意見調査が行われたわけですが、その経緯と内容については、すでに『公共をめぐる哲学の活躍』(武田著)として公にしています。そこでもご紹介した通り、わたしの簡明な結語は、「参議院行政監視委員会」の活動をまとめた委員長報告書(山下栄一委員長による)に、公共の本質として記されています。

「公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられて良いという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた『官』は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた『官』は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的公共を実現するためにのみ存在する。これが原理です。」(武田康弘)

この結語を「首都大学東京の機関誌=みやこ鳥」にある東京都職員研修論文でも引用しています。

執筆者は、船橋拓さん(福祉保健局)工藤聡さん(財務局)木村忍さん(主税局)の3名です。東京都の全庁的な職員研修である「平成21年度都市政策研修」に参加したメンバーの有志3人が研修を継続した結果を発表したもので、標題は、【協働による社会的課題の解決:市民的公共性と地方自治体の果たす役割】です。

 この論文は、はじめに、明治政府によるPublicの意図的な誤訳である「公共」(公と共に)という言葉について述べ、Publicの本来的な意味である「皆のこと」が「国家による公共性」に意図的に収斂されてきたことを、長坂寿久さんの論説に依拠して述べています。

次に、いま、国会において「公共哲学と公務員倫理」が重要な課題として論じられていると書き、東大教授の山脇直司さんによる公共哲学の定義を紹介し、「しかし、学問としての公共哲学は、用語、表現仕方が難解であり、行政職員に理解が浸透していない」と断じます。つづけて、

荒井達夫さんの「民主制原理を柱に展開すべきである」という『立法と調査』(2008年1月)の論文を引用し、武田康弘による「・・・官はそれ独自が目ざす〈公〉を持ってはならず・・・」という原理次元における三元論否定の文章を写し、「この思想が行政運営及び行政監視の思想的土台となる」という荒井さんの言葉で結んでいます。

なお、この部分は、武田著の『公共をめぐる哲学の活躍』(参議院「行政監視情報」)からの引用となっています。

 その次に(2ページ後)、福嶋浩彦さんの、多様な民間の主体を育てていくことにより「大きな公共」と「小さな(地方)政府」を目がけるという主張が重要なものとして紹介されています。

これは、 『白樺教育館ホームページ』76(福嶋浩彦・武田康弘「市民自治をつくる」)からの引用です。

(※なお、福嶋浩彦さんは、わたしの同志として我孫子市議会議員時代から長年活動を共にしてきましたが、当時は我孫子市長、現在は消費者庁長官をつとめています。 ※また、公共をめぐる哲学対話は、東大出版会の竹中編集長の尽力で、 『ともに公共哲学する』の83ページから173ページに収められていますが、白樺教育館のホームページでも読めます。

 

首都大学東京における都の職員研修でわたしたちの実践に基づく公共思想・哲学が使われているのを知り、とても嬉しく思いました。

 

 武田康弘

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 誤解のないようにお願い 荒井達夫  2012-05-07 17:09:59

 
一点確認しておきます。

「公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられて良いという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた『官』は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた『官』は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的公共を実現するためにのみ存在する。これが原理です。」(武田康弘)

この武田説を東京都職員の方々が研修論文の中で引用し、さらに、「「この思想が行政運営及び行政監視の思想的土台となる」という荒井さんの言葉で結んでいます。」とのことです。

確かに「みやこ鳥」の論文ではそう書かれているのですが、武田説が「行政運営及び行政監視の思想的土台となる」というのは、荒井の言葉ではなく、山下栄一行政監視委員長自身の言葉です(山下栄一「行政監視と視察 行政監視委員長・視察報告」6頁)。

もちろん私も同意見ですが、この点は東京都職員の方による読み違えですので、誤解のないようにお願いします。
 
論争の決着を確信 荒井達夫  2012-05-07 17:49:05
 
 
「首都大学東京における都の職員研修でわたしたちの実践に基づく公共思想・哲学が使われているのを知り、とても嬉しく思いました。」(武田さん)

「みやこ鳥」の研修論文には次のように書かれてあります。

「このような先行研究から、公務員の存在意義とは民主制・国民主権原理に基づく憲法や国家公務員法から導かれるものであること。憲法や国家公務員法に基づき業務を遂行する公務員は、「全国民に共通する社会一般の利益」(=「市民の公共」)の実現を目指すこと。こういったことを公務部門で働く職員一人ひとりが自覚し学習する必要があると考える。」(136頁)

これは「都市政策研究2011.3.10」に掲載された東京都職員の共著論文です。

都職員の真摯な研究の中で重要な位置づけを与えられたことは、今後行政のあり方に大きな意識変革が起こる可能性を示唆するものと言えると思います。

私たちの主張に実務家が真正面から反応する時が必ず来るだろうとは思っていましたが、実務上は「三元論」論争が決着済みであることを確信しました。
 
まとめー本質論・原理論の重要性  武田康弘  2012-05-08 15:38:19

公共哲学という運動は、多くの経験と知識をもつ強烈な個性=金泰昌さんがいなければ成立しませんでした。日本人の学者の力量では、特定の「学」を運動にまで広げることは不可能です。

実力者、金さんの「公」と「公共」の区分け・次元分けを第一に要請する「公共哲学」運動は、公務員世界=人事院による公務員研修の奥深くにまで入り込み、その勢いは増すばかり。ストップをかけられる人はいませんでした。

原理的思考をしない金さんの理論に対しては、明晰で豊かな原理を提示していく必要があるのですが、遠慮がちで(笑)根源的思索力の弱い「事実学」の累積者にはそれは出来ません。そこでわたしは、哲学とは何か?公共とは何か?という本質論次元の討論をしたのです。わたしの足が地についたさまざまな個人的&市民的実践に照らして、金さんの理論を原理次元に戻して検証したわけです。

「私」の実存からはじまる原理的思考により、「三元論」( 金さんは三次元相関性と呼ぶ )が出てくる大元を探り、本質論次元での討論をしたことで、ようやく金さんの博識と経験に幻惑されない言説が可能になりました。哲学次元での突破がなければ、わたしの簡明な結語(公共の本質論)は単なる常識論としての力しか持ち得ないのです。

すべての有を支える無とも呼ばれる哲学=恋知(人間の生の意味と価値を原理的思考により探求する)には、あらゆる「事実学」「専門知」を超えた深く大きな力があります。目に見えないからこそ(放射能ではありませんが)。
 
原理的思考の徹底  荒井達夫 2012-05-08 22:27:46
 
「哲学次元での突破がなければ、わたしの簡明な結語(公共の本質論)は単なる常識論としての力しか持ち得ないのです。」(武田さん)

「原理的思考の徹底」ともいえるでしょうか。それがあるからこそ、武田さんは公共の本質を簡明な常識的言語で語ることができたのではないか、と私は考えています。
 
感謝です。  武田康弘  2012-05-09 00:23:51
 
荒井さん
どうもありがとうございます。
わたしは、いつも、哲学的知識に頼らずに、具体的経験からはじめ、わたし自身の考える力を鍛え豊かにすることで、現実に応答するように心がけてきました。
ほんらいの「哲学」とは、アカデミズムの専門知ではなく、現実の生の只中で具体的に「するもの」なのだと考えています。
もしそうでないなら、必ず知識量を競う方向に走り、自分で考える力(主観性の知)は衰えていきます。
結局は、哲学までも受験知と同類となり、情報収集と操作に陥ってしまうのです。
もし、わたしが「公共の本質を、簡明な常識的言語で語ることができた」のだとすれば、とても嬉しいことです。高い評価に感謝です。
 

 

 

 

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わが国は、支配者(財界人と霞が関官僚とマスコミ人と一部政治家)のための国家。「豚に歴史はない」

2012-05-02 | 社会思想

わが国では、中小企業で頑張る名もなき個人は、コマ。使い捨て。個々人は、制度によって人生が保障され、安全で裕福な生活を送る一群の人たちを支えるドレイです。

「原発」がどういう仕組みで維持されてきたか(東大工学部・霞が関官僚・電力会社・有力政治家の四者でつくる「原発村」が絶対支配)が明白になったことで、日本には支配階級が存在し、彼らが自分たち一族の利益を守るために国家を運営してきた実態が、みなに見えるようになりました。

支配者たちは、この惰性態を維持する集合意識(無意識を含む)により、特権を維持するための創意工夫(言い訳の技術を磨く日々)で、批判者から身を守ります。小沢事件などを拵えて(帳簿の記載の仕方が問題として検察は秘書を逮捕)みなの目を逸らすのは常套手段です。マスコミは見事に洗脳機関の役目を果たしています。

 大銀行は、デタラメな経営で破綻しても巨額の税金投入で安泰です。最高責任者も何不自由ない暮らしが保証されています。15年戦争の末に無条件降伏の敗戦によっても、国家の主権者で軍隊の統帥権を行使した天皇ヒロヒトは退位もせずに無責任を貫けるのですから、わが国の最高責任者は責任を負わなくてもよいのです。これが日本の「伝統文化」。

中小企業は、自らの責任ではないのに、厚生年金基金が破綻したら連帯責任を負わされ、連鎖倒産で経営者は自殺に追い込まれます。それでも厚生労働省は、一円の救済もしません。なんとか助けてほしいという経営者の願いにも杓子定規に「却下」です。銀行や電力会社は、何があっても大丈夫。経営者にはいつでも高額の給料が支払われる仕組みです。わたしのような自営業者は、もちろん100パーセント自己責任(笑)。

では、なぜ、人々の自由と対等性を前提にした民主制社会に支配階級が存在するのか。

答えは簡単です。パターンと暗記の外なる知の累積=受験競争に参加する多数派は、【内】なる知(自分の日々の経験につく心身全体での会得、意味をつかみ腑に落ちる学習)ではなく、【外】なる知(公理公式のあてはめ、パターン識別、丸暗記、情報処理)に従って生きる人間になるからです。

【内】なる価値―人生とはかけがえのない「私」からの出発であるという原理(釈迦の言葉では「天上天下唯我独尊」)であることがボヤければ、この「私」は、「一般人」のひとりとしてしか意識できなくなります。内的な関心や欲望や必要から切れた日々の受験主義の知の累積は、私からはじまる個性価値ではなく、「一般人」の中での上下が問題だということになりますから、自他評価の尺度は、すべて【外】でしかなくなります。生きる意味は内的には消え、外なる価値の大小(出身大学、社会的地位、家の大きさ、クルマの種類、旅行の回数・・)を競う人生がすべてとなるのです。【内】心・内面世界が抑圧され、情報処理のマシーン人なることが求められれば、人間は精神の大元をやられます。この世は、発達障害者や鬱病患者で溢れることになります。

【外】なる価値を追い求める人間集団は、互いに内的な(赤裸々な内面を示し合う)関係をもてず、競争主義の社会(やるかやられるか)になりますから、「一般価値」をどれだけ所有しているかを競う人生になります。「私」から生まれてくる価値はなく、一般化の海に沈んでしまうのです。

こういう【外】なる価値意識しかもてないと、社会的なエリートが偉いと考える外面人間に陥りますので、小堀桂一郎さん(東大名誉教授・日本史専攻で「靖国神社」の理論的中心者)のように、「微々たる庶民的存在に過ぎない自分が国のために命を捨てたということだけで天皇陛下までお参りに来て下さるありがたい神社」という発言が出るのです。また、戦前の帝国大学(現・東大)の国史科の主任教授は、農民史を研究(卒論)しようとした学生に、「君、農民に歴史があるのかね。豚に歴史がないのと同じで、農民に歴史などないのだ。」と言いました(色川大吉「歴史の方法」)。

日本の国体は、天皇陛下・皇族とそれを支えるエリートたちによるものであり、すべて国民は、臣民であり天皇の赤子だという戦前のおぞましい思想は、そのままではないですが、現代にも生きています。私の言う「天皇教=靖国思想・東大病=官僚主義」

【上下倫理】が支配する国から【民主的倫理】の国へと変えていくのは、わたしであり、あなたです。【支配者のための国家】を、【生活者のための国家】にチェンジしなくてはなりません。人民主権という原理につくこと、それが絶対の条件です。みなさん、共に。

 

武田康弘

 

 

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