思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

新たな哲学への跳躍ー「民知」への価値転換

2009-12-29 | 恋知(哲学)

25日のブログ『直接経験とイマジネーションによる哲学を(自分の知のありようを変える)』は、内田卓志さんとのメール対話ですが、一応の完結を見ましたので、『新たな哲学への跳躍ー「民知」への価値転換』と題して、全文をブログにします。ぜひご覧下さい。コメントもよろしく。



武田先生

ご主旨承知しました。
神野先生(「教育再生の条件 ― 経済学的考察」の著者)は東大の方でしたが、東大病患者ではないと思います。
いつも著書にはあったかい血が流れています。本当ですよ。 
 
 内田
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
内田さん

はい、了解です。
ただし、①受験勉強を経て現在の自分があることに対しての自覚、②それをしてきたことで自分の知にはどのような問題があるかの分析、③マイナス面に対しての改善策、
以上の3点について、教育と人間についての考察をする人必ず取り組まなくてはならない。それがわたしの「強固な立場」です。

武田
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
武田先生

「それがわたしの「強固な立場」です。」
長年、日本の悪しき官僚主義・権威主義・エリート主義
いわゆる東大病と闘ってきた先生のご主張ですので、しっかりと受け止めさせて頂きます。

下記①~③について考えさせられます。
さすがのご指摘と思います。私は東大にはまったくの無縁者ですが、自らも反省するところもあります。
ただ厳しいご指摘かもしれません。
①は出来ても②そして③へ至るのは相当に自覚を持たないと無理ですね。
考えてみれば、①~③について取り組まなければならないのは日本教育の悲劇です。そして韓国も中国、特に韓国は国を挙げて東大病患者を生み出しているように見えるのです。

寒くなりました。ご自愛下さい。

 内田卓志
―――――――――――――――――――――――――――――
内田さん

わたし自身、小学高学年のときから、受験的な勉強=丸暗記と特定のパターンを身につけて解答するやり方になんとも言えぬ気持ち悪さを感じてきました。点取り勉強には極めて不愉快な思いをし、それを疑いなくこなす級友には侮蔑の感情さえ抱いていました。

だからわたしは、小学5年生ころからは、自分の疑問や関心事について、能動的に自分で調べ、聞き、納得を得るような勉強をしてきたのです。本もさまざまな分野のものを読みました。

そういうわけで、、新しい教育をめがけて24歳のときに私塾をひらいた時には、かなりの自信を持っていました。

ところが、地域の小学生に「意味」を分明に教えようとすると、自分のもつ「優秀さ」は幻想に過ぎないことを悟ったのです。成績はあまりよくないが、疑問をもち聞いてくる子どもを前に、自分が「分かったつもり」でいたにすぎなかったことを知りました。受験的な知を越えようと努力し、それなりの成果をあげ、自信をもっていたわたしは、しかし、それが言語上ないし理論上の確信でしかなかったことを知ったのです。

ある考え・思想を学ぶこと=言語として明晰化することと、それを現実に自分が生きることの違いは、ほんとうに大きなもので、両者が次元を異にする世界であることを実感するには、言葉に逃げることが許されない厳しい現実に身を置かなければならないと思います。学校(小~大)内で先生をやっていては(地位が与えられ、生活が保障されている)、その覚醒はないでしょう。既存の知の中で「優秀」であるほど言語中心主義に囚われてしまうという事態はとても深刻な近・現代知の問題なのだ、わたしはそう思っています。

(1)直接経験とイマジネーションの力に基づいて、実際・現実を全体としてつかみ、その意味を会得することと、(2)言語次元で、書物の中で論理的な整合性を得ること、この両者の間の深淵を埋めるためには、自分を無にし、裸になる覚悟をし、それを実行しなければなりません。どのような理論も哲学も権威者の言も科学的知見も自身の履歴も何にも依拠せず、ひとり裸で立ち、そこから自分自身の経験(直接経験に基づき間接経験も含めて)を反省し、イメージ世界から言葉を浮かび上がらせる作業を始めるほかにありません。自分が知らずに身につけた固い知(言語に囚われた知)を溶解させるには、自覚的に「バカ」になる必要がある、それがわたしの強固な立場です。


武田
――――――――――――――――――――――――――――――
武田先生

ご多忙中、ご丁寧かつ大変納得のいくご説明ありがとうございます。

正に先生の知は、現実社会での試行錯誤、挫折を繰り返しながら会得した知ですね。
私も漠然とですが考え続けていたことでした。しかし、先生のお話を聞いていて分かったことは、考えただけでは回答は無く、生活の場に先入観無く裸の個人で向き合わないと分からない問題ですね。

「ある考え・思想を学ぶこと=言語として明晰化することと、それを現実に自分が生きることの違いは、ほんとうに大きなもので、両者が次元を異にする世界であることを実感するには、言葉に逃げることが許されない厳しい現実に身を置かなければならないと思います。学校(小~大)内で先生をやっていては(地位が与えられ、生活が保障されている)、その覚醒はないでしょう。既存の知の中で「優秀」であるほど言語中心主義に囚われてしまうという事態はとても深刻な近・現代知の問題なのだ、わたしはそう思っています。」(武田)

大学の哲学者の話を聞くと言語でもって論理的には納得するのですが、それまでの世界なのです。そこから先、生活者が生きてきる世界、市井の民の世界とは違うし、言語的論理だけをもって「生」(生活)の世界を把握できることは無理だろうと思っています。純粋哲学者で「生」(生活)なんか興味が無いよ、と言うなら知のための知で良いでしょうが、公共哲学や社会哲学を標榜するならそういうわけには行きません。

「(1)直接経験とイマジネーションの力に基づいて、実際・現実を全体としてつかみ、その意味を会得することと、(2)言語次元で、書物の中で論理的な整合性を得ること、この両者の間の深淵を埋めるためには、自分を無にし、裸になる覚悟をし、それを実行しなければなりません」(武田)

「どのような理論も哲学も権威者の言も科学的知見も自身の履歴も何にも依拠せず、ひとり裸で立ち、そこから自分自身の経験(直接経験に基づき間接経験も含めて)を反省し、イメージ世界から言葉を浮かび上がらせる作業を始めるほかにありません。自分が知らずに身につけた固い知(言語に囚われた知)を溶解させるには、自覚的に「バカ」になる必要がある、それがわたしの強固な立場です。」(武田)

⇒(1)と(2)の作業こそ大困難なのです。特に東大病患者には。おそらく哲学が大学での個別研究から「街頭」へ出て行くためには、先生の思想及び実践が不可欠と考えます。少なくとも私が今まで出会った中で最も納得のいく思想です。こういうことは、大学の学者から聞いたことありません。何度も申し上げますが、純粋哲学は必要です。ただ武田先生のような思想と行動を行っている方は稀です。市井の民は、純粋哲学ではなく良く生きるための哲学を求めているはずです。そんな時、武田先生の存在は大変貴重に思います。

大学の哲学を民知へ翻訳するとでも言う作業は、大変力のいることです。正に価値の転換です。それはかつて親鸞が行ったようなことかもしれません。

内田
―――――――――――――――――――――――――――――
内田さん

丁寧に読まれ、わたしの考えを高く評価して頂き、感謝です。さすがに親鸞と比較されると、恐れ多くて困惑しますが(笑)。

純粋哲学は、
ある種の人(不全感が強く、論理言語による自己救済を必要とする人)にとっては、必要でしょう。
しかし、
それ以外の人には不要です。
要・不要は、実存レベルの問題なのだと思います。

また、わたしは、「大学内哲学」を民知へと翻訳しているのではないのです。文筆家のものも、大学教師の言も、さまざまな人(付き合いのある人やこどもたちやテレビで話す人や新聞に書いている人や・・・)の言動の一つとして見、ヒントにし、刺激剤にしているに過ぎません。わたしの思想は、あくまでも直接経験の世界から立ち上げることが中心となっていて、わたし自身の具体的経験を基盤としています。どのような抽象も生々しい実際・現実に根をもっているのです。

武田
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武田先生

志は、親鸞聖人のごとく高いのですから困惑しないでくださいね。

さて、私の話し方が悪かったようです。哲学に大学の哲学も市井の哲学も本来無いはずなのです。ところがいつの間にか、哲学が専門化して大学だけで研究する対象となってしまいました。一部の仲間内だけで通用する言葉だけで交わり、知のための知となり「生活」の場で生きて働くものとはなっていません。

哲学にもいろんなスタイルがあるのかもしれませんが、哲学とはカント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガーとかの難解なものを研究するという大学内の哲学だけだという固定概念を脱構築すること。

「あくまでも直接経験の世界から立ち上げることが中心となっていて、具体的経験を基盤としているのです。」(武田)という直接経験を基盤とする哲学・思想があるので、それは主観性の知に立脚した「民知」だということを市井の民へ紹介し、ともに考え対話するということ、正に価値の転換だと思うのです。

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内田さん

了解です。わたしもその通りだと思います。
その価値の転換こそが、現代においてよい思考・思想を生む為の基本条件である、それがわたしの揺ぎ無い信念です。

内田さんのとのメール対話は生産的ですね。
では、来年またお目にかかりましょう。

武田
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コメント

哲学って何? (荒井達夫)
2009-12-29 20:24:34

私は、もともと哲学に関心はなく、偶然、仕事の関係で公共哲学に深く関わることになった者ですが、内田さんと同じことを感じています。ただし、昔から哲学と言えば、物事の意味や価値について深く考えるものと、漠然と思っていましたので、そうではないという事実には、正直なところ、驚き、あきれています。

物事の意味や価値について深く考えることをしないから、「専門化して大学だけで研究する対象」にもなれたし、「一部の仲間内だけで通用する言葉だけで交わる」ことにもなったのではないでしょうか。

また、哲学が「「生活」の場で生きて働くもの」との強い自覚がなければ、物事の意味や価値について考えなくなるのも当然でしょう。現状は「難解で複雑怪奇な情報の集まり」に過ぎなくなっているように思います。
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みなの哲学=新しい哲学 (武田康弘=タケセン)
2009-12-30 10:38:16

「昔から哲学と言えば、物事の意味や価値について深く考えるものと、漠然と思っていましたので、そうではないという事実には、正直なところ、驚き、あきれています。』(荒井)

そうなのです。
現代の哲学は、一部の趣味人と大学職業人のための「村の言葉」に陥り、人間の生の意味と価値とは無縁になっています。

自分勝手に造語し、仲間内だけでやりとりする衒学趣味のサークルに過ぎませんから、すでに死んでいると言えます。

物事・事象の「意味と価値」を考えること、それは必ず、自分・人間の生の意味と価値をどのように見、どのように創るのか、に結びつくわけで、それがほんとうの哲学(意味論としての知=民知=恋知)です。

ほんとうの哲学とは、皆の哲学であり、21世紀の新しい哲学だと言えます。それは、日常の言葉(一次言語)で考え・語り合うのです。
民主主義がどんな政治体制よりも強い理由は、あらゆる人・みなが関わるからですが、哲学をほんものにするのも同じです。
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当たり前過ぎる話 (荒井達夫)
2009-12-30 17:58:31

私は、特に政治社会の問題に関わる大学教師の方に対しては、現実の具体例を挙げながら、普通の大人が理解できる言葉で説明してもらうようにしています。これができなければ、現実社会では使い物にならない哲学オタクの議論ということになりますから。一般人には当たり前過ぎる話です。
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そうですよね。 (武田康弘=タケセン)
2009-12-31 20:48:16

従来の哲学=特別な知としての哲学を否定する哲学でなければダメだ、というわたしの主張を「当たり前過ぎる話」と見る荒井さんのコメント、素晴らしい!ですね。2009年のシメにふさわしいーーー。
来年はさらに進展するでしょう。






コメント (4)
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従業員&顧客のための経営にシフト!

2009-12-23 | 社会思想

19日のグログ『自然=女性原理への転換』に、青木りかさんよりコメントを頂きましたが、それへのお応えを、単独でブログにします。


一昨夜の「日経スペシャル・カンブリア宮殿」(12チャンネル・22時~23時)では、今年話題となった3人の経営者が再登場。スズキの会長兼社長・鈴木修(すずき・おさむ)さん。オーケーの社長・飯田勧(いいだ・すすむ)さん。メガネ21の専務・平本清(ひらもと・きよし)さん。

鈴木さんは、常識はすぐに古くなる、囚われるな。と言い、
飯田さんは、「正直」が価値を生むことをアピール。商品のマイナス点もすべて表示→大きな信頼を得て、不況でも売り上げを伸ばし続けている。
平本さんは、従来の経営とは全く異なる考え方で飛躍的に売り上げを伸ばしたわけを説明。ノルマなし、社内留保はせず、儲けは全部社員に給与として出す、上下関係を廃し、全員が自立・自律している。だから、社員はみなニコニコ、生き生き、和気あいあい、ボーナスは500万円を超える人が幾人もいる。

なんだか夢のような話ですが、誰か特定の人だけが得するやりかたを元から廃し、人間の本来もっているエネルギーを歪めずに出せるようにすれば、従来の常識は覆るのです。日本の学校も会社もいまだに封建的な倫理に囚われ、固すぎるのです。

わたしは、20年前以上前に、佐野力さん(当時・「日本IBM」営業部長、1990年より「日本オラクル」初代社長、2001年に退職)にそのことを繰り返し話しましたが、彼は、そのわたしの思想を「日本オラクル」の経営に活かし、大胆に実践した結果、大成功を収めたのでした。

日本の会社がもっと大きな視野をもち、従来の常識に囚われず、経営者のためではなく、従業員と顧客のための経営にシフトすれば(それが会社の所有者である株主の得になる)、日本をエロース溢れる社会に変えることが可能です。
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コメント

Unknown (青木里佳)
2009-12-24 21:23:22

タケセンの哲学で大成功した佐野力さんは、より良い社会を作るために、タケセンや良い志を持つ人達に投資したらいいのにな、私は詳しいことは知りませんが、そんなことを考えてしまいました。



コメント (1)
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新憲法と天皇制(小沢一郎さんの発言を受けて考える)

2009-12-22 | 社会思想

太平洋戦争が敗戦により終結するまでは、わが国は天皇が主権者であり、国家宗教上の最高権威者(現人神・あらひとがみ)であり、軍隊の統帥権者(したがって日本軍は皇軍と呼ばれた)であったわけです。

宗教、政治、軍事のすべての領域で、皇室のトップである天皇が、国体の中心者でした。それを規定したのが、天皇から臣民に与えられた「大日本帝国憲法」(欽定憲法)です。このことは、義務教育でみなが習う歴史的事実です。

敗戦後は、GHQ(連合国総司令部)による民主化が行われましたが、それがスムースに実現された一番の理由は、明治政府がつくった上記の「近代天皇制」(天皇現人神の「靖国思想」と、それを支える「天皇の官吏としての官僚」と、その官僚主義を正当化する「東大法学部の権威」による支配)の下で、抑圧されながらも民主化のために粘り強く闘い、努力した明治初頭以来の日本人の「民」の伝統にあります。

新憲法の制定においても、その最大の功績は民=素人の力であったことは、現代史の研究により明らかにされています。それは、色川大吉さんを中心とした民衆史や、下のブログで紹介した古関彰一さんの『新憲法の誕生』などを学べば、よく理解できるでしょう。

新憲法(日本国憲法)の下では、天皇は儀礼を司るのみであり、一切の政治権力を持ちません。形式上は、『日本国憲法』は、欽定憲法である『大日本帝国憲法』の改定ではありますが、その内実は、天皇主権から国民主権への大転換にあり、まさに新憲法=民定憲法であるのです。

ところが、「宮内庁」という役所は、戦前の天皇像(世俗的権力の保持者でありながら聖なる存在であった)に縛られ、主権者は国民であることの認識が極めて曖昧です。まるで天皇の名で語ればなんでも通ると思っているかのようです。「象徴」という地位は、国民の総意に基づいてのみ与えられているに過ぎず、天皇や皇室をどのようなものにするかは国民の「一般意思」にある、これが新憲法の規定であり、すでに一般常識となっています。天皇といえども、主権在民に基づく新憲法の枠内の存在でしかない、という歴然たる事実を「宮内庁」は明晰に意識しなければなりません。

小沢一郎さんの見解は、【天皇の行為については内閣がその責任を負う】という極めて正当なものであり、この点では議論の余地はありません。

ただし、それ以上の話になると、いろいろ考えなくてはならないことがたくさんあります。いままでタブー視されてきた「天皇制」の問題は、みなでオープンに話し合わなくてはいけませんが、その機運をつくったという意味でも、小沢さんの功績は極めて大きいと言えます。

わたしは、以前『皇族の人権と市民精神の涵養』を書きましたが、素描にすぎませんので、天皇や皇室のありようを「人権及び民主主義の問題」として更に考え・対話していかなくては、と思います。


武田康弘


コメント
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自然=女性原理への転換

2009-12-19 | 恋知(哲学)

「歩く」「自転車」に代表されるように、人力エネルギーでそれを楽しみつつ、というのがスロー生活ですが、早い!便利!に慣れていると、なかなか実行が大変。でも、非能率・非効率と思われていることの中に「よさ」を再発見するのは楽しいです。自分の身体をうまく使うことは、なによりの悦びですから。

「目標一直線」!!といってもその目標、達成したらどうなるの~?ということが多いように思えます。「男性原理」でずんずん突き進み、最後は地球環悪化でおしまい!では、笑えない笑い話。

波のように何度も繰り返し、発展といえども、らせん状に円弧を描く、そんな自然原理=女性原理が大事、と思いますが、近頃の女性は、女性でも男性原理で生きる人も多いようです。

自然=女性原理の土台の上に立って、男性性、女性性のよさ=エロースを花咲かせる。そのように文明転換をはかることが、人間が内的充実の生を営む条件ですし、地球環境との調和を生む条件でもある、わたしは、そう思ってきましたが、なんでも勝ち負けの「競争主義」(=女も男も「男性原理」に支配される)は根深いようです。


武田康弘
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コメント

Unknown (青木里佳)
2009-12-22 19:45:56

正直に申しますと今の職場がそれを象徴しているかのようです。
他のお店に負けない、不況でも売り上げを伸ばしてトップへと立とうと努力する毎日です。
私は冷静に一歩引いてその状況を見てはつくづく、「競争社会・男性原理」の塊だなぁと思いながら仕事をしつつ、同時に居心地の悪さも感じています。
売り上げが会社・組織への貢献と自分への給与や評価へとつながる仕組みはよくわかりますし、生活していくうえでやらないといけないのもわかります。
ですが「売り上げを!!」「トップへ!!」とガツガツした姿と余裕の無さを見るとゲンナリしてしまいます。
競争主義である男性原理から女性原理へと変えていくにはどうしたらいいのか?と考える日々です。
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従業員&顧客のための経営にシフト! (武田康弘=タケセン)
2009-12-23 19:49:26

青木りかさん
コメントありがとう。
お返事を今日(23日)のブログしましたので、見て下さい。




コメント (2)
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『新憲法の誕生』 古関彰一(こせきしょういち)著 中公文庫

2009-12-18 | 書評

『新憲法の誕生』は、1989年に出され、その年の吉野作造賞を受賞した名著です。
著者は、NHKの大変見応えのある教育番組『民間人7人による焼跡の憲法草案』(2007年)で解説者を務めた古関彰一さん(獨協大学教授)です。
古い本ですし、学術的なものですが、序文に正鵠を射る感動的な叙述がありますので、写します。

「・・・戦争と圧政から解放された民衆が、憲法をよろこび、歌い、踊り、山あいの山村青年が憲法の学習会を催し、自からも懸賞論文に応募する姿は、近代日本の歴史において、この時を除いて見られない。そればかりではない。制定過程の中でたしかに官僚の役割は無視できないが、つねに重要な役割をはたしてきたのは、官職にない民間人、専門家でない素人であった。日本憲法が今日においてなおその現代的意義を失わない淵源は、素人のはたした役割が極めて大きい(戦争の放棄条項を除いて)。当時の国会議員も憲法学者もその役割において、これら少数の素人の力にはるかに及ばない。GHQ案に影響を及ぼす草案を起草したのも、国民主権を明記したのも、普通教育の義務教育化を盛り込んだのも、そして全文を口語化したのも、すべて素人の力であった。
かつて米国憲法150周年(1937年)にあたり、ローズベルト大統領は「米国憲法は素人の文書であり、法律家のそれではない」と」述べたが、近代国家の憲法とはそもそもそういう性格を持っている。
古来、日本において「法」とは「お上」と専門家の専有物であった。その意味からすれば、やはり日本国憲法は小なりとはいえども「新しい」地平を切り拓いたのである。こう考えてみると、そこに冠せられる名は、老いてもなお「新憲法」がふさわしい。」(15-16ページ・「序 新たな視座を求めて」の末尾)

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95年の文庫版では、「あとがき」で、

1946年2月に読売新聞に昭和天皇が戦争責任をとって退位する意向が発表されたことを受けて、マッカーサーはそれを阻止するために、急いで天皇に「勅語」(政府に対して、平和・民主主義・人権尊重を内容とする新憲法をつくるように命ずる)を出させた事実をあげています。

GHQが憲法の制定を急いだ理由を、極東委員会が設置されることになった為だけではなく、マッカーサーが、天皇制反対の世界の空気を阻止するためであったことが明らかにされています。連合国が求めた天皇の戦争責任を免責し、天皇の地位を確立する必要から民主的な新憲法の制定を急いだというわけです。

また、宮内庁という役所の異常性についても指摘しています。「天皇の地位はこの憲法によって明治憲法上のそれとは根本的に変化したのであったが、宮内庁を中心とした統治機構内部において、皇室の儀式や慣行は旧来のまま行われ、・・」と、天皇現人神の戦前と変わらない官僚機構の代表が「宮内庁」であることが記されています。


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なぜ、宮内庁はすべてを取り仕切れるのか。天皇の意思は?

2009-12-15 | 社会思想

天皇というひとりの人間の意思を、宮内庁という一つの役所がすべて代弁するという現在のシステムは、明らかに主権在民に基づく人権・民主主義の『日本国憲法』に反します。

天皇・皇室に関することは、なにがほんとうか?がまったく国民には分からず、ただ宮内庁の官僚が発表する公的言辞でしか知ることができません。

これは、異常な事態です。「国民主権」を定めた憲法第1条には、天皇の地位は、「主権の存する日本国民の総意に基づく」と明記されているにも関わらず、主権者である国民は、天皇・皇室について直接知ることができず、宮内庁という役所の発表を聞くのみというのでは、戦前の天皇制と同じであり、明らかに違憲です。

小沢一郎さんの言うとおり、役人が、国民の意思を体現する内閣総理大臣の言を否定するのなら、民主主義ではなく「主権在官」の官僚支配でしかありません。

憲法第3条は、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」となっています。いうまでもなく、宮内庁の役人は、内閣の決定に基づいて仕事をするのみであり、宮内庁が独自の意思をもつことはできないのです。

宮内庁の思想や秘密主義には、以前から多くの批判がありましたが、今回、小沢一郎さんが民主主義と憲法の問題として明確に官僚を批判したことは、極めて大きな価値を持ちます。天皇制のありようを具体的なレベルで考えるキッカケになります。とてもよいことです。


宮内庁の問題については、わたしの知人のKさんもブログに以下のように書いています。
一部を貼り付けます。

宮内庁長官は次官経験者がなるのだが、日本で最も奇怪な人間の一人である。
雅子さんがやっと愛子ちゃんを生んだ時、当時の長官がこう言った。
「これでは国民が納得しないだろう。秋篠宮家に第三子を期待したい」。
普通、そういうことを言うか?

天皇が忙しくて体調を崩すのは、どうでもいい公務が多過ぎるからだ。
植樹祭にしろ国体にしろ、別に天皇が行く必要はない。
そもそも、そういう行事自体果たして必要なのかどうか。

だが最大の問題は宮中祭祀である。
聞くところによると、反日・・・じゃなかった、半日祈り続けることもあるらしい。
しかものその間中、宮内庁楽部の人が背後で演奏をしているのだという。
天皇も演奏者もふらふらになるそうだ。

そんな、国民の誰も望んでいないことを続けることに意味があるのか。
だいたい宮中祭祀とは何なのか。
そういう議論すらできないのである。

それにしても、宮内庁の縮小がなぜ論議されないのか。
皇族の世話をするだけのために、どうしてあれほどの組織が必要なのか。
しかしここは聖域らしく、一度もメスを入れられたことはない。
この問題で、宮内庁自体が抱える問題がクローズアップされるといいのだが。
(K)
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2 コメント

思考停止状態 (古林 治)
2009-12-16 10:42:27

私も宮内庁の実態を開き、議論すべきとても良い機会と思ったのですが、なんとどのメディアも柔らかな小沢批判。
問題の本質がまったく見えないまま世の空気に迎合する有様。
憲法と民主制にもろにかかわる問題なのに、天皇に関係するとここまで思考停止状態に陥るのですね。
ショック!!
まともな議論を心から望みます。
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治外法権ではないはず (武田康弘=タケセン)
2009-12-16 18:34:51

古林さん
まったくその通りですよね。
宮内庁とは、治外法権の役所ではないはずです。
オープンな議論・本質的な議論を活発にする必要があります。
天皇・皇室のありよう、皇族の人権等について主権者が話し合い、公論を形成していくことが求められますね。



コメント (2)
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哲学・思想の限定性をよく自覚することが、よい思考(=能動的な主観性の知)を生む条件

2009-12-13 | 恋知(哲学)

すべてに通用するような見方=思想はない。そういうものは、かつて存在しなかったし、これからも存在しない、これは、ふつうの人は誰でも分かっている「真実」です。宗教的な「絶対真理」という概念にとりつかれた人でないならば。

状況、時代や人の違いを超えてすべてに妥当する見方=思想はないのですから、誰であれ、考えるべきことは、いまの自分や社会にとって、どのような考えが大切か?ということです。

思想の役目は、いま欠けているもの(こと)は何か?を見極め、それを補うような考えをしっかり示すことであり、同時にまた、積極的によきものを生むための考えを提示することです。それ以上でも以下でもありません。

ところが、思想や哲学を専門にしている人やそのファンには、状況、時代や人の違いを超えてすべてにあてはまる考えがあるかのように思い込んでいる人が少なからずいるので困ります。

いまの社会に必要な原理的な考えはありますし、それを明晰に示すことは必要です。しかし、それは、極めて基本的・一般的なことを言うに留まります。具体的な問題への思考は、それをどうするかという「能動性」と、どうしたいかという「思い・想い」を外しては成立しないのです。

これをよく自覚しないと、学問主義・主知主義へ陥り、知らぬ間に自分が「神」となり、上空飛翔的な思考の中で、言葉だけの現実世界でいい気になる根元バカになってしまいます。これは、わたしを含め、思想や哲学に関わる者が一番心しなければならぬことです。

私の願いは、哲学(=ものごとを大元に戻して考え、その意味と価値を問う営み)を日常言語(一次言語)で語り合うような世界をつくることです。そうすることで、皆の生の中身が豊かになり、内面世界が広く深くなるからです。それはエロースの生そのものです。また日常言語で考え・語る習慣を多くの人がもつことは、理論言語(二次言語)の世界に生きる人が偉いというおかしな妄想(=不健全)を元から断つことにもなります。

『具体的な問題への思考は、それをどうするかという「能動性」と、どうしたいかという「思い・想い」を外しては成立しないのです。』
ということがしっかり自覚できれば、権威者に頼っても意味がなく、自分自身の考える力を養う以外に道はないという深い了解がやってくるはずです。「能動性」も「思い・想い」もみな主観性の知・力であり、客観知ではありません。


武田康弘
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2 コメント

みんな必見!! (hiromin)
2009-12-13 23:06:04

このブログは 哲学するってなんだろうということ(根本)があらためてとても分かりやすく書かれていている。みんな必見だゾ!!
学者など有識者(もちろんふつうの人も)が陥りやすい罠をズバリと指摘しているし 、うむむ、、さすがすごいー!!
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心身全体で能動的に生きる (武田康弘=タケセン)
2009-12-16 18:15:10

hirominさん
お褒め頂き、感謝です。
書物・活字の罠とも言えますが、現実が活字に中の現実となり、言語で整理することが一番のエロースになり、しかもそれが「偉い」と思い込むようになる。なんとも愚かな話です。
わたしは、心身全体を使って能動的に生きることを心がけています。共に!!




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内田さんからのメール(田中王道・石橋湛山、イデア論)と武田の応え

2009-12-12 | 恋知(哲学)
以下は、内田さんとわたしとの個人メールですが、大事な思想問題ですので、公開します。
ご意見・ご感想をご自由にコメントしてください。

――――――――――――――――――――

内田です。

武田先生、

・・・・・・・
哲学を専門知や技術知と考えているとしたら困ったことで、哲学を特権化したら大学で学ぶだけの学問となり一層現代社会から取り残されるでしょう。

そこで武田先生の意義は重大となります。『君たちはどう生きるか』のようなものは少数派です。純粋学問としての哲学は必要です。ただし一般の人々(市民)には、武田実践哲学の方が実生活の体験から成り立っており、より具体的かつ現実的に納得がいくのです。

あまりにも前者のような哲学が主流だったということでしょう。明治・大正期より日本では、田中王堂のような『書斎から街頭へ』というような哲学者は異端であり非主流でした。
王堂の弟子で私が勉強している石橋湛山の言葉を参考に記します。正に石橋湛山は、主観性の哲学を主張した人でした。

石橋湛山評論集(岩波文庫)より「哲学的日本を建設すべし」から引用抜粋 

けだし吾輩が今あげたる我が国の或る人の訴訟問題というものの根底に横たわれる思想はいかなるものであるかというに、浅薄弱小なる打算主義である。吾輩は敢えてこれを「浅薄弱小なる」という。何となれば、たとえ打算主義であっても、それがもし深刻強大なる打算主義であるならば、そは決してかくの如き泣き寝入りというが如きことに終わるべからざるものであるからである・・・中略

しからば吾輩の認めて以て我が国現代の通弊となす処のものは何か。曰く、今述べたる利己につけても利他につけてもその他何事につけても、「浅薄弱小」ということである。
換言すれば「我」というものを忘れて居ることである。確信のないことである。迫力の足りないことである。右顧左眄することである。

例えばこれを我が外交に見よ。我が外交家は口を開けば常に言う、我に誠意ありと。しかしながら彼らのいういわゆる誠意とはそもそもいかなるものであるか。吾輩はそこに諸外国に対する気兼気苦労よりほかに何者をも認めることはできない。

また例えばこれを我が政党政治家に見よ。彼らは口を開ければ即ち言う、我ら虚心坦懐ただ国政を思うのみと。しかしながら彼らの言ういわゆる虚心坦懐とはそもそもいかなるものであるか。吾輩はそこにただ御都合主義と馴れ合いと無定見とのほかに何者をも認めることは出来ない・・・

しかし、これを要するに、彼らは皆善人であるのである。義人であるのである。善人であるが、ただ不幸にして彼らの自己なるものが浅薄弱小であるのである。その自己が浅薄弱小であるがゆえに、彼らは他に気兼気苦労し、馴れ合いに事を遂げんとし、意気地なき繰言を繰り返しておるのである。而して断々乎として自己を主張し、自己の権利を権利として要求することが出来ないのである。

しかしながらここに問題となってくることは、しからば我が現代の人心は何故にかくのごとく浅薄弱小、確信なく、力なきに至ったかということである。吾輩はこれに対して直ちにこう答える。
曰く、哲学がないからである。言い換えれば自己の立場についての徹底せる智見が彼らに欠けておるが故であると。

例えばこれを吾輩が前に挙げた外交家の例に取ってみよ。彼らには日本の立場がわからないのである。日本の現在および将来の運命を決する第一義はどこにあるか。徹底した目安がついておらないのである。徹底した目安がない。だから彼らはやむを得ず、その時々の日和を見、その時々の他人の顔色を窺がって、行動するより他に道はないのである・・・

けだし徹底せる智見は力である。徹底せる智見なきが故に、主張すべき自己がわからず、主張すべき自己がわからぬ故に、即ちその我は弱小浅薄非力無確信となるのである・・・
――――――――――――――――――――――――――――――――

内田さん
叮嚀なメール、感謝です。


「田中王堂の弟子で私が勉強している石橋湛山は、主観性の哲学を主張した人でした。」 (内田)

ここで言われている「我」や「自己の立場についての徹底せる智見」とは、わたしの言い方では、「私」という力のことですね。
わたしの、「私」の三元論(①個人領域②公共人領域③組織人領域→立体的に「私」の世界を意識することで、わたしの世界に複眼的なエロースと広がりをうむ)と重なると思います。


次にイデアについてですが、
イデア(誰であれ必ず「価値意識と共に世界を見る」という人間の本質から必然となる理念世界)とは、人間であることの証=原事実ですが、そのことを明晰に意識するのが人間として生きる(=自覚的な生)ための基本条件だ、というのが武田のイデア論です。

武田
―――――――――――――――――――――――――――――

武田先生

こちらこそお礼申し上げます。いつもご多忙なところご返信
忝く思っております。

②について
 大変納得のいくご説明です。
 大学の恩師と今華厳哲学を勉強しています。華厳では、現実の世界(価値意識も含む)を「事法界」と言い、理念・本質の世界を「理法界」と言います。イデアに当たるのが「理法界」です。そして「理事無碍法界」を通り「事事無碍法界」へ至ると言います。
 事事無碍法界とは、現実世界を解体した後(跡)の理念・本質世界を通り抜けてまた現実の価値意識を含む世界へ戻ってきた世界を言います。イデアの世界を自覚した後(跡)の現実世界は、素朴実在論的な最初の現実とは異なった見方で現実の世界を自覚的に生きるのです。
 東洋の哲人は、現実世界で生きるとはイデアの世界を明晰に意識し上での経験なのです。
 
 先生のイデア論大変参考になりました。プラトンも華厳も、実践哲学ですので大変共通しているようです。

①について
 ありがたいご意見です。
 そもそも私の世界を(立体的に)意識すること無しに他者の世界を意識することは出来ません。
 私の中には様々な領域があると思いますが、石橋さんが言っている「我」「自己の立場についての徹底的せる智見」という力がないと、確信の無い、迫力の足りない「弱わっちい人間」が出来てしまうでしょう。(典型的東大病人)
 主観的な知とは、認識・行為・評価などを行う意識をもつ人間存在の中心である我(主観)を徹底的な智見でもって深く、強く、鍛え耕す思考であり、また行為であるはずと思います。
 その行為に重きを置けば、主体的な知とも言えるでしょう。
 国家にも言えます。自国の立場に対する徹底的智見のないところで、他国と議論してもコミニケーションは成立せず、交渉不成立、結局迫力負けした挙句のはてに軽蔑されることになりかねません。(沖縄の基地問題等)
 私は、先生の「私」という力と石橋さんの「我」「自己の立場についての徹底的智見」が大変近い思想と確信しました。その前提があってこそ、他者や他国との交わりが成立し、相互信頼や相互理解・相互尊敬が得られるでしょう。
 
 話しは変わりますが、柳宗悦さんと石橋さんの思想は、ジェイムズのプラグマティズムを通じて大変近い立場と思います。柳さんと石橋さんの交流はほとんど無いと思いますが、石橋さんは白樺思想に近い思想家で公共哲学にも大切な思想家(活私開公の思想家)と見ています。

 そのような文脈で石橋さんの思想を白樺周辺の思想に位置づけ、今後の私の勉強課題にしたいと思っています。(数年のうちには大学の哲学会で報告したいと思っていますので先生にも恐縮ですがご相談出来れば幸いです)
 

 師走真っ只中で先生もご多忙とおもいます。お元気で。また連絡します。


 内田卓志

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ルソー再読のすすめ

2009-12-08 | 恋知(哲学)

以下は、公共哲学ml内のメールですが、思想的に重要なものと思うので、ブログにします。


山脇さん、みなさん


わたしは、思想の大元の次元(原理次元)において、公共(市民の共同意思)と異なる公(公共とは異なる官の意思)の存在を認めると、論者の意に反して、官僚とその組織の非ないし反「民主性」を批判する論拠が弱まり、妥協的なものにならざるをえない、と考えているわけです。

原理次元ではなく、その上にあるイデオロギー次元においては、「公共哲学」の山脇さん・小林さん・金さんらとわたしの主張は近いのですが、原理次元における違いは、具体的な課題への対処において大きな齟齬を生むことを長年の経験でつかんでいますので、繰り返し問題にしているわけです。なぜ、三元論でなければならぬのか?それを前提にするならば、われわれの対話は大変難しくなってしまいます。民主主義(主権在民)の徹底化という原理を置くならば、みなが対話できるはずですが、ニ元論、三元論、という対立軸を導入すれば、神学論争にしかならないでしょう。

市民団体の運動も(わたし自身それに深く関わり、さまざまな成果をあげてきました)、公共とは異なる官という世界があるとすると、極めて弱い、従来の左翼運動と同じようなものしか生まず、非生産的なのです。そうではなく、民は、公共性の質を官と競い、官の内容を上回る公共性を示すことが必要なのです。官との共同も、官が主ではなく、民であるわたしたちが主であることをその内容の豊かさによって示し、民を主体にして官がそれをサポートするという形に持ち込まなければダメだと考え、それを実行してきたわけです。

官が民のコントロール下に置かれるのは「主権在民」の原理から当然の話ですから、官僚は一般市民のサービスマンなのだという自覚をしっかりもち、その立場から(それ以外の立場はない)「サービスマンとしての仕事」に誇りを持って取り組むことが求められるのです。

以上は、原理次元の話ですが、ルソーの「社会契約」や「一般意思」もわたしの思想とほぼ同じものでしょう。どうもこの「一般意思」に対する偏見をもつ学者が多く(竹内芳郎さんや竹田青嗣さんはきちんと捉えています)、困ったものだと思いますが、みなさん、ぜひ、『社会契約論』を初稿(ジュネーブ草稿)も含めてゆっくり時間をかけ、文脈にそって再度読んでみてください。なお、いうまでもありませんが、ルソーは文学者ですから、レトリックが多用されていますので要注意です。

少なくとも民主主義を成立させる社会原理としては、わたしは【公論の形成ーそのために絶対に必要な義務教育における自由対話と自治の練習ー】以上のものはないと考えていますが、ルソーの人民主権論に基づく社会契約(約束)ー契約といっても経験レベルでの契約ではなく、それを成立させる基本条件となる契約ーしたがって【原契約】と呼ぶべきもの)と、「一般意思」の思想は、近代民主主義にとって最重要である、そうわたしは確信しています。
現実次元において、公論(一般意思)の形成をどのようにして担保するか?という課題はまた別に論じなければならぬことで、両者を混同させて語ってはなりません。


武田康弘
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政治は「一歩前進、半歩後退」です。

2009-12-08 | 社会批評

政治は、宗教ではないし、主義であっては困ります。

政治は、真理の探究ではないし、そうであっては困ります。

政治は、原理を踏まえつつ、プラグマティックでなければ困ります。

一歩前進して、半歩下がって、がよいのです。

ほどほど、ふつうが大事です。

みなの判断で、よりよい、を探りつつ進むのです。

民主主義の原理につき、個々の問題への対処は、思考錯誤で一歩ずつがよいのです。失敗は成功の元。

政治家も市民も、あせらず、じっくり構えて、改革を進めたいものです。

キャリア官僚依存の旧い政治に戻れば、希望は元から消えてしまいます。

ヒステリー・極端・厳禁の精神・固まじめは、最悪の結果を招きます。


武田康弘

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ブラームス交響曲全集 ラトル・ベルリンフィルのライブー21世紀のルネサンス

2009-12-02 | 趣味

わたしは、ブラームスの交響曲全曲を昔からいろいろ聴き、CDもかなりの数を持っています。

クレンペラー・フィルハーモニーの超絶的な力に満ちた巨大な音楽。
ベーム・ウィーンフィルの緻密な職人芸による演奏。
バーンスタイン・ウィーフィルの艶やかなパトス。
バルビローリ・ウィーンフィルのイギリス紳士的ロマンの自己主張。
ヴァント・北ドイツ放送交響楽団のストイック・求道的な音楽。

全集ではありませんが、誕生時のパリ管弦楽団を指揮したミンシュの1番は、ふくよかで大きく、明るく輝かしい音楽です。また、ウィーンフィルを思い通りにコントロールしたクライバーの4番は、峻立するカンタービレとでも言いたい意志的な演奏です。 

先ごろ発売された新録音であるラトル・ベルリンフィルの演奏(ライブ)は、とても分かりやすく、かつ聴き応えがあります。音は力強く、美しく、生理的な快感を覚えます。思い切りとリズムがよく、輝かしい音楽です。

この演奏が嫌いという人は、よほどの渋好みでない限りいないでしょう。21世紀の新しいブラームスです。

20世紀の最後に録音され、高い評価を受けたヴァント・北ドイツ放送交響楽団の演奏と比較すると、その特徴がよく見えます。テキパキと前進し、「楽譜の客観」を追い詰めるストイックなヴァントの演奏は、正解を求め、「あるべき」世界を求めた20世紀を映しているかのようです。

ラトルの演奏は、それとは全く異なり、内から深々と湧き上がる豊饒な主観性の音楽です。世界一の合奏技術をもつドイツのベルリンフィルからこのような「ロマン」溢れる音楽が奏でられるのは、面白く、21世紀が人間性=主観性の肯定と回復の時代となる先駆けのように聞こえます。

「あるべき」という世紀から、「ありのまま」の人間が賛美される新たなルネサンスの世紀へ、そんなことを思わせる音楽です。
ところで、「ブラームスはお好き」ですか。


武田康弘
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芸術の中に現れる大きな転換 (古林 治)
2009-12-03 15:12:34

先日、タケセン宅で私も二人の指揮者によるブラームスを聞かせてもらいました。端的に言えば、ヴァント・北ドイツ放送交響楽団の演奏はおそろしく精緻で硬質、片やラトル・ベルリンフィルの演奏は人間性にあふれる温かみのある演奏でした。同じ楽譜を元にドイツ人が演奏した曲とは思えないほどの違いに少々驚きました。どちらも素晴らしいのでしょうが、私には後者(ラトル指揮)の方が魅力的に思えました。(ラトルはイギリス人だそうです。)
なるほど、客観知から主観性の知へ、という大きな転換が芸術の中にも、いや芸術の中にこそ現れるヨーロッパの先進性に改めて驚かされた、というわけです。
この国の現状を見ると、ちょっぴり哀しく悔しい気もしますね。

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主観性の花咲くときへ (武田康弘=タケセン)
2009-12-04 00:18:47

古林さん、
よい感想をありがとうございます。

21世紀は、主観性の花咲く時代・個々人のロマンに依拠する時代になるとわたしは見ていますが、ラトルのブラームスは、その宣言でもあるかのような豊かな音楽です。

内面から湧き上がる音楽は、カラヤンに代表された20世紀の外面の美とは対極にあります。聴けば聴くほど心身の深い満足が得られる演奏です。
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ブラームス、よいですね (utida)
2009-12-11 11:22:48

ブラームス、よいですね。私もいろいろ聞きましたが、
名盤がいっぱいありますね。先生の言及していないところでは、
ワルターの4番とかベームでベルリンフィルの一番やNHKライブ
の一番とか・・・・個人的には2番も好きです。
少し前にチェルビダッケの4番を買いました。
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ビートルズみたい!?かな (武田康弘=タケセン)
2009-12-11 12:54:38

utidaさん

どうもベームは脂が足りないな~(笑)、昔は繰り返し聴いた名演ですが、いま聴くとどうにも面白くないのです。ごめんなさい。

チェリビダッケは、ミュンヘンフィルとの全集を持っています。細部まで恐ろしくていねいで見事な演奏ですが、立派な「宗教儀式」に臨んでいるかのような感じで、わたしには、少しも楽しくないのです。

ラトルの新録音は、
従来、寄木細工的な、と言われたブラームスとは異なり、有機的な一体感の強い、パワフルでエモーショナルなブラームスですので、渋さ・古典性を求めるブラームス好きからすると、「青い」、とか、もしかすると、「ビートルズみたいだ」、とでも言われそう!(笑)。でも、聴くと、全身にエネルギーが漲り、うれしくなる演奏です。
この輝かしく、若々しく、まったく受動的ではない能動の最たるブラームスは、理窟抜きに気持ちよく、過去の名演を忘れさせます。騙されたと思ってぜひ聴いてみて下さい。お気に召さなくてもお代は返せませんが~(笑)。


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ビラを入れたら逮捕!?!?警察・検察・最高裁の判断は妥当か

2009-12-01 | 社会批評
以下は、昨日の「東京新聞」夕刊の見出しです。

「最高裁は現実見ていない」被告の僧侶、判決を批判 

(最高裁が)行き過ぎた立件を追認



葛飾区の市議による議会報告のチラシをマンションのポストに入れたということで、2004年12月、地元の僧侶が逮捕されるという、なんとも不可解な事件が起きました。僧侶の荒川さんは、春と夏の年2回、共産党市議の議会報告のチラシを配っていましたが、玄関ホール掲示版に「敷地内に入り、パンフレットの投函、物品の販売などを行うことは厳禁です。」という張り紙のあるマンションのポストにチラシを入れたため、住居侵入で逮捕されたのです。

ところが、ふつうの常識をもつ社会人なら誰もが耳を疑うこの逮捕を検察が立件し、最高裁もそれを追認する判決を出したのです。驚くというか呆れるというか、言葉を失います。被害届も出されていない穏やかな市民の活動を、警察が取り締まり、逮捕し、それを検察が立件し、最高裁判所がそれに従って判決を下す、というのは、民主主義国家の自己否定でしかなく、「官は市民的公共を実現するためにのみ存在する」という原理・原則に反し、「官が決めたことに市民が従う」、という逆立ちした話にしかなりません。


21世紀の日本では、「敷地内に入り、パンフレットの投函、物品の販売などを行うことは厳禁です。」というマンションのポストには、ピザ屋などのお店案内のチラシも、市民映画祭などの催し物案内のチラシも、入れたら、逮捕、そして有罪確定、ということになったわけです。「官」(警察・検察・最高裁)が市民活動を取り締まる国でよいと思う人は、極めて少数だとわたしは思いますが、みなさん、どう思われますか?

民主主義という思想をしっかり学び、それを実践する人を育てないと、わが国の未来は開けません。委縮する市民、有無を言わせぬ官、これでは「管理主義のおぞましい近未来」の映画を見るようです。


武田康弘
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以下は、コメント欄です。

まったく同感!ひどすぎる (きくちゆみ)
2009-12-01 17:55:28

前にも同様の事件がありましたが、商業的なものは放置され、少しでも政治的(とくに共産党関連など)だと逮捕される、という信じがたいことがまかりとおっています。これにだまっていることは、このような社会を認めることになり、民主主義を自ら瓦解させていることになります。このようなブログなどで発信したり、新聞に投稿したり、地元の政治家に訴えたり、いろいろやりましょう。どうもありがとうございます。

私は今、米国の建築家で「911の崩壊は制御解体だった」と主張しているグループの代表を招聘して、12月4日から横浜、東京など7カ所で講演会をします。どこかでお会いできたらうれしいです。
http://911.globalpeace.jp/
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あきれかえる! (山脇直司)
2009-12-01 21:22:08

武田さんの意見にまったく同感です。最高裁判所長官を政府が「お上のような形で」一方的に任命するという現状からして、司法の独立を疑わせるに十分ですが、ここまでひどいとやり切れません。最高裁判所は、どうやら最低裁判所のようです。
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正邪を決めるのは何か? (古林 治)
2009-12-01 21:44:43

民主制社会において、法は私たち市民の意志の現れであり、それを支えるのは私たち市民の良識です。
その良識が住居侵入の罪と解釈するのでしょうか!? まさか!
警察、検察、裁判所に人々の良識をおもんぱかる姿勢が微塵もないことが良くわかります。彼らは、正邪を決めるのは自分たちであって、下々の人間ではないとでも思っているのでしょう。何という幼稚さ!何という傲慢不遜!何というおぞましさ!
これがエリート主義の成れの果て。こんなことを許してはなりません。
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歪んだ権威主義 (青木里佳)
2009-12-02 00:08:20

ひどいですね!
ここにも歪んだ権威主義がよく表れています。
権威・権力を持つと「自分達が偉いんだ。周りは自分達に従うべき。」という変な錯覚を持ってしまい、傲慢な態度になるのでしょうか。
わたしたちふつうの市民が厳しく批判すべきです。官の人は深く反省しないといけません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

官の「民主思想」の無知 (タケセン=武田康弘)
2009-12-02 01:30:24

みなさん、コメントありがとうございます。

もしも、きくちゆみさんの言うように、
政治思想を取り締まるのだとしたら、あってはならぬ警察権力による市民社会の支配です。それでは、暗黒社会に転落し、国が滅びます。

どうも、警察や検察は、ふつうの市民社会の常識から逸脱し、民主主義についての正しい認識をもっていないようです。政府は、官僚に対して、きちんとした民主教育をする義務を果たさなければいけません。

官は、民主制国家においては、ほんらい「市民的公共」(市民的自由に基づくシチズンシップ)実現のためにのみ働くのです。戦前のように「市民的公共」とは異なる「公(おおやけ)≒国家」のためという思想を持つことは、原理上許されない。それが主権在民から導かれる答えなのです。

最高裁判所も、最低裁判所と言われないように、民主主義という思想の意味と価値(=哲学)を身に付けなければ、存在理由がなくなります。このようなレベルの低い判決を出して恥ずかしくないのでしょうか。

この三者=警察官・検察官・裁判官のあまりの無知には呆れ果てます。猛省を促すと共に、「意味論としての知」を自分のものとする努力を求めます。まずは、己の無知を自覚しなさい。

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最高裁判決と三元論 (荒井達夫)
2009-12-02 23:36:32
 最高裁判決は、裁判所の判断で一番国民生活を左右する重要なものですから、国民の誰もが関心を持って、議論する必要があります。

 そこで、今回の最高裁判決に関する議論で大事なことは、「警察の存在意義の確認」であると思います。主権在民の民主主義国家を成り立たせるために、警察は必要不可欠の極めて重要な行政活動だからです。警察がしっかりしてくれなければ、誰も安心して暮らせません。「そもそも警察とは何のためにあり、どのような原則の下に行動すべきか。また、警察官の倫理はどうあるべきか。」が、問題の本質と言えるでしょう。この議論を、警察・検察・裁判所の方々を含め、国民の皆が、きちんとする必要があるのではないかと思います。その際、次の「警察法」第1章(総則)の規定が大変重要で、参考になります。


 (この法律の目的)
第1条 この法律は、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、民主的理念を基調とする警察の管理と運営を保障し、且つ、能率的にその任務を遂行するに足る警察の組織を定めることを目的とする。

 (警察の責務)
第2条 警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。
2 警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつて、その責務の遂行に当つては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法 の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない。

 (服務の宣誓の内容)
第3条 この法律により警察の職務を行うすべての職員は、日本国憲法 及び法律を擁護し、不偏不党且つ公平中正にその職務を遂行する旨の服務の宣誓を行うものとする。


 ここには、主権在民の日本国憲法に基づき、本来在るべき警察の姿が率直に書かれています。警察こそは、「全国民に共通する社会一般の利益」である「公共の利益」のために働いてもらわなくてはなりません。そのための基本原則が簡明に書かれているのです。

 なお、この問題は、「公・私・公共三元論」が有用であるかどうか、の議論にも直結しています。公(おおやけ)と公共を分けて、「官」は、公共ではなく、公(おおやけ)を目がけるのだ、と言ったら、主権在民に反し違憲と言うほかありません。

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「冤罪天国」の事実 (武田康弘=タケセン)
2009-12-03 10:12:33

荒井さん

その通りだと思います。
民主主義の国における警察の役割を、すべきこと、してはならぬこと、を明晰に自覚する(させる)ことが何よりも一番大事なことです。

ところが、わが国は、世界から「冤罪天国」とレッテルをはられるほど警察による人権侵害が頻繁に起きています。

経済大国ではあっても、警察が市民の自由を犯し、国連からも勧告を受ける国では、ひどく恥かしいことです。

警察の意向のままに立件する検察や、検察の結論通りの判決を下す裁判所であっては、民主主義国家としては失格です。

この歴然たる事実=現実をどう改善していくのか?その解決策が求められています。

何をどうしたらよいのでしょうか?

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ひどい話ですが、・・・ (平野慶次)
2009-12-05 10:21:26

武田さん

 警察と一言で言ってますが、普通に警察と思っているのと別に公安警察という治安維持警察があります。
 
 「公安」は、簡単に言えば思想統制・秩序維持を旨としています。長い付き合いの友人に警察に就職したのがいるのですが、京都府警の公安課に移りました。その途端にわたしに会いに来て、警告と共にわたしの書いた本を買って帰りました。「ピースフルな子どもたち」という本です。

 そして携帯の番号を教えてくれて何かあったら連絡を!でした。

 どうも京都では、他でもそうでしょうが、平和活動家は、ブラックリストに名を連ねているようです。

 どうぞご注意ください!

 誰もが逮捕される可能性がありますよ。

 銃刀法違反は、日常的に可能性が拡大されました。包丁を持っているだけで駄目です。どうやって包丁を買いに行けばよいのか?という声もありました。

 他にも色々逮捕の口実は作れます。

 昔の有名な手口は、オウムの時に久し振りに再現されましたが、「ころび公房」と言って、近くに接近して来て、こかされた真似をし、「暴力行為現認!現行犯逮捕!」とやるのです。

 しかし、最近の警察の鼻息の荒さには、腹が立ちます。

 裁判所は、ヘゲモニーの追認組織になり下がったというよりも、そもそもがそうだったのです。

 ではでは
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【わたしのまとめ】 (武田康弘)
2009-12-05 14:47:24

平野さん

なんとも酷い話ですね。
どうしてこういう事態が起きるのでしょうか?

わたしたち市民がお金を出し合って、警察官を雇い、警察署をつくっている、これは歴然たる事実です。

民主主義国家においては、市民の、市民のための、市民による警察でなければならない、「市民へのサービス」をすることが、ほんらい、警察官僚も現場のおまわりさんも等しくその仕事の本質です。

決して、市民の上に立つような言動をとったり、市民を威圧するようなことがあってはなりません。まして、思想を取り締まる、「平和運動家をブラックリストに載せる」!?ということは、絶対にしてはならぬこと、それをすれば警察法違反および公務員法違反により、厳しい処分の対象となるはずです。

いうまでもなく、「暴力行為」を行う人や団体(極左、極右、暴力団)を厳しく取り締まり、わたしたち市民の安全・権利を守るのが、警察の一番の使命です。

太平洋戦争敗戦までの警察は、中学校、高等学校の教科書にも明記されているように、市民の自由を抑圧し、小林多喜二のような文学者までも拷問で殺し、敗戦直後も「治安維持法」や特高が残っていて、著名な哲学者の三木清も獄死させました。多くの社会思想家・運動家・法律学者・宗教家・・・・が「治安維持法」という名の「自由取り締まり法」により、恐ろしい目にあったわけです。自由な市民は警察の監視の対象でした。白樺派の柳宗悦も。

このような、戦前の『大日本帝国憲法』における「公(おおやけ)=国家」という思想の下で、「市民的公共」を弾圧してきた警察のありようを、180度変えたのが、GHQによる日本の民主化だったわけです。

天皇主権から国民主権へと逆転した新憲法=『日本国憲法』の下で、国民サービスとしての警察が誕生することになりました。過去を反省・否定して、民主警察として新しい出発を果たしたのです。

それが、民主主義の理念に基づく、現在の『警察法』に記されています。荒井さんがコメント欄に書かれた通りです。

第1条 この法律は、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、民主的理念を基調とする警察の管理と運営を保障し、且つ、能率的にその任務を遂行するに足る警察の組織を定めることを目的とする。

この『警察法』の目的に従い、それを具現化するのがほんらいの警察の役割・仕事なのですから、この主権在民の民主主義理念を明晰に自覚し、「市民の市民による市民のための警察」となるように、日々、研鑽を積むことが求められるのです。これは原理です。

憲法改正により、「天皇の官吏」から「国民の奉仕者」に転換したはずの官は、そのことを深く自覚しなければ、市民から雇われて仕事をしている者としては、根源的な倫理違反になってしまいます。

主権者の集合意思により、ひとりひとりの市民の安全・人権を保障するために極めて大事な仕事を請け負っているのが警察なのですから、警察官のみなさん(現場の人も官僚も)は、それを肝に銘じなくてはなりません。国民全体への「サービスマン」としての誇りを持って。検察官も裁判官も同じです
----------------------------------------------

公共の哲学の議論を! (荒井達夫)
2009-12-06 09:59:05

それにしても、警察法の総則は良く出来ていると思います。小学校から授業で教えるべきではないかと思えるほど、素晴らしい内容です。


 (この法律の目的)
第1条 この法律は、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、民主的理念を基調とする警察の管理と運営を保障し、且つ、能率的にその任務を遂行するに足る警察の組織を定めることを目的とする。

 (警察の責務)
第2条 警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。
2 警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつて、その責務の遂行に当つては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない。

 (服務の宣誓の内容)
第3条 この法律により警察の職務を行うすべての職員は、日本国憲法及び法律を擁護し、不偏不党且つ公平中正にその職務を遂行する旨の服務の宣誓を行うものとする。


特に「日本国憲法及び法律を擁護し、不偏不党且つ公平中正にその職務を遂行する」は、「全体の奉仕者」(憲法第15条)である公務員の行動原理の中核を示すもので、これは警察官だけでなく、すべての公務員に共通して言えることだと思います。誰が聞いても、「本当にそうだよな」と納得できるのではないでしょうか。私は、これを公務員法に明確に規定すべきではないかと考えています。不思議なことに、現行法はそうなっていないのです。

主権在民の日本国憲法下、すべての公務員は、「全国民に共通する社会一般の利益」である「公共の利益」の実現だけを目指すべきであって、「公共の利益」と異なる「国家の利益」や「官独自の利益」の実現を図ってはならない。だから、「日本国憲法及び法律を擁護し、不偏不党且つ公平中正にその職務を遂行する」となるのだと考えます。

こうした「公共の哲学=みんなの哲学」に関する議論が、実務家、学者を含め、国民の間で広く活発に行われることを、強く願っています。
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法・理念の明晰な自覚化を (武田康弘=タケセン)
2009-12-07 16:54:12

荒井さん
見事な民主主義の理念のもとに「警察法」が出来ていますね。
まさに戦前の反省の上に立った法です。
これをどう現実のものにしていくのか。それが最大の問題ですが、まず第一には、この法の精神=理念の明晰な自覚化の営みが必要ですよね。






コメント (11)
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