思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

自由対話は人間の本能

2007-09-29 | 恋知(哲学)

私が私だけの目先の損得を超えて「公論」を形成していくには、文字通りの「自由対話」が必要だ。それなくしては、他に何がどれだけあっても、皆=裸の個人の納得を生む「公論」をつくることはできない、とわたしは確信しています。

なにがよりよいか?なにがほんとうか?を追求するのは人間の先験的な能力であり、不自然な抑圧が働かなければ、真・善・美を希求する心は自ずと芽生え、成長します。お互いになんでも言い合える「自由対話」ができると、頭が動き出し、どんどん前に進むのです。なぜならそれはとても面白いからです。自我の拡張や自分だけの「得」を主張する言動は、嫌らしくて楽しくないですが、皆に共通する「得」を考え出すことには大きなエロースがあります。それが「徳」を生むわけです。それを可能にするのが「自由対話」で、そこには権力者や権威者はいません。成績をつける特権者はいないのです。いまの社会では自我主義=エゴイズムが大手を振るっているために、自由で透明な意識の働きが抑えられていますが、人間のもっとも人間的は能力=本能とは、よりよいこと、よりほんとうのことを探ろうとする欲望であり、この欲望に応えるのが「自由対話」なのだと思います。
【自問自答と自由対話】の実践を!!
と書いて数日前に書いたアマゾンの書評を思い出しましたので、以下にコピーします。

竹内芳郎著「ポストモダンと天皇教の現在」(ちくま書房)

この本の冒頭論文ー「盗まれた自由」は、わたしが主催した講演&対話会を活字化したものであり、レビューを書くのはためらわれるのですが、もうかなり昔の話なので、ご紹介します。
この我孫子市民会館における講演会は、参加者(90名)に大きな感銘を与えたもので、その話の主要部分は、今も深く傾聴すべき貴重なものであることは間違いありません。
ただし、ここで言われている「超越性の原理」という考えは、そのままでは通用しないと思います。世俗の価値意識を相対化する視点は、体験=具体的経験を掘り下げていく【自問自答と自由対話】から生まれるもので、「世俗を超越する原理が必要」と考えると、哲学するという営みが宗教化していくのではないでしょうか。人間の真・善・美への探究心は、先験的な能力であり、真に抑圧のない環境での自由対話は、それを顕在化させ、「世俗の価値」を超えることができる、わたしは自身の体験からそう思います。
ただし、著者の竹内芳郎氏による日本社会と現代文明の分析は鋭く、さすがに一時代を築いた哲学者(ポンティやサルトルの訳者・解説者でもある)だけのことはあります。もっと読まれるべき書です。

武田康弘




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国技―日本の伝統!?-集団暴行の大相撲―異なる者への制裁・排除

2007-09-26 | 社会思想

朝昇竜への相撲協会と全マスコミをあげてのバッシングー「ズル休み」に対する処刑にうんざりしていましたー
―なんでこうもわが民族は、個人の不祥事に対する寛容がなく、組織・団体の傲慢に対しては卑屈・テイタラクなのか、と。
個人に対する「うるささ」に関しては世界一、権力に対する卑屈・屈服に関しても世界一、のような気がします。きちんと顔を出して意見を言える人は稀にしかいない、そういう能力を称揚し、鍛える思想と場がない、それが「私」がないわが日本の悲しき現実。

個人的なズルの問題ではなく、
今度はそれとは比較にならぬ次元の違う大問題です。何日間も集団で暴行を加え、17歳の新弟子を殺したのです。ビール瓶で頭を殴った親方も含めての話ですから、言語に絶しますが、そのようなシゴキは、死に至らしめない範囲ならば、日本の【国技】の中では当然のことであり、それがなければ強くなれないのだ、と元関脇の竜虎は、テレビで語っていました。

もしそれが伝統なら、そんな伝統はなくさなければいけません。こういう前時代的な思想と行動からいまだに抜けられない日本相撲協会とその関係者たちには、回心が必要です。殺されるような所に誰も入らない(新弟子はゼロの年もある)のは当然ですね。市民社会の常識を無視した狂ったおじさん・おじいさんの思想は、救いようがありません。それが日本の国技!?

亡くなった青年―斉藤俊さん(時太山)のご冥福を祈ります。


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イメージが広がるようなことばが恋知としての哲学には必要。

2007-09-24 | 恋知(哲学)

さまざまな想念が広がり、自由にイメージが羽ばたく、という頭脳の状態をつくるようにしないと、価値ある思索・有益な対話はできないと思います。心と頭が固くなっていると、思考が無味乾燥になり、面白みが消えるからです。

人生や社会のありようについて考える恋知=哲学の営みは、愉しく面白く有益でなければ、続きません。それが職業(お金が稼げる)でもない限り、つまらないことや無益なことをやる人はいませんから。

ことばのやりとりは、ほんとうに自由でなければ、ひとつも悦びを生みません。権威者や特権者がいる場所での対話は、対話ではなく、どのように取り繕ったとしても「上意下達」にしかならないでしょう。

はじめに決定や要請や命令が隠し持たれていると、そこからは愉悦の香りは立ち昇らず、押し付けがましい啓蒙主義の厭らしさでむせるだけです。頭脳が活性するとは、自由なイメージが広がると同義です。固く閉じるような言葉や仰々しい言い方は、自我―自己感情の絶対化が背後にあるから生じるのでしょう。自分や組織(学校とか病院とか国家とか)を権威づけようとする底意があるために、ものものしい言い方になるのであり、そういう表現に固執しなければならないのは、本質的に次元が低い=愚かだからだ、としか言えなと思います。

ほんらいの哲学=恋知とは、そのような衒学趣味とは反対の世界だとわたしは確信しています。豊かなイメージが広がるような言葉、平易で明晰、ゆえに深い言葉の使用を広げていくのが、恋知としての哲学=「民知」の考えと実践だと考えています。

武田康弘



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テロとの戦い!?事実として、最大のテロ支援国家はアメリカですが、・・・

2007-09-23 | 社会思想

著名な言語学者のチョムスキー(アメリカ人)が言う通り、事実として最大のテロ支援国家はアメリカです。
タリバン(アフガニスタン)もサダム・フセイン(イラク)もアメリカ政府の強力なテコ入れで誕生したものですし、国連決議などどこ吹く風で占領と軍事攻撃を繰り返してきたイスラエルを全面支援してきたのもアメリカです。事実を上げて行ったらきりがありませんが、こういう国の言う「テロとの戦い」(この言葉自体すでに死語で、いまはブッシュ政権以外では日本政府しか使わないそうですが)って、一体何なのでしょうか?
マジメな顔をしてテレビのアナウンサーが、「テロとの戦い」というのを聞いていると、背筋が寒くなります。いまもなお、大本営発表!!ネットニュースも変わりません。
まさにチョムスキーの言う合意の捏造クリックです。

武田康弘




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他者性とは、悦びをもたらすもの

2007-09-22 | 恋知(哲学)

違うからこそ互いが必要、違うからこそ惹かれ合う、「他者性」とは深く大きな悦びをもたらすもの。

例えばそれは、男と女の関係をみれば誰でもすぐに分かります。男と女は大きく違う、だからこそ嬉しく愉しく悦ばしい関係になれるわけです。
ほんらい、「違う」ものには強く魅かれるのです。
何か不自然は意図が働かなければ、違いは面白いのです。男性にとっては、女性のもつ女性性には強く魅了されますが、女性が女性性に興奮することはありません。逆もまた同じです。

「違い」はほんらい魅力的なもの、それが敵対や排除になるのは、不健康な心、弱い心
がもたらすものです。
同質者だけで固まるのは、目先の狭い損得勘定で生きる人間に共通のエゴです。
既得権を維持し、精神的な淀みと甘えの世界で生きようとすると、もっともらしい理屈つけて他者を排除することになります。そのような不健全な言動とともに生きる人はやグループは後を絶ちませんが、彼らの人生は永遠に不幸です。幸福を言い・求めながら、けっして幸福にはなれません。

「他者性」とは、ほんらい魅力ある世界です。特定の価値意識やイデオロギーに染め上げられていなければ、面白いものです。「尊重しなければならぬ」という要請ではなく、自然で柔らかい心でいれば、そこに引きつけられるもの。
違うからこそ惹かれ合うのです。健康な精神ならば。


武田康弘



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テロとの戦い!?集団イジメをやめない限り、テロは拡大するだけ。

2007-09-21 | 社会思想

アメリカのクリントン前大統領が、自国にも大きな責任がある、と言った通り、テロは、それが起きる抑圧と差別―イスラム圏の人々への「集団イジメ」をなくさない限り、永遠に続きます。アメリカというボスが、イスラエルの狂気の国家主義者たちに全面的な肩入れをし、アラブ(イスラム教国)へのイジメに加担しないと仲間外れにするぞ!と各国を脅してきたのが、激しいテロを引き起こしている主因であることは間違いありません。

自らの命を断ってまでテロ行為をするほかないところに追い込んだ「イジメの仕掛け人のアメリカ」が正義を言うことがどれほどコッケイなことか、それに追随するだけの日本という国は、ボスの気分を損ねないようにイジメに加わるだけ、なんとも情けない限りです。小泉政権の前までは、アラブ世界への一定の独自外交をしていたのに、能天気の小泉元首相の「アメリカ万歳」への愚かな路線転換で、日本の国益は大きく損なわれてしまいました。この責任は大きく、万死に値するものです。

自民党は、なぜ、これほどまでに理性を失い、感情主義へと堕落したのか?
自民党だけではなく、ポストモダンの風潮が支配する世界では、学者や批評家の理性も全く失われてしまいました。「普遍性」を嫌悪し「原理」的思考を嫌ってそこから逃げる学者の言動が撒き散らした害毒は計り知れませんが、これはまた日を改めて書くことにします。

武田康弘


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「国際公約」をどう果たすー非軍事日本型貢献を探れー東京新聞社説

2007-09-17 | 書評

「安倍首相の記者会見は困惑でした。理路がたどれないのです。ついには怒りがこみ上げてきました。職ではなく、命を賭すべきではなかったか、と。」
に始まる本日の東京新聞社説―「国際公約」をどう果たす(週のはじめに考える)は、まことに正鵠を射る論理で、感心しました。
「テロとの戦い」、が、アメリカの不毛で逆効果しか生んでいない【対テロ戦争】に加担することにすりかえられてしまっていますが、社説ではこの問題を取り上げています。ぜひ、ご覧下さい。クリック
(福田、麻生氏とも、相変わらずのアメリカ追随で、真の国際貢献とは?については考えていません。民主党の小沢代表の主張は筋が通り、国益にもかなっています。)

武田康弘


東京新聞社説ー「国際公約」をどう果たす

 首相の約束によってインド洋上での海上自衛隊の給油活動継続は国際公約になったのでしょうか。七年目に入るテロとの戦いは終わりなき戦いのようです。

 論説室の同僚が伝える安倍晋三首相の消息に胸騒ぎをおぼえました。うつろで意欲を失ってしまっているというのでした。

 シドニーでのブッシュ米大統領との会談後の高揚ぶりがかえって不審でした。突然の辞任表明は驚きでしたが妙な納得がありました。

 辞任会見は困惑でした。理路がたどれないのです。ついには怒りがこみ上げてきました。職でなく、命を賭すべきではなかったか、と。凶弾に倒れても男子の本懐とするのが総理との思いがあったからです。

 アフガンの二つの戦い
 綸言(りんげん)汗の如(ごと)しといいます。首相が対テロ支援継続を約束したというなら、その責任は重く万難を排すべきものでしょう。それを任務遂行前に投げ出してしまったのでは、首相ばかりか、日本と日本国民が侮られるのではないかと心配なのです。テロとの戦いには内外に筋を通さなければなりません。

 日本がテロとの戦いに参加しているアフガニスタンではテロをめぐる二つの戦いが続いています。

 一つは二〇〇一年九月十一日の米中枢同時テロ直後の十月、米国が自衛権を発動して開始された対テロ戦争、もう一つが国際治安支援部隊(ISAF)を中心にした国連平和活動での戦いです。

 タリバンやアルカイダへの報復爆撃や殲滅(せんめつ)作戦が展開される対テロ戦争には、英、仏、独などの北大西洋条約機構(NATO)加盟国が米国への攻撃を自国の攻撃とする集団的自衛権を行使して域外の戦闘行為に初めて加わりました。

 国連安保理決議一三六八は、対テロ戦争での米国の自衛権と各国の集団的自衛権行使を容認しました。対テロ戦争は、安保理が必要な措置を取るまでの間の緊急避難行為で、国連活動とはされません。

 民衆の声は届かない
 海上自衛隊の給油活動は対テロ戦争への支援です。各国が集団的自衛権を行使しての参戦なのに対して日本国憲法は集団的自衛権の行使を認めていません。そのためのテロ対策特別措置法でした。

 〇一年十月に成立したテロ特措法の正式名称は「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」と長文です。

 集団的自衛権をめぐる憲法問題回避のために国連憲章や国連決議が強調され、米国支援がうたわれていないところがポイントです。しかし、小沢一郎民主党代表らは海上自衛隊の派遣・支援活動は集団的自衛権の行使などとしてテロ特措法に反対しているのが知られています。

 一方のISAFはタリバン政権崩壊後の新政権支援を任務とする国連部隊です。安保理決議一三八六に基づいて三十七カ国三万六千人が参加していますが、日本から要員は出していません。

 アフガンでの二つの戦争からは、日本のテロとの戦いが国連という名を借りた対米協力との実態が浮かび上がってきます。イラク、アフガンへは緊急立法してまで自衛隊を派遣しながら国連への人的派遣はほとんどないからです。

 〇一年十月七日の米英軍の首都カブールへの報復爆撃の軍事行動(不朽の自由作戦)からまもなく六年、アフガンはタリバン政権の崩壊と復活の過程といえるでしょうか。現在、陸上作戦に二十カ国、海上作戦に八カ国、ISAFに三十七カ国、地方復興支援に二十七カ国が参加していますが、届いてこないのが民衆の声です。

 NGO(非政府組織)関係者によれば治安は過去最悪で、戦乱と干ばつで農地は失われ、対テロ戦争前には90%を超えていた食料自給率は50%台に落ち込み、難民は三百万人、反米英感情が生まれ、タリバン勢力は復活拡大しています。

 それを象徴するように米同時多発テロの首謀者とされるウサマ・ビンラディン容疑者のテレビ登場の衝撃があったばかり。イラクの四千人まではいかないものの多国籍軍の死者は六百五十人、民衆の犠牲となるとこの国には統計がありません。軍事解決の限界と困難を示します。

 非軍事日本型貢献を探れ
 テロ特措法は十一月一日で失効します。海上自衛隊の撤退問題は首相指名後の臨時国会での最重要テーマとなるでしょうが、テロとの戦いのあり方も含めて真剣に論じられるべきです。

 テロ特措法に問題があるとしても自衛隊の撤収後にどのような貢献ができるのか。世界の平和と安全のために協力する姿勢は示すべきです。その点、対米協力一辺倒や国連活動の実績の乏しさが気がかりです。憲法の理念を生かしての非軍事・人道の日本型貢献が探られるべきです





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よく生きるとは、生活を愉しむこと。

2007-09-17 | 私の信条

人がよく生きるとは、生活を愉しむことでしょう。
ノーベル賞を取ることではありません(笑)※
外なる目標のために生きる、というのは逆立ちした発想。
日々の充実の生を生むには? それがもんだいです。
日常生活を、面白く・愉しく・充実したもの、意義あるものとするには、何をどう考えどうするか?にかかっています。その営みが中心にないと、外なる目標は、自分の心身・人生をスポイルするものでしかなくなります。

心身全体のよろこびと、社会人(会社人ではなく)としての充実を生むには、どのように考え、どのように行為したらよいのか?それが人生の核心。
外なる目標=既存の価値観に囚われていると、永遠に欲求不満。悩み・不機嫌・不細工(おっと失礼)=能面顔・心身不良・不活性生活からヌケラレマセン。

よく生きるとは、日々の生活を愉しむこと。そのためには、臨機応変の精神と具体的な創意工夫が必要です。そして、その精神と行為を生み出すのがの恋知の営み(聖なる「狂気」の善用)、というわけです。

(※余談ですが、かつて文学者であり哲学者であったジャン・ポール・サルトルは、ノーベル賞の受賞を辞退しました)


武田康弘



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死者への態度が本音をあらわすー「自由民主」と「靖国=国体思想」

2007-09-15 | 社会思想

自由とか民主とか言いながら、靖国(国体)思想を振りかざす「靖国神社」を支持するというのは、論理的にはメチャクチャです。なぜこんな矛盾した言動を多くの政治家はするのか?わたしには全く意味不明です。このブログは、国会議員の方にも読まれているようなので、どなたかにきちんとした説明をして頂けたらありがたいと思います。このような誤魔化しを続けているようでは、新たな日本の未来を拓くことなどできるはずはないでしょう。「靖国でよい」という点では民主党の党首である小沢一郎も同じです。

明治政府がつくった、したがってわずか百数十年の歴史しかない「新宗教」(政治と直接結びついた国家神道)の総本山、天皇現人神(てんのうあらひとがみ)という思想を持つこの靖国という宗教は、どう考えたところで、自由や民主主義とは二律背反でしかありません。

いまなお靖国=国体思想を主張する明治政府作成の「神社」、戦前の「国民教化」(天皇史観の徹底)という洗脳教育を象徴する「靖国神社」は、天皇主義の洗脳思想教育によって犠牲になった人々の霊を慰める場所としては、一番ふさわしくないところです。「現人神=天皇陛下のため」と言われて戦争に駆り出され戦死した若者たちをほんとうに弔う気持ちがあるのなら、戦前の国体思想を掲げる「神社」にその御霊を独占させておくことなどできるはずがありません。【洗脳教育に始まった国家の戦争政策】の犠牲となった人たちの霊をほんとうに弔うには、政府の責任で公立の追悼施設をつくる他に道はないのです。なぜ、こんな簡明なことを国会議員は理解できないのか?いつまで御霊を放置しておくのか?わたしは激しい憤りを持ちます。もう戦後60年以上がたつのです。死者をどのように弔うのか?そこに人の心の本音が表れる、とわたしは見ています。もし、真に一人ひとりの生の悦び・幸福を願う心を持ち、何よりも大事なのは一人ひとりの人間の存在=実存であることを思う思想を持つならば、死者をなお靖国=国体思想の下に縛り続ける残酷な行為に加担できるはずはありません。

自然豊かな水の国、自由と民主主義の国にふさわしい公立の追悼施設をつくり、反戦への誓いをしない限り、日本人の真の再生はないはずです。わが国は、15年戦争という恐ろしい戦争政策を官民一体となって推し進めたわけですから、それを支えた思想(靖国=国体思想)をきちんと清算しなければ、美しい未来はつくれないーわたしは強くそう確信しています。人々の生と政治の一番根っ子にある問題を避けて通れば、永遠に不幸です。

武田康弘




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安倍首相―自殺のような辞任ー自民党崩壊へのカウントダウンが始まった。

2007-09-12 | 日記

安倍首相の思想的同志であった松岡農水大臣の公的問題による自殺は、現職大臣としては歴史上例のないものでありましたが、この「事件」をきっかけにして、安倍内閣への支持率は急速に悪化していきました。

この松岡大臣の自殺と今回の安倍首相の突然の辞任―国会で所信表明演説をして2日後!!―は、同じような「事件」です。実存=裸の個人としての力が乏しいために、政治家=公人としての思想を鍛えられず、ダダッ子のように権力の座にしがみついていたと思ったら、国会審議も始まる前に突如「ぼく、やめた!」。これでは、お笑い番組―しかも極めて次元の低いーでしかありません。こんな脆弱な人間が一国のリーダーになる(なれる)ような国はろくなものではないでしょう。

いよいよ自民党崩壊へのカウントダウンが始まった。わたしはそう見ます。
後任とされる麻生太郎は、「靖国神社」を非宗教法人化し国営にするという考えですが、これは、明治の保守政権が「靖国神社」の国家主義思想を宗教ではないとして、全国民に靖国・国体思想=天皇崇拝を義務化した(それを国民の義務とし、その枠内で信教の自由を認めた)政策(=国民教化)と同じ思想です。
まさに安倍首相の言う「戦後レジームからの脱却」(明治政府がつくった靖国思想への回帰)路線を大胆に能天気に推し進めようというのが麻生太郎です。

安倍首相の誕生前から、わたしはブログで繰り返し(何十回も)安倍首相のネオ・ウヨク思想の愚かさと危険性を書いてきましたが、次期総理になるであろう麻生太郎に対しても引き続き緊張感のあるブログを書いていこうと思います。日本社会をよくするには、シチズンシップの育成による【市民自治】の政治を深め広げるしかありません。ウヨク思想ー国家主義は、日本人を幸福にしない愚かな想念でしかないのです。

武田康弘




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ビックリーお買い得のモーツァルト序曲集―Vonk・ドレスデンシュターツカペレ

2007-09-11 | 趣味

知られていない(私が知らない)指揮者の演奏ながら、オーケストラはドイツシュターツカペレだし、価格は400円!ということで購入したCDがとてもいい。ビックリ!です。

一口で言えば、【燻し銀の愉悦】-のびのび生き生きの愉しい演奏ですが、ドイツシュターツカペレの木質の音色が自然な落ち着きを感じさせます。序曲集は名指揮者のものがたくさん出ていますが、続けて聞くと疲れてしまいます。これは反対に、ずっと聴いていたくなるような流れのよい、気持ちのよい演奏です。このHans Vonkという指揮者は大変な実力者です。「嬉しい不覚」?でした。

曲目も代表的なオペラのものに留まらず、モーツァルト15歳の時の「アルバのアスカニオ」の序曲(フェルデナント皇子の結婚を祝うセレナーデ、大成功を収めた)や「ルチオ・シラ」(16歳)という珍しい初期の作品が途中で「中休み」のように入ります。可愛らしく覇気に溢れた作品が有名な序曲の中でよい役割を果たしています。最晩年の「皇帝ティトゥスの慈悲」、デモーニッシュな「ドン・ジョバンニ」で終わりますが、全11曲の配列もよく考えられています。

録音も自然で聴きやすいものですーわたしは二種類の異なるオーディオで聴いていますが(真空管出力のものと大型のトランジスタ出力のもの)どちらで再生してもよい音です。

Hans Vonk指揮 ドレスデンシュターツカペレ 輸入盤(米)
HMVで購入出来ますのでどうぞ。http://www.hmv.co.jp/product/detail/754225




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市民の英知を集める?ー「白樺ML」公開

2007-09-09 | 社会思想

「白樺ML」の公開です。


議員(政治家)の「対話を通し、市民の英知を積極的に集めていくこと」という言い方=考え方は、一見よいように思えるかもしれませんが、実は、重大な問題を孕(はら)んでいます。

まず、「英知」というのは、深い知恵のことであり、技術知や情報知ではないのですから、それを誰かが「集める」ことはできないのです。
体験に根差した知恵やよく吟味された思想=英知とは、人や物や自然や事象に深く関わって自ら獲得するものであって、単に「知る」ことは出来ません。

したがって、もし「英知を集める」ことが出来る人がいるなら、それは人間を越えたスーパーマンのような存在ということになってしまいます。英知とは己が獲得するものであり、集めることは不可能です。

こういう言い方が出てくるのは、自分の実存を基底に据えて生きていない証拠です。自分が自分として主体的に生きるということができないと、どこか「外」からの発想・言い方になり、生の基本が「戦略的」(本質から逸れて曲がる)になってしまいます。それでは悦びがひろがりません。

わたしが福嶋浩彦前我孫子市議・前市長とともにすすめてきたのは、「ひとりひとりの市民の英知で直接参加民主主義を広げよう」(『緑と市民自治』紙(新聞折込で我孫子市全域に配布)という理念ですが、これは、【市民の英知によって市政を進める】という思想であり、「政治家が英知を集める」(不可能です)などという発想とは全く無縁―180度逆の発想です。その理念を生み出した政治哲学は、直接民主主義がほんらいの(価値の高い)民主主義であるという思想です。代議制は致し方ないものであり、だからそれを補うためにさまざまな創意工夫が必要なわけです。

市民の要望や意見を聴くーそれを集めるというのならよいですが、英知を集めるという発想―言い方は本質的な錯誤でしかないのです。

議員は、「対話は通じて自分自身を少しづつ鍛えてく」という基本姿勢が必要で、そういう基本姿勢と営みの上で、市民の一般意思の代行者(断じて代表者ではない)の仕事が可能になるのです。市民の意見をまとめていくコーディネーターの役目もその土台があってこそ可能になるわけです。

武田康弘





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わたしの生と仕事を支える哲学

2007-09-06 | 恋知(哲学)

以下に、わたしの生と仕事を支える哲学の芯を簡潔に記してみます。

わたしは、ものごとをよく「知る」のに何よりも大切なのは、言語による整理や概念化以前の【感じられ思われる世界】だと思っています。「私」の心身にどのように感じられるか?どんな感じがするか?その【体験=直観】を抜きに言語を用いたのでは、「死んだ言葉」にしかなりませんから。概念主義による死んだ言語=感じられ思われる世界の言葉を下に見るような歪んだ言語主義(「学」を職業にする人にしばしば見られる)に囚われていては、自分で考えること=恋知は始まりようがありません。この「言語中心主義」と、それと符合する問題でもある様式・型が優先する従来の日本文化―「様式による意識の支配」を変えていくことは、自分が真に自分として生きる(恋知の生)ための不可避の作業だ、わたしはそう確信しているわけです。
言い換えれば、よく見、聴くこと・よく触れ、味わうことがものごとを知るための絶対の基盤であることの深い自覚です。五感をフルに用いて全身で直截知ろう=心身全体で会得しようとする構えです。言葉で誤魔化(ごまか)さない、概念化して分かった気にならない、理論に逃げないことが何より大事だとわたしは思っています。
写真家の土門拳が言った通り「たとえ一本の松の木を撮るにも、ただ概念として「松」を見ていたのでは、いくら構図的にまとまった写真でも【生きた松の木】にはならない。知るとは、まずギョロリと睨み、それがどのように生えているかをよく見て、松の木を心中に深く感じ知ることだ。ただ知識として概念的に知っているだけでは、知ったことにはならず、それでは松の木一本といえども撮れないのだ」(要約・文責は武田)というわけです。
感じ知る世界→広大無限のイメージの世界を開拓していくことが、言語による思考とコミュニケーションを生きた価値あるものとするための基本条件だ、わたしはそう考えています。認識論の原理中の原理は【直観=体験】である、それがわたしの哲学の前提=基盤です(また、実存論の原理中の原理は【欲望】であると思っていますが、それについては後で書きます)。

以上簡潔に記したわたしの哲学は、「白樺教育館」に通う父母の方にお示ししている『心身全体による愛』という子育て・教育論と符合していますので、以下に書き写します。
『子育てー教育の基本は、心身全体による愛です。文字通りの触れ合い、だっこしたり、おんぶしたり、ほほ擦りしたり、ふざけ合ったりすること。また、心のこもった視線や感情の豊かな抑揚のあることばで接すること。一言で言えば、心身全体による愛です。理屈以前の身体的な触れ合いこそが核心です。断言します。それがなければ、まともな人間には決して育ちません。
 愛とは、心身全体によるもの。子どもが自分を心底「肯定」できるのは、全身で愛されているという実感のみです。子どもを「言葉」だけで教育できると思っている人は、全くの能天気です。子どもが著しい適応障害を起こすのは、「理性」の不足からではなく、「愛」の不足からなのです。
自分を自分で肯定でき・受け入れ・愛することができなければ、他者を肯定し・受け入れ・愛することは、不可能です。他者を肯定できなければ、中身のある人間付き合い=真の人間関係は決して生じません。人間関係とは、言葉で教育できるものではありません。愛や思いやりや優しさは、具体的に態度で示すことができるだけです。「教え込む」ことが不可能な領域です。
 大人である私たちが、形だけで他者と関わる外面人間であっては、よい子は育ちません。本気、本音で他者と関わる勇気が必要です。愛の心があれば、「ぶつかり合い」は生産的になります。しかし、「勝ち負け」の意識が支配する愛のない不幸な心は、すべてを壊してしまいます。
 「心身全体による愛」は、人間の様々な営みを「よい」ものにするための絶対の条件なのです。言葉―理屈ではなく、実践です。そのように生きること、態度で示すこと、それ以外に方法がありません。心身全体で愛し生きることのできる人間を育てなければ、私たちの社会は砂漠化して生きる意味が消えてしまいます。』

固い概念によって生身の人間を縛る思想をわたしは「言語中心主義」と呼んでいますが、これは人間の幸福を元から奪う癌細胞のようなものです。それを越えていくには、【運動・感覚次元】と【想像力の次元】を開発することに意識的に取り組むことが大切で、その基盤を広げ強めることが【言語による思索と交流】を価値あるものとする鍵であり、前提だ、それがわたしの不動の確信です。

武田康弘




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「ふつう」に考えることが哲学。

2007-09-02 | 恋知(哲学)

ふつうに考えること、恋知(哲学)とは、徹底して「ふつう」に考える営みです。ふつうに、というのは、専門用語に逃げずに、大元に戻して、全体的に考えることです。恋知者(哲学者)とは、徹底して「ふつう」に考える人。

ふつうとは、こどものように、囚われなく、という意味です。既成の秩序、考え、常識に縛られずに考えるには、溜め込んだ「知識」を「考える」ことの代用にしない覚悟が必要です。既存の「知」や「学」を前提にすると、まったく哲学=考えることにはなりません。逆に、知識に縛られて、考えは狭小なもの、既成概念のドレイに陥ってしまうからです。

恋知(哲学)対話の面白味・醍醐味とは、誰でもが知らずに縛られている「常識」や「習慣」に抗って考えるところにあります。組織・団体的思考とは対極にあるもので、個人の思考の自由な羽ばたきのエロースです。自由闊達、臨機応変・当意即妙の精神を発揮することは、深いよろこびをもたらしますが、そのためになくてはならぬもの、それが恋知の自由対話です。形式ばらずに、丁々発止のやりとりで自他の生の悦びと可能性を広げる営みは、実に愉快です。

いまの日本人は、若い人もみな既成の価値意識のドレイでしかなく、既成秩序・常識に抗って考える力・心・意思がひどく乏しく、自分自身をまるで、管理社会の管理された部分品のように扱っているとしか見えません。55才のわたしよりも、古い想念やつまらぬ常識に縛られて、心や頭の若い人がいないのは、ほんとうに寂しい限りです。既成の権威者・権力者・成金に頭をさげるようなテイタラクでは、生きるよろこびなどやってくるはずもありません。ただ生存するのではなく、かけがえのないたった一人の人間としてのエロースを存分に発揮して生きるための努力をしませんか。わたしは恋知の自由対話を続けていますが、これを読まれているあなたは、わたしの見方・考えをどう思われるでしょうか?

武田康弘




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恋知の生と、恋知とは無縁な生と。

2007-09-01 | 私の信条

恋する心―恋とは、聖なる「狂気」ですが、人に恋し、音楽や美術や文学に恋し、知に恋し・・・という恋知(哲学)の生を歩む人と歩まぬ人がいるようです。

どうも人間には二種類いるようです。
恋知の人と、恋知とは縁のない人と。

でも「大人」化させられていない子どもはみな、恋知の人が好きです。
どうやら、恋知の生は、人間の自然性に合致しているようです。

【恋知】の代わりに【型・パターン】で生きる人も多いようです。
心の内側から沸きあがるものが乏しいために、外からの要請で生きるしかないからでしょう。
わたしには耐えられない人生ですが。
パターンで生きている人は、そのことに無自覚なのかも知れません。それが幸せ?
まさか、ですね。


武田康弘




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