思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

まるで罪人―テレビ朝日などのTVニュース、恐ろしい「現代の魔女狩り」

2010-04-27 | 社会批評
まるで犯罪者でもあるかのような報道、小沢憎しで一致するマスコミは、小沢氏を悪者にする報道を1年間も続けてきましたが、それによりわたしたち市民は、小沢氏がまるで罪人でもあるかのような錯覚に陥っています。

今朝の東京新聞「こちら特報部」でも大きく取り上げていましたが、不動産売買での4億円の不記載は「政治資金規正法」違反に問うこと自体が間違っているのです。ところがこれを【市民感覚】という便利な(実は極めて恐ろしい)言葉で正当化し、なにがなんでも小沢を罪人とする。黒でなくてもクロだという印象を与えれば、政治生命を絶てるというわけです。裁判で白となっても、その時はすでに小沢はいないのです。

これは、とても恐ろしいことで、まさに現代の「魔女狩り」と言えます。

ウォルフレン氏は、このような日本人の不可解な言動に呆れ、警鐘を鳴らしていますが、わたしも集団ヒステリーでしかない検察審議会の判断や報道に怒りを超えて、ただ呆れ果てています。テレビ朝日のキャスターや朝日新聞の解説員のあまりの非論理=感情論理には毎度のことながら、言葉を失います。元官僚がキャスターの読売の日本テレビも同様です。小沢憎しで一致するマスメディアは、「市民の声」を作り上げ、それを元にして罪人に仕立て上げる。まさにチョムスキーの言うManufacturing consent(合意の捏造)そのものです。「マスコミがつくる冤罪事件」と言う他ありません。


中央公論の先月号にウォルフレン氏は以下のように書いています。

「山県有朋以降、連綿と受け継がれてきた伝統を打破し、政治的な舵取りを掌握した真の政権を打ち立てるチャンスをもたらしたのは、小沢の功績なのである。・・・・
 ヨーロッパには彼に比肩しうるような政権リーダーは存在しない。政治的手腕において、そして権力というダイナミクスよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない。
 
ところが、日本の新聞各紙はまるで小沢が人殺しでもした挙句、有罪判決を逃れようとしてでもいるかのように責め立てている。・・一体、日本の政治はどうなってしまったのかと、愕然とさせられるのである。日本の主だった新聞の社説は、たとえ証拠が不十分だったとしても小沢が無実であるという意味ではない、と言わんばかりの論調で書かれている。これを読むと、まるで個人的な恨みがあるのだろうかと首を傾げたくなる。日本の未来に弊害をもたらしかねる論議を繰り広げるメディアは、ヒステリックと称すべき様相を呈している。」


また、友人のCmoonさんは、以下のような正鵠を得る指摘をいています。

「検察審査会は、審査申し立てによって始まるわけですが、鳩山、小沢両氏の件を申し立てたのは、「ある市民グループ」としか報道されていませんが、「在特会:在日特権を許さない市民の会」というグループ」

「およそ1年の時間と20億円ともいわれる捜査費用(税金)をかけ、特捜が強制捜査を行った結果、公判に耐え得るような証拠もなく、不起訴となった事実。不起訴までの経過の中で、また不起訴後も、記者会見をするたびに説明を行い続けた小沢さんになお「説明責任」を求めてきた、野党とメディアと多くの国民。
国会での証人喚問での説明でなければ「説明責任」を果たしたと言わない野党とメディアと多くの国民。
小沢さんが「私は黒です」と言わない限り、断固許さないというような風潮……
そして、今回の検察審査会による11人全員による「起訴相当」。
魔女狩り以外何ものでもありません。
たいへん怖ろしい時代です。検察国家がどんどん近付いている気配すら感じます。」

「検察審査会は、公訴権を独占している検察の不起訴処分に民意を反映させるべく生まれた機関で、審査会の構成員は、市民から抽出され(11人)、民意の反映ということでは、意義があるのですが、審査の過程で、なぜ起訴できなかったかを説明するのは検察官のみで、不起訴は妥当と主張したい被疑者側(今回は小沢氏側)の主張は全く聞き入れられません。」

「郷原信郎さんは
「政治・経済を検察が歪め日本は非常に危機的な状況にある。今必要なのは検察の正義というマインドコントロールから国民が脱却することだ」
また皮肉を交えながら
「今回の小沢への検察の無理筋操作で検察は刑事的には失態だったが、政治的には大成功した。検察は政治団体として登録したらいい」」


まことに恐ろしい事態が進行しています。理性ある市民は協力してこの異常事態を改めましょう。


武田康弘
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コメント

Unknown (古林 治)
2010-04-28 12:48:47

予想されたこととは言え、検察審査会の結論を聞いて背筋がゾッとしました。議決要旨を読みましたが、きわめて情緒的な理由が書かれているだけでした。検察リークとそれを鵜呑みにするメディアによって作られた小沢像(小沢一郎=極悪人)に対する怒りがこの結論を導いたのでしょう。
検察の狙いは無論、官僚支配を打破しようとする急先鋒・小沢一郎の社会的抹殺であり、小沢を有罪にすることでも政治と金の問題を解決することでもありません。
官僚支配の社会を維持すること、そのために検察=絶対的正義、金権政治家=巨悪のイメージを温存すること、なのです。今のところ、検察の意図はうまくいってるようです。

一体いつからこんなことになっているのか。
郷原信郎氏(「検察の正義」ちくま新書)によれば、それは1954年に始まった造船疑獄事件からです。
造船疑獄事件の一連の捜査で自由党幹事長であった佐藤栄作を収賄容疑により逮捕することになるのですが、時の法務大臣の指揮権発動(政治家の介入)により、佐藤は不起訴となりました。このことによって、「検察の正義」VS.「金権政治家・巨悪」という構図が定着し、以後、政治家(主権者の代行者)による検察権力の監視(指揮権発動)がタブーとなり(事実上なくなり)、検察の暴走がずーっと続いているというわけです。
ところが、この逮捕劇自体は無理筋で、実際には検察が捜査に行き詰まった挙句、面子を保つため、時の政権(吉田茂首相)との裏取引で法務大臣の指揮権発動を依頼し、止む無く不起訴ということにしてもらったのです。
この構図(「検察の正義」VS.「金権政治家・巨悪」)の維持はその後も再生産され続けます。田中角栄、金丸信、竹下登、そして小沢一郎です。

政治と金の問題を否定するつもりはありませんが、それ以上にはるかに大きな問題は、主権在民の社会を築くために120年続いた官僚支配を打破することです。
検察(官僚)は私たち主権者のために正当・公正な権力を行使しているのでしょうか。それを確かめる術が私たちにあるでしょうか。メディアはそれを監視しているでしょうか。
事実は、私たち主権者の代行者である衆議院議員かつ与党幹事長に対して強制捜査まで行い、何の罪も認められなかったということです。
これは一体どういうことなのでしょう。官僚(検察)の暴走ではないでしょうか。
官僚(検察)はこの行為に対して説明責任があるのではないでしょうか。
メディアは官僚(検察)をチェックし、暴走を厳しく批判しているのでしょうか。
検察審査会は正当・公正な役割を果たしているでしょうか。
私たちは作られた小沢像のみで判断しているのではないでしょうか。

今回の検察審査会のヒステリックな反応に私は恐怖を覚えます。あたかも市民社会の実現プロセスであるかのように報道されますが、事実は真逆としか言いようがありません。
知の劣化はポピュリズムにしかならず、健全な民主制社会は育ちません。
タケセンのメッセージ、『理性ある市民は協力してこの異常事態を改めましょう。』 まったくその通りだと思います。

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冷静な?ヒステリーによる支配 (タケセン=武田康弘)
2010-04-28 13:07:50

冷静に!?集団ヒステリーをつくりだし、人々の健全な思考力を奪う、

従って、わが国では哲学は大学内の一教科にまで貶められ、哲学すること(=白紙に戻して自分の頭で考える営み)は、嫌われるのですね。

日本では学者も感情論理(好き・嫌い)しかなく、結局「ヒステリー症候群」が支配するのですが、

これは、権威ある組織が人々を支配する方程式=右も左も「集団ヒステリー」をつくり全体を金縛りにする、によるのだ、とわたしは見ます。

協力して健康な理性を生みましょう。



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日本の伝統とは、自由と平等のようです。世界をリードした素粒子論。

2010-04-27 | 恋知(哲学)

わたしの手元に、40年前に購入した『現代学問論』(1970年・毎日新聞社編・勁草書房刊)があります。大学1年生のときに読んだもので、湯川秀樹、坂田昌一、武谷光男、三人の世界的な理論物理学者(素粒子論)による鼎談です。

究極の物質とは何か、という思想ではなく、「物質の階層性」という見方で素粒子の世界を暴こうとしたのが坂田理論ですが、そのしなやかな哲学に基づく発想は、正反の素粒子の非対称から宇宙が誕生したとする「益川、小林理論」(ノーベル賞)をうみだす元になったと言ってもいいでしょう。

その坂田研究所では、自由・対等な議論が奨励され、徹底されていたのですが、それは、長岡半太郎、石原純、仁科芳雄らの伝統に上にあるもので、オリジナリティーをタブーとした日本のアカディミズムへの挑戦であったのです。それが世界をリードする成果を次々と生みました。

長岡半太郎は、真ん中にプラスの粒子があり、そのまわりをマイナスの粒子が回っているという当時としてはとんでもない発想を世界ではじめて出しましたが、官学アカディミズムに潰されました。「博識尊重、技術偏重、オリジナルティー軽視」という明治政府による国家主義の教育・権威主義の学問がもたらした悪弊です。

しかし、1930年代以降、このオリジナリティーをタブーとする日本の大学の風習に対抗して、世界をリードする4人、湯川、朝永、坂田、武谷が現れたのでした。

「神棚に祭り上げられていたニュートン力学もひっくり返すことができたんだから、おれたちもひとつやってみよう」(湯川秀樹)という気持ちを持ち生まれた成果のひとつが湯川中間子論(ノーベル賞)ですが、これは武谷三男がつくった科学方法論・「三段階論」が強力な援護射撃になったと言われています。当時、欧米を支配していたコペンハーゲン学派に対する挑戦であったのです。三段階論とは、現象を記述する「現象論的段階」、現象の中の実体を捉える「実体論的段階」、本質をつかむ「本質論的段階」の三つ、これは再び「現象論的段階」に戻りラセン状に発展する、この三段階を研究者は意識することが必要という認識の方法論です。

坂田研究所でもこの三段階論を重要な方法としていて、自然観、物質観をもつこと=哲学することの必要性を強調しています。湯川さんも「数学でさえ真偽が証明できない命題が必ず存在する」ことを数学者の話としてあげ、「絶対性」の神話を危険視し、非専門家が哲学する必要を訴えています。

米国のゲルマン博士のクオークモデル(ノーベル賞)も坂田模型の亜流にすぎないと言われていますが、自由・対等な議論の継続、オリジナリティーの尊重、アカディミズムの権威への挑戦、これが世界の素粒子論をリードした精神だったのです。

鼎談・『現代学問論』では、試験秀才は覚えるだけの頭脳であり、これを求める日本の教育には大きな欠陥があること、もの知りの学問・博識の尊重が学問の発展を阻害すること、考える力、独創性がないことは致命的欠陥であることが述べられ、本質に迫る努力=哲学の必要性が繰り返し語られています。しかもその哲学とは、論理計算などの哲学ではダメで、それでは哲学の貧困を招く(武谷)、記号論理のような哲学ではなく、スマートでないとみなされている哲学=もっと根源的な問いを発する哲学が求められる(湯川)、哲学の数学化は、哲学の宗教化にもなる、それは本質に迫ろうとする哲学にはならない、人間や社会を考えるにも武谷三段階論が大事だ(坂田)、というものです。


最後に、興味深い発言を少しだけコピーしましょう。

「ほんとうの意味の専門バカになって、ぐっと食い下がっていけば、ちゃんとモノになるんです。そこが大事。専門バカも徹底すれエセ学問と最も闘う学者になることもありうる。」(武谷)
「教授というものが偉いと思うところから学問の堕落がはじまる。」(坂田)
「秀才が教授になると、どうしようもない。」(武谷)
「偶像と儀式を打破せよ。」(坂田)
「学問というのは、それ自身の中に、どこか楽しい、ということがないと、怖いことになる」 「アカディミズムというのは、「論」ではあかん、「学」でないとあかん、となりやすい。それでは困る。」(湯川)

どうやら日本のよき伝統とは、自由と平等の民主的精神のようです。世界の理論物理学(素粒子論)をリードした4人は、敗戦前から活躍をはじめていたのですし、彼らを生んだ土壌は、長岡半太郎らの明治時代の物理学者にありました。帝国主義化した「皇民・皇軍の日本」ではなく、山県有朋らに潰された「自由民権思想の明治」にこそよき日本の伝統がある、わたしはそう思います。その伝統の中に益川さんや小林さんをはじめ多くの現代日本の自然科学者もいるのです。


武田康弘

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まことに痛快! (Sam)
2010-04-28 12:47:31

このような解釈、まことに痛快!
小・中・高と学校で学ぶのは権力者・為政者の歴史のみ。民主制の社会に住むのに何で過去の権力者・為政者についてのみ学ばねばならぬのか意味不明です。
歴史に何を見出すのか。もちろん今と未来に向けて(反省を含めて)最良のものを見出していくためです。
タケセンは科学者(素粒子論)の例を引き出していますが、無論のこと、他の分野でも脈々と日本の伝統が息づいています。(残念ながらメジャーとは言いがたいですが。)
よき伝統を活かし広めていきたいものです。
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民主主義の伝統こそ (タケセン)
2010-04-28 13:10:34

Samさん

日本には、素晴らしい伝統があります。民主主義は親鸞などの改革仏教時代(鎌倉時代)から日本人の心なのですしね。

心が歪んだウヨクの「日本万歳」というあまりに低次元の言動は論外ですが、真に優れた日本の思想は、世界に冠たる普遍性を持ちます。
ただ、日本の官府は、この人類的な普遍性をもつ個人としての日本人の価値を低く見て、官が個人の上にあるかのように画策してきたわけです。それを支えたのが明治政府作成のシステム=「近代天皇制」であり、国家神道(≒天皇現人神)という気色の悪い宗教であったわけです。 わたしの言う「近代天皇制=靖国思想・官僚主義=東大病」。

わたしたち良識ある市民は、民主主義の素晴らし伝統を活かし、天皇主義の明治の負の遺産を廃棄して、よき日本社会をつくりたいと思います。

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深く感銘しました。 (Cmoon)
2010-04-30 18:39:16

素粒子論……?僕の苦手な分野です。さてどうしよう。

読み始めて感じたのは「ちょっと僕には理解できないかもしれない」と不安でしたが、読み進んでいくうちにじわじわと吸収されてきました。
終わりには「そういうことだったのか!」と深く感銘しました。

”本質に迫る努力=哲学”がなかったら、創造の進展、素粒子論の進化はなかったわけですね。”本質に迫る努力”の底流には、日本のよき伝統を見ることができる。それが自由と民主主義……

引用していただいた、三人の科学者の言葉で再認識することができます。
まさに自由と民主主義を発想させる言葉ですね。

それぞれの主語にあたる部分を、現代社会を歪めている、「官僚」「検察」「天皇制」に置き換えてみました。
活きた哲学、本物の哲学は、いつの時代の歪みの根源をも紐解いてくれるんですね。

それから、タケセンさんとSamさんのレスを読んで……
僕が歴史を自分なりに理解し始めたのは、中央の為政者、権力者の歴史からではなく、マージナルな場所で、あるいは流浪しながら日本文化の底流を形成し続けてきた、流民、卑民たちの歴史を五木寛之さんの小説や沖浦和光さんの著書を読んでからです。
中央の権力者の歴史からは、歴史の一部しか見渡すことができませんでしたが、庶民、卑民、流民の歴史から視界が一気に開けてきました。
また五木寛之さんは、親鸞や蓮如についての作品も多く感銘を受けています。




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またウォルフレン氏の予言が的中!でも、それをみなで避けませんか。

2010-04-22 | 日記

オランダのジューナリストで、日本社会の優れた分析で世界的に有名なウォルフレン氏は、16年前のベストセラー『人間を幸福にしない日本というシステム』のなかで、次のような分析と予言をしました。

「検察庁は、まず第一に現状維持に関心がある。それが秩序維持の最善の方法だと思われているからだ。これは、日本の民主主義にとって重大なことだ。なぜなら既成秩序とはすなわち官僚独裁のことだからである。日本の民主主義を実現するためには、官僚の意思決定に政治家の支配が及ぶようにしなくてはいけない。それは現状を激しく破壊することになるだろう。官僚たちはなんとかそんなことにならないように努めるだろう。
日本の検察庁は法務省の統制化にあるから、結局は官僚制度全体の下僕ということになる。つまり、官僚たちが強力な政治家に脅威を感じはじめたら、検察が面倒をみるのだ。田中角栄にこれが起こり、金丸信にも起きた。小沢一郎やほかの改革政治家たちにも同じことが起きるかも知れない。」

周知の通り、非妥協的な改革主義者の小沢憎しで一致する既存の勢力(政界、検察、マスコミ等)による徹底した追及で「犯罪者」に仕立て上げられた小沢一郎氏は、ウォルフレン氏の予言通り、極めて厳しい状況に追い込まれています。


『中央公論』の先月号においては、ウォルフレン氏は、以下のようにいまの新党ゴッコを予言し、警鐘を鳴らしていました。

「確固たる民主党という存在がなければ、さまざまな連立政権が現れては消えていく、というあわただしい変化を繰り返すだけのことになる。すると官僚たちの権力はさらに強化され、自民党時代よりもっとたちの悪い行政支配というよどんだ状況が現出することになろう。」

彼の恐ろしい予言、「官僚たちの権力はさらに強化され、自民党時代よりもっとたちの悪い行政支配というよどんだ状況が現出することになろう。」
を避けるために、わたしたち市民はもっと賢くなければいけませんね。市民が肝っ玉を太くして、悠然と構えましょう。一番損をするのは、焦ることです。元も子もなくします。


武田康弘

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コメント

石橋湛山から学べ (内田卓志)
2010-04-23 15:02:09

低レベルなマスコミに混乱させられてはいけません。
この国はやっと本格的な政権交代ができた民主主義一年生なのです。

皆で現政権と共にがんばればきっと歴史の峠を越えられると信じます。

それには建設的な批判が大事です。
今のマスコミのように代案なき現状批判は最も愚かです。

明治以来の最大の言論人といわれる石橋湛山は、自らの代案無しに現状批判などしませんでした。湛山から学ぶところ大です。
                       

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『坂本龍一・音楽の学校』(NHK)

2010-04-17 | 教育

とても優れた教育番組をご紹介します。
NHK教育テレビ・『坂本龍一・音楽の学校』です。

バッハの音楽の特質を音楽史を踏まえて明晰にする作曲家・坂本龍一さんの『音楽の学校』は、優れた授業・教育の一つの典型だと思います。能動性に富む参加型授業で、分明にして深い内容を持ちます。

第三回目の放映は今夜11時45分からです。

坂本さんは、生徒のみなさん(異なる楽器を演奏する学生)にバッハの考え方と方法によって作曲(=編曲)をしてもらいますが、ここがポイントです。ただ理解し覚えるのではなく、各人がつくる(編曲する)という営みの中で、バッハを能動的に知り、自分のものにするのです。テスト秀才をつくる受動的な授業ではなく、人間的で能動的な了解を生みだす授業になっています。

また、もう一つのポイントは、教える側の人が坂本さんの他に二人いて、三人が掛け合いながら授業をしていることです。リーダーの坂本さんも含めて各講師の体験談や新たな発見をその場で話すことは、より大きな能動性を生み、授業を立体化させます。


実は、坂本さんが音楽で行っている能動的な(わたしの言いかたでは哲学的な)授業は、『白樺』の目がけてきたところなのです。複数の講師の掛け合いは、小中学生の授業ではほとんどありませんが(経済的余裕がない)、高校生と大学生が参加する土曜日の『哲学授業』(3時間30分)では、しばしば社会人も参加しますので、掛け合いをやっています。

哲学の授業とは、ほんらい自分の頭で考える力を育てる営みで、他の教科の技術的な勉強とは大きく異なるものです。思想書が読めて理論的な話ができるようになるだけでは単なる理論家(理屈屋さん)に留まりますから、哲学の教育は、従来の方法では出来ないのです。能動性を刺激し・生みだす方法によらなければ、哲学はほんらいの意味を持ちませんから、各人が自分の考えをつくれる(音楽で言えば、作曲・編曲できる)新しい授業=方法が必要です。

坂本さんの「音楽の学校」は、音楽、哲学、教育に関心をもたれる方には、とてもお勧めです。よいヒントが得られると思います。


武田康弘



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東大総長の式辞ー「大人として守るべきルールについても話し合っていただければ」!?

2010-04-14 | 社会批評

「このMLでしばしばターゲットになっている東京大学の入学式の総長式辞を参考までに添付します。http://www.todai-alumni.jp/gate/2010/04/post-a221.htmlなお、このMLはもうじき閉鎖されるようなので、ここでの議論ができないのが残念ですがーー」

というメールが山脇直司さんからありましたので見てみました。

全体として極めて分明な式辞です。
総長・濱田純一さんの「『正解』に囚われない知性を」は、わたしの主張と共通するもので好感をもちましたが、受験勝者に過ぎない東大生を特別な存在とみる言い方が随所にあり、その点は東大総長の限界を感じます。
また、彼は正直に、「授業で『答え』というものをなかなか教えてくれないなあ」と東大法学部入学時にカルチャーショックを受けたと話していますから、わたしと同世代(濱田さんが3学年上)にしては随分ナイーブな人です。
ただ、それよりも驚いたのは、以下の親に対する言葉でした。


「さて、最後になりましたが、今日この場にお越しいただいている、ご家族の皆さまにも、一言申し上げておきたいと思います。
 お子さんが大学に入ると、親離れ、子離れをしなければいけない、ということがよく言われます。しかし、私は、お子さんの大学への入学は、ただたんに「離れる」ということではなく、親子の間で新しい大人の関係が作られるきっかけであると考えています。さきほど「国境なき東大生」という話をしましたが、お子さんたちは、これから広大な学問の世界の中で、多くの経験を重ねていくはずです。そこには、新しい知識もあれば、新しい緊張もあり、新しい戸惑いもあります。ご家族の皆さまには、そうした新鮮さに満ちた中で大きく成長していくお子さんと、大学生活の話を共にしながら、さらに知的に豊かな、一段と質の高い、親と子の関係を築いていただければと願っています。
 そして、そうした会話の際には、授業のことや日々の生活のこととともに、大人として守るべきルールについても話し合っていただければと思います。薬物の乱用やその他の社会的ルールの逸脱によって、せっかく入学した大学を去らなければならないような学生が、皆さんの中から出るとすれば、それは、とても悲しく残念なことです。そうしたことが決して起こらないように、大学としても皆さんに注意を促していきますが、ご家庭でも折に触れ、お話しいただく機会をもっていただければと思います。」


「会話の際には、授業のことや日々の生活のこととともに、大人として守るべきルールについても話し合っていただければと思います。」―というのには、ほんとうにビックリです。

会話を、人間や社会問題を考える対等な人間同士としての対話ではなく、「大人として守るべきルール」を親が大学生の子に話して下さいというレベルで捉えているのですから、言葉を失いますが、受験勉強だけに明け暮れてきた日本の異様な家族が前提されているからかもしれません。東大生をもつ日本人家庭の恐るべき水準!を世界に示した名(迷)演説とでも言う他ないですね(笑)。

歴史に残るかも、です。

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硬直しきった青春 (Cmoon)
2010-04-15 11:09:00

式辞の全文を読みましたが、タケセンさんが指摘された部分で、一気にレベルダウン。
まるで、シフトダウンに失敗し、カタカタし始めたクルマのようです。

大学の入学式の式辞らしく、称賛すべき箇所もあるのに、一気に幼稚化してしまった、この部分に関しては、中学校の入学式の式辞なみですね。
言葉を失いながらも笑ってしまいました。

そして浮かんだのは、「全共闘時代に東大学長はどんな式辞を読んだのだろうか……『学生運動を反社会的な行動かどうか、大人として守るべきルールを親が子によく話してください』と言ったのかな……?まさか!!」という独り言です。

しかし、よく考えてみれば、東大生の多くは幼い時から、塾通いや家庭教師をつけられ、受験を勝ち抜き、個で考える時間もなく、大人として成長する機会を失い続けてきたのではないか……ひとくくりにできませんがそんなふうに感じます。
ある東京地検検事の生い立ち、東大に入り検事になるまでの姿を書いた読み物が読んだことがあるのですが、その検事は、その期間、ふれなければいけない大切なもの、ふれることで成長するあらゆるものに、ふれることなくただひたすら我慢して、検事に辿り着くべく身を粉にしてきたようです。
硬直しきった青春……と言っていいと思います。
こうした柔軟性、しなやかさに欠けた学生をたくさん見ているから生まれた、式辞の最後の部分かもしれないですね。

そう考えると笑うどころか、とても哀しく、空しく聞こえてきます。


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わたしが【柳兼子の音楽室】(in白樺文学館)をつくった理由・経緯

2010-04-13 | 白樺文学館

以前に書きましたように、わたしは『白樺文学館』のコンセプトを創る作業に没頭していた時(1999年9月に『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』へ変更をした直後)1999年の10月に、当時はまったく未知の方であった松橋桂子さんが『柳兼子伝』(水曜社刊)を出版されたことを知り、一読、驚愕しました。兼子は音楽における白樺を一人で代表し、朝鮮と日本各地で開いた数多くのコンサートは深く人々の心をとらえ、それは白樺と民芸運動を経済的にも支えたのでした。

この本が出版されたことで、わたしは、「白樺派の4人」としていた『白樺文学館』の基本構想を、柳兼子さんを加え「白樺派の5人」に変えたのです(白樺文学館の基本理念=「創造の知・我孫子」を参照してください)。

ちょうど、『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』へと基本コンセプトを変更したために建物の設計をやり直していた最中でしたので、地下に「柳兼子を記念する音楽室」をつくることにしました。
コーヒーブレイクにある「よい趣味こそ人生最大の得ーわたしの半生」をご覧いただければお分かりのように、わたしは音楽好きのオーディオ少年でしたので(今もなお)、できるだけ忠実にかつ兼子さん声を美しく再現するための音楽室とオーディオつくりに没頭しました。とっても熱く(笑)。
幸いにもオーナーであり、わたしの主宰する哲学研究会の熱心な会員であった佐野力さんの会社(=「日本オラクル」)の店頭公開した株が1000倍もの高値になっていた為、資金に不足はなく、わたしは自由に音楽室とオーディオづくりができました。

実は、兼子さんは、日本の戦争政策に反対し軍歌を歌うことを拒否したために、第二次大戦中は活躍の場を奪われたのでした。歌い手としての全盛期のブランクは大きく、ようやく戦争が終わった後には兼子さんの存在は忘れられていました。そのために壮年期の記録がないのです。80歳を過ぎてからの日本歌曲を中心としたLP(文学館がオープンした直後・2001年にようやくCD化)だけなので、できるだけ艶やかで美しい音で再生し、多くの方に兼子さんの魅力、その前例のない深い歌声=歌の意味を掘り下げて曲のイデアに迫った芸術を知ってもらいたいと思い、オーディオ装置づくり(予算は500万円)・音楽室の設計・テーブルとソファーのデザイン・椅子の選定等に取り組んだのです。兼子さんのための音楽室ですから、オーディオ装置とその調音も「兼子チューン」なのです。

兼子さんを白樺派の中心者の一人としたことや、音楽室+独自のオーディオをつくることは、わたし一人の判断でしたが、それから9年が過ぎた今年4月10日、駒場の『日本民藝館』(西館)に『柳兼子記念室』がオープンしました。わが意を得たりです(嬉)。
出会いとはまことに不思議なもの。ちょうど『白樺文学館』構想としての再出発をした翌月に松橋桂子さんの『柳兼子伝』と出会い、貴重なLPを譲り受け、それが「兼子さんのための音楽室」に結実したのですから。

音楽室設計の苦労、オーディオ装置の選定の理由、失敗!とその救済策、テーブルとソファーのデザイン、中津川さんによる取っ手の彫刻、等々の【秘話】については、改めて書きましょう。しばらくお待ちください。

武田康弘

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なぜ東大生は頭が悪いのか?

2010-04-11 | 日記

わたしは、いままで多くの東大生と話をしてきましたが、彼らの多くは客観知に支配されているために自分で考え出す能力に劣り、受動的でステレオタイプの情報処理頭脳でしかありません。

東大生に限らずですが、受験主義の勉強=暗記の訓練が中心の頭の使い方をしていると、「考える力」が潰れてしまうのです。

記憶力に頼ると思考力が働かなくなるのですが、その点に対する自覚がないために、現代の勉学はペーパーテストの点数をあげるという目標のみに特化してしまい、「記憶力競争」に陥っています。丸暗記と答えの決まっている問題の解法を身につけることだけの勉強を長時間やると、知らぬうちに頭は不活性化して情報に頼るだけの「死んだ頭」になってしまいます。

東大生は、自分の具体的経験によく照らしながら自分の頭で考える力が乏しいのです。そのために生きた心と頭になりません。テスト問題を解くだけの優秀さ・言葉・概念を羅列するだけの優秀さでは、人間としての優れた頭脳とは到底言えません。

ここで注意しなければいけないのは、『考える頭』とは、奇問・難問が解けるという意味ではないということです。それは、その種の訓練を繰り返せば出来ます。そうではなく、真に優れた頭脳とは、自分の経験から意味を見出し、新たな意味を創造する能動的な能力を持つのです。わたしは、それを『主観性の知』と読んでいますが、「東大病」の問題と共に説明した論文もありますので、ぜひ見て下さい(参議院発行「立法と調査」別冊)。
知の目的は「主観性の知」であり「客観学」は知の手段に過ぎないことを、学者や教育者を含めてほとんど誰も自覚していませんが、そこに日本の知と教育の不毛性の原因があるのです。

『主観性の知』を、例をあげて簡単に説明しますと、
自分で考える力、対話する能力、作文力、イマジネーション、創造力、感受性の能力、センス、企画や設計する力、評価し判断する力、有用な意味を見出し、生み出す力・・・これらの能動的な知は、答えがドリルに書いてある知(客観知)ではありません。

ただの『記憶力競争』は、使えない頭しかつくりません。それは『全体的に考える有用な頭』を潰してしまうのです。ほんとうのことは何も分からず、何も見えず、でも、権威に従い、決まっている正解が書ければ「頭がいい」とされる!?これでは問題は解決せず、よろこびは得られず、人間の生はやせ細るしかないのです。

わたしは、一人ひとりの豊かな生のために、「客観学」と共に、知の目的である「主観性の知」を鍛える教育を続けています。

暗記マンの東大生ではなく、自分の頭で考えるソクラテスを目がけましょう。


武田康弘
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コメント

今思い出してもゾッとします (C-moon )
2010-04-12 21:32:03

耳の痛い話です。
東大生とまったくかけ離れたところにずっといましたが、取り組み方は、彼らと同じ傾向にあったと認めざるを得ません。
学ぶことが、すべて受験に向いていたわけではありませんが、ある時期かなりのスペースを埋めていたことは間違いなく、受験への流れを確かなものにすべく、考えることなく反復の繰り返しでした。
こうした姿勢を「学ぶ」とは言わないですね。

その頃、机に向かっていたり、参考書を開いたりすることは、ぜんぜん楽しくなく、とても苦痛で、今思い出してもゾッとします。二度と繰り返したくない取り組み方です。
だから、身についたものはひとつもなく、受験が終わったとたんすべて消えてしまいました。

こうした傾向に容易に運んでしまうのは、今考えると根が深く、小学校に上がった時、そこに準備されていた指導方法だと思います。
「憶えろ」という言葉を教師たちがどれほど私たちに言ったことか。「考えろ」という言葉よりはるかに多かったように思います。
「よく考えろ!」と言われたのは、悪戯をして怒られた時くらいのものですか……。

今思うのですが「憶える」という姿勢に能動性は感じられませんね。一生懸命やったわりには、脳が受動的な姿勢でただ疲労するだけです。ポンポン投げ込み、受け入れるだけで、まるで玉入れのようなものです。
これが「考える」となると、姿勢はもちろん脳も五感も感受性も(医学的、生物学的、大脳生理学的には、五感も感受性も脳の支配下にあるんでしょうけど)能動的でかつフル活動しないと事が運びませんね。そして「考える」ことで脳も五感も感受性も養われていく。

そんなことに、ようやく気付いた今日この頃です……

これからしっかり能動的な姿勢で考える力をつけていきます♪
(けして遅くはないと思うので……)
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試行錯誤・五感全体による会得 (タケセン)
2010-04-12 22:01:15

Cmoonさんは、本質的に大変優れた方だと思います。
それに、極めて率直・正直ですので、どこまでも伸びる可能性を持ちますし、とても気持ちがよいです。

わたしは、24才のときに自信をもって私塾を立ち上げましたが、小学生のこどもたちによって、その自信は単に言葉=理論=観念上のものに過ぎないことを悟らされ、数年間は書物を封印し、すべてを白紙に戻して日々の経験から考え直し・作り直す作業を続けました。五感全体による会得を心がけたのです。その方法を少しづつ徹底し、試行錯誤を繰り返し、豊かな認識を得るように努力して今日に到りましたが、毎日が広義の勉強です。

ぜひ、今後もお付き合い下さい。共に進みましょう。

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ラトル・ウィーンフィルの名演・ベートーヴェン交響曲全集が2700円(驚)

2010-04-10 | 日記

ラトルのベートーヴェンは、以前に第九を購入しましたが、実に面白く愛聴していました。全集が聴きたくなり、アマゾンで見たら、なんと!アメリカ・カルフォルニアのショップで2369円(+送料340円)で売られていましたので、早速購入しました。

実に自由で創意あふれる演奏、のびのびとした能動性・豊かな主観性の愉しい音楽に大満足ですが、あまりに安い価格には驚かされます。CD一枚分で、全曲(5枚組)が揃うのです。どうなっているのでしょうか?紙ジャケットのデザインもシャレています。

それに、Manufactured and printed in the EUのこの盤は、日本盤よりも音質がよいのです。第九のみの比較ですが、音が豊かで、ダイナミックレンジが広いのです。日本盤は、小型のオーディオを意識してか、わざわざレンジを縮小しているようです。音楽の面白さが大きく違います。

送料込みで、演奏・録音とも見事な全集が2709円!(驚)。買わなきゃ損ですよ~~(笑)。変な思い込みのない人・ピュアな心をもっている人は誰でもこのべートーヴュンに感動することでしょう。
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ハーバード大学・サンデル教授の討論的授業と白樺教育館

2010-04-05 | 教育

昨晩の教育テレビで、高名な公共哲学の学者であるサンデル教授のハーバード大学における討論的授業(ただし大人数ですが)を放映していました。

討論・対話式授業は、『白樺教育館』では34年前から続けていますが、ハーバード大学よりも優れている点は、少人数で行っていますので、ディベート的な要素を排除して、純粋に哲学的対話=全員参加による意味論・本質論の探求ができるところです。昨年11月に日経(日本経済新聞)にも紹介された通りです。

以下は、昨晩の番組を見ての私の意見です。この番組で解説を務めていた千葉大学の小林正弥さんの主催するML(pub-citizen@mlc.nifty.com)への投稿に少し手を加えました。


議論文化、は「白樺教育館」ではごく日常的なことで当然なのですが、一般の日本の学校教育にはありません。その意味ではさすがにアメリカです。大学という学校教育の場で議論授業が行われているのにはとても好感を持ちました。

ただし、サンデル教授の議論の方法は、一般のアメリカ人と比べれば哲学的ですが、わたし(白樺教育館)の基準からすれば、ディベート的要素が強いと思います。

ここで彼は、遭難船の小船における殺人の例で道徳を論じ、それを社会全体のありようを論じる場(ベンサムの社会思想)にあてはめて考えますが、これは次元の相違を無視した思考・議論と言わざるを得ません。こういう想定はディベート的であり、思考を混乱させます。

遭難船の例で「3人が生き延びるためにひとりを殺した」ことが道徳的か否かを問うていましたが、ここでの実存レベルにおける問いと、どのような思想がよい社会を生むかという問いとは、ほんらい同一次元で語ることができません。

この例で言えば、わたしの見方では、極限状態の中で人は弱いものから順に死んでいきますから、その死者の肉を食糧にするところまでは許されますが、意図して殺すのは許されないのです。しかし、その問題と社会的次元における公平性・公正性を導く思想がどのようなものかを考えることは直接には結びつきません。それは、次元の違う話であり、同一平面(次元)で考えることができません。

このような想定(次元の混同)をして討論授業を行うことは、いたずらに思想を複雑化する道でしかなく、確かで明晰な思想を生みだす方法とは言えないでしょう。次元の混同は、「受験的=平面的=マニュアル的な知」の大変に困った問題ですが、日本のみならず、世界的にも克服しなければならない現代知に共通する課題なのかもしれません。

ともあれ、対話・議論を基盤とするのは、幼い子どもからの知的・心的教育にとっての柱なのですから、本気でこれを進める努力をしなければいけません。白樺教育館・ソクラテス教室の営みは先駆的なものですが、ぜひ、多くの教育機関が真似をしてほしいと思います。


武田康弘
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コメント

マイケル・サンデル氏の討論について (内田卓志)
2010-04-05 23:46:18

武田先生

マイケル・サンデル氏の討論について

サンデルは、テイラーやマッキンタイアと並ぶ代表的コミニタリアンですね。
私も以前ロールズを勉強している時、サンデルを少し勉強しました。ノージックとサンデルが強力にロールズを批判したと思います。サンデルは、ロールズやセンと共に尊敬すべき学者です。
私は、そのテレビを見ていませんので正確には分かりませんが武田先生が書かれた文脈からすると、何でサンデルほどの学者が意味のない究極論を持ち出し討論させるのか私には分かりません。このようなことはたしかに起こりえることとは思いますし、法的には緊急避難となるかもしれません。
「人は人の命を奪うことは出来ない。」これを原理と考えればこのような議論は道徳的にも無意味になると思います。
ただ、アメリカ的な文脈?で「正義のためには人の命も奪うことはやむを得ない」という立場に立つと、道徳論として議論されることになるのでしょう。
日本でも死刑制度があります(脳死・安楽死の問題もあるでしょう)ので議論の余地はあるのかもしれませんね。
それを先生は実存レベルの問題とよき社会の創造の問題との次元の違いと言っておられます。
「人は人の命を奪うことは出来ない」ということは、原理的に完全解決されていない問題なので道徳論(価値)のテーマとなるでしょうが、道徳論を討議するのであればもっと普通の生活の場で起きうるテーマにより討議した方が生産的と思えます。
ただ私見ですが、「人は人の命を奪うことは出来ない」ということを私は、原理と考えたいと思っています。それ故、先生と同様意図して殺すのは許されないと思います。それは戦争でも死刑でもそう思います。このように倫理的に1か0かの究極論を問題にするのは、ディベートの典型のように思えます。もっと普通の生活の場で正義や公正や公平を考えるテーマがあるでしょうし、その方が社会生活上も社会思想上(公共哲学上)でも有意義と思いますが?
先生の「このような想定(次元の混同)をして討論授業を行うことは、いたずらに思想を複雑化する道でしかなく、確かで明晰な思想を生みだす方法とは言えないでしょう。」というご意見に賛成です。
このような問いを立てる意味が正にあるか?ないか?を討議するなら価値があるかもしれません。
私の論法に錯誤がありましたらご指摘下さい。
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よいコメント、感謝です。 (タケセン)
2010-04-05 23:54:30

丁寧なコメントを頂き、とても感謝です。

「このように倫理的に1か0かの究極論を問題にするのは、ディベートの典型のように思えます。もっと普通の生活の場で正義や公正や公平を考えるテーマがあるでしょうし、その方が社会生活上も社会思想上(公共哲学上)でも有意義と思いますが?
先生の「このような想定(次元の混同)をして討論授業を行うことは、いたずらに思想を複雑化する道でしかなく、確かで明晰な思想を生みだす方法とは言えないでしょう。」というご意見に賛成です。」

は、まったくその通りと強く思います。普通の生活の場で正義や公正や公平を考えなくてはいけないのです。




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能動性の哲学  西山裕天

2010-04-02 | 恋知(哲学)

先週と先々週、白樺教育館・ソクラテス教室の『高校・大学・一般クラス』で、【能動性の哲学】についての授業をしました(参議院の行政監視委員会調査室でもその一部を行いました)。

以下は、2回・合計7時間の授業を受けた後で、西山裕天君(高校3年生・4月からは大学生)が書いたレポートです。大変優れていると思いますのでご紹介します。これは彼がひとりで書いたもので、まったく添削していません。現代の教育・哲学・知の捉え方(いわゆる「東大病」)の問題点を体験を踏まえ自分の言葉で的確に突いたもので、先日の参議院でのわたしの講義にも使いましたが、官の人たちも深く納得していました。(武田康弘)



能動性の哲学        西山裕天

哲学の出発点は、様々な疑問に対して自分の頭で考える事。
だから、「これについて○○という人がこう考えた。これは○○主義ってヤツだね。」とか「△△という本で□□という人が書いていた、××論と呼ばれる物です。」等と知識をひけらかす事を哲学とは呼ばない。つまり『受動性』の哲学とは本来存在し得ない。
例えば、単純に本を読むということでも、読み方によって『能動的な哲学』として自分の物にも出来るし、どこか外にある『受動的な~』にもなってしまう。

◎ 本を読む
・本での対義語、接続語、反語、そして熟語や慣用句等の関係性を見極める。
(例:この文の「これ」はココを指す。ココからココまでが引用。ココからは筆者の主張。この文の「しかし」にマーカー!注意して。等)
完全に理解しても機械的なので全く解からない。学校のテストでは点取れますが。

・作者の言わんとすることを的確に理解する。他の知識がちょっとあれば、さも自分で考
えたような感想文が書けます。
(例:作者はココでこんな事を言っています。しかし一方でこんな主張をする人もいます。私はこっちの方が良いとおもいます。)
国語が得意と鼻が高い人でこのような人がいました。先生は誉めてくれます。

しかしどちらも、哲学的かと考えると大きなクエスチョンマークが付く。
そうではなくて、「自分はこう思う。理由はこうこう、こうだからだ。」と頭の中で考えて言える状態、責任を持って「自分の考え」として言える状態になると「能動的に」本を読んだということになるのではないだろうか。
この時本を読んだ人は、本により「受動的に」教えられていたはずが、自分自身の確信と考えにより『能動的に自分が考え出した』と言っても良い状態になる。
もしかしたら、「なんで僕が考えたことが本に載ってるんだ?」と思うかもしれない。(笑)
これは、真にその考え方を自分の考えの一部として根付かし、自分の哲学として成立したと言ってよいと思う。

最後に、「あくまでも本は参考として読む」という事について。
これは片手間にさらっと読み流す事では決してない。「これから考えようとする事を哲学の歴史の中で考えた人がいるのなら、0から考え直すというのは膨大な時間が掛かる(また二度手間)ので自分の中に確信を作る手助けとしてしっかりと読むという事」だと思う。

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