思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

インターネットコオロギー触れ合いないと昆虫もキレる

2008-06-28 | 教育
哺乳類、とくに人間は、身体的な接触(スキンシップ)がないと情緒不安となり、心身に変調を起こしキレることはよく知られています。
栄養・睡眠・衛生等に十分に配慮しても、身体的接触がないと幼児の死亡率は異常に高まります。死に至らぬまでも、その心身へのダメージはとても大きなものとして残ります。

わたしは32年間こどもたちを見てきましたが、これは経験から深く納得できることです。
身体的な接触が少なく言葉優先で「躾」を受けてきた子どもは、情緒が安定せず神経質です。場や文脈を無視して「言葉」に異様に反応し、関係性を豊かにする中で生きるのではなく、【言葉がつくる自己観念】の中でその判断を絶対化して自他への攻撃性を発揮します。そうなるといかなる言葉も通じません。人は攻撃性をもつと理性は働かず、自己正当化・絶対化の言動を繰り返すか、逆に自己破壊的な心に支配されるようです。

わたしは長いこと、情報だけを与えられ直接の接触が断たれると攻撃性を強める=キレるのは人間など高等生物に特有のことだと思っていましたが、最近の研究では昆虫のコオロギも同じだそうです。もう9年前ですが、金沢工業大学の長尾隆司さんが「本能行動を調整するホルモンーコオロギの気分を探る」と題した研究成果を発表しました。

そこでは、透明ケース内に隔離し直接的な接触だけを断ち、視覚や聴覚などの情報はふんだんに与えて飼育したコオロギを「インターネットコオロギ」と名づけていますが、このコオロギを他のコオロギと接触させると、異常なまでの攻撃性を発揮し相手が死ぬまで攻撃をやめないとのことです。また一度戦いに負けるとなかなか立ち直れないそうです。興味深いのは、布で覆いをして視覚や聴覚などの情報も断つと、他のコオロギと接触させなくてもさしたる異常行動は示さず、情報をふんだんに与えた上で接触させないと、相手を殺すまでの激しい攻撃性をもつことです。

コオロギのような昆虫も何より「触れ合い」が大事なのですね。驚きです。
「インターネットコオロギ」は、強い攻撃性を持ち、また、落ち込むコオロギである。ウ~ムですね。


武田康弘
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対話のために

2008-06-24 | 恋知(哲学)
自己感情を絶対化する、あるいは特定のイデオロギーを先立てる、それではほんとうの対話は不可能でしょう。

あらかじめ決まった結論に導くための対話は、対話ではありませんから。

結論を隠し持って、そこに誘導するために言葉を紡ぐのでは、話せば話すほど不快になり、迷宮に入り、内容の前進は得られません。

厳しい他者を避け、自分を絶対化してくれる者、全的に肯定してくれる人間を求める人の心には救いがありません。それでは生きた対等な対話は成立せず、非生産的な閉じた円環の中で次第にしぼんでいくしかないでしょう。

なにかしらの自己の優位点をかざして他者を思い通りにしようするのでは、ほんとうの発展、進展は望めないと思います。裸になり・真正面から・正直に・逃げずに話すという基本姿勢を持とうとする努力なしには、対話は成立しないはずです。

人間の生産的な生、豊かなよろこびの生は、【裸の対話】が可能にするのではないでしょうか。計略、隠匿、騙しは、結局のところ不幸しか生まないはずです。人は騙せても自分は騙せないからです。もし自分まで騙せば、自己欺瞞の地獄です。

逃げずに、こころを開いて対話することは、人間問題の打開・進展のためにも、社会問題の解決・発展のためにも、必要不可欠な条件だと思います。

ただし、対話は、自分が上位者になって話そうとすれば対話ではなくなってしまいます。社会的地位や専門知の所持者である自分が上だ、という思いがあると、必ずそれは「絶対」を匂わすような話となり、白けるからです。下位者になって話そうとするのも同じことです。年齢、性別、社会的身分、専門知の有無・・・を問わず、対等な存在でなければ対話は成立しないでしょう。

互いを対等な人間として認め合うことではじめて、丁々発止の面白く生産的な対話が可能です。上意下達の古い日本文化は、対話的精神とは無縁です。「偉がり」の心や「感情絶対化」の心をどう克服するか?それが豊かな対話実現のための一番の課題だと思います。

まずは、親子、友人、恋人、夫婦という関係の中で、よき対話をする。うまく対話が進まないのを相手のせいにしてはいけませんよ~(笑)。


武田康弘
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公(おおやけ)と公共を分けるべき!?

2008-06-21 | 社会思想
主権在民の近代市民社会―民主制国家が成立する以前は、市民の公共とは別に国家の公(おおやけ)とでも呼ぶべき世界がありました。

日本でも明治の近代化では、まだ主権は天皇にあるとされ、市民的な公共は、天皇制国家の公とは別だと考えられていました。だから、国民の利益とは別に国家の利益がある、と言われたのです。国民は、国体=全体を構成する部分とされ、主権者である「天皇という公」の下に「市民的な公共」が位置づけられたわけです。

また、国家の主権を天皇から国民へと大転換した戦後の日本社会においても、この明治国家の公=お上という観念が残り、それが役人・官僚が偉いという逆立ちした想念となっています。公(おおやけ)と公共は別だ、という観念をひきずっているわけです。

だから、歴史的な考察や現状の分析としては、公と公共を区別するという公共哲学=シリーズ『公共哲学』(東大出版会)の主張は、まったく正当なものです。

しかし、それが「公と公共を分けるべきだ」とか「ほんらい公と公共は異なる世界である」という考えを、主権在民の市民社会の中でするとしたら、時代錯誤の意味不明な言説となってしまいます。

歴史的にどうであったか、あるいは現状がどうであるかというレベル・次元での話と、原理は何かという次元の話が一緒になれば、いたずらに混乱を招くだけで、百害あって一利なし、という結果になります。

理論は、それがどの次元での話なのか?を明瞭に意識しないと、すべてが平面に並んでしまい、無意味な衝突を起こします。立体的に見なければならない、これは基本原則です。

言わずもがなですが、公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた「官」(役人と官僚機構)は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた「官」は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的な公共を実現するためにのみ存在するーこれが原理です。

社会問題や公共性について、ほんとうに現実的に考え・語ろうとするならば、以上の簡明な原理を明晰に自覚することが何より先に求められるはずです。次元の混同に陥らないように注意しないと、平面的思考の中で無用な言葉を膨大に紡ぐ愚に陥ります。現状分析と原理の区分け=次元分けをし、迷宮に入り込まぬように注意したいものです。

公共性というみなが関わる世界の原理は、明瞭・簡潔で、ふつうの生活者が深く納得できるものでなければならない、これは原理中の原理です。


武田康弘
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いまこそ簡明な原理の自覚を。

2008-06-19 | 教育
教科の学習をしながら、心身の健康を育てていく。
競争による勉強ではなく、納得できる学習を進める。
それが、『白樺教育館―ソクラテス教室』の32年間続けている実践です。

意味をつかむ学習ー心身全体による会得は、こころの安定とよろこびを生み、同時に思考力を育てる基盤となります。
受験知=パターン認識は、納得をうまないために、心身を蝕んでいくのです。

いま、日本人みながこの簡明な原理を深く自覚することが何より必要だ、私はそう確信しています。


武田康弘
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競争原理から納得原理へ=YSさんとの対話

2008-06-16 | 恋知(哲学)

白樺の原理」を見て下さい(クリック)


遊びや楽しみとしての競争ならばよいのですが、そうではなく、
学習や仕事、生きること自体が「競争」としてある社会、
国家と文明の成立以降、「競争原理」」に支配されてきた人類史の転換をはかりたい、それが私の壮大な想いです。
競争を原理とする社会から、納得を原理とする社会へ。
そのために、まず、私自身が「納得(腑に落ちる)原理」で生きることを実践する。
それが恋知(哲学)の初心でもあるわけですから。

タケセン

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タケセンさん

 市場原理の本質は、誰かを陥れることですよね。そこから這い上がっても、また競争力のない人間は、蹴落とされます。

 いわゆる勝ち組に入れなくても、遊びと楽しみを生きることは、可能だと考えられるでしょうか?

 この場所で生きると「納得」できたとしても、です。

YS
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「勝ち負け」というのは、意識の一つの様態ですが、
蹴落とさずに【共生する】方に利があることを学べば、今とはまるで違う生き方が可能です。
相手から得をもらい、相手の得になることを提供するという相互性の倫理で学習もします。教え合うことは自他の力を共につけます。また、納得を求めて激しくぶつかり合うことで、自他が共に成長します。
【納得】を生きる原理におくと、競争は小さな一部分にすぎなくなり、桁違いに豊かで大きな世界をひらくことができると確信しています。

タケセン

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タケセンさん

「納得」は、競争からの離脱であることの方が、現実の場面では多いと感じます。

理想的には、仰る通りだと考えています。

YS
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ええ、
競争を【原理】の次元で否定し、納得を原理と置く、納得を原理とする。競争が原理ではなくなれば、納得をつくるためのあるひとつの手段・道具にすぎなくなる。
そんな感じです。
現実場面でも、生に有用な、生の楽しみが広がるような競争ならば、大いに結構だと思います。よろこびが広がらない、勝ち負けに執着してしまう、となると、それは悪しき競争=競争を原理にしていることになり、ダメというか【損】ですね。

タケセン

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タケセンさん

 なるほど!「損」という言葉に「納得」です。が、損得と勝ち負けは、どこかしら構造が似ているような気がします。

 YS

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ふつうは、金銭に限らず自分が【得】をすれば嬉しいと思いますが、その単純な心を元にして考えるのが大切だ、わたしはそう思います。
現実の人間同士が、互いに【得】(素直に「気分」よくなれ、心身にプラスになるものが得られる)を広げられるように工夫し、努力し合うことが、ほんらいの【倫理】だと思っています。

競争は、それがゲームの面白さを成立させるためにあるのはいいのですが、それを原理にしてしまうと、得にはならないわけです。もちろんここで言う【得】とは、金銭や目先の得という意味に限定される得ではなく、生の可能性を広げられるようなアイテムすべてのことです。

納得(腑に落ちる)は哲学の命ですが、それは、納得=得をもたらすのです。一番大きな得を。

タケセン
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タケセンさん

 なるほど!です。言葉の定義が大切ですね。言葉の定義も哲学にとっては、いのちですね。

YS

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武田康弘



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白樺の「用の美」に通じるROCKPORTの理念

2008-06-09 | 趣味
下のブログのつづきです。

わたしは、メーカー名も知らず、ただ見て履いて、「とてもいい靴だな~」と思いながら長年履き続けてきた靴が古くなって買い換えようとしたとき、
はじめてそれがアメリカの「ロックポート」というブランドであることを知りました。

妻が見たいというので、日曜日にロックポートの靴の品揃えが豊富だと思われる恵比寿の三越地下1F.の「レジェンド」に行き、いろいろ見て(買って)来ました。ベテラン店員の話も聞きましたが、わたしが感じていた履きよさは、ロックポートの理念からきていることを知りました。なんと「世界一、履きよい靴をつくる」です。

もらってきたカタログには、APAM(アメリカ足病医師協会)から1984年にシューズメーカーとしてはじめて認定を受けたことも記載されていました。ロックポートの靴にわたしが感じていたデザインのよさは、まさに柳宗悦の民芸思想=「用の美」「用即美」なのでしょう。

履きよさとは、単に物理的な世界の話ではありません。気持ちがよい、接していたい、見ていたい、うれしい、・・・という主観性のよさに達さなければ「よい」とは言えません。この社の素材の掘り下げや構造の研究は徹底しているようですが、そのような物理的な優秀さは背後に隠れて製品の表面には出ていません。見て触れたときにそのよさ・美しさが実感できる、そんな感じです。

ROCKPORTが、「世界一履きよい靴をつくる」という大胆な理念を見事に具体化していることを知り、なんだかとても嬉しくなりました。それに価格も多くが2万円以下で、とても良心的です。

武田康弘
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わたしの一番お気に入りの靴は、ロックポート。

2008-06-06 | 趣味
わたしは、靴がとても気になります。
買うときは、何度も履いて時間をかけて確かめます。

生まれつき足が弱かったわたしは、幼稚園のときから遠足に行くと必ず夜は足が痛くなって眠れず、いつも父に足をさすってもらっていました。
買い物でデパートに行ってもすぐに足が痛くなります。

だから頑張って歩く練習、走る練習をしましたが、生まれつきの「弱さ」までは克服できませんでした。でも中学2年生のときは、毎日ひとりで自宅付近を走り、そのおかげで、駅伝の選手の選ばれました(運動部でないのに代表5人に選ばれたのは、学校=文京区第六中学校始まって以来の快挙!でしたー自慢です)。

そんなわたしがとても気に入っている靴は、ロックポートです。
アメリカ製だそうですが、どのようなメーカーかは知りません。
だいぶ前によい靴に出会い、気に入って毎日履いていましたが、今度新しいのを求めるに際してはじめてブランド名を意識したのです。

とても履きよく、長時間歩いても疲れず、石材や新素材の床でもアウトドアでも滑りません。しかも質感がよく、デザインも優れていて、皮製なのになぜか雨でも大丈夫ですし、シッカリしたつくりなのに軽いのです。見た目も履き心地も最高!です。

価格は13000円~19000円ほど、とってもお勧めです。
最後に、いい靴は、同じ大きさでも小さく見えるものですよ。

武田康弘
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石原東京都の教育政策は「近代市民社会」への挑戦。土肥校長の反旗にエールを贈る。

2008-06-04 | 社会思想
レトリック、詭弁、論点すり替え、強弁、怒号―石原慎太郎氏の言動は、ほんとうに酷いものですが、東京都教育委員会は、彼の国家主義的な言動を後ろ盾にして、学校現場で【民主主義原理】を潰す政策を次々と実行してきました。

そのひとつが、二年前に出された「学校の職員会議で、議論・挙手・採決によって教職員の意思を確認することを禁じる」という通達です。

わたしが今年1月の参議院における≪パネルディスカッション≫でも確認した【民主主義の原理】は、現場の人々が【自由対話】により物事を決めていくことですが、それを真っ向から否定するのが、石原都知事の意向を受けた東京都教育会による「通達」であるわけです。

ほんらい学校は、民主主義を学び、練習する場でなければなりません。絶対者のいない民主主義社会では、互いの自由を認め合う哲学の下に、自由対話によりものごとを決定していく以外に社会を運営する方法はありません。異なる意見を闘わせることで「合意」を生みだそうとする営み・努力が何よりも一番大切なのです。

上位下達の環境の中で生きれば、人間は思考力を失い、精神的な自立は得られません。教師自身がまず【自問自答と自由対話】の練習をしなければ、子どもたちの自由の可能性=思考力と対話力を伸ばすことは不可能です。民主主義社会をよく運営していく最大の能力をつけるどころか奪うような教育は、この世の最大の悪だ、と言えましょう。その影響は、世代を超えて受け継がれてしまうからです。現場の教師と子供や親がほとんど全ての決定権を持つ北欧の国々とは180度逆の思想・方法によるこのような教育は、近代市民社会の原理を否定するものとしかいえません。

東京都教育委員会のこの愚かな思想に基づく「通達」に対して、都立三鷹高校の土肥信雄校長は反旗を掲げましたが、彼のようにまっとうな言動をとる校長や教員でなければ、よい人間教育ができるはずはありません。都の教育委員に限らず、自民党文教族の議員や文部官僚は、自分たちの進める従順な教師と子供つくりがどれほどの罪なのかを自覚しなければなりません。個人の思想を鍛え強める教育でなければ、日本社会に未来はないのです。「上位下達」は国を滅ぼす愚か極まる思想であり行為です。猛省を促します。

武田康弘


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